2016年11月3日木曜日

明治39年(1906)4月 夏目漱石『猫』(第10回)・『坊ちゃん』発表 添田唖蝉坊の登場 徳富蘆花、トルストイ訪問の旅 啄木、小学校代用教員となる サンフランシスコ大地震 秋水、無政府主義のヒントを得る 「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た」 田中正造「土地兼併の罪悪」 桜井忠温「肉弾」    


The Great San Francisco Earthquake: Photographs From 110 Years Ago
ALAN TAYLOR APR 11, 2016 40 PHOTOS IN FOCUS
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明治39年(1906)
4月
・三井物産会社、三泰紡織有限公司設立。
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・海老名弾正「国民の洗礼」(「新人」)。国家至上主義。
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・漱石『猫』第10回
■招魂社(靖国神社)へお嫁に行きたいと言い出す主人の三人の娘(とん子、すん子、坊ば)
「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしやうかと思ってるの」・・・
「御ねえ様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きませう。ね?いや?いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまふわ」
「坊ばも行くの」と遂には坊ばさん迄が招魂社へ嫁に行く事になった。斯様(かよう)に三人が顔を揃へて招魂社へ嫁に行けたら、主人も嘸(さぞ)楽であらう。

恐らく、この娘たちは、招魂社には(戦死した)偉い人、大事な人が祀られていると言われていたのであろう。だから、自分たちはそういう人の花嫁になろう、一身を捧げようと言い出したのだろう。
漱石は、たわいない子供の会話の中に、日本政府が戦死者を美化し神としてほめたたえることによって、兵士たちの死の恐怖や戦死者の恨みや遺族の悲しみなどを鎮め、戦争を継続するために利用した靖国神社の役割を鋭くとらえている。
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・漱石「坊っちやん」(「ホトトギス」)    
■小説の結末;
 「其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、屋賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくつても至極満足の様子であつたが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んで仕舞った。・・・」

 「この小説は主人公の無鉄砲な行動力と勧善懲悪の倫理性に支えられて明るい。けれど、つけ加えられたような結末は一転してほの暗い。淋しい印象は婆やの死から発しているのはむろんだが、校長狸が「一月立つか立たないのに」と驚くほど、短期間に職を離れた坊っちゃんが、人を頼って街鉄の技手になったことにも起因していると思える。」

 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。

 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

街鉄は「東京市街鉄道株式会社」のことで、技手は技師の下に属する。月給は25円。辞した中学教師の月給は40円なので、読者は妨っちゃんの新しい職と月収を知って、彼の零落を悟った。

■『坊ちゃん』に挿まれている金にまつわる話;
 坊ちゃんは父母の没後、兄から600円を渡され、「是を資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使ふがいゝ、其代りあとは構はない」といわれる。彼は600円を200円ずつ使って3年間勉強しようと物理学校に入学する。その後、就職先の四国まで、学資の余り30円ほどをもって行き、「汽車と汽船の切符代と雑費」で16円ほどを使う。
宿代に少し見得を張り5円。団子2皿7銭。温泉の入浴料金8銭、氷水1銭5厘。教頭赤シャツの下宿は立派な玄関構えの家でありながら、家賃は9円50銭。「田舎へ来て九円五十銭払へばこんな家へ這入れるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやらうと思つた位な玄関だ」とある。

■教育体系の問題
主人公坊っちゃんは、文中の記述から判断すると、明治15年4月か5月の生まれ。
明治29年に母が亡くなり、明治30年春、兄は高等商業学校に、彼自身は中学校に入学する。いずれも5年制。明治35年正月に父が没し、その年兄弟共に学校を卒業する。兄は就職し実業家の途を進む。彼は7月頃、偶然通りかかった物理学校で生徒募集の広告を見て入学。明治38年9月頃、四国の中学に数学教師として赴任する。

もし清の思い通り、官吏になることを希んだのなら、坊っちゃんは中学卒業時点で、専門学校であろうと法律学校へ進むべきであった。このときから彼は清が思い描いた「将来立身出世して立派なものになる」コースから外れる。
それでも物理学校卒はかなりの高学歴である。専門学校は坊ちゃんが卒業した時点では、まだ公私併せて50校ほどしかなかった。

