2020年5月21日木曜日

慶応3年記(1)1月 夏目漱石、宮武外骨、生まれる 

夏目漱石が生まれた年、慶応3年(1867)略年譜(1)1月 

慶応3年(1867)
・この年、経済的には、貿易面では前年と大差ないものの、多くの地域で農業生産の相対的回復を基礎に、前年に激化した騒動に対する力的対応により、相対的な安定状況が現れ始める。
全国的米価変動は、この年春を画期に変化し始める。
①武州越ケ谷・江戸・大坂・伊予越智郡では、米価は低落傾向を見せ始める。
②広島藩・上州勢多郡などは米価は低落せず、年末、一層高騰。
広島藩の米価は、藩が米切手を発行した5月に急騰、藩札を正金に免換した翌年6月に急落。このことは、米穀流通と米価に対し、藩権力が依然強い規定力を持つ事を示す。しかし、瀬戸内地域の米価変動は、停滞ないし漸落を示すとみてよく、むしろ、伊予越智郡の動向の方が実態に近い。
上州勢多郡の変動は全くの米価高騰を示し、上州の他の地域でも、ほぼ同じ傾向。
④以上の米価変動に対し、職人・日雇貸銀は急騰。江戸大工賃銀は前年に、武州農村の日雇貸銀はこの年に、夫々急上昇する。

・この年の正月、江戸の市中はいつになく寂しかった。若年の十四代将軍徳川家茂は、すでに前の年の八月二十日、長州征伐の途上大坂城中で没していたが、さらに暮の二十五日には孝明天皇が崩御され、金之助(*漱石)が生まれた五日にいたって諒闇(りようあん)のために「鳴物御停止」のおふれが出たからである。それでなくても、暮の二十九日の本郷・小石川一帯の大火のせいか、春を告げにやって来る太神楽や鳥追いの姿も街にまばらであった。雨のはなはだしく少い新年で、市中を乾いた烈風が吹きまくっていた。
町人たちはひとまず例年の通りに、「相変らず」という年始のあいさつをかわしていたが、実はすべてが急速に「相変り」つつあり、そのことは誰の眼にも明らかであった。早い話が暮のうちから物価はうなぎのぼりに上り、いっこうに下る気配がなかった。将軍外征中の江戸の治安は悪化して、金持の家を狙っておし入る強盗の数が激増していた。
牛込馬場下の夏目小兵衛の家に、軍用金調達と称する抜身をひっ下げた黒装束の八人組が押し入って、五十両あまりの小判を強奪して行ったのはこの頃のことである。幕府は旗本に命じて諸隊を編成させ、市中の巡回にあたらせたがあまり効果がなかった。警察力に期待できないことを知った夏目家では、それ以来柱を切り組にしてその中に有り金を隠すことにした。(江藤淳『漱石とその時代1』)

