4月4日
信長の上京放火(2)
民衆の悲劇
『兼見卿記』4月4日条に「洛中洛外において、町人・地下人数知れず殺害」とあり、多くの町人たちが殺害された。
『東寺光明講過去帳』には、
「上京一宇残らず回禄せしむるのとき、上下の人びと道俗男女子供以下落ち行き、路において、あるいは大井・桂の川流れにおいて、あるいは打ち死にその数知れず、」
とある。
(上京が一軒残らず焼失したときに逃げ落ちていった人びとのなかには、路上において、あるいは大井川や桂川において殺された者も数多くいた。)
上京からかなり離れた大井川・桂川のほうに、人びとが逃げていったのは、信長の軍勢が東山一帯に布陣していたためである。
『老人雑話』にも「町人らもそれより落ちて、愛宕・高雄・中郷などというところへ妻子ともに引越して隠れおる」とある
(嵯峨からさらに北西にあたる愛宕山や高雄にまで逃げていった)。
さらに、
『耶蘇会士日本通信』には、上京の町人、とくに女性たちを「美濃および尾張の兵士らは、じきに彼らを捕らえ、あるいは牛の背に乗せ、あるいは小児をいだき、あるいはその手を取りて兵士らの前を歩行せし」めたという。
つまり、人びとは逃げ落ちたのではなく、信長の軍勢によって連れ去られていったのだという。
それ故、彼女たちは「桂川の岸」に達したとき、「水流のはげしくして深きをわすれ、川に入りて足の立たぎるところまで進み、たちまち水に流され、漁夫が魚を捕うるために設けた柵にかかりて死したり、数ヶ所に二三十人の小児、ほかの数ヶ所に同数の婦人ともに死したるあり」という。
つまり、入水自殺のようなかたちで子どもとともに女性たちは死んでいったとされている。
彼女たちは、生きていたとしても、元に戻るためには、「夫、父および親戚はこれを購わんために」軍勢たちと身代金交渉をしなければならなかった。あるいは、最悪の場合は「捕虜として彼らの国々に伴」われてしまうこともあった。
このように、戦場において女性や子どもを連れ去る行為は、乱取り、乱妨取りといって戦国時代では各地で見られた。
連れ去られた女性や子どもたちは人身売買の対象とされた。
連れ去られた女性や子どもをめぐっては、「死せるものか、あるいは捕らわれしものか知れずして、父は子を、夫は妻をさがし、親戚たがいにもとめたるものもあり」と『耶蘇会士日本通信』は書いている。
この悲惨なありさまは、軍勢による乱妨狼籍と呼ばれた行為で、この乱妨狼籍が、禁制の禁止事項の冒頭につねに掲げられたのは、このようなことをなにより避けるためであった。
また、乱取りに至らなくとも、例えば、『耶蘇会士日本通信』は、「兵士らは都の富の納めたる村々にいたりて、箱を開き、金銀、よき着物、絹織物、絹の撚り糸などの品物のみを奪い、そのほかはことごとく破却せり、」という行為も見られた。
これは、「上および下の都の住民は都の焼き払わるべきをおそれ、妻子、僕稗および主なる家財、よき衣服、金銀および高価なる道具を」「村々に送り置」(『耶蘇会士日本通信』)いた、いわゆる預物として避難させていた人や物を狙った行為と思われる。
『永禄以来年代記』では、「京中辺土にて乱妨して取り物ども宝の山のごとくなり」と見える。
このような行為を当時、取り物と呼んだが、『フロイス日本史』によれば、「彼ら(信長の軍勢)が路上に出会いし男、女、小児らに対して、その所持する品を強奪するためにおこないたる残虐をみることは、まことに不憫のいたり」と、信長の軍勢が略奪できるものであればなんでも略奪せんとばかりに血眼になっていた様子すら読みとることができる。
人であろうと物であろうと、あらゆるものを暴力でもって略奪する、これが戦国時代の乱妨狼籍というものであり、また戦というものの真の姿であった。
なぜ上京は焼き討ちされたのか
理由としては、延暦寺焼き討ちと同様、信長が上京を敵と見なしていたと考えられる。
『耶蘇会士日本通信』に、信長の使者、島田秀満が上洛して、帰国する前後のころ、「上および下の都の市民ら」(上京・下京の町人ら)は、「極力信長のこれを焼き払わざるべきことを懇願し、これがために上の都は銀三千三百枚を、下の都は五百枚を信長に、三百枚をその武将等に贈」ったという。
多分、上京(「上の都」)が銀三千三百枚、下京(「下の都」)も銀八百枚という高額な礼銀(礼銭)を信長らに贈ることで、自らの安全を確保しようとしていたと考えられる。