■学歴社会;
坊っちゃんが辞めるきっかけとなる、中学校生徒と師範学校生徒との「衝突」;
坊っちゃんは 「中学と師範とはどこの県下でも犬と猿の様に仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、丸で気風が合はない」と考えるが、師範学校と中学校とでは求める人材が異なる。
師範学校は、卒業後10年間地元で教職に就くことが義務づけられている代わりに、学費は地方税によってまかなわれた。師範学校生徒は貧しい家庭の子弟が多く、上級学校へ進学する途は開かれていない。
逆に中学校生徒は学費は払わねはならず、資格を得ることもないが、より高い学業への途が残されていた。
各地の師範学校と中学校の生徒とが反目する原因は学歴の差にあった。
学歴によって将来の身分が定まる学歴社会である。
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・添田唖蝉坊の登場
この年の春、荒畑寒村は堺家に居候して『光』『家庭雑誌』『社会主義研究』などの編集を手伝っていた(『うめ草すて石』)。その頃、世間でラッパ節という俗謡が流行っていたので、『光』でも社会党ラッパ節を募ったところ、多くの投書が集まったので面白いものを誌上に載せた。すると、ある日、「長髪白皙の美じょうぶ」が訪ねて来て堺に面会を求めた。
寒村は、どこかで見たような男だと思いながら堺に取り次いだ。男は添田唖蝉坊と名乗り、社会党ラッパ節を版に刷って売ることを許可してほしいという。もちろん堺に異議があるはずがない。その会話を聞いていた寒村は「この男だ、横浜の遊廓へ毎晩のように歌の呼び売りに来たのは」と思い出したという。娼妓たちが美声に聞き惚れていた壮士こそ、堺を訪ねてきた唖蝉坊だった。

その後、唖蝉坊の妻のタケも社会主義運動に加わり、堺の妻の為子と一緒に電車賃値上げ反対のビラをまいて警官に検束されたり、西川光二郎の妻の文子らと婦人演説会を開催している。
添田唖蝉坊が1916(大正5)年に出した『唖蝉坊新流行歌集』の序文は、堺利彦が書いている。
添田唖蝉坊の流行歌は、諷刺が利いていて思わずニヤリとせずにはいられないものが多い。「ア、ノンキだね」とくり返す大正時代の「ノンキ節」も広く知られているが1907年につくられた「あゝ金の世」など、現代の日本を皮肉った歌のようにも思えてくる。

堺の2歳年下の唖蝉坊は、横須賀で働いていたときに壮士節を聴いて感激し、各地を放浪しながら壮士節を歌うようになった。条約改正、廃娼問題、選挙干渉など政治に関する話題を歌にし、歌詞を印刷した冊子を売って日銭を得た。彼が通りに立って歌い始めると、黒山のような人だかりになったという。

1941(昭和16)年出版の『唖蝉坊流生記』には、時節柄、社会主義者との交友についてはあまり書かれていない。同書で唖蝉坊は堺との出会いを次のように述べている。
私は堺枯川を元園町に訪ねた。敬ふ気持ちがあつたが、着流しに兵児帯を無雑作に巻きつけて、「わたし、堺です」と出て来た、そのはじめての印象がよかつた。其の時堺氏は「家庭雑誌」をやってゐたが、一方新聞に、ラッパ節の替唄を募集したのが恩はしくないので、私のを入れたいといふのであった。私はラッパ節を新作した。社会主義喇叭節と題したら、社会党喇叭節の方がいゝといふので、私は党といふ字が嫌だつたが、それに従った。
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・三井物産会社、三泰紡織有限公司設立。
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・足尾で日本鉱山労働会結成。
この頃、足尾銅山の長岡鶴造の労働至誠会に長岡の同志南助松が夕張炭坑から移り運動は活況を呈す。
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・大阪・天満・金巾・三重・岡山の5紡績会社により、日本綿布輸出組合設立。満州市場への綿布輸出組合。1912年解散。
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・富士製紙、富士工場改造。資本金460万円に増加。
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・報徳会設立。
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・露、フランス銀行家、フランス政府後援のもと22億5千万フラン借款を露ツァーリ政府に供与。
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・露、第1回選挙でカデットが多数党に。
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・ロシア社会民主労働党第4回統一大会(ストックホルム大会)。トロツキーは獄中にあり欠席。後、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキは再分裂。
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・アンリ・マチス(37)、G.スタイン宅でピカソと会う。
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上旬
・荒畑寒村、田辺より大阪・奈良・京都で遊び帰京。
堺家に寄食し、「光」編集発行手伝い、「社会主義研究」「家庭雑誌」の雑務。夜は正則英語学校通い。
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4月1日
・京漢鉄道、全線開通。
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4月1日
・陸軍戸山学校、騎兵実施学校、野戦学校、要塞砲兵射撃学校、各開校。
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4月1日
・森鴎外(45)、功三級金璃勲章を授けられ、また勲二等に叙せられ、旭日重光章を授けられる。
叙勲2ヶ月後、「常磐会」が創立され、山県有朋との関係は密接となる。
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4月1日
・京都博覧協会主催凱旋記念内国生産品博覧会、京都御苑内で開会(−5.31)。
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4月1日
・第五高等学校工学部、分離独立して熊本高等工業学校設置。
高等学校の専門学科、すべて解消。
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4月1日
・兵庫県の山陽鉄道播但線、新井-和田山間開通。
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4月1日
・アルバート・アインシュタイン、ベルン特許局2級技術専門職に昇進。年報4500スイス・フランに上がる。
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4月1日
・幸徳秋水、桑港平民社で婦人講演会。7日、オークランドで社会主義研究会。
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4月2日
・労働者観桜会
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4月2日
・9月1日からの大連港開放、閣議決定。
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4月2日
・急行列車券規程公布。
4月16日、新橋-神戸間に最急行列車運転開始。150マイル未満1等1円、2等60銭、3等30銭。急行料金徴収の最初。
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4月4日
・大韓自強会結成。
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4月4日
・徳冨蘆花(37)、横浜港から備後丸で出航、トルストイ訪問の旅に出る。8月4日帰国。
蘆花は、夫婦で籠っていた伊香保を出て、安中教会で柏木義円牧師に頼んで妻に洗礼をしてもらう。
東京の兄蘇峰の家で旅行の支度。
手持ちの600円余では旅費に足りないと言って、兄は金をくれたがったが、それを断り、郵船備後丸の特別3等切符を買った。
妻は、かねて志していた英語を習うために東洋英和女学校に臨時生徒として入学し、その寄宿舎に入り、健次郎の本の印税で暮すことになった。

船が神戸に入ったとき、蘆花は京都で関西旅行中の兄と一緒になり、姉の湯浅初子を訪ねたり、新島襄の基に詣でたりした。

神戸を出帆したとき(7日)、見送りに大阪の出版社で、雑誌「小天地」を出していた金尾文淵堂の若主人金尾種次郎が乗っていた。金尾は門司まで蘆花に同行するという。彼は何とか蘆花の本を出版したいと思っていた。
蘆花が聖エルサレムとトルストイ家を訪う旅に出ると聞いて、彼は何とかして旅行記の出版権を得たいと考えて、門司まで備後丸に同行したが、それは叶わなかった。"

9日、門司を抜錨。彼の日記。
「さらば日本よ。余は(なんじ)爾を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」

蘆花の特別3等室は、左舷の下甲板にある四畳半ほどの室であった。室には洗面台が一つあり、室の三方の壁に、上下二つずつの寝台が計六つ作りつけになっていた。同室の客は、南米のブラジルに行くという人が一人、イタリアのミラノにある博覧会に行くという人が二人、またオーストリア人の新聞記者で、女のことで刑に触れたという噂のある男が一人だった。
扉を開くと隣室が並の三等室で、そこは寝台と言っても蚕棚のようなものに蒲の筵を敷いただけのものが並んでいる薄暗い室であった。そこにいるのはアメリカへ行く学生、濠洲に行く労働者などの日本人、それからシナ人達であった。
一二等の室には外交官、陸海軍の武官、文部省からの留学生、船会社の社員などで満員であった。その中に左団次と松居松葉がいた。

船は上海に3日、香港に2日、シンガポールに3日、ペナンに2日、コロンボに3日という順で寄港し、コロンボからエジプトのポートサイドまでは2週間どこへも寄港せずに進んだ。
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4月7日
・廃兵院法公布(法)。戦闘または公務傷痍軍人救護施設。8月6日廃兵院条例公布(勅)。陸軍大臣の監督下で、所在地所管師団が管理、入院資格など規程。
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4月7日
・イタリアのヴェスヴィオ火山噴火。死傷者数百人。
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4月7日
・モロッコ問題に関するアルヘシラス議定書調印。
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4月8日
・仏、労働総同盟(CGT)、8時間労働を要求してゼネスト。パリに軍隊集結(−5)。
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4月9日
・露仏借款成立。
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4月10日
・(露暦3/28)露、ガボン、殺害。
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4月11日
・啄木(20)、節子の父堀合忠操の縁故で母校の岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。遠藤忠志校長、教員秋浜市郎・上野サメ。受持は尋常科第2学年。月給8円。14日初出勤。
21日、沼宮内町(現岩手郡岩手町)で徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。 「予て期したる事ながら、これで漸やく安心した」。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」

14日に渋民小学校の教壇にはじめて立ったとき、「神の如く無垢なる五十幾名の少年少女の心は、これから全たく我が一上一下する鞭に繋がれるのだなと思ふと、自分はさながら聖(たふと)いものの前に出た時の敬虔なる顫動を、全身の脈管に波打たした」(「渋民日記」)と記している。
啄木が感激したのは、彼自身に教員資格がないにもかかわらず、郡視学が許可してくれたためであるのと、彼自身もこの学校で学んだから。

啄木は「幼なくしてこの村の小学校に学んだ頃、 - 神童と人に持て囃された頃から、既に予は同窓の友の父兄たる彼等から或る嫉視を享けて居た」と書く。啄木には村人を見返したという思いもあった。

しかし不満もある。「八円の月給で一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る」。

漱石『坊っちゃん』の主人公が街鉄の技手になって月給25円。
東京の職人の日当は大工と左官65銭、石工80銭、煉瓦職90銭、普通人夫35銭である。街鉄の技手は職人より少し収入が良い程度。
月給8円は、普通人夫が月25日働いて得る賃金を下廻る。しかも5人家族では、物価の安い渋民村でも生活は困窮した。

「月に三十円もあれば、田舎にては、楽に暮らせると - ひよつと思へる。」(『悲しき玩具』)と啄木は歌に託して嘆く。"
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4月11日
・帝国鉄道会計法公布。
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4月12日
・日置臨時代理大使、米国務長官に対し日本は満州の門戸開放を尊重すべき旨通告。(5月1日より安東、6月1日より奉天を開放)
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4月14日
・台湾南西部大地震。全半壊1万余戸。
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4月14日
・西園寺首相、満州視察に出発。大蔵次官若槻礼次郎、外務省政務局長山座円次郎、農商務省農務局長酒匂常明、鉄道作業局建設部長野村竜太郎と。~5月15日。大連、旅順、奉天など視察。満州は、日露講和で日露軍撤兵が決定したが日本の軍政署は活動継続中。
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4月14日
・オハイオ州、群衆3千がはやし立て暴徒が黒人2人を焼殺。
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4月15日
・堺利彦「社会主義研究」第2号は、クロポトキン稿、白柳訳「無政府主義の哲学」など無政府主義の紹介研究が大半をうめる。
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4月16日
・荒畑寒村、「牟婁新報」を退社し田辺を去る。堺利彦宅に戻る。折から、3月15日の電車賃値上げ反対運動で活動家が拘引されていたため、「光」編集手伝い、「社会主義研究」「家庭雑誌」の雑務をこなし、夜は神田の正則英語学校に通う。
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4月16日
・新橋~神戸間に最急行列車運転開始。150マイル未満1等1円、2等60銭、3等30銭。急行料金徴収の最初。
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4月17日
・韓国統監府、保安規則制定[府]。治安取締規定。5月1日施行。
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4月17日
・児玉源太郎、台湾総督を解かれ、参謀総長に就任。
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4月17日
・日本製紙所組合、規約改正し、日本製紙連合会と改称。
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4月18日
・警視庁官制改正。
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4月18日
・サンフランシスコ大地震。マグニチュード7.8。サンフランシスコだけで死者450人。全体で600人~700人死亡。
渡米中の幸徳、市中の光景に「無政府主義の実現」感銘。交通・食糧無料、運搬・介護・建設など全員で分担。「財産私有は全く消滅した」(「光」)。

