この年
・下野守源明国(あきくに、多田源氏、摂関家に奉仕)、佐渡に配流。
美濃にある摂関家忠実の荘園に密かに下向した下野守源明国が、途中で殺人を犯し帰京。明国が死穢(しえ)を拡散し、これにより多くの祭礼が中止・延期となり、白河院がこれを怒ったためという。明国は、侍所別当などの家政機関の職員として、忠実に奉仕する武士で、摂関家荘園支配のための武力行使が、紛争を呼び、忠実は配下の有力な武士を失う。
白河法皇は、摂関家荘園の集積・拡大は、忠実の政治的自立に繋がるものとして警戒するようになっている。
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・大江匡房(まさふさ、71)、没。後三条、白河・堀河三天皇の侍講。
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・祗園女御、仁和寺境内に七間四方の御堂建立。開眼供養。
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・白河法皇(59)の長寿延命祈念の作善仏事。公卿殿上人多数列席。
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・平忠盛、検非違使となる。
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・ヘンリ1世・ルイ6世の戦い。
ルイ6世が策動しアンジュー伯とヘンリ1世、メイヌ伯領との境界を巡り紛争(ヘンリ1世はノルマンディ公・メイヌ伯で、メイヌ伯領はヘンリの直轄地)。
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・ル・ピュイゼ領主ユーグ、ルイ6世に降伏。カペー街道(パリ~オルレアン)に跋扈した強盗領主の1人。ルイ6世は制圧に10年間要す。
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・ラン、コミューヌ革命(1111~1114) 。コミューヌ革命は11世紀末に出現、12世紀に盛ん。北フランスのコミューヌ革命は虐殺と殺戮を伴う。
コミューヌ:
「共同領主支配権」(裁判権を所持。市民総会。選挙で選ばれた都市の役人)。施設(裁判所、租税、予算、城壁、市場、教会、病院、癩病院)。同等者間の扶助の宣誓(相互扶助)。
コミューヌ都市(ブールジュ、ガン(ゲント)、サン・トメール、カンブレ、サン・カンタン、リール、ボーヴェ、ソワッソン、ノワイヨン、ラン、ペロンヌ、ルーアン、アルル、アヴィニョン、マルセイユ、ニース)。
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・アンジュー地方の一知行に「4つの正当なタイユ賦課」が規定。
①主君が捕らわれた場合の身代金支払い のため。
②長男が騎士に列せられるとき。
③長女の結婚。
④主君が土地の購入を必要とするとき。
家臣のタイユ支払いが「義務化」、支払いが行われる場合が限定されるようになる。
「エイド(aide)」と「タイユ(taille)」:
主君が下のものから徴収するのをエイド又はタイユと呼ぶ。タイユは「誰かから資産の一部を取り上げること」、転じて「課税」。
イングランドでは、「エイド」は「家臣」から徴収する場合、「タイユ」は「それ以下の従属層」から徴収する場合、に使用。
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・ムスリム軍、サンタレム、エボラ、コインブラ再占領。
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・ファティマ朝アスカロン総督シャムス・アル・ハリーファ、エルサレムのボードワンへの貢納を受入れ、アスカロンはフランク保護下におかれる。
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・アブ・ハーミド・アル・ガッサーリ(53、ラテン語名アルガゼル)、バグダードで没 (1058~1111)。
イスラム最大の神学者、イスラム教会の父。スンナ派正統主義の最後の権威。アシュアリ(935/936 没)派の最終的形態を整えアシュアリ派をイスラムの普遍的信条として確立。
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2月
・藤原宗忠が前年10月から続けていた祖父・俊家の『大右記』の清書30巻が完成。遺言により日記本体を漉(す)き返して写経の料紙とするため。
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2月4日
・ストゥリの協約(スートリ)。ローマで皇帝と教皇パスカリス2世使者が交渉。
教皇が司教に「所領・財産(国王高権、レガリア)」を放棄させれば、皇帝は叙任権を放棄すると合意
