2018年10月18日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その25)「「男子は皆中央広場へ集まれ、.....今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」 時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。.....どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。.....集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その24)「2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。」
から続く

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
鈴木喜四郎〔当時京橋区京橋高等小学校1年生〕
〔2日〕日は西に傾いた。今晩は〇〇〇人の夜襲があると言ううわさがばっとたつと巡査が「今晩は〇〇〇人の夜襲がありますから気を付けて下さい」
と叫びながらまわってあるいた。
いよいよ晩になった。提灯の火は皆けされた。
血気にはやる若者が白八巻をして手には金棒や焼けた刀を握って5、6人通った。後は人々は言い合わした様に話声一つしない。座蒲団を敷いて少しうとうとしたかと思うと、
「わーいわーい」
とただ事ならぬ人の叫びに夢は破られた。あのすごい氷の様なぴかぴか光る刀 - あの恐ろしいぎょっとした眼 - 等の事を考えると全身の毛も、さかだつ様である。弟や隣の子供はこの恐ろしい事も知らずに前後の正体も無くすやすやと軽いいびきをして寝ている。
夜は次第にふけ渡る。時々巡査の帯剣の音がする。それからは夜の明ける迄何も知らなかった。
(「思ひ出」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)"

中島孝之〔当時東京市立京橋高等小学校2年生〕
〔2日〕やっと衆議院に入れてもらった。むしろをひいて休んだ〔略〕盛んに御飯を食て勢をつけているそれを見て僕は咽喉から手が出る程で、たまらなくなって水を飲んで我慢した。時しも不逞鮮人来襲するから静かにしろといいふれに来たので、院内上を下への大騒動中には車を引いて逃げ出すのもあり、女子は泣だす所へ、大丈夫ですここは宮城に近いから急ぐ軍隊が来るといいに来た。一時は大変だった。
(「大震火災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
野木松治
〔2日夜、日比谷公園で〕木の枝にもぐって何時間か眠ったようですが、急に辺りが騒がしくなりました。何が始まったのかと起き上り周囲を見回わすと、頭に鉢巻をした4、5人の人が大声で呼び掛けているのです。「男子は皆中央広場へ集まれ、女子と子供は1個所へ集まって動くな。男子は頭へ白い布で鉢巻をして何か武器になるような物を持て、今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」
時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。手に手に棒切れや、中には日本刀など持っている人もいたようでした。どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。
私は白い布切れなど持っておりませんし、なおの事子供でもあり、とても大人の中へ入って朝鮮人などと戦う勇気はありません。小さくなって遠くの方から眺めているだけでした。集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。
果して朝鮮人が事実来襲するのかどうか、私には何も判りませんでした。ただ恐ろしくて他のどこか安全な所へ逃げようと決心しました。それで、公園の南側の暗い所を選んで、柵を乗り越えて馬車道を御成門の方へ歩きました。逃げ出したのです。
ところが、公園から200メートル程も歩いた四つ角の所へ来たときです。物陰からいきなり3人の鉢巻をして、竹槍を持った男達が現れて、「山」といって私の両脇へその竹槍を突き付けました。
私は驚いて、何と言ってよいのか、ただぶるえていると、一人の男が私に向って、「お前は日本人か、朝鮮人か」と強い句調で言いました。「日本人です」私は恐しさに声がふるえてうまくしゃべれませんでした。「本当にお前は日本人か!」「10円50銭と言ってみろ!」男達は私を取り囲み詰問してきました。脇腹にはピタリの竹槍がついていました。「10円50銭、日本人です。私は日本人です」。私はやっとのことでそれを言い終えましたが、両足はガタガタとふるえてどうすることもできませんでした。「どこへ行くのか」。男達はやっと竹槍をもどして言いました。「今まで日比谷公園にいたが、品川に親類がいるからそこを頼って行くところです」。これだけ答えるのもしどろもどろの有様でした。
〔略〕御成門を通って芝公園へ着くまでに、四つ角へ来るたびに必ず暗がりから同じような風体の男達が現われて「山」といって威かされました。それぞれの角には「川」と答えなかった何人かの人が詰問されていました。ある所では両手をしばられた朝鮮人らしい人もいました。
(野木松治『体験』私家版、1975年)

野村秀雄〔当時『国民新聞』記者。二重橋前に遭難して「天幕編集局」を設置〕
2日の夜に荒木社会部貝が飛んできて、「いま各所を鮮人が襲撃しているから、朝日新聞で触れ回ってくれと警視庁が言っている」と急報した。一同はこれを聞いて、「よしッ」とばかり小高運動部長ら5、6人と自動車に乗って全市の要所へ「鮮人が襲撃するから用心せよ」と触れ回ったものだ。この朝鮮人騒ぎというものは、実は、通信が途絶えたため警視庁にも正確な情報が集らず、あわてたものだ。流言の因は当時六郷の郊外電車の架橋工事に多数の朝鮮人工夫が働いていたが、震災にあって飯がないので付近の民家へ入って飯を食ったということが誤り伝えられたものらしい。また朝鮮人が井戸へ毒薬を入れたという風説もあったが、これはその2、3日前に牛乳配達だか新聞配達だかが、月末にお得意先の家に白ボクで○印を付けて歩いたのを地震になってからこれを見た人々が勘違いして朝鮮人の毒薬投入説をふり撒いたものらしかった。
(有竹修二『野村秀雄』野村秀雄伝記刊行会、1967年)

原亀夫〔京橋木挽町3丁目12で被災〕
〔2日、日比谷公園で〕夜には在郷軍人が来て「教育勅語を申してみよ」と詰問し、言えない者を連行していきました。
(「浜離宮へ逃げる」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

平島敏夫〔政治家、満鉄副総裁〕
面白い例がある。「時は9月2日の朝、場所は丸ビル正面、前日から餓に苦しんでいた避難民は丸ビル地階の明治屋を襲撃して窓ガラスを破壊して食料品を略奪せんとした。警備の憲兵が来てこれを制したが群集は聞かぬ。憲兵は剣を抜いて群衆を切りつけた」
これは直(すぐ)向うの東京駅ホテルの窓から見ていた人の実見談である。由々しき大問題としてかなり宣伝されかけていた。明治屋襲撃の群衆の一人であった人の実話はこうである。
「2日の朝、明治屋は表の避難民に同情してビスケットの数箱を提供した。群衆は先を争って集ったが箱が大きいのでなかなか開けられぬ。憲兵が剣を抜いて箱を開いてくれた。群集は明治屋の好意に感激し又憲兵の臨機の処置を賞賛した」
この2人の実見者は僅かに1町しか隔てていなかった。しかも事実の相違は百里や千里の問題ではない。怖ろしい事だ!
(「帝都震災遭難記(16)」『満州日日新聞』1923年10月4日)

つづく






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