2019年10月31日木曜日

神奈川県立近代美術館鎌倉別館リニューアルオープン記念展「ふたたびの近代」に行ってきた 2019-10-31

10月31日、はれ
今日は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館リニューアルオープン記念展「ふたたびの近代」に行ってきた。
久しぶりに、松本竣介《立てる像》、佐伯祐三《自画像》にお目にかかった。
《立てる像》、いいね。

この鎌倉別館、小さな美術館で、県立というには寂しい限り。
もともとは鶴岡八幡宮内に本館があって、鎌倉別館(工芸品展示中心)、葉山別館(モダンアート中心)という構成だったのを、八幡宮内の本館を期限切れで返還したのだから、本館に見合う建物を新たに見つけるべきだと思うのだが、そういうふうにはなっていない。

実は、今日もそういう寂しい感じをもった。
ま、65歳以上300円だからモンクは言えないけどね。

来年2月には関根正二展があるらしい。当然、これも行くべし。

松本竣介で思い出した。
そういえば、『若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)』という記事の掲載が昭和5年あたりで止まっている。
原稿はもう完成しているので、『大正12年記』が終ったら、急いで続きを掲載しよう。





▼小冊子(無料)




▼鶴岡八幡宮源平池


▼今月の歩数
10,424歩/日で目標達成
年間歩数も10,456歩/日で達成


18億円かけたサイバー攻撃対策システムが利用されないまま2年間で廃止されていた。 高市総務大臣「今後は適切に対応していく」 2000億円かけた住基カードは普及率がたった5.5%で廃止。 マイナンバーは初期費用2700億円、維持費に年300億円、普及率13%で今年度は2100億円を要求。

連続辞任、求心力に影 首相・菅氏に近い2人、疑惑 / 閣僚が連続辞任、長期政権の弛緩深刻 「ドミノ」警戒なお / 「説明なき」辞任、法相と経産相 野党「一切国会で釈明せぬ政府」批判 - 毎日新聞 / また「菅人事」で失敗 辞任ドミノ、ポスト安倍に影響も(朝日新聞) / 「辞任ドミノ」か 側近重用人事裏目に 急成長「菅派」中枢辞任で痛手 - 毎日新聞 ← 菅官房長官、記者会見で「批判は当たらない」「文科省に聞け」「経産省に聞け」「大臣の答えた通り」「全く問題ない」しか答えないのが総理のタマとはね!




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▼これが時期総理ってあり得ない!








丸山穂高議員、饗宴の儀で天皇陛下の前で酒飲み過ぎ泥酔か…永田町でも議員辞職要求高まる(Biz Journal)

森永卓郎「いま必要なことは日本の富裕層の実態を暴くことだ!どこで稼いでどれほど税金を納めているのか?それを白日のものにしろ!それやったら日本中で暴動が起きるだろう」

三菱航空機、米航空会社がスペースジェットM90の契約解消-100機(ブルームバーグニュース日本語版)

2019年10月30日水曜日

文大統領、首脳会談呼び掛け=安倍首相への親書で伝達-韓国外相(時事); 韓国の康京和外相は、文在寅大統領が安倍晋三首相に送った親書で「首脳間の対話はいつでも開かれているという立場と、懸案が克服されて韓日首脳が会えれば良いという希望を表明した」と説明し、首脳会談を呼び掛けたことを明らかにしました ← 手渡したのは24日 日本国内では「内容については控える」状態だった 応えるしか道はないけど、さァどうする?




今日の鵠沼海岸 昼前に富士山は霞み雲に隠れ始める 2019-10-30

10月30日、はれ
今日は久しぶりに鵠沼海岸に行ってみた。
朝のうちは見えていた富士山だったが、私が現地に着いた午前11時頃はもう雲に隠れる寸前だった。

今日の歩数は1万3千歩。
明日の晦日(31日)を待たずして今月のノルマ(1日1万歩)を達成した。



【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その9)「3日目、日比谷公園で夜明かしした時、メガホンをもって「ただいま朝鮮人が品川沖から襲撃の情報がありました」といっていました。この放送は警察がやっていました。 私は日比谷公園から近くの今の都立一中の海城中学の方に移って、その校庭にいたときにも「鮮人が大森方面を通過してこれから東京に襲撃のおそれがあります」という報道なんです。だから「男子の方はある程度覚悟して用意していて下さい」ということなんです。それで海城中学では銃剣をもたされ、「不逞鮮人とたたかう覚悟でいてくれ」と自警団長からいわれました。それで私は自警団に入り自動車なんか勝手にストップさせたんです。私なんか、そん時は内務大臣の後藤新平の車でも止めたですよ。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その8)「3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;台東区/橋場・山谷〉
杉村利一郎
3日程して朝鮮人が暴れ出したとの流言が伝わり、橋場の焼け残った家の人々は、自警団をつくり、在郷軍人の軍服を着たり、洋服に刀を差して警戒に当っていた。夜は真っ暗で提灯が頼りで、焼け残った家では、何でも出して提供した。そのとき人々は、山といえば川と答える相言葉を定めていた。
4、5日してからメリケン粉の配給が、焼け跡であり長蛇の列が出来た。見ていると、列の中から自警団の人が一人の老婆を連れ出して、白鬚橋の方へ連れて行った。着衣で日本人でないことは子供でも判った。白鬚橋の袂に自警団の検問所が出来ていて、通行人を調べている。
堀切の方で朝鮮人が井戸に、毒を入れたとの話が広まっていたから、噂に噂が広まっていったのを子供でも聞いて心配した。
(杉村利一郎『下町の思い出』私家版、1988年)

隅田元造〔福島県技師〕
「各所に発弾の音」
〔3日朝入京したが、警備隊・不逞鮮人のため1時間で去る〕私が山谷を去る時約2、3町の彼方に銃声数発聞えた。これは不逞鮮人を撃退するために軍隊が射殺したのであったが、流れ弾にでもあたってはならぬと思って、急いで逃、5日の夕刻川口から乗車したのだ。
(『山形新聞』1923年9月7日)

〈1100の証言;中央区〉
荒井淳吉〔当時京橋高等小学校1年生〕
3日目の夕方、糧秣倉庫の所で朝鮮人が憲兵につかまっていた。その所へ船頭さんたちが鉄棒で朝鮮人たちの背中をぶったりして糧秣倉庫が燃えているなかに入れられてしまった。夜7時頃、砂糖倉庫が倒れた時、僕らは舟の底にいたから、舟の中で大さわざ。「ほら鮮人が爆弾を投げた」かと思ったら、砂糖倉庫が崩れたのであった。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

京橋月島警察署
流言蜚語の始めて管内に伝われるは9月3日午前10時30分頃にして、「鮮人等爆弾を携帯して放火・破壊・殺害・掠奪等を行い、又毒薬を井戸に投ずるものあり」「軍隊約30名、鮮人逮捕の為に武装して管内に来れり」等と称し、更にその携えたる爆弾を収拾せりとて当署に持参せるものあり。即ち警戒を厳にすると共に、これを警視庁に報告せんとするも便船を得ず、隅田川を泳ぎて漸くその目的を達せしが、この時民衆の提供せる爆弾と称するものをも送りて鑑定を求めしに、唐辛子の粉末なりき。
ついで午後1時50分頃歩兵第一連隊より特派せられたる小澤見習士官の一隊鮮人検索の為に来るあり、住民は兢々としてその堵に安んせず、遂に鮮人迫害の惨事を生ずるに至る、これに於て当署は鮮人の検束を行い、これを警視庁に護送せり。しかるに同5日午前9時に至りて「外国駆逐艦隊東京湾に入港せり」「不審なる多数帆船一・二号地の沿岸に繋留せるあり」「外人1名発動機艇に乗じて二号地沿岸に来りしがその行動怪しむべし」など云える流言また行われし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
大佐木勝〔編集者〕
〔3日〕夜、朝鮮人襲来の噂あり、不安のうちに一夜を明かす。〔略〕
夜、家へ帰ってからろうそくの燈の下で、わびしい夕食をたべることにもなれた。しかし夜警に引っ張り出されるのは辛かった。〔略〕夜警は誰かに代わってもらって一晩ぐっすり眠りたいと思う。(当時の日記)
(木佐木勝『木佐木日記 第一巻」現代史出版会、1976年)

大佐木勝〔編集者〕
〔九段坂付近で〕私の小学生時代の同級生だった男で、後に米屋の若主人になっていた某が、自警団の仲間といっしょに捕えた朝鮮人を惨虐きわまる方法で殺害した事実を知ったのは、警察の手でその男が仲間の自警団員とともに検挙されたことが新聞記事になったからであった。彼は親の代から同じ土地に住みついていて、信用のある商人であったと同時にきわめて平凡な市民であった。彼が仲間とともに捕えた朝鮮人を荷車に縛りつけ、こん棒を振るってなぐり殺したという新聞記事を見ても、私はなおあり得ないことだと疑った。(昭和初期に執筆と推定)
(「関東大震災体験記」『中央公論』1998年10月号、中央公論社)

妹尾義郎〔仏教運動家〕
〔3日〕九段坂上の避難地で避難鮮人4名が、内地人にとりかこまれて、おどおどしていた。あんまり憐然に思えたから、色々慰めて、小使に十円分ったら、声をかぎりに泣き出した。自分も、おのずから、彼等の悲現に同情されて袖をしぼった、みんなも涙した、人情に国境も民族もない、仏様は一切法空とお仰った。(当時の日記)
(妹尾義郎著・妹尾鉄太郎・稲垣真美編『妹尾義郎日記・第2巻』国書刊行会、1974年)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
桑原虎蔵
3日目、日比谷公園で夜明かしした時、メガホンをもって「ただいま朝鮮人が品川沖から襲撃の情報がありました」といっていました。この放送は警察がやっていました。
私は日比谷公園から近くの今の都立一中の海城中学の方に移って、その校庭にいたときにも「鮮人が大森方面を通過してこれから東京に襲撃のおそれがあります」という報道なんです。だから「男子の方はある程度覚悟して用意していて下さい」ということなんです。それで海城中学では銃剣をもたされ、「不逞鮮人とたたかう覚悟でいてくれ」と自警団長からいわれました。それで私は自警団に入り自動車なんか勝手にストップさせたんです。私なんか、そん時は内務大臣の後藤新平の車でも止めたですよ。
(「自警団にはいっての活躍談」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕
〔3日、十五銀行丸の内支店で〕鮮人問題と、不穏な団体が焼残った所を襲うというような噂とはいよいよ盛んに伝わった。初の程はこの機会にありそうな事だと思って、疲れ切った頭にてっきりそうと思い込んだのであった。〔略〕どこでは鮮人が井戸に毒薬を投ぜんとした所を見つけられて叩き殺された、ここでは鮮人の潜伏してある所を見つけて叩き切った、などという話は頻々として伝わって来た。それは相当知識階級の人が信じて話しておった。甚だしいのになると、鮮人は9月2日を期して事を挙るの計画があった。それが9月1日たまたま地震が起こったので、東西相呼応して立ったのだそうな、などと見て来たようなことを言う人さえあった。或は又道路の石塀や門柱などに白墨で印がつけてある。井桁を記したのは井戸に毒物を入れよという印で、丸いのは爆弾を投ぜよという印だなどとも言い伝えられた。(1924年記)
(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
小畑惟清〔医学者〕
〔3日夜〕豪壮な福島邸は固く門を閉ざして、これを借りる由もなかった。駿河台にも朝鮮人が徘徊しているとの噂が、どこからとなく拡がって来た。この家も襲撃、爆裂弾を投ぜられるとの噂が拡がった。この家の留守居が極度の恐怖を抱き、遂に門を開いてその玄関を吾々の宿に貸し、その代りに夜警を頼むとの交換条件を申し出でられ、実に憤慨せざるを得なかったが、空は雨模様になったし、堪忍の緒をしめて約諾し、看護婦や家族達をその中に入れ、吾々男子は野宿と決めた。夜警は隣家の前田家の人々と協同し、一方は鈴木町を見張り、一方は袋町入口の道をかため、絶えず巡察した。
(小畑惟清『一生の回顧 - 喜寿』私家版、1959年)

麹町警察署
9月3日、管内自衛警戒中の一青年は、不逞鮮人と誤認して連行の同胞を殺害せして、犯人は直にこれを逮捕せり。この後自警団に対する取締は、特に厳重を加え、かつ流言蜚語の信ずるに足らざる所以を力説して、その誤解を一掃せん事を期せしも、民衆は容易に耳を傾けず、依然戎・兇器を携えて横行せる。〔略〕時に、鮮人の、管内所在の朝鮮督学部に避難せる者百余名に達せしが、これが警戒保護の為、特に当署より制私服員数名を派遣したり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく




佐野SA、ふたたびストライキ決行へ「前回のストを正当な争議行為として認めて!」 / 佐野SAで新たなスト通告、NEXCO東日本の「社会的責任」が焦点に / <佐野SA 団体交渉> 完全決裂 「加藤が辞めないと、妻子持ちの組合役員3名に損害賠償請求をする」と... / 【佐野SA再びスト突入か】新社長がちゃぶ台返しで総務部長に「自発的に辞めてくれ」3億円賠償も— 文春オンライン



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河井前法相の大幅スピード違反を広島県警が見逃していた!(文春オンライン) / 河井案里参院議員に対し、公選法違反で広島地検に告発状 連座制に発展も? / 「今回の一件は私も妻も全く預かり知らないところ。今後しっかりと調査して、説明責任を果たして参りたい」 / 河井案里氏釈明「事務所の運営はスタッフに」 文春報道受けコメント / 文春砲を嗤う者は文春砲に泣く;河井あんり演説動画 / 「私も妻も全くあずかり知らないところ」「説明責任を果たしていきたい」(TBS動画) / 「法務、検察への国民の信頼を守るため大臣を辞する」(毎日) / 河井克行法相が辞任 妻陣営の公職選挙法違反疑惑で / 河井法相妻、案里参院議員陣営「運動員に法定超の報酬」 週刊文春報道(毎日) / 法務大臣夫婦のウグイス嬢「違法買収」 もう一人の菅側近も「疑惑のデパート」(週刊文春10/31発売) / 河井克行法相 妻の参院選に公選法違反の疑い(文春オンライン)  



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2019年10月29日火曜日

自称総理候補「茂木敏充外相」に学ぶ「法律違反」の逃れ方(週刊新潮 11月7日号 10/30発売)





安倍首相 病院再編と過剰なベッド数の削減など指示(NHK) / 官民で13万病床削減を=医療費抑制で民間議員提言-諮問会議(時事)










【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その8)「3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その7)「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。...........」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
友納友次郎〔国語教育学者。勤務先の向島の小学校て被災〕
〔3日、上野で〕「ナアニ、普通の火じゃないのさ、○○がやったのき、松坂屋なんか、2日の朝までは焼けていなかったのに、不意に燃え出したのだからね」
〔3日、浅草で。堂を回って後の広場、ちょうど団十郎の銅像の前あたりに〕そこには一人の労働者らしい若い男の死体が横たわっている。「この野郎だ。この野郎がこの観音堂に爆弾を投げようとしたのだ」「○○の野郎だ、この野郎太てぇ奴だ」「〇〇〇だそうです。この〇〇〇が爆弾をあの観音堂に投げつけようとしだそうです。それをここに避難している人が見つけて、あの通り殴り殺したそうです」
(友納友次郎『教育革命焦土の中から』明治図書、1924年)

『いはらき新聞』(1923年9月5日)
「鮮人を見たら殺して焼いてしまう」
3日千住から上野、九段、神田を経て日本橋、東京駅、丸の内、麻布六本木、三田、京橋、飯代橋、深川を踏破して帰った者の談によると、〔略〕鮮人の殺されたのを13人目撃したが、仲見世で踏んで殺された者は在郷軍人の服装でダイナマイト数本を携帯していた。巡査と憲兵は鮮人を縛するだけで殺さないが、抜刀、竹槍を持った野次がこれを殺し石油をかけて焼いているものもあった。

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉
荒井聡博〔当時府立第三中学校生徒。下谷中根岸81で被災〕
〔3日〕上野方面に黒い煙が上るのが見え上野広小路の松坂屋デパートが燃えているとのことでした。それは朝鮮人が放火したというデマが飛び、結局自警団が組織され、我が家では男は小生一人なので竹刀を持って詰所に詰めていたこともありました。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

館山太郎〔当時21歳。金杉上町在住〕
「不逞鮮人を金棒で撲殺す 日本人を脅迫したのでやッつけたと函館で語る」
〔下谷龍泉寺で〕3日の昼頃でした。労働服に半天を着た鮮人が日本人を脅迫しているのを見付けたので、警戒の任に在る私共は金棒でプン撲ったら血がはねるやら、遠くから石を持って打殺して仕舞ました。〔略〕鮮人と見ればもう何でもかんでも殺してしまあねばならん様に思い込まれて、今その時の事を考えるとゾツとします。この金棒はその朝鮮人を殺したのです、と金棒でホームを突いて見せた。
(『北海タイムス』1923年9月7日)

中野とら〔当時22歳〕
〔3日、入谷の電車通りで〕地震の最中に暴徒がここいらに現われるかもしれないと、道行く人が言っています。私は母と子供達を電柱陰にかくして、妹と焼跡から手頃な鉄棒を探してきて、もし来たらかなわぬまでも母を護ろうと決心しました。
交差点でしばらく見張っていましたが、何事もないので、おひる近く我家の焼跡〔浅草〕へ帰ってきました。
〔略〕石巻の兄が上京してきたのは5日でした。東京は大地震や火事で大変な数の人が死に、暴徒が横行して危険な状態と伝えられていたそうです。
(『東京に生きる 第6回 - 語りつぐふるさと東京「手記・聞き書き」入選作品集』東京都社会福祉総合センター、1988年)

東京市衛生技師
3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。
(定村青萍『大正の大地震大火災遭難百話』多田屋書店、1923年)

下谷坂本警察署
9月3日鮮人が放火略奪或は毒薬を撒布せり等の流言行われ、同日夕には既に自警団体の各所に設置せられて、警戒に就けるもの少なからず。しかれども蜚語に過ぎざることはこの時略明かとなりたれば、本署は町会その他の幹部を招致して、これを懇諭すると共に、戎凶器拐帯禁止の旨を伝えたるに、これに平かならざるもの多かりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後2時半頃、下谷区三輪町45番地先電車道路上で、近歩兵が30歳位の朝鮮人1名を銃剣で頭部を貫通して刺殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
鹿島孝二〔作家。南稲荷町で被災。上野駅から上野の山へ避難〕
〔3日〕デマがささやかれ出したのは、夕刻近くからであった。「博物館の井戸へ朝鮮人が毒を入れた。あそこの水を飲むと、死ぬぞ!」私が魔法瓶にくんで来て父母に飲ましたのは、博物館の水だった。私自身も飲んでいる。別にどうも無さそうだが、そう聞いてからは飲めなくなった。両大師の通りを根津の方へ行ったところの右手の大きな家に井戸があると言う人があったので、そこまで行くと、行列が出来ていた。しかし驚いたことに、日本刀の抜き身を持った若者が見張っていて、「毒を入れる奴はたたっ斬るぞ!」
前夜広小路の松坂屋へ火を放ったのも朝鮮人だ、とまことらしく話す者もいた。そして、しばらくすると、自警団の腕章を巻いた男たちが、竹の台の桜の下にうずくまっている避難民たちに、「朝鮮人らしい者を見つけたらすぐ知らせてください」と言い歩いた。
9月3日の夜は、その騒ぎで夜を徹した。うとうとと眠りかかると、叫び声で醒まされたのである。「鮮人だ!」 飛び起きて見ると、声のした方角へサーチライトが向けられていて、その光芒の中に、逃げまどう人間とそれを追う群衆の姿が浮かぶのであった。血を見ることもあった。一と晩中に、何十回もくり返されたのである。
私は早稲田で同級生になった林金山君のことを心配した。京城の人である林君は、もし今東京にいるとしたら、こんな眼に遭わされているのではあるまいか。夏休みだから京城に帰っていればいいのだが。僅か1学期間の交りでしかないが、林君から私が受けた印象はとても良いものだった。林君がこう言った。「朝鮮の小学校で教鞭をとっている日本人の先生方にきいてごらんなさい。どなたでもきっと言うでしょう。小学生時代の朝鮮人は純真で、素朴で、索直な子供だが、小学校を卒業して社会に出てから2、3年後に遭うと、みんなひねくれた子になっていると。社会に出ると、日本人に虐げられるのです。悲しいです」
その虐げのさまを、9月3日の夜、私はまざまざと見てしまったのだった。ただし、私自身にしてからが、あの夜は鮮人に対して憎しみが燃えたことを白状しなければならない。(こっちが死ぬか生きるかの瀬戸ぎわに、仕返しをするとは何事だ!)と腹を立てたのである。しかし加害者にならずに済んだのは、しあわせだった。
〔略。4日夜〕 この夜もまた朝鮮人狩りだった。鮮人! という叫びがどこかで上がると、間髪をいれずその方向へサーチライトが向けられ、自警団員に首筋をとられて引っ立てられる朝鮮人の姿が、光芒の中へ浮き上がるのだった。伯父は立ち上がって眺めていた。私がそれを止めたのである。「伯父さん、立ってないで坐ってください。大きいから鮮人と間違えられますから」
(鹿島孝二『大正の下谷っ子』青蛙房、1976年)

清川虹子〔俳優。当時12歳。神田で被災、上野音楽学校へ避難〕
〔3日〕朝鮮の人が井戸に毒物を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日です。
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。
だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。あとで、すべてはデマとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。
朝鮮人を一人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。
(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕
〔3日朝、上野公園で〕私がちょうど公園の出口の広場へ出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、喧嘩でもあるかのような塩梅である。獲物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、独りの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。群集の口から朝鮮人だという声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞えた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭と言わず顔と言わず当るのであった。
こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気が溢れて来た。〔略〕そのうち銃を持った警備の兵士が出て来て、引立てていった。
〔略。3日夜〕美術学校の前を通って、谷中の通りに出る所には、青年団とか、在郷軍人とかいった人達が私達のために警戒しておった。それは両人で縄を張って、一人一人誰何して通すのであった。私は無論わけなくここを通った。彼等は帽子を取ってこちらから声をかけてくれと言う。やはり鮮人を物色しているのであった。(1924年記)
(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

平山秀雄
〔3日朝〕壽松院の方面や自宅の焼け跡を見るために出て行くと、松坂屋を焼いた余塵が熱くて容易に通れません。
御徒町の四ッ角へ来ると、筋骨逞しい大きな鮮人が息も絶え絶えに打倒れています。見れば眼玉は飛び出て、口から血が流れそこら一體傷だらけになっている上を、大勢の者が寄って、石を投げつけたり棒でうったりしているから、傍にいる人に訊ねると、この者は爆弾を携えて2人で歩いていたのを見付けてここで殺し、一人は巡査が連れて行ったとの事でありました。
〔略。3日朝〕老松町まで来ると、今度は支那人が多勢の人に取り巻かれて巡査に調べられ、周囲からは殴れ殺せと各々棍棒を以て大騒ぎしている。巡査は隈なく同人を調べたが、別に怪しい物を持っていないから、助けてやれと一同にいって放してやりましたが、この支那人が1丁程先へ行くと又々取調べられましたから、私が傍から、この男は今調べ済みだといって放させてやりました。
(高橋太七編『大正癸亥大震災の思い出』私家版、1925年)

『北陸タイムス』(1923年9月5日)
「不逞の徒蜂起で物凄き帝都軍隊に手向いドシドシ検束」
3日午前中上野署に30名谷中署に30〜40名検束せられた。検束者は軍隊に手向いしたので血まみれの者もあり腕を切られている者もあり、一見物凄きものあり。この外無検束者で放火したため火中に投ぜられた者もある模様である。

『下野新聞』(1923年9月6日)
不逞鮮人が上野博物館の井水に毒薬を投じ更に日本婦人の手を介して某井戸に同様の手段を施したとの報に伝わったので、焼け残った山の手方面では3日の夜から非常警戒に当り各町民は不眠不休でこれが防止に着手し万一に備える所あり。為に町外から飲料水を貰いに来るものあるも絶対に給与しない方法を執ったためか当夜は無事であったと。

つづく




2019年10月28日月曜日

鎌倉 稲村ケ崎から由比ガ浜まで海岸沿いを歩く 2019-10-28

10月28日、はれ
今日は、先日鎌倉歩きをした時の逆のコースを歩いた。
鎌倉散歩 鎌倉駅前~稲村ケ崎 2019-10-20 成就院のホトトギス、キブネギク 極楽寺門前のサザンカ 大巧寺のホトトギス

ただし、今日は、稲村ケ崎~由比ガ浜~鎌倉駅前を海岸沿いに歩くことにした。
総歩数は1万3千歩。

由比ガ浜、引き潮の時の海岸、いいなあ。






GLAYの新アルバム収録曲「元号」がすごい! 令和ブームに逆らい戦争への反省呼びかけ、社会の弱者排除を批判(リテラ);〈かつて兵士たちは目隠しのままで玉砕しました/消え去った祖国の夢と/今もあの戦争(とき)を悔やんでいるならば/声をあげて欲しい 新しい元号の下で〉  




【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その7)「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。...........」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その6)「おやじと2人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺島警察署があります。今もあるんだろうが、その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が15、6あった。何ともいえないいやな気持ちだった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから.....。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
青木〔仮名〕
たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅〔現・八広駅〕の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。〔略〕大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朗鮮大虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
大槻堅太郎〔当時本所区本横尋常小学校2年生〕
3日日の夕方の雨のふる日あらかわばしのところに、○○○○○人がしんでいました。それをみてぞっとしました。それであらかわばしのところで、私はまいごになって、なきながらうろうろしていました。父母ははしをわたって向こうの方へいって、私をさがしていましたので、みんなでいっしょに、かめありのていしゃばへいって、それからいなかへいってしまいました。(抜粋)
(「ぢしんの時」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常二年の巻』培風館、1924年)

司法省「鮮人を殺傷したる事犯」
①2日夕刻、吾嬬町放水路四ツ木橋附近の堤防で、配馬音五郎が朝鮮人1名を鉄棒で殴打殺害した。
②3日午前5時、吾嬬町大畑荒川放水路四ッ木橋附近堤防下で、中島五郎が朝鮮人2名を日本刀で顔面右肩及胴を斬り付け殺害した。
③3日午前2時半、吾嬬町大畑荒川放水路堤防で、堀子之吉外2名が朝鮮人1名を日本刀で斬殺した。
④3日午前5時、吾嬬町字木下荒川放水路堤防で、外山利太郎が朝鮮人1名にピストルを発射し傷害を与えた。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前零時荒川放水路の土手下空地にて姓不詳の鮮人3、4名を殺害した犯人寺島村字玉ノ井431土木請負業吉井半之助(44)同679自動車運転手松戸宇之助(32)同772土工山田龍雄(46)同小島君太郎(34)の4名に令状執行収監す。

〈1100の証言;墨田区/両国橋〉
斎藤静弘
〔3日、亀戸をめざし〕日本橋小網商店の焼跡で人々が、焼け崩れた缶詰の山から完全なものを探しているのを見て、二つ三つ拾い焼釘で、時間をかけて缶を切り中身を頂いた。
2個ばかり手にして両国橋へ来ると、朝鮮人騒ぎで警戒中の一団の若者に、銃剣を突きつけられ、「どこから来た、どこへ行くか、姓名は?」と、詰問された。それは持っていた缶詰を、爆発物の携帯のように誤解された結果であった。
〔略〕両国橋を渡り切った頃、〔略〕製氷会社の焼跡にまだ沢山の氷があるのを聞いた。それを頂いて出て来た所で、2人の朝鮮人が後手に縛られ、巡査に連行される後方から、朝鮮人騒ぎに興奮している弥次馬が、鉄棒で後頭部を滅多打ちにし、遂にその場に倒れたのを目撃した。ついていた巡査も手の施しようがない始末であった。
(斎藤静弘『真実を求めて - 喜寿を迎えて』私家版、1916年)

志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕
3日の朝から、自転車に乗って亀戸へ出かけた。〔略〕丹野セツの話によると、江東方面でも朝鮮人騒ぎがひどいとのことで、私が亀戸へ往復する途中でも、そうした噂はいたるところで聞いた。両国橋のたもとでは、朝鮮人の夫婦が捕まり、さんざん暴行をうげ、警官に引き渡されたが、その女は妊娠していたので、もう立てなくなって、引きずって行かれたということであった。
(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)
藤原道子〔政治家。麻布高台で被災〕
〔3日〕両国橋も焼けていたが、橋のたもとに抜身の日本刀を持った男が立っていた。刀の先さから血が滴っていた。ぞっとするような無気味さだった。
(藤原道子『ひとすじの逆に道きる - 藤原道子自伝』集団形星、1972年)

陸軍「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」
9月3日午前10時頃、両国橋西詰付近で近歩1ノ3歩兵が50歳位の朝鮮人1名を射殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

つづく





ステマはアカン! → 吉本漫才コンビのツイート、京都市が事前チェック 吉本側が文面をメールで送信(京都新聞) / 吉本・漫才コンビのツイート1回50万円 京都市がPR契約  識者「驚く額、誤解与える手法」(京都新聞) / 京都市PRの芸人投稿に疑問の声 識者ら「ステマ該当」指摘:北海道新聞    
















格落ちした日本 - 前回の即位礼と比べて外国賓客が横並びで格下げ ; NHKの報道では、今回、即位礼正殿の儀に要人が参列した外国の数は191となっている。.....注目させられたのは、列席した外国の賓客の格が落ちたことだ。数を増やして体裁は保っているけれど、要人の身分が軒並み下がっている。.....

2019年10月26日土曜日

横浜散歩 横浜駅東口~みなとみらい~赤レンガ倉庫~山下公園~日本大通り 2019-10-26 横浜ベイエリア 秋の海と空

10月26日、晴れのち曇り
今日は、JR横浜駅東口~みなとみらい~山下公園~みなとみらい線日本大通りまでを歩いた。
総歩数は1万7千歩。

▼横浜駅東口日産グローバル本社前


▼みなとみらい
「横浜音祭り2019」のイベント
横浜中華芸術学校の皆さんによる演奏。中央は校長さん。

▼赤レンガ倉庫裏の横浜港風景

▼山下臨港線プロムナードから見たみなとみらい

▼山下公園
ディワリ・イン・ヨコハマ2019のイベント
ディワリ(Diwali)はインド正月のこと
昔、駐在していた南洋の国ではディパバリ(Deepavali)と読んでたんだけど、両者の違いは不明

▼山下公園通りのイチョウ

▼県民ホールの辺りは毎年色付きが早い

11月1日、デモ15日目。 首都・サンディエゴで再び結集したチリ国民、50万人以上。 / 100万人が街中を埋め尽くす。チリ史上最大のデモ、大統領は「国民のメッセージを聞いた」(動画) / このチリのデモの映像、ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」をたくさんの人たちがギターの弾き語りスタイルで歌っている。 .....— 大友良英 / チリ史上最大規模のデモ行進、 「メッセージを聞いた」と大統領 / チリ大統領、暴動受け国民に謝罪 基礎年金支給額や最低賃金の引き上げなど発表  





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2019年10月25日金曜日

青木さん 「今回の一件の背景には、疑惑の塊と称されていた人物を在庫一掃で登用した政権のおごりが一つ。文春砲以外の新聞、メディアのだらしなさ、そして検察の無力さがある」 「明らかな公職選挙法違反なのに何故、検察が捜査しないのか?検察も一強支配の政権に人事などを握られて忖度がまかり通ってるんじゃないか、関電の金品の問題もかんぽ問題も何故検察が捜査しないのか」









【萩生田文部科学大臣 「身の丈に合った受験」】 萩生田文科相 英語試験 抜本的に見直し 5年後実施に向け検討;「文部科学大臣として、自信を持って受験生の皆さんにお勧めできるシステムになっていない」←前任者の責任 / 「萩生田発言は問題発言ではなくて、ある意味問題の本質をついた発言だった」 / 「身の丈」発言に批判「格差容認か」 萩生田氏撤回せず / 萩生田文科相「受験生に不快な思い…おわびしたい」 英語民間試験巡る「身の丈」発言で ; 本心が出た事を「説明不足」でごまかす / 英語民間試験めぐり萩生田氏「身の丈に合わせて」 地方出身者は? 低所得者は? 反発やまず - 毎日新聞 / 都市在住の裕福な家庭が有利な「大学入学共通テスト」への批判、萩生田文科相が「身の丈にあった勝負をすればいい」と切り捨て(Bazzap) / 「国の入試制度が問題になっているのですから、裕福な子が予備校に行ける云々の話とは全く異なります…要は、民間企業を儲けさせるために無理やりに民間テストを使うことにしたが、受験生の学力ではなく経済力で結果に差がつきかねないという問題です。」 / 「沈黙ベネッセに不信感」(新潟日報10/27) / テレ朝坪井アナ。 「公僕である国会議員が国民に対して『身の丈の中で頑張れ』ってよく言えると思います。2万5千円の受験料を受験生や家族に押し付けるのが政治か。それは違うでしょ。例えば一律千円にしましょうと業界団体などに働きかけるのが政治では」   





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北村規制改革担当相、答弁台本を読み間違える(動画) ; 柚木みちよし議員の質問に対して「別の日の森ゆうこ議員への答弁原稿」を読み始める ← 事前通告して官僚が答弁台本を書いているので、当日の質問なんて全然聞いていないし、理解もしてない。クビだね。





日韓首相会談、関係改善見えず 元徴用工問題、深い溝(毎日);"安倍首相が会談で語った「日韓関係の法的基盤を根本から崩す」「韓国は国際条約を一方的に破っている」といった激しい言葉は外務省発表にはなく官邸が明らかにした。元徴用工問題を巡る韓国政府への対応が官邸主導であることをうかがわせた"







2019年10月24日木曜日

(動画) タイの素晴らしいCM ← 泣かせる

舞岡公園(横浜市戸塚区)に行った 2019-10-24

10月24日、くもり
一日中くもり空。
今日は自宅と同じく戸塚区ではあるが、かなり離れた、どちらかというと独身の頃に入っていた独身寮とか最後に入居した社宅のあった方面にある舞岡公園に歩いて行った。
公園の中もあちこち歩いたので総歩数は2万3千歩になった。

古民家のある「小谷戸の里」と名付けられたエリアは、「静かな里の秋」を想わせる風情があった。
何やら作業しているボランティアの方がおられたので尋ねてみたところ、草鞋の紐を作っておられたようだ。

旭区のこども自然公園でも同じだったけど、舞岡公園内にもまるでバズーカ砲のようなカメラを担いだオジサンたちがいっぱいいた。野鳥狙いのようだ。

公園からは歩いて30分のところの、その昔、入居していた社宅跡とかにも廻ってみた。
跡地には新しいマンションが建っていた。







クロ現+ 追跡 関西電力・金品受領 「どっちみち原資は電気代ですから国民の皆さんが払うんですから 関電としては何も腹痛くないですわね」(高浜町議会議員 渡邊孝) 













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