長谷川利行展パンフレット
*若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(5) 1921年(大正10年) 長谷川利行(30歳) 「俺は絵をやる」 矢野(文夫)との出会いは利行に絵の道を選択させることになった。
から続く
1921(大正10)年
佐伯祐三(23歳)、豊多摩郡落合村字下落合(現在の新宿区中落合)にアトリエ付きの家を新築。
3月、弟の祐明が死去。体調を崩して3ヶ月休学、軽い喀血を起こす。
1922(大正11)24歳
2月、長女の彌智子やちこが誕生。
1922(大正11)年
福沢一郎、第4回帝展彫刻部に《酔漢》が入選
1923(大正12)年
靉光(16歳)、単身大阪へ出て暫らくは商業図案の仕事をしたが、すぐに辞めて天彩画塾という専門塾に入所、本格的に絵の勉強に打ち込み始める。そのことで養家からの仕送りを減らさせる。
「天彩画塾時代は、自作の妙な恰好の服を着て、腰に大きな目ざまし時計を吊るして歩きまわった。長髪には白黄赤青など極彩色のダンダラ模様がついている。絵具だらけになった手を、布代りに頭髪でぬぐうからである」(ヨシダ・ヨシエ 菊池芳一郎編『靉光』昭和40年8月所収)
この頃から、雅号としての「靉川光郎(あいかわみつろう)」(のち靉光と名のる)を使い始める。
■雅号の由来について
ヨシダ・ヨシエ「光郎は本名の日郎をもじったものにちがいないし、靉川というのは靉靆(あいたい、雲がたなびくさま)などという言葉もあるので、石にたいして靉、村にたいして川という反対語をつかったと考えていいのではあるまいか」(『異端の画家たち』造形社)
徳島県立美術館学芸員江川佳秀氏「一九二二年にアララギ叢書第十四巻として刊行された石原純の歌集『靉日』が念頭にあったのではないか。書名に靉光の本名日郎の一文字がふくまれていることも偶然とは思えない」(「靉光二題」(『靉光と交遊の画家たち展カタログ』収録))
生前親しく交わっていた画友井上長三郎「彼の性格からおして石村という淋しい字劃を嫌って、好きな絵でも探すように辞書の中から靉の字をぐうぜん見付け出したものかもしれない」
「なぜ靉光と名のったのか ー 。本人はその心のうちを一生だれにもあかさなかったが、「靉」は雲たなびくさま。それが光れば、まだ二十歳まえの絵かき志望の少年のなかに、どんな感性を呼びおこしたろうか。あるいはそれは、フランス語のアミティエではなかったろうかと想像する人がいる。」(『池袋モンパルナス』)
1923(大正12)年
長谷川利行(32歳)、この頃、父親には麻布獣医学校に行っていると偽り仕送りをうける。"
2月、落選続きだった利行の絵が、新光洋画会第1回展に《田端変電所》が入選し、横井礼市に認められる。
「東京に来てから竹の台で絵を並べてくれたのは新光洋画会第一回作品公募に勝手にもち運んだ二枚だけだ。毎回田舎や都にいて、落選十数枚に及んで、まだ己のものがはっきりあらわれない不徳は、上手下手を超えて鑑査標準に抵触する位の熱心さを認められるらしい。何処までも、この俺だ、俺だ。俺をのぞくものは最後の審判の結果、おそらく無気力を感せしめるであろう (大震災の打撃は証明す)。
横井礼市画伯が、新光感想、で一寸認めて下さったのは、東京時事で知った。僕はいろいろの情実や関係が皆無なものだから、二科や春陽会その他であい手にされない傾がみえる。もの珍しいお世辞はなかなかお上手で世間の風を吹かし、後進栄誉の徒党に花を持たし、捨てておけるとなれば、よくても悪くてもおどろかない。唖然、審査員重視の運命に委かし開催陳列の趣に製作が出来る才人が殖えて年々花やかに邪道に堕していても宜しとするでしょう。で、審査員のまぐれ当りを唯一の光栄とし、神托として居りましょう、ぜんぜんに和解から世上に居ります。この心掛けを持ちます」(利行「踊り手の実行性」 矢野文夫編『長谷川利行全文集』五月書房)
利行32歳、遅いスタートの果てにやっとつかんだ小さな栄光の照れを傲慢で切り返している。落選よりよいが俺の目標はもっと上にあるのだ、と。
利行と同年齢の岸田劉生は既に「麗子像」を完成させ、画名を不動のものとしている。彼は利行がまだ京都でモラトリアムを余儀なくされているとき、すでにわが国最初のフォービズム宣言ともいえるフュウザン会を組織している。
利行の初入選作《田端変電所》は、のちにさらに激しさを増す彼のフォービックなスタイルが顔を見せており、利行が劉生の存在を意識しなかったはずがない。
また、利行と同年齢の恩地孝四郎は創作版画の推進者としてその地位をより確かなものとしているし、のちにしばしば利行と比較される関根正二は、4年前に早逝している。
かつて師弟の礼をとったことさえあった生田蝶介とは疎遠になり往来が途絶えている。
「氏が僕には実際でないやうな気がするから云ふんだが、僕の実行生活上、君たちの迫害や広い寛ろぎ心といつたものは第二義的なもので如何にも従前通りの藝術家らしいすべてである。だから宣言をする、甚い弱小藝術を誇る、それが何だ。要するに本当の事だけの仕事をして、いのちの無駄遣ひをやめる」(利行「踊り手の実行性」)。
またこんなことも語っている。
「絵を描くことは、生きることに値すると云ふ人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか。絵の生活は、たゆまぬ努力が働きかくる。精神は、自我以上の、超越さや、その奥深さで償はれるものと覚悟して置きたい」。
「自我がよいのではない、自我以上の自然の瞬息があつて、その底力から燃え立つて、たたなはる」(利行「ある感想」)。
この頃の利行について、天城俊彦は後年こう書いている。
「上京してから、二三年間の作品では、ゴッホの線描を模して、アンリ・ルツソー風なモチーフで描いた少女像がある。十号大の厚いゴツゴツした布に描いたもので、持ちあるくにも重いほど絵具が使つてある」(「長谷川利行の藝術」)。これは《裸婦・饗宴》の事かもしれない。
この年二科展、春陽会展に応募したが落選。
9月1日、関東大震災。この時利行は東京にいて被災。焼け跡をさまよって、凄惨な風景を目撃した。
11月、個人雑誌『火岸』第一輯『大火の岸に距りて歌へる』を市外日暮里625の仮寓より自費出版。その後京都へ戻る。
9月1日、関東大震災。利行は、焼け跡をさまよって、凄惨な風景を目撃する。
この時、利行は、荒川区日暮里625番地の日蓮宗の寺の離れに仮寓していたが、利行がどこで被災したかは不明。利行は、瓦礫と灰煙の中を火勢を避けながら歩きまわっている。
日暮里辺りは火の手は上がらなかったが、上野の山の向こうは火炎を交えた黒煙が立ち昇り、道路は避難の人や大八車で動きが取れなかった。長い竿の先に、行方の分からぬ身内の名前を書いた白いシーツを括りつけ、名を呼ぶ声があちこちから響いた。
阿鼻叫喚の地獄絵図を自分の足で歩き、眼で見据えた画家たちは少なくない。
院展初日の会場で罹災した速水御舟は自宅の安全を確認したあと、スケッチブックを携えて街を歩き、有島生馬は馬上から惨状を見た。河野通勢は人目をしのんでスケッチをした。池田遥邨と鹿子木孟郎は京都から満員の列車に乗って東京へ向かった。
大川に人の死体が浮かび、吉原遊郭では女たちが小さな池の中で折り重なって死んでいた。溜り水は赤く沸騰していた。
利行は上野、浅草、三河島を歩き、灰かきの勤労奉仕をして、疲労で3日間落込んでいる。
「利行が狂ったように絵を描きはじめたのは、大正十二年九月一日の大震災のあとであった。震災の日からなん日も、利行は火のなかを歩きまわり、吉原の池で数百の遊女の焼死体をみた。また人からたのまれて車を挽き、焼跡を片づけていた。震災後二カ月の十一月、『火岸』という粗末な本を自費で出版したが、そこにはこんな短歌があった。
たばしれる暑熱の風のやけあとの灰のぬくもり死の臭ひ湧く
懇(ねんご)ろに屍(かばね)を積みて大き火の吉原廓のあとどころかも
その本にはまた「大震災ののち二旬を出でず、日暮里のいほり(庵)近き三河島なるふえると工場失火、数百軒を燃やせり。戒厳令執行下のこととて軍隊、飛行機、自警団、野次馬といふ大騒ぎなり」と書いた。大震災後の日本は急速に社会主義が擡頭するいっぽうで頽廃をきわめたが、利行はその世期末的世相のなかで神経を痛めつけられ、その後の超俗の生き方を強いられたのかもしれなかった。
ともあれ利行はそのころから、本場のモンパルナスに学んだ里見勝蔵らに先駆けてフォーヴィックな、情感あふれる絵を描きはじめた。それはまた、この国の若い絵かきたちが、吹けばとぶよな前衛諸集団に属して未来を模索する時期でもあった。そういうわけだから、十年ほどのちに池袋モンパルナスの前衛になった者たちが利行の絵を好んでもとめたのも当然のなりゆきだった。
利行が震災直後に描いた「田端変電所」は、ごくちいさな展覧会に入選した。京都へ帰って二年間、日本画を描き、大正十五年ふたたび上京して、・・・・・」
(『評伝長谷川利行』)
1923(大正12)年
佐伯祐三(25歳)、4月、東京美術学校西洋画科を卒業。卒業制作は《裸婦》《自画像》。
9月1日、渡欧前の養生のため信州渋温泉滞在中、関東大震災発生。池田家に預けた渡欧準備の荷物は全焼。
11月26日、日本郵船香取丸で神戸から米子・彌智子とともに渡欧。
つづく
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