江戸城(皇居)東御苑 2015-04-22
*「・・・『ひかげの花』が書かれた前年の昭和八年はプロレタリア文学の退潮にともなって、文芸復興の声が高まっていた。宇野浩二が大患から立ち直って、徳田秋声がスランプを脱し、谷崎潤一郎が『春琴抄』を書くいっぼう、志賀直哉の『万暦赤絵』も出ていた。そして、九年の上半期には横光利一の『紋章』があらわれ、新人として丹羽文雄と島木健作が台頭している。芸術派の復権と転向作家の新生にうながされて、「文学界」「行動」「文芸」などの文芸雑誌も創刊をみた。
そんな文運の熱気は、かりに眼をつぶり、耳をふさいでも、夜ごと東京の街々 - 特に主として銀座へ出ていた荷風の煩に、その火照りを感じさせぬはずはなかった。『ひかげの花』には『つゆのあとさき』のような華やかさがみられず、醜業婦をあつかいながら『腕くらべ』や『つゆのあとさき』にはあった閨房描写もほぼ放棄した、荷風作品としてはきわめて地味におさえられた作品だが、その最も大きな原因がようやくきびしくなりつつあった検閲へのはばかりであったにもせよ、活気づいていた文壇に対する荷風一流の反骨がいっそうそのようにしむけたのではなかったろうか。その意味で、私はこの作品をいかにも文芸復興期における荷風らしい作品だというふうに受け取る。」
「『ひかげの花』の梗概をのペると、新潟の旅館の二男に生まれた中島重吉は某私立大学に在学中、背任罪で入獄縊死した実業家の妾で麹町平川町に撞球場を経営していた十歳も年長のマダムとねんごろになって、撞球場の閉鎖後同棲生活に入った。するうち、女には幾人かの男と交渉があると知って問いつめると、自分は十九の時から三十歳までいやな男にもてあそばれたため、若いころの取り返しをしたいと思っているのだから大目にみろと逆襲される。すでに新潟の家族は旅館をたたんで朝鮮に移住していたし、いちど就職して失敗していた重苦は自身に生活力のないことを思い知らされていたので、ずるずるとその年増女の《男妾》になってしまう。」
「・・・その年長の女が病死したとき派出婦会からまわされてきた家政婦が中川畔の船宿の家出娘=お千代で、死者の親戚なども去っていったあと、二人は当然のなりゆきとして肉体的に結びつく。
このとき重吉は三十三歳、お千代は二十八歳であったが、売り食いをしているうちにゆきづまってきて、ある日近所へ台所の買い物に出たお千代は以前派出婦として働いたことのある家の主人に声をかけられ、間もなくそこへ訪ねていって暮しの一時しのぎに男をとる。が、生活はいよいよ苦しくなる一方である。そんなとき、重吉が遠まわしに女給になることをすすめたので、お千代はその気になって銀座のカフエーを歩き回ってみるが、思うような店が見あたらぬままに、銭湯で知り合った初老の女からそれとなく謎をかけられたことを思い出して行ってみると、その家が売春の斡旋所で、しばらく雑用を手つだううちにお千代もそういう女のひとりになってしまう。が、重富には銀座のカフエーではたらいていることにしてあったので、お千代は気づかれていないものとばかり思いこんでいた。ところが、重吉はそれに気づいていたばかりか、かえって彼から《「其中には何とか生活の道を立てるから。お前、己に見込まれたと思って、もう姑くの間辛抱してくれ。なア。頼むよ。」》といわれる。
そうして、二人の合意の上でのひかげの生活がはじまるのだが、この作品のなかでは、そこのところが最も注目せねばならぬ点で、重吉はその新しい事態から自身が《異様な活気を帯びて来た。》ことを感じ、お千代は《夫の為めに働くのだと云ふことから羞耻の念が薄らいで、心の何処かに誇りをも感じる。》ようにすらなる。そういう悖徳(はいとく)的な心理が、この作品ではテーマになっている。ただの、風俗小説ではない。」
「するうち、その種のいわゆる蔭の稼業にはつきものの手入れがあって、お千代の出入りしていた旅館の女主人が警察に挙げられたと、その旅館の女中に報らされる。お千代と重苦が急遽桜川町から浅草へ引越したのは追跡捜査をおそれたためだが、夕刊をみると他の旅館も踏みこまれていて、検挙者の氏名も出ている。そして、その夜お千代は先約のあった客と逢うために浜町の待合へ行くと、客が来るまでの間に先刻重吉からわたされた毎夕新聞を読み返しているうちに、検挙者中の一人の深沢とみという名と十九歳という年齢に気づいて小首をかしげる。深沢はお千代の実家の姓で、とみという名は自分が十八のとき産み落したたみという私生児と一字ちがいである。
けっきょくそれはお千代の実の娘で、おなじ桜川町の硝子屋の二階に間借りしていた伊東春子の線から、たみ子の居所がわかる。そして、ダンサアから醜業婦となっていた娘と同業の母は、初対面にもひとしい再会をする。作品は、そのたみ子が養女にやられていた女髪結いの客のひとりにもと柳橋の芸者であったお妾がいて、その旦那として親しみを感じていた塚山という男にあてたたみ子の長文の書簡で終っている。
《母はわたくしに貸間の代を倹約するために母の家に同居したらばと云ひ、それから、もう暫くこゝの家にゐて、貯金ができたら、将来はどこか家賃の安い処で連込茶屋でもはじめるつもりだと云ひます。すると彼氏が、貯金はもう二千円以上になったと側から言ひ添へました。
わたくしは今まで行末のことなんか一度も考へたことがありませんから、弐千円貯金があると言はれた時、実によくかせいだものだと、覚えず母の顔を見ました。母は十八でわたくしを生んだのですからもう三十七になります。それだのに髪も濃いし、肉づきもいゝし、だらしなく着物をきてゐる様子は二十七八の年増ざかりのやうに見えます。外へ出る時はもつと若くなると思ひます。わたくしがホールにゐた時分にも、やはりお金をためて貸家をたてたダンサアがゐましたが、その人よりも母の方が猶若く見えます。ダンサアで貸家をたてた人は、みんなの噂では少し低能で、男の云ふことは何でもOKで、そして道楽はお金をためるより外に何もない人だと言ふはなしでした。母もやはりさういふ種類の女ではないかと思はれます。一目見ても決してわるい人でない事がわかります。若く見えてきれいですが、どこか締りのないところがあります。人の噂もせず世間話も何もない人のやうです。かういふ人が一心になってお金をためると、おそろしいものです。》
手紙は、・・・自身をヒモという立場に落しきって、お千代に従属しているかのごとくに見せかけながら、実はお千代をあやつって生きている中島重吉の、陋劣きわまる処世術を裏側からささえているひとつのエッセイともみることができる。
《重吉には名誉と品格ある人々の生活がわけもなく窮屈に、また何となく偽善らしく思はれるのに反して、懶惰卑猥な生活が却て修飾なき人生の幸福であるやうにも考へられてゐる。》
これは、作品の三分の二あたりの部分におかれている一節である。それゆえ、重吉は《人間もかうまで卑劣になつたらもうお仕舞ひだ》と一応は考えながら、世の醇風美俗などどこ吹く風と自身のくらしぶりを肯定しているといえるのである。醜悪無慙には相違ないものの、それはひとつの反社会的思想といっていけなければ、反秩序的倫理観の発露であった。
時代はすでに満洲事変下におかれていて、そのころ、大陸の風雲は急であった。」
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