2020年5月31日日曜日

慶応3年記(11)11月 坂本竜馬(33)・中岡慎太郎(30)暗殺 油小路事件 薩摩兵3千・長州兵1200・芸州兵300入京 野州出流山挙兵事件

慶応3年記(10)10月 相楽総三ら、江戸薩摩藩邸に浪士隊結成 将軍慶喜、大政奉還の上表、討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失) 同日、「討幕密勅」(偽勅)下る 江戸薩摩藩邸が焼き討ち
より続く

慶応3年(1867)11月
・西周、徳川慶喜のために「議題(憲法)草案」を起草。欧州政治制度を参酌して作られる。
①一応三権分立の形式をとり、議政院が立法府で、「全国之公府」としての行政府は大坂に置かれ(従って、江戸には「御領之政府」=徳川領の行政機関が置かれる)、行政府の長には「公方様即チ徳川家時之御当代」がなり、これが「元首」となり、この「元首」が「大君」の位置につく。従来の将軍が国家元首として「大君」となる。
②朝廷の権限は元号や度量衡や宗教や叙爵等に限られ、政治的権限は全くなく、独自の軍事力を保有しないように配慮がなされている。
③軍事力は、将来の「統轄」を予測しつつ、当面はそれを「天下之総役」として、各藩に分担させ、その動員は、絶大な権限をもつ「大君」の下での議政院と公府の会議で決定する。
④「土地経界之儀は現今之通たるべき事」と、これまでの領主の領有権をそのまま認める。
・土佐藩、野中太内ら三十人組、後藤象二郎や乾退助らの政策に反対の意を示し弾劾を訴える。
・森鴎外(5)、養老館教授村田美実宅に通い「論語」の素読を始める。6歳、藩の儒者米原綱善に師事し「孟子」を学習。7歳、養老館に入学、四書の復読に通う。8歳、五経の復読に通う。父についてオランダ語を学ぶ。9歳、養老館に左国史漢の復読に通う。夏、蘭医室良悦について「和蘭文典」を学ぶ。
・9月下旬~10月上旬に始まる江戸の「お札」ふり、11月~12月には数十回に及ぶ。但し、江戸では京都・大坂のようなええじゃないかの狂乱には至らず。
・江戸で鉞強盗横行。隊伍を組み毎晩数軒に及ぶ。慶喜の大政奉還により戦争の口実を失った薩摩藩の江戸・関東で騒乱を起させるための計画。益満休之助・伊牟田尚平らが江戸薩摩藩邸で指導。また、関東各地で混乱を起すため、相模・武蔵・常陸・上総・下総などで「勤皇」「討幕」の騒乱を起す。
・ニーチェ、懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」が受賞。翌年、翌々年の「ライン文献雑誌」掲載。
・マルクス、アイルランド問題を研究。
11月1日
・坂本竜馬、松平春嶽と面会。後藤よりの上京要請を伝え由利公正(三岡八郎)との面会を願い出て許される。
土佐藩の大政奉還論の変遷、倒幕派・福井藩との関係。土佐藩が大政奉還を幕府に建議する経緯では、倒幕派の薩摩藩・宇和島藩と密接に交渉するが、一貫して公議政体路線をとる福井藩とは交渉なし。後藤等が山内容堂に建議した時、その大政奉還の中味は前期(一諸侯としての徳川家を含めた「列侯会議」を朝廷直属とする)と異なり、徳川家が「列侯会議」ヘゲモニーをに掌握する体制に改めらる。福井藩の主張に極めて近いものとなり、建白が幕府側に容易に受け入れられたとみなせる。従って、今度は、土佐・薩長間に大きな情勢変化をきたし、土佐藩は、速やかに福井藩の支持・協力が必要として竜馬の福井訪問になる。
・松平容保、進退伺いを出す。
11月2日
・坂本龍馬と越前藩士三岡八郎、福井城下の煙草屋某亭で会談。新政府財政金札発行のことを相談。三岡は、安政(1854~60)期藩政改革で藩札5万両発行による財政改革成果を説く。辰より子(午前8時~午後12時)に至る。(「越前公用日記」では「晦日朝三岡八郎儀龍馬旅館へ到ル七ツ時過帰ル」)。3日福井発、5日帰京。
・薩摩藩士寺島宗則(2度の欧州体験)、藩主茂久に版籍奉還の必要性建言。
11月3日
・土方歳三、江戸で募集した隊士を連れ大津へ到着。
・パリ万国博覧会参加のため欧州訪問の会津藩横山主税(20)・海老名季昌(24)ら、徳川昭武と別れて帰国。横山は白河城攻防戦で戦死。
・熊本の横井小楠、松平春嶽宛てに建言書を著す。
大政奉還により成立する新政権の基本方針。「幕庭御悔悟御良心発せられ、誠に恐悦の至也」で始まり、直ちに4藩(福井・薩摩・土佐・宇和島)諸侯が出京して朝廷を補佐し、慶喜も滞京して大久保忠寛等「正議の人々」を挙用、「御良心御培養、是れ第一の希ふ所也」と述べる。次いで、「一大変革の御時節」であるから「議事院」を開設するよう提案。「上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用」が肝心で、4藩がまず執政職の位置を占め、その他は賢名の聞こえのある諸侯を登用せよと強調。更に財政・軍事・外交・貿易などの具体的施策を披瀝。
・ジョゼッペ・ガリバルディ、教皇・フランス連合軍に敗れ捕虜となる。ガリバルディ挙兵はフランス軍をローマ防衛に呼戻した結果となる。
11月5日
