永久6/元永元年(1118)
2月7日
・春日祭使出発。
興福寺の不穏な動きを制止するようにとの白河法皇の命をうけ、関白藤原忠実が興福寺別当に書札を書き送った旨を報告するため、権中納言藤原宗忠が白河法皇の所に行き若狭守高階宗章に付して奏上(「中右記」)。
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2月9日
・大和国大和社、焼失。
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3月初
・エルサレム王ボードワン1世、エジプト遠征企図。途中、ファラマの町を占領。水浴び中に急病、引返す途中で没。
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3月1日
・~2日(夜中)、ハインリヒ5世、ローマ潜入。教皇ゲラシウス2世、ガエタに避難。
ハインリヒ5世、ゲラシウス2世に教皇叙階を受ける為ローマに戻るよう勧告、従わなければ皇帝が教皇を任命すると脅迫。ゲラシウス2世、拒否。
8日、ハインリヒ5世、対立教皇グレゴリウス8世大(司教ブルディーノ、位1118~1121)を選出、叙階。
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4月2日
・エルサレム王ボードワン1世、没(位1100~1118)。
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4月3日
・「元永」に改元。
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4月7日
・教皇ゲラシウス2世、カプアで皇帝と対立教皇を破門、コノに判決をドイツで交付するよう命じる。
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4月14日
・ボードワン2世、エルサレム王即位(位~1131)。
ボードワン1世従弟、最初から十字軍に従軍。1120年エルサレムでの主用食品への課税と通行料を廃止。アルメニア人モルフィアと結婚。娘4人(結婚相手)。長女メリザンド(アンジュー伯フルク5世)、次女アリックス(アンティオキア候ボエモン2世)、3オディエルヌ(トリポリ伯レイモン2世)、4女イヴェット(聖ラザロ修道院長)。
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5月
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世武人王、サラゴサ攻撃開始。
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5月19日
・ケルン公会議。ドイツは動揺。
コノ、ハインリヒ5世信奉者(ケルン大司教フリードリヒ1世、マインツ大司教アーダルベルト)を破門。ザクセンに行きケルン公会議の判決更新。
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5月24日
・千葉常胤、千葉亥鼻城に誕生。千葉氏2代目。初代当主・千葉常重の嫡男。母は常陸大掾政幹の娘。千葉氏を地方豪族から大大名に昇らしめた千葉宗家の最も著名な人物。下総の国主・千葉宗家、相馬氏、亘理氏など戦国大名の遠祖。頼朝の挙兵成功も常胤・広常ら房総平氏の協力が貢献、頼朝は常胤を「父」と呼ぶ。
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6月
・ハインリヒ5世、非常な不安に駆られドイツに帰国(1116~1118)。
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6月14日
・前遠江守源基俊の郎従以下の罪過を定める。書生小長常正を近流とし越前に流す(「中右記」)。
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7月5日
・教皇ゲラシウス2世、ローマ帰還。
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7月10日
・白河法皇、新御所に移る。
在京の気比社大宮司(神主)の中臣氏、白河法皇の白河北殿の新小御所を造進(「中右記」同日条)。後白河天皇の権臣藤原通憲も気比社を「福を求むるものは福を得」「寿を求むるものは寿を得」と賛迎。
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8月
・前斎宮庁、若狭国衙に封戸25戸分の100石を早く出すよう求める牒を発す。
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・夏の頃、アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャーブ、メソポタミアのマルディン総督イルガジ(トルコ人貴族)にアレッポ城門を開き、町の統治を委ねる。イルガジは故リドワーン王娘と結婚。
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8月15日
・ビザンティン帝国皇帝アレクシオス1世(61)、没(誕生:1048)。
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9月
・ムスリムの援軍、サラゴサ入城。城内、飢餓状態。
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9月2日
・ローマで暴動。教皇ゲラシウス2世、フランスへ向いマグロンヌでルイ6世使者サン・ドニ修道院長シュジェールと会談。
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9月7日
・白河法皇、熊野に詣でる。
平正盛は、伴の一員として精進を行う。そこでの正盛は「北面下臈(げろう)・備前守」とある。
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10月
・秋の頃、教皇ゲラシウス2世、トゥールーズで大規模な教会会議開催。フランスとスペインの司教参加。
ゲラシウス2世、スペインへの十字軍をフランス南部全域に呼び掛け。
サラゴーサへの十字軍、アイェルベ進発、エブロ河サラゴーサ郊外に到着。
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11月
・サラゴサ包囲・攻撃のアラゴン王アルフォンソ武人王とムラービト朝軍との停戦交渉開始。
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12月
・公田官物率法(こうでんかんもつりつぽう)による官物の賦課額の固定化
受領は、負名体制を基礎とし、民衆から直接強力に徴税したが、これは不安定な体制でもあった。やがて国衙につとめる在地豪族層(在庁官人という)の成長をうけて、両者の間に安定的な体制が作られていく。その結果、国司の恣意的な収奪は制約され、受領の徴税力は低下する。
その一つが、公田官物率法(こうでんかんもつりつぽう)である。
『朝野群載』巻22に、新任受領が発給する文書例があるが、元永元年(1118)12月の但馬国の第二度の国司庁宣(在庁官人に仰せ下す)の例に、
一、官物率法を注進せしむべき事
右、色々の率徴、一々注進すべし。
とあり。
新任国司は、「一の所の目代ならびに郡司・別符司等」「当年田数ならびに国内起請田農料」 「先例国事」とともに、まず第一にその国の官物率法を知ることが要請されている。
12世紀に、在地を直接的に支配・徴税できなくなった受領国司が、在庁官人に進上させたその国の国例となっている官物率法に従って官物の収納を行なわざるをえなくなったことを示している。またなんらかの事情で官物率法を変更したい場合は、国司の申請にもとづき、宣旨などの朝廷の認可が必要とされ、国司が自由に決めることはできなかったようだ。
坂本賞三氏は、公田官物率法を、この国司苛政上訴闘争の盛り上がりへの対応として、1040年代に成立したと論じ、受領の恣意的収奪に対して一定の枠をかぶせたものであり、官物率法の成立を国家のあり方が変化する画期としている。
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12月8日
・サラゴーサ攻略戦(マリーア城近くの会戦)。
フランス十字軍、ムラービト朝タミーム(アミール・アリ・イブン・ユースフ兄弟)率いるサラゴーサへの援軍に勝利。
18日、アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世とフランス十字軍、イスラムの北方拠点サラゴーサ攻略、入城。サラゴサはアラゴン王国の首都となる。
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