2025年1月31日金曜日

反ワクチンから急旋回、ケネディ氏は承認公聴会でこれまでの主張修正(Bloomberg) / 「私の子どもたちはみな、ワクチン接種を受けた。ワクチンは医療において極めて重要な役割を果たすと考える」 / ケネディ厚生長官候補の承認否決訴え、キャロライン氏が上院に書簡(ロイター)     

アメリカで留学生がパレスチナ攻撃を批判したら国外退去に。トランプ氏が大統領令に署名 | ハフポスト WORLD

 

◆トランプ大統領令によりワシントンの美術館が多様性(DEI)プロジェクトを廃止。他の芸術機関の対応は / ◆スミソニアン協会傘下の21施設も多様性プロジェクトの廃止を発表。アクセシビリティの確保は継続(ARTnews)

生活保護減額、国の調整「違法」 原告37人逆転勝訴 福岡高裁判決(朝日); 名古屋高裁に続き福岡高裁も 次の高裁判決は、京都訴訟と佐賀訴訟が同じ3月13日

全く信用できない国民民主党。ヒドイ手のひら返し ⇒ 選択的夫婦別姓、子供の姓の扱い「議論されてない」 国民・榛葉氏、期限区切る動きに慎重【動画あり】(産経) / 予想(期待)通り自民党にスリ寄る玉木雄一郎(役職停止中)  ⇒ 国民民主・玉木雄一郎代表、夫婦別姓の立民案に慎重「政局的にすべきではない」(産経)

 

 

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旅客機墜落、トランプ氏がDEI政策の影響と持論「航空局は知的障害や精神疾患の職員を積極採用」(読売);「記者から「どうしてそう言い切れるのか」との質問も飛んだが、トランプ氏は「私には常識があるからだ」と突っぱねた。」 / トランプ氏、旅客機衝突の会見を政治ショー化 国まとめる資質見えず(毎日) / 「原因は多様性政策」 根拠示さず民主党批判 米航空機事故でトランプ氏(時事)  / トランプが飛行機事故の原因をFAA(連邦航空局)が障がい者を管制官に採用したせいとウソの主張をしていることにAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員)が反論。本当の問題は、トランプがFAAとTSA(運輸保安庁)の長官と航空保安諮問委員会を全員解任したので空の安全の責任者が誰もいないこと!(町山智浩)   

 

大杉栄とその時代年表(392) 1902(明治35)年3月1日~10日 「明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。、、三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。」(関川夏央)

 

島村 抱月

大杉栄とその時代年表(391) 1902(明治35)年2月1日~27日 「近頃は文学書抔は読まない。心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む。何か著書をやらうと思ふ」(漱石の手紙) より続く

1902(明治35)年

3月

朝・ベルギー修好通商条約締結。

3月

横浜正金銀行、北京支店設置。

3月

長谷川天渓「新思潮とは何ぞや」(「太陽」)

3月

「明治美術会」(前年34年解散)を改称した 「太平洋画会」、洋画会の新人満谷国四郎、吉田博、中川八郎、石川寅治、石井柏亭、大下籐次郎、 丸山晩霞等により、 上野公園第5号館において第1回展を開催。

第5回展までに留学中の鹿子木孟郎、河合新蔵、中村不折、新海竹太郎らが参加、ジャン・ポール・ローランスのアカデミックな画風が「太平洋画会」の基調となり、毎年公募展を開き、白馬会と並立。

明治37年、谷中清水町に洋画研究所を開設、 翌年同研究所を真島町に移す。

昭和4年、「太平洋美術学校」と改め (初代校長・中村不折)、官立美術学校と対抗して、在野における唯一の存在として幾多の英才鬼才を国洋画壇に送る。

3月

九州鉄道門司~八代・門司~長崎間、夜行直通列車に蒸気暖房を設備。

3月

大阪港大桟橋公示起工。翌年7月1日竣工。

3月

第16議会に「救貧法案」が議員提案。政府委員(井上友一)が、惰民を助長し国費乱用を招くと反対、同案は潰される。

3月

(露暦3月)露、モスクワ、グジョン工場争議。当局庇護の「ズバートフ組合」と資本家の衝突。ズバートフはモスクワより。ペテルブルクに移る

3月

英・ペルシア、欧州とインドを結ぶ電信回線建設に合意。

3月

レーニン「何をなすべきか」刊行(シュトゥットガルト)。

3月

ペルシア借款(1900年)に追加して、ジュルファ・タブリーズ・テヘラン間の鉄道敷設権獲得。

3月

ロマン・ロラン(36)、「七月一四日」出版・上演。この上演料でローマに赴き、マルヴィーダとの最後の会見。

3月1日

総選挙、野党圧勝。375中政友会193憲政本党91。

3月1日

戦艦三笠竣工。

3月1日

東亜同文会京都支部、清語講習所開所。

3月3日

幸徳秋水「死刑廃止」(万朝報」)。この頃、「万朝報」編集長円城寺天山(佐賀出身)は、論説陣の顔ぶれについて社長黒岩周六に注意。

3月4日

広瀬武夫少佐、ウラジオストック到着。14日、出発。

19日、旅順口に到着。

2月12日、バイカル湖東方スレチェンスク出発。アムール川北岸沿いにハバロフスクに到る(28日着)2千kmの馬橇旅行を敢行。

3月4日

亀山騒動。福岡県浮羽郡の小作農民2,000人、前年末からの小作米永年1割減額の約束を地主会が覆した(2月3日)ことに抗議、地主宅などを襲撃、破壊。400人逮捕、243人が有罪。

3月4日

(露暦2/19)露、モスクワ、農奴解放記念日。クレムリン広場、モスクワ機械労働者会議組織の労働者6万、アレクサンドル2世記念碑に花輪献花。モスクワ保安部長ズバートフの政策による「ズバートフ組合」。

3月5日

清国外務部、各国公使に天津還付を正式要求。

3月5日

足尾銅山の被害者134名上京し、農相・内相に陳情。

3月5日

仏、炭坑労働者、8時間労働要求ゼネスト決行決議。

3月8日

島村抱月(31)、都筑郡都田村字池辺の島村一方に妻子を寄寓させて、横浜港から讃岐丸で出航、東京専門学校第1回海外留学生としてイギリスに向かう。オックスフォード大学とベルリン大学で学ぶ。3年間。

38年9月12日、横浜に帰着。

3月8日

シベリウス(37)「交響曲第3番ニ長調」、ヘルシンキで初演

3月8日

米議会、フィリピン農産物関税を25%引き下げ決定。

3月8日

ロンドンの漱石


「三月八日(土)または九日(日)、永屋昌雄(京都帝国大学寄宿舎)から年賀状を貰う。イギリス文学に関する書籍についての問い合せも書添えてある。」(荒正人、前掲書)


3月9日

第16議会閉会。(1901年12月10日開会)

3月9日

グスタフ・マーラー(42)、アルマ・マリア・シントラーと結婚。

3月10日

3月10,11,12日の子規


「明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。

三月十日分の記述は以下のごとくであった。


八時半大便、後腹少し痛む

同 四十分 麻痺剤を服す

十時 繃帯取換にかかる 横腹の大筋つりて痛し

此日始めて腹部の穴を見て驚く 穴といふは小き穴と思ひしにがらんどなり心持悪くなりて泣く

十一時過 牛乳一合たらず呑む 道後煎餅一枚食ふ

十二時 午餐 粥一碗 鯛のさしみ四切 食ひかけて忽ち心持悪くなりて止む

午後一時頃 牛乳

始終どことなく苦しく、泣く


三月十日の項はまだつづいて、午後四時すぎ左千夫と、やはり歌の弟子である蕨真がきた、左千夫は紅梅の盆栽を持参した、蕨真は鰯のなれ鮨をくれた、とある。元気が少しでも出れば食べものについて書く子規だから、その日の夕食は鰯のなれ鮨とうどん、さしみの残りに、長塚節が送ってくれた金山寺味噌と記録した。ひさびさ、おいしく食すことができた。