・坂本龍馬ら、福井の旅から帰京。「新政府綱領八策」(諸侯会盟の覚書)を草し慶喜自ら盟主となることを擬定。新政府案参議中に龍馬自身の名のなきことを西郷が尋ねると「世界の海援隊でもやる」と答える。この頃、京都河原町四条上ル醤油商近江屋新助方に移る。
・海軍伝習所を江戸に設け英人を聘して教習開始。
11月6日
・後藤象二郎、京都政情の報告と山内容堂の上洛要請のため土佐へ帰着。
・野村望東尼、三田尻で病没。
・カナダ自治領の初めての議会開会。オタワ。
11月7日
・龍馬、陸奥あて海援隊への指令書と共に「世界の話」をしたいと通信。
・ポーランド、マリー・キュリー、ロシア支配下ワルシャワに誕生。
11月8日
・岩倉に洛中帰住を許す。
・松平春嶽、入京。翌9日、土佐藩士福岡孝弟の訪問をうけ、慶喜に会議を「御主宰」させるとの土佐藩側意向を承知、その公議政体路線に沿った入説活動を進めるとの態度を明らかにする。
11月9日
・新撰組後藤大介ら、伏見奉行与力横田内蔵允を殺害。
11月10日
・長崎にていろは丸賠償金8万3千両を7万両に減額妥協、中島は6500両を携帯し出航。
・松前崇広、老中となる。
・月真院の斎藤一、近藤の殺害計画を報じ、新選組に復帰。
11月11日
・朝、龍馬、永井玄蕃を訪問「天下の事は危共御気の毒とも言葉に尽くし不申候」と話す。同日、林謙三(安保清康)あて北海道開拓意見と「方向を定めシユラか極楽かに御共可申奉存候」と発信。
・新選組、戦争の支度をして大坂伏見奉行邸へ引き揚げる。
・長藩士山田宇右衛門(55)、没。
11月12日
・紀州藩急進派の田中善蔵、同藩士に暗殺。
・長州軍、討幕のため尾道に上陸。
・徳丸原騒動。錬兵場を大砲稽古場として拡張する計画に対する反対闘争。
この日、拡張地の徳丸村・赤塚村など6ヶ村への現地見分。6ヶ村村民3千が役人・フランス人を包囲、役人3人を留め置く。13日、フランス人が別手組を伴い鳥猟に来て、役人4人が勾留される。のち、徳丸・上赤塚・下赤塚3村は圧力に屈する。26日の初調練には、戸田の三軒屋に数千本の竹槍が準備される。
11月13日
・龍馬、陸奥あて脇差しを贈る文(絶筆)を与える。
・(新12/8)薩摩藩主島津忠義、兵を率いて京へ出発。
・京都北町奉行、ええじゃないかを禁止。これを境に京都の狂乱(10月中旬~)は終る。
・ええじゃないか、尾道に発生。
11月14日
・小浜でもお祓札が降るが、藩が事前に触を出しており、踊り出す者もなく平静。
・幕府、土佐藩邸へ宮川助五郎返還を通告。
・龍馬、風邪気味で近江屋の土蔵密室より母屋の二階に移る。
11月15日
・(新12/10)坂本竜馬(33)暗殺。下宿先近江屋にて、佐々木唯三郎以下7人の見廻組(渡辺吉太郎、桂隼之助、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎)。箱館五稜郭で捕虜となった旗本の息子で元見廻組今井信郎の自供。17日、中岡慎太郎(32)没。
土佐藩邸より曽和慎八郎、谷守部(千城)、毛利恭助、陸援隊田中顕助、薩藩吉井幸輔、医師川村盈進来りついで酢屋より白峰駿馬、沢屋より陸奥源二郎(宗光)駆けつける。
・山内容堂、王政復古庶政一新を前に藩政の更始一新を宣言。藩政一新に伴い、勤王党の獄で捕らえられた人々が大赦。
・大久保利通、鹿児島から高知に寄り藩主入京に先んじて入京。龍馬暗殺にふれて岩倉具視への書翰「坂本首メ暴殺之事ー第一近藤勇ガ所為ト被察申候。実ニ自滅ヲ招之表カ」(11月19日)。
以後、連日倒幕派の堂上(岩倉具視、中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛等)と会談し、慶喜の罪を問う新たな形式として復古クーデタを協議。しかし岩倉以外の堂上は、奉遼上表提出によって慶喜の罪を問う名義が消失したとしてクーデタには消極的。中山らは、12月初、ようやくクーデタ決行を諒承。
11月16日
・下男山田藤吉絶命(25)。京都から急報により大坂薩万にいた小野淳輔(高松太郎)、関雄之助、千屋寅之助、長岡謙吉、坂本清二郎ら京都へ急行。
・土佐藩監察吏、海援隊に潜入した新撰組スパイ村山謙吉、捕縛。17日、村山謙吉、土佐の在京参政神山左太衛や陸援隊水野八郎らの拷問の後、処刑。
11月17日
・三田尻、薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、軍艦で集結。18日、長州藩世子毛利元徳・木戸・広沢と出兵協議。
・重傷の中岡慎太郎(30)、没。
11月18日
・(新12/13)油小路事件。山口二郎、紀州三浦休太郎の許から新選組に戻る、 伊東甲子太郎(25)、油小路木津屋橋で大石鍬二郎らに要撃され本光寺門前で斬られる。その亡骸を引き取りに出向いた、伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎ら7名、新選組40余の要撃を受け、藤堂平助・服部武雄・毛内有ら4名が殺害される。鈴木・篠原泰之進らは薩摩屋敷に逃れる。
・後藤象二郎、第1・2別撰小隊と共に京都へ出立。21日、京都着。
11月19日
・会津藩より伊東甲子太郎ら4人の葬料として20両下る
