2022年8月31日水曜日

鎌倉散歩 秋色漂う八月晦日の由比ガ浜 大巧寺(キンミズヒキ、アマギノクサギ、ムラサキシキブ、タマスダレ、シュウメイギク) 2022-08-31

 8月31日(月)、はれ

8月最終日、晦日。久しぶりの晴れ。最高気温32℃、これも久しぶり。

久しぶりついでに、由比ガ浜に出かけた。海の家はまだあるし、海水浴客もいるけど、やはり秋色が漂っている、夏の終わりの由比ガ浜。




▼若宮大路の由比ガ浜の少し手前にあるポスト。鎌倉はまだこのタイプのポストが健在。

▼29日にも立ち寄った大巧寺。
キンミズヒキ、アマギノクサギ、ムラサキシキブ、タマスダレ、シュウメイギク





▼インスタグラム

岸田首相 “統一教会”との関係“断絶”徹底指示「率直におわび」 野党批判の国葬も国会で説明へ(日テレ);「「(自民党議員が)当該団体と密接な関係を持っていたのではないか、国民の皆様から引き続き懸念や疑念の声をいただいております。自民党総裁として、率直におわびを申し上げます」 そのうえで、自民党の基本方針として、教団との関係を断つ考えを示しました。 「それぞれ(の議員)に任せるのではなくして、党の基本方針として(関係を)断つということを明らかにし、そして、党として所属国会議員にそれを徹底させる」」

 

(YouTube)DOWN BY THE RIVER〜我々は、川で殺した──関東大震災虐殺の現場から 99回めの関東大震災記念日を前に、虐殺の現場を歩きました。当時の生の証言とともに、誰が誰をどんな場所でどうやって殺したか、振り返ります。(NoHateTV Vol.185)    

安倍元首相の家族葬に「自衛隊の儀仗隊」派遣…戦後初めての事例に「やりたい放題」「完全に私物化」と憤激の声(FLASH)

コレが大袈裟な表現とは思えない最近の岸田首相 → 岸田首相は“人格破綻”が垣間見え…安倍晋三元首相殺害以降は権力欲の権化に(斎藤貴男 日刊ゲンダイ) ← 国葬強行 国会無視 やる気のない統一教会対応 突然の原発新増設表明 右往左往して結局なにもしないコロナ対策 何もしない物価対策 「聞く力」なんて詐欺ワード! / いつものやつの三種盛りだ。 「真摯に受け止め」 「政権の初心に帰り」 「丁寧な説明を尽くしたい」(武田砂鉄)       

〈藤原定家の時代104〉治承4(1180)年11月4日~8日 頼朝の佐竹氏(常陸)追討 金砂城合戦 

 


〈藤原定家の時代103〉治承4(1180)年10月23日~11月2日 頼朝、相模国府にて勲功行賞 大庭景親斬首 頼朝、佐竹討伐に出発 「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」) より続く

治承4(1180)年

11月4日

・頼朝の常陸佐竹氏追討軍(先陣、熊谷直実。下河辺行平・土肥実平・和田義盛・佐々木定綱・平山節重)、常陸国府に到着。金砂城合戦。佐竹隆義は上洛して不在。隆義嫡男秀義は佐竹郷馬坂城を捨て、西金砂山城に篭城。頼朝方に寝返った隆義弟佐竹義季の謀略により陥落、秀義は逃亡。常陸の所領は頼朝に没収、佐竹隆義は失意のうちに没(1183年)。

上総介平広常、佐竹義政・秀義兄弟不和を利用、佐竹忠義を誘い出し誅殺、常陸国府大矢橋において佐竹義政(佐竹隆義嫡男)を謀殺。

5日、頼朝軍、佐竹義季を味方に金砂城搦手諸沢口から攻撃。佐竹秀義は奥州へ敗走。熊谷次郎直実、先陣をとり軍功挙げる。大掾昌義嫡男忠義、討死。

7日、国府で頼朝に合戦報告。頼朝の叔父2人志田義広・新宮十郎行家、頼朝に帰属。

8日、頼朝、佐竹所領の常陸奥6郡と太田・糟田・酒出を没収、これを御家人に分与し、鎌倉への帰途につく。この日、捕虜の佐竹氏家人岩瀬与一太郎、同族追討は上策でないと進言し、佐竹秀義は許され太田に帰国。

「武衛常陸の国府に着き給う。佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。・・・先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その従兵義政を軼す。また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上すべからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる。然れども義政は、廣常が誘引に依って、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦足逃走す。その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。所謂下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥の次郎實平・和田の太郎義盛・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷の次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。数千の強兵を相率い競い至る。佐竹の冠者金砂に於いて城壁を築き、要害を固む。兼ねて以て防戦の儀を構え、敢えて心を揺さず。干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「四日、王子。武衛(源頼朝)が常陸国府にお着きになった。佐竹は、その権威は国外にまでおよび、郎従は国中に満ちている。そこで、軽率な行動をせず、よくよく計略を練って誅罰を加えられるようにと、(千葉)常胤・(上総)広常・(三浦)義澄・(土肥)実平以下の宿老たちが話し合った。まず佐竹の考えている事を確かめるため、縁者という事で、上総権介広常を遣わし、事情を問うたところ、(佐竹)太郎義政は、すぐに参上すると言った。(佐竹)冠者秀義は、その従兵は義政より多勢であり、父四郎隆義が平氏方に味方しており、考えるところもあって、すぐには参上できないと言って、常陸国の金砂城に引きこもった。義政が広常の誘いにより大矢橋の辺りに来たところ、頼朝は義政の家人らを外に退け、義政一人を橋の中央に招くと、広常に謀殺させた。とても素早い処置だったので、従っていた家人のある者は首を垂れて降伏し、ある者は早々に逃走した。その後秀義を攻撃するため、軍兵を遣わされた。下河辺庄司行平・同(下河辺)四郎政義・土肥次郎実平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直実・平山武者所季重以下の者たちである。数千の強い兵を率いて競って向かっていった。佐竹冠者(秀義)は金砂山に城壁を築き、要害を固めて以前から防戦の備えをしていたので、少しも動揺せず、戦いを始めて矢石を放った。その城郭は高山の頂上に構えられていた。頼朝方の軍兵は、山麓の渓谷を進んだので、双方の位置は、まさに天と地の隔てであった。そうしているうちに城から矢石が飛んできて、多くが頼朝軍の兵士に当たった。頼朝軍から射た矢は、ほとんど山の上に届く事はなかった。また巌石が道をふさいで、人も馬も進む事が出来なかった。これにより、兵士の心労はつのり、どう戦えばよいのか分らなくなった。とはいえ退去する事も出来ず、やむなく矢を番えて様子を窺っているうちに、目が西に沈み、月が東から昇ったという。」。