蕨真は五時頃帰ったが左千夫は九時までいて、歌の雑誌のことなどを話した。話しつつ子規は牛乳を飲み、煎餅、蜜柑、それに飴を食べた。


くれなゐの梅ちるなへに故郷(ふるさと)につくしつみにし春し思ほゆ


左千夫がくれた梅を眺めて詠んだ歌は、三月二十六日付「日本」に掲載された。故郷松山の、あの懐かしい春に帰るすべはもはやないのである。

三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。六月二十日になってまた書きはじめたが、それはごくわずかな心覚えを加えた、一日あたり一行ほどの「麻痺剤服用日記」にすぎなかった。

以後、子規に残ったエネルギーのすべては、明治三十五年五月五日付の「日本」にはじまって途中二回休載したのみで、死の前々日、九月十七日まで書き継がれる『病牀六尺』に投じられる。漱石とおなじく、子規も「読者」がいなくては書く気がしないのである。」(関川夏央、前掲書)


3月10日

セオドア・ルーズベルト米大統領、北部証券会社解体の告訴を指令。

3月10日

ロンドンの漱石


「三月十日(月)、この頃、極めて暖かく、木の芽吹く。永屋富雄から三月八日(土)または九日(日)に受け取った年賀状と問い合せに返事を出す。図書館に通い手当り次第に読み、自分の気に入ったものが見つかったならば、通読するが良いと教える。鏡宛手紙に、「倫さんの日記も筆の日記も面白かつ〔た〕からひまがあつたら又御つかはし可被成候」、「留學期も漸々縮少十一月位に出發帰國のつもり何れ來年始頃には帰着の事と存候」と書く。」(荒正人、前掲書)


3月10日 この日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。「筆の日記」に喜んでいる様子が窺える。


「倫さんの日記も、筆の日記も面白かつたから、ひまがあったら叉御つかはし可破成(なさるべく)候。倫さんは近頃大改良大奮発のよし、至極結構に存候。家の中に出入りしてへ-ヘーピヨコピヨコして居る者抔を柏手にして居てはいけない。・・・・・大丈夫の人格を備へて、叉智識より得たる大活眼を有する底の男にならなければ、人に向つて威張れない。よくよく細心に、今から其方向へ進行あらん事を希望します。

「其許(そこもと)もよく気をつけて、二女を養育あるぺく候。留学期も漸々縮少(ママ)、十一月位に出発帰国のつもり、何れ来年始頃には帰着の事と存候」


「筆の日記」とは;

「毎日床につく前になると、その日その日の日課のつもりで、一日起きてから寝るまでの筆の行動を書きますのです。勿論はなはだ面白くもないたあいのない記録で、朝起きてオバサンが何処へ連れて行つてくれたとか、こんなおいたをして遊んでゐたとか、泣いたとか笑つたとか歯がどうしたとか、風邪を引いたとか、そんな他人が見たら一向つまらないことを根気よく欠かさず書きました。それが一月もたつと相当にたまるので、ロンドンへ送つてやることにいたしたのです」(『漱石の思ひ出』 - 一四「筆の日記」)


漱石は、4月13日付鏡子宛ての手紙でも、「筆の日記は面白く存候。度々御つかはし可被成候」と書いている。「日記」は彼がロンドンを出発するまで続けられ、帰国したときの彼のスーツケースの中には、ひとまとめにした「筆の日記」が入っていた。


つづく

2025年1月30日木曜日

横浜市こども植物園 セツブンソウ 菜の花 八重黄ズイセン ペーパーホワイト フクジュソウ カワヅザクラ(植物園近く) 2025-01-30

1月30日(木)はれ

節分(今年は2月2日)になるとしっかり咲いてくれるセツブンソウ、横浜市こども植物園にまだまだ小さいけれど10個近く咲いていた。

(大船フラワーセンターでも咲き始めたそうだ。あと、光則寺とか浄妙寺とかでも咲いているかな? 楽しみ)

スプリング・エフェメラルとしては、他にフクジュソウが咲いていた。

この植物園に隣接している児童遊園地の梅林(梅の木が30~40本あるかな?)にはウメが一輪も咲いてなかった! 今年のウメは個人の感触としては2週間ほど遅れていると思うけど、ここまでとは驚きだった。

▼セツブンソウ





▼菜の花

▼八重黄ズイセン

▼ペーパーホワイト

▼フクジュソウ

▼植物園へ行く途中にカワヅザクラ


大杉栄とその時代年表(391) 1902(明治35)年2月1日~27日 「近頃は文学書抔は読まない。心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む。何か著書をやらうと思ふ」(漱石の手紙)

 

治安警察法第5条改正を求める演説会が行われた際に撮影された写真。前列左から、市川房枝、氏名不詳、奥むめお、西川(志知)文子、平塚らいてう(1920年7月18日)

大杉栄とその時代年表(390) 1902(明治35)年1月20日~30日 日英同盟締結 「とにかく提灯に吊鐘、お月さまとすっぽんの縁組ができたようなもので、すっぽんにとってはうれしいことに違いなかった。誰もみな涙をこぼすほどよろこんだ。昨日の仇敵は今日の友、日の丸とユニオンジャックのふらっぐとをぶったがいに、どこの家でも門口に立てて祝った。何だか二十世紀になるそうそう、夜が明けたような気がした」(生方敏郎『明治大正見聞史』) より続く

1902(明治35)年

2月

上海商業会議公所設立(1903年に上海商務総会、1912年に上海総商会と改称。

2月

若山牧水(17)、同級の大見達也、大内財蔵(後の平賀春郊)、直井敬三らと回覧雑誌「曙」を出す。

2月

一高記念祭で東寮寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」発表。

2月

英、ナイジェリアのボウチを占領。ボルヌは英に降伏。

2月

露、学生組織への政府規制強化により約3万人学生ストライキ。

2月

ロンドンの漱石


「二月または三月上旬(推定)(日不詳)、林董公使の日英同盟の労を謝するために、在留日本人たちで記念品を贈ることになり、少ない留学費から、五円寄付する。」(荒正人、前掲書)


2月1日

清朝政府、経済・教育・軍事の各分野で改革開始。法令の改定など。纏足や漢民族と満州族間の結婚禁止令が廃止。

2月1日

アメリカ、ロシアの満州の利権独占に抗議して、満州の門戸解放に関する覚書を11ヵ国に送付。

2月1日

清国の皇太后と皇帝が北京に復帰

2月1日

五所平之助、誕生。

2月1日

川上一座、ウィーン劇場公演。

2月1日

英から約2,000人の増援軍、南アフリカに出発。

2月2日

日英同盟締結公表。

2月2日

2月2日~3日 ロンドンの漱石


「二月二日(日)、一月六日(月)の押絵とハンケチの礼状と二十日(月)に受け取った鏡の手紙に返却を書く。音信が絶えることを叱る。

二月三日(月)、雪。田中孝太郎に手紙を出す。「小生如例クラバムに蟄居罷仕候」「渡避〔和太郎〕君クリスタルパラスの方へ移轉被致候」と書く。」(荒正人、前掲書)