・岩倉具視、石薬師御門外の大久保一蔵邸を訪問。19日、岩倉具視より大久保利通あて書翰「此の悲しみ必ず報ぜざるべからず」。
11月20日
・薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、大坂着。
11月22日
・長州藩広沢真臣、広島で芸藩植田乙次郎と出兵協議。
・いろは丸事件賠償解決の中島、石田英吉・大江卓らと(12日長崎出帆)土藩船横笛で神戸着。
・油小路の戦いで血路を開いた鈴木三樹三郎・篠原泰之進、薩摩の大久保市蔵らに新選組の暴挙を語る。伊東・藤堂・服部・毛内の亡骸を四条大宮の光縁寺に埋葬。近藤勇、永井主水正に呼び出され、坂本竜馬・中岡慎太郎らの近江屋事件について糾問される。
・兵庫商社、第1回の金札の1万両の発行および引き替えを行う。
・(新12/17)江戸城二の丸長局より出火、二の丸が焼失・
11月23日
・薩摩藩主島津茂久・西郷隆盛・兵3千、京都入り。
・幕府、横浜外人居留地取締規則を設定。
11月24日
・外国奉行平山敬忠・会津藩佐川官兵衛・米沢藩甘粕継成・長岡藩主牧野忠訓・同家老河井継之助、幕府の順動丸で品川から大坂に向かう。プロセン公使ブラント・通訳ヘンリー・シュネルも同じ船に乗り合わせ、河井はシュネルと知り合う。
この年12月22日、シュネルはプロイセン領事館の職を解かれ、会津藩松平容保に軍事顧問として召抱えられ平松武兵衛を名乗り羽織袴を着用。
・江戸薩摩藩邸より、野州挙兵隊(隊長竹内啓)40~50人、甲府城攻略隊(隊長上田修理)出発。他に相州襲撃隊(隊長鯉淵四郎)あり。
11月25日
・長州軍1200、軍艦6隻で三田尻出発、東上。29日、摂津打出浜上陸。
・大政奉還派土佐藩・福井藩の公議政体入説協議。26日、福井藩中根が尾張藩田宮如雲を訪ね、酒井が熊本藩邸に出向く。
土佐藩後藤象二郎・福岡藤次(孝弟)・神山左太衛と福井藩中根雪江・酒井十之丞・青山小三郎が福井藩邸で協議。「一藩にても同論多き方、力も強く説も立可申」とし、福井藩は尾張・熊本両藩へ、土佐藩は広島・薩摩両藩へ、広島藩からは鳥取・岡山両藩への入説を決め、翌日より入説活動を始めるが、大政奉還派=公議政体派が期待を寄せる「列侯会議」が開かれないうちに、12月9日、薩摩藩主導の武力討幕派による「王政復古」クーデタに見舞われる。
・大森事件。荏原郡不入斗村(大森の鈴ヶ森)で雁猟のフランス兵2名、雁を奪い名主宅に逃げ込んだ農民を追い名主に暴行、フランス兵1人と別手組2人が農民に勾留される。農民5~6千が八幡盤井神社に屯集し引渡しを拒否。別手組頭取らが身代わりとなりようやくフランス人は解放される。
11月26日
・近藤勇、坂本・中岡暗殺について事情聴取される。
11月27日
・野州出流山挙兵組(隊長竹内啓)、栃木に入る。
・土藩船「空蝉」乗船した松井・岩崎、長崎に着。佐々木や海援隊へ、龍馬の死を伝える。
11月28日
・後藤象二郎・福岡藤次、諸公会議と簾前会議の開催について西郷吉之助と面談。
・芸藩世子浅野茂勲、兵300率い入京。
・幕府、ロシアと改税約書に調印。
・(新12/23)江戸の鉄砲洲を外人居留地とする。
11月29日
・長州藩兵1200、兵庫上陸。
・大久保利通、正親町三条実愛にクーデタ決行明言。
・野州出流山挙兵事件。千手院で宣誓結党式。/27.竹内啓(川越在医師)ら十数人、江戸から栃木へ。/12/初.150人の浪士結集。/12/10.幕府、下野屯集賊徒召捕り命ず。12/11.幕兵により包囲殲滅。/13.出流・岩船山下の戦い。全滅/15./18.佐野河原で処刑51人/24.竹内処刑、松戸
11月30日
・東上軍総督毛利内匠と長州兵、西宮に到着。
・河井継之助、藩主牧野忠訓とともに藩士60名を従えて上坂。
11月末
・仏、警視総監、「政府への畏敬の念はうすれてしまい、すべてが中傷によって冒されている」と皇帝に報告。
この月、イタリア独立の志士マナンの墓前で、フランス軍隊のイタリア干渉に反対する示威運動。グラヴィリエ派の参加を口実に、政府は、トラン及び同志を引出して裁判に付し、インタナショナル支部には解散を命じる。直ちに製本工ヴァルランを中心に新しいメソバーで別の事務局が組織され、ジュネーブ建築労働者ストライキの為に数日間に1万フランの醸金を集めるのに成功。政府はこれを口実に新委員会も解散し、責任者に3ヶ月の禁錮を宣告。政府は、革命化しつつあるインタナショナルに弾圧を加える一方、人気取り政策から、言論および集会の取締規則に関しては若干の緩和を行なうが、政府反対派の懐柔には役に立たず、却ってその活動は一層活発となる。
1867年恐慌はフランス経済にかつてない衝撃を与える。企業破産と操短は、失業者増・賃金引下げをもたらし、加えて生計費高騰は都市の労働者・手工業者等を窮乏に追いやる。セーヌ県知事はパリには100万人が飢餓状態にあると報告。労働者にとって67~68年冬は帝政期を通じて最悪。経済不況を背景に、議会での政府批判、第1インターナショナル・フランス支部設置、反政府系新聞増加、集会開催などが、民衆の反政府意識を強め、かつてない労働運動の昂揚をもたらす。

