北の丸公園 2015-04-02
*1787年(天明7年)
6月19日
・奥州白河藩主松平定信(30)、老中首座に就任。
祖父吉宗の政治への回帰、士道退廃を批判、質素・倹約を第1の方針とし、田沼政治の一掃を図る。側近政治に対する徳川一門の粛清運動の勝利。
■これまでの定信
宝暦8年(1758)12月27日、田安宗武(三卿)の七男として誕生。宗武は8代将軍吉宗の二男で、定信は吉宗の孫、将軍家治とは従兄弟。同じ三卿の一橋家から出て11代将軍となった家斉は吉宗の曾孫。
幼時より並はずれた才子で、学問・文学・諸芸に通じ、12歳のとき自戒の書『自数鑑(じこようかがみ)』を著わし、17歳までに7千首の和歌を詠んだという。
宗武の子は、五男治察(はるさだ)と七男定信以外の男子はみな夭折。定信もあまり丈夫でないので、とても長生きはできまいと考え、生前にできるだけ読書と著述に精をだしておこうという気になったと、後年に述懐している。それもあって、一代で182部という多数の著書を残している。
宗武は国学者であり、万葉調の歌人として有名であるが、父吉宗の感化をうけて私生活は簡素で、定信らにたいしても厳しいしつけをおこない、幼年期から衣服・飲食について好き嫌いをいうことを許さなかった。定信は後年白河藩主として藩政改革に着手したとき、家中に率先して綿服を着、食事は一汁一菜にきりつめたが、幼年時代の体験でなれているので、別に苦痛は感じなかったとのべている。
宝暦12年(1762)2月、定信5歳のとき田安邸が火災にあい、宗武は家族を連れて数日間本丸に仮り住いした。この時、将軍家治は才気喚発の定信がすっかり気に入り、田安一家が他所へ引っ越したときも、とくに定信だけをしばらくひざもとに残して可愛がった。家治は、「将来、徳川家をおこすのはこの子であろう」とまで称揚したが、この家治の特別の寵愛が、定信を苦境におとしいれる一
つの原因となる。
安永4年(1775)11月、18歳のとき、将軍の厳命とのことで奥州白河藩主松平越中守定邦の養子となる(裏で田沼意次と一橋治済の差し金といわれている)。
安永5年、将軍家治の日光社参に際し、白河藩が警固を命ぜられ、定信は病中の定邦に代って無事その任務を果たした。この時、初めて領地白河に入り、家中・領民の情況を視察。国元の藩政はその日暮らしをこととし、凶作の被害がとりわけひどい後進地でありながら、その予防策が殆どとられていないことを知る。定信は藩政への発言のできない世子の身であり、しかも虚弱で家督を継ぐまで生きられまいとの不安にかられ、遺書と題して『修身録』『政事録』2著をあらわした。
天明2年(1782)、「この比(ころ)より信友多く交りてかたみに道を講じたり」(『宇下人言』)としるし、その信友として、本多弾正少弼忠籌(ただかず、陸奥泉)・本多肥後守忠可(ただよし、播磨山崎)・戸田釆女正氏教(美濃大垣)・奥平大勝大夫昌男(まさとき、豊前中津)・堀田豊前守正毅(まさよし、近江宮川)・松平山城守信亨(のぶつら、出羽上ノ山)などの譜代小藩主の名をあげている。このころの会合は、和歌を詠み合ったり、相互に善行をすすめたりする一種の修養会のような性格であったが、しだいに時勢を慨し、幕政のあり方を批判する政治的集会に変化していった。
天明3年10月、大飢饉のさ中に26歳で家督を相続。この時、白河藩は表高11万石余に対し10万8,600石余の減収という状況であった。
彼は、家中に対し、「わが領内にたとえ一人の餓死者をだしても、国君の天職に背くことである」と宣言し、家中一体になって倹約の範を示すため、率先して私生活を極度にきりつめた。食事は一汁一菜、衣服から寝具に至るまで全て木綿一式とし、侍女の数を減らし、居間および諸役所の畳は安くて縁のない琉球表にかえ、襖・障子も粗末な紙に張り替えさせた。
定信は勘定頭松村仙蔵を越後の分領に派遣し、1万俵の貯米を廻送させようとしたが、通路である隣領会津も凶作で、人馬の継立ては出来ないと藩役人から拒否された。そこで、定信は会津藩主松平容頌(かたのぶ)に特使を急派し、便宜を図ってくれるように懇請し、ようやく廻米の目途がついた。
更に大坂・兵庫・浜松などの約6,950俵、会津6千俵、磐城平3千俵、二本松・守山各1千俵を、値段にかまわず買い集めた。家中へは人別扶持(にんべつふち)として、家老から足軽にいたるまで一律に毎日男5合・女3合を、町村の難民には10日に1回ずつ1軒に3升ずつ与え、凶作の翌年は伝染病が流行するため、薬を下付した。
また、男女を問わず阿武隈川築堤工事に割のよい賃銀で働かせた。
翌4年春の端境期には、江戸から稗・ふすま・挽割麦・あらめ・かます干物・にしん・干大根などを買い上げて白河に送らせた。この結果、定信は「仙台溝では四十万、津軽領では二、三十万の餓死者をだしたにもかかわらず、わが白河領では一人の餓死者もなかった」と自讃している。
定信は、剛直な能吏を登用して藩政刷新につとめ多くの改革を実施した。
