1898(明治31)年
7月8日
正宗白鳥(19)、葉山での基督教青年会夏期学校開会式に出席。以後連日、講話を聞き海水浴を楽しみ、15日に去る。「内村氏のは実にこの学校の講義中の最頂点にて、一人として刺激されざるものなし」と日記に記す。
内村鑑三(37)、11日「今日の困難」、12日「今日に処する道」、13日「吾人の希望の土台」を講演。他に植村正久・松村介石らも講師。
7月8日
虚子の子規への返信。
「併し小生は他方に立つて言訳しようなどとは思わなかった。大兄と共に口を揃えて、矢張自身を攻撃しつつあるように覚えた。甚だ会心の事であつた」
「今迄随分大兄の鞭を受けた。併し小生は可成其の鞭を避けようとするを常として居た。爾後は喜んで大兄の鞭の下に立とう」
「小生は再び大兄と須磨の保養院へ帰ろう。否、再び聖護院に塩煎餅を食い、嵐山の紅葉に吟行した昔に立帰ろう」
「須磨の保養院」;明治28年夏、大量喀血して一時生命を危ぶまれた子規が、小康を得たのち須磨の保養院で療養したとき虚子は献身的に看病した。
「聖護院」;三高在学時の虚子(18歳)の京都の下宿。明治25年11月、京都へ旅した子規は、虚子の下宿を訪ねて「塩煎餅」を食べ、そのあと、高雄、栂尾の紅葉を見に行き、翌日は嵐山の「郭公亭」で酒を汲み、舟遊びをした。
「然り。大兄と両人でやる。大兄が御病気の時は、小生独りでやる」
「大兄に迫附き、而して後、大兄を乗越すべく期するであろう。いい悪(にく)いことではあるが、大兄百年の後は、天晴の大兄の後継として恥じないようになろう」
7月9日
島田三郎(45)、横浜・伊勢崎町の蔦座での報告演説会で演説。江原素六・田口卯吉も弁士となる。
7月13日
四川省大足県哥老会の首領余棟臣、反教会闘争の中で「須清滅洋」スローガン掲げる。
①教民・農民の対立の中、教会の横暴に耐えかね農民が決起。②地主、紳士、文生、武拳、官員など支配階級も参加。③儒教的千年王国の思想継承。
この夏、湖北省覃培章の反教会闘争で「保清滅洋」スローガン掲げられる。また、秋には趙三多の義和拳も「助清滅洋」スローガンが掲げられる。
7月13日
子規、自らの墓誌銘を記し、河東可全(碧梧桐の兄)宛ての手紙に託す。
「正岡常規 又ノ名ハ処之助(ところのすけ)又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒(しゆつ)ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」
*子規は4年後の9月19日に没す。東京、田端の大龍寺にある墓誌銘は上記と同じ。
7月15日
高野房太郎、労働組合期成会幹事長となる。
23日、東北遊説に出発。同行は片山潜ほか。大宮,福島,一関,盛岡,青森,尻内,盛岡,仙台,宇都宮などで演説会,日鉄矯正会会員と交流し,31日帰京。鉄工組合の支部2を設立。
7月19日
台湾総督児玉源太郎、法院条例を改正し判官の身分を保障。但し、憲法第58条第3項の保障が適用されるのかは不明。
7月22日
(露暦7/10)露、レーニン、クルプスカヤ、正式に結婚。シベリア流刑地シュシェンスコエ村。
7月23日
子規、人力車に抱え上げられて町巡り(上野・神田・両国・吾妻橋)。泳ぐ人を見、桜餅屋に行き主の妻、娘と話をし、浅草の繁栄を見て帰る。
7月25日
米西戦争(プエルトリコ)。アメリカ軍、プエルトリコ占領。
7月27日
栃木県庁に出頭し、「二十九年度県税地租割戻」について第一課長に陳情する。(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
7月29日
内務省に出頭し、「堤防増築・河身改良至急実行願」、「二十九年度県税還附」の陳情および「地方自治体ノ破レタル件」を述べる。また大蔵省に出頭し、「二ヶ年ノ免租継年期願ノタメ添田次官・主説局長目賀田種太郎ニ面会引取リタリ」。(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
7月30日
光緒帝、兵力不足を補うために保甲(民間の自衛団)組織命令。
7月31日
独、ビスマルク(83)、没
8月
朝鮮、伊藤博文、初めて朝鮮訪問。京釜鉄道施設権が他に譲渡されるとの観測あり、駐在公使加藤増雄支援のため。結果、京釜鉄道施設権は日本に付与されることになる。
8月
国木田独歩「河霧」(国民之友)
8月
石阪昌孝、野津田神社の幟の揮毫を依頼され、「闔郷仰威霊 万家祝康寧」と書く。
8月(?)
夏、大杉栄(13)、夏休みに初めての一人旅。新潟から船で直江津に出て、東京市四谷区の伯父山田保承宅、従兄山田良之助の妻・繁の実家である板倉の末川家を訪問。名古屋では、父方の親戚、大阪では母方の親戚を訪ね、再び東京の山田家で1ヶ月ほど過ごす。
8月か9月
漱石、山川信次郎・狩野亨吉・奥太一郎ら同僚と5人で日帰りで小天温泉を再訪。卓は一行を本宅に案内し、夏蜜柑を自分で1枝ずつ折って渡し、帰途につく漱石らを1里半ほどもある峠まで送った。
「夏蜜柑の実る頃であったらしい。「それから間もなく蠶(かひこ)の頃になつて、狩野亨吉さん、山川さん、奥太一郎さん、木村さん、それに夏目の五人連れで、朝早く小天にいつて、湯の浦の別荘で中食(ちうじき)を認め、本宅が見たいとからといふので、姉さんが案内されたそうです。本宅といふのは湯の浦の別荘から少し離れた山の中腹にあつて、白く塗つてあつて、遠見は丁度城のやうな家ださうで、二三里も先きから見えたといふから大したものだつたでせう。が、惜しいことに私どもが東京に引き上げてから間もなく焼けて了つたさうです。其時すぐ下の畑に夏蜜柑がなつてゐたので、姉さんが一人に一枝づゝ折つて上げ、狩野さんは教頭で皆が奉てゐたので、狩野さんの分を姉さんがかついで、河内まで一里半ばかりの道を一緒に送られたことがあるさうです。」(夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』)
この文章のなかで、「木村」を木村邦彦とすれば、第五高等学校に赴任したのは、明治三十一年八月十九日(金)以後のことになる。但し、七月から熊本市に移住してきたとすれば、木村邦彦が同行していてもおかしくない。文章からだけ推定すれば、「それから間もなく蠶の頃になって」とあるところから、「四月頃」から余り隔っていない五、六月頃と推定される。前年の夏蜜柑(夏だいだい)が樹になって黄熟しているのは、春から夏にかけてである。木村が熊本市に来て、同僚になる人たちと交渉を持った時期は疑問として残る。なお、白仁三郎(坂元雷鳥)の「交通遮断」(随筆集『壁生草』稿本)には、明治三十九年九月五日(水)、漱石を訪問した時、『草枕』の素材である小天温泉の思い出が記されている。「(前略)僕は山川先生から紹介して頂いて行きました、僕は度々行ったよ。」これによると、数回訪ねたことになっている。」(荒正人、前掲書)
8月1日
豊田佐吉、前年完成させた動力機械の特許が認められる
8月1日
伊、モディリャーニ(14)、マッキァ派画家ジョヴァンニ・フフットーリ弟子グリェルモ・ミケーリの画塾で絵を習い始める。
8月2日
この日付け子規の在松山の叔父大原恒徳宛て手紙。子規は、漱石は不遇にあると感じている。
「私同学の友人菊池(謙二郎)といふ男は仙台の第二高等学校長と相成候。これが同学生中の第一の出世なるべく候。夏目は熊本へひつこんだまゝ一向に動き不申、出京を勧誘致居候。・・・・・」
つづく
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