ゴヤ『ホべリァーノス像』1798
一七九七年から九九年までの二年間にゴヤは、彼の友人である四人の大知識人の肖像を描いている。・・・それは、ゴドイが一時的に王と王妃の寵を失っていた二年間の、束の間のことでもあった。
まず、詩人で、しかも法律、経済から農政までの、万能のユマニストであるホベリァーノスが来る。いまこの人は司法大臣兼恩赦担当大臣である。ゴヤとは一七八〇年に同時にアカデミイ入りをした時以来の、二〇年近い交遊であり、いつも何くれとなくゴヤを庇ってくれていた人である。
このホベリァーノス氏が提案した最大の改革は、教会と貴族によって独占されていた牧畜権の悪用を防止しようとしたことであった。メスタと称されたこの牧畜権・・・、ほとんどの農民は貴族や教会の荘園での、収穫期のほんの短期間以外は失業者とならざるをえず、牧羊の邪魔になる樹木の伐採権をもち、莫大な数の羊と牛は草という草を全部根元まで食べてしまった。ここにスペインが半砂漠化したことの根本的な理由があった。
しかしホベリァーノスの革命的な提案は受けいれられなかった。・・・なぜならこのメスタこそが教会と貴族存立の経済的基盤であり、メスタは警察権をさえもっていたのであるから。
一七九八年、ゴドイが一時的に総理大臣の地位から追われたとき、ウルキーホがその地位につき、ホベリァーノスは司法大臣、サーベドラは大蔵大臣としてその地位にのこったのであったが、二人とも突然重病におち入って辞職をせざるをえなかった。ここでも毒薬説が出て来る。
ここまでが頂点であって、その後にゴドイが復活して出て来ると、これらの知識人たちの星はたちまちかげって行く。しかもその影の上に、もう一つ大きくナポレオンの影が、黒々とひろがりはじめるのである。
復活して来たゴドイによって北部大西洋岸の港町ヒホンに追放されたホベリァーノスは、・・・。ルソーの『社会契約論』の翻訳に序文を書いた・・・。これが異端審問所の好餌となって「宗教の純潔性の敵なる哲学者」ということになり、各地の牢獄をたらいまわしにされたあげく、マジョルカ島の修道院に監禁され、一八〇八年まで幽閉される。(・・・、この修道院が後にジョルジュ・サンドとショパンの愛と憎しみあいの巣となる。)
八〇八年に父カルロス四世を追放して自ら王位を奪うフェルナンド七世に釈放され、ナポレオンが入って来てからは侵略軍との戦いを組織するためにスペイン中を駆けまわり、ある場所では、愛国心がなまぬるい、とて群衆に指弾されたこともあり、最初に追放された場所のヒホンに落ち着こうとすると、そこでもフランス軍におびやかされ、小舟で逃げ出して肺炎になり、一八一一年の秋、小さな漁村で生涯を終えた・・・。
一八〇八年にナポレオンの兄ジョセフ(スペイン名ホセ一世)がスペイン王となったとき、マドリードへ呼び出されるが、・・・断ってしまった。
乱世における知識人の一肖像である。
フランスの哲学者たちによってつちかわれ、それがフランス革命へと発展して行くのを目撃し、その革命のなかからナポレオン皇帝に代表される、軍事大国が誕生して祖国を犯す・・・。
ゴヤの描いた肖像は、司法大臣という職にある人の、公式肖像とはとても思えないほどのきわめて親身なものである。それはむしろこの詩人政治家の、詩人としての資質に即したものと見受けられる。足先は、図像学的に憂愁と冥想を表象するように左右交叉していて卓上に肱をついた左手で頭を支えている。背景には、黄昏の光が差し込んでいて、それはあたかも、彼自身の「夜に」という詩に示唆をえたかのように思われるものである。
夜よ、来れ、わが友よ、汝の翼で、
わが愛と希望をかくし包んでくれ。
ゴヤはこの人に、激しい政治行動の人であってくれるな、とねがっているかに思われる。彼が左肱をついている机に施された彫刻の、動物の頭骨は、図像学上、人世の虚しさを表象するものであった。
ホベリァーノスはゴヤが王室に宮廷画家としての給料が五年間未払いになっていると請求していたことを知っていたので、この肖像画に対して六〇〇〇レアール(約一五〇〇ドル)を「お礼に」支払っている。
次に、詩人でマドリードの最高裁判所の検事総長でもあるメレンデス・パルデースの肖像が来る。
・・・この詩人法律家のそれにうつると、人はすでに時代がロマンティクのそれに入りかけていることを明らかに感得させられる。カツラをかぶらぬどころか、髪はのばし放しの、ほとんど蓬髪というべきことになり、眉の濃い顔の表情は、型通りの憂愁を通り越して憂鬱というところまで達している。
この人もまた禁制のフランス哲学の本を読んでいるということで二六時中異端審問所に追われつづけた。ホベリァーノスが下野すると同時にマドリードから追放された。フランス派、開明派であることは言うまでもなかったが、ジョセフ・ボナパルト(ホセ一世)が入って来ても、すぐには協力はしなかった。
けれども、一八〇八年の五月二日のマドリードにおける民衆蜂起の後に、状況が混乱して無政府状態となり内戦の危険さえあると見て、乗り出してアストゥーリアス地方の治安維持にあたり、そこで最初期のゲリーリァにつかまり、危く銃殺刑に処せられそうになった。
その後にマドリードへ出てホセ一世の下で教育大臣をつとめ、この人は最後までフランス人の王とその教育改革の政策に忠実であった。ホセ一世が追い出されると、フランスのモンペリエに亡命し、そこで陋巷に窮死した。
・・・
