1901(明治34)年
10月15日
10月15日~16日 ロンドンの漱石
「十月十五日(火)、「Cassel's Wild Birds and Illustrated Eng. Hist.」(「日記」)(二冊の本が届いたものと思われる)午後、 Dr. Craig を訪ねる。不在である。借りていた書物を返却。 Dr. Craig の氏名はこの日記以後見当らない。
十月十六日(水)、鈴木禎次から『太陽』届く。 Bernard Bosanquet (ボザンケット 1848-1923)読み始める。(「漱石文庫」東北大学附属図書館蔵には ""A History of Aesthetic"" 1892あり)""Studio""届く。」(荒正人、前掲書)
10月16日
「十月十六日 終日無客 夜秀真来る つとめて話を絶やさぬようにする苦辛(くしん)見えて気の毒なり」(子規『仰臥漫録』)
10月16日
セオドア・ルーズベルト米大統領、黒人教育家・改革論者のブッカー・T・ワシントンをホワイトハウスの晩餐会に招待。南部政敵の怒り。
28日、人種差別を不服とする暴動、死者34人。
10月16日
林董駐公使(51)、英外相ヘンリー・ランスダウン(56)と「日英同盟」交渉開始。
10月17日
「十月十七日 雨 鼠骨来る 鉱毒地より帰れるなり
午後碧梧桐来る 今日は神嘗祭なりと 夜紅緑来る これは山会参会なりと (略)」(子規『仰臥漫録』)
10月18日
海軍省、無線電信機を兵器として採用。火花式で、船舶間到達距離は約130キロメートル。
10月18日
伊藤博文(60)、横浜港から加賀丸で出航、日露漁業協商の交渉のため、アメリカ~ヨーロッパに向かう。翌年2月25日長崎に帰着。
10月18日
「十月十八日 (略)
秀真雨を犯して来る
(略)
鼠骨車にて来る 十一時頃車にて帰る 秀真泊る」(子規『仰臥漫録』)
10月18日
英、ウィリアム・ヘンリー・ウィルス、インペリアル・タバコ会社設立。
10月19日
河竹黙阿弥「弁天小僧」、深川座で無断上演。版権問題となる。
10月19日
この日の子規『仰臥漫録』
「十月十九日。子規はふと昔をかえりみた。
十六、七歳の頃は太政大臣になるつもりでいた。予備門入学後は哲学者たろうと思ったが、文学も男子一生の仕事と考えをかえ、元来好んでいた文学に志を移した - これは米山保三郎の影響であろう。
そののちも理論上は太政大臣を軽視するも、感情の上ではやはり無上の栄職となんとなく思いなしていた。だが昨年来、大臣も村長も公のためにつくすという点では軽重なきと悟るに至った - これは長塚節の態度から学んだのであろう。
もし自分が健康であり、文学で米代を得ることができない身の上であったなら、幼稚園の先生などをしてみたい。造林業もおもしろかろうと思う。
幼稚園の先生とはどこから出た考えかわからない。あるいは陸家の子供たちを見てのことか。造林業の方は、短歌の弟子蕨真(けつしん)の兄の影響ではないか。
しかし病は進む。子規の体はもはや穴だらけである。歯茎からの膿もとまらぬから、始終綿をちぎっては口に含んでいる。もはや左側の歯ではものが噛めない。」(関川夏央、前掲書)
10月20日
「十月二十日 晴 鼠骨来る 加藤叔父来らる 午後虚子来る
(略)
午飯三人共食う、・・・
(略)
晩餐虚子と共にす ・・・」(子規『仰臥漫録』)
10月20日
~1902年1月、アインシュタイン、シャフハウゼンにて臨時教職につく。
10月21日
各国公使に永代借地上の家屋に対する課税徴収を猶予せざる旨通告。英・仏・独など抗議。
10月21日
「十月二十一日 客なし 夜に入りて癇癪起らんとす 病牀の敷布団を取り代うることによりて癇癪を欺きおわる」(子規『仰臥漫録』)
10月21日
10月21日~22日 ロンドンの漱石
「十月二十一日(月)、「Hundred Pictures来ル」(「日記」)。
十月二十二日(火)、 ""Living London"" ed. by G.R. Sims. (London:Cassell & Co. 1901)と ""Cassell's Illustrated History of England"" 届く」(荒正人、前掲書)
10月22日
日本女子大学校、第1回運動会、東京飛鳥山。
10月22日
「十月二十二日 鼠骨来る ・・・」(子規『仰臥漫録』)
10月22日
第2回汎米会議開催(メキシコシティ)。
つづく
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