2016年4月11日月曜日

明治38年(1905)10月 平出修「吾人の努力」(『明星』」) 漱石『猫』第6回(『ホトトギス』) 漱石『吾輩は猫である』(上篇)刊行 島村抱月氏帰朝 島崎藤村氏は小説破戒を起稿中 日本の産業界に企業合同の機運

北の丸公園 2016-04-09
*
明治38年(1905)10月
この月
・清国、兵士に新式操練実施。
*
・閣議、韓国保護権確立実行を決定。
*
・左部彦次郎(正造が深い信頼を寄せていた)、買収により栃木県の土木吏となる。
*
・平出修(24歳)「吾人の努力」(「明星」巳歳10号)
「ここに鉄火的戦争は少くも十年の休息を得たり」、と日露戦を「鉄火的戦争」ととらえ、次の戦争を10年後と予期(この予想は当たる)。
そして戦後の文壇はどうなるのかと心配する。
修の恐れるのは、

平俗文学隆盛の気運を招きて、却て真文芸の発達を阻むに到るべきことを。苟くも無常の決意と自信とある作家にあらずんば、苦難の生活に堪へて、時代に反抗すること難かるべし。

と述べ、修は戦前より戦時におよび、すでに「家庭小説料理小説」のような「似非文学」の流行を見てきたので憂える。

さらに、戦争によって与えられた教訓として、「国民自覚心の勃興を説き、日本国民は長夜の惰眠より起」きた。戦後の文壇は、この自覚に基づいて「大作出づべし」と考えると心強くなる。
しかし、自覚とは「西人更に恐るゝに足らずとの意に止まらしめば」、このような自覚は、果たして「戦後文壇の高華を招くの基となり得べや否や」、と思案する。

日露戦に勝ったことは事実だが、この勝は「鉄火的競争に於てのみ」、であるから文芸上の競争においても、また「西人恐るゝに足らずと云はば、識者は其論理の転用の妄なるに驚ろくべし」、と警告する。
修のいう自覚とは、

自らの地位を明にすと云ふの意なり。自らの力あるを知ると共に、自らの力乏しきをも知るの意なり。自ら内に省みて二千年の歴史に親しみ、外には更に大に世界の文芸思潮に触るゝの意なり。吾人之を正直に云へば、世界文学に参するの資は、未だ其甚だ乏しきを悲まざるべからず。かくて欲求起り、努力起り、健闘のみ。

と語る。
修は日露戦で初めて自覚心を与えられたのではなく、戦後の文壇に対する覚悟は、戦前と少しも変わっていない、しかし自身の戦後の覚悟を云えば、そうでなくとも「俗論俗作」の多い世に、戦後の人身の「浮薄更に一層を加へむと」するために、自分の努力がより多難になることを覚悟する意味でいう。というものである。

・漱石『猫』第6回(『ホトトギス』)
■主人が自作の「大和魂」を迷亭、寒月、東風らの前で朗読

「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」(略)
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」(略) 
「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」(略)
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエへンと云ふ声が聞こえた」(略)
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」(略)
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。(略)大和魂はそれ天狗の類か」

自分でも訳の分らないものを大和魂(大和民族の優秀性)として誇っているが、現実の日本人は「肺病やみ」のように疲れ切っている。大和魂は、「天狗の類」(架空の怪物)ではないのか。

■「送籍」について
先達ても私の友人で送籍と云ふ男が一夜といふ短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤(とく)と主意のある所を糾して見たのですが当人もそんな事は知らないよと云って取り合はないのです。全く其辺が詩人の特色かと思ひます」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云ふと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。

