2026年4月30日木曜日

昭和100年記念式典〈天皇皇后両陛下をお飾りにして昭和(戦後)歌謡ではしゃぐ総理メインの茶番〉 高市早苗からの招待状には「謹啓」から始まる招待の文言が続き、最後を「敬具」で締めくくっている。拝啓-敬具、謹啓-謹白の組み合わせで使用する用語を裏方の官僚たちがわかっていない。ことあるごとに「日本の伝統」を強調する自称保守派の言語感覚などこの程度。 / 高市早苗にとってはライブ会場かカラオケスナックみたい / 曲目は戦後の曲でしかも高市早苗の生れた後の曲ばかり、つまり「サナエの青春」 / 「政府側からの要望で陛下の御言葉は式次第に入れていない」 / 「戦争の偽装者」(言い間違い) / 天皇の感想はコチラ → 両陛下「深い反省と平和守る努力大切」 昭和100年式典で感想(毎日)  

2026年4月29日水曜日

高総裁選で中傷投稿報道、首相「ネガティブ動画作成していない」と説明(朝日) / 市陣営が総裁選中に進次郎氏、林氏を“大バッシング”した疑惑…「中傷動画問題」の告発者はサナエトークン騒動のキーマンだった(集英社) / 〈高市陣営の動画作成問題(週刊文春 有料記事)〉 → (#1)高市早苗陣営が流した「進次郎は無能」動画《陣営のメンバーが実名証言》《1日100本の中傷動画を拡散》 / (#2)高市早苗陣営が作成・拡散した小泉進次郎「誹謗中傷動画」《「客寄せパンダ」「冷酷な売国計画」と批判し…》 / (#3)高市早苗陣営が作成・拡散した林芳正「誹謗中傷動画」《「林芳正アウトー!」小泉進次郎も標的に「進次郎は無能」》 / (#4) 高市早苗陣営が作成・拡散した「高市は女神」礼賛動画《“高市アゲ”ショート動画を量産》 / (#5)高市早苗陣営が作成・拡散した野党「誹謗中傷動画」《枝野幸男氏、岡田克也氏らが標的に…》 / 標的にされた岡田克也を貶める動画の例がコレ  

 

戦争でトランプファミリーに巨額利益 腐敗した文化で咲き誇る“トランプの黒い花”【報道1930】(TBS);「大統領の決定に直接影響される出来事を巡って…大きな利益を得ている」 「南北戦争以来、大統領の公的職務とこれほど重大な個人的な金融上の利益相反を抱えた大統領は存在しない」 「アメリカの腐敗した文化の中でトランプの黒い花が咲き誇っている」 

 

トランプ大統領の肖像描いた限定パスポート交付へ 建国250周年を記念 米国務省(TBS) / 「すでにパスポート更新をしておいたよかった」と喜ぶ姪のメアリ・トランプ

 

▼間違ってます!

 

大杉栄とその時代年表(813) 1908(明治41)年12月6日~9日 「僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ」(入獄中の堺利彦の妻為子宛手紙)

 


大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

1908(明治41)年

12月6日

「十二月六日。

(略)

午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。

それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行つて、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとつて歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を――。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰つた。

十二時に帰した。通りまで送つた。


十二月七日

(略)

日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。

夕方一寸平野君。

飯がすむと日本橋へ行つた。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。

共に銀坐に散歩した。奴は造花を買つた。

それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談――逸身の妾になれ、と勧めた

十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。


十二月八日

(略)

電話、昴の用で来てくれと平野君から。

二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。・・・・・

夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。

(略) 」(啄木日記)

12月7日

内閣、公文書にインキの使用を認める。

12月8日

平賀譲、6月30日英国海軍大学校造船科卒業(3年の留学修了)し、仏伊の造船所視察などのあと、この日ロンドン出港。

12月8日

(漱石)

「十二月八日(火)、昼から夜にかけて、体不調である。

十二月十日(木) (推定)、午前四時過ぎ、鏡の枕許で女中が腰を抜かし、震え声で何か叫んでいる。火事と思い飛起きると、泥棒だという。鏡と共に(推定)次の部屋に行ってみると、箪笥が開放しになっている。台所口に出てみると雨戸が外れ空には寒月が輝いている。泥棒は騒がれて中途で逃げたのである。夜が明けてから警察に届ける。刑事が来る。帯ばかり十本盗まれたと判明する。(翌年夏頃になって、鏡の帯だけが質屋から発見され、二、三年後に、犯人は市が谷監獄あたりの監視だとわかる。(鏡))」(荒正人、前掲書)


12月9日

1908年12月9日付堺利彦(赤旗事件で入獄中)の妻・為子宛書簡

(宛先は妻の為子だが、内容は娘の真柄に宛てたもの)

○真柄よ、おまえは加藤のオバさんに可愛がられて居るだらう、お前には静岡のカアちゃんだの姉さんだの、東京のカアちゃんだの、保子のオバさんだの、勝ちやんだの、延岡のオヂさんだの、大杉のオヂさんだの、可愛がつて呉れる人が沢山あるのに、今度は又加藤のオバさんだのオヂさんだのが出来たのだからホントにいゝね、それに神奈川はいゝ処でせう、体の善くなったでせう

(「静岡のカアちゃん」は堺利彦のいとこの篠田良子、「勝ちやん」は真柄の乳母で為子の弟の常太郎と結婚した延岡かつ、「延岡のオヂさん」は常太郎)