特に農政に重点が置かれ、備荒貯穀の施設はもとより、田畑の耕作技術を指導し、早稲の有利なことを教え、畑作には穀類を多くつくるように命じた。楮(こうぞ)・漆・桑などの加工農産物の栽培や植林をすすめたのも、農民経営の安定と合わせて藩収入の増加をもくろんだものである。また大飢饉で減少した農業労働力を確保するために、貧農のあいだでロベらしのためひろくおこなわれた間引きを防止したり、越後の領地から女子を強制的に白河に移して配偶者の不足をおぎなった。こうした努力が奏功したのか、定信襲封のさい、白河城下の農民数は11万1,016人であったのが、約10年後には3,500余人の増加をみたといわれる。
また家中に対して武芸・武備の奨励に力をいれ、白河城内に藩祖越中守定綱の神霊を祀って大鏡神と号し、毎年2月・8月の24、25両日に武芸祭・武備祭を行なって出陣の訓練をさせた。これは士風振興という目標を掲げているが、近辺に百姓一揆などが起きた時に、すぐにその人数を鎮定に派遣することができるようにするのが狙いであった。白河藩主として定信のあげたこのような治績は、かれの「名君」の声望をひろめることになり、幕閣入りの一つの条件を作ったが、この経験はやがて幕政改革を担当するにあたり、貴重な教訓として生かされることになる。
天明5年12月1日、松平定信は溜の問詰となった。溜の間は、江戸城中の大名詰所の一つで、家門(将軍家一族)や有力な譜代大名の部屋であった。定信はここに、中央政界での地位を得た。
「この定信が溜間詰となったのは、田安の宝蓮院の願によるという事である。宝蓮院というのは田安宗武の室であって、即ち定信の嫡母に当る。定信が溜間詰となったから田沼が段々に勢力を失ったのではなかろうかと思う。」(辻『田沼時代』)
天明6年12月15日、定信は老中に推挙されるが、実現までに半年を要すことになる。
定信の老中就任に対し世論は歓迎であった。
一橋治済と御三家は、「これで全体の風儀も一新し、天下のためまことにめでたいことである」と祝いあった。
杉田玄白も「逢いがたいと思う世にふたたび逢うことのできたうれしさよ」と、定信の登場に期待を寄せる(『後見草』)。
民衆も定信を「文武両道左衛門世直(よなおし)」とよんで、新政の出現を謳歌した。
定信が老中首座に挙用される前後から、田沼政権に迎合してきた諸役人のあいだには、粛清をおそれて深刻な動揺がおこり、事務も手につかない状態であった。定信は将軍に上申して、諸役の頭を一人ずつ黒書院(幕府の公式の儀式に使われる部屋)によぴ、将軍からじきじきに、以後、万事八代将軍吉宗の享保の改革にのっとっておこなうことを申し渡し、定信もそばから、既往のことであれば多少の不都合はいっさい不問に付するから、今後処罰をうけることのないように注意してせいぜい忠勤をはげむように説諭したので、人心の動揺はいちおうしずまった。
定信は老中に就任してまもなく、勘定奉行に幕府の財政状態をたずねたことがある。勘定奉行の答えは、天明6~7年の凶作や、6年の将軍家治歿による出費などで、来年は100万両も不足するだろうということであり、定信が諸老中にそのことを告げるとみな顔色を失ったという。
大老井伊直幸(1787年9月辞任)、老中阿部正倫(1788年2月辞任)がつくが、1788年3月4日、将軍補佐兼役を命ぜられ幕閣の大権を掌握するまでは、田沼執政期に登用された老中が留任しており、定信は孤立。
辻善之助『田沼時代』
「天明六〔一七八六〕年の八月頃から、田沼のやっておった政策は、善となく悪となく皆片端から潰されたのである。即ち、
天明六年八月二十四日には貸金会所の令を廃した。
同日、吉野山の採鉱の検分を止めた。
同日また印旛沼の開墾を止めた。
同年十一月十五日、赤井豊前が勘定奉行を罷めた。
翌七年六月には定信は陰の者でなくして表向の老中となった。
同年七月二十九日には、両替商の役金を免じた。これは両替屋の株というものが全体で六百四十三株あって一株について一年に十四両ずつの役金を差出すことに定
めてあったのを廃したのである。
同年十一月二十六日には、人参座を廃した。
同年十二月五日には、赤井豊前と松本伊豆とが逼塞を命ぜられた。二人ともに田沼の経済政策の参謀として、最もカあった人である。
十二月九日には、市内の空地に家を建てることを禁じた。これは田沼の時には、市内の空地にも諸処に家を建てることを許して、それから税を納めさして、収入を図ったことがある。これは次に載するところの田沼の罪悪を数えた二十六ヵ条中にもある如く、中橋広小路の元と火除地であったのに、天明六年の頃そこに家を建て、税を納めしめて、収入を図ったというのに対するのである。
八年正月二十二日広東の人参売買の禁を解いた。これは日本国産人参の保護政策を止めたのである。
同年の五月二十九日には二朱判の鋳造を止めた。
八月二十三日に菜種油の問屋を止めた。
同年の十二月に四文銭の鋳造を止めた。
寛政元(一七八九)年には、日本橋の中洲の堀を掘返して川に戻してしまった。
寛政二(一七九〇)年の十一月九日に棉の実売買の問屋仲買を廃した。」
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