「送籍」は「漱石」、「一夜」は漱石の短編「一夜」(『中央公論』8月号)のこと。
漱石は北海道へ送籍して徴兵検査を免れたことがあった。
丸谷才一は、「明治二十五年度の自分の行為、送籍をこれほど深く気に病んでゐた」という。
しかし、漱石は自分の徴兵忌避を韜晦(とうかい)的に告白し、自由に生きようとして送籍した行為を誇るとともに、一方で徴兵忌避くらいで国家権力に逆らう勇気ある行動をしたと誇る自分を、迷亭に「馬鹿だよ」と言わせておとしめた、と考えられる。
*
・漱石「吾輩は猫である」第1回~5回(上篇)刊行(大倉書店・服部書店、10月6日)。
子規の友人で「日本」に漫画を描いていた中村不折に挿絵を依頼。
初版は20日で完売し、再版を出すことになる。

10月末、堺利彦はエンゲルスの肖像写真のある平民社絵葉書により愛読している旨、漱石に葉書を送る。

新刊の書籍を面白く読んだ時、其著者に一言を呈するのは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦
*
・「文壇消息」(「中央公論」10月号)
「島村抱月氏帰朝す、我文壇は氏に向つて多大の望を嘱しつつあり、而も氏の活動せんとするは文芸のいづれに於てなりや、主に作家としてなりや、又批評家としてなりや、将又、早稲田大学の教授としてなりや、吾人樗牛以後批評の如何にも寂蓼なるを嘆くもの、願はくば批評家として抱月を迎へしめよ。」
「島崎藤村氏は小説破戒を起稿中なりしか今やその八九分を書き了りたれば、多分明春発兌の運びに至るべしと。こは非常に大作の由なり」

明治35年春、島村抱月(32歳)は東京門学校の海外留学生としてヨーロッパに出発。
明治37年7月までオックスフォード大学の聴講生となり、かたわら熱心に観劇。明治36年には、観劇回数は80回に達した。当時イギリスは、演劇に活気のあった時代で、島村は、語学の稽古のため、慰安のため、伝統的ヨーロッパの芸術精神の把握のために観た。

抱月は師の坪内逍遥の影響を受けて演劇に関心を抱き、東京専門学校卒業の頃にも近松門左衛門論を書いている。
島村より1年後、明治36年から、平田禿木もオックスフォード大学に学び、2人はよく行き来して故国からの消息を伝え合っていた。

島村抱月の師の坪内逍遥は、明治35年には数え年44歳。
彼は小説述作を早くから放棄していたが、明治30年頃には「桐一葉」、「牧の方」、「沓手烏孤城落月」等の戯曲を発表していた。その後東京専門学校の機構拡大に伴い、彼の立場は次第に重くなり、早稲田中学校が設けられると実践倫理の授業を担当し、創作から遠ざかった。明治35年からは、早稲田中学校校長を兼ねていた。
明治36年、逍遥の周囲に集まっている演劇志望の弟子たちは、彼を中小に演劇運動を起そうとしていたが、逍遥は、島村抱月がいまイギリスで新しい演劇を研究しているから、彼が帰るまで事を起すのは待て、と言いふくめた。

逍遥の考えている演劇運動は、歌舞伎の技巧を土台とし、彼がシェイクスピアやヨーロッパ近代劇から学んだものによって、それを改善して新しい演劇を創始することにあった。しかし、島村抱月がイギリスにおいて演劇について理解したことは、西洋の演劇は、文化の本質に根ざしたものであり、近代人の現実生活に迫るリアリスティックな技術がなければならぬ、ということであった。演劇は文学一般と離れた特殊なものでなく、すぐれた文学者は、社会的立場において戯曲を書き、それを上演するのだ、という考であった。

明治35年には高山樗牛と正岡子規が没し、明治36年には紅葉と、代表的な歌舞伎俳優の団十郎、菊五郎の二人が没し、日本の文壇、劇壇には大きな変化が起りかけていた。

明治37年7月から、島村抱月はドイツに移って、ベルリン大学に聴講していた。この年9月、養父が、翌明治38年1月、実父が没した。
そしてこの年(明治38年)6月、彼はベルリンを出発、フランス、イタリア、イギリスを経て、9月12日に帰朝した。早稲田大学に学んでいた青年たちは、坪内の外に目ぼしい文学上の指導者がなかったので、みな島村の帰朝を待っていた。坪内もまた何かにつけて「島村が帰れば」を口にしていた。彼は、文壇の全体の期待の中に、4年間の留学を終えて帰って来た。