5歳の真柄を抱えていては、為子が働くのはむずかしい。そこで、しばらく加藤時次郎夫妻に預かってもらうことになった。真柄は生母の美知子が没した後、堺のいとこに預けられ、堺が為子と再婚した後に引きとられたが、また加藤家に預けられた。

赤旗事件で夫が入獄すると、為子は着物などを売って溜まっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。そこには、堺と一緒に入獄した大杉栄の妻の堀保子も同居した。

真柄を加藤家に預かってもらうと、為子は知人が編集している『鉄道時報』の広告取りをしてわずかな収入を得た。さらに、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。髪の結い方を十日くらいで教えてほしいとその髪結いに頼むが、相手にしてくれない。それでもあきらめずにじっと見ていると、とにかく客を取ってやってみればいいと勧められた。そこで、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなもので、料金は半額にした。

慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水ら同志たちもしばしば為子を見舞った。

為子によれば、有楽町平民社時代からの支援者である逸見(へんみ)斧吉・菊枝夫妻と小泉三申がさまざまな支援をし、毎月の家賃を補助してくれたという。

堺は「日本社会主義運動史話」で逸見斧吉を「先々代が大庄屋で、天明の飢饉の時、悉く其の倉廩(そうりん)を開いて窮民を賑はし、一族にも勧告して之に倣はしめ、聴かざる者には親戚の交りを絶ったといふ美談が、その孫の青年に感化を及ぼしたのであった。金鵄ミルク逸見三陽堂の主人」と紹介している。

このように健気な妻の為子に、堺は獄中から心のこもった言葉を書き送っている。身辺雑記に加え、健康状態なども為子に心配をかけないようにユーモアたっぷりに書いている。


僕は今度四十歳になるのだ、モウ若い者とは云へない、初老という言葉さへある、然し僕は卅(さんじゆう)歳になつた時、漸く少し人間らしい者になつた心地がしたが、今度は又此頃ヤツト一人前の男になつた心地がする、孔子が『三十而立(じりつ)、四十不惑(ふわく)』と云つた心持がツクヅク思ひあはされる、今後又十年もしたら孔子が『五十にして天命を知る』と云った心持が少しは味はれるかも知れぬ、こんな風に考へると人生は何時迄も登り坂だ、前途は長い、楽みは多い、お互まだ是からが本統(ほんとう)に成熟する時節なんだ、手を引合てユツクリ行かうよ、尤も成熟してドンナ色が付くものか、ドンナ味が出るものか知らぬが、大体僕は楓の紅葉よりも銀杏の黄葉を愛する、熟柿よりもカチ粟を好む、薩摩芋よりも大根を望む、それは兎もあれ何でも一ツ面白い秋の夕日に照されて見たいものだナ(中略)

○君の職業はうまく行くか、世間の批評など意に介する勿れ、只大胆に忠実に勤勉に働き玉へ

当時、獄中から出せる書簡は2ヶ月に1通に制限され、外から届く手紙も同じだった。それだけに極小文字で、可能な限り多くの情報をつめこもうとした。文面は検閲されている。為子によれば、外部から獄中へ出す手紙は、1通でさえあれば長さは問われなかったので、「日々の手紙を巻紙にして次々に長く長く書いて出した」という。

堺の獄中書簡にはどれをとっても、差し入れを希望する大量の本のリストが書かれている。洋書がほとんどで、原題が英語やドイツ語で書かれている横に、日本語に訳した書名が小さく添えられている。

堺は千葉監獄にいる間にドイツ語を習得し、フランス語の勉強にも手をつけ、読むべき本を片端から読破するという計画を立てていた。第一高等中学校を中退後、堺はずっと独学で知識を身につけてきた。彼にとっての最良の教師は書籍だった。そのため、堺は本に関してだけは贅沢することを自分に許し、丸善で高価な洋書を購入することもあった。

獄中書簡はすべて妻の為子宛だが、娘の真柄や同志たちへのメッセージも書きこまれている。この手紙を見せてほしい、と相手の名前を挙げて頼んでいる場合もあれば、伝言してほしい、と書いていることもある。2ヶ月に1度の手紙は、獄中と外の世界とを結ぶかけがえのない通信手段だった。

〈黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』より〉


12月9日

独議会、工場労働法制定、13歳未満年少者の労働禁止


つづく

2026年4月28日火曜日

1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され、日本は「独立」したとされるが、当時の人々の受け止め方は冷ややかだったようだ。矢部貞治は「独立の日章旗がはためいているが、形だけだ」と日記に書き、野上彌生子も「結局アメ一辺倒で準属国の地位がきまったに過ぎない」と記している。

 

「透明人間みたいになっていった」性被害訴えた女性検事が辞表、涙の記者会見で“生き地獄”の日々語る(弁護士ドットコム) / 北川健太郎元大阪地検検事正から性被害を受けた女性検事が第三者委員会設置を拒否され辞職へ ; 北川健太郎元大阪地検検事正から2018年に準強制性交被害を受けた女性検事が、第三者委員会の設置を検察に求めたが「応じられない」と拒否された。被害者の実名を漏洩した女性副検事は不起訴処分となり、組織による二次被害が発生した。女性検事は辞表を提出し、7年半の闘いの末に辞職を決意した。 / 被告は初公判で起訴内容を認め謝罪したが、その後無罪主張に転じた。 / この北川氏、「大阪地検検事正時代には、学校法人『森友学園』を巡る国有地売却に関する決裁文書改ざん問題の捜査を指揮し、元国税庁長官らを不起訴とした」人 

 


