1903(明治36)年
9月24日
(漱石)「九月二十四日(木)、晴。秋季皇霊祭。(秋分)午後、寺田寅彦・野老山長角来る。
九月二十七日(日)、曇、小雨。午前、外出中に寺田寅彦来る。
九月二十八日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。
九月二十九日(火)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで、「英文学概説」を講義する。
九月中旬または下旬(推定)、第一高等学校寄宿寮の集会で、「外遊の印象」語る。
九月および十月、神経衰弱やや回復する。(鏡)」(荒正人、前掲書)
金子健二の日記によれば、新年度になって「内容論」に移行した漱石の概説講義は「夏目氏の講義本日はじめて面白かりき」(9月28日)と肯定的評価もみられるようになるが、「何等の聞くべきものなし」(10月29日)、「無価値没趣味の講義」(11月16日)、「コモンセンスにて考へ得らるゝ陳腐の講義なり。只だ採るべき点は其例証の広きにあり」(11月30日)など酷評は続く。
一方、作品講読講義はあらたにシェイクスピアの『マクベス』を取り上げたが、これが大当たりし、英文学科以外の学生も多く聴講に詰めかけた。「出席者廿(にじゅう)番教室に充溢す。前学年に比して一大変化を来〔きた〕せり」(9月29日)、「出席者多し。先生快感胸に溢るゝものあらん」(10月1日)とある。「マクベス講義及文学概論講義に出席す。夏目氏は自らも博学を以て任ぜる如く吾人も亦〔ま〕た其深遠なる読書眼を歎称せざるを得ず。たゞ其欠点を上ぐれば、きざなる所ありて相手の者に厭〔い〕や味を起さしむることなり。なかなか一すじ縄にてはくへぬしろものなり」(10月13日)などという観察も辛辣で面白いが、少しずつ漱石が尊敬を集めていったことが伺える。『マクベス』に続く『リア王』講読では、「出席者の数は以前よりも却〔かえっ〕て増加」(1904年2月23日)し、「大入繁昌札止め景気であつた。文科大学は夏目先生たゞ一人で持つて居らるゝやうに感じた」(金子1948: 90)という。
9月29日
ロシア、旅順口の海軍要塞、軍艦3隻で砲戦演習。
9月29日
小村外相、駐韓公使林権助に日韓密約に関する意見聴取文書送る。
韓国側は日露間の紛争に関して局外中立を希望するが、戦争の陸上作戦は朝鮮半島南部に上陸、北上して北部での戦闘が想定され、韓国との協定は必須と判断。林公使は、密約は非常に困難であるが、乙未事変の亡命者処分、借款、有力者への運動費提供などを条件として交渉する道はあると回答。林の想定は、排日的な高宗を支える中立主義者李容翊(イヨンイク)の存在。小村外相は李容翊と密接な関係にあり韓国政府顧問に招かれた関西財界のボス大三輪長兵衛を通じて抱込みを図る。
9月30日
祇園の芸妓加藤雪、アメリカ人の富豪モルガンに落籍される。
翌年1月結婚、のち渡米。
9月30日
参謀次長田村怡与造(いよぞう)少将、危篤。
9月30日
池辺三山、京都南禅寺別荘無隣庵の山県有朋を訪れ、山県に「開戦も覚悟」と認めさせる。
9月29日夜6時、新橋駅で神戸行き「急行列車」に乗車。翌朝7時27分、京都・七条停車場で下車、三条の宿に旅装を解いて、すぐに南禅寺の山県の別荘無隣庵に向かう。
三山は外務省の日露交渉担当坂田重次郎参事官の「元老が軟弱で日露交渉が進まないので山県を動かしてほしい」という頼みをきく。
日露協商路線はロシアに利用されるだけであり、日が経つにつれ、ロシアは極東に軍を集め、日本軍は不利になる。そして「此機を造るの力は、閣下最も多く之を養えり。願わくは今日において之を揮え。かく余が言いたる時、いかなるはずみなりけん、山(山県)は少々落涙の体にて、座前の几に倚りたるまゝ、頭を俯し、双手にて老眼を一寸抑えたり。余も少々涙を浮ぶ」(「三山日記」)という様子だった。さらに三山は、ロシアと妥協すべきでなく「一歩退譲は万仞の墜落である」と力説、早期開戦を訴えた。
会見は三時間を越し、辞去したのは正午前だった。別れ際山県は、今日の面会は内密に、という。三山は「頼めるだけ頼める人にて、総てを頼むべき程の人にはあらず。かつ気の毒にも、はや老いたり。時局は遂に秋来開乃理に頼るの外なし。しかし、菊が開くか開かぬかは未だ分からず。開かぬ前に霜の降る事もあるべし」(同)と思うのだった。
三山は翌日(10月1日)、大阪人りする。日露開戦必至とみて、村山・上野両社主はじめ大阪朝日の幹部にはかり、戦時報道体制を築くためである。通信網の整備、戦時通信任務規定、戦時通信員給与規程、さらに戦時通信賞恤規程を作り上げ、特派記者の選定も進めた。後に国内の専用電話設置の準備、外国紙との提携など、矢継ぎ早に手を打っている。こうした準備は他社はまだまだだった。賞恤規程とは、戦地でいい仕事をした記者の功労の賞や、万一殉職した時の弔慰金などを定めたもの。
9月末
フランツ・ヨーゼフとニコライ2世、バルカン半島統治権で協定。西部をオーストリア帝国、東部をロシア地区とする。ロシアは日露戦争に備えて西方の安全確保のため譲歩。
10月
朝鮮、日露緊張の中で韓国政府の戦時局外中立の対外工作開始。
10月
清国、日米と通商航海条約を追補。
10月
「東京朝日新聞」がこの月から特派員を佐世保軍港に送り込む。開戦となったら一番に従軍させてもらおうと、軍部との交流を密にしながら、待機させる。特派員は「東京朝日」の上野靺鞨(まつかつ)と「大阪朝日」の吉村胆南。
10月
国木田独歩「正直者」(新著文芸)10
10月
啄木(17)、秋以降~翌年、アメリカの詩集「Surf and Wave」の影響を受け、最初の詩稿ノート「EBB AND FLOW」を作成。作品352篇の中からアメリカの詩人の作品8、イギリス26、ドイツ3、イタリア1、アイルランド1、不明2、合計41篇を書き写す。この詩集の影響ののもと、詩作に志し新境地を開く。
10月
北輝次郎(21歳、一輝)「佐渡新聞』に連載論文で「吾人は社会主義者なり」と述べる。11月、『平民新聞』が創刊されると数十部取り寄せて知人に配布する。
10月
吉川英治(11)、家の没落で小学校高等科を退学、横浜関内住吉町の川村印房店に小僧に出される。
10月
フィリピンのホロ島でハッサンの乱(~1904年11月)。対米反乱。
10月
マックス・ウェーバー、ハイデルベルク大学で講義義務のない名誉教授の地位を与えられる。
10月1日
浅草六区、初の映画常設館の電気館が開場
10月1日
粗製樟脳・樟脳油専売法施行。
10月1日
(漱石)「十月一日(木)、雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。法科大学や理科大学の学生も聴講に来る。」(荒正人、前掲書)
10月1日
プロ野球大リーグ第1回ワールド・シリーズ開幕。ボストン球場。
10月2日
オーストリア・ドイツ両皇帝、ミュルツシュテークで会見。バルカンの現状維持を決定。マケドニア改革案作成。オスマン帝国に改革受入れを要求。
10月3日
日本が8月12日に出した日露商議条件、ロシアは拒絶。旅順より帰着したロシア駐日公使ローゼン、小村寿太郎外相にロシア側の協定対案(満州領有宣言、韓国の南部2/3のみ日本の勢力下を認める)提出。6日交渉開始。
10月4日
(漱石)「十月四日(日)、晴。「夏目先生を誘ひて白馬會。研精會。紫玉會、美術協合の絵画を見る。青陽楼にて昼食。田端へ散歩す。筑波園にて油紙のスケッチする男あり。拙劣見るに堪へず。花見寺には弓術の會あり。」(「寺田寅彦日記」)(田端へ散歩したのは、寺田寅彦一人であったかも知れぬ)」(荒正人、前掲書)
「青陽横とは上野の山下にあった西洋料理の店とあるが、山と不忍池の間らしい。いまの東照宮への石段の下から広小路にかけては料亭などが軒を並べていた。無極亨、清涼亨、雁鍋などである。青陽機もそのなかにあった。「西洋」の音を取ったのであろう。はじめ京橋に店を出し、牛込、上野などに支店を出したらしい。ここの主人は『日本支那西洋料理独案内』なる本を校閲してもいる。菊池寛ははじめて上京した時、『日本新聞』にここでロールキャベツをご馳走になったが、「震災までは確かにあった」(『半生記』)と書いている。たしかに尾形亀之助は大正十一年、ここで三科インディペンデントの会を催しているし、ブブノワの個展も開かれた。
絵を見た後、山を下りて食事をした。そのあと寅彦は「田端を散歩す。筑波園にて油絵のスケッチする男あり。拙劣見るに堪えず。花見寺には弓術の会あり」と書いている。
このことについては寅彦はのちに「いつか道灌山へ夏日先生と二人で散歩に行った時、そこの崖の上で下の平野を写生していた素人絵かきがあった。その絵があんまりのんきで、その描き方があんまり気楽なので、思わず二人で笑ってしまった事がある」(「中村彝氏の追憶」大正十四年)
と書いている。よほど忘れかねた一件なのだろう。
筑波園は田端にあったこれも料亭で、郊外の田端にはほかに白梅園や自笑軒などの風流な料亭がいくつかあった。東京最北の丘で束に筑波山を望むことからそう名付けられたのであろう。花寺とは日暮里にあった修性院、妙隆寺、青雲寺あたりのこと。江戸の頃、この辺りの寺が庭づくりをして人々を集めた。ほかに月見寺本行寺、雪見寺浄光寺もある。明治三十年代になっても、ここでは観光イベントが行われていたとみえる。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)
つづく
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