2025年1月11日土曜日

大杉栄とその時代年表(372) 1901(明治34)年10月23日~29日 「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」 (子規『仰臥漫録』)

 

田中正造

大杉栄とその時代年表(371) 1901(明治34)年10月15日~22日 「十月十六日 終日無客 夜秀真来る つとめて話を絶やさぬようにする苦辛(くしん)見えて気の毒なり」 / 「十月二十一日 客なし 夜に入りて癇癪起らんとす 病牀の敷布団を取り代うることによりて癇癪を欺きおわる」(子規『仰臥漫録』) より続く

1901(明治34)年

10月23日

田中正造、足尾銅山鉱毒事件に抗議し、衆議院議員を辞職


10月23日

「十月二十三日 ・・・田中某来る 手土産ビスケット

河東繁枝子(しげえこ)来る 手土産鮭の味噌漬二切

左千夫来る 手土産葡萄一籃、外に蕨真(けつしん)よりの届けもの栗一袋、・・・

夕刻大阪の文淵堂主人来る 手土産奈良漬一桶

左千夫と共に晩餐を喫す 繁枝子にも次の間において同じ晩餐を出すらし

夜秀真来る 故郷より携え来れりとて手土産柿二種(江戸一及び百目(ひやくめ)) マルメロ三個

(略)」(子規『仰臥漫録』)


この日、子規、虚子より2円借りる。


『仰臥漫録』の末尾

「赤黄緑三色ノ木綿ヲ縫ヒ合セテ財布ヲ作ル之ヲ頭上ノ力綱ニ掛ク 中ニ二円アリ コレ今月分ノ余ノ雑用トシテ虚子ヨリ借ル所」

10月24日

米での外債募集不成立が暴露されたため、日本の株式相場暴落。


10月24日

「十月二十四日 

(いつものように、朝昼夜の食事内容)

夜九月十三夜なり 庭の虫声なお全く衰えず

月は薄曇なりと 夜半より雨」(子規『仰臥漫録』)

10月24日

米、ブロウニー・ボックス・カメラの成功をうけてイーストマン・コダック社(株)が設立。


10月25日

「「十月廿五日 曇

(略)

『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物(きわもの)として流行し六版七版に及ぶ

近頃『二六新報』へ自殺せんとする由(よし)投書せし人あり」

その人が忽ち世の評判となり、金三百円ほどを得、煙草店まで出してもらったというエピソードを紹介し、これこそ『一年有半』と好一対のものとして、

「いづれも生命を売物にしたるは卑し」

と断じ、俳句四句を添えているのた。

「病牀の財布も秋の錦かな

栗飯や病人ながら大食(おおくら)ひ

かぶりつく熟柿や髭を汚しけり

驚くや夕顔落ちし夜半の音」

ことに最後の一句、不治の病に〝とらわれ人〞のねむれぬ夜の長さ、思いの深さを - 理でなく感性で、嘆かず、むしろ美しきに転化してみせていると見るのは私だけだろうか。」(早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」)


子規、虚子より20円を借りる。


「終(つい)ニ虚子ヨリ二十円借ルコトトナリ已ニ現金十一円請取リタリ

「コレハ借銭卜申シテモ返スアテモナク死後誰カ返シテクレルダロー位ノコト也 誰モ返サヾルトキハ家具家財書籍何ニテモ我内ニアル者持チ行カレテ苦情ナキ者也トノ証文デモ書イテオクベシ」

10月26日

臨時台湾旧慣調査規則公布。台湾総督の管轄下で、法制および農工商経済に関する旧慣を調査。


10月26日

「十月二十六日 

(いつものように、朝昼夜の食事内容)

女客三人あり

午後麓(ふもと)来る 手土産鶏肉たたき 外に古渡(こわたり)更紗の財布に金二円入れて来る 約束なれば受け取る

石巻匏瓜(ほうか)より生鮭一尾来る

夜鼠骨来る


この頃の容態及び毎日の例

病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰えて行くことは争われぬ。膿の出る口は次第にふえる。寝返りは次第にむつかしくなる。衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寐て居るような事が多い。

(略)」(子規『仰臥漫録』)

10月27日

台湾剣潭山に創建した官弊大社台湾神社、鎮座式挙行。

10月27日

長野県松本市、労働者大懇親会および普通選挙政談演説大会開催。大井憲太郎ら参加。女子600人が参加。

10月27日

10月27日 子規、虚子から借りた金で料理屋から会席膳2人分を取り寄せ母と妹に対して看護の労苦を労う。


「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」


「・・・・・病床ニアリテサシミ許リ食フテ居ル余ニハ其料理ガ珍ラシクモアリウマクモアル。平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ居ル母ヤ妹ニハ更ニ珍ラシクモアリ更ニウマクモアルノダ。」(子規『仰臥漫録』)

10月28日

10月28日 子規の誕生日(旧暦9月17日)の『仰臥漫録』。


「前日の「御馳走ノ残り」を「午飯」に食べたことが記され、夕食も「誕生日」を祝う「小豆飯」で、「左千夫鼠骨卜共ニ」満足して食べたとある。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


「十月二十八日、繃帯取換えの際の傷みは堪えがたく「号泣又号泣、困難を窮む」。」(関川夏央、前掲書)

10月29日

10月29日 「十月二十九日 曇」で『仰臥漫録』が中断(翌明治35年3月10日に再開)


「十月二十九日、虚子がきて『仰臥漫録』を「ホトトギス」に連載できぬか、といったとき、子規は不快を感じた。自分の死への道程を『一年有半』のごとく万人の娯楽とするつもりか、と思ったのである。

子規はその日、十月二十九日の日付と「曇」とのみ書いて『仰臥漫録』を中断する。」(関川夏央、前掲書)


つづく

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