【泥沼】元検事正(66)に性的暴行された女性検事、辞表提出へ


・2018年、酔った女性検事に北川健太郎元検事正が「これで俺の女だ」と言いながら性的暴行

・北川元検事正は被害女性に「時効まで食事をご馳走する」などと話し、書面で「公になれば私は生きていけない。自死するしかない」と口止め。 

・北川元検事正は定年前に退官

・2024年、被害女性はPTSDと診断され検察幹部に相談、検察当局が北川被告を逮捕・起訴。北川被告は起訴事実を認める

・担当弁護士が代わり一転、北川被告は無罪を主張する方針へ

・2026年、女性検事が『第三者委員会の設置と調査の実施を求める要望書』を法務大臣宛に提出、「応じられない」との回答があったため「仕事を続けたいが環境が整わない以上は戻れない」として検察庁に辞表を提出へ


これで元検事正が無罪になったら法務省も検察も司法も闇でしかないな…

 

横浜鯉のぼり散歩 舞岡川と舞岡公園の鯉のぼり(横浜市戸塚区) イチハツ キショウブ 「きじま うお三昧」でランチ 2026-04-28

 4月28日(火)晴れ

今日は、毎年恒例の舞岡川と舞岡公園(横浜市戸塚区)の鯉のぼりを見に行った。

舞岡川の方は、正式には「舞岡鯉のぼりフェスタ」と呼ぶそうで、今年で17回だそうだ。こちらは、個体は小さいが数は多い。




▼舞岡公園

里山を公園にして、古民家を移築したり、ボランティアの方による田圃(米作)の共同運営などをやっておられる。

モミジ山もあるので、今のこの時期と秋の紅葉期によく行っている。

ここには、2ヶ所に大きな鯉のぼりが泳いでいる。



▼道すがらに見つけたイチハツ(あやめ)とキショウブ


帰りは、戸塚駅に出て、駅前の「きじま うお三昧」でランチ。



2026年4月27日月曜日

日本の武器輸出が「落ちぶれ」にほかならない理由(冷泉彰彦 ニューズウィーク日本版);<世界の民生品市場で完敗した日本の財界は、二次リーグである官需、その中でも武器輸出に頼ろうとしている>


 【日本は世界の民生品市場で完敗した】

まず武器輸出には大きなデメリットがあります。

(1)同盟国、同志国にしか売れないので市場に制約がある

(2)軍需に囲い込まれると、素材、回路、ソフト、製造方法、品質管理などといった、

https://newsweekjapan.jp/articles/-/320368?page=2

民生用でもっと大きな経済的成功の潜在能力のある技術が、機密の黒塗りの世界に入ってしまい、成長ポテンシャルが損なわれる

(3)命がかかっているので、ユーザーは自分でメンテしたがる。なので、売ったらそれでおしまい

(4)競争原理や市場の洗礼を受けにくいので、実は技術的に遅れてしまっていても気づきにくい

(5)軍需で有名になると、そのブランドが反対派や非同盟国にとっては著しくイメージが悪化し、マイナスの経済効果がある

(6)ユーザー側は極めて政治的な官需であるので、往々にしてその国の政争に巻き込まれたり、贈収賄トラブルに巻き込まれる危険がある

この中で特に重要なのは(1)(2)であり、昭和の日本はこのことを理解していたので、民生品に特化した製造業を全方位外交にもアシストしてもらって、世界を制覇することができたわけです。

では、こんなに弊害があるのに、どうして昨今は、財界や多くのメーカーの間で、軍需への期待があるのかというと、次のような理由からです。

「若い世代を中心とした世界の消費者ニーズを理解できなくなり、民生品の競争力が崩壊した」

「ロボットの高度化により、英語のできる理系人材を多数揃えないとデバイスの大量生産はできないが、教育のミスマッチのために人材を用意できない」

「先端産業が巨大化する中で、大規模な資金を集めてリスクを取れる経営がないと、半導体やAIの開発競争に加われない」

「空洞化が国内経済を破壊することを十分に理解せず、ホイホイと海外生産を展開して、気づいたら製造技術や品質管理を丸ごと盗まれた」

つまり、世界の巨大な民生品市場で完敗したので、二次リーグである官需に頼るようになり、その中でも一品一品を手作りする旧技術で何とかなり、比較的単価の高い定価販売ができる武器輸出に頼ろうとしているのです。



松尾貴史のちょっと違和感:デモへの「ごっこ遊び」発言 一般市民を見下しているのでは(毎日); 政治家の意識の劣化がひどくなっているのだろうか、それとも発言の主が劣悪なだけなのだろうか。自民党の門寛子衆院議員は今月、 戦争や改憲に反対し国会周辺で行われたデモ活動について「それで政権は変わらないですよね。なのにそういう手段をとってやった気になっている」「ごっこ遊びにしか見えないんですよ」とデモで意思表示をする市民をあざ笑うかのような発言をした。それも個人的な飲み会などではなく、インターネット番組で放ったのだ。

〈「目詰まり」はその場しのぎの言い訳だったのか〉 → 24年コメ生産「32万トン不足」、流通の目詰まり確認されず 農水省(日経);〈24年産の生産量は679万トンで、需要に対して生産が32万トン不足した計算になる。価格高騰は「流通の目詰まり」ではなく生産不足が招いた可能性が高い〉

 

大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(811) 1908(明治41)年11月14日~30日 11月25日、熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石誠之助の幸徳訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合(11月謀議)とされる。(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる) より続く

