2013年12月2日月曜日

永承6年(1051)3月 鬼切部の戦い(前九年の役)Ⅲ 「六箇郡の司」と安倍氏 鬼切部の戦いの位置付け

北の丸公園 2013-11-29
*
【「六箇郡の司」と安倍氏】

『陸奥話記』(『群書類従』合戦部冒頭)は、「六箇郡の司に安倍頼良といふ者ありき」で始まり、「これ同忠良が子なり。父祖忠頼東夷酋長」と続く。
頼良(のち頼時と改名)の祖父忠頼は、その存在を疑うむきもあるが、実在したとすれば安倍氏は頼長の時代まで3代で力を蓄えてきたことになる。1世代30年とすれば10世紀後半くらいが安倍氏が台頭し始めた時期となる。
この時期は王朝国家の段階であり、忠頼の「東夷酋長」(蔑視的表現か否かは疑問が残る)が、「東夷」の成敗・統轄権を有すると理解するなら(=俘囚の長としての政治的地位の表現と理解すれば)、中央権力との相対的自立性を強調し、安倍氏を俘囚の代弁者の側面のみで考えるのは問題が残る。

安倍氏は俘囚の支配を王朝国家より委任され、中央政府と協調体制のもとにある。
頼良時代の「六箇郡の司」もこの観点から理解されるべきもの。

安倍氏の末裔というべき奥州藤原氏は「奥六郡」を基盤としたが、これは安倍氏以来の伝統的支配領域であった。

「六箇郡」は、陸奥国北部(ほぼ岩手県北上盆地あたり)に位置する胆沢・和賀・江刺・稗貫・紫波(志波)・岩手の6郡をいい、安倍氏はこの地域の総郡司ともいうべき立場。
「奥六郡」ともいわれるこの地域は、陸奥国の奥に位置する「奥郡」を構成するもので、多賀国府が置かれた陸奥国南半分の領域(ほぼ宮城・福島県)とは支配領域の位相を異にしている。

「奥郡」は律令国家の時代、中央政府の支配の外に位置していた。
平安初期(9世紀初頭)の坂上田村麻呂の時代に胆沢城が設けられ、鎮守府がここに移されて、「点」としての支配が実現する。
「奥六郡」は、鎮守府がある胆沢郡を含めた対俘囚の最前線地域。
六郡のうち成立が最も遅いのは最北の岩手郡(盛岡とその北)であり、これが10世紀後半とされ、この段階までには「奥六郡」が成立したとみられる。

糠部(ぬかのぶ)など更に北方の地域支配は、更に時代が下る。
奥六郡の最南に位置した胆沢郡には鎮守府が置かれ、安倍頼良の「六箇郡の司」(総郡司)は、鎮守府体制の一環として、王朝国家の辺境支配を委任された存在とみることができる。

頼良の地位は父祖以来の「東夷酋長」としての実力の帰着点であって、鎮守府側もそうした安倍氏の勢力を俘囚統治に活用した。
『陸奥話記』が記す鬼切部合戦の背景には、陸奥における安倍氏との協調体制の破綻がある。
衣川以南の越境という現実が、住み分け・協調路線への挑戦と受け取られた。
初戦の鬼切部の合戦は、安倍氏の拠点「奥六郡」の南方の鬼切部でなされた。
『陸奥話記』によれば、安倍氏の拠点は既に「奥六郡」を南に越えた磐井郡に、河崎(東磐井郡川崎付近)・小松(一関市萩荘上黒沢付近)・石坂(一関市赤荻付近)の三柵が設けられていた。
安倍氏の防衛支配拠点として十二の柵(『今昔物語』では「楯」と表記)が知られるが、この三柵は衣川以南に位置し、同氏の勢力南下の状況が推測される。

鬼切部合戦の地はこの南下する安倍氏に対し、出羽から来援した秋田城介平重成軍と、多賀国府から北上する陸奥守藤原登任軍の三者の接合部にあたる。
安倍氏が婚姻関係をもった藤原経清や平永衡は、阿武隈川沿いの亘理・伊具両郡の支配者でもあり、同一族が陸奥南部(宮城県側)へと南進するための足場となった。

【鬼切部の戦いの位置付け】
合戦は陸奥守藤原登任・秋田城介平重成(繁成)による安倍氏牽制の戦いだった。
戦闘は源頼義の赴任以前でもあり、前九年合戦の前哨戦である。
安倍氏の衣川以南への領域拡大が、陸奥国衙を刺激したとの『陸奥話記』の記事以外、この事件の詳細は定かではない。

安倍氏は、俘囚の長であり、その統轄を委任された地域勢力である。
また、安倍氏は、陸奥における国内名士として藤原経清(秀郷流藤原氏)や平永衡といった在庁有力層を娘聟としていた。そうした状況が、安倍氏の勢力拡大路線に繋がった。

鬼切部合戦で安倍氏攻略のために「前鋒」として戦った平重成は維茂の子であり、武門の名族越後城氏の祖とされる。
「繁盛-維茂-繁(重)成」と諸系図に登場するが、祖父の繁盛は「武略神に通ずる人也、陸奥守正五位下」とあり、父の維茂も「鎮守府将軍、信濃守従五位下」(『尊卑分脈』)と記され、父祖以来の典型的軍事貴族であった。
重成の秋田城介の地位も、父祖のそうした伝統的基盤を受けついだものであった。

陸奥守藤原登任は、陸奥以外にも出雲・大和・能登などの国守をつとめた受領層に属す人物で、『尊卑分脈』には登任の息長宗(ながむね)の母は「平兼忠の女」と表記されている。
この兼忠は余五将軍維茂の実父で、『今昔物語集』にも顔をのぞかせている(巻25-4)。
従って、重成は兼忠の孫ということになり、登任は伯(叔)母の夫でもあった。

秋田城介重成にとって、「兵の家」の利害にもとづく派兵であって、陸奥守で伯(叔)父の登任の要請による戦いであったし、陸奥国への基盤拡大も射程に入れての行為でもあった。

登任にとっては、任終が近づき、安倍氏への積極的対応が求められる時期でもあった。

重成の秋田城介への任命は、『吾妻鏡』に「後冷泉院の御時に至り、永承五年(1050)九日目、平繁盛(成カ)を始めてこれに任ず」(建保6年3月16日条)とある。永承5年は、鬼切部合戦の前年であり、陸奥守登任からの朝廷へのはたらきかけがあり、これに応ずる形での重成の秋田城介の人事がなされた可能性もある。

「武者は則ち満仲・満正・維衡・致頼・頼光皆是天下の一物也」(『続本朝往生伝』)というように、10世紀以降は、「家ヲ継キタル兵」たちの時代だった。
かれら貞盛流平氏、秀郷流藤原氏、経基流源氏がそれぞれに諸国に自己の勢力を扶植しつつある段階であった。
経基流の清和源氏は畿内を中心に摂関家との連携を目指し、貞盛流・秀郷流は東国を中心として諸国に広がった。また、同族間での敵対関係もそうしたなかで形成された。

貞盛流を中心とした平氏の諸流は、房総・常陸・武蔵へと勢力を拡大し、秀郷流も上野・下野を中心とする北関東に繁茂する。
11世紀はそうした各門流に対応した「兵」たちがそれぞれの地域に基盤を確立しはじめた段階であった。
その点では、奥羽地域は「兵」レベルの分割が未開拓であり、ここを射程にすえる余地は残されていた。

亘理大夫と称された藤原経清は秀郷流であり、伊具郡を拠点とした平永衡も同様に軍事貴族の末裔だった可能性が高い。そして、ともに安倍氏との血縁関係を志向した。

前九年合戦の原因には、安倍氏の動きとともに陸奥国衙在庁の動向や鎮守府下級官吏の土着化の状況など、在地勢力の複雑な対抗関係があった。
源氏の頼義の陸奥守および鎮守府将軍としての下向は、そうした状況の陸奥地域への武威表明の機会でもあった。
*
*

0 件のコメント: