大杉栄とその時代年表(275) 1900(明治33)年1月4日~27日 根岸庵歌会に伊藤左千夫が初参加 西太后、上諭「会か会でないか、教民か教民でないかは論ずるな」 普通選挙同盟会、日本初の普選請願書提出。 より続く
1900(明治33)年
1月28日
フランス・イタリア両政府、紅海沿岸地域に夫々領有権を持つこと合意。
1月25日
日清間で、廈門日本専管居留地追加取決め書調印。
1月25日
石坂洋次郎、誕生。
1月25日
愛知県葉栗郡光明寺村小島織物工場、女工31人が焼死。寄宿舎に女工の逃亡防止の鉄格子がはめられていたことが原因。
1月26日
戦艦「敷島」、竣工。
1月26日
吾妻村役場で村長と、「上京青年組織ノ件」につき相談する。(室田忠七日記)
1月27日
英仏米独4ヶ国公使、「共同照合」提示。11日の上諭は滅洋を叫ぶ義和拳・大刀会を公認するもの、速やかな会党弾圧を要求。
1月28日
社会主義協会発足。社会主義研究会を社会主義協会と改称。会長安部磯雄、幹事片山潜。他に西川光次郎・村井知至・幸徳秋水・堺利彦・木下尚江ら40名。事務所は神田三崎町のキングスレー館。
安部磯雄:
慶応元(1865)年黒田藩士の子に生れる。京都・同志社に学び、新島襄より洗礼受ける。岡山教会牧師、アメリカ留学中に社会事業に関心をもちベルリン大学で社会主義を研究。明治34年2月「社会問題解釈法」(東京専門学校出版部)。
1月29日
子規「叙事文」(『日本附録週報』連載3回、2月5日、3月12日)。(口語)写生文を提唱。親友中村不折を介して知った西洋絵画における「写生」の理論に示唆された。
「ある景色または人事を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加うべからず、ただありのまま見たるままにその事物を模写するを可とす」(「叙事文」)
「以上述べし如く実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり。又は虚叙(前に概叙といへるに同じ)といふに対して実叙ともいふべきか。更に詳(つまびらか)にいはゞ虚叙は抽象的叙述といふべく、実叙は具象的叙述といひて可ならん。要するに虚叙(抽象的)は人の理性に訴ふる事多く、実叙(具象的)は殆んど全く人の感情に訴ふる者なり。」(『叙事文』3月12日)
1月29日
米、プロ野球アメリカン・リーグ設立。2リーグ時代始る。
1月30日
鉄工組合、財政問題を検討するため臨時本部委員総会。高野房太郎、財政難解決の一つの方策として有給常任委員を辞職、無給活動を申し出る。
1月31日
雑誌「歌舞伎」創刊(三木竹二主宰・編集)。
1月末
川上音二郎一座、ボストンよりワシントンに向かう。
2月
韓国、忠清道一帯で、活貧党活躍。
2月
鉄幹「人を戀ふる歌」(関西青年文学会誌「よしあし草(よ志あし草)」第23号)
この後、「人を恋ふる歌」は、明治34年3月15日発行の詩歌集『鐵幹子』に収めら、その他に雑誌『伽羅文庫』『国文学』『紫紅集』に収録された「人を恋ふる歌」もある。
2月
「二六新報」、新発足。社長兼主筆秋山定輔。三井財閥を攻撃し、1年後には10万部突破、第1位。
1893(明治26)年、道頓堀角座オーナー秋山儀四郎の長男秋山定輔が中心となって創刊。東邦協会幹事長稲垣満次郎と、朝鮮公使大石正巳を顧問に迎えた。題号の『二六』は、24時間を意味する二六時中と、創刊年の明治26年を掛けたもの。
しかし早々に資金難に陥り、2年後の1895年(明治28年)、一旦休刊に追い込まれる。秋山は故郷の岡山県で『中国民報』(現・山陽新聞)を発行していた衆議院議員坂本金弥の支援を取り付け、1900年(明治33年)に復刊を果たす。
2月
泉鏡花「高野聖」( 『新小説』1900年2月号)。鏡花(28)が作家としての地歩を築いた作品
2月
永井荷風(23)、父久一郎日本郵船会社横浜支店長になる。
2月
函館で娼妓の自由廃業認める大審院判決。同5月、名古屋でも。
2月
長野県下伊那青年会、機関誌「伊那青年」創刊。海事思想普及運動を開始。
2月
横田(高木)永之助、パリ万博に出品委員として渡航。
2月
ボーア戦争、ロバーツ司令官率いる英軍、反撃(~3日)。
2月
ウィーンとボヘミアで深刻なストライキ発生。
2月1日
英領ボルネオ、反乱指導者マット・サレーの構築した要塞、10日間にわたる英軍との戦闘の結果陥落。マット・サレー戦死、部下の兵は捕虜に。
2月5日
税所敦子(74)、没。「御垣の下草」の歌人。
2月5日
中米運河の権益を巡る第1次ヘイ=ポンスフォート条約調印
2月6日
川上一座、駐米公使館(小村寿太郎)主催夜会出席。
2月6日
英米独、1899年に合意したサモア条約(サモア諸島の3ヵ国分割統治)の批准書交換。
2月7日
仏植民地サン・ピエール、ミクロンなどに修好通商条約適用に関する帝国外務大臣宛の来信。
2月7日
オスマン帝国のスルタン、マケドニアの政情不安を理由として、ブルガリア国境に数千の軍を派遣(~4月5日)。
2月8日
室田忠七日記
2月8日 内閣総理大臣に請願書を提出しようとしたが、不在のためできず。衆議院に出頭し請願書を提出する。
2月9日 内閣・農商務省・内務・大蔵・法制局・文部・陸軍の各省に請願書を提出する。
2月9日
田中正造、第14議会に質問書提出、演説。被害民の請願の歴史、無視した政府の責任、「毒のため死せるもの」1064名と強調。
同3日、被害町村幹部宛手紙(5通)で「死人一人に付き一人の仇討請願者なれば丁度千〇六十四人」が出京せよと書く。
2月11日
福澤諭吉が門下数人に編纂させた「修身要領」29ヶ条が成る。独立自尊主義を基調とする。井上哲次郎らの批判を呼ぶ。
2月11日
皇太子(大正天皇)の婚約発表。
2月11日
室田忠七の日記、この日で経わる。「大運動ノ計画アルタメ憲兵警官4名計警戒セリ」。
13日の川俣事件で検挙され、それ以降、長期の勾留となる。
2月12日
農会令公布。
2月12日
第五高等学校中川元校長、英語研究を目的とする漱石の留学について文部省に上申のため上京する。(「中川元日記」)
つづく
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