2月3日

内田康哉駐清公使、慶親王に露清銀行約案の撤回要求。

2月4日

木村栄、緯度変化に関するZ項発見。

2月4日

飛行家リンドバーグ、誕生。ミシガン州。

2月5日

仏、鉱山労働者の労働時間が1日8時間と定められる。

4月1日には、女性と子供の労働時間が11時間から10時間半に短縮。しかし賃金もこれに応じて減額。

2月6日

文部省、中学校教授要目を編纂。

2月6日

子規、モルヒネ服用が1日4回となる。


「二月に入ると、強い麻痺剤の効力が薄れた。二月六日には、前年までなら一日一回、多くて二回であった麻痺剤服用が一日四回にもおよんだ。

この頃、子規は痛みもさることながら、精神の圧迫にいらだつようになっていた。

横たわっていると天井が迫ってくる。襖が倒れかかってくる。そんな思いに襲われて狂気するようだというのである。そのうえ、人が二人以上側にいると頭に障る。ことに体の大きな者にいられるとつらい。体が大きいのは左千夫であった。左千夫は身長百七十センチ、当時としてはかなりの大男で、闘士型の立派な体格をしていた。逆に圧迫感を与えないのは小柄な虚子であった。子規は結局、虚子を頼りにしているのである。」(関川夏央、前掲書)


2月6日

仏政府、エチオピアのジブチ~アジスアベバ間の鉄道敷設(1897~1918)助成合意。英伊、鉄道は国際的事業にすべきと抗議。

2月7日

足尾鉱毒講演会。京都洛陽教会。弁士木下尚江・田村直臣・潮田千勢子・松岡悟(同志社学生、後、荒村と名乗る)。京都府立女学校志知文子は感動し、校長を説得、潮田千勢子のみを呼ぶことの了解を得て、学内で講演会開催。

志知文子:まもなく松岡悟と結婚。文子の親友鳳さと子は文子の兄志知善友と結婚。文子(松岡と死別したのち、社会主義者西川光二郎と再婚、西川文子)はのち、「青鞜」と対立する「新真婦人会」の中心人物。

2月8日

この日夜、堺利彦は理想団の演説会で弁士を務めた。演題は「中等人士の覚醒」で、事前にしっかり準備をしていたので初めてにしては首尾よくやれた、と日記に書いている。

2月8日

梁啓超、横浜で「新民叢報」創刊。

2月11日

内村鑑三(40)・黒岩涙香(39)、理想団の久良岐郡支部発会式に列席のため日下村坂下に赴き、鑑三は「理想団宣言書の詳解」を講演。

2月12日

広瀬武夫、ブラゴウェシチェンスク到着。

2月12日

花井卓蔵・中村弥六・河野広中ら、衆議院に日本初の普通選挙法案提出。25日に否決。以後明治43年まで毎年提出。

2月12日

日英同盟協約公示。のち2度改訂され、1922年8月に廃棄。

2月14日

伊、トリエステで労働時間短縮を求めるストライキ激化。戒厳令発令。

2月15日

レーニン「破産の徴候」(「イスクラ」)。

2月15日

ベルリンに地下鉄開通。

2月16日

ロンドンの漱石


「二月十六日(日)、この頃、寒気甚だしい。氷滑り初めて見る。水道管破裂し、ガスも故障する。菅虎雄宛葉書に、心理学や進化論の書籍をやたらに読んでいる、「何か著書をやらうと思ふ」と書き送る。第五高等学校に戻るよりは、イギリスに生涯いるほうが気楽だとも云う。村上半太郎(霽月)宛葉書に、年賀状の礼と、「三階に獨り寐に行く寒かな」と読む。」(荒正人、前掲書)


2月16日 この日付け漱石の菅虎雄宛手紙。

帰って教師をやるのは厭で、まして、熊本へ帰るならロンドンに生涯いる方が気楽。「近頃は文学書抔は読まない。心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む。何か著書をやらうと思ふ」と記す。


2月17日

バルセロナ、ゼネスト。軍隊出動。死亡40人。

2月20日

幸徳秋水「長広告」。萬朝報論文集成。

2月20日

足尾銅山鉱毒地の婦人17人が上京、総理大臣に面会を求めて貴族院内に座り込む。

2月20日

モルガン・トラスト、独ハンブルク・アメリカ汽船会社と北独ロイド会社との間に国際運賃カルテルの協定。

2月20日

ロンドンの漱石


「二月二十日(木)、鏡の年賀状・筆の日記・中根倫の日記届く。」(荒正人、前掲書)


2月21日

アインシュタイン、ベルンに着く。当初の生活費の唯一の支えは、家からの僅かな仕送りと数学と物理の家庭教師代。

2月22日

アメリカの黄熱病委員会、黄熱病の伝染媒体が蚊であることを発見したと発表。

2月25日

東京瓦斯会社、ガス炊飯かまどの専売特許を取得。

2月25日

伊藤博文、欧米周遊から戻り、長崎に入港。

2月25日

この日付「東京朝日」社説。池辺三山。

「同盟締結の成功には、元老は一人も与っていない、ここ十年来の我政治は、元老が力を持つ元老政治だったが、桂太郎、小村寿太郎などの現内閣が成し遂げた日英同盟の締結は元老政治の幕引きを告げた」と論じた。これを端緒として「元老会議てふ憲法以外の憲法を廃せられなば、吾人は更に以て慶すべし」と、三山は書き、現内閣の親英路線と異なる親露路線を歩もうとした元老中の元老伊藤博文の動きをも牽制

2月27日

スタインベック、誕生。カリフォルニア州。


つづく

BBCニュース - 独議会、移民政策の厳格化求める決議案を可決 極右の支持に紛糾 / ドイツ中道右派、極右と協力 タブー崩壊(AFPBB) / ドイツで“反移民決議”可決 不法移民入国を事実上禁止に 異例の野党と極右協力(テレ朝)

 

黒田追加緩和、相次いだ反論 14年議事録公表、薄氷の5対4(朝日);【失われたターニングポイント】2014年7~12月に開いた日銀の金融政策決定会合の全議事録が公表された。副作用を指摘する反論がたくさん出て、採決は5対4だった。そこで引き返すチャンスを失い、その後8年以上も金融緩和を続け、出口がなくなってしまったのだ。— 金子勝

 

2025年1月29日水曜日

パート女性が労組トップに ABCマートで正社員を率いて結成 「時給20円ダウン」の怒りが原動力(東京);「2023年に1人で声を上げたのをきっかけに非正規約5000人の基本時給を平均6%引き上げた経験を持つ…その後に仲間を増やし、非正規でありながら正社員を率いる執行委員長となった」

 

大杉栄とその時代年表(390) 1902(明治35)年1月20日~30日 日英同盟締結 「とにかく提灯に吊鐘、お月さまとすっぽんの縁組ができたようなもので、すっぽんにとってはうれしいことに違いなかった。誰もみな涙をこぼすほどよろこんだ。昨日の仇敵は今日の友、日の丸とユニオンジャックのふらっぐとをぶったがいに、どこの家でも門口に立てて祝った。何だか二十世紀になるそうそう、夜が明けたような気がした」(生方敏郎『明治大正見聞史』)

 

日英同盟風刺画

大杉栄とその時代年表(389) 1902(明治35)年1月27日~31日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍③完〉 青森第5連隊の生存者は11名(全員が凍傷により手や足を切断) 「天災」による遭難と見做され第5連隊長軽謹慎7日処分のみで終わる より続く

1902(明治35)年

1月20日

英、ベルファストで操業中の紡績工場倒壊。女子工員12人死亡、20~30人負傷。

1月20日

ロンドンの漱石


「一月二十日(月)、鏡から手紙来る。前年九月二十二日(日)に出した手紙の返事である。「それやこれや」で、手紙を出せなかったという弁解に、ひどく憤慨する。川住義謙(推定)の死去を知る。」(荒正人、前掲書)


1月21日

この日の堺利彦の記には、待ちに待った自転車が届いたことが書かれている。堺は初めて会社から自宅まで自転車で帰り、約50分かかったが、「愉快でたまらぬ」と喜んでいる。

1月21日

独アナトリア鉄道会社、オスマン帝国のアブドゥル・ハミト2世によりコニヤ~バスラ間の延長承認。バグダード鉄道敷設権獲得。バグダード鉄道の最終的承認。

1月22日

オーストリア皇女エリーザベト(18)、皇位継承権・法的相続権放棄宣誓式

23日、エリーザベトとオットー・ヴィンディッシュグレーツの結婚式。ホーフブルク宮。

1月24日

代議士竹内正志、「馬蹄銀事件」で質問書提出。

1月24日

アメリカ・デンマーク、西インド諸島デンマーク領3島売買条約締結。デンマーク国会批准拒否。

1月25日

日本の勧告と差異がなければロシアとの満州還付協約に調印することを、清国政府に提言。露清銀行契約は拒否。

1月25日

旭川、零下41度の日本最低気温を記録。

1月25日

中野重治、福井県坂井郡高椋村一本田に平民農藤作の次男として誕生

高椋村には28の大字があり、うち一本田の戸数は49戸。年貢米が3千数百俵と入る多額納税の貴族院議員・大地主山田家は別格として、中野家は3町5反(3.5ha)程の自作農兼小地主、村の家の格としては「おおやけ」と言う。

父藤作は1866(慶応2)年生まれ、隣の大字一本田中の青池太左衛門の次男で、中野家の家つきの娘、治兵衛の次女とらの入婿となるた。重治は藤作35歳、とら28歳の次男・第2子である。

藤作は向上心のある人で、はじめ福井地方裁判所の雇となり、裁判所長由布武三郎に目をかけられ、由布が福井地方裁判所の所長、判事をしていた1892、93(明治25、26)年、東京で不正規の短い教育を受ける。1897年3月~7月、日本法律学校(日本大学の前身)の聴講券が残っており、聴講料納付の証印がある。藤作は、名古屋鎮台砲兵二等卒として日清戦争に従軍、無事凱旋した時、由布の喜びの手紙を届ける。

1898(明治31)、裁判所の雇を辞め、台湾総督府臨時台湾土地調査局に勤め、ほぼ事業終了の1904(明治37)年まで台湾に在勤。この経験は、1910(明治43)年~1918(大正7)年、朝鮮総督府の土地調査事業に引き継がれ、朝鮮での土地調査事業の当初から終了時まで従事。中野藤作の名が初めて公に見られる1905(明治38)年の「職員録」では、5月1日現在、「大蔵省煙草専売局秦野葉煙草収納所属、七給俸」とある。

1904年、日露戦争の財源確保の為、「煙草専売法」が成立、施行。重治(3)は、両親と3人で、神奈川県中郡平塚町、ついで秦野町に住む。10歳年長の兄耕一は、福井中学校生で一本田の祖父母のもとにいた。重治4歳の時、藤作は秦野から鹿児島煙草収納所へ転勤となり、一本田に戻り祖父母に育てられることになる。

重治が一本田に戻ったこの年1月に上の妹鈴子が一本田で生まれ、重治と入替るように鹿児島で親子3人暮らしをする。1909(明治42)年、藤作は朝鮮に渡り、初め統監府の土地調査局の主事、1910年の韓国併合後、朝鮮総督府臨時土地調査局設置初日からそこに勤める。藤作は、鴨緑江を遡る中国国境辺まで出張している事が、残された手紙からわかる。この年、長男耕一が四高に入学(翌年、名古屋八高を受け直す)、より多い収入を求めての外地勤めと思われる。この後、中の妹はまを、下の妹美代子が生まれ、藤作が勤めを辞めて一本田に戻る迄、父の勤務地と郷里に分かれての変則的な生活を送る。

1908(明治41)年4月、6歳、第三高椋尋常小学校(のち高椋西尋常小学校と改称)入学。

1914年(大正3)年3月(12歳)、高椋西尋常小学校卒業。

4月、福井県立福井中学校入学。6月、祖母みわ没。7月、兄耕一、第八高等学校卒業。

1918(大正7)七年7月、兄耕一、東京帝国大学法科大学法律学科(独逸法兼修)卒業。丸岡町で芸者をしていた松本こよと結婚、朝鮮銀行に就職して京城に行く。11月、松田銀行部の名で営業しているウラジヴォオストーク支店に転じる(翌年8月病没)。

1月26日

帝大生中心に第2回被害地視察計画。文相中止命令。250余単独敢行。東京府知事、視察・義援金募集・路傍演説禁止。

1月26日

徳富廬花「黒潮」発表。

1月29日

啄木(16)、友人等と「岩手日報」号外「青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件」を売り足尾銅山義援金とする。  

関連の歌

夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

1月29日

鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、カーネギー研究所設立。

1月30日

第1回日英同盟協約調印。ランスダウン英外相と林董駐英公使、ロンドン。

締約国の一方が他の一国と交戦する場合は中立、2国以上と交戦する場合は参戦することなどを規定。中国・韓国における日英の権益保護、戦時における両国間の協力関係確立を明記。即日実施。公示は2月12日。

英は「光栄ある孤立」政策放棄。

伊藤博文・井上馨らはロシアと妥協して対露戦争を回避する日露協商論。

山縣有朋・桂太郎・小村寿太郎はロシアの極東進出を警戒するイギリスと組むことでロシアを牽制する日英同盟論。

同盟後、日本の背後にはイギリス・アメリカがつき、ロシアはフランスと結び、イギリスとフランスの共同の敵ドイツはロシアの東進を期待する複雑な構図の中で、日露の対立は深まる


「とにかく提灯に吊鐘、お月さまとすっぽんの縁組ができたようなもので、すっぽんにとってはうれしいことに違いなかった。誰もみな涙をこぼすほどよろこんだ。昨日の仇敵は今日の友、日の丸とユニオンジャックのふらっぐとをぶったがいに、どこの家でも門口に立てて祝った。何だか二十世紀になるそうそう、夜が明けたような気がした」(生方敏郎『明治大正見聞史』)


「無論、これは日本人の大勝利である。これまで主義として同盟を結ばなかった国家が人権を異にする国民とまったく平等の見地に立って結盟したということは。慶應義塾の学生は盛んたる炬火(たいまつ)行列をなし、同時に英国公使館にて万歳を叫んだ」(ベルツの日記)


「これくらいのことに満足致し候様にては甚だ心もとなく存ぜられ候」(漱石)


1月30日

シベリア鉄道ウラジオストク~ハバロフスク開通。


つづく


フジテレビ第2回目の会見(10時間)に関するツイート拾い読み ⇒ 遠藤龍之介副会長「最初からその女性を1人で会合に差し出すというケースは少のうございまして、男性社員もしくは年寄りの女性社員が同伴していくケースが多いのではないかと思います」 ← エッ! / フジテレビ社員も追及「プライバシーを盾にした隠蔽では」 やり直し会見、怒号とグダグダ答弁の一部始終:東京新聞デジタル / フジ社外取締役「すべて説明できたとは言えない」「日枝氏に汗をかいて頂きたい」(テレ朝)    

BBCニュース - ガザ住民の北部帰還始まる、帰る家のほとんどは破壊されたなか / トランプ氏のガザ「一掃」案に断固抵抗 パレスチナ自治政府とハマス(AFPBB)

 

給食の残った食材でまかない作り減給「遅くまで働いている教職員に」(朝日) ; 「廃棄するのはもったいないという気持ちから作りはじめた。遅くまで働いている教職員に作ってあげたかった」と...。夕方に唐揚げやおにぎりを作って教職員に提供していたという。

 

アリアナ・グランデ、“2つの性別のみ”米大統領令を受けて応援メッセージを再投稿「何が起ころうとも、私たちは互いを守り合う」(billboard);「クィアやトランスジェンダーの人々はドナルド・トランプが生まれる前から存在しており、彼が死んだ後も存在し続ける。我々が存在するという単純な事実には関係がない。太陽に対して毎朝昇るのをやめるよう大統領令に署名したとしても関係ない。」   

 

2025年1月28日火曜日

セレーナ・ゴメス、全米で拡大する移民取り締まりに涙 - トランプ政権下で大量の逮捕者、メキシコ系移民の子としてあふれた思い「何もできない、どうすればいいの」 / セレーナ・ゴメス、不法移民の強制送還に涙「私と同じ人たちが攻撃されている」 / 一方で、トランプ支持者からの嘲笑   

 

大杉栄とその時代年表(389) 1902(明治35)年1月27日~31日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍③完〉 青森第5連隊の生存者は11名(全員が凍傷により手や足を切断) 「天災」による遭難と見做され第5連隊長軽謹慎7日処分のみで終わる

 

遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の像

大杉栄とその時代年表(388) 1902(明治35)年1月25日~27日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍②〉 青森第5連隊第3日目 方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていたため、前進・反転を繰返す。神成大尉「天は我を見捨てた」と叫ぶ より続く

1902(明治35)年

〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍③完〉

1月27日

〔救援隊による捜索と後藤伍長発見〕

救援隊は捜索活動を再開。田代まで行き、行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して出発した。

午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中にたたずむ後藤房之助伍長を発見。後藤はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救護隊の為めに救助せられたるものなり」と述べている。

発見時の様子については種々あるが、同年7月23日発行の『遭難始末』によれば、目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救命処置を施して約10分後に蘇生した。この説により、以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』などと喧伝され、後に銅像が建立された。


〔神成大尉らの遺体発見〕

意識を取り戻した後藤伍長が「神成大尉」と言葉を発したため、付近を捜索すると約100m先に神成が倒れていた。神成は帽子や手袋も着けぬまま首まで雪に埋まっており、全身が凍結していた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。やむなく口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま死亡した。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されたが、2名の遺体を運ぶことはできず、目印を付けて後日収容することとし、後藤と重度の凍傷で倒れた救援隊員の計2名の生存者を救護して田茂木野へたどりついた。

午後7時40分、三神少尉が連隊長官舎(青森歩兵第5連隊長津川謙光中佐)に駆け込み、大滝平での後藤伍長発見の報に加え、雪中行軍隊が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを報告した。

1月28日

〔第5連隊第6日目〕

倉石隊の佐藤特務曹長が発狂、下士兵卒を連れて川に飛び込み、岩に引っ掛かり凍死。倉石は数名を連れて崖穴に入ったが、山口少佐ら数名は川岸にいた。倉石のいる所の方が場所的には良かったので、倉石は山口に崖穴に来るよう勧めたが、山口は「吾は此処にて死せん」として拒んだ。比較的動けた山本徳次郎一等卒が山口に水を与えた。

1月28日

この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢~大峠経由で田茂木野を目指した。この行軍で青森隊の遭難地を通過する際に遭難者を見たとする説がある。

1月29日

〔第5連隊第7日目〕

救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容。

1月29日

午前2時過ぎ、弘前隊は前日からの強行軍の末、田茂木野に到着。

民家で食事したのち午前4時20分に再び出発し、午前7時20分に青森駅前に到着。

1月30日

〔第5連隊第8日目〕

後藤惣助一等卒が倉石大尉らと合流。

救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に下りていった道である。「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来するといわれる。

1月31日

〔第5連隊第9日目〕

午前9時頃、鳴沢付近で捜索に加わっていた人夫が、炭小屋を発見し、中にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出。朝まで生きていたというもう1名の遺体も発見した。三浦、阿部の両名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は記憶がなく、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体を発見した。なお、三浦は3月14日に入院先で死亡した。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。1902年2月6日付萬朝報に「故に某将校は鈴木少尉の死体を発見せし時、『是れ死後二十時間以上を経しものに非ず。捜索今一日早かりせば』とて深く捜索の緩慢なるを遺憾とす」という記述が残っている。

午前9時頃から倉石大尉らが崖を登り始め、午後3時頃、250mほど進んだ所で倉石、伊藤中尉ら4名が救援隊に発見された。生存者計9名が救助されたが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。同時に救出された山口少佐も入院先にて2月2日に死亡した。

1月31日

この日、弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。数千人の市民が沿道で出迎え。


〈その後の動き〉

〔第5連隊第10日目〕

2月1日、賽の河原付近にて数名、按ノ木森から中ノ森にかけては十数名の遺体を発見。


〔第5連隊第11日目〕

2月2日、捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見出した炭小屋において、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4名の生存が確認された(佐々木、小野寺の両名は救出後死亡)。当初小屋には8名の生存者がいたが、うち比較的元気な3名は屯営を目指して出発したのち全員凍死し、永井軍医は助けを求める声を聞いて外出したきり戻らなかったという。

午後3時頃、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯付近の小屋で発見された。村松は四肢切断し一時危篤となったが、かろうじて回復した。25日朝の遭難当時、村松は古館らと共に隊からはぐれ、青森を目指したが道を誤り、26日午後にこの小屋を見出した。中には茅が積まれていたがマッチが無かったため火をおこせず、翌日古館が死亡した。村松は付近で発見した温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後は寝たまま雪を食べていたという。


最終的な生存者は、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)の11名のみ。

この他、山口鋠少佐、三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の6名は救出後に斐なく死亡した。

生還者は、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長を除き、その全員が凍傷により足や手の切断した。比較的軽症者のうち、及川はアキレス腱と指3本、山本は左足を切断した。他の者は四肢切断(一部は両下肢と手指部のみ)であった。また、最も健常だった倉石は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死した。伊藤、長谷川も重傷を負った。


2月1日、陸軍省は調査委員会設置(委員長陸軍省人事局長中岡黙少将)。

4月10日、報告書。陸相寺内正毅中将が意見を求めた参謀総長大山巌元帥は「人災」とみなし、教育総監野津道貫大将は「天災」とみなす。

天皇は、報告書の立場をとり、第8師団長立見尚文中将・第4旅団長友安治延少将の責任には触れず。第5連隊長津川中佐は軽謹慎7日の処分


つづく


2025年1月27日月曜日

「出勤するのが怖い」「手術後の薬をもらえなくなる」 トランプ米大統領就任で米国内に広がる絶望 (AERA) ; この瞬間も捕まえにきたら 支持者の攻撃を恐れ 特等席に並ぶ億万長者 民主主義のルール超えた / 時代を100年以上後退させる大反動。 ⇒移民一斉検挙でナバホ族が拘留されているとの報道が部族指導者の懸念を呼ぶ 司法省は法廷で、先住民は憲法修正第14条の下では出生地主義の市民権を持たないため、米国で生まれた非市民の子供にも市民権は与えられないと主張した / トランプがブラジルに強制送還した移民が手足を拘束されていたことに対してブラジル政府とコロンビア政府が衝撃を受けている。     

 

大杉栄とその時代年表(388) 1902(明治35)年1月25日~27日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍②〉 青森第5連隊第3日目 方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていたため、前進・反転を繰返す。神成大尉「天は我を見捨てた」と叫ぶ   

 

弘前歩兵第31連隊(映画)

大杉栄とその時代年表(387) 1902(明治35)年1月20日~24日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉 青森第5連隊、天候悪化に遭遇し、第2露営地で多くの死傷者を出す より続く

1902(明治35)年

〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍②〉

1月25日

第31連隊(弘前)、午前7時30分戸来村を出発。

午後4時11分三本木に到着し舎営。移動距離20キロ。三本木で1名離脱。

1月25日

〔第5連隊第3日目〕

午前1時40分頃、第5連隊(青森)第2大隊長山口少佐が昏倒。第2露営地到着以降28人が斃れる(既に損害70、残る140中半数が凍傷)。

午前3時、神成大尉、夜明けまで待てぬとして馬立場方面を目指して前進下命。しかし、方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていたため、前進・反転を繰返す。神成大尉「天は我を見捨てた」と叫び、反転指示。

凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出。

彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。さらに後に生存者として発見された数人の将兵を含む十数名が行方不明となった。長谷川特務曹長は雪原を滑落して道に迷い、彼に従っていた数名は午後2時頃に見出した平沢の炭小屋に滞在していた。炭小屋ではマッチで火をおこし暖を取ったが、みな激しい疲労からくる睡魔に襲われ、火の番をするのが困難になったため、翌1月26日午前3時頃に火事を恐れて火を消した。

午前5時半頃、第2露営地に戻る。

午前7時、比較的元気な第8中隊長倉石大尉が指揮官代理となり、斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した。

高橋班の佐々木霜吉一等卒が馬立場付近で帰路を見出し、午前11時30分頃、戻ってきた高橋斥候長が帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告した。

本隊は正午頃出発し、戻ってきた斥候隊について行った。この時点で隊は60名から14名(元の1/3以下)になっていた。

午後3時頃、馬立場に到着し、そこでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ったが、彼らは戻らなかった。高橋、佐々木の両名も重なり合うようにして凍死しているのを発見された。

隊は行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで日暮れを迎え、さらに午後5時、カヤイド沢東方鞍部に着いた頃、倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から離れて行方不明となっていた。

〔第3露営地〕

この頃には隊はばらばらになっており、倉石はカヤイド沢に降りて第3の露営地を定め、伝令を送ったが、人員は集まらなかった。

『遭難始末』によれば、午後11時頃、倉石大尉の一行は山口隊の捜索に出発し、午後12時頃に合流を果たして第3露営地に戻った。露営地では互いに大声で呼び、打撃を加えて昏睡を防ぎ、凍死者の背嚢を燃やすなどして寒さを凌いだものの多数の将兵が凍死した。

青森屯営では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。さらに一部の将兵は田茂木野村の南端でかがり火を焚いて夜まで待った。しかし夜半になっても到着せず、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を打ったが確認がとれず、翌日救援隊を派遣することを決定した。

1月26日

第31連隊(弘前)、午前8時三本木を出発。

午後2時40分増沢に到着し村落宿営。

福島大尉は他の通過予定地でも1~2名の案内人斡旋の依頼状を送付していたが、八甲田山越えのため事前に登山口の大深内村に下士官2名を派遣し案内人7名(内訳は排雪6名、雪道に詳しいマタギ衆1名)の提供を依頼する公文書と日当その他の費用を立替払いとする念書を持参させている。

1月26日

〔第5連隊第4日目〕

1月26日、『遭難始末』によれば、倉石、神成両大尉と比較的元気だった十数名との協議の末、現在地から田茂木野までおよそ8kmと推測し夜明けを待って出発することとした。

午前1時頃に将兵を呼集すると約30名になっていた。前日の露営で山口少佐が再び意識障害となり、兵卒に背負われて行軍した。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成、倉石と定まっていたが、他の者は所属も階級も関係なく、将兵たちが後から続く形となっていた。神成と倉石は前方高地を偵察しつつ進んでいた。

前日夜、後藤伍長は他の4、5名と共に露営中、飢えと寒さのため昏睡したが、幸運にも凍死せず26日朝に目覚めた。降雪もなく晴天だったが、周りに誰もおらず、見渡すと三々五々、将兵が点在して帰路を見定めようとしていた。そこで自分も高地に登ったところ、神成大尉、鈴木少尉らと出会い、以後行動を共にした。この日の天気は晴れ時々雪だった。

〔第4露営地〕

隊は夕方までに中の森から賽の河原の間(正確な位置は不明)に到着し4度目の露営をした。賽の河原までは通常なら徒歩で2時間の距離だったが、極度の飢えと疲労のために1日を要した。

1月26日

村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は青森屯営を出発。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り出発が遅れたことに加え、この日の気温は零下14℃で風雪も厳しく、案内人および軍医の進言により捜索を打ち切って田茂木野へ引き返した。

1月27日

第31連隊(弘前)、午前6時30分増沢を出発。

午後1時18分田代一軒小屋に着き、田代に向かったが視界が悪化し目標の長内文次郎宅の発見に窮し案内人も動揺したため午後8時50分田代にて露営。大きな枯木を中心に直径4m深さ2mの雪壕を掘り、枯れ枝を薪として火を熾し、隊員は立ったまま焚き火で暖を取った。田代の積雪量は5メートル10センチ、最下降気温はマイナス11度。

1月27日

〔第5連隊第5日目〕

1月27日、生き残った隊は協議の末ふた手に分かれることとした。青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。

倉石隊は駒込川方面を進むが、途中青岩付近で崖にはまってしまい、進むことも退くこともできなくなった。日没後、崖の陰に寄って夜を凌ごうとしていたところ、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、倉石の制止を振り切り川に飛び込んだ(3月9日、下流で遺体となって発見)。

神成隊は、目標に対し比較的正しい方角へ進んでいたものの、猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出し、隊は4名となった。やがて鈴木少尉が高地を見に行くと言い残し、隊を離れたが、そのまま帰ってこなかった。さらに及川篤三郎も危篤に陥り手当てもできずに死亡。ついには神成も倒れ、1月27日早朝、神成は後藤に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤は朦朧とした意識の中、危急を知らせるために、単身田茂木野へ向かった。


つづく

2025年1月26日日曜日

「隠れ場所はない」トランプ政権、教会や学校での移民逮捕を可能に...「避難所消滅の危機」と支援団体が警鐘 ; <この政策変更により、移民たちが教育や医療を安心して受ける環境が脅かされる恐れがあり、移民支援団体から強い反発を招いている> — ニューズウィーク日本版

 

浅草の神谷バーで恒例の同級生交歓 2025-01-25

 1月25日(土、昨日)曇りのち晴れ

恒例の同級生交歓会、今回は浅草の神谷バー。

予期してなかったんだけど、さすがに土曜日だけあって、ほぼ満席。食券売り場の女性から、まず席を確保してから、と言われた。

好運にも一席だけ空いていたので、無事にスタートできた。

写真の「1丁目1番1号」は焼酎300mlボトル。










石丸伸二氏の敗訴確定 市長選ポスター代不払い―最高裁(時事)

大杉栄とその時代年表(387) 1902(明治35)年1月20日~24日 〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉 青森第5連隊、天候悪化に遭遇し、第2露営地で多くの死傷者を出す 

 

遭難の3ヶ月程前に撮影された歩兵第5連隊の様子

大杉栄とその時代年表(386) 1902(明治35)年1月11日~22日 子規の苦痛いよいよつのる 「強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった。痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しつづけた。」(関川夏央、前掲書) より続く

1902(明治35)年

1月20日

〈青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊の雪中行軍①〉

(冬季)雪中行軍の目的

日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した日本陸軍にとって、近くに予想される対ロシア戦(日露戦争、明治37年)に備えるための冬季訓練は重要な課題であった。

