『アルバ公爵夫人像』(黒衣のアルバ公爵夫人像) 1797
*この人(ゴヤ)は、首席宮廷画家として、宮廷のための仕事を、実はこの『カルロス四世家族図』、たった一枚しかしていないのである!(先の二組の王と王妃の肖像を除いて)
・・・
まったく仕事をせずに、その称号と五万レアール(約一万二五〇〇ドル)の年俸と馬車その他の費用若干と公邸をもらいつづける。・・・。
ではその理由は何だったのであるか?
それがよくわからない。
・・・宮廷で不興を買ったということでは、まずないと見ていいであろう。
しかし、一つの可能性はある。
それは例の家族図中の、ソッポを向いた妃殿下、あるいは内親王に関して、である。この大作が描かれたとき、皇太子の嫁はまだ来ていなかった。二年後の、一八〇二年にそれが来た。
彼女がマドリードに到着して盛大な成婚式が催されての後に、ゴヤはこの絵を補筆修正して彼女の顔を描き込むことを求められた。あの王女の顔をこっちへ向けてくれ。……
そうしてゴヤがその補筆修正を断った、という可能性である。先に引用をした「つかの間に過ぎゆく一瞬のファンタジーと全体的調和」の論に見られるように、彼は一切の絵画修復やリタッチ反対論者であった。断乎とした反対論者であった。「時間もまた画家である」という名言までがある。
もしこの拒否、拒絶によって宮廷と疎遠になったものであるとすれば、ここに完全に一人の独立した個人としての芸術家の成立が、逆にあかし立てられることにもなるであろう。
・・・
しかしそれはやはり一つの可能性にとどまる。
この家族図の描かれた年の翌年、一八〇一年にはゴヤの二〇年来の畏友であるホベリァーノスや、首席宮廷画家に任命されることに骨を折ってくれたウルキーホやサーベドラなどが地下牢に投獄されていた。
・・・ゴドイが如何にゴヤを庇護してくれて注文を沢山くれたとしても、そのゴドイが彼の畏友や親友であり、かっは長く教導者でもあってくれた人々を、次から次へと逮捕させ、投獄、追放をくりかえす。
ゴヤは、それとなく、目立たぬように宮廷から離れて行ったものであろう。
一八〇〇年のこの自画像の、どことなく戸惑っているような、浮かぬ表情、苦さを噛み殺しているような口許が、その苦しい心境をかくしているものではないか。
しかし貰うものは貰っておく。死ぬまで彼は首席宮廷画家の称号と報酬を享受した。
ゴヤ『アルバ公爵夫人墓廟』1802
・・・一八〇二年七月二三日午後二時、最大の衝撃がやって来た。
マリア・テレーサが突然、死んだ。
ドーニャ・マリア・デル・ピラール・テレーサ・カイェターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレド、第一三代アルバ公爵夫人逝去。
瞬時にしてマドリード市内を毒殺説が走った。
毒殺説は、とにもかくにも後世にいたって否定された。しかし死の直後に起ったことは、事前に計画された犯罪の着々たる施行そのものである。
遺骸がまだ邸内にあるのに、王と司法大臣カバリェーロの命によって、公爵夫人の全財産が国家に没収された。トレド県(アルバ家の先祖はトレド出身)オロペーサの領地が担保に入っていて支払い未了という、えもいわれぬ口実がつくり上げられ、一日おいて二五日、執行吏にともなわれた王妃マリア・ルイーサの侍従ホセ・メルロなる者が公爵夫人邸へ訪れ、全宝石を召し上げた。王妃は、自ら首飾り、ブローチ、指輪、ペンダントに分類し、この掠奪物品を鑑定させ、鑑定師はその値を一二二万五四三五レアール(約三〇万六三五八ドル)とした。実際上の価値はこの五倍と言われている。王妃はこれでも高すぎるとして、最終的には二七万五七二二レアールと定めさせた。国家がこれを「買い上げた」という形である。
これは略奪である。
王妃は間もおかずに、これらアルバ公爵夫人を飾ってこそ光彩まばゆい筈の宝石類で、自らを飾り、得々として人前に出て行った。犬畜生の類いである。
盗人は王妃だけではなかった。平和大公ゴドイもまた。彼は国家の名において、公爵夫人が参画していたと称される政治陰謀の文書、外国との秘密通信を捜索すると称して公爵夫人邸へ乗り込み、ベラスケスの『鏡のヴィーナス』とコレージオの『愛の教え』、ラファエロの『聖処女』を掠零して来て、王命によって自分に”売却”した。
マリア・ルイーサはまだ飽かなかった。ゴドイが絵をもって来たので自分も欲しくなり、同じく宮廷画家のマエーリァを派遣し、リベラの『牧夫たちの憧憬』とダヴィド・テニエの一枚をさらわせた。画家にとっては辛い役目であったろう。
公爵夫人の遺骸の埋葬は、七月二六日の夜、秘かに行われたが、公式の葬儀は遅れざるをえなかった。葬儀は、あたかも王冠をかぶった盗人たちに復讐をでもするかのように、翌八月七日から一六日まで、堂々一〇日間にわたって営まれ、その費用総計は六万三〇〇〇レアール(約一万五七五〇ドル)であり、蝋燭代だけで一万三九九八レアール(約三四七二ドル)かかった。マドリードの大群衆が参加をした。
われわれの画家の絶望と苦悩について、われわれは何も知らない。彼は犯罪と強盗の行為を目撃した。
公爵夫人の死後、七カ月間、彼は何もしていない。
わずかに彼は、故アルバ公爵夫人のための、まことにピラミッドそのものを思わせるような、巨大な墓廟をセピアで描き、そこへ収められるお棺の上に掲げるための追悼像を描くのみ。これらもアルバ家から依頼されたものではなかった。暮夜ひそかに・・・。
一七九七年の初春に、幸福なりしサンルーカル・デ・バラメーダで作成されていた公爵夫人の遺書は、八月六日までサンルーカル警察の手によって封印され、執行されなかった。
スペインの全警察は早馬によって、スペイン各地にある公爵夫人の別邸その他一切の捜索を命じられた。危険な、政治関係の文書の一切は、すでに処分されていた。
夫人があらかじめ自らの死の近いことを知っていたことを意味するであろう。
夫人はたしかにそれを知っていたようである。晩年、特に一八〇二年に入ってからは、途方もない、数千レアールもかかるような大夜会を、しばしば開いたりしていたもののようである。
夫人の遺書が開封された。遺産のほとんどは、家令や老女中頭、召使い、司厨長、料理人、黒人幼女、白痴、領地の小作人たちなどに遺贈され、ゴヤの息子ハピエールにも多少のものが贈られた。ルソーの『エミール』によって教育をされたことの余影ででもあろうか。
ゴヤは沈黙をまもっている。
ゴヤのアトリエには、黒衣のアルバ公爵夫人の遺影がある。幸福なりしアンダルシーアでの夏の日である。カルデロンが言うように、それは夢であり、夢のまた夢であった。しかも、理性の眠りは、夢を、妖怪を生むと。
爾後は、ゴヤが創造をしたアルバ公爵夫人だけが存在するのである。
絵画芸術と人間存在とのこの異様な関係は、あまりに自明なだけにつねに見落されている。
爾後、ゴヤは王も王妃をも、ゴドイをも、いや王族の一人たりともを二〇年の長きにわたって王命によっては描かない、首席宮廷画家となる。
*
*
『ゴヤ』Ⅱおわり
0 件のコメント:
コメントを投稿