この年(1905)、ヨーロッパでは、自然主義文学がすでに退潮期に入っていた。フローベエルは1880年に、モーパッサンとテーヌは1893年に、ゾラは1902年に没している。そしてダヌンチオは1894年に「死の勝利」を書き、メーテルリンクが神秘的な作品によって盛名の只中にあり、アンドレ・ジイド、マルセル・プルースト、トーマス・マン等の新作家が仕事を発表しはじめていた。自然主義に代るものは、神秘的ネオ・ロマンチシズム、または象徴主義系の心理的文学であった。島村抱月は、最も新しいヨーロッパの文芸思潮として、新しいロマンチシズムを土産として日本文壇に紹介する気特で帰って来た。

島村抱月の帰朝歓迎会は、芝の紅葉館で行われた。出席者は、早稲田系の高田早苗、坪内逍遥、そこの出身者で文壇やジャーナリズムに籍を持つ後藤宙外、長谷川天渓、正宗白鳥、硯友社の広津柳浪、徳田秋声、柳川春葉、鴎外の代理として弟の三木竹二、国木田独歩、小杉天外、佐々木信綱、野口米次郎ら40余名に達した。
*
・海老名弾正「今は祈祷の時なり」(「新人」)。
政治的自由主張。海老名(の自由主義)は非戦論者とは対決しながらも、戦時下でも論敵木下尚江に教会教壇を提供するほど。
*
・伊藤證信(29)、僧籍離脱を決意。雑誌「無我の愛」(6月刊行)を全文赤字で印刷。
この年、他力主義・他利主義の無我愛を説き「無我苑」を開く。
14歳で得度、真宗大学で学びやがて清沢満之の精神主義、トルストイの人道主義の影響を受ける。
*
・東京硫酸株式会社創立。資本金25万円。
*
・三重紡績、名古屋紡績・尾張紡績を合併。
戦争の終結、日露の講和がほとんど既定の事実となった時、日本の産業界には企業合同の機運が動き出した。
明治36年末の会社数は、銀行を除いて9,218、資本総額12億5,311万余円。資本の額は小なりという能わないが、会社数の多いことは産業界がなお小党分立の形勢にあるといわざるを得ない。
現に資本額5万円以上12万円未満のもの1,183、1万円以上5万円未満のもの2,836、1万円未満のもの3,356と称せられる。
だが、平和克復後の経済界の趨勢が内は同業間の競争を排除し、外は外国資本の進出に対抗する必要上、大資本の合同と小資本の併呑に向うべきは必至であって、既に農商務大臣大浦兼武が産業の合同を勧奨している。

合同を計画している産業を特記すればおよそ左のごとく。
△紡績会社 尾張、三重、名古屋、桑名、津島、知多、一の宮の9社。中でも三重、尾張、名古屋の3会社はすでに総会で合同を決議。
△ビール会社 日本、札幌、朝日の3会社。
△石油トラスト 新潟県の石油業者はトラスト組織の協議中。
△石炭トラスト 北海道石狩炭礦の持主等は4月20日、東京に礦主会を開いて合同方法を協議するはず。
*
・大阪でペスト流行。
*
・スペイン・ビルバオでカトリック労働組合連合が結成。
*
・アンリ・マチス(36)、サロン・ドートンヌに出品。
ドラン、フリエス、マンギャン、マルケ、ピュイ、ルオー、ヴァルタ、ヴラマンクと同室に展示、「フォーヴ」と命名される。
スタイン兄弟が初めて作品「帽子の女」を購入。モンマルトル社会主義議員マルセル・サンバからの援助を受ける。パリのセーヴル通りのクーヴァン・デ・ゾワゾーにアトリエを借りる。
*
*
関連記事
夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の3) 「私の友人で送籍(そうせき)と云ふ男が・・・」

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の4) 「大和魂はそれ天狗の類(たぐひ)か」






0 件のコメント: