から続く
大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;文京区/小石川〉
『下野新聞』(1923年9月4日)
「不逞鮮人等は麦酒瓶に石油を詰め家屋に撒布して放火する」
伝通院より音羽辻町街道約一里に渡る電車道路には避難民芋虫の如く横わり、その両側は警備隊を以て非常線を張りいちいち通行人を誰何するのも見えた。又馬車道路を中心とし左右の町々の路地横町等には、在郷軍人で組織された警備隊員が□□杖を持ち不審の挙動ある男は一々誰何し、もし明答が出来んと立所に十数名の同隊員が集り来りて袋打にするというすさまじい光景を現わしている。
記者が美濃部博士邸の付近を歩行中、暗にするどき呼子の笛を聴きたりと思うと忽ち30名ばかりの警備隊が馳せ来たり、不逞鮮人1名がこの区間に於て姿を没したり、多分この家の内に忍び込んだのであろうと口々に叫びながら猿の如く十数名の壮漢が柵を乗り越え不逞鮮人何処にありと猛烈な勢いで飛び込んだが、結局逮捕し得なかったので隊員等は忽ち伝令を発して注意せよ鮮人が行ったと付近一帯に蜘蛛の巣の如く非常線を張った。
更に大塚仲町付近に於て5名の鮮人を引っ捕え、巡査4名これに警備隊員十数名が加わり厳重なる服装検査を行い所持品を取り調べその使用目的を尋ねておったが、気早の青年等は「やっつけろ」と口々に絶叫しておった。
〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
山本早苗〔映画監督〕
次の日〔4日〕、奇跡的に焼け残った赤門と本郷3丁目から一高までの町内会の人たちが避難民である我々の所にやって来て、東京全体が不穏な状況にあるので、1家族で1名の警戒員を募る事になったと言って来た。相談するまでもなく私が徴発される事になった。〔略〕その夜から私は町内会の人と一緒に警備の役目についた。強盗や朝鮮人の警戒である。赤門を事務所にしてテ-ブルを据え、常時交代で7、8人の男が並んで座って大通りを見張っていた。前を通る人を男女の別なく止めては「どこから来て、どこまで何しに行くのか?」と訊いた。官庁や新聞社のオートバイは、町内警備員の制止も無視してすごいスピードで飛ばして来て走り去って行く。
色々なデマが飛び交い、どことどこの井戸に毒を入れられたから水を飲まないように見張れとか、向島・深川方面から大挙して朝鮮人が押しかけて来るから用心にも用心をするようにとか、まことしやかに伝わって来る。新しい情報が来る度に町内の役員たちが会議を開く仕末であった。
竹竿の先端に刃物を付けて持ち歩く者、先祖代々伝わる家宝の刀を腰にさす者等、皆それぞれ用意していたが、私はつづらの中にあった、昔の商人が旅先で用いた道中差しの小刀を取り出して腰に差し、何かしら自分にも勇気が湧き出してくるような気がしていた。
(山本早苗『漫画映画と共に - 故山本早苗氏自筆自伝より』私家版、1982年)
司法省「支那人を殺傷したる事犯」
9月4日午後1時、本郷区駒込肴町二街路で、鈴木熊蔵・森一・本多友治・谷澤忠・藤田清二郎・原海次・島田礎・佐藤平次郎・矢崎萩太郎が、中国人韓湖(翔)初〔外交文薄などによれば正式氏名は韓湖初〕外3名に棍棒・銃剣・竹槍・金剛杖・金槌等で重傷
を負わせた。(一部補足)
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
〈1100の証言;港区/麻布〉
島崎藤村〔作家。当時麻布飯倉町在住〕
〔4日夕、友人・吉村藤舟に語った話〕鮮人騒ぎが大変ですね、ここらでも竹槍だの日本刀など持ち出して騒いでいますよ。これは一つは大本教の煽動と、一つは過激な主義者の画策だろうということです。一方鮮人を煽動し、一方又日本人の間に流言蜚語して、鮮人に危害を加わさせて、鮮人の独立思想を極度に挑発せしめようとしているのだということです。うかうかして煽動者と見誤まられても下らないことですから用心なさいよ。〔略〕 この火事の大部分の原因は瓦斯でしょう。従って鮮人の爆弾から何んぞいう事は信じられないですね、ことに下町は薬品商も多いし、瓦斯リンもあったでしょうから、自然この火に逢って爆発したのもあったでしょう。その音を聞いて、浮き心の人はやれ鮮人の主義者のと騒ぎ立てたのでしょう。もう皆な極度な神経過敏になっているから、こんな突然の場合、秩序だった統一のある暴徒のあろう筈はありませんね。それにどこで200人、そこで300人などいって騒ぎ立てているのは流言に惑われた群衆ですね・・・。
(吉村藤舟『幻滅 - 関東震災記』泰山書房仮事務所、1923年)
〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋〉
折口信夫〔歌人、民俗学者、日本文学者〕
増上寺山門
国びとの 心さぶる世に値(あ)ひしより、顔よき子らも、頼まずなりぬ
大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ〔増上寺山門〕を通って、私は下谷・根津の方へむかった。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思い出した。戦争の後にも思い出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思っていたが、一旦事があると、あんなにすさみ切ってしまう。あの時代に値(あ)って以来というものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思うような事が出来なくなってしまった。
(「東京詠物集」『折口信夫全集・第22巻』中央公論社、1948年)
〈1100の証言;港区/白金台・三田・田町・芝浦〉
賀川豊彦〔社会運動家〕
〔4日、明治学院に寄った際に〕友人でダンテの研究者である中山昌樹君の家を叩いてみた。そして同君の一家族が避難もしないでそこにいることを発見した。しかし何故蝋燭の火もつけないで戸を締め切っているかという理由は翌日になって彼が物語った。それは日本語の十分出来ない✖✖の留学生を預っている為であった。
(「灰燼の中に坐して」『週刊朝日』朝日新聞社、1923年9月23日-琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1』緑蔭諜房、1996年)
〈1100の証言;場所不明〉
北沢初江
〔4日、田端から福島への車中で〕途中の駅で罹災者にイモの差し入れがあったのですが、車中で一人の男がイモをもらったままにしていたのです。すると誰かが「イモを食わないのは、朝鮮人だ」と叫び始めた。屈強の男たちが4、5人、この”朝鮮人”を追いかけ回し、隣の客車まで逃げた男を連れ戻してきておいて、頭といわず、からだといわず、ところかまわず、なぐる、けるの乱暴を加えたので、男は口から血を吐いてとうとう死んでしまいました。
車内のかなりの人がそれを見て「バンザイ」などといって大喜びしているのです。私はなんと無残なことをするのかと腹立たしく思いましたが、まわりの人がこわくて黙っているしかありません。
そのほか、白河の少し手前でも、同じような朝鮮人を見い出し、列車の中でなぐり殺してしまいました。
(『潮』1971年9月号、潮出版社)
崔承萬〔独立運動家、教育家、済州島知事(1951〜53)。当時東京朝鮮基督教青年会館総務〕
〔4日から板橋署で数日過ごした後、警視総監に呼び出されて相愛会に寄る途上車中で見たのは〕2回ほどは肩に鉄棒や竹槍を持った、数十名の日本人の青年が何人かのわが同胞の青年をどこかへ連れていく光景であり、もう1回は、道のど真ん中で数十名の日本人が2人の朝鮮青年を囲んで殴ったり、蹴飛ばす光景であった。
(『コリア評論』1970年4月〜7月号、コリア評論社)
9月4日の項おわり
9月5日につづく
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