1903(明治36)年
9月11日
東京養老院設立。
9月12日
大阪市営電気軌道花園橋~築港埋立地間が開業。市営電車のはじめ。
9月12日
(露暦8/30)ロシア、ガボン、労働者喫茶クラブ開く。
9月13日
9代目市川団十郎(66)、茅ヶ崎の別荘孤松庵で没。
9月13日
独、社会民主党のドレスデン大会。~20日。
15日、改良主義派の綱領改正案否決。
20日、ベルンシュタイン修正主義批判決議。
9月14日
(漱石)「九月十四日(月)、曇。菅虎雄に、依然として神経衰弱だと訴えている。夜、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)
9月15日
清国外交部慶親王、日英米の圧力でロシアへ満州撤兵履行要求。
9月17日
内村鑑三「絶対非戦主義」発表(『聖書の研究』、『神戸クロニクル』)。
9月17日
オーストリー皇帝フランツ・ヨーゼフ、オーストリー・ハンガリー統一軍維持宣言。「フロピー勅令」。ガリツィアのフロピー司令部部隊に対し軍隊統合命令。オーストリー=ハンガリー軍統合強調。軍内での母国語使用などを求めるマジャール人の声を無視。ハンガリーで激しい抗議行動。
9月18日
英、ジョゼフ・チェンバレン、植民相辞任。
9月20日
島田三郎(50)、横浜・羽衣座での正義同志派県会議員応援政談演説会で演説。
21日平沼座、22日千代崎亭でも演説会。
9月21日
漱石、新学年になり、「英文学概説」の講義。2年間続けて、後の単行本「文学論」を始める。英語講読は「マクベス」などシェイクスピアの作品の講読を始め、非常な人気を得る。
「九月二十一日(月)、雨。東京帝国大学文科大学で、「英文学概説」、前年度に続いて開講する。(二年続け、三十八年六月に終講する。「形式論」の後半を講義する代りに、「内容論」に入る。「形式論」の後半の準備もしたが、そのノートは廃棄する。(野間真綱))午後遅く、寺田寅彦来る。
九月二十二日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth (『マクベス』)を講義する。一番広い二十番教室で行い、聴講の学生は、立錐の余地ないほど集る。(Macbeth に続いて、 King Lear (『リヤ王』)・ Hamlet (『ハムレット』)・ Tempest (『テンペスト』)・ Othello (『オセロ』)・ Merchant of Venice (『ヴェニスの商人』)・ Romeo and Juliet (『ロミオとジュリエット』)と、 Shakespeare 作品の連続講義を明治四十年三月まで行う。)寺田寅彦、『マクスウェルの伝記』を学校から借り出し持って来る。」
「一般講義として新しく始める。文科大学で最も大きい二十番教室がいつも満員になり、好評である。森田草平・野村伝四・二宮行雄・辻村鑑らは第一高等学校から、中川芳太郎は第三高等学校から、川井田勝助・今井喜・戒能義重らは第五高等学校から進学する。(栗田元吉の思い出による)漱石は、 ""The Works of Shakespeare"", 1899-1924 (W.J. Craig の編集は、一八九九年から一九〇六年 デイトン版)を持って来る。」(荒正人、前掲書)
「九月二十一日月雨冷
… 夏目講師の授業本日より始まる。過ぎし学期の後を引続いて講義せんとする企なり。文学の概念とは其(の)研究題目なり。…」(金子健二日記)
「明治三十六年九月の新学年には、文科大学英文科から何人かの学生の顔が消えていた。夏目講師に落第させられた小山内薫は授業に出なくなっていた。そのほかにも容赦なく落第させられた数名の学生がいた。川田順は英文科に愛想をつかせて法科に籍を転じた。
九月二十二日の火曜日、金之助の学年最初の講義がおこなわれた日は雨で、教室は冷えぴえとしていた。学生たちの心もまた冷え切っていた。彼らは依然として金之助の分析的な講義に反感を持ち:自負心を傷つけられるような屈辱感を覚えていたからである。
しかしそれから一週間後の九月二十九日、彼が各科共通の一般講義として『マクベス』の評釈を開講したとき、文科大学で一番大きな二十番教室は聴講生で立錐の余地もないほどになった。これはひとつには前年の秋に欧州巡業から帰朝した川上音二郎・貞奴の一座が、この年の二月明治座で『オセロ』を上演して大当りをとり、シェイクスピアに対する関心が知的青年のあいだにたかまっていたためである。早稲田大学では明治二十三年以来坪内逍遥がシェイクスピアを講じて評判になっていたから、金之助はいわば逍遥の向うを張るかたちになった。彼がこの第一議に力を入れたのは当然である。学生の反響は至極良好で、第二講のときには法科や理科の学生まで評判を聞きつけて聴きに来るようになった。金之助はこの一般講義で『英文学概説』の不評を一挙に挽回し、にわかに文科大学随一の人気者になったのである。」(江藤淳『夏目漱石とその次第2』)
9月21日
米、初の西部劇映画『キット・カーソン』公開。
9月22日
ローゼン露公使、日露交渉に関しアレクセエフ極東総督(大将)と会談するため旅順に出発。
この頃、旅順口湾での艦隊演習のためにウラジオストクから巡洋艦「アスコリド」以下軍艦13隻が出動、日本の国内世論を一層刺戟する。
9月22日
桂内閣一部改造(兼任大臣を専任大臣に代える)。文相に貴族院議員久保田譲、法相に司法総務長官波多野敬直、逓相に警視総監大浦兼武が親任される。
9月22日
永井荷風(23)、横浜港から日本郵船「信濃丸」(6,388トン)で横浜港を出航、一等船客。 実業のためのアメリカ留学。巌谷小波や木曜会の仲間が見送る。タコマ、カラマズ、ニューヨーク、ワシントンD.C.などでフランス語を修める傍ら、日本大使館・正金銀行に勤める。ヨーロッパ滞在を経て、明治41年7月に帰国。
「一等船客は簡単な審査で済んだが、三等になると審査の目が厳しく、特に出稼ぎ労働者が主体の普通三等船客になると、渡航の目的から身元の引き受け人、当座の現金の持ち合わせなど厳しくチェックされ、検疫では全員裸にされて長時間待たされるなど屈辱的な扱いを受けた。その上、トラホーマや伝染病の徽候が少しでもあると、入国が拒否され、日本に強制送還された。なけなしの金をはたき、その上借金までして三等船室に乗り込み、奴隷のような待遇に耐えて太平洋を渡り、ようやくアメリカの大地を踏んだと思ったら、その場で入国を拒否され、泣く泣く日本に送り返された出稼ぎ労働者も少なくなかったのである」(末延芳晴『永井荷風の見たあめりか』)
10月5日、カナダのヴィクトリア港に着いて、タコマ市に居住。
10月24日、シアトルに遊び、平原での牧畜の風景に感じ入る。
つづく
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