つづく






失業予備軍600万人 雇用さらに悪くなる?(東京); 非正規雇用の労働者数が3月から4月にかけ131万人も減少。猛烈な勢いで進む非正規雇い止め。休業者数も約600万人と過去最大。..... — 東京新聞けいざいデスク

大坂なおみさん、「スポーツに政治を持ち込むな」ツイートに痛快な反論 『これは人権の問題です』 人種差別に抗議する発信を積極的に続ける大坂なおみさん。痛快な反論に、賛同の声が寄せられています。(ハフポスト) / 大坂なおみ、“政治発言”への批判に持論「ただ楽しませればよいという意見が大嫌い」(THE ANSWER) / 大谷、大坂選手らが暴行死に抗議 SNSに黒い無地の画面で(京都新聞) / 米黒人暴行死 大坂なおみがコメント SNSに画像を添え - 毎日新聞 ; 「何に対しても立ち上がらないのであれば、あらゆることに対して屈してしまう」 / 「自分の身に起こったことじゃないからといって、何も起こっていないわけじゃない」 「普段はチェーンを身につけ、ジムではヒップホップを大音量で鳴らし、ハイタッチやグータッチを交わし、スラングでしゃべる人たちが、いま突然黙り込むのはおかしいと思う」 / 「立ち上がらないのであれば、屈してしまう」 大坂が黒人暴行死事件に反応(産経)    







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広がる"Black Out Tuesday"とは? 黒人差別に抗議、アメリカの音楽業界で大規模なストライキ実施へ  「#TheShowMustBePaused(ショーは中断しなければならない)」のハッシュタグが広がる。ロックバンドのレディオヘッドは、YouTube動画を全て非公開に(ハフポスト) / 全米の音楽業界が、ジョージ・フロイド氏殺害に対する抗議で、通常業務を一斉停止するストライキ「ブラックアウト・チューズデー」を行う / Music industry reacts to George Floyd death with grassroots "Black Out Tuesday" — Rolling Stone / Netflixは「沈黙は共犯」だと語り、大切な命のために声を上げるとTwitterで意見表明。日本法人もこのツイートにコメントし、呼びかけ   



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東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感(京都新聞);「(新型コロナウイルスが明るみに出て)当初、これは危ないなと思っていたが、世界中にまん延してしまった。目に見えないウイルスとの戦い。いつ終わるかめどが立っていない。来年までに世界各国で収束しないと準備ができず、五輪の開催が難しいのではないか」 / 五輪中止は決定済みと報じた週刊フライデーの衝撃(BLOGOS)   





「アンティファ」所属を自称し暴力を扇動するTwitterアカウントが実際には白人至上主義団体によって運営されている事実が判明、アカウントを凍結したとTwitter広報が発表 / 紛れ込んでいるネオナチが発見されている / 工事現場でもない綺麗なオフィス・ビルの前に 都合よく道路にレンガが山のように置かれている / 意図的に騒乱を起こそうとしているグループが紛れ込んでいるように思える / 《ミネソタ州の公安委員によると、白人のナショナリストが組織化して暴力と破壊のために州に来ているとのこと。 つまり、白人至上主義者たちが、トランプによる煽動に追随しているのです》 / ミネアポリスで暴動を起こしているのが黒人だという報道ばかりだが、このように白人の若者たちが過激な行動をしているのを黒人が止めようとしているという現実もちゃんと伝えるべきだと思う。











▼以下、ナショナリストとの関係は不明だが、少なくとも暴行、掠奪を止めようとしている人たちがいることを示している 









2020年5月30日土曜日

ご近所散歩 八重のドクダミ ビョウヤナギ アジサイなど 2020-05-30

5月30日、はれ
今日は自宅近くをユル散歩。
徐々にお店が開いていて、どんな様子かななどとあちこちウロウロ。
本屋さん(紀伊国屋書店)オープンしてて、久しぶりに30分ほど本の匂いを嗅いできた。
結構お客さん多い。
ドトールがオープンしてた。ここは素通り。

今日の総歩数は1万2千歩

地元の紫陽花も徐々にいい感じにはなってきたけれど、やはり明月院とか長谷寺に行きたい。6月1日以降、徐々に行くかな。

今週、実は長男の誕生日があったけど、コロナ対応で往来自粛中。
暫くリアルなマゴちゃんにも会ってない。
(マゴちゃん写真サイトで、毎日動画など更新してくれてるんでガマンできてるけど)
恒例の家族飲みがオアズケになっている。

お友だちとのオッチャン飲みも含め、そろそろ再開検討かな?