これは、禁制を獲得するときにもおこなわれていたし、延暦寺大衆も焼き討ち前に同じような交渉をしていたので、当時としては常識的な対応だった。したがって、ここまでは上京と下京とのあいだに大きな違いは見られない。
しかし、「上の都の人は富裕にして、かつ倣慢なるがゆえに、条件をよくして、かえって信長の不快をまね」いたという。
「条件」が何かについては不明だが、「富裕」や「倣慢」ということだけで信長の不興を買うことはないだろう。注目すべきは、このあとの、「ことに彼(信長)が建築に着手せる宮殿の周壁を破壊したることにより、その怒りにふれたり」という一節である。
この宮殿は、「上京むしやの小路にあき地の坊跡」に造営しようとしていた信長の「御座所」のことであり、それを信長の「到着の数日前」に義昭が「ことごとくこれを破壊することを命じ、上の都の人びとのなか貪欲のため構内にありし最良の材木を奪いたるものあり」と伝えられている。
これについて、「信長は心中非常にこれを憤り、大いなる侮辱と考えた」とされている。おそらく、このことが「侮辱」というより、上京が義昭に味方し、信長に敵対する存在と映ったということであろう。
(以上については、史料の裏づけはない)
ただ、『老人雑話』が「京の口々を町人を差しつかわして守らしむ」と伝えているように、町人たちによる義昭方への協力といったことはあったようだ。
実際は、そのようなことは通常、幕府という公権力による一種の賦課であり、延暦寺大衆のように反信長勢力に積極的に味方をしたという種類のものではない。しかし、信長の目から見て一度でも敵対するものとして映ってしまったならば、容赦されることはなかった。
安全を求めた下京
『耶蘇会士日本通信』には、「信長は、ついに下の都の希望をいれ、これを焼かざるべしとの書付をあたえ、その軍隊に対しては、もし害を加うるものあらば、厳罰に処すべしと達し」た、とある。
信長は明らかに上京と下京のあいだで一線を引いていた。
ただ、上京焼き討ちから3日後の4月7日、信長と義昭のあいだで「和平の義」(『兼見卿記』4月7日条)が成立したにもかかわらず、下京では次のような動きがあったと『耶蘇会士日本通信』は伝えている。
「都の住民の年寄ら協議し、(略)市の将来の安全のため、および下の都を焼かざりし恩恵に対する感謝のため、(略)住民より徴集すべき銀の残額が市内の堀をいっそう深く、また広くするため、ならびにほかの防御工事のために使用すべしと決し、これがため大小の各町に銀十三枚を課したり、」
つまり、下京が焼き討ちにならなかったことに対する礼銀(礼銭)と「市内の堀」(惣構の堀)を補強する費用などを捻出するため、「都の住民の年寄ら」が「大小の各町に銀十三枚を課し」た。
各町で銀13枚が集められた際、それを負担できないような町人たちは「暴力をもって貧家より追われ、その家の売却代金のうちより彼らに課したるものを徴集」されたと、『耶蘇会士日本通信』は、いう。
なお、『下京中出入之帳』によれば、今回の銀は、下京の五つの町組に所属する町だけではなく、「下京構の内、寺銀の分」とあるように、下京の惣構の中に所在した寺院にも課せられていた。
また、その寺院のなかには、妙覚寺・本能寺・立本寺・要法寺・妙伝寺・妙泉寺といった日蓮宗(法華宗)寺院の名も見られ、これらの寺院が下京の町人たちの信仰の拠点となっており、下京という社会集団、共同体の一角を構成するものとして位置づけられていたことがわかる。
銀の支出先は、「遣わし申す銀の日記」というところに記され、「殿様」(信長)や「柴田様」(柴田勝家)など、信長やその軍勢に対する礼銀の額がこまかに記されている。その一方で、「西の堀の掘り賃」や「西四条口横の入目(いりめ)」という項目も見える。これが『耶蘇会士日本通信』の「市内の堀をいっそう深く、また広くするため」ということに対応するもので、惣構の堀の管理も下京という惣町がおこなっていたことが明らかとなる。
結局、このときの礼銀によって下京は、この年7月朔日付で「下京町人中」にあてられた信長の朱印状(『饅頭屋町文書』)を獲得する。
「陣取りならびに新儀諸役非分などあるべからず、違背のやからあらば成敗を加うべし」(信長の軍勢が下京に陣を構えたり、また不法な賦課をかけることはしない。もしそれに背くような者が出たならば、信長が成敗する)という一文が記され、下京は信長の名のもと安全を確保できるようになった。
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