雪中行軍は、青森歩兵第5連隊210名と弘前歩兵第31連隊37名(他に新聞記者1名)が実行した。

青森歩兵第5連隊の行軍の目的は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査すること。経路は、青森~田代~三本木~八戸間で、最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された。

弘前歩兵第31連隊の計画は、「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。経路は弘前~十和田湖~三本木~田代~青森~浪岡~弘前間で総延長224km。日程は1月20日より11泊12日の予定。


弘前第31連隊は、出発の1ヵ月前の前年12月20日頃、行軍命令を通知。指揮は陸軍歩兵大尉福島泰蔵。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成。出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した。また、木こり、マタギ、農家から情報収集し、冬山での心得(汗をかかないように配慮する、足の凍傷予防のため靴下を3枚重ね履きし、その上から唐辛子をまぶし、さらに油紙を巻くなど)を実践していた。服装は絨衣袴・冬襦袢・冬袴下・外套を着て手套・水筒・雑嚢・背嚢を装着し藁沓を履き寒地着各一を付着し、行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んだ。


青森第5連隊第2大隊は、1月18日、行軍計画の立案者である陸軍歩兵大尉神成文吉の指揮で予行演習を行った。これは中隊規模(約140名、うちかんじき隊20名)の将兵とソリ1台で屯営~小峠間(片道約9km)を往復したもので、好天に恵まれて成功した。これを受け、大隊長・陸軍歩兵少佐山口鋠は屯営~田代間は1日で踏破可能と判断。

1月21日、山口は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた。

行軍隊は大編成(210名)で、1日分の食糧(米、豆、餅、缶詰、漬物、清酒)、燃料(薪と木炭)、大釜と工具など計約1.2tをソリ14台で曳く計画。ソリの重量は1台約80kgあり、4人以上で曳く。加えて行李に詰めた昼食用の弁当1食分、道明寺粉1日分、餅2個(1個50匁=187.5g)の各自携行が命じられ、懐炉の使用が推奨された。

歩兵第5連隊は青森を衛戍地としていた。部隊の指揮を執っていた陸軍歩兵大尉神成文吉(第2大隊第5中隊長)は、羽後国秋田郡鷹巣村(秋田県北秋田郡鷹巣町を経て、現在は同県北秋田市の一部)出身で、陸軍士官学校ではなく陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物で、平民の出身。5連隊の雪中行軍隊は、第2大隊を中心に第5中隊長の神成を中心に編成されたが、第1大隊や第3大隊からも長期伍長が一部選抜された。

行軍には大隊長で陸軍歩兵少佐の山口鋠が随行した。

1月20日

午前5時、第8師団第4旅団第31連隊(弘前)、第1大隊第2中隊長福島蓁蔵大尉ら38名(「東奥日報」記者を含む)、八甲田へ出発。

午後7時、小国部落着。民宿。

21日午前8時、小国部落発。

午後1時15分、切明温泉着。民宿。

1月20日

第8師団第4旅団第5連隊(青森)は雪中行軍計画決定。第5中隊長神成大尉作成。

21日、第2代隊長山口少佐、行軍下命。第2大隊1等軍医村上其一は、この日のような悪天の場合は行軍中止を具申。山口少佐・神成大尉とも受入れず。

1月22日

午前7時、第31連隊(弘前)福島隊、切明温泉発。

午後3時35分、十和田湖畔銀山部落着。民宿。

1月22日

第5連隊(青森)、行軍隊編成。指揮官神成大尉。第1小隊伊藤格明中尉、第2小隊鈴木守登少尉、第3小隊大橋信義少尉、第4小隊水野忠宣少尉、特別小隊中野弁二郎中尉、構成外:第2大隊長山口少佐ら総計210名。行軍は田代に1泊して引返す規模。米は1260合(210×6合/日)。

1月23日

第31連隊(弘前)福島隊、銀山部落発。十和田湖南東縁の宇樽部落に向う。

小休止の後午前9時58分、行軍再開。

午後4時27分、宇樽部落着。劣悪な条件での民宿。

1月23日

〔第5連隊第1日目〕

午前6時55分、第5連隊(青森)神成隊、営門出発。田茂木野村を出外れる頃、村民が明日は「山の神の日」で荒天なので田代行き中止を進言(明治22年1月22日幸畑村民11人遭難死、4年前にも田茂木野村民8名凍死)。

〔天候悪化〕

午前11時30分、神成大尉、小峠丘上着。大休止して昼食のうちに天候悪化。3等軍医永井源吾は神成大尉に帰還を具申、

11時55分、山口少佐が行軍再開号令。

午後4時10分頃、先頭の鈴木小隊、馬立場(732m)着。後方の遅れのためここで大休止。

午後5時、後方が追いつき、行軍再開。胸の高さの雪中を進む。先頭を進む藤本曹長が、円を描いた格好で山口少佐らの移動大隊本部に突き当たる。山口少佐は水野中尉ら3名に田代への道の探索を命じるが、午後8時5分、3人は戻り探索不能と報告。

〔第1露営地〕

午後8時15分、雪中での野営号令。田代まであと1.5kmの平沢の森が最初の露営地。

『遭難始末』によれば、幅2m、長さ5m、深さ2.5m、都合6畳ほどの雪壕を小隊毎に5つ掘り、1壕あたり40名が入った。覆いや敷き藁もなかったため保温性に乏しく、座ることもできなかった。

午後9時頃までには行李隊も全て露営地に到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭約6貫匁(約22.5kg)ずつを分配。しかし40人分を賄うには乏しい量であり、炉火も各壕で1つずつしかおこせなかったため交代で暖を取ることとなったが、着火に1時間余りを要し、炊事用の壕を掘ろうとするも、8尺(約2.4m)掘っても地面に届かず、やむなく雪上にかまどと釜を据えて炊事作業を始めた。炊事用の水も火で雪を融かして得る必要があったが、まず火が容易に点かず、さらに火で床の雪が融けて釜が傾くなど問題が続発し、炊事作業は極めて難航

1月24日

第31連隊(弘前)福島隊、十和田湖南東岸の宇樽部~午後6時55分、戸来まで行軍。民宿。

1月24日

〔第5連隊第2日目〕

午前1時頃、ようやく1食分の生煮えの飯が支給された。将兵は壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、気温零下20℃以下に達しており、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられた。従って長くても1時間半程度しか眠れなかった。多くの将兵が寒気を訴えた。

〔帰営決定〕

午前2時、第5連隊(青森)第2大隊長山口少佐、事態を重く見て将校たちと協議、行軍の目的は達成されたとして帰営を決定。隊は午前2時半に露営地を出発。

〔遭難〕

隊は馬立場を目指すが、午前3時30分頃、駒込川支流にぶつかり、西に進んでいる筈が北西であると気付く。一旦露営地に反転(この反転行で少なくとも9人が崖下に転落)。

午前5時頃、佐藤特務曹長が田代への道を知っていると申し出たため案内させる。しかし、実際は反対の方向に進む。

午前8時30分頃、駒込川本流にぶつかり、支流に沿って鳴沢に引返すことにする。視界10m・気温氷点下25度。

正午頃、倒れる者出始める。将校9人中7人が凍傷。

午後4時頃、第4小隊長水野中尉(華族、紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が倒れる。倉石大尉が500mを1時間かけて水野中尉のもとに到着した時には既に死亡。

〔第2露営地〕

この日の行軍は14時間半に及んだが、それでも前の露営地より直線距離にして約700m進むだけに留まり、夕方頃鳴沢付近にて見出した窪地を次の露営地と定めた。この時点で、落伍者42人。