ゴヤの描いたこのいかにも憂鬱そうなパルデース像は、あたかも自身の運命を知悉しているかに思われるのである。
この人が検事総長であったとき、もっとも熱意を注いだ仕事が牢獄と狂人の囲い場の改革であり、ゴヤが多量の牢獄や狂人収容所の作品やスケッチをのこしているのは、この検事総長の視察について行ってのことであった。
ゴヤ『モラティン像』1799
彼はホセ一世によって図書、文筆一切の管理長官に任命され、・・・宮廷及び政府、民間一般の貴重な文献、原稿、文書一切を収集、整理して、今日の国立図書館、古文書館を創設したの・・・。・・・
一八一二年夏、サラマンカ近郊のアラビレスでナポレオン軍がウェリントン公の率いる英国軍に敗れ、宮廷が南に逃げ出すとモラティンもこれに従って南下し、ウェリントン公が再度ポルトガルに引くとまたマドリードに戻る。この間、二六時中ゲリーリァのスペイン人民兵たちに襲われる。ある家で食事中に、ゲリーリァが仕掛けた地雷が爆発して天井にぶっつけられたこともあった。ウェリントンが勢いを盛りかえして来ると、またまたゲリーリァにつけまわされて命からがらに南へ逃げ出し、バレンシアでは危く絞首刑に処せられかけた。ここから小舟でマルセイユへ向おうとすると、ホベリァーノスの場合同様に難破してパルセローナに上陸、またまたいじめつけられて彼は飢えて自ら死ぬことを決心する。
パルセローナ総督の干渉で釈放され、彼の芝居の一つを上演させられた上で・・・一八一八年に出国、モンペリエ経由でパリに住む。スペインでは、このとき再び大変動が起り、フェルナンド七世が立憲君主制の憲法をつくると言い出して、この反動的な王は開明派を呼び出す。そこでモラティンはまたスペインに帰る。
けれども一八二三年、王はふたたびもとの反動に戻り、いたたまれなくなってまたまた亡命、ボルドーへ。このたびはゴヤでさえがいられなくなってボルドーで再会する・・・。一八三二年、モラティンはパリで寂しく病死。このスペインのモリエールと呼ばれた人の遺体は、パリのペール・ラ・シェーズ墓地でモリエールとラ・フォンテーヌの間に埋められた。・・・
ボルドーでゴヤは六四歳になったモラティンの肖像をもう一度描く。・・・
・・・
・・・モラティンの場合、彼が異端審問所に追いかけまわされたのは、彼の芝居のなかの次のようなセリフのおかげであった。
「いったい人は(修道院で)若い娘を育てるのに、嘘をついたり、もっとも無垢な情熱を偽ってかくす術を教えたりしていいものかね?」
もう一人、ゴドイのあとを受けて総理大臣になったルイース・デ・ウルキーホがいる。
ゴヤの描いたウルキーホ氏は、いささかにやけて、どことなくエロティクな三〇歳の総理大臣であり、ゴドイのいないあいだ、この総理大臣が四七歳の醜女、王妃のマリア・ルイーサの男妾の役までつとめさせられた・・・。
ウルキーホのやった政治は、・・・オスーナ公爵と共謀してイギリス政府から金を出させ、その金でパリの総督政府を買収し、ジャコバン派を強化して混乱を起させることであった。・・・
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後暗い大金を使ってこういうことをやっていれば、そこへゴドイは必ずつけ込んで来る。一八〇一年のはじめにウルキーホは逮捕されてバンプローナの地下牢に放り込まれる。そこで彼は火も灯も、本も紙もペンもインクも与えられずに、一八カ月も暗黒のなかにいなければならなかった。引き出されて、新たにアストゥーリアス地方へ追放され、一八〇八年にカルロス四世、マリア・ルイーサ、ゴドイの三位一体が最終的にナポレオンによってスペインから追い出されるまで釈放されなかった。
そうしてジョセフ・ボナパルトがスペイン王となると、その政府の大臣をつとめるが、定石通り独立戦争後にはフランスへ亡命し、そこでフランスの市民となって生涯を終えた。
代表的な例として、四人の開明派、フランス派の知識人をあげたわけであるが、彼らのすべてはゴヤの親友であり、かつはゴヤの教導者でもあった。最後のウルキーホは、ゴヤを首席宮廷画家にしてくれた人であった。
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・・・では画家ゴヤはどうか?
もちろん時代の一大変転にあたって、王様が三度も入れ替る事態にあって安閑としていられたわけではなかった。
がしかし、首席宮廷画家という称号は、いわばパスポート、安全通行証のような役割を果すことになった。事実、ナポレオン軍に対しての独立戦争中にも、彼はこの安全通行証を手にしてナポレオン軍の軍営を通過してスペイン・ゲリーリァ軍地帯へ入ったり、またその逆を行ったりもしているのである。ナポレオン軍による一一カ月にもわたるサラゴーサ包囲戦中には、ゴヤは密命を帯びてバレンシアまで連絡に行ったりさえしている。・・・
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そうしてゴヤは、最終的には一八二六年に八〇歳の高齢にもかかわらず半亡命のかたちでボルドーへ脱出せざるをえなかったものの、彼は結局四代の王、カルロス三世、カルロス四世、ホセ一世(ジョセフ・ボナパルト)、フェルナンド七世の四人の王に画家として仕えるわけである。ホセ一世の忠誠宣誓書にも署名をしている。
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