2020年9月7日月曜日

鎌倉、東慶寺山門前の漱石記念碑と漱石「初秋の一日」 「Oは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行つて顰に倣つた。」

 

夏目漱石参禅百年記念碑(東慶寺山門前)

1912年(明治45年=大正元年)9月11日、夏目漱石は鎌倉、東慶寺に釈宗演を訪問する。

漱石は27歳の時、円覚寺(管長釈宗演)塔頭帰源院に参禅しているので、この時、釈宗演とは18年ぶりの再会となる。なお、釈宗演は漱石の葬儀では導師を務めている。

この年8月、漱石は友人の満鉄総裁中村是公と長野・栃木県旅行に行った際、満洲に学徳の高い漢学者を招いて修養上の講話をしてくれる者はいないかとの相談があった。漱石はいっそ名僧知識を招聘してはと言うと、禅僧では誰がいいだろうと言うので、釈宗演を挙げた。そこで、宗演と面識のある友人菅虎雄に都合を聞いてほしいということになり、漱石は9月2日、漱石は菅虎雄に手紙を出し、これを依頼した。

菅は早速、釈宗演と会って、満鉄の意向を伝え内諾を得たので、それを漱石に伝え、漱石は中村是公に知らせた。

こういう経緯があって、9月11日、漱石は中村是公・犬塚信太郎満鉄理事と共にに鎌倉の東慶寺に釈宗演を訪ねた。満洲講演旅行を承諾してもらった御礼の表敬である。

鎌倉駅で下車し、人力車で東慶寺山門に着き、石段前の稲田に立って、是公が小便をした。漱石も用心のため、是公の顰(ひん)に倣(なら)った(連れしょんである)。1894年12月帰源院に参禅した時以来18年ぶりに宗演に会った。漱石の眼前にいる小作りな宗演は、昔と大して変ってはいなかった。ただ心持ち色が白くなったのと、年のせいか顔にどこか愛嬌が付いたのが、漱石の予期に反していた。

以下、夏目漱石「初秋の一日」より

小雨降る初秋の鎌倉の描写と明治という時代の終わりへの感慨が重なって、しっとりとした文章になっている。

 汽車の窓から怪しい空を覗(のぞ)いていると降り出して来た。それが細(こま)かい糠雨(ぬか)あめなので、雨としてよりはむしろ草木を濡(ぬ)らす淋(さび)しい色として自分の眼に映った。三人はこの頃の天気を恐れてみんな護謨合羽(ゴムがつぱ)を用意していた。けれどもそれがいざ役に立つとなるとけっして嬉(うれ)しい顔はしなかった。彼らはその日の佗(わ)びしさから推(お)して、二日後(ふつかご)に来る暗い夜(よる)の景色を想像したのである。

(略)

 汽車を下りて車に乗つた時から、秋の感じはなお強くなつた。幌(ほろ)の間から見ると車の前にある山が青く濡(ぬ)れ切つている。その青いなかの切通(きりどお)しへ三人の車が静かにかかつて行く。車夫は草鞋(わらじ)も足袋(たび)も穿(は)かずに素足(すあし)を柔かそうな土の上に踏みつけて、腰の力で車を爪先上(つまさきのぼ)りに引き上げる。すると左右を鎖(とざ)す一面の芒(すすき)の根から爽(さわ)やかな虫の音(ね)が聞え出した。それが幌(ほろ)を打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果(はて)しもない虫の音(ね)に伴(つ)れて、果しもない芒の簇(むらが)りを眼も及ばない遠くに想像した。そうしてそれを自分が今取り巻かれている秋の代表者のごとくに感じた。

 この青い秋のなかに、三人はまた真赤(まつか)な鶏頭(けいとう)を見つけた。その鮮(あざ)やかな色の傍(そば)には掛茶屋(かけぢやや)めいた家があって、縁台の上に枝豆の殻(から)を干したまま積んであった。木槿(むくげ)かと思われる真白な花もここかしこに見られた。

 やがて車夫が梶棒(かじぼう)を下おろした。暗い幌の中を出ると、高い石段の上に萱葺(かやぶき)の山門が見えた。Oは石段を上(のぼ)る前に、門前の稲田(いなだ)の縁(ふち)に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行つて顰(ひん)に倣(なら)つた。それから三人前後して濡れた石を踏(ふ)みながら典座寮(てんぞりよう)と書いた懸札(かけふだ)の眼につく庫裡(くり)から案内を乞(こ)うて座敷へ上つた。

 老師に会ふのは約二十年振である。東京からわざわざ会ひに来た自分には、老師の顔を見るや否や、席に着かぬ前から、すぐに夫と解つたが先方では自分を全く忘れて居た。私はと云つて挨拶をした時老師はいや丸で御見逸(おみそ)れ申しましたと、改めて久闊(きゆうかつ)を叙したあとで、久しい事になりますな、もう彼是二十年になりますから抔と去つた。けれども其の二十年後の今、自分の眼の前に現れた小作りな老師は、二十年前と大して変つてはゐなかった。たゞ心持色が白くなったのと、年の所為か顔にどこか愛嬌が附いたのが自分の予期と少し異なる丈で、他は昔の儘のS禅師であつた。「私ももう直(じき)五十二になります」自分は老師の此の言葉を聞いた時、成程若く見える筈だと合点が行つた。実をいふと今迄腹の中では老師の年歯(とし)を六十位に勘定してゐた。然し今漸く五十一二とすると、昔自分が相見(しようけん)の礼を執(と)つた頃はまだ三十を超えた許りの壮年だつたのである。夫でも老師は知識であつた。知識であつたから、自分の眼には比較的老けて見えたのだらう。