しかし、隊の統制が取れぬ上に、雪濠を掘ろうにも道具を携行していた者は全員落伍して行方不明となっており、吹き曝しの露天に露営することとなった。食糧は各自携行していた糒(ほしいい)や餅の残りと缶詰があったが、凍結していてほとんど摂食不可能だった。隊は凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌の斉唱や足踏、互いに摩擦し合うなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温の低下で体感温度が零下50℃近く、前日からほとんど不眠不休で絶食状態ということもあり、多数の将兵が昏倒・凍死した。第2露営地はこの遭難で最も多くの死傷者を出した場所となった

午後9時、第6中隊長興津大尉ら昏倒。

午後10時頃、夜明けを待って山口少佐は青森への帰還を決定。

青森では、第5連隊長津下中佐が、川和田少尉より前日夜半まで田茂木野で待つが行軍隊戻らずとの報告受ける。新たに古閑中尉ら40人を幸畑に派出。遭難を想定するのではなく、食糧を準備して出迎えるため。


つづく

2025年1月25日土曜日

大杉栄とその時代年表(386) 1902(明治35)年1月11日~22日 子規の苦痛いよいよつのる 「強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった。痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しつづけた。」(関川夏央、前掲書)

 

広瀬武夫

大杉栄とその時代年表(385) 1902(明治35)年1月1日~10日 大杉栄(17)上京、東京学院中学校五年級受験科に入る 「一時間の間、膝にちゃんと手をおいて不動の姿勢のまま瞬き一つせず、先生の顔をにらめている幼年学校と較べれば、まるで違った世界だった。僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。」(自叙伝) より続く

1902(明治35)年

1月11日

啄木(16)、「麦羊子」の名で「『草わかば』を評す」(「岩手日報」11~12日)。

1月13日

独・清国、山東五処鉱務章程草約成立。

1月13日

清国、白蓮・八卦などの邪教厳禁布告。

1月14日

子規、肉体の苦痛いよいよつのる。


強いものにかえてもらったばかりの麻痺剤(モルヒネ)が効かなくなった痛みに耐えかねた子規は、「馬鹿野郎」「糞野郎」「コン畜生」などと、誰にいうでもない呪阻の語を発しつづけた。(関川夏央、前掲書)

『子規全集』第8巻にある漢詩で、年代順に配された一番最後の作品。題が無く編者が「無題」とし、「病中子規」の署名がある。『子規遺墨集』に収められたもので、「明治三十四年、叫喚の間にできたもの」という説明があるが、脚注では、「アルス版全集・改造社版全集の漢詩の部の編輯後記では明治三十五年の偈とする」とある、という。諸説ある中で、明治35年1月14日頃の作、と考えられている。この作品は、次のようなものである。


   馬鹿野郎糞野郎   馬鹿野郎 糞野郎

   一棒打尽金剛王   一棒 打ち尽くす 金剛王

   再過五台山下路   再び過ぐ 五台山下の路

   野草花開風自涼   野草 花は開き 風自から涼し


   「馬鹿野郎、糞野郎」

   と叫んで、一本の棒で金剛王を打ちのめす。

   また五台山の麓の道を歩くと、

   野には草が茂り花が咲いて、風が涼しく吹いている。

1月15日

文部省、実業補習学校規程に関する件交付。実業教科を主とし、普通教育の補習を従とする。

1月15日

クウェート亡命のサウード家アブド・アル・アジズ(イブン・サウード)、ラシド家の支配からリャド急襲奪還。サウジアラビアの基礎を築く。

1月16日

広瀬武夫少佐、ペテルブルク出発。シベリア経由帰国へ

1月17日

メキシコ市で地震、死者300人。

1月18日

アモイ・コロンス(鼓浪嶼)外国租界土地規則及び細則協定。

1月19日

島田三郎(49)、横浜・横浜会館での足尾鉱毒窮民救済演説会で田中正造らと共に演説。

1月19日

子規の終焉が近い事を誰もが感じ始める。

病状悪化し麻痺剤を連日使用。

虚子、左千夫、碧梧桐が「病牀日誌」をつけはじめる。


「一月十九日、子規の衰弱がはなはだしいと聞き、羯南がきた。碧梧桐夫妻がきた。容易ならぬ情勢と見た碧梧桐は、虚子に電話で連絡して来訪を促した。・・・・・

五百木飄亭もきたこの日、医師からより強い麻痺剤が届いた。それを服用し、羯南が例のごとく子規の手を握りながら額を撫してやると、いくらか苦しみがやわらいだ。

夕方、碧梧桐、飄亭、虚子が鰻丼や蕎麦を食する光景に接した子規もようやく食欲きざし、虚子持参の神田「薮」のザルを食べた。

しかし誰の目にも終焉の遠からぬことは明らかだったから、以後は交替で子規庵につめる必要を感じた。すでに前年の暮れから、左千夫、秀真、麓、赤木格堂、鼠骨、それに碧梧桐と虚子がかわるがわる侍して律の看護を手伝い、子規の話相手たろうと申し合わせてあった。これに歌人の森田義郎を加えて八人、歌人俳人半数ずつの態勢で臨むつもりでいた。

当直要員間の伝達を主目的とする「病牀日記」をつけることを碧梧桐と虚子とで決め、その日は姿を見せなかった左千夫にそのむね通知した。」(関川夏央、前掲書)

1月20日

英、ベルファストで操業中の紡績工場倒壊。女子工員12人死亡、20~30人負傷。

1月20日

ロンドンの漱石


「一月二十日(月)、鏡から手紙来る。前年九月二十二日(日)に出した手紙の返事である。「それやこれや」で、手紙を出せなかったという弁解に、ひどく憤慨する。川住義謙(推定)の死去を知る。」(荒正人、前掲書)


1月21日

この日の堺利彦の日記。待ちに待った自転車が届いたことが書かれている。堺は初めて会社から自宅まで自転車で帰り、約50分かかったが、「愉快でたまらぬ」と喜んでいる。

1月21日

独アナトリア鉄道会社、オスマン帝国のアブドゥル・ハミト2世によりコニヤ~バスラ間の延長承認。バグダード鉄道敷設権獲得。バグダード鉄道の最終的承認。

1月22日

オーストリア皇女エリーザベト(18)、皇位継承権・法的相続権放棄宣誓式


つづく

トランプ氏、連邦政府の多様性事業スタッフ全員を「直ちに」有給休暇扱いにと命令(BBC);「トランプ氏の命令はさらに、リンドン・ジョンソン元大統領が1965年に署名した大統領令第11246号を撤回した。ジョンソン政権のこの大統領例は、連邦政府と契約する業者が自社内での採用時に「人種、肌の色、宗教、性別、性的指向、性自認、国籍」に基づいて差別することを違法としていた。」

 

2025年1月24日金曜日

鎌倉 宝戒寺のウメ、ツバキ 大巧寺の寒咲アヤメ、ツバキ(モロヒト) 妙本寺の紅梅 2025-01-24

 1月24日(金)晴れ

鎌倉、宝戒寺の梅。まだまだの状況。

一本だけ、昨年まではなかったような気がする薄ピンクの梅。八分咲きくらいかな。

他には、通路から離れた位置にあと一本咲いている程度。


▼ツバキもポツリポツリと咲いている程度




▼大巧寺の寒咲アヤメ
ウメは通路から離れたところに少し咲いている程度。
通路沿いのウメはあと一息で開花する寸前のがチラホラ

▼ツバキ(師人モロヒト)

▼妙本寺の梅
一本の紅梅にチラホラ咲き程度
白梅はまだまだ