教皇:司教職に含まれるグレゴリウス主義的観念(俗権は教権と分離できない)を放棄。
皇帝:諸財産が返還されれば司教選出から手を引く。
この合意は教権と俗権の全面的な分離を目指すもの。
皇帝使者、財産を失うドイツ司教が受け入れないと理解。
(レガリア:貨幣鋳造権、関税徴収権、護送権、鉱業権などの高権)。
5日、ハインリヒ5世(30)、ストゥリの協約を承認(ドイツの司教が同意すればとの留保条件)。
12日、サンピエトロ寺院でハインリヒ5世戴冠式。教皇パスカリス2世がストゥリ協約と同内容の特権付与状を読んでるうちに会場に動揺。ハインリヒ5世、同意の前に司教との協議を求め戴冠式中断。夕方、ハインリヒ5世、教皇の計画を拒否、教皇を捕虜として連行。
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2月17日
・バグダード暴動。
アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャブ、アレッポ民衆と共にバグダードのスルタン・モスクに乱入。イスラムを救う軍派遣を訴え。示威行動を続ける。
スルタンはモースル新総督マウドゥードにアレッポ救援を命じる。
アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャブ(市長、筆頭商人、民兵隊長)、はリドワーン王の妥協的政策を批判、スルタンに軍派遣を直訴
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月末
・アプーリア公ロゲリウス・ボルサ、没(ロベール・ギスカールと2番目の妻シゲルガイダとの子、位1085~1111)。
未成年の息子グリエルモ(ウィレルムス)、即位(位1111~1127)。1114年、教皇パスカリス2世よりアプーリア公の叙任。アプーリア公国、無政府状態となる(カープア候国と同様に封建諸侯領と都市へ分解)。
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3月4日
・円成寺、焼失。
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3月7日
・ターラント候・第2代アンティオキア公ボエモン1世(ボヘムンドゥス1世、ボヘモント)、タラントで没(ロベール・ギスカール長男、位1098~1111)。
タラント候国は未成年の息子ボエモン2世(アンティオキア候在位1126~1130)。ボヘムンドゥス1世妻コンスタンティア(コンスタンス、フランス王女)が統治(候国の分裂・崩壊を止めることが出来ず)。
アプーリア公グリエルモ(ギョーム)・アンティオキア候ボエモンド2世共に幼くノルマン人統治力なし。各地のノルマン諸侯は形式上臣従するが、独立した状態に等しく、やがて権力を求め交互に争い始める。この混乱の中で登場するのが、シチリア首都パレルモのシチリア伯ルッジェーロ2世。
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4月
・藤原宗忠、曾祖父で歌人としても名高い、道長の次男頼宗の『堀川大殿御記』の3巻を清書。
この年、父宗俊・祖父俊家の日記の清書を手掛けている。もはや個人の日記というよりも、父祖3代にわたる宗忠「家」の日記となっている。
また宗忠は、永久2年(1114)には小野宮家に伝来する「日記」41巻も購入し、他家の日記も集めようとしている。
日記を集積して、その日記を家の財産として代々奉仕していこうとする「日記の家」が、このほかにも勧修寺流藤原氏や、代々摂関家家司をつとめる平氏(院政期に『兵範記』を記した平信範などの家系)など、12世紀に入る頃には成立してくる。
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4月3日
・藤原実兼(通憲=信西の父)は、「くだん人頗(すこぶ)る才知有り。一見一聞の事も忘却せず。よつて才芸は年歯を越ゆ」(「中右記」)。
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4月11日
・ポンテ・マンモロ協約。
ポンテ・マンモロ(ティヴォリ近く)、教皇パスカリス2世、降伏条件を認め、皇帝に叙任を認める特許状を作成、1002年寄進されたトスカナ辺境伯領をハインリヒ5世に授与。
13日、ハインリヒ5世戴冠式(1081~1125、位1106~1125)。パスカリス2世、皇帝に叙任についての特許状を手渡し聖体拝領を与える。ハインリヒ5世、戴冠式直後ドイツに帰国。
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5月
・藤原宗忠、父宗俊の日記の清書を始め、日記を漉き返した料紙による経供養が1年後に行なわれる。日記の自筆原本は、供養の写経となって失われたものもあった。
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この頃
・ハインリヒ5世、ドイツ帰国。
ドイツ各地域では諸侯の離反と公然たる反抗。ザクセン諸侯、ザクセン大公ズップリンブルク家ロタール3世先頭に大反対勢力を結集。皇帝顧問として教皇との交渉の中心的役割をはたした王国官房長マインツ大司教アーダルベルト、反対派に合流。
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6月24日
・藤原宗忠『中右記』のこの日条に、
「吉日なるに依りて、大宮右大臣殿御記一巻を、消息を以て新大納言に見せ奉る所なり。件の記は相伝してこの家に在り。彼の人、年来見すべきの由示きると雖も、未だ見しめず。しかるに倩々(つらつら)この事を思ふに、一家の中この人巳(すで)に大納言に昇る。定めて知る、大臣たるに叶ふか。一家の相門を継ぐべきの人なり。この記を見ざるは、我が家のために誠に心無き事なり。仍(よ)りて今見しめ了んぬ。」
とある。
権中納言の宗忠が伝領していた祖父俊家の日記(『大右記(だいゆうき)』)を、叔父の権中納言宗通が権大納言に昇ったので、見せることにしたという。日記は家宝として嫡子に伝えられ、それ以外には見せなかったが、宗通が白河院の寵もあって権大納言に昇任し、大臣になって一門の後継者になる可能性があるとして、見せることにした。
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7月
・アレッポのリドワーン王、カーディーのイブン・アル・ハシャーブを逮捕。リドワーンはアレッポ救援軍を差し向けたスルタンの魂胆に疑心暗鬼。
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・アスカロンの民衆反乱。アスカロンに進駐するエルサレムのボードワンの軍隊、敗北。以降40年間、アスカロンはフランク支配を逃れる。
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8月7日
・ハインリヒ5世、父ハインリヒ4世の遺骸をシュパイアー大聖堂に埋葬。
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9月
・~12月、マインツ大司教・王国官房長アーダルベルトの反乱。
ザクセン大公ロタール・フォン・ズップリンブルク(36)を先頭にザクセン諸侯、大反対勢力を結集(ザクセン諸侯、個別貴族の相続問題に対するハインリヒ5世の容喙に不満)。
ザクセン大公ロタール・フォン・ズップリンブルク:
ロタール3世、ハインリヒ5世の次の皇帝、1075~1137、位1125(50)~ 1137。1111年以降、反ハインリヒ5世の指導的立場、1111年反乱。1115年反乱。1118年ハインリヒ5世のイタリア遠征中、教皇特使コノがザクセンで皇帝破門を更新。1123年ハインリヒ5世の授封を無視しマイセン辺境伯・ラウジッツ辺境伯を任命。1133年、皇帝戴冠。
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9月3日
・東大寺、興福寺の僧徒が争う。
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9月3日
・白河院の荘園政策。
「荘園記録所の上卿ならびに弁、置かるべきこと仰せらる。九月九日、蔵人弁雅兼、来たり仰せて云う、荘園記録所の上卿、奉行すべし。弁雅兼、大外記師遠、大夫史盛仲、明法博士信貞、寄人たるべし者ば、便ち左少弁に仰せ了ぬ。これ延久の例に依り仰せ下さる者。但し件の事は国司と領家と相論の時、検知すべしと云々」 」(「中右記」9月3日条)。
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10月5日
・フランドル伯ロベール2世(エルサレムのロベール)、没(位1093~1111)。
ボードワン7世、即位(位1111~1119)。
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10月5日
・後三条天皇の政策にならい、荘園の整理の徹底を目的に荘園記録所が開設。
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11月2日
・73代東大寺別当・永観(79)、没。
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11月16日
・延暦寺の悪僧を逮捕。
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11月19日
・陣定で若狭守(源俊親)が言上してきた宋人林俊来着のことを議論。早く廻却するよう定める。(「中右記」同日条)
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