(略)

 翌朝(あくるあさ)は高い二階の上から降るでもなく晴れるでもなく、ただ夢のように煙るKの町を眼の下に見た。三人が車を並べて停車場(ステーション)に着いた時、プラットフォームの上には雨合羽(あまがっぱ)を着た五六の西洋人と日本人が七時二十分の上り列車を待つべく無言のまま徘徊(はいかい)していた。

 御大葬と乃木大将の記事で、都下で発行するあらゆる新聞の紙面が埋(うず)まったのは、それから一日おいて次の朝の出来事である。

東慶寺山門石段下の記念碑には漱石「初秋の一日」が刻まれ、漱石と是公の立ち小便のことが説明されている。

(註1)

釈宗演(しゃくそうえん);1859(安政6)12月18日~1919年(大正8)11月1日

福井県高浜の生まれ。1870(明治3)、10歳で妙心寺天授院で出家得度。1884年(明治17)円覚寺仏日庵住職。1885年5月慶應義塾入学(3年間)。1887年3月セイロン島遊学。1889年10月鎌倉に戻る。1892年(明治25)3月33歳の若さで円覚寺管長。1884(明治27)年12月23日、菅虎雄の紹介で漱石が円覚寺帰源院に参禅、釈宗活の手引きで釈宗演の提撕(ていせい)を受ける。

1903年(明治36)7月円覚寺・建長寺両派の管長。1905年5月両派管長を辞し東慶寺に遷住。1909(明治42)3月佐々木信綱との会見を機に和歌を学ぶ。

1912(大正元)年8月、漱石は中村是公満鉄総裁と共に長野・栃木旅行に行き、中村から満鉄で漢学者を招いて講話をしてもらいたいとの相談を受けたので、漱石はいっそ名僧知識でも招聘してはどうかと言うと、禅僧でもいい、誰がよかろうか、と言うので、宗演禅師を挙げた。漱石はその後宗演と音信不通なので、仲介を禅に親しい菅虎雄に頼んだ(同年9月2日付菅虎雄宛漱石書簡)。菅はすぐ東慶寺の宗演に会い、宗演が満鉄の招聘に承諾するという返事を漱石に出した。漱石は中村に宗演応諾を知らせ、宗演に面会して正式要請すべきか、を菅に相談した(9月4日付)。

1914年(大正3)9月54歳で京都臨済宗大学及び花園学院学長。1916年(大正5)7月56歳で再び円覚寺派管長。同年12月9日漱石が逝去し、中村是公の依頼により漱石の葬儀の導師を承諾。

1919年(大正8)11月1日没。

(註2)

《時代背景》

1911年(明治44年)

1月 『門』刊行(春陽堂)

1月24日 幸徳秋水ら処刑

2月21日 文学博士号辞退。

「従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。」(「博士問題の成行」)

6月1日 青鞜社結成

8月10日 大阪朝日新聞社の依頼で関西に講演旅行、「現代日本の開化」「文芸と道徳」など。19日、堺で胃潰瘍再発し、大阪で入院する。

1912年(明治45年=大正元年)

1月2日 『彼岸過迄』(~4月29日)

 2月 池辺三山没(享年48)   

4月13日 啄木石川一没(27) 4月15日 石川啄木の葬儀に出席

6月26日 富山県で米騒動。全国に拡大。

7月30日 明治天皇崩御(61)

8月17日、漱石は中村是公に誘われ塩原に旅行。一汽車先に上野から乗車、西那須野から軽便鉄道に乗り換え、関谷で下車、人力車に乗り、大綱で米屋の出迎えを受け、真田幸正伯爵別荘に泊まる。

8月31日、赤倉から上野に帰る。

9月11日 中村是公・犬塚信太郎満鉄理事と共に鎌倉の東慶寺に釈宗演を表敬

9月13日 明治天皇大喪。乃木希典大将と夫人静子殉死                                      
10月12日 この日付け漱石の阿部次郎宛て手紙

「拝復。葉書をありがとう。「門」が出たときから今日まで誰も何もいつてくれるものは一人もありませんでした。私は近頃孤独という事に慣れて芸術上の同情を受けないでもどうかこうか暮らして行けるようになりました。従つて自分の作物に対して賞賛の声などは全く予期していません。しかし「門」の一部分が貴方に読まれて、そうして貴方を動かしたという事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。」(大正元年10月12日阿部次郎宛書簡)

12月6日 「行人」(~大正2年11月15日。但し、大正2年4月8日~9月15日まで休載) 



 




    

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