1908(明治41)年

12月

逓信省、東京の受渡線路、主要市内伝送線路に自動車の使用開始。

12月

3月11日に休業した京都府の第四十九銀行、京都商工銀行へ買収される。

12月

(漱石)

「十二月(推定) (日不詳)、新渡戸稲造に逢う。新渡戸稲造は、初めてと思っていたが、明治十六年(一八八三)成立学舎で隣席にいたことを話す。」(荒正人、前掲書)

12月

アンリ・マチス(39)、ベルリンのパウル・カッシラーの画廊の展覧会に出品、不評。『画家のノート』を『ラ・グランド・ルヴュ』誌に発表。

12月

トロツキー、「民族的心理か階級的観点か」。オーストリア社会民主党の排外主義批判(国際部責任者はロイトナー)。

12月1日

東京の数寄屋橋際に高等演芸所(有楽座)開場式。客席を全て椅子とするなど洋風劇場のさきがけ。1923年9月、関東大震災で焼失。

12月1日

改正軍隊内務書改訂(軍隊家庭主義強調)。公示。

12月1日

東京米穀、東京商品両取引所合併。(株)東京米穀商品取引所と改称。

12月1日

(漱石)

「(十二月一日(火)、『朝日新聞』二千号記念して、森田草平『煤煙』の予告する。予告の文は、白仁三郎(坂元雪鳥)が書く。)

(十二月二日(水)、鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、夏目先生よりは相變らず父のやうにして貰ふ」とある。中村蓊(古峡)『回想』完結する。)

十二月三日(木)、午前六時頃、伝通院失火、本堂全焼する。

十二月初め、『文學評論』の訂正完了する。訂正に熱中していた時、頭痺れるように疲れる。

十二月初め (日不詳)、エィ、腸チフスよくなり、看護婦を帰す。

(十二月上旬 (日不詳)、森田草平、平塚明子宛手紙で、夏目漱石の紹介で明治四十二年元旦から、『煤煙』掲載されると伝える。)

(上田敏(本郷区西片町十番地)の許に、石川啄木・吉井勇・平野万里・栗山茂ら訪ねる。)」(荒正人、前掲書)

12月1日

釧路の小奴、逸見豊之輔と上京、啄木を蓋平館に訪ねる。

啄木、この月、平野万里と「スバル」創刊号の準備にあたる。誌名は森鴎外の意見による。


「十二月一日

遂に今年も十二月となつた。

一昨日原稿がおそかつたので、今朝は新聞の小説休載。

“赤痢”また稿を改めて書き出した。それで一日は短かく暮れた。

六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思つて行つて見ると、俥夫が門口に立つてゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。

“釧路から来たものだと言つてくれ。”

といふ女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立つてるではないか!

“ヤア!”

と言つたきり、暫くは二の句をつげなかつた。俥を返して入つた。

或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサツパリ解らなかつた。

釧路の変動をきいた。小奴は、予が立つて以来、ウント暴れたといふ。日景が予の悪口をいひ、毎日の様に小奴のことを新聞に出したといふ。市子は鹿島屋を出て、家から通つてるといふ。市子と親しくしてるといふ。

予に嘗てエハガキを寄こした時は、福本といふ人に頼んで住所を探つて貰つたのだといふ。

散歩しようと言つて二人出た。本郷の通りで予が莨を買つてる間に一寸見えなくなつた。“狐だ!”と予は実際思つた。二十間許り彼方に待つてゐた。

それから三丁目から上野まで、不忍池の畔を手をとつて歩いた。ステーシヨン前から電車、浅草に行つてソバ屋に上つた。二本の銚子に予はスツカリ――釧路を去つて以来初めての位――酔つた。九時半、そこを出て、再び手をとり合つて十町許りもあるいた。

予の心は淘とした!

唯、淘とした!

上野から電車、宿屋まで送つてまた電車で帰つた。羽織の紐の環を一つ残した程酔つた。別れる時キツスした。

(略)」(啄木日記)


12月1日

新宮の医師大石誠之助、幸徳を訪問後、京都に一泊し、11月29日、大阪着。常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿。

12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(えいいちろう、会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、実は司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。


帰郷後、大石は、翌明治42年1月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺の留守居僧、臨済宗妙心寺派、崎久保誓一の4人が参加した。この新年会も謀議の教宣の場とされる。


大逆事件は「三つの事実」を強引に一つの事件として関連づけ、社会主義者による天皇殺害計画としてフレームアップしたものだった。

その「三つの事実」の第一は、宮下らが天皇への爆裂弾テロを計画したこと、第二はこの年11月に上京した大石誠之助が巣鴨平民社を訪れて、秋水と森近運平と3人で会談したこと、第三は過激な秘密パンフレットを作成した内山愚童が、関西の同志たちを訪ね歩いたことである。

12月2日

清国の光緒帝(11月14日)と西大后の死去(11月15日)を受け、光緒帝の甥溥儀(3)、宣統帝として即位。父醇親王載灃、摂政。


12月2日

「十二月二日

(七)の三。

昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大阪炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某――小奴は予の後に座つてゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰つた。

(略)

夜、アテにならぬ約にほだされて、殆んど何も手につかなかつた!

