2015年12月20日日曜日

元亀4/天正元年(1573)3月 将軍義昭、信長に宣戦布告、京都奉行村井良勝屋敷包囲 信長軍1万上洛 「人数一万あまり」「洛中洛外もってのほか物忩」 細川藤孝と荒木村重、信長側につく 高山右近、高槻城占拠 [信長40歳]

元亀4/天正元年(1573)3月
この月
・白井城が上杉軍に奪われる。真田幸隆(61)、上野で上杉方と戦う。
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・米良美濃、肥田木三郎兵衛・中山主計らと伊東家を裏切り、島津氏に寝返る。
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・上杉謙信、再度富山城を攻略。城攻めに従った二宮長恒に宮川下三郷を宛行う。
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・伊勢国司北畠具教、信長に背くことを企て、密使を信玄のもとに派遣。
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・伊予、大野直之討伐。
地蔵ヶ岳城主大野直之、河野通直(伊予守)に背き、長曽我部元親と結ぶ。
河野通直(伊予守)5千、地蔵ヶ岳城を包囲。大野直之は鴾ノ森城に逃げ込む。
通直は鴾ノ森城を包囲。直之の援軍に波川執行・津野藤蔵等率いる長曽我部軍が加わり、河野氏援軍に宍戸隆家・小早川隆景・吉川元春等の毛利軍1万が駆けつける。鴾ノ森城は落城、直之は降伏。
援軍の波川執行等は赦して土佐に帰還させる。地蔵ヶ岳城には土居通建を入れて宇都宮豊綱(弥三郎)を補佐させる。直之は赦されて大除城主大野直昌(直之の兄)に預けられるが、長曽我部元親のもと出奔。
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3月5日
・本願寺顕如、再び朝倉義景の近江出兵を要請。
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3月5日
・椎名康胤が再び背く。謙信は再び越中に入り富山城を攻撃。
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3月6日
・義昭宣戦
義昭、兄義輝を殺害した怨念を捨てて、三好義継(河内若江城主)・松永久秀(大和多聞山城主)と同盟。戦闘のために二条城の堀を掘る。
翌7日、信長の人質を送り返して講和申請を拒否、宣戦布告。
8日、信長使者島田秀満・明智光秀、二条城で和平交渉。義昭拒否。島田秀満、大津で人足徴発。*
3月6日
・武田信玄、美濃岩村城の秋山虎繁に宛てて、信長が東美濃に現れたので早々に出陣して追い払うよう命じる。信玄の署名が見られる最後の書状。
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3月7日
・この日付、細川藤孝に宛てた信長の書状の冒頭(『細川家文書』)。
「公方様の御所行、是非に及ぼざる次第に候。しかりといえども君臣の間の儀に候条、深重に愁訴申し候のところ、聞こしめし直され候間、実子を進上申し侯。これにより村井・塙(直政)を差し副え、明日七日に上洛たるべく候。先ずもって然るべく候哉。かの両人(村井・塙)にいよいよ仰せ越さるべく候」
しかし、この時の和平交渉は決裂。
翌3月8日、
「今度島田をもって信長より大樹(将軍)へ御理(おんことわり)の儀相調(ととの)わず、島田にわかに下向せしむ」(『兼見卿記』)
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3月7日
・コンスタンチノープルの和約。ヴェネツィア、キプロスををトルコに割譲。
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3月9日
・武田信玄、伊那街道北上し甲府へ向かう。
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3月11日
・荒木村重に父を殺害された高槻城主和田惟長、しばらく村重に従属するが叛旗を企図し、後見人で親村重派の叔父和田主膳佑惟増を殺害。
親村重派和田家家老高山右近は村重に通報相談。村重は高山右近を支持し、高槻へ出兵。
右近と惟長は城中で斬り合い、双方が手傷。惟長は逃亡。
高槻城は高山右近の兵と荒木一党によって占拠。惟長は重傷を負いつつも城を脱して伏見に避難。
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3月11日
・朝倉義景、敦賀まで出陣。5月10日一乗谷に帰陣(「越州軍記」)
信長方の湖西守備が固く滋賀郡方面に出兵できず、小谷城に対して普請などの支援を続ける必要もあり敦賀に留まる。
この間、信長は上洛し、上京などを焼き、二条城を包囲し、義昭と和睦し、岐阜へ下向するが、義景は信長の越前進攻を警戒して敦賀在陣を続ける。
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3月12日
・伊東氏、山東の軍勢を出して真幸城ヶ尾に布陣。
北郷氏が飛松に出て道を建設し始めたため、伊東氏側は長倉弾正左衛門尉を派遣、武力でこれを中止させようとして小規模合戦。
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3月13日
・フランス、元宰相ミシェル・ロピタル、没。
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3月13日
・摂津池田城主池田知正、京都八条に出陣、東寺衆徒と争う。
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3月18日
・朝倉義景、多湖宗右衛門尉に近江十乗坊への赴援を依頼し、自身の出陣を約す。
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3月18日
・土井利勝、三河に誕生。
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3月25日
・信長1万、将軍義昭攻撃のため岐阜進発、京都へ。
29日正午、京都着、知恩院に布陣。

将軍義昭の側近(奉公衆)細川藤孝と摂津の実力者荒木村重、義昭に叛き、逢坂にて信長に謁見。信長は2人に秘蔵の刀を与える。村重は摂津の切り取り自由を認められる。
信長は東山知恩院に陣をおく。旗下諸勢は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽・竹田などに宿営(「そのほか諸手の勢衆」は「白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽・竹田、在々所々に陣取り」(『信長公記』巻六)。
信長、知恩院で村重に「大ごうの御腰物」、藤孝に「名物の御脇指」を下賜((『信長公記』巻六)。

細川兵部大輔藤孝:
一時は義昭を還俗させるなど幕府再興に尽力するが、信長に鞍替え。鞍替えの正式謁見の土産物として荒木村重を選ぶ。
信長にとって摂津は経済的にも、対石山本願寺にも、重要な戦略拠点。細川は、摂津で勢力を伸ばしている村重を信長に引き合わせる仲介でもって、新しい主君への忠節の証とする。
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3月29日
・吉田兼見、柴田勝家へ山城吉田郷警固を依頼。信長、吉田郷へ諸勢陣取以下を禁ず。吉田兼見、京都聖護院に布陣している丹羽長秀・蜂屋頼隆を訪問。
30日、山城賀茂に布陣の明智光秀を訪問。
4月1日、吉田兼見、島田秀満を介して知恩院本陣に信忠を訪問。(「兼見卿記」1)。

信長軍は、「人数一万あまり」(『永禄以来年代記』)で、「洛中洛外もってのほか物忩」(『兼見卿記』3月29日条)となる。
そして、「市民はことごとく武器を取り、市の諸門および入り口に立ちたり」(『耶蘇会士日本通信』)と、町人たちが上京・下京の惣構の木戸門などを固めて警戒を始めたとある。
また「禁裏御築地(きんりおんついじ)のうち、京中ことごとく小屋を懸け、妻子これあるなり」と、内裏(禁裏)の築地塀の内側に町人たちが避難小屋を建て、そこへ妻や子を避難させたとある。

一方の義昭は、「大樹御城旗を上げられ、御人数一人も出勢(しゅつせい)せず」(『兼見卿記』3月29日条)とあり、龍城の構えをとる。
『耶蘇会士日本通信』にも「橋はことごとく引き、城の周囲に旗をたてたり」とある。
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3月30日
・将軍足利義昭、京都奉行村井良勝屋敷包囲。村井脱出。
「そとのむらゐこやむろまち殿よりまかるる」(外の村井小屋、室町殿より巻かるる)(『御湯殿上日記』元亀4年3月30日条)
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