2018年10月9日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その22)「暴動鮮人は自衛上これら防護団のために殺され又は捕縛されたが、最も多いのは2日朝上野東照宮前に200人捕縛されているのを実見した。それらはことごとく顔面手足ともに血みどろで労働者風のもの、学生、乞食の姿、鮮婦人も混じっていたが、自動車でドシドシ送っていた。」    

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その21)「私は上野の交番前で市民のために打殺された30名ばかりの鮮人の死骸を見た。私の避難した七軒町のお寺でも2人の鮮人が捕縛されて打ちのめされていたし、浅草方面では軍隊に突殺されたり在郷軍人青年団員のために多数の不逞鮮人が撲殺されていた。」 
から続く

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
下谷上野警察署
9月2日流言あり「かねてより、密謀を蔵せる鮮人等は、今回の震災に乗じて、東京市の全滅を企て、放火又は爆弾に依りて火災を起きしめ、かつ毒薬を飲料水・菓子等に混入して、市民の鏖殺(おうさつ)を期せり」「上野精養軒前井戸の変色したるは毒物投入の為なり」「公園下の下水に異状あり」「博物館の池水変色して、魚類皆死せり」等一として民衆の心を惑乱せしひるものにめらざるはなし、本署は即ち、異状ありと称せらるる井戸に就きて、これを験せるにその反応を認めざりしかば、これをその傍に掲示して、誤伝なるを知らしめたるに、幾もなく「上野広小路松坂屋呉服店に爆弾を投じたる鮮人2名を現場に於て逮捕したるに、百円紙幣2枚を所持せり、蓋し社会主義者の給せるものに係る」「上野広小路松坂屋附近にて一度鎮火したる火災は、2日夕刻、松坂屋前風月堂菓子店の路地辺より投弾と共に、再び発火せしが、その際群集は、社会主義者なりや、鮮人なりや分明ならざれども、投弾者と思わるるものを発見して、乱打死に到らしめたり」「松坂屋は、鮮人の投弾に困りて焼失せり、上野駅に於てもまた2名の鮮人が、麦酒瓶に入れたる石油を濯(そそ)ぎて放火せるを、駅員に発見せられて撲殺せられたり」等の流言行われて、益々人心を刺載せしが、更に翌3日に至りては「上野公園博物館前に集れる避難者中、挙動不審のものあり、群集に対して揚言して曰く、火災は容易に鎮滅せざるのみならず、多数の鮮人等、本郷湯島方面より、まさにこの地に襲来せんとす、速に谷中方面に避難せよ、家財等は携帯するの要なし、後日富豪より分配せしめんと。衆これを怪しみたる間にその姿を失いしが、幾もなく再び凌雲橋方面に現れて、同じ意味の宣伝を為し、遂に警官に逮捕せられしが彼は社会主義者にして、紙幣60円と、巻煙草3個とを所持せり」「2日午前10時半頃、30歳前後の婦人は上野公園清水堂に入りて休憩中、洋装肥満の男より恵まれたる餡麺鞄(アンパン)を食したるに、忽ち吐血して苦悶せり」と言い、同4日に至りては、「上野公園内及び焼残地なる、七軒町・茅町方面には、鮮人にして警察官に変装し、避難者を苦しめ居るを以て、警察官なりとて油断すべからず」と言い流言の拡大殆んどその底止する所を知らず。而して皆事実にあらざるが故に、本署はその信ずるに足らざる所以を力説して、昂奮せる民衆の鎮撫に努めたる。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『山形民報』(1923年9月4日)
「白鉢巻の暴徒 後手に縛らる 上野付近は殺気漲る」
大災害のため東京市より鉄道線路伝いに王子に避難した一青年は、2日再びパン類を買い入れ親族救済のため上野駅に引返すと、上野付近は殺気漲り白鉢巻の壮漢顔色血走り物凄い有様で、後手に縛せられおるもの数十名に達しているので愕きの余り食料を放棄した儘(まま)怱々逃げ帰った。

『山形民報』(1923年9月4日)
「猛獣全部を銃殺不逞団体猛獣の解放を計画」
災害の益々拡大して共に来ると、東京市内各所にわたって不逞鮮人や暴力団の蜂起したため、陸軍では警視庁に応援してその警戒をしていたが、安全地帯と目されていた上野公園並びに浅草に多数の避難民が逃れたが、この混雑に際し、上野動物園及び浅草花屋敷の猛獣を解放して市中を暴らさんとした不逞団体のあることを発見した陸軍当局では、2日朝万一の事を憂慮し射殺を命じたる結果伊藤中尉の率ゆる一個小隊は直ちに上野の動物園並びに花屋敷に至り、小鳥類は全部これを縄から放すと共に獅子、虎、豹等の猛獣並びに象など危険の恐れある猛類は全部これを銃殺してしまった。

『いはらき新聞』(1923年9月7日)
「鮮人の襲撃に一村全滅の所もある」
戒厳令が布かれてから軍隊憲兵警官の外に青年団等も日本刀槍等を携え夜間は皆抜刀である。暴動鮮人は自衛上これら防護団のために殺され又は捕縛されたが、最も多いのは2日朝上野東照宮前に200人捕縛されているのを実見した。それらはことごとく顔面手足ともに血みどろで労働者風のもの、学生、乞食の姿、鮮婦人も混じっていたが、自動車でドシドシ送っていた。

〈1100の証言;台東区/谷中〉
清水常雄〔当時本郷区本郷高等小学校1年生〕
〔2日〕すこしたつと、あの恐ろしい〇人さわざのうわさで、若者は皆出る様にという、ふれがあった。この時はすでに何名とも知れず、つかまえられていたそうだ。〔略〕2日の夕方火の手が益々近く迫って来るので、同じ寺の奥の基地へ引越した。その前は〇〇人の寄宿舎なので、僕らの近くに大ぜいいたから恐ろしかった。その内にまた若者は出てくれろ、というふれの声が終わるか終わらぬうちに「それ〇人だ」と竹槍や鉄棒を手に手にたずさえた若者が、寄宿舎の周りを、かこみ、今にも打殺さんばかりの態度であったが、とうとう1人逃げてしまったそうだ。
(「震災の思いで」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)

田代盆次〔当時12歳〕
〔2日夜、避難先の谷中の寺で〕僕は横になってウトウトと眠りかけると、床下でゴトゴトゴソゴソと何かいるような気配を感じた。犬でもはいっているのかと思い、床板を1枚ソッとめくって見てハッと全身の毛が倒立ったような思いをした。意外千万にも床下には真白な服を着た人が蹲(うずくま)っているではないか。僕は誰か呼ぼうと思って声を出そうとしたが、恐ろしさにそのまま竦んでしまった。床下から皺枯れた細々とした声が、懇願するようにとぎれとぎれに洩れてきた。「私・・・ここにいる事知れる・・・私殺される・・・私怖しい。悪い事しない・・・私片方足折る痛い、逃げる事出来ない・・・お坊ちゃんお願い、私ここにいる事黙ってて下さい・・・お坊ちゃんおりこう、早くそこ閉めてください」
僕はいわれるままにソッと板を元の如くにして、誰か見知ったかしらと回りを見回した。門の側に一家族が避難して休んでいる外、母が庭に立っているきり、誰も気付いた様子はなかった。折から父が何か大きな紙袋を持って、門前のゴタゴタした人ごみの中から姿を現した。〔略〕「店のおやじの云うにやあ、〇〇人騒ぎで大変なんだそうだ」「〇〇人がどうかしたのかい」「昨日地震が来て火事が始まると、間もなくドドーンてえ音が何度も聞こえたろう、あれは〇〇人がダイナマイトを投げたんだそうだ」「それでこんなに火事が大きくなったんだね、本当に憎らしい奴だね」
僕はハッとしだ。先刻床下の〇〇人らしい人に黙っていてくれと頼まれたばかりだったから。しかし先刻可愛そうにと思った事は今は忽ち夏の朝霧のように消え失せ、父に話そうと思って咽喉まで出掛った時、表の往来が騒しくなった。「ソレ寺の墓地へ入ったぞ」「とッつかまえろ」「たたッ殺せ」「何だ、何だ」「〇〇人だ」「井戸の中へ毒を入れやがったんだ」「どいたどいた」人々の走せちがう音、人が突き飛ばされた様子、悲鳴を上げる声、バタバタと足音が近づいた。木剣高持っ鳥在郷出人らしい人が、寺の門からはいって墓地の方へ走って行った。その後から又続いて5、6人駆けて行った。闇の中を黒い影がそこここと墓地の中をうごめいた。「いたぞ!」誰かが叫んだ。「ウヌ!」「何を野郎!」「ウワーッ!」という悲惨を声。僕は今床下の年寄の〇〇人の事を話せば年取った足の悪い彼は、今墓地で○された人達と同じように、この世界を去らなければならないだろうと思った。可愛そうで、告げるのは止めて、その寺を後に、田舎の親戚の家へ向った。僕は今でもあの〇〇人はどうしたろうと時々思い出す。
(「本堂の床下」震災共同基金会編『十一時五十八分 - 懸賞震災実話集』東京朝日新聞社、1930年)

村上幸子〔当時府立第一高等女学校1年生〕
〔2日、谷中の基地で〕夜半、「お警戒願います。○○です。男子の方はお集まり下さい。」グッと縮んだ神経はもうどう仕様もなくなりました。それから後貴女も御存知の非国民騒ぎ。「母様はもう覚悟出来ました。お前方は若いものどんなにしてでも逃げておくれ。さあこの大切な物を持って。本当に・・・本当にもしも・・・もし・・・もの事が・・・あったら母様には・・・構わずに・・・ね・・・お前方だけ・・・お前方だけ・・・逃げておくれ。恒道は駄目、けれど榮兄はもう六つ・・・助けられたら・・・助けておくれ。可愛想に・・・こんなに小さくて・・・」泪でおっしゃる母様にそんな事・・・そんな事がと申し上げながら、一緒に泣き伏してしまったのも今はただ思い出になりました。
(『校友・震災記念』府立第二高等女学校内校友会、1924年)

つづく




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