「廣常申して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依ってその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。・・・侍中忽ち和順す。本より案内者たるの間、廣常を相具し、金砂の城の後に廻り、時の声を作す。その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。仍って秀義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、逃亡すと。秀義跡を暗ますと。」(「吾妻鏡」5日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「五日、癸丑。寅の刻に、(土肥)実平・(土屋)宗遠達が武衛に使者を送ってきて言った。「佐竹が構えている要塞は、人の力で破る事は出来ません。その中に籠もっている兵士はまた、一人が千人に当たるものです。よくよくお考え下さい」。そこで老将たちの意見をお聞きになると、(上総)広常が言った。「(佐竹)秀義の叔父に佐竹蔵人(義季)という者がいます。義李は、智謀が優れていて、欲心は人並み外れております。恩賞をお授けになるという約束があれば、きっと秀義を滅亡させるための計略を練るでしょう」。頼朝は広常の提案をお許しになり、すぐに広常を侍中(義季)のもとに遣わされた。義季は広常の来臨を喜び、急いで広常に会った。広常は言った。「最近東国の親しき者も疎き者も、武衛に従い奉らぬ者はいない。しかし秀義主は独り仇敵になっており、まことに理由のない状況である。親族でありながら、あなたはどうして秀義の不義に味方なさるのか。早く武衛に参じて、秀義を討ち取り、その遺跡を手にすべきである」。義季はたちまち帰順した。もとより事情をよく知っている者であったので、広常を連れて、金砂城の背後に回り、ときの声をあげた。その昔は城郭の一帯に響き渡った。これを予測していなかったため、秀義とその郎従たちは防御する術を失い、あわてふためいた。広常はますます力を得て攻め立てたので、逃亡したという。秀義もその跡をくらましたという。」。

「丑の刻、廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う。」(「吾妻鏡」6日条)。

「廣常以下士卒、御旅館に帰参す。合戦の次第及び秀義逐電・城郭放火等の事を申す。軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、直に仰せ下さると。また佐竹蔵人参上し、門下に候すべきの由望み申す。即ち許容せしめ給う。功有るが故なり。今日、志太三郎先生義廣・十郎蔵人行家等、国府に参り謁し申すと。」(同7日条)。

「秀義が領所常陸の国奥七郡並びに太田・糟田・酒出等の所々を収公せられ、軍士の勲功の賞に宛て行わると。」(同8日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「六日、甲寅。丑の刻に、(上総)広常は秀義の逃亡した跡に入り、城壁を焼き払った。その後軍兵らを方々の道路に手分けして派遣し、(佐竹)秀義主を捜したところ、深山に入り、奥州の花園城に向かったとの噂であるという。」

「七日、乙卯。(上総)広常以下の兵士が(頼朝の)御宿所に帰参した。合戦の経過や、秀義が逐電した事、城郭に放火した事などを報告した。軍兵のうち、熊谷次郎直美と平山武者所季重には特に勲功があった。所々で真っ先に進み、さらに自らの命をも省みず、多く敵の首を取った。そこで彼らの恩賞は他の武士よりも厚くするようにと、直々に仰せがあったという。また、佐竹蔵人(義季)が参上し、配下に加わりたいと望んできた。(頼朝は)すぐさまお許しになった。功があったからである。今日、志太三郎先生義広と(源)十郎蔵人行家たちが(常陸)国府に参り、面会したという。」。

「八日、丙辰。(佐竹)秀義の所領である常陸国奥七郡と太田・糟田・酒出などを収公され、軍士の勲功に対する恩賞に宛て行なわれたという。また逃亡していた佐竹の家人が十人ばかり現れたという噂が流れたので、(上総)広常・(和田)義盛に生け捕らせ、すべて庭中に召し出された。・・・」。

○金砂城:

常陸国久慈東郡、佐竹氏の根拠地太田の北方にあろる山城。現、茨城県常陸太田市上宮河内。土塁の一部が残る。

○政義:

行義の子、行平の弟。志田義広討伐に功があり、常陸国南郡地頭を与えられる。義経に連坐して河越重頼が罪に問われると、重頼女婿である為、政義も所領没収される。

○季重:

武蔵国の住人。武蔵七党の一流。保元の乱、平治の乱で源義朝に従う。治承・寿永の内乱でも源氏軍にあって武名を高める。

○義季:

隆義の弟、秀義の叔父。事績は不明。

○常陸国奥七郡:

常陸国北方の七郡。那珂東・那珂西・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・多珂の七郡を指す。

○太田:

常陸国佐都西郡。現、茨城県常陸太田市。佐竹隆義が居住して以来、佐竹義量が天正19年(1591)に水戸に移るまで、同氏の本拠。

○糟田:

常陸国佐郡西郡。現、茨城県那珂市額田北郷・額田南郷・額田東郷付近。

○酒出:

常陸国久慈西郡。現、茨城県那珂市北洒出・南酒出付近。

○志田義広(?~1184元暦元)。

為義の子。母は六条大夫重俊の女。兄義朝の養子になったという。本名は義範、のちに義広と改める。常陸国信太に土着し、志田三郎先生と称す。大掾氏と結んで南常陸に勢力をもつ。常陸に侵攻した頼朝のもとを訪れるが、その後、反頼朝の兵を挙げ、3万余騎で下野に向かい、小山朝政の計略により敗退。「吾妻鏡」はこれを養和元(1181)閏11月のこととするが、寿永2年(1183)2月と考えられる。この敗退後、甥の義仲軍に加わり、寿永2年10月に検非違使・右衛門尉に補任。元暦元年(1184)正月、義仲が敗れると京を脱出するが、5月4目、伊勢国羽取山で波多野三郎盛通らに討ち取られる。



山際大臣、統一教会とじっこんの仲の秘書が“窓口”に 選挙区に居住実態がないことも発覚(デイリー新潮8/31) / 山際大臣「報道を見る限り出席したと考えるのが自然」旧統一教会の関連イベントへの出席認めるも「覚えていない」「資料残っていない」(TBS) / 横から秘書が…会見で“統一教会”との関係問われた山際大臣(日テレ) / 「確認はしない」山際経済再生相 支援者に旧統一教会の関係者がいるかについて(TBS) / 鈴木エイト氏「(山際大臣)の事務所の中に、統一教会の関係者がいるということは、以前からずっと指摘されているんです」 / 旧統一教会関連イベントへの参加 断言せずとも認めた形の山際大臣(2022年8月25日) / ネパールイベント出席を確認できなかったのは、資料を一年で整理、廃棄しているからと記者会見(News23) / 江川紹子さん、旧統一教会関連の会合出席認めた山際経済再生相の会見に「誠実さのかけらも…」と厳しい言葉        



 

【国葬強行反対】 安倍氏「国葬」費用総額は“事後報告”に…《国が「ぼったくりバー」に》と国民の怒り爆発! / 国民は同意しておらず「内閣葬」というべき / 国会にも相談していない / 見掛け上の金額を抑える姑息なやり口! → 国葬費用全体像「公表予定ない」 鈴木財務大臣 / 鈴木財務大臣“会場周辺警備費用は通常業務で予備費の枠外” 国葬に予備費約2.5億円を閣議決定(TBS) / 国葬も改造も「急ぎすぎた」  強まる逆風、狂った岸田首相の思惑(朝日) / 誤算だった国葬への「逆風」 政府、世論恐れ弔意表明要請できず(毎日) / (社説)安倍氏「国葬」 疑問は膨らむばかりだ(朝日) / 金平氏「内閣法制局の担当者が野党ヒアリングでこんな趣旨の答弁、、、『全国民が国葬に反対しても閣議決定をすれば国葬は実施できる』 かつては法の番人と言われた内閣法制局の現在の実に情けない姿です」  / 弔問外交? G7中で現役首脳クラスが参列を検討するのはカナダのみ              



 

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2022年8月30日火曜日

旧統一教会関連団体トップに問う 教会と政治、安倍元首相との関わり(NHK); UPFジャパン梶栗正義インタビュー / 旧統一教会と政治 見過ごされてきた関係(クローズアップ現代8/29) / 統一教会への献金が、関連団体の活動資金になっている / 数ある反共意識の高い政治指導者を応援させて頂いた中に『安倍家三代の皆様』もおられた / スピーチの依頼を受けてくれた安倍氏 「安倍元首相の8年間の政権下にあって6度の国政選挙において私達が示した誠意と言うものもちゃんと本人が記憶していた」 / 巨大な影響力を持つ政治家の“お墨付き”が、統一教会二世たちに与えた『絶望』は計り知れない                     



 

旧統一教会と関係を絶てない議員 「教団に秘密を握られているからでは」と紀藤弁護士(ニッポン放送);「自民党の政治家が統一教会とどのような関係性があるかということが議論になっていますけれども私から言わせると統一教会がそうした自民党の政治家を狙ったのだと思います。利用価値の高い人とは権限を持っている人、つまり首相や文部科学大臣、国家公安委員長らです」

 

〈藤原定家の時代103〉治承4(1180)年10月23日~11月2日 頼朝、相模国府にて勲功行賞 大庭景親斬首 頼朝、佐竹討伐に出発 「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」)

 


〈藤原定家の時代102〉治承4(1180)年10月20日~21日 「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」) 頼朝と甲斐源氏が合流 義経の参陣 源氏勢力についての小さな纏め より続く

治承4(1180)年

10月23日

・頼朝、相模国府にて勲功行賞。安達盛長、北条時政・義時父子ら頼朝より恩賞を戴く。下河辺行平は下河辺荘司に、三浦義澄は三浦介に任じられる。

「相模の国府に着き給う。始めて勲功の賞を行わる。北條殿及び信義・義定・常胤・義澄・廣常・義盛・實平・盛長・宗遠・義實・親光・定綱・経高・盛綱・高綱・景光・遠景・景義・祐茂・行房・景員入道・實政・家秀・家義以下、或いは本領を安堵し、或いは新恩に浴せしむ。また義澄は三浦の介に為す。行平は元の如く下河邊庄司たるべきの由仰せらると。大庭の三郎景親遂に以て降人としてこの所に参る。即ち上総権の介廣常に召し預けらる。長尾の新五郎為家は岡崎の四郎義實に召し預く。同新六定景は義澄に召し預けらる。河村の三郎義秀は河村郷を収公せられ、景義に預けらる。また瀧口の三郎経俊は山内庄を召し放ち、實平に召し預けらる。この外石橋合戦の余党、数輩有りと雖も。刑法に及ぶの者僅かに十に一つかと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。「二十三日、壬寅。相模の国府にお着きになり、初めて勲功に対する恩賞を行われた。北条殿(時政)・(武田)信義・(安田)義定・(千葉)常胤・(三浦)義澄・(上総)広常・(和田)義盛・(土肥)実平・(安達)盛長・(土屋)宗遠・(岡崎)義実・(狩野)親光・(佐々木)定綱・(佐々木)経高・(佐々木)盛綱・(佐々木)高綱・(工藤)景光・(天野)遠景・(大庭)景義・(工藤)祐茂・(市河)行房・(加藤)景員入道・(宇佐美)実政・(大見)家秀・(飯田)家義以下の者は、本領を安堵されたり、新恩を給与されたりした。また(三浦)義澄は三浦介に、(下河辺)行平は元の通り下河辺庄司となるように命じられたという。大庭三郎景親はついに捕われの人となり相模の国府にやってきた。そこで、上総権介広常をお呼びになり、身柄をお預けになった。長尾新五為宗は岡崎四郎義美に、同新六郎定景は義澄にそれぞれお預けになった。河村三郎義秀は、河村郷を収公され、景義に預けられた。また滝口三郎(山内首藤)経俊は山内圧を取り上げられ、実平に預けられた。このほかに石橋合戦に関係する残党が数人いたが、処刑されたのは、わずかに十分の一程度であったという。」。

○三浦介:

三浦を名字の地とする相模国の在庁官人。三浦半島で繁栄した三浦一族の惣領をさす語。

○下河辺庄司:

下河辺庄は下総国葛飾郡の南北方向に長い広大な庄園。開発領主である藤原秀郷流下河辺氏が源頼政を通じて鳥羽天皇もしくは美福門院に寄進して成立。下河辺氏は同庄園の現地責任者である庄司に任じる。

10月24日

・平家の侍大将上総介忠清、時期を失して畠山・大庭一族を味方にし得ざりしことを悔む(「平家物語」)。

10月26日

・大庭景親、片瀬川で斬首。弟(俣野)五郎景久は密かに上洛。

10月27日

・頼朝、佐竹義政討伐に鎌倉を出発。佐竹氏は常陸に独立した勢力をもつ源氏一族、当時「権威、境外に及び郎従、国中に満つ」と云われる強勢を誇る。

八幡太郎義家の子孫である頼朝は、佐竹氏とは清和源氏の同族。同じ義光流の同族の甲斐武田氏は源頼朝の挙兵に従い頼朝麾下に入るが、佐竹氏を継ぐ昌義4男隆義は、平清盛への恩顧や常陸平氏との親交から、頼朝と敵対。

10月27日

・藤原定家(19)、高倉院の七瀬御祓(ななせのみはらい)の使を勤める。

「十月廿七日。天晴ル。閑院殿ニ参ズ。七瀬ノ御祓。蔵人兼業奉行ス。下官兄弟・盛実等三人、参ジ勤ム。遷都ノ後幾バクモアラザルニ蔓草庭ニ満チ、立蔀(たてじとみ)多ク顛倒シ、古木黄葉(もみち)薾索(しようさく)ノ色アリ。傷心、箕子(きし)ノ殷墟ヲ過グルガ如シ。昏黒、土御門末法成寺ノ辺リニ向フ。弥々以テ冷然。」(「明月記」)。

箕子;殷の紂の庶兄。紂の暴虐をいさめて囚禁された

10月29日

・「伝聞、坂東逆賊の党類、余勢数万に及ぶ。追討使オウ弱極まり無しと。誠に我が朝滅尽の期なり。悲しむべし。」(「玉葉」同日条)。


11月

・平盛国、富士川から敗走した侍大将藤原忠清の責任問題の評定で忠清を弁護し助命。

・下旬、北陸道に連動して三井寺衆徒・新羅源氏(源頼義3男義光を祖とする源氏)などが近江を制圧(山本義経・柏木義兼兄弟らの近江源氏が挙兵し園城寺に参軍、延暦寺の一部の堂衆も加わる)、琵琶湖東西の船を東岸に着け、北陸道からの運上物を差し押さえる。

国衙領・荘園を基礎とする社会体制は、「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼める」から、「絶えて上るものなければ」、飢えと欠乏に繋がる(「方丈記」)。また、「若狭国経盛卿、吏務を掌るの有勢の在庁(稲庭権守時定のこと)、近州に与力す」(「玉葉」11月28日条)との報も入る。

太良保公文の丹生出羽房雲厳も稲庭時定に従い反平氏に付く(後、幕府後家人となる)。近江の反平氏勢力の蜂起は平知盛らが鎮圧。

・肥後の豪族ら600余、反乱(1180~82年)。

肥後の菊池隆直(弟赤星経俊、子永野隆長・菊池隆定・砥川秀直・合志直方・八代隆俊)・木原次郎盛実法師・南郷大宮司惟安・相具惟能・大野六郎家基・高田次郎隆澄・山崎六郎・山崎次郎・野中次郎・太郎資安ら。

11月2日

「今日、小松少将惟盛朝臣以下平将、功無く入洛すと。」(「吾妻鏡」同日条)。追討使の敗退が古京に伝わり動揺広がる。

(*『玉葉』は維盛帰京は11月7日とする。)

「いよいよ官軍弱きの由を見て、各々逐電す。残る所纔に京下の輩なり。世以て遂帰の由を称す。古今追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かず。尤も悲しむべき事なり。」(「吉記」同日条)。

この頃、延暦寺の衆徒は遷都を止めるよう奏上。もし遷都を止めないのならば、山城・近江を占領すると告げる。

11月2日

・未刻(午後2時頃)、平清盛、厳島参詣から福原に帰京。


つづく



2022年8月29日月曜日

鎌倉散歩(鎌倉~北鎌倉) 大巧寺(ムラサキシキブ、ホトトギス、ハナトラノオ) 本覚寺のサルスベリ 街中のサルスベリ 路傍のセンニンソウ、キバナコスモス 海蔵寺に向う道沿いのタマアジサイ 海蔵寺のハギ 亀ヶ谷坂に向かう道沿いのヌスビトハギ 浄智寺門前のタマアジサイ 2022-08-29     

 8月29日(月)、晴れのち曇り

朝のうちは晴れ、お昼まえからずっと曇り。気温は最高27℃(9月中旬くらい)。

久しぶりに鎌倉を散歩したが、家を出る時点でもう既に曇り空(東側に雲多し、西側には晴れ間も見える)だった。

鎌倉駅~大巧寺~本覚寺~寿福寺~海蔵寺~亀ヶ谷坂経由~浄智寺~北鎌倉駅

涼しくなったせいなのか、今日は若いグループから中高年グループまでお寺の参拝者が多かった。特に海蔵寺でそう感じた。

▼大巧寺

▼ムラサキシキブ(コムラサキかも?)色付き始め


▼ホトトギス


▼ハナトラノオ

▼本覚寺のサルスベリ

▼街中のサルスベリ

▼寿福寺 門前には人が多かったが、タイミングよく参道には人がいなかった。

▼横須賀線沿いにセンニンソウ

▼街中のキバナコスモス

▼海蔵寺に向う道沿いにタマアジサイ

▼海蔵寺の萩

▼亀ヶ谷坂に向かう道沿いにヌスビトハギ

▼浄智寺

▼浄智寺前のタマアジサイ


「逃した魚は大きかった」東芝が売却した事業の今(東洋経済オンライン 有料);「債務超過の解消や業績の改善の必要に迫られ、切り売りされた旧子会社たち。その後を見ると、急激な利益成長を遂げていた。」 「白物家電の東芝ライフスタイル、テレビの「レグザ」が代表商品の東芝映像ソリューション、パソコンの「ダイナブック」で知られる東芝クライアントソリューションなどだ。東芝傘下では赤字で「売却やむなし」という声が多かったが、いずれも東芝から離れた後は業績を大幅に改善させている」 ← 本社費の配賦分が重かったのかも?     

【朝日新聞世論調査】 「何の内閣改造だったのか…国民に見透かされている」 支持率急落 ← 急落しても47%の支持率! / 内閣支持率が大幅下落 旧統一教会問題、支持層でも「評価せず」多数 / 国葬賛成41% 反対50% / 自民党は統一教会と関係を断ち切るべきが82% / 原発の新増設「反対」58%、「賛成」34%          



 

大阪維新の会“元大阪市議会議長”が統一教会信者になったワケ(Friday); 大内氏は本誌の取材に「(旧統一教会とは)もう縁を切っています」と言う。、、、本誌の直撃に対しても、「日本と韓国は世界にとってのお父さんとお母さん」「共産主義という〝悪い子供〟がいる」など、いまだに旧統一教会の教義を信じているとしか思えない発言も飛び出した。 大内氏は「党には報告していない」と言う。、、、

〈藤原定家の時代102〉治承4(1180)年10月20日~21日 「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」) 頼朝と甲斐源氏が合流 義経の参陣 源氏勢力についての小さな纏め   

 


〈藤原定家の時代101〉治承4(1180)年10月18日~20日 頼朝・武田信義合流 富士川の合戦(水鳥の羽音に驚いて追討軍は潰走したと言われているが、、、)の実相 より続く

治承4(1180)年

10月20日

・福原(離宮)造営は遅々として進まず。「新都の作事、竹柱の外一切候うべからず」(「玉葉」10月20日条)。

10月20日

・頼朝、駿河国賀鳥(がしま、富士市)で甲斐源氏と合流、甲斐源氏が駿河・遠江両国を実効支配とすることを承認し、坂東へと引き返す。両者の関係は、平氏に対して協力して戦うことを目的とした同盟とみるのが適切である。この後、甲斐源氏の安田義定は遠江国に軍勢を進め、勢力圏に収める。

10月21日

・甲斐源氏安田義定は遠江守護に、同じく武田信義は駿河守護に任じられる。甲斐源氏と頼朝との関係は、この時点では同盟に近い。

頼朝、上洛回避(関東経略・源氏の正統を問う戦いを優先、義仲の上洛戦略とは異なる)。頼朝は追撃指示するが、千葉介常胤・三浦義澄・上総権介広常らが反対。常陸佐竹氏(新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義)・常陸源氏(大掾氏・多気氏・吉田氏)追討優先とする。兵衛尉義廉などが頼朝から去り源義仲へ合流。他に、頼朝の叔父志田三郎義広、上野の新田義重(寺尾城)も去就定かでない。

「小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せんが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十一日、庚子。小松羽林(惟盛)を追いかけて攻めるため、(頼朝は)兵士たちに上洛するように命じられた。しかし(千葉)常胤・(三浦)義澄・(上総)広常たちが諌めて申した。「常陸国の佐竹太郎義政と同冠者秀義等が、数百の軍兵を率いて、いまだに服従しておりません。とくに秀義の父である(佐竹)四郎隆義は、平家に従って在京しております。その他にも(自らの武勇に)驕る者が東国にまだ多くおります。そうでありますので、まず東国を平定してから、西国に到るべきです」。(頼朝は)この諌めに従い黄瀬河に戻って宿とし、安田三郎義定を守護として遠江国に遣わされ、武田太郎信義を駿河国に置かれた。」。

○義政(?~治承4)。

佐竹隆義の長子か。

○秀義(1151仁平元~1225嘉禄元)。

佐竹隆義の子。母は藤原能通の娘。四郎。頼朝の討伐を受けるが、後に許されて御家人に列す。

○隆義(1118元永元~1183寿永2)。

父は新羅三郎義光の孫にあたる昌義、母は藤原清衡の娘。太田四郎。北常陸に強力な勢力を築く。

[反平氏の3つの源氏勢力]。

東国に土着した源氏の庶流としては、義家の弟義光に系譜をひくものと、義家3子の義国に系譜をひくものがある。義光系では甲斐の武田氏や信濃の小笠原氏、常陸の佐竹氏などがある。義国系には上野の新田氏、下野の足利氏がある。これらは、いずれも在地の豪族との婚姻関係でその地盤を形成。富士川合戦以後、東国での源氏勢力の統合が進むが、北関東の情勢は複雑、常陸には新羅三郎義光を祖とする佐竹秀義や頼朝の叔父志田三郎義広がおり、独自の動きがある。上野の新田義重また、自立の志をもって寺尾城に籠る。かれらは源氏一族ながら去就定かではない。この点では、安田義定・武田信義を中心とする甲斐源氏も同様。東海道の駿河・遠江方面の要として、甲斐源氏への期待は大きく、平家東征軍迎撃の勝敗は、かれらの動向にかかっている。頼朝は、9月20日、甲斐源氏との共同作戦の為の使者を派遣。表面上、頼朝の軍門に入ったとはいえ、その関係は同盟に近い。富士川合戦後、駿河・遠江両国を守護させる為に武田・安田を派遣するが、これは当時の力関係において頼朝が甲斐源氏を是認せざるを得なかった状況を示す。以仁王の令旨は諸国の源氏にもたらされるが、なかでも木曽義仲は、この甲斐源氏勢力同様に大きい。

治承4年10月段階では、反平氏の旗色を鮮明にした勢力は、

①相模・伊豆方面の頼朝傘下の勢力、

②信濃の義仲を中心とした勢力、

③これらに呼応する形で応じた甲斐の源氏の3勢力がある。


[頼朝と義仲]。

血脈の正統性では、頼朝が優位ではあるが、絶対的なものではない。頼朝は、平家との対決を目前にして、自己の正統性を問う戦いの内にある。義仲とは、年齢は7~8歳の隔りしかなく、挙兵時期もほぼ同じで、父の時代からの因縁もある。義仲の父義賢はかつて上野国多胡郡に住し、武蔵方面進出を狙う義朝と対立。義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流の重隆であり、これと結び勢力拡大を狙う。義朝は両総・相模を基盤として、北関東を射程にする。久寿2(1155)年、義朝の長氏義平と義賢は戦い、義賢・重隆は敗北。義仲は乳母の夫中原兼遠のもとで成人し、この時期(10月半ば)、信濃一帯を押え、義賢ゆかりの上野に進出。

義仲は上洛という方向で自己をアピールし、頼朝は上洛を回避し関東経略に向う。上総・千葉・三浦など有力諸氏の総意により上洛を回避するが、叛乱を内乱に転換する為には関東における頼朝への反対者を屈服させる事は必須と考えられる。

[東国武士団内部問題]。

相馬御厨(現.取手市を含む相馬郡と手賀沼以北の安孫子市全域)となる地域は千葉氏(平良文を祖とする坂東平氏の一流)の常重(常胤の父)の代になり、幼少のため一時上総氏系の常時に譲られる。その後、常重が常時の養子となり相馬郡を譲られ、大治5年(1130)同郡布施郷を皇太神宮に寄進し相馬御厨が誕生。常重は御厨の下司職を確保し、保元元年(1135)他の諸権利を子の常胤に譲る。翌年、国守藤原親通が御厨の税滞納を理由に常重を捕縛、御厨を国司私領とする。この時、義朝と、常重の従兄弟の常澄がこの御厨領有問題に介入。その後の経過は不明だが、保元の乱では千葉氏・上総氏共に義朝に参じている。しかし、平治の乱で義朝が没落、相馬御厨は没官領となり、新たに常陸から源義宗(父昌義は佐竹氏の祖)が介入しこれを帰属させる。千葉常胤の佐竹攻略の進言の裏には常胤の相馬御厨回復の問題が含まれる。加えて、甲斐源氏と佐竹との連携の分断、頼朝勢力の結束力強化。

10月21日

・義経(22)、85騎率い駿河黄瀬川(沼津市)の頼朝陣に参陣、対面。

秀衡は義経を出すのを渋るが、義経が振りきって出奔すると、伊勢三郎義盛・佐藤継信・忠信兄弟らの勇士をつける。頼朝に影響を及ぼす意図もあり、頼朝は義兄の到来を心強く感じるとともに、背後に奥州藤原氏があるために複雑な心境であったと考えられる。

「今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。實平・宗遠・義實等これを怪しみ、執啓すること能わず。刻を移すの処、武衛自らこの事を聞かしめ給う。年齢の程を思わば、奥州の九郎か。早く御対面有るべし。てえれば、實平に仰せ彼の人を請ず。果たして義経主なり。即ち御前に参進す。互いに往事を談り、懐旧の涙を催す。就中、白河院の御宇永保三年九月、曽祖陸奥の守源朝臣義家奥州に於いて、将軍三郎武衡・同四郎家衡等と合戦を遂ぐ。時に左兵衛の尉義光京都に候す。この事を伝え聞き、朝廷警衛の当官を辞し、弦袋を殿上に解き置き、潛かに奥州に下向す。兄の軍陣に加わるの後、忽ち敵を亡されをはんぬ。今の来臨尤も彼の佳例に協うの由、感じ仰せらると。この主は去ぬる平治二年正月、襁褓の内において父の喪に逢ふの後、継父一条大蔵卿長成の扶持によつて、出家のために鞍馬に登山す。成人の時に至りて、しきりに会稽の思ひを催し、手づから首服を加へ、秀衡の猛勢を恃みて奥州に下向し、多年を経るなり、しかるに今武衞宿望を遂げらるるの由を伝へ聞きて、進發せんと欲すのところ、秀衡強(あなが)ちに抑留するの間、密々にかの館を遁れ出でて首途(かどで)す。秀衡悋惜(りんしゃく)の術を失ひ、追つて継信・忠信兄弟の勇士を付け奉ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「今日、若者が一人、御宿所の辺りにたたずんでいた。鎌倉殿(頼朝)にお会いしたいという。(土肥)実平・(土屋)宗遠・(岡崎)義実たちはこの若者を怪しみ、取り次ぎせずにそのまま時が移っていたところ、武衛(頼朝)自らがこの事をお聞きになり、「年齢を考えるに、奥州の九郎(源討経)ではないか、早く対面しよう。」といった。そこで実平が取り次ぐと、果たしてその人は義経主であった。すぐに御前に進み、互いに昔を語り合い、懐かしさに涙を流した。白河天皇の御代の永保三年九月、曽祖父の陸奥守源朝臣義家が奥州で将軍(清原)三郎武衡・同(清原)四郎家衡らと合戦を交えた(後三年の役)時に、左兵衛尉(源)義光は京都で仕えていたものの、この事を伝え聞き、当時ついていた朝廷警護の官職を辞し弦袋を解いて殿上に置き、密かに奥州に下向して、兄の軍陣に加わり、たちまちのうちに敵を打ち破ってしまった。今回やってきたのはその吉例に叶うものであると、(頼朝は)感激されて仰ったという。義経は、去る平治二年正月には襁褓の内にいた。父の死にあってからは継父の一条大蔵卿長成に保護され、出家するために鞍馬山に登った。成人する年となってから、しきりに仇討ちの思いを抱くようになり、手ずから元服し、(藤原)秀衡の強大な勢力を恃み、奥州に下向してから今まで、多くの歳月が流れた。しかし今回頼朝が宿望を遂げられようとするのを聞き、出発しようとしたところ、秀衡が強く留めたので、密かに秀衡の館を抜け出してきた。秀衡は引き留める術を失い、追って義経に(佐藤)継信・(佐藤)忠信の兄弟の勇士を付けてきたという。・・・」。

○長成。

父は参議忠能、母は大蔵卿長忠の娘。正四位下大蔵卿。義経の生母常盤を妻とし、従三位能成をもうける。

○継信・忠信の兄弟。

陸奥国信夫郡の豪族、佐藤元治の子という。義経に従って各地を転戦。継信は屋島で戦死。義経が頼朝と不和になった後、忠信は京都で糟屋有季に討たれる。

○佐藤忠信(?~1186):

佐藤庄司元治の4男。四郎兵衛尉と称す。藤原秀衡の郎従であったが、義経が頼朝のもとに参陣した際、秀衡の指示で兄継信と共に義経に従う。以後、義経のもとで戦功をあげ、兵衛尉に任じられる。頼朝は、秀衡の郎従が衛府に任じられるのはかつてないことであると、「是ハ猫ニヲツル」と非難(「吾妻鏡」文治元年4月15日条)。文治元年(1185)、義経と共に京から西国に下るが、京に引き戻し、同2年9月22日、中御門東洞院で糟屋藤太有季に襲撃され自害。忠信が通じていた女の密告により、その所在が知られたという。

・頼朝、由比浜の八幡宮を小林郷北山に移す(鶴岡八幡宮)

10月21日

・延暦寺、還都しないならば山城・近江を押領すると脅迫。大衆(座主明雲他)と堂衆(下層)対立激化。


つづく



新型コロナ、高齢者で肺炎少なく「衰弱死」増加 「重症」定義見直し求める声(産経); 重症者、第6波より少なく 発熱や喉の痛みで食事取れず 肺炎なければ定義上「軽症」   

 

試される自民党の自浄力  不信が募る旧統一教会との関係(田中秀征 毎日 有料);「8月18日時点の報道(NHK)によると、政務三役の実に4割が旧統一教会と関係していたという。これではまるで旧統一教会との連立政権のようではないか」 神道政治連盟+日本会議+統一教会+創価学会を加えると4割どころではない。むしろ宗教票・宗教力頼りの宗教連立政党。— 島薗進

2022年8月28日日曜日

韓鶴子総裁の言葉から見えてくる旧統一教会の正体【BS-TBS 『報道1930』 8月25日放送より】

コロナ感染の薬丸裕英 療養終え検査「白血球の数値が普段の半分」「肺は少し炎症」(東スポ) / 柳美里さんが経験した新型コロナの“痛み”(柳美里さんの手記 NHK);「今年1月末に感染(軽症)し、まだ後遺症が続いています。味覚障害、臭覚障害、睡眠障害。波がありますが、いま、再び匂いを感知できません。 香水も、西瓜も、ガスも、石油も、牛糞肥料も、全く匂いません。、、、」 / 「ドライヤーを持てない」受診が急増する“コロナ後遺症”の実態(テレ朝) / 新型コロナ後遺症 最大400万人働けず 米・シンクタンクが分析(NHK) / コロナ後遺症、2年後も認知機能に影響 経済活動に負荷(日経)         



 

〈藤原定家の時代101〉治承4(1180)年10月18日~20日 頼朝・武田信義合流 富士川の合戦(水鳥の羽音に驚いて追討軍は潰走したと言われているが、、、)の実相 

 


〈藤原定家の時代100〉治承4(1180)年10月13日~17日 義仲、上野(群馬県)進出、亡父義賢の家臣を味方に加える 甲斐源氏(武田信義・一条忠頼・安田義定ら)、平家方橘遠茂軍を破る 頼朝進発 維盛の追討使軍、駿河高橋宿に到着  この頃、兵糧不足のため数百騎が源氏軍に投降・離散 より続く

治承4(1180)年

10月18日

・大庭景親、逃亡。頼朝、駿河黄瀬川で武田信義以下甲斐源氏と合流(実際は10月20日か?)。富士川の東岸源頼朝軍20数万騎、西岸平氏軍2千余騎。

「大庭の三郎景親平家の陣に加わんが為、一千騎を伴い発向せんと欲するの処、前の武衛二十万騎の精兵を引率し、足柄を越え給うの間、景親前途を失い、河村山に逃げ去ると。今日、伊豆山専当、衆徒の状を捧げ馳参す。・・・晩に及び黄瀬河に着御す。来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。爰に甲斐・信乃の源氏並びに北條殿二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ、この所に参会せらる。武衛謁し給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

頼朝、黄瀬川にて論功行賞、北条時政・義時父子は馬、直垂を賜う

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十八日、丁酉。大庭三郎景親が平家の陣に加わるために、一千騎の兵を連れて出発しようとしたところ、前武衛(頼朝)が二十万騎の精兵を率いて足柄を越えられたので、景親は先に進めなくなり、河村山(現、足柄上郡山北町付近か)に逃亡したという。・・・(頼朝は)晩になって黄瀬河にお着きになった。来る二十四日をもって、合戦の日と定められた。そうしたところ甲斐源氏・信濃源氏・北条殿(時政)が二万騎の軍勢を率い、あらかじめの約束によってこの場所で合流された。頼朝が彼らにご面会になると、各々まず篤光の夢想によって菅冠者たちを討って田園を諏訪の上下社に寄進したという事を、口々に申し上げた。寄進した事は、兼ねてからの御意志に叶うものあったので、(頼朝は)この事に感謝された。次いで駿河目代(橘遠茂)と合戦した事にっいて、目代の郎等で生け捕りにした徒党十八人を召して、御覧になった。また同じ駿河目代との合戦中に、加藤太光員が目代遠茂を討ち取り、遠茂の郎等一人を生け捕った事、加藤次景廉が遠茂の郎等二人を討ち取り、一人を生け捕った事を申し上げた。また工藤庄司景光は波志太山で(俣野)景久と合戦し、忠節を尽くした事を言上した。(頼朝は)皆に恩賞を与えると仰せられた。この時、景親に味方して源氏に矢を射かけた者たちは、後悔して肝をつぶしたという。それから荻野五郎俊重・曽我太郎祐信らは手を束ねて従属を示したという。夜になり、(土肥)実平・(土屋)宗遠等が頼朝に盃酒を献上した。北条殿父子(時政・義時)以下の伊豆・相模の人々は、それぞれ御馬と御直垂等を賜った。。その後、実平を御使として、松田御亭〔故中宮大夫進(源朝長)の旧宅である〕を修理するように、中村庄司宗平に仰せられたという。」。

○俊重(?~1180治承4)。

現、厚木市上荻野・中荻野・下荻野付近を本拠とするか。流人時代の頼朝に仕えていたというが、石橋山の戦では大庭景親に従って頼朝と戦う。

○祐信。

相模国曽我庄の住人。曽我兄弟の養父。石橋山では頼朝と戦うが、荻野俊重とは異なり、許され本領安堵される。

○宗平。

相模国余綾郡中村庄(波多野庄の南)の住人。義朝の郎従として「天養記」に名が見える。

10月19日

・富士川合戦の実際は、、、

夜、手越宿(静岡市駿河区)まで追討使の軍勢と行動を共にしてきた者が宿所に火を放ち、この火事に驚いて飛び立った数万羽の水鳥の羽音が、襲来した敵の軍勢の足音に聞こえたので、追討使はここで壊走したという。追討使が総崩れになって西に敗走する光景をみた東海道諸国の人々は、平氏の時代が終わったことを知る。

10月19日

・天野遠景、伊豆鯉名泊で平家軍に合流のため出港準備中の伊東祐親を捕虜とし、黄瀬川の三浦義澄に預ける。小笠原長清、源頼朝黄瀬川の陣に到着。

「伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが為、船を伊豆の国鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て、生虜らしむ。今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。而るに祐親法師が聟三浦の次郎義澄、御前に参上しこれを申し預かる。罪名落居の程、義澄に召し預けるの由仰せらる。・・・その後加々美の次郎長清参着す。去る八月上旬出京す。路次に於いて発病するの間、一両月美濃の国神地の辺に休息す。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十九日、戊戌。伊東次郎祐親法師は小松羽林(惟盛)の味方につくために、伊豆国鯉名泊(現、静岡県賀茂郡南伊豆町湊・手石付近か)に舟を浮かべ、海上を航行しようとしたところ、天野藤内遠景がこれを見付けて生け捕りにし、今日黄瀬河の御宿所に祐親を連れて参上した。しかし祐親法師の聟である三浦次郎義澄が御前に参上し、祐親の身柄を預けて欲しいと申し上げたので、罪名が決まるまで、義澄に召し預けるように仰せられた。以前、祐親法師は武衛を殺害しようとしたが、祐親の二男である九郎祐泰が告げてきたため、この難を逃れられた。その功を称えて褒賞を与えようと呼び出されたところ、祐泰は「父は既に御怨敵として囚人となっています。その子である私がどうして恩賞を受ける事が出来ましょうか。速やかに暇を賜りたく存じます。」と申し、平氏に味方するために上洛したという。世の人々はこの話を美談と評した。その後、加々美次郎長清が到着した。「去る八月上旬に京を出て、道中で発病したため、一、二カ月美濃国神地の辺りで休んでいました。先月になって養生しながら甲斐国に到着したところ、一族が皆参上すると聞き、鞭を揚げて釆ました。兄の秋山太郎(光朝)は、今なお在京しています。」と申し上げた。(長清は)この間、兄弟そろって(平)知盛卿に仕えて京都にいた。・・・」。

○祐泰(伊東九郎祐清の誤り)。

祐清(?~寿永2)。祐親の子。本条及び建久4年6月1日条によれば、この後、祐清は平家軍に加わり北陸道の合戦で討死したという。一方、寿永元年2月15日条では、父の自害を聞き頼朝に殺されることを願ったとある。なお祐清の兄河津三郎祐泰は安元2年に工藤柘経のために横死。

○長清(1162応保2~1242仁治3)。

父は甲斐源氏の遠光。母は和田義盛の娘。小笠原二郎。青蓮院門跡領の甲斐国加賀美庄の住人。幕府重臣となり、のちに阿波国守護となる。

10月20日

・「吾妻鏡」では、この日、甲斐源氏軍と追討使が対峙している際に、水鳥の羽音に驚いた追討使が退却したとある。

この戦いは頼朝軍が戦場に間に合わなかったので、実際には武田氏ら甲斐源氏と追討軍の戦いになった。富士川戦前に現地の平家方勢力は、甲斐と駿河で二度までも甲斐源氏の安田義定とその兄武田信義らによって壊滅させられており、遠征軍は事前にあてにしていた兵力を損じ、戦闘意欲を失っていた。対陣中に味方がいきなり数百の単位で敵に投降するという事態も発生した

平家軍が水鳥に驚いて逃げたというのは確実な史料に見えるから(『山槐記』11月6日条)、史実と考えてよい。が、どうやらそれは、忠度らの部隊が京都にもたらした情報で、自らの敗走を弁解するため、主力がふがいなく潰走したことを強調する必要があったからと考えられており、寄合所帯ゆえの誇張された内情暴露と考えるべきである。

維盛自身は「あへて引退すべきの心なしと云々、しかるに忠清次第の理(ことわり)を立て、再三教訓し、士卒の輩、多くもつて之に同ず、よりて黙止(もくし)する能はず」(『玉葉』治承4年11月5日条)と伝えられており、敗軍のなかで健気にも戦意を失わなかったらしい。

「武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒、悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛しをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十日、己亥。武衛が駿河国賀島にご到着になった。また左少将(平)惟盛・薩摩守(平)忠度・三河守(平)知度らが、富士川の西岸に陣を張った。そこで夜半の頃に、武田太郎信義が計略を企て、密かに陣の背後を襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥の一群が飛び立った。その羽音はまったく軍勢の音のように思われ、平氏は驚きあわてた。ここで平氏方の次将上総介忠清らが言った。「東国の士卒はみな頼朝に味方しています。私たちほうかつに京都を出発して、すでに包囲を逃れ難くなっています。急いで京都に戻り、他に作戦を考えるべきです」。羽林(維盛)以下の平氏軍はその言葉に従い、夜が明けるのを待たずに、すぐさま京都に帰ってしまった。その時飯田五郎家義・同子息太郎達が富士川を渡り、平氏の従軍を追いかけたので、伊勢国住人伊藤武者次郎が引き返してきて合戦になり、飯田太郎がすぐに討ち取られたが、家義は伊藤を討ったという。印東次郎常義は鮫島で誅されたという。」。

「官軍の勢を計るのところ、彼是相並びて四千余騎、・・・各休息するの間、官兵の方の数百騎、忽ち以て降落し敵軍の城に向かい了ぬ。拘留するに力なし。残るところの勢わずか一二千騎に及ばず。武田方四万余と云々。敵対するに及ぶべからざるにより、竊に以て引き退く。是れ則ち忠清の謀略なり。維盛において敢えて引き退くべきの心なしと云々。而るに忠清、次第の理を立てて再三教訓す。士卒の輩も多く以てこれに同じ。仍て黙止することあたわず」(「玉葉」)。

「山槐記」11月6日条に虚言甚だ多い「閭巷(リョコウ)の説」として、雷のような鳥の羽音に平家軍が退却した話を記し、合戦半月後には、巷の噂として水鳥の話が流布していたことが窺える。

「吉記」11月2日条では、頼朝軍巨万の風説に加え、手越宿失火に驚いて平家軍が退却したと記す。

富士川(「平家物語」巻5):

9月20日、頼朝追討軍、福原発。大将軍小松権亮少将維盛(23)、副将軍薩摩守忠度。計3万余。10月16日、駿河清見が関、着。維盛は足柄を越えて関東で戦おうとはやるが、侍大将上総守忠清は富士川の前で味方の揃うのを待つよう進言。長井の斎藤別当実盛は関東武者の強さを語り、平家の兵は震え上がる。23日夜、富士川の水鳥が一斉に飛び立つ音に驚いた平氏は逃げる。翌24日午前6時頃、源氏20万は富士川の岸で鬨の声をあげる。

「その夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、たゞ一どにばっと立ちける羽音の、大風いかづちなどの様にきこえければ、平家の兵共、『すはや源氏の大ぜいのよするは。斎藤別当が申つる様に、定て搦手もまはるらん。とりこめられてはかなうまじ。こゝをばひいて尾張河洲俣をふせけや』とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける」(「平家物語」)

□斎藤別当実盛が語る関東武者の強さ(平家滅亡の預言者として「平家物語」に登場する)

平氏軍の一員であった斎藤実盛は、大将軍平維盛の諮問にたいし、つぎのように語ったという(『平家物語』巻第五 「富士川」)。

すなわち、維盛から実盛ほどの「つよ弓の精兵(せいひよう)」はどれくらい東国にいるかと尋ねらたのにたいして、実盛はまず矢の長さについて、自分のものは十三束(そく、束は一握りの拳の長さで、矢の長さの単位。通常は十二束=約八三センチメートル)しかないが、「大矢」を引く東国武士のあいだでは、十五束以下の者はおらず、しかもそれは五、六人張りの強矢があたりまえで、このような精兵が射る矢は鎧の二、三両をたやすく射とおす威力がある、と東国武士の並はずれた射芸の技量について語っている。

親も討たれよ、子も討たれよ

さらに実盛は、東国で「大名」とよばれる武士は、勢の少ない者でも五百騎に満たない者はなく、馬に乗っては落ちることを知らず、どんな悪所を馳せても馬を倒すようなことはない、と東国武士の勢力の大きさと高度な馬術を強調する。

そのうえで、「親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越えたたかう候」と、東国武士は親や子が死んでもそれを乗り越えながら戦うのにたいして、西国武士は親が死ねば供養の法事をまずおこない、子が死ねば嘆き悲しんで戦うことをやめてしまうと述べ、また、兵糧米がなくなれば西国武士は収穫の秋まで合戦を延期し、暑い夏や寒い冬は合戦を避けようとするが、東国武士はけっしてそのようなことをしない、と両者の違いを大げさに語るのである。

平氏の武士たちは「これきいて、みなふるいわななきあえり」と物語はつづくのであるが、本書でも後述するように、この富士川合戦において、平氏軍が水鳥の羽音に驚いて戦わずして逃走してしまったことは歴史的事実であり、平氏軍のなかに東国の反乱軍とはじめて戦う不安や恐怖が存在したことは確かであろう。ここで斎藤実盛が語っているような噂(デマ)が平氏軍のなかに広まっていたとしても、なんら不思議ではない。

しかし、じつさいには富士川合戦に参加していなかった武蔵国長井荘の武士斎藤実盛を登場させ(「吾妻鏡」治承四年十二月二十二日条)、彼の口をとおしてこれを「真実」として語らせているところに、『平家物語』の虚構性が存在するのである。

(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』)


つづく



2022年8月27日土曜日

大船フラワーセンター センニチソウ ナツズイセン キバナコスモス タイワンツバキ メキシコヒマワリ(チトニア) サルスベリ 2022-08-27

8月27日(土)、はれ

このところ曇りがちの天候が続いていたが、今日は久々の晴れ(この後、すぐに曇りがちの天候がまた続くらしい)。
暑いには暑いけれど、日陰・木陰は涼しく感じる。季節の変わり目にさしかかってるんだろう。

今日は土曜日なので、鎌倉などの人混みを避けて、大船フラワーセンターへ。やっぱりここは人影疎ら。咲いているお花たちには悪いけど、この時期、暑いし、めぼしい花もないし、ね。

▼センニチソウ

 
▼ナツズイセン


▼キバナコスモス

▼タイワンツバキ 年に何回咲くのだろうか? 3~4回咲いてるような印象あるけど、気のせいかな。

▼メキシコヒマワリ、チトニア

▼サルスベリ 他よりは遅く、今頃が最盛期みたいだ