横浜・山手 2015-10-13
*1990年代、旧ソ連から100万人のユダヤ人がイスラエルに移住
(そのうち、1993年オスロ合意の頃の移民の数は60万人)
一九九〇年代には約一〇〇万人のユダヤ人が旧ソ連からイスラエルへと移住した。現在のイスラエルのユダヤ人人口の一八%以上がこの時期の旧ソ連からの移民にあたる。・・・
旧ソ連からイスラエルへと向かったユダヤ人の第一波には、長年の宗教的迫害を理由にユダヤ人国家に移り住むことを決意した者が少なくなかった。が、その後はロシアの経済ショック療法によって国民生活が困窮化するに従い、ロシアからイスラエルへの移民は増加の一途をたどった。これらの人々は・・・、切羽詰まって国を脱出してきた経済難民だったのだ。
「重要なのは私たちがどこへ行くかではなく、どこから出て行くかだ」と、一九九二年にモスクワのイスラエル大使館前で移民申請の列に並んでいたあるユダヤ人は 『ワシントン・ポスト』 紙の記者に語っている。
・・・ソビエト・ユダヤ人シオニスト・フォーラムのスポークスマンはこう漏らした。
「彼らはイスラエルに魅力を感じているのではなく、政治的混乱と経済の崩壊のせいでソ連という国から見捨てられたと感じているのだ」。
一九九三年のエリツィンのクーデター以後、それまでをはるかにしのぐ移民の波がロシアからイスラエルに流れ込んだ。これはちょうどイスラエルでオスロ和平プロセスが始まった時期に重なる。以後、旧ソ連からイスラエルに流入した移民の数は六〇万人に上った。
1993年3月30日の封鎖、ロシアからの移民がパレスチナ人労働力にとって代わる
・・・ロシアから難民が流入する以前、イスラエル経済はガザ地区やヨルダン川両岸地区のパレスチナ人労働者なしでは立ち行かない状況にあった。・・・ガザ地区や西岸地区からほ毎日一五万人ものパレスチナ人がイスラエル領内に出かけて行っては道路の清掃や建設工事に従事し、農民や商人もトラックに商品を満載してイスラエルや他の占領地で商売をしていた。当時は互いが経済的に依存しあう関係にあり、イスラエルはパレスチナ占領地が周辺のアラブ諸国と自主的な貿易関係を持つことを禁じる措置まで取っていた。
ところがオスロ合意が成立したちょうどそのとき、深く結びついたこの二者の依存関係が突然断ち切られる。
・・・この時期に移民してきた数十万というロシア人は・・・イスラエル国内のユダヤ人比率を大幅に上昇させることでシオニズム政策を後押しすると同時に、安い労働力の新たな供給源となった。・・・
一九九三年三月三〇日、同政府は「封鎖」政策を開始する。イスラエルと占領地との境界線を一度につき数日から数週間封鎖し、パレスチナ人がイスラエルで仕事をしたり物を売ったりできないようにするという措置である。
この封鎖政策は、表向きはテロの脅威に備えるための一時的措置として始まったが、すぐに常態化した。しかも占領地とイスラエルとの行き来だけでなく、占領地間の行き来もできなくなり、検問所での取り締まりはいっそう厳しく屈辱的なものとなった。
一九九三年・・・、イスラエルの占領地は荒廃した下層民の居住地から息苦しい刑務所へと変質した・・・。
そして同じ時期、一九九三年から二〇〇〇年の間に、占領地に住むユダヤ人入植者は一挙に倍増した。それまで多くは急ごしらえの入植者の前哨基地だったところが、周囲に壁をめぐらし、通行制限つきの専用道路も完備した緑豊かな郊外の町へと変貌していった。・・・和平プロセスが始まっても、イスラエル政府は引き続きヨルダン川西岸地区にある主要な水源の所有権を主張し、乏しい水資源を独占的に入植地とイスラエル領内に供給した。
・・・(ロシアにおける)ショック療法による通貨切り下げでそれまでの蓄財を失い、無一文でイスラエルにやってきた旧ソ連住民の多くにとって、家やアパートがはるかに低価格で手に入り、しかも政府から特別ローンや援助金まで提供される占領地は大きな魅力だった。
大学やホテル、ミニゴルフコースまでそろった西岸地区のアリエル入植地のような意欲的な入植地のなかには、旧ソ連からの移民を一人でも多く呼び寄せようと、誘致担当者を送り込んだり、ロシア語のウェブサイトを立ち上げたりするものもあった。その甲斐あってアリエル入植地の人口は倍増し、今日では商店の看板もヘブライ語とロシア語の両方で表記されるなど、あたかも”ミニ・モスクワ”の様相を呈している。住民の半分は旧ソ連からの新移民だ。
イスラエルのNGO「ピース・ナウ」の推定によれば、不法入植地に住むイスラエル市民のうち約二万五〇〇〇人はこれらの新移民であり、「自分たちがどこに住むのかよく理解しないままに」人植した者も少なくないという。
オスロ合意からの数年間に、イスラエルは紛争から繁栄への転換という目標を劇的な形でクリアした。
一九九〇年代半ばから後半にかけて、イスラエル企業は雪崩を打ってグローバル経済に参入していった。なかでも通信とウェブ・テクノロジーに特化したハイテク企業の成長は目覚ましく、テルアビブとハイファは中東のシリコンバレーと目されるまでになった。ドットコム・バブルの最盛期には、イスラエルのGDPの一五%、輸出の五〇%までがハイテク製品で占められ、『ビジネスウィーク』誌はイスラエルを「世界でもっともテクノロジーに依存した経済」と呼んだ。その依存率はじつにアメリカの二倍にも達していた。
そしてこのハイテク・ブームにおいても、新移民が決定的な役割を果たした
九〇年代にイスラエルに渡ってきた数十万のロシア移民のなかには、旧ソ連の科学研究施設出身の科学者も含まれていた。八〇年の歴史を持つ研究施設で積んだ高度な訓練は、イスラエルの一流技術研究所もかなわない。彼らの多くは冷戦期にソ連の科学技術をリードしてきた専門家であり、イスラエルのあるエコノミストの言葉を借りれば、こうした人材がイスラエルの「ハイテク産業発展の起爆剤」となった。ベン=アミ元外相は、ホワイトハウスで握手が交わされてからの数年間を「(イスラエル)史上もっとも目覚ましく経済が成長し、市場が開放された時代のひとつ」だったとふり返る。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