2015年4月24日金曜日

村上春樹が原発推進派を徹底論破! 15万人の人生を踏みつける“効率”に何の意味がある? ( 酒井まど LITERA)

LITERA
村上春樹が原発推進派を徹底論破! 15万人の人生を踏みつける“効率”に何の意味がある?
酒井まど 2015.04.23

 村上春樹が原発反対の意志を明確にし、大きな話題を呼んでいる。

 村上は昨年、ネット上で読者の質問に答える期間限定サイト「村上さんのところ」を開設したのだが、そこに寄せられたある質問メールに対する村上の回答が大論争となっているのだ。

 メールの主は38歳の男性。「原発NO!に疑問を持っています」と題して、村上にこのような質問をぶつけた。

「私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります。(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)」

「この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……」

 いやもう聞き飽きた、このセリフ。この質問者の疑問は、福島原発事故以降、百田尚樹、ホリエモン、ビートたけし、池田信夫、町村信孝前衆院議長、ミキハウス社長……原発推進派の人間たちがしょっちゅう持ち出してくる論理、いや、へ理屈の典型だ。「原発事故で死者は出ていない」「交通事故の死者のほうが多いから、原発のリスクは自動車のリスクより小さい」「毎年数千人の死者を出している自動車を廃止せよとは誰も言わないじゃないか」……。

 しかし、この一見もっともらしい“へ理屈”に対して、村上は丁寧に反論している。

 まず交通事故死についても対策が必要と前置きしたうえで、〈しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います〉と、原発事故の被害の大きさをあらためて指摘。

 つづけて「死者が出ていないからたいしたことない」という論理に疑問を投げかける。

〈もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。〉

 原発事故の被害を矮小化することなく、交通事故とは次元がちがう問題であることを原則論として語るだけではない。従来の村上春樹では考えられないことだが、「再稼働を止めなければ」と現実の政策にまで踏み込んで批判しているのだ。

 ネットなどではこの村上発言に対して批判も飛び交っている。そのほとんどは、「死亡者と避難者を比べるのはおかしい」「原発も自動車も絶対に安全とは言えないから、経済的な観点を無視できるはずがない」などというもので、まったく反論になっていない。

 そもそもよく読めば、その回答は村上発言のなかにあらかじめ含まれていることが分かるはずだ。

〈それだけ(15万人)の数の人々が住んでいた土地から強制退去させられ、見知らぬ地に身を寄せて暮らしています。家族がばらばらになってしまったケースも数多くあります。その心労によって命を落とされている方もたくさんおられます。自死されたかたも多数に及んでいます。〉

 「数」の問題でいえば、15万人もの人が人生の基盤を奪われるという死に匹敵する甚大な被害を受けている。「死者が出ていない」というが、直接の死者がいないに過ぎず、いわゆる「原発関連死」は決して少なくない。……と、いったん原発推進派の議論の土俵に乗り、「数」の問題にも、「死者がいない」論にも明確に反論している。

 そのうえで、本質は「数」の話ではなく、「国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題」と述べているのだ。「死亡者」の「数」の比較に還元することは、あたかも客観的で冷静な分析を装っているが、その実、被災者・避難者の人生という“質”や、国土が世代を超えて汚染される“時”の議論を隠蔽し、問題を矮小化している。

 この「隠蔽」と「矮小化」が何者によってなされるのか。村上はその犯人をハッキリと指摘する。
〈「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。〉

 そう、「政府」であり「電力会社」であり、その息のかかった「御用学者」に「御用文化人」だと。そして、「比べるべきではないものを比べる数字のトリック」「論理のすり替え」と、彼ら原子力ムラが国民をだましてきたやり口を喝破する。

 さらに、原発再稼動肯定派が大義名分とする「効率」という言葉について、こう問いかける。
〈効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。〉

 実は、村上は以前にも海外で、この「効率」という観点について、反対意見を表明したことがあった。それは2011年6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行われたスピーチでのこと。村上は東日本大震災と原発事故に触れてこう言った。

〈(福島原発の事故は)我々日本人が歴史上体験する、(広島・長崎の原爆投下に次ぐ)二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を損ない、自らの生活を破壊しているのです。

 どうしてそんなことになったのでしょう?(略)答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました(略)。

 まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。〉

 ここには、春樹文学のひとつの特徴と言われるもったいぶったレトリックや気の効いた比喩は皆無だ。当時、このスピーチは国内でも大きく報道されたが、「政治家らが曖昧な説明しかしないなか公人としての貴重な発言」と評価する者もいた一方、「海外でなく日本国内で言ってほしい」と物足りなさを感じた向きも多かったことは記憶に新しい。

 しかし、もともと、村上春樹といえば、社会や政治などの“巨大なシステム”と距離を置こうとする主人公を作品のなかで描いてきた作家だった。団塊の世代でありながら同世代の作家たちとは一線を画し、学生運動や政治からは一貫して距離をとっていた。デビューから1980年代までの彼の作品は、文芸評論家などから「デタッチメント(かかわろうとしない)」文学とも呼ばれていた。ご存知のとおり、村上が社会的出来事を作品のなかに反映させ始めたのは、1995年阪神淡路大震災、オウム地下鉄サリン事件などが相次いでからである。

 とりわけ、ノーベル文学賞候補と目されるようになった2000年代後半頃から、村上はますます社会的・政治的発言を行うようになっていった。09年エルサレム賞授賞式での「壁と卵」スピーチは有名だが、その他もアメリカやオーストリアのインタビューで積極的に日本社会について語っている。もっとも、それらはみな海外でのことであり、依然として国内メディアでは発言に慎重だったことから、「ノーベル賞へのアピールだろ」などと揶揄されることにもなったのだが。

 しかし、そんな村上がここに来て、日本国内へ向けて大々的に社会的・政治的発言をするようになったのである。これはひとつの変化と捉えてよいだろう。

 前述の特設サイトでの回答だけではない。今月半ばから、共同通信が配信した村上のロングインタビューが毎日、東京、神戸、西日本新聞など、複数の新聞社に掲載された。そこで村上は、国際情勢について、〈「テロリスト国家」を潰すんだと言って、それを力でつぶしたところで、テロリストが拡散するだけです〉と断じ、日本の歴史認識の問題でも明らかに安倍政権を牽制するような発言をしている。

〈ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が「すっきりしたわけじゃないけど、それだけ謝ってくれたから、わかりました、もういいでしょう」と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません。細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実なんだから。〉

 簡潔ながら、説得力のある言葉である。これらの村上の発言についてさっそく百田尚樹が「そんなこと言うてもノーベル賞はもらわれへんと思うよ」などと、ノーベル賞へのアピールかのように揶揄していたが、そうではないだろう。村上春樹はおそらく本気だ。

 「政治」からも「本気」からも最も遠いところにいた村上春樹が、国内でここまで踏み込んでいるということは、やはりこの国が相当に差し迫った危機に直面していることの証なのではないか。

 いや、ひょっとすると、村上は、かつて自身が描いてきた小説の主人公のような人たちへ向けて、発信し始めたのかもしれない。「原発推進派も反原発派もどっちもどっち」「権力批判も大概にしないとかっこ悪い」という“かかわろうとしない”態度のままで本当にいいのか考えてみてほしい──もしそれが村上の思いであるのならば、是非今後も、様々な局面で発言を続けていってほしい。
(酒井まど)




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