2020年9月14日月曜日

漱石の円覚寺参禅(1894年(明治27年)12月23日~翌1月7日) 「彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎつていた。彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで済む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。(『門』二十一)

 

1894年(明治27年)12月23日 

夏目漱石は、友人菅虎雄の紹介により鎌倉の円覚寺搭頭帰源院に参禅。管長釈宗演から「父母未生以前本来の面目如何」と公案が与えられ越年。漱石の解答は宗演から一蹴され、翌年1月7日、漱石は空しく下山する。


荒正人『増補改訂 漱石研究年表』(集英社)による解説

「十二月二十三日(日)夜、または二十四日(月)朝から翌年一月七日(月)まで、菅虎雄の紹介で、鎌倉の円覚寺に釈宗活を訪ね、塔頭帰源院の正統院に入り、釈宗活の手引で、釈宗演の提撕(ていせい)を受ける。元良勇次郎も共に坐禅をする。「父母未生以前本來の面目」という公案をもらう。(島崎藤村も前年九月初旬の二週間ほど泊り、釈宗演の下で坐禅を組んだと推定される。(湖沼茂樹))」(荒正人、前掲書)

江藤淳『漱石とその時代1』による解説

「明治二十七年十二月末、金之助は菅虎雄の紹介状を持って鎌倉円覚寺の塔頭、帰源院に釈宗活を訪ね、宗活の手引きで師僧釈宗演に参禅した。宗演は安政六年(一八五九)生れで当時三十五歳、若年ながら二年前に遷化した師僧今北洪川の跡を嗣いで円覚寺の管長となり、稀代の傑物という名声が高かった。菅虎雄は明治二十一年ごろから今北洪川のもとに参禅していたから、いわば宗演の同門である。天然居士の米山保三郎もやはり洪川門下であった。

金之助はいうまでもなく、二律背反解決の道を禅に求めたものと思われる。彼は登世の葬式のとき、蓮如上人の御文章を聴いて感動したことがあったか、他力本願の救済を期待するわけにいかなかったのは、彼の問題が秘密な「罪」であって、他者への公開をはばかるものだったからである。しかし彼を閉じこめている「霧」は、参禅というような努力によって晴らされるような性質のものではなく、「生」と「罪」の二律背反からのがれる道は啓示されなかった。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

菅虎雄は明治21年と22年4月に円覚寺管長の今北洪川のもとで参禅している。居士帖に「無為」の居士号をもらったことが記されている。(『夏目漱石と管虎雄』原武哲。教育出版センター、昭和58年)

当時の若い知識層は坐禅にたいして親しみを抱いていた。

漱石の同学年の松本文三郎は、

当時文学部の学生の間には禅が可(か)なり行はれて居た。冬期の休暇などには随分鎌倉の円覚寺に出掛けたものである。  (「漱石の思ひ出」『漱石全集』月報、第16号、昭和12年2月、岩波書店)

と回想している。


小説『門』(明治43年(1910)3月1日~6月12日「東京朝日新聞」連載、漱石43歳)における参禅の情景

宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。彼はこれを同僚の知人の某から得た。

山門を入ると、左右には大きな杉があつて、高く空を遮つてゐるために、路が急に暗くなつた。其陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚つた。静かな境内の入口に立つた彼は、始めて風邪(ふうじや)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。

「まあ何から入つても同じであるが」と老師は京助に向つて云つた。「父母未生以前(ふぼみしよういぜん)本来の面目は何だか、それを一つ考へて見たら善からう」

何しろ自分と云ふものは必竟(ひつきよう)何物だか、其本体を捕(つら)まへて見ろと云ふ意味だらうと判断した。    (『門』十八)

漱石は宗演から与えられた公案に自力で解脱を求めて襖悩、呻吟したが、妄想のみいたずらに立ち騒ぎ、老師に公案の解答を準備して、「物ヲ離レテ心ナク心ヲ離レテ物ナシ他ニ云フベキコトアルヲ見ズ」(ノート「超脱生死」『全集』第21巻)と見解を呈したが、宗演から「ソハ理ノ上ニ於テ云フコトナリ。理ヲ以テ推ス天下ノ学者皆力ク云ヒ得ン更ニ玆(こ)ノ電光底ノ物ヲ拈出シ来レ」(「超脱生死」)と一蹴される

彼は考へた。けれども考へる方向も、考へる問題の実質も、殆んど捕(つら)まへ様のない空漠なものであつた。彼は考へながら、自分は非常に迂闊な真似をしてゐるのではなからうかと疑つた。火事見舞に行く間際に、細かい地図を出して、仔細に町名や番地を調べてゐるよりも、ずつと飛び離れた見当違の所作(しよさ)を演じてゐる如く感じた。  (『門』十八)

「もつと、ぎろりとした所を持つて来なければ駄目だ」と忽ち云はれた。「其位な事は少し学問をしたものなら誰でも云へる」

宗助は喪家(そうか)の犬の如く室中(しつちゆう)を退いた。後(うしろ)に鈴(れい)を振る音が烈しく響いた。(『門』十九)

悟(さとり)の遅速は全く人の性質(たち)で、それ丈では優劣にはなりません。入(い)り易くても後(あと)で塞(つか)へて動かない人もありますし、又初め長く掛かつても、愈(いよいよ)と云ふ場合に非常に痛快に出来るのもあります。決して失望なさる事は御座いません。  (『門』二十一)

自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向側(むこうがわ)にいて、敲(たた)いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、

「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」という声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門の閂(かんぬき)を開ける事が出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵(こしら)えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事が出来なかつた。従つて自分の立つている場所は、この間題を考えない昔と毫(ごう)も異なる所がなかつた。彼は依然として無能無力に鎖(と)ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便(たより)に生きて来た。その分別が今は彼に崇つたのを口惜く思つた。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知憲も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立(たたず)むべき運命をもつて生れて来たものらしかつた。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所(そこ)まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底また元の路へ引き返す勇気を有(も)たなかつた。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎつていた。彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで済む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。 (『門』二十一)

翌年

1月7日 漱石、10日間の参禅を打ち切り円覚寺より空しく下山、帰京。狩野亨吉を訪問。法蔵院に落ち着く(推定)。

1月9日 漱石、斎藤阿具宛て手紙に、「五百生の野狐禅遂に本來の面目を撥出し來らず」と洩らす。

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関連記事

鎌倉、東慶寺山門前の漱石記念碑と漱石「初秋の一日」 「Oは石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行つて顰に倣つた。」

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【この年の漱石(同い年の子規、紅葉、露伴)】

1月 尾崎紅葉、『紫』(『読売新聞』連載)。紅葉初の言文一致の作品。

1月 幸田露伴戯曲『有福詩人』(『国会』連載)。露伴が作中に重要人物として登場する。

2月 漱石、風邪の経過はかばかしくなく血痰をみた。

2月1日 子規、上根岸88番地から上根岸82番地(羯南宅東隣、終のすみか、子規庵)へ転居。

2月11日 絵入り新聞『小日本』創刊。編集主任は子規。月給は20円から30円に上がる。「月の都」「一日物語」「当世媛鏡」「俳諧一口話」「文学漫言」などを相次いで発表。

「強心臓にも(?)子規は『小日本』で、二年前に執筆し幸田露伴から遠まわしに出版を拒絶された処女小説『月の都』を、創刊号から連載し(三月一日まで)、さらに新作『一日物語』を発表する(三月二十三日から四月二十三日まで)。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

2月下旬または3月上旬(日不詳) 漱石、商等師範学校長嘉納治五郎から命じられた尋常中学校英語教授法方案取調べようやく完了し、提出する。

3月 子規、挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。

「不折と『ホトトギス』との、さらには彼が『吾輩は猫である』の挿絵画家となる縁は、すべてここに始まる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

3月

この頃、漱石は菅虎雄に付き添って貰って北里柴三郎のもとを訪ねている。この頃、漱石は神経衰弱で憔悴しているうえに血を吐いたようだ。漱石は結核ではないかと心配した。結核は兄2人の命を奪った難病であり、いつ自分も襲われるかもしれない恐怖を抱いた。

学生時代のことであるが、或る時夏目君がどうも自分は胸が悪いのぢやないかと心配だから北里柴三郎氏に診て貰ひたいと思ふが一人で行くのは何だから君一緒に行つてくれないかとのことで、当時北里氏は多分芝山内に居られたと思ふが、その北里氏のところへ一緒に行つたことがある。その時の診断は胸の方は一向別状はないとのことであつたが、今から想像すると実は胸の病気ではなくて胃潰瘍でも悪くてそのため血でも吐かれそれを考へ違ひされて心配されたのではないかとも思ふ。尚京都へ来て一緒に叡山へ登つた時も途中で胃が痛み出し、しばらく休んでから峠の茶屋で湯を呑んで直つたこともあつたが、胃潰瘍は単に晩年に始まったものでなく、ずつと以前学生時代から悪かつたのではないかと考へられるのである。(「夏目君の書簡」 『漱石全集』月報、第7号、昭和3年9月)

3月9日 明治天皇大婚二十五年祝典の日。

漱石は、心身ともに衰弱し、市中のお祭りさわざをよそに、大学の寄稿令にほど近い上野池ノ端をひとりで雨に打たれながら散歩した。

「実は去る二月初め風邪にかゝり候処其後の経過よろしからず、いたく咽喉を痛め、夫より細き絹糸の如き血少々痰に混じて喀出仕り候故、従来の○○と○○と両方へ転んでも外れさうのなき小生故、直ちに医師の診察を受け候処、只今の処にては心配する程の事はなく、・・・・・。尤も人間は此世に出づるよりして日々死出の用意を致す者なれば、別に喀血して即席に死んだとて驚く事もなけれど、先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得、医師の忠告を容れ精々摂生致居候。

何となう死に来た世の惜まるゝ」(明治27年3月9日付山口県山口高等中学校菊池謙二郎宛)

3月12日 この日付け漱石の子規宛の手紙。

「・・・・・子規が『小日本』の編集主任になったのと同じ頃に、漱石は風邪をこじらせ、血痰が出てしまう。一時は結核発病かと心配もしたらしい。三月に入ってから医者の診察を改めて受け、安心したことを、漱石は三月一二日付の子規宛の手紙で書いている。

「目下は新聞事業にて定めし御多忙の事」と、子規の編集主任としての仕事をねぎらったうえで、「過日は小生病気につき色々御配慮」を子規からしてもらったことに感謝を表明している。そして「小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども」と、動揺したことを告白していたのでもあった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

3月23日 子規『一日物語』(『小日本』連載)。虚子が口述筆記。

4月20日 漱石の俳句が初めて『小日本』に掲載される。

「烏帽子着て渡る禰宜あり春の川」

これに続いて、1句ずつ掲載される。

「小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼」(4月25日)

「菜の花の中に小川のうねりかな」(4月28日)。

5月 樋口一葉一家、下谷龍泉寺町から丸山福山町四番地、旧福山藩邸があった西片町台地の崖下の借家に移転する。

5月16日 北村透谷自殺(27)

5月30日 子規、『小日本』付録小冊子として、子規最初の選句集叢書『俳句二葉集・春の部」を刊行。

漱石の句を2句(「烏帽子着て・・・・・」「菜の花の・・・・・」)収録。

5月末 漱石の結核と思われた症状消える。但し、医師の診察・服薬は続ける。朝と夕に弓を100本ほど試みる。面白くなり散歩する時間もない。

6月15日 子規『当世媛鏡』(『小日本』連載~7月15日)

6月20日午前2時、安政2年(1855)の大地震以来の強震が起り、倒壊4,800戸に及んだ。煉瓦造りの西洋建築の被害がことに甚だしく、華族会館(旧鹿鳴館)のバルコニーもこのとき到壊した。

7月 子規『文学漫言』(『日本』連載)。

7月5日 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止となる。

7月15日 『小日本』廃刊により、子規、『日本』に戻る。

7月25日、漱石は伊香保温泉に行き、松葉屋旅館に宿泊。

夜、小屋保治に手紙を書き、伊香保に来ないかと誘う。

「七月二十五日(水)、午前七時二十五分発前橋行で、上野停車場から伊香保に向う。(前橋着は十一時十分)午後六時頃到着する。小暮旅館(小暮武太夫)に行ったが、満員なので、小暮旅館から紹介された萩原旅館(松薬屋 萩原重作(朔))に泊る。夜、小屋(大塚)保治(群馬県南勢多郡木瀬村大字笠井)宛に、北向き六畳で部屋から見る風光はよい、但し浴室は汚い、遊びに来ないかと誘いの手紙を出す。(小屋(大塚)保治が来訪したかどうかは分らぬ)」(荒正人、前掲書)

小屋保治が伊香保に行っかどうかは不明だが、実直な小屋は伊香保に向かった可能性は高く、そこで二人の間で楠緒子養子問題が語られ、決着が図られたかもしれない。

「保治が楠緒子に対する愛を『心』のKのように打ち明けたか、漱石が『それから』の代助のように譲ることになったのか。とにかく何かが起ったのである」(小坂晋『漱石の愛と文学』)

8月上旬 漱石、松島を旅行。瑞厳寺に詣でる。菖蒲田海水浴場のホテルで土井晩翠と出会う。

8月1日 日清戦争開戦(宣戦布告)

9月1日 漱石、湘南へ海水浴に行き、荒天の海に入り、「快哉」と叫んで、宿屋の主人を驚かせる。3日夜、帰京。

9月4日 漱石の子規宛の手紙。心の悩みを訴え、近日中に下宿するかもしれぬと伝る。

「学問の府たる大学院にあつて勉強すべき時間はありながら勉強の出来ぬは実心苦しき限に御座候」。

「元來小生の漂泊は此三四年來沸騰せる脳漿を冷却して尺寸(せきすん)の勉強心を振興せん為のみに御座候」

9月上旬(推定9月6日) 漱石、大学の寄宿舎を出て、しばらく菊坂の素人下宿に入ったあと、9月19日頃、小石川指ケ谷町の菅虎雄の新居に一時寄宿。~10月16日

10月9日 漱石、突然、菅の家を出る。10月15日まで足取り不明。旅行か?

10月16日 漱石、菅虎雄の世話で小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目、伝通院脇の別院)に下宿する。松山に赴任するまで(~明治28年4月2日)。

この日付けの子規宛てはがき。

「塵界茫々毀誉の耳朶を撲(うつ)に堪ず此に環堵(かんと)の室を賃して蠕袋を葬り了んぬ猶尼僧の隣房に語るあり少々興覚申候御閑の節是非御来遊を乞」

同日、狩野亨吉、大塚(当時小屋)保治にもはがきで通知。

狩野には、「所々流浪の末遂に此所に蟄居致候御閑暇の節は御来遊可被下候」、

大塚には「遊子漂蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の節は御来会可被下候」とある。

狩野亨吉が訪ねてくる。この頃も毎日のように井上眼科に通う。

12月 一葉『大つごもり』(「文學界」)発表。

「奇跡の一年」が始まる。







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