予の心の平和は撹乱された。ああ、この日終日顔が上気してゐた。そして、何となく落付かなかつた。

九時頃遂に堪へがたくなつて一人出て、パラダイスで麦酒を一本のんで、赤くなつて来て寝た。

(略)


十二月三日

八時頃目がさめた。宮崎君から久振の手紙。

(八)の一。

“赤痢”をかいてると、一時頃平野君が来た。今日は平出君の宅に“昴”の談話会

一緒に出て、予一人千駄ヶ谷に行つた。吉井君がゐ合せた。与謝野氏とは一ケ月ぶり。ヒゲを生してゐる。

二時間許り楽しく話して帰つた。平出君の宅には、石井柏亭君、(一字欠)君、太田君、北原君、平野君、あとで吉井君も来た。予は六時に辞して帰つた。何のため?

昨夜の気持をくり返した! 金田一君の室に行つたため、外出はしなかつたが、十一時すぎまでゐた。

(略)


十二月四日

午前六時半平野君が昴の原稿催促に来たがまだ出来てゐない。すぐ起きて寒さにふるへながら“赤痢”の稿をついだ。午後一時までで一行隔四十枚煙草も忘れて執筆、脱稿。すぐ車夫に持たして平出君宅まで届けた。

それから八の二。書き終るところへ太田君が来た。

太田君と小奴の話をした。

今日は実に満足な日であつた。・・・・・」(啄木日記)

12月2日

満州借款と清米独同盟交渉の訪米使節として訪米(11月30日)した奉天巡撫唐紹儀、大統領と会見。

12月4日

ロンドン海事会議開催。強大な海軍を保有する10ヵ国、参加。海戦法規に関する協定。批准に至らず。

12月5日

鉄道院官制公布。総裁後藤新平、内閣に直属、帝国鉄道庁、逓信省鉄道局、廃止。


つづく


2026年4月26日日曜日

NHK、4月8日国会前デモ放送を直前差し替え 現場困惑の真相 ; 4月8日夜、高市早苗首相の憲法改正反対デモをNHKが「ニュースウオッチ9」で予定通り放送するはずが、直前に別の話題に変更。NHKは「政治的公平性を考慮した判断」と説明する一方、現場は困惑し、朝日新聞のコラムで透明性の欠如が指摘されました。Xでは自民党大会の歌唱シーンを長く報じた点を挙げ「二重基準」との声が相次ぎ、公共放送の報道姿勢に疑問が集中しています。こうした判断の不透明さが、国民の声と公共放送の役割を改めて問う議論を呼んでいます。

高市首相の夫介護エピソードに矛盾指摘、SNSで批判集中 ; 高市首相は夫の脳梗塞後、帰宅後の掃除や入浴介助、朝4時起きの家事負担を週刊現代などで公表し、同情を集めていました。しかし、2026年2月の夫・山本拓氏の同誌インタビューでは「自分でシャワー入れ、レトルト食品で食う」と述べ、介助不要を示唆。これがSNSで掘り起こされ、「虚言癖」「家事もしていない」との批判が相次ぎ、介護士からも非現実的との声が上がっています。4月25日の首相動静は終日公邸で、擁護は少数ながら議論は続いています。 / 「背負って」「入浴介助」? / 公邸では出前もとれないって言ってたけど、、、 

 

アメリカで飢饉?そんなのありえないと思っているかもしれない。だが私は弁護士であり、小規模農家として警告する。現実に、肥料価格はCOVID禍で1トン350ドルから1400ドルに跳ね上がった。そして今、ホルムズ海峡の緊張で再び同じ状況が起きようとしている。しかも 農家の経営余力は以前よりさらに弱っている。、、、、、


 アメリカで飢饉?そんなのありえないと思っているかもしれない。だが私は弁護士であり、小規模農家として警告する。現実に、肥料価格はCOVID禍で1トン350ドルから1400ドルに跳ね上がった。そして今、ホルムズ海峡の緊張で再び同じ状況が起きようとしている。しかも 農家の経営余力は以前よりさらに弱っている。

私たちが気づいていないのは、食料があまりに安く、便利になった代償だ。70年前、ほとんどの家庭に家庭菜園があった。しかし今や、アメリカの高校卒業生の半数は卵の茹で方すら知らない。10%の人はチョコレートミルクが茶色い牛から来ると信じている。私たちは基本の知識すら失い、輸入依存を深めてきた。

抗生物質の90%を中国からの輸入に頼っている。有機認証食品の40%は海外産で、ラベルと実態が伴わないケースも多い。約8社の巨大企業が食料を支配し、その多くは世界経済フォーラムに席を置く。彼らの計画は明らかだ。「所有せず、幸せに暮らせ」— 電子通貨と社会的クレジットであなたの食事が決まる未来。バーガーは昆虫になり、牛は動物園に追いやられる。

問題は価格高騰だけではない。これは支配の構造だ。一部の州では裏庭で鶏を飼うことすら法律で禁じられている。農民を「ペザント(小作人)」呼ばわりし、化学肥料とGMOに依存する中央集権モデルへ一本化しようとしている。彼らは「気候変動を救う」と語るが、実際には土壌の微生物を殺し、地下水を枯渇させ、慢性的な病気を量産している。

しかし希望もある。若い世代を中心に「自分で育てる」動きが再燃している。MAHA運動のように、共和党も民主党も超えて健全な食を求める連帯が生まれている。私がバーモント州で見る若者たちは、何かがおかしいと気づいている。彼らはuberの運転手でさえ「フタル酸エステル」や「マイクロプラスチック」を知っている時代だと語る。

結論を言おう。次の食料危機を乗り切るカギは「備蓄」でも「パニック買い」でもない。裏庭にニンジンの種をまくことだ——たったそれだけで、スーパーのニンジンより10倍の栄養を摂取できる。化学肥料を使わず、土の中の微生物を育てる。それは同時に、「誰かが決めた価格」や「誰かが管理する流通網」から抜け出す最初の一歩だ。

