2013年11月25日月曜日

永承6年(1051)3月 鬼切部の戦い(前九年の役)Ⅱ前九年の役の経緯

新宿御苑 2013-11-23
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【前九年の役の経緯】

第一段階:
安倍氏と陸奥守藤原登任の戦い(源頼義登場以前)。
前九年合戦の発端。
奥六郡(胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手)以南に勢力を拡大した安倍氏を牽制するために、陸奥守藤原登任が、出羽秋田城介(あきたじようのすけ)平繁成(しげなり)と連合して鬼切部(宮城県鳴子町鬼首)で戦うが、国司側は安倍頼時に大敗。
『陸奥話記』は、安倍氏について、「威権甚しくして、村落をして皆服(したが)えしめ……」と語り、安倍氏が衣川関を越え南進し、貢租を拒んだことがそもそもの原因だったと説明する。
その鬼切部の戦闘では数千の兵で安倍軍を攻撃したが、「太守の軍敗績し、死せる者甚だ多かり」という。
これをうけて政府は安倍氏討減にむけて源頼義の投入を決定した。

第二段階:
陸奥守として下向してきた頼義と安倍氏との争乱。
頼義が朝議で追討将軍に任ぜられ陸奥へ下向。
陸奥国では安倍頼時が「首(こうべ)を傾けて」奉仕する。
任終直前の天喜4年(1056)の阿久利川事件(国府への帰路、陸奥の官人藤原説貞(ときさだ)父子が襲われ、人馬が殺傷され、頼時の長男貞任に容疑がかけられた)をかわきりに両者の関係が悪化、安倍氏側は衣川関を閉じ国司軍迎撃態勢を整え、本格的戦闘状態に突入。

この間、頼時の女婿藤原経清の離反もあり戦線は膠着化。
その後、頼義の陸奥守再任があり、天喜5年7月の頼時の死去で安倍氏側の抵抗の主体は、貞任・宗住へと引き継がれる。
同年11月、貞任の安倍軍4千余を攻略するため頼義軍1,800余は、黄海(東磐井郡藤沢町)の合戦で大敗し、数百人の犠牲を出す。
『陸奥話記』は、「騎射神のごとし」といわれた八幡太郎義家の活躍をはじめ、頼義主従(藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明)らの活躍の様子を格調高く語る。

頼義は官軍の劣勢を挽回すべく諸国に兵糧・兵士の増派を要請するがはかどらず、隣国出羽でも源兼長から源斉頼(ただより)に国司を交替させ支援態勢を整えるが、不調に終わる。

他方、貞任軍は勢力を増強し、藤原経清が衣川関を出て諸郡から税を徴発する状況が続く。
この間、頼義は出羽の俘囚主清原氏との連携をとるべく、光頼・武則らの助力をあおぐ。

第三段階:
戦線を打破すべく頼義は隣国清原氏の来援を得て、安倍氏討減に到る。
康平5年(1062)春、任期満了の頼義に代わり高階経重が陸奥守に着任するが、前司頼義の影響力が強く経重は帰洛を余儀なくされる。
8月、清原武則の軍勢1万余が栗原郡の営岡(たむろがおか)で合流、7陣の陣容で小松柵(宗任の叔父良昭の拠点)の攻略に成功。
9月5日、貞任は精兵8千を率い官軍を奇襲するが、磐井川北岸の高梨宿・石坂柵へと敗走。ここを陥落した頼義・武則の連合軍は、衣川関攻撃にむかい、7日には衣川関を破り、11日は鳥海(とりみ)柵を陥落させる。この間安倍氏側は「驍勇(ぎようゆう)・驃捍(ひようかん)の精兵」(平孝忠・金師道・金依方・安倍時任・安倍貞行ら)を次々に失い、迎撃をこころみる。
15日、厨川(くりやがわ)に着いた頼義・武則軍は、17日より本格的な戦闘に入り、激戦のすえ貞任・経清を討滅し、数日後に宗任以下9人が投降、戦闘は終結。

その後、12月17日の国解で安倍氏側の斬死者・投降者の氏名が報ぜられ、翌年康平七年(1064)2月には、貞任・経清・重任の三首級をたずさえ、頼義は京都に凱旋、勲功の賞が授与された(頼義は正四位下伊予守、義家は従五位下出羽守、義綱は左衛門尉、武則は従五位下鎮守府将軍)。

●「前九年」の名称
前九年の役は、『吾妻鏡』承元4年(1210)11月23日条では、「十二年合戦」と呼ばれている。
慈円『愚管抄』では「頼義ガ貞任ヲセムル十二年ノタタカヒ」とある。
『古今著聞集』(建長6年(1254)成立)でも「十二年の合戦に貞任はうたれにけり」(巻9)とあり、鎌倉中期までは「十二年合戦」の呼称が定着していたようだ。

頼義の陸奥守赴任の永承6年(1051)から安倍貞任滅亡の康平5年(1062)までの12年ということになる。諸史料の多くは頼義と安倍氏との戦闘を主軸に12年の年数が示されている。
そこでは頼義以前、すなわち藤原登任の鬼切部合戦は対象外になっている。
しかし、鬼切部合戦は前九年合戦の前哨戦として位置付けられるべきもので、この戦争の歴史的位置を考えるうえでは重要。

前九年あるいは後三年の初見は『平家物語』(「剣巻」)に「頼義奥州に下向して九箇年が間戦ひつゝ」とあり、後三年合戦についても「武衡・家衡謀反の由聞へければ・・・義家馳せ向ふ・・・左右(そう)なく落ちず、三箇年に滅びにけり」とある。

『保元物語』(「為義降参の事」)では、「貞任宗任が乱にて前九年の合戦ありき。・・・武衡家衝をせむるとき後三年の兵乱ありき」とある。

これらの作品成立年代から、鎌倉末期に前九年・後三年の名称が登場したと考えられる。
十二年合戦の呼称が混同され、九年と三年に分離されたと推測できる。

「頼義の九箇年の戦と義家の三年の戦いを合て、十二の合戦とは申なり」と、『平家物語』にある。
こうした軍記物以外では、『尊卑分脈』などには「十二年合戦」「後三年合戦」とみえている。
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