1月
・幕府、「万石以下之面々」に対し兵賦を全て金納とする。
・大久保・小松・西郷、薩土越前宇和島4藩主会議を謀議。
・信濃、讃岐、小豆島に一揆。
1月1日
・元日。服喪中と、前年末の吉原の大火他火災頻発のため、年始客・太神楽・鳥追など少ない。諸物価、前年冬に続いて高くなる。
・伊東甲子太郎・永倉新八・斉藤一ら、島原の角屋で酒宴。4日、帰営、謹慎を申し渡される。
1月3日
・(新2/7)幕府、横浜に語学所を開設、諸藩士の英仏語修学を許す。
・肥前大村藩家老針尾九左衛門・藩儒松林廉之助、暗殺。
・坂本龍馬(33)、下関に止宿する旨の桂小五郎宛書簡。この頃自然堂と号す。1月(或いは旧臘より)下関阿弥陀寺町本陣伊藤助太夫方に居住。
「広沢(兵助)先生および山田(宇右衛門)先生の方にも万々よろしくお頼み申し上げ候。再拝。改年賀事御同意、御儀存じ奉り候。然るにお別後三田尻のほうに出かけんとするところ、井上兄よりお噺(はなし)おき候て、すぐ下の関に罷り帰り申し候。かねてお示しのごとく越荷方(こしにかた)久保松太郎先生にお目にかかり、止宿のところお頼み、すなわち阿弥太(陀)寺伊藤助太夫方にあいなり申し候。これより近日長崎に参り、またこの地に帰り申すべしと存じ居り申し候。いずれその節またまたおはなしもうかがい候。まずは早々、拝稽首。 正月三日 龍馬 木圭先生 足下 追白、井上氏に送り候手紙、ご面倒ながらよろしくお頼み申し上げ候。 木圭先生 虎皮下 龍」(この日付け龍馬から桂小五郎宛書簡)。
1月4日
・中岡慎太郎、天保山沖より船で下関に到着。
5日、高杉晋作訪問。田中顕助・中島作太郎・坂本龍馬らと会談。
6日、龍馬、伊藤九三・森玄道らに急使を送り、中岡慎太郎から聞いた京都の情勢を伝え、それを三吉慎蔵に報告するよう依頼状を書く。
1月5日
夏目漱石(本名、夏目金之助)、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町一番地)に生れる。
1月7日
・沖田総司・永倉新八・斉藤一ら、四条大橋で土佐の中井庄五郎・片岡源馬らと斬り合い。
1月9日
・中岡慎太郎、太宰府着。五卿に謁し孝明天皇崩御を告げる。翌日、三条実美に謁見。
・坂本龍馬(33)、下関出港。11日、長崎着。13日、松井周助・溝淵広之丞の周旋で榎津町清風亭で土佐藩参政後藤象二郎と会談、意気投合す。長崎。後、土佐藩の金1一万両を亀山社中に融通。
・(新2/13)孝明天皇の子の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王(16)、小御所(上清涼殿代)に出御、践祚(明治天皇)。摂政に二条斉敬。外祖父は中山忠能。この時、岩倉・中山ら反慶喜派公家が赦免される。
1月10日
・新撰組田内知、士道不覚悟により切腹。
1月11日
・徳川昭武ら29人、パリ万国博覧会に参加のため公使向山隼人正らと共にフランス郵船アルフェー号で横浜出発。渋沢栄一(27)・会津藩横山主税(20)・海老名季昌(24)ら随従。
1月13日
・会津藩家老梶原平馬(25)、藩士野口富蔵の紹介で、サーネスト・サトウに会い、サトウの紹介でバジリスク号を見学。
・フランス軍事顧問団、フランス郵船ベリューズ号で横浜に到着。
1月14日
・坂本龍馬、桂小五郎宛書簡。後藤との会見を報じ、土佐の幕府離れを知らせる。
「追白、溝渕広之丞よりさし出し候品物は中島作(信行)にあい頼み申し候間、お受取り遣わさるべく候。かの広之丞まことに先生のご恩をかんじ、実にありがたがり居り申し候。 再拝々。 一筆啓上仕り候。益々ご安泰なされらる可く御座候。然るに先頃は罷り出段々お世話ありがたき次第、万謝奉り候。その節溝淵広之丞にお申し聞かせあい願い候事件を、同国の重役後藤象二郎、一々相談候より余ほど夜の明け候気色、重役どもまた密かに小弟にも面会仕り候故、十分論じ申し候。この頃は土佐国は一新の起歩(きほ)あい見え申し候。その事どもはくわしく、さし出し候中島作太郎に申し聞かせ候間、お聞きとり遣わさるべし。もとよりこの一新仕り候も、まことに先生のお力と拝し奉り候ことにござ候。当時にても土佐国は幕(府)の役には立ち申さぬ位のところは相はこび申し候。今年、七八月にもあいなり候へば、事により昔の長薩土とあいなり申すべしとあい楽しみ居り申し候。その余拝顔の期、万々申し上げるべく候。稽首々。 十四日 龍馬 木圭先生 足下」(この日付け龍馬から桂小五郎宛書簡)。
1月15日
・桂小五郎、坂本龍馬宛書簡。京都・土佐の情報を請う。
「・・・御地辺りの光景いかがにござ候哉。幸便次第巨細にあい窺いたく存じ奉り候。なに分上国の光景もさらにあい分らず、定めて幕の横暴は益々甚だしき事とのみ、あい察せられ申し候。然るところ、近来薩州のご人数も多くお引揚げにあいなり京師はいたって無人のよし、然し小大夫西大氏(小松帯刀、西郷、大久保)等は詰め居りのよし、いかなる見込みに候ことやと密かに窺いたく存じ居り申し候。もとより先生たちの事につき、何も疎かはこれ有るまじく候えども、今日世上の評判どおりにてはなかなか人数引揚げなどとは思いもよらざる事にござ候。なにかご承知の事ども候はば、あい窺いたく存じ奉り候。またその後お国のご様子いかがにござ候哉。何とぞ何とぞご回復ご振興これ有りたく、只ただ祈念奉り候。いよいよご一新に候はば薩などご合体候はば、また別段の御事と天下のために存じ奉り候ことにござ候。まずはご様子お尋ねかたがた一書を呈し奉り候。その中時下別してご自玉第一に存じ奉り候。匇々頓首 正月十五日 なお別紙は昨秋越春嶽公の建白と申すことにござ候。さすが春嶽公、実に感銘奉り候。一々公平至正のご主意 幕へも只ただ正にかへり候ことをお進めこれあり申し候。容堂公には実に天下のためもっとも結構なる御事と存じ奉り候。弟実に感服仕り候につき、老兄へ差上げ申し候。薩州となにとぞ御合一に成らせられ候辺り尤も急務と存じ奉り候拝 龍大兄御内披 竿鈴」(この日付け桂小五郎から龍馬宛書簡)。
・朝議、天皇大喪により九条尚忠らの赦免追放が解除。
1月17日
・西郷隆盛、海路土佐へ。山内容堂と謁見、上京を勧める。
1月18日
・長州藩、千城隊の隊号廃止。
・伊東甲子太郎・新井忠雄・三木ら島原木津屋で酒宴の後、伏見寺田屋へ。
寺田某と合流後、九州に向かう為、舟で淀川を下る。大宰府等の尊皇派に新選組分離の理解を求めるため。19日朝、大阪の京屋へ。伊東・新井、三木と別れて兵庫へ。湊川に寄って兵庫泊。永井玄蕃に偶然出会って話す。22日、伊東・新井・寺田、佐賀港到着。小船で鶴崎に向かうが引き潮。途中から陸路鶴崎へ。夜、永井が鶴崎に。23日、伊東・新井・寺田、鶴崎から肥後路に向かう(永井は日田)。宇津原で昼食。今市に宿泊。黒峠という難所を越える。
宮武外骨生まれる。
「外宮の父、官武吉太郎は、讃岐国阿野郡羽床村大字小野で庄屋をつとめる人物だった。」(『七人の旋毛曲がり』)
・仏、皇帝ナポレオン3世、「意法改正に関する大臣宛の皇帝書簡」発表。新聞法改正、集会法改正など自由主義的改革を進める意志を明らかにする。
ルエール等保守派の反対によって一時延期されるが、68年6月集会法、同年7月新聞法、公布。
1月20日
・この頃、坂本龍馬、谷守部(干城)と面談。
谷守部(1837~1911):土佐藩校教授館御用谷万七の長男。土佐南学を再興した谷秦山の末裔。安政6年、江戸で安井息軒に学び、同時期の門下には池内蔵太・河野万寿弥・広沢兵助・品川弥二郎らがいる。文久元年、武市半平太と出会い強い感化をうけ、帰郷後は土佐で致道館の教授などを歴任。慶応2年、後藤象二郎の手配りによって上海へ留学、攘夷論の非を悟る。翌年、龍馬・中岡慎太郎と出会い薩土密約に参加。龍馬暗殺後、田中顕助と共に中岡から事件の詳細を聞き、下手人は新選組であると判断。後、この事が近藤勇斬首に繋がる。維新後、兵部権大丞などをつとめ明治6年熊本鎮台司令官に就任。西南戦争では西郷軍の猛攻から熊本城を死守。以後、軍高官・大臣などを歴任。欧化政策に反対する保守派。子爵。
1月22日
・マルクス(49)、ポーランド亡命者団体と国際労働者協会とが開催したポーランド革命祝賀会で演説。
1月23日
・幕府、長州征討解兵勅許を諸藩と長州藩に伝達。薩藩ら5藩に三条実美ら5卿の送還を命ず。
・福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員長小野友五郎の一行に加わり再び渡米。
1月24日
・西郷隆盛、宇和島で伊達宗城に上京を督促。
1月27日
・伊東・新井・寺田、昼に南関。伊東、慶応2年長州征伐における小倉・長州の闘いで肥後に避難した老少婦人の窮状を見て落涙。三池の尊皇家清水(塚本源吾)宅に宿泊。29日、伊東、清水と大宰府へ。新井は肥後人応接、寺田は西肥後周旋の予定。
1月29日
・岩倉具視、京都市中に住むことを許される。
1月下旬
・坂本龍馬(33)、上野彦馬の写真館で写真を撮影。

つづく


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