問題は「食料が足りなくなること」ではない。問題は「誰に生産を委ね、誰に分配を任せるか」という主権の放棄そのものだったことに、私たちがやっと気づき始めたことだ。あなたの次の夕食は、誰の手で、誰のために作られているのか。

Sarah Westall(ジャーナスト/インタビュアー)、John Klar(小規模牧場主、弁護士、MAHAアドバイザー)『Food Crisis Is Coming | MAHA’s John Klar』(「来るべき食料危機|MAHAのジョン・クラー」)

https://sarahwestall.substack.com/p/food-crisis-is-coming-mahas-john


米国産原油タンカー、東京湾に初到着 ホルムズ封鎖下で ; タンカー「OTIS」はテキサス産約91万バレルの原油を積み、コスモ石油の千葉製油所へ。3月22日出港、パナマ運河経由で通常55日のところ35日で到着した。高市早苗首相は5月以降の代替調達拡大を強調し、米国やメキコなどからの輸入を急ぐ方針だ。一方、量が国内消費の0.3日分に過ぎないとの指摘もあり、多角化の第一歩として注目を集めている。

 

〈日程、物量などの提示はなく、「もうちょっと先」の「まもなく」、「心配しなくていい情報」が出る「かと思っている」、とのこと〉 → 高市首相「心配しなくていい情報をお伝えできる」 ナフサ不足で(毎日);「もうちょっと先になりますけれども、まもなくそんなに心配していただかなくてもいい情報もお伝えできるかと思っている」 / ナフサ不足「このままでは6月に詰む」と公言した識者が真意を明かす 政権が反論や対策アピールしても現状は(東京);◆「いまでは『詰む』という表現では甘かったと思っている」 / 高市首相と小泉防衛相は、5月の大型連休の外遊で「殺傷武器輸出」のトップセールスを行って中東には他の閣僚含め誰一人行かないとのこと。 / (現実世界は大混乱。ほんの一例 → )オタフクソース、業務用商品の一部販売休止 ナフサの供給不安受け(朝日) / 中東情勢悪化で…トヨタ4工場の5ラインを一時停止へ 「カムリ」「ランドクルーザー」など生産の工場     

 



 建設現場や工場でナフサ不足が発生し、在庫切れや新規受注停止、値上げの動きが広がっている。報道番組で識者が6月に供給が詰まると発言したのに対し、高市総理率いる政権側と赤沢経済産業大臣は必要な量を確保し目詰まりが解消されたと反論した。日本塗装工業会は政府発表と現場のサプライチェーンに大きな乖離があると指摘している。


 

 

▼13分間の会議でした!

 

 

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〈以下、ランダムな情報〉

 

2026年4月25日土曜日

大船フラワーセンター 青藤見頃 白藤はまだこれから 白モッコウバラはピークに近い 黄モッコウバラは5分咲き以下 牡丹がほぼ終り 芍薬がたくさん咲いている ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ) イチハツ キンセンカ アグロステンマ バンダ 2026-04-25

 4月25日(土)晴れ

▼大船フラワーセンターの藤(青)が見頃。一部、花弁が散り始めている。



▼白色の藤はまだこれからどんどん花をつけるように見受けられる


▼モッコウバラ(白)はピークに近づきつつある感じ



▼黄色のモッコウバラはまだ5分咲き以下

▼その他のバラもまだまだこれからの感じ


▼牡丹がほぼ終わって、いま芍薬がたくさん咲き始めている



▼ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)


▼イチハツ

▼キンセンカ

▼アグロステンマ(ムギセンノウ)

▼バンダ 温室内


2026年4月24日金曜日

みなとみらい、インターコンチネンタルホテルにあるフランス料理「アジュール」でランチ 2026-04-24

 4月24日(金)曇り

今日は久しぶりに外でランチ。

みなとみらい、インターコンチネンタルホテルにあるフランス料理「アジュール」で。

特に、和牛フィレ肉のグリルは、柔らかくて、メチャうまだった。

帰りは、いつもは横浜駅まで歩くのだが、外が曇り空で意外と涼しく散歩なしで電車で帰った。









「AIを使えば全員同じになる」 羽生善治九段が語るAI時代の差別化と意思決定 ; AIによる最適解が戦略の均質化を招く中、羽生善治九段は、あえて評価の低い手を選ぶことにこそ差別化の核があると説く。数字に翻弄されず、一貫性を持って決断し、責任を負う。AI時代における人間ならではの意思決定と真の個性の在り方とは。 2026年04月23日 07時00分 公開 [末岡洋子,ITmedia]


〈全文〉

 羽生さんの言語化力は相変わらず傑出している。研究にも通じる金言多数。


『差別化やオリジナリティーを出すということは、AI評価においてマイナスの手を意図的に選ぶことを意味する。AIの評価が低いことをどこまで許容するか。羽生氏は「マイナス500点だとちょっと受け入れられないけど、マイナス200点ぐらいならいいかな」と話す。その線引きに個性が生まれるのかもしれない。』

『自分が指したい将棋というものもある。攻撃的な将棋を指したいといった自分のスタイルを、いくらAIの評価が低くても、それはそれで貫いて指していくことも大事だと思います』

『AIの評価値は人間の目から見ると楽観的すぎるのです。AIが90%有利と出していても、人間の感覚では五分みたいなものがいくらでもある。(AIには)不安とか恐怖心が全くないので』