3日3晩火事が続き、市街の大部分は焦土となり、30万の罷災者が出た。
桑港平民社支部は辛うじて焼失を免れた。

幸徳は、その体験を次のように報じた。
「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た。夫れは外でもない。去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食糧は毎日救助委員より頒与する、食糧の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営は、総て壮丁が義務的に働く。買ふと云ふと云つても商品がないので、金銭は全く無用の物となった。財産私有は全く消滅した。面白いではないか。併し此理想の天地も向ふ数週間しか続かないで、又元の資本私有制に返るのた。惜しいものだ。」
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4月19日
・宮崎民蔵・相良寅雄、土地復権主義の同志獲得のため全国巡歴に出発。
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4月19日
・仏、ピエール・キュリー(46)、没。
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4月20日
・堺利彦「日本社会党に餞す」(「光」第11号)。電車賃値上反対運動で活動家を奪われた社会党を鼓舞激励。
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4月21日
・東京地裁重罪裁判に付された河野広中ら日比谷焼打ち事件関連者、全員無罪。検事控訴なく確定。
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4月21日
・米・加間、アラスカ国境条約成立。
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4月22日
・田中正造、石川三四郎の「新紀元」社例会で谷中村の実状訴える(「土地兼併の罪悪」)。
この月14日、栃木県知事は谷中村と隣の藤岡村の合併を谷中村村会につきつける。これを契機に、石川三四郎・福田英子らの谷中村視察始まる。廃鉱流出により渡良瀬川・利根川の川床が上り、洪水頻発。
政府は治山治水対策に代えて、渡良瀬川・利根川合流地域に遊水地を作ろうとし、谷中村買収を始める(明治37年12月、栃木県会が谷中村買収を議決)。
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4月22日
・近代五輪開催10周年を記念する中間大会開催(アテネ)。
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4月25日
・桜井忠温、「肉弾」刊行。
明治12年6月11日愛媛県松山市生まれ。松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。
病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。戦場の極限状態で、部下・親友の安否を気づかい、家族を思いやる兵士達を描いた作品。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。
独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。
しかし、陸軍上層部はこれを忌避、桜井は7年間執筆中断。
大正2年「銃後」、昭和6年「戦いはこれからだ」、昭和8年「大将白川」、昭和14年「将軍木」刊行。陸軍省新聞班長を経て昭和3年少将で退役。昭和12年後備役編入、昭和15年文化奉公会副会長。昭和22年戦犯追放(5年後に解除)、昭和29年執筆再開、「落葉村舎」「哀しきものの記録」を残す。昭和40年9月17日松山市で没(86)。
「肉弾」と並ぶ戦記ものベストセラー「此一戦」を著し、後に反戦思想家になった海軍軍人水野広徳と対比される。
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4月26日
・啄木は高等小学校の生徒を教えられぬことに不満を抱き、この日から「高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始」する。「余は日本一の代用教員である」という心意気である。
啄木は英語の自主講座のみならず、通常の授業でも「先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る」。「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ」という。

彼のほぼ1年だけ代用教員の活動
夏休みに生徒は禁じられている盆踊りに自ら興じ、生徒にも踊るよう教える。
自宅で早朝、20人ばかりの生徒を集め、「朝読」を行う。
希みどおり高等科の地理歴史と作文の授業を受けもつと、翌1907年(明治40)からは生徒に「自治的精神を涵養せむ」ために、上級生にわざわざ「種々の訊問」を問いかける。
毎日、5分間か、10分間、簡単な英会話を教える。
熱心に子どもに接している。「雪ふる夜も風の夜も、訪ひくる児等のために、十時過ぎまでは予自らの時間といふものなし」(1月13日)。
また、村の青年たちの相談にものり、やがて彼らのために夜学まではじめる。「華氏十七八度といふ寒い晩に風吹き通す教場に立って三時間も声を立てつゞけたので、遂々悪質な流行感冒の襲ふ所となった」。
3月20日。卒業生送別会を「一切生徒にやらせ」る。その日、「会の詳しい模様と、それから我が校に関する自分の希望とを細々と響いた手紙を平野郡視学宛に認め」る。
それから2週間余、臨時村会が開かれ、彼は免職となる。

啄木の性急さの裏には、村人たちとの確執、殊に父親の問題がある。
父石川一禎は宗費を滞納し、2年前、渋民村宝徳寺住職を罷免された。この事件が尾を引き、啄木一家が故郷に戻ることさえ認めない村人が多かった。父一禎は啄木が故郷に戻ってすぐに、懲戒赦免となるが、この処罪が村の内部を二分させる。一禎が再び住職になることを望む派と、石川一家を追い出す派の二派に分かれる。父一禎は村の空気に反応し、3月5日、家族に無断で家を出てしまう。
父の家出により、結局啄木は故郷渋民村を離れることになる。
彼は父の問題を抱えていただけに、村における自分の立場を得ることに躍起となり、積極的に子どもたちや青年に接近し、一途に自分の教育理念を進めようとした。
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4月27日
・清国、英とチベット条約(チベットに関する英清条約、西蔵条約)調印。
英は不併合・不干渉を約束するが、チベットを統制下に置く。英はチベット国内に入る道路の全てを掌握。他の列強は、英の許可なくチベット領の占領・購入・租借が不可能に。露の拡大政策阻止が目的。
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4月27日
・「牟婁新報」社長毛利柴庵、出獄。筆禍事件で45日入獄。「牟婁新報」記年号には出獄歓迎の辞(境野黄洋、高島米峰ら)。菅野須賀子「篭城記」掲載。
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4月30日
・征露凱旋陸軍大観兵式挙行(東京青山練兵場)。
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