『人間はこれまで積み上げてきた美意識や美学、こだわりの中から手を選んでいるので、見にくい手、生理的に受け付けない手、違和感のある手を選ばない傾向がある。もしかするとそこに本当の宝の山があるかもしれない』

『その瞬間その瞬間で評判の高いことをやっていくのは選択肢として悪くないですが、10回、20回の選択の連続で見ると、一貫性がなく何を考えているのか分からないということになりかねない。過去から現在に至るまでを総括して、どういう方針や選択ができていたかを振り返り、それを基に次に何をやるかを考えていく。首尾一貫していることも一つの基準になります』

『AIを活用するというと、面倒なことを代わりにやってもらうケースが多い。人間の才能や能力、ポテンシャルを伸ばすという使い方はあまりされていない。教育や才能を伸ばす方向にも活用していけたら、すごく可能性があるんじゃないか』

大杉栄とその時代年表(811) 1908(明治41)年11月14日~30日 11月25日、熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石誠之助の幸徳訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合(11月謀議)とされる。(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる)

 

松尾卯一太

大杉栄とその時代年表(810) 1908(明治41)年11月5日~13日 「この母の死を期として、故郷の一家ついに離散。二児の養育費として、少許(すこしばかり)の書画珍奇をのこすのみ。前田一家のこの悲運にかてて加えて、宮崎滔天又支那革命成らず、貧窮の極に達す。姉卓子の帰国中、幼少利鎌等の教育費にあつべかりしそれらの珍器を吉原角海老楼に質入れして、わずかに運動の資金に代うる等の悲惨事あり」(前田利鎌の年譜)

1908(明治41)年

11月14日

[光緒34年10月21日]西大后が擁立した清の皇帝の光緒帝(38)、急死(西大后の死の1日前)

溥儀(3)、即位。翌年より宣統と改元し、溥儀の父載豊、摂政王となる。

11月14日

物理学者のアルバート・アインシュタイン、光の量子理論を発表。

11月14日

キューバで選挙、自由党のホセ・ゴメス、大統領に当選。

11月15日

西太后(74)、没。

11月15日

京都岡崎町桜ノ馬場で全国第1回慈善自転車大競技会開催(主催平安徳義会)。

11月15日

ダライ・ラマ、北京訪問。

11月15日

「新フランス評論」創刊

11月15日

ベルギー領コンゴ、議会承認(10月18日)を経て正式に併合される。

11月16日

東京市立日比谷図書館、閲覧開始。

11月16日

内閣、競馬規程公布。競馬会以外による競馬開催を禁止。

11月19日

安慶事件。革命家熊成基、安徽省安慶に新軍を動員、蜂起。

20日、清軍に制圧。

11月19日

「十一月十九日

十時起床、風邪はよほど好い。すぐ(四)の八に筆をとつた。間嶋君から電話で、予ての歌を直してくれと言つて来た。

昼飯をすごして、一時頃平野君から電話、吉井君が来てるから来ないかといふ。一時間後にゆく約束をして、小説をかいて了つて二時半出かけた。上田氏の宅に行つてゐるといふ。行くと平野吉井に栗山の三君がゐた。上田氏は仏蘭西の話をされた。面白かつた。二十三日に立つて京都にゆくといふ。アナトール・フランスの小説の梗概二つ三つきいた。

黄昏に帰つた。毎日社から電話。

急に思ついて、俥で北原君を訪うた。留守。弟君が時計を質に入れて二円五十銭かしてくれた。九時辞して、帰途額と画五枚と原稿紙をかつた。紙屋の店にアノ女――夏に吉井君と二人で人形をかつた時の女に似た女!」(啄木日記)


11月19日

新宮の医師大石誠之助、この日~23日迄、平民社滞在(10日頃、上京し医療器具・書籍など購入)。

22日「大石誠之助君を歓迎する集い」開催。新村忠雄は初めて大石と会う。26日、帰郷。

後の大逆事件裁判では、天皇暗殺の共同謀議とされる(幸徳・大石二人きりで、身を捨てて働く者が50人もいれば、二重橋に迫り錦旗革命のようなものができるとの「革命ばなし」をする)。

27日、京都着。2日間滞在。歯科医山路二郎のところで歯に治療をする。宿舎柊屋に「日の出新聞」記者徳美松太郎が訪問、東京の土産話で「革命ばなし」をする。

29日、大阪着。常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿。

12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(えいいちろう、会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでる。(大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる)

帰郷後、大石は、翌明治42年1月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺の留守居僧、臨済宗妙心寺派、崎久保誓一の4人が参加した。この新年会も謀議の教宣の場とされる


明治43年6月8日、東京地方裁判所での予審判事・潮恒太郎による大石への第1回尋問ではこうなっている(冒頭要旨)

問 幸徳も無政府主義を主張しているか。

答 さようです。

問 幸徳は、どんな方法でその主義を実行しようというのか。

答 四十一年十一月中私が上京したとき、巣鴨の平民社に二回幸徳を訪ねました。最初行ったときいろいろ主義のことについて話しましたが、そのとき幸徳は日本でもロシアやフランスのように暴力の革命が必要であると申しました。その後二、三日たってまた幸徳を訪ねましたとき、同人はフランスのコムミユンの話をしまして、決死の士が五十人ばかりあれば、これに爆裂弾その他の武器を与え、裁判所や監獄、市役所やその他の官庁、さらに富豪の米庫を破壊し、暴力によって社会の勢力を占領すれば、革命の目的にとって非常に利益であると申しました。


各地の社会主義新聞は発行禁止処分を受け、「赤旗事件」から間なしで、桂政権による思想弾圧が一段と厳しくなっていたころである。秋水と大石の間で閉塞状況を何とか打破したい、打破しなければという話が出た。しかし、それらは、雑談や放談の域を出ず、何かを企てたり、具体的な行動計画を練ったというものではない。

11月19日

第13回日本興行銀行債券100万ポンド、ロンドンで発行。韓国政府への借款供与のため。23日、パリでも同額発行。

11月20日

(漱石)

「十一月二十日(金)、上田敏、帰朝の挨拶に来る。国木田独歩の作品は、自然そのままでなく、こしらえたものだと主張する。初め上田敏は、反対したけれども後に同意する。この頃、小春日和続く。


十一月七日(土)から十一月二十二日(日)まで快晴続く。明治十四年から大正五年までの間の、最長快晴記録である。


十一月二十二日(日)、鈴木三重吉 (千葉県成田町吾妻屋)宛手紙に、「先日御能を久し振りにて拝見中々退屈のものにて候。其時秋聲君に紹介され候。」と書く。


徳田秋声は「九段の夜能を見たのであるが、ちやうど夏目漱石氏も別の桝へ来てゐて、(中略)後にも先にもその時きりだが」(「四名家第一印象」昭和十三年六月二日『東京日日新聞』)と書いている。十一月三日のことと思う。


十一月二十四日 (火)、二十四日会(朝日新聞社編集首脳定例会議) に初めて出席する。」(荒正人、前掲書)

11月21日

三省堂、『日本百科大辞典』(~1919年4月26日、10巻)。

11月21日

「十一月二十一日

今日は大掃除、そこそこに(四)の十を書いて了つて、午后久振に千駄ヶ谷に行つた。主人はまだ旅より帰らず、晶子さんが、小供らに取まかれてゐた。聞けば、今月の初め二日間許り、右の半身が半分不随になつたさうな。医者は脳の過労のためだと言つたさうな。予は悲しかつた。

明星の百号千部のうち二百部売残つたため、女史が今かいてゐる小説“不覚”五十回分だけ万朝報社に持つて行つて金を貰ひ、印刷の方など払つたといふ。予は悲しくなつた。

三時半に帰つて来た。

明日三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会が大隈伯邸に催される。行かぬかと金田一君がいふ。

それで平野君へ行つて同行を約し、追分日本館に藤岡玉骨君を訪ね、三円借りた。京都の舞姫から貰つたといふ、金地に井菱の舞扇を貰つて九時辞した。それから俥で四丁目、電車で塔下の苑…………

十二時、四丁目から苦学生の俥、二十銭くれた。

この日、久振に函館の岩崎君から手紙。ノロケてよこした。悲しくも。


十一月二十二日

日曜日。

大急ぎで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に入つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君、岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の模擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。

上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。

上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵らへた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈があるらしいと言つた。

ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスピーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。

六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝いてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。

門――今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再び入ることがあるまいと言つて笑つた。実際――恐らくは実際さうであらう。

帰りに四丁目の縁日を見、シヤツや刻煙草をかつて来た。湯に入つた。大分つかれてゐた。

“昴”に出すべき“赤痢”を書き出した。・・・・・

(略)」(啄木日記)


11月22日

第1回日米野球

11月22日

ハンガリー、急進派青年によるガリレイ・サークル結成。

11月23日

第13回日本興行銀行債券100万ポンド、ロンドン(19日)に続いてパリでも同額で発行。

11月25日

熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石の訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合とされる

(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる)

11月25日

倉敷紡績(株)、吉備紡績(株)の買収を株式総会で決議。

11月26

森近運平、巣鴨平民社を出て、小石川区水道橋に部屋を借り、郷里から妻子を呼び寄せる。

11月28

内務省、神道所管天理教会を分離し天理教と称し一派独立を許可。

11月28日

東京俳優養成所が開所。

11月29日

(漱石)

「十一月二十九日(日)、午前または午後、森田草平来る。対話後、『煤煙』の原稿を書き直していると云って急いで帰る。小宮豊隆宛葉書に、「今日は難有候ダヌンチオあらば買っていたゞき度候、紅葉狩は郵便で送り候」と書く。夜、渋川柳次郎(玄耳)来て、森田草平の『煤煙』について相談する。

十一月三十日(月)、午前、渋川柳次郎(玄耳)宛手紙に、森田草平の『煤煙』見本が届いたのでご覧に入れる、その上で決定していただきたいと伝える。『煤煙』の掲載決定する。二千号(十二月一日(火))に予告する。森田草平に知らせるため、白仁三郎(坂元雪鳥)と共に二度訪ねたが、二度とも留守で会えない。夜、森田草平宛手紙に、「書直すひま惜しとて帰りながら二度行つても居らず。何所をあるいて居るにや。あまり呑気にすると向後も屹度好い事なき事受合に候。」と結ぶ。」(荒正人、前掲書)

11月30日

太平洋方面に関し日米交換公文(高平・ルート協定)調印。太平洋方面における現状維持と清国の領土保全、商業上の機会均等主義を確認。中国の門戸開放を約束。12月2日公示。

11月30日

「十一月三十日

おそく起きた。

平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!

スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円――最初の原稿料、上京以来初めての収入――を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victim を返してかへる。

異様な感じにうたれた。

九時頃から金田一君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。」(啄木日記)


つづく