▼庭の八重のドクダミ
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2020-05-30 庭に #八重ドクダミ が咲き始めた。

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▼びょうやなぎ







慶応3年記(10)10月 相楽総三ら、江戸薩摩藩邸に浪士隊結成 将軍慶喜、大政奉還の上表、討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失) 同日、「討幕密勅」(偽勅)下る 江戸薩摩藩邸が焼き討ち

慶応3年記(9)9月 正岡子規誕生 長州藩、内戦に備え藩政大改革 薩長挙兵討幕盟約 討幕に関する桂小五郎・坂本龍馬往復書簡(4日、20日) 龍馬、銃1千挺を土佐へ届ける
より続く

慶応3年(1867)10月
・柳川春三「西洋雑誌」創刊。
10月上旬
・江戸芝新馬場薩摩藩邸、益満休之助・伊牟田尚平・小島四郎(相楽総三)、着。
~中旬。江戸攪乱工作のため浪士集め。11月末まで500人。糾合所屯集隊組織。総裁相楽総三(28)、副落合源一郎(41)、大監察権田直助(59)、長谷川鉄之進(46)、斉藤謙助(38)。
10日、相楽総三らたち、江戸薩摩藩邸において浪士隊の決起大会を開く。
10月1日
・坂本竜馬、震天丸で浦戸発。5日、風浪のため室戸岬で乗船破損、須崎にて土佐藩船空蝉(胡蝶丸)へ乗り替えて上坂。
・後藤象二郎、近藤勇との再開を果たせず。大政奉還の建白で多忙との詫状が近藤勇に届く。
10月2日
・後藤の奔走により土佐藩大政奉還建白書提出を薩藩西郷ら了承。
10月3日
・後藤象二郎・福岡藤次、容堂名で大政奉還建白書を老中板倉勝静に提出。4日、寺村左膳・神山左多衛、大政奉還建白書の写しを公家二条斉敬へ提出。
・長州藩当局、出兵中止=失機改図を決す。一方、在京倒幕派は、なお予定通りの活動を続け、倒幕宜旨の降下を急ぐ。
①芸州藩の動揺。在京の老臣辻将曹は、後藤象二郎の説得を受け、挙兵協力から大政奉還建白協力に態度変更、藩地にもこの方針採用を要請、藩地は辻の要請と長州藩の協力要請との板挟みになり動揺。
②薩摩藩藩地での根強い出兵反対論のため薩摩藩は予定の時期に軍船を三田尻へ送ることができず。
・薩藩士大山格之助、兵400率い鹿児島出発。6日三田尻到着。
10月4日
・後藤象二郎、会津藩公用人外島義直・手代木勝任と会談。
10月5日
・近藤勇、大政奉還建白書の写しを一覧したい旨の書翰を後藤に送る。
10月6日
・大久保利通・品川弥二郎・岩倉具視・中御門経之ら、王政復古の方略を謀議。
・芸州藩主浅野茂長、大政奉還建白書を幕府に提出。
・龍馬、大坂着定宿「薩万」へ投宿、海援隊同志と再会。
・開陽丸を中心とした徳川艦隊に兵庫沖への出動命令。12月7日の兵庫開港式典のため。翌日、江戸湾を出航。
10月7日
・白川の土佐陸援隊に潜入の新選組密偵村山謙吉、「10月15日、二条城には薩摩兵、所司代に陸援隊と十津川郷士、新選組屯所には他の浪士達が襲撃」との武力蜂起諜報をもたし、これを京都守護職へ報ずる。
10月8日
・長藩士広沢真臣・品川、薩藩士小松・西郷・大久保、芸藩士辻・植田乙次郎等、3藩合同対幕を議決。9日、大久保・広沢・植田、中御門経之・中山忠能を訪問。薩・長・芸3藩の出兵計画示す。
10月9日
・岩倉具視、王政復古の意見書を密奏。
・坂本竜馬、入京。中島作太郎・岡内・戸田らと醤油屋近江屋新助方投宿。
・長州藩福田侠平、薩摩藩の出兵遅れを質すため上京。長州藩の失機改図を知らせる。在京倒幕派は急遽予定を変更、大久保利通・西郷隆盛らは一旦帰藩して茂久出馬を求めることになる。
・薩摩藩家老島津主殿率いる兵、三田尻集結。
・近藤勇、松平肥後守容保から板倉勝静と永井主水正の身辺警護の厳命を受ける。
・ニーチェ、ナウムブルク野戦砲騎馬連隊に入隊し、訓練を受ける。
10月10日
・坂本竜馬、白川村の陸援隊中岡訪問、中岡は兵器を並べて「何時にても蹶起すべし」と、討幕の意気をみせる。また後藤を訪い大政奉還の様子を訊く。この頃、巷には「海援隊壮士300人を連れて上京」の評判たつ。同日、福岡孝悌の紹介で幕府大目付役永井尚志を訪問、建白採用を歓説。「後藤より一層高大にて説く所も面白し」と永井批評。
・ニュージーランド、マオリ族に下院議席を与える法案可決。
・バイエルン王ルートヴィヒ2世、ゾフィーとの婚約解消。
10月11日
・政治家鈴木善三郎、誕生。
10月12日
・松平春嶽、老中板倉勝静宛て書翰。後藤の「公議論」が、薩摩・宇和島両藩の討幕論に利用される危惧を表明。
土佐藩の「公議論」策定に薩摩・宇和島両藩との関連性を憂慮、「西洋法之論を借て、私説を恣にせんか為、議事院を開かんとする覚も随分可有之哉候へは、若々其向々より朝廷へ議事院建白出候而も、軽率御採用被為在候而は、天下之一大変動眼前に生し可申は勿論と、深く心痛仕候」(「丁卯日記」)と半ば警戒的な態度。
・6日に三田尻に到着した薩摩の軍船の使者が上京、藩地の状況がより明白となり、大久保・西郷の帰藩が急がれ、挙兵計画はここで打切り。
10月13日
・将軍慶喜、容堂の建白により8ツ時(午後2時)、二条城に在京40藩の重役を召集、政権奉還を伝える。
・西周、慶喜に国家3権の区別、英国議員制度のことを尋ねられる。
・夜、岩倉具視より毛利敬親・元徳父子に官位復旧沙汰書が大久保・広沢に渡される。
・龍馬、後藤を激励往復文書に双方の決意を示しあう。下城後、後藤、その成功を「大樹公政権を朝廷ニ帰す之号令を示セリ」と報ずる。龍馬は傍にいた中島信行へ「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る、よくも断じ給えるものかな」と落涙。
10月14日
・(新11/9)大政奉還上表。慶喜、大政奉還の上表。討幕派の先手を打つ(討幕の名義消失)。
薩長両藩ら討幕勢力は慶喜を逆賊として武力で討伐し、政権のみならずその領土も剥奪する計画。慶喜は薩長の戦略を見抜き、自ら政権を投げ出し朝廷に返上することで、賊軍として討伐出来ない状況を作り出すことに成功。更に親徳川派福井藩前藩主松平春嶽・土佐藩前藩主山内容堂の協力を得て、新たに成立する京都政権(大名連合政府)の首相格として自分(慶喜)を任命させる所までの状況を作り上げる。
この頃、慶喜の求めにより、幕臣西周が幕府の国家構想を建議。行政府(「全国、外国、国益、度支(会計)、寺社」の5事務府)・議政院(大名に上院、藩士の下院)の2権を立てる。公家は山城国から「外出」できず、外出しても「平人」として扱われるなど朝廷の特権は大幅に制限。
これに対して、討幕勢力の巻き返しのため、薩摩大久保利通・西郷隆盛は、旧幕府勢力を挑発、激昂させ、強引に軍事衝突に持ち込みこれを撃破する謀略を決意。こうして、年末には薩摩藩が扇動する浪士達が江戸市中で次々に放火・略奪などのゲリラ活動を展開、このゲリラ活動に業を煮やした江戸城在住の小栗忠順等の過激派勢力が庄内軍に命じて江戸の薩摩藩邸を襲撃、これにより徳川と薩摩は交戦状態に入る。
「臣慶喜、謹みて皇国時運の沿革を考候に、昔し綱紐を解き相家権を執て、保平の乱、政権武門に移てより祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職を奉ずと雖も、政刑当を失ふ事不少今日の形勢に至候も、畢竟薄徳の所致、慙懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に奉帰、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候へば、必ず海外万国と並立つべく候、臣慶喜国家に尽くす所、是に過ぎずと奉存候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨諸侯へ相達し置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上 慶応三年十月十四日 慶喜」(「山内家文書維新史」)。
・討幕密勅。大久保一蔵・広沢兵助らの働きにより正親町三条実愛より薩長両藩主父子に「討幕密勅」下る(実際は天皇が下したものでなく岩倉・中御門・正親町三条・中山の合作の「偽勅」)。松平容保・松平定敬誅伐の宣旨も手交。
「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族の強を恃み、妄に忠良を賊害し、数ば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、溝壑に万民を擠れて顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母たり、是の賊にして討たずんば、何を以てか、上先帝の霊に謝し、下万民の深□に報ぜんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万已むべからざるなり。汝、宜しく朕の心を体し賊臣慶喜を殄戮し、以て速度やかに回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢て懈るあるなかれ。」(「維新史」)。「会津宰相 桑名中将 右二人、久しく輦下に滞在し、幕賊の暴を助け、其の罪軽からず候。これに依り、速やかに誅戮を加ふべき旨、仰下され候事」(「維新史」)。
10月15日
・朝廷、慶喜の上表を聴許(大政奉還を受理)。朝廷慶喜を参内させ大政奉還勅許の御沙汰書を渡す。
・中井弘(薩摩)・土佐の結城幸安、横浜を出帆し英国へ向かう。
10月16日
・坂本竜馬、戸田雅楽と「新官制案」草す。
・いろは丸再交渉。紀州藩三宅精一郎、土佐藩中島作太郎。賠償金7万両、内4万2500両は原有主大洲藩へ返還
10月17日
・西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、討幕密勅携えて鹿児島へ向かう。戸田雅楽、坂本龍馬らの起草した新官制擬定書を西郷に渡し鹿児島まで同行。
10月18日
・[露暦10月6日]アメリカ,ロシアより720万ドルでアラスカを購入。
10月19日
・いろは丸賠償金再交渉を受け、龍馬の代理として中島信行を長崎へ派遣。
10月20日
・朝廷、慶喜を召し朝議。慶喜、御委任の権限につき八箇条の伺書提出。
・大政奉還の報、江戸城に到着。
・長岡謙吉、薩摩藩士田中幸助と共に後藤象二郎らの内意をうけ横浜へ出張。
10月21日
・朝廷、薩長に倒幕密勅の実行の猶予を命じる。
・大久保一蔵、三田尻に到着。
・西郷吉之助と長州藩、三田尻で討幕について打ち合わせる。
・広沢兵助・福田侠平、山口に到着。密勅を藩主毛利敬親に提出。
・土方歳三ら、池田七三郎・井上泰助ら新入隊士を引率して江戸出立。
10月22日
・朝廷、徳川慶喜に庶政を当分委任する(暫時庶政委任)。
・福知山藩家老飯田節、薩摩藩士と誤認され暗殺。
・小笠原壱岐守長行、各国使臣に対して政権返上の旨を通告。
10月23日
・江戸城二ノ丸焼失。
・徳川慶勝、病をおして名古屋を出発上京。
10月24日
・慶喜、松平越中守定敬を参内させ将軍職辞表提出。
・幕府、老中格兼陸軍総裁大給乗謨、老中格兼梅軍総裁稲葉正己、若年寄兼会計奉行永井尚服、若年寄兼陸軍奉行下館藩主石川総管らに上東を命ず。
・坂本龍馬、三岡八郎の政策を取り入れるべく岡本健三郎を伴い福井へ出発。
・稲葉兵部少輔ら、京都情勢黙視できないと順動丸で江戸を出帆。
・イタリア、カブレーラ島脱出のガリバルディ、息子メノッティ・ガリバルディ指揮義勇隊に合流。モンテロトンドで教皇軍撃破。
10月25日
・江戸薩摩藩邸が焼き討ち。90人が戦死。
10月26日
・朝廷、慶喜へ諸侯上京まで将軍職を待つべきを指示。
・西郷吉之助ら、討幕の密勅を持ち鹿児島に到着。
・鹿児島、大久保ら、藩主父子・藩中枢を説得。
10月28日
・坂本龍馬・岡本健三郎、土佐藩の使者として越前福井着。山町煙草屋へ投宿。福井の村田巳三郎を訪問。
・毛利敬親、出兵を藩議決定とする。
・フランス軍、ガリバルディの攻撃に備えローマ出兵。
10月29日
・薩摩藩主島津茂久、率兵上京決意。
10月30日
・エンゲルスの「資本論」の最初の書評、ベルリンの「ツクンフト」紙に載る。ほか数紙に「資本論」書評を書く。
10月下旬
・マルクス、北ドイツ国会に初めて登壇するリープクネヒトに2~3の指令を送る。

つづく


「犬だけは罪に問わず、警告にとどめた」と警官(海外こぼれ話 共同配信)

テイラー・スウィフトさん、トランプ大統領に「11月の選挙で落選させる」。黒人死亡事件めぐるツイートを批判 「略奪が起きれば銃撃も辞さない」というトランプ大統領のツイートが物議を醸しています。(ハフポスト) / トランプのツイッターのフレーズ「略奪が始まれば、銃撃を開始する」は歴史的に悪名高いマイアミ警察署長Walter Headley(60年代に黒人差別への抗議運動を武力で弾圧)の言葉の意図的な引用だった    










関連記事
黒人暴行死、デモ全米に拡大 相次ぐ差別に不満噴出(時事) / ジャーナリストに向けて催涙ガス弾を撃つ警察官。トランプ大統領が「メディアが国民の敵だ!」を再三言い、ジャーナリストを悪者とすると、こうなってしまう(Martin Fackler) / 白人警官に殺されたGeorge Floydの死による苦悩を訴えるオバマの強烈なメッセージ / 米国ミネアポリス 警察官による黒人殺害に市民の怒りが爆発。抗議デモ拡大。警察署に放火。掠奪(警察に監視カメラなど多額の寄付をしていた量販店など)。取材中の黒人CNN記者だけが逮捕される。NYブルックリンでも抗議デモ アトランタではCNN本社ビルに抗議デモ;ビルの中に警察署があるとの説も(?) シアトルでも 町山智浩さん撮影のオークランドデモと警官隊の突入(5/29)(動画)



2020年5月29日金曜日

今日のご近所散歩 東戸塚~戸塚 2020-05-29

5月29日、はれ
今日はJRで1駅隣の戸塚まで歩いた。
お昼は、ちょくちょく利用する和食のお店の戸塚駅前の支店(ここは初めて)でお寿司のランチ。当然、ビールと。
で、こういう日はごくごく軽めの晩ご飯。

コロナ対策で、席は間引きして座らせていた。
なので、店内に空いた席があるけれど、客を待たせるという状況になっていた。

今日の総歩数は1万4千歩(当月の累計目標は既に達成済みなので、余裕!)




慶応3年記(9)9月 正岡子規誕生 長州藩、内戦に備え藩政大改革 薩長挙兵討幕盟約 討幕に関する桂小五郎・坂本龍馬往復書簡(4日、20日) 龍馬、銃1千挺を土佐へ届ける 

慶応3年記(8)8月 イカルス号事件談判(高知、長崎)、海援隊への嫌疑はれる 坂本龍馬、密かに高知上陸 一橋家臣・慶喜侍臣原市之進暗殺 名古屋にお陰参り「ええじゃないか」おき、諸国に蔓延
より続く

慶応3年(1867)9月
・幕府、老中以下諸役の足高・役知・役料・役扶持等を廃止して、老中以下に役職に応じて一定額の役金を支給する制度を定める。この措置は、実力派吏僚進出および五局制採用と相まって、幕府行政機構の簡素集中化・官僚化を進める。
・ジャパン・タイムズ創刊。
・長州藩、内戦に備え藩政大改革。
「有司」の実務役人に実権集中。藩政務は「国政方」、財務は「国用方」の2局に集中させ、全体を「用談役」木戸孝允(90石)が支配し、政治的中立の実務役人も多く登用。武士・庶民混成の諸隊が長藩の精鋭軍であるが、足軽・手子・中間・陪審らの下級武士も、装条(ライフル)銃隊と大隊に編成。上級藩士は、従卒を連れることを禁止され、「単騎働き」(一兵卒)となり「散兵」(地位の低い補助軍に編入)。秩序の逆転。
木戸は、小松・西郷・大久保らと協議、藩を超えた結束を固める(「強兵富国開明派の横断的統合」)。「今日の長州も、皇国の病を治しそうろうには、よき道具」(木戸)と、藩を国家形成の道具と見る。木戸・西郷・大久保ら「有司」が藩から自立し始める。
・アントン・ルビンシュテイン、ロシア音楽協会・音楽院の全てから手を引く。
・イタリア、フランス軍撤退(66/末)後、ローマ侵攻準備のガリバルディ、ナポレオン3世の警告によりイタリア政府が再びカブレーラ島軟禁。10月、脱出。
・英、【マンチェスターの受難(殉死)】IRB指導者ケリー逮捕。護送馬車襲撃により奪還、警官1死亡。マンチェスターのアイルランド人一斉検挙。有罪3人。/11/23.死刑執行。
・ジュネーブ、「平和と自由の連盟」創立大会。左派バクーニン、第1インターとの合同図るが失敗。
9月1日
・後藤象二郎、山内容堂の大政奉還建白の命を受け土藩船空蝉にて浦戸を出発。2日、大坂上陸心斎橋道筋で西郷に出会う。3日西郷、後藤面談。
「誠惶誠恐謹みて建言仕候、天下憂世の士、口をとざして敢えて不言に至り候は誠に可懼の時に候、朝廷・幕府・公卿・諸侯旨趣相違ふの状あるに似たり、誠に可懼の事に候。此二懼我の大患にして彼の大幸也。彼の策、是に於てか成ると可謂候。如此事態に陥り候は、其責至竟誰に可帰や。併し既往の是非曲直を喋々弁難すとも何の益かあらん。唯願くば、大活眼、大英断を以て、天下万民と共に、一心協力、公明正大の道理に帰し、万世に亘て不恥、万国に臨んで不愧の大根底を建てざるべからず。・・・只管此事のみ日夜焦心苦思仕り罷在候。因りて愚存の趣、一二家来共を以て言上仕候。唯幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万国に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と奉存候。猶又、別紙とくと御細覧仰せ付けられ度く、懇々の至情黙止し難く、泣血流涕の至に不甚候。 慶応三年丁卯九月 松平容堂」(「山内家文書維新史」)。
9月2日
・龍馬、岩崎より吉国の刀を借り携える。
・~8日。ローザンヌ、国際労働者協会(第1インターナショナル)第2回大会開催。マルクス欠席。
9月3日
・(新9/30)上田藩士赤松小三郎(英国兵学者)、中村半次郎に暗殺。
・(旧8・6)徳川昭武ら、ヨーロッパの条約締結各国巡歴の途に就く。
9月4日
・桂小五郎、坂本龍馬宛書簡。再び大政奉還によせて「此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひ」「大舞台之崩れは必然」と忠告。
「爾後いよいよご壮榮に引継ご高配遙察奉り候。さて滞崎(長崎滞在)中はいろいろご高意を蒙り多謝奉り候。ご迷惑の一条如何お片付あい成り候哉、早々お済にあい成り候邊、陰ながら心急かしく存じ奉り候。平時にご内話あい窺い候、上の方の芝居も近寄どもは仕らず哉。何分にもこのたびの狂言は大舞台の基をあい立候次第につき、是非とも甘く出かし申さずてはあい済まず、世間且々役に立ち候、頭取株は申すにおよばず、且また舞台の勤まり候ものどもは仲間に引き込み候工風もまた肝要と存じ奉り候。何分にもご工風ご尽力ねがい奉り候。庄村氏の一條如何、是もせめて内輪だけにても芝居の趣向を立、つまり外の大芝居の役に立ち候こと六つかしき都合に候えば、却って内の芝居にて外へ出ぬだけにても然るべしと存じ奉り候。いづれ外の役は六つかしきと存じ奉り候。且つ又乾頭取の役前この末は最も肝要と存じ奉られ申し候。なにとぞ万端の趣向、ここにおいては乾頭取と西吉(西郷)座元と得と打合にあい成りおり、手筈きまり居り候こと尤も急務かと存じ奉り候。この狂言食い違い候ては、世上の大笑いとあい成り候はもとより、ついに大舞台の崩れは必然と存じ奉り候。しかる上は芝居はこと止みとあい成り申し候。ご同意に成らせ在候はば、一飛脚にても乾頭取元へ差越され、ご決定にあい成り居り度候ことかと存じ奉り候。ぜひ乾頭取はこの後は西吉座元とご同居くらいにても然る可様存じ奉り候。ご高案如何、狂言の始末一定の所甚だ肝要に存じ奉り候。且つまた大外向の都合もなにとぞ其の御元ひこなどと極内とくと仰せられ談置、諸事お手筈専要に是れまた存じ奉り候。実に大外向のよしあしは必ず芝居の成否盛衰に訖度あいかかわり申し候。この上ながら四方八方へ御目をおくばり成らせ候てご尽力、芝居大出来と申すところに至り候ようご高配陰ながら祈念奉り候。乾頭取のところも場合に後れては、丸々狂言は出来申さずは元より、実にいかよう考え申し候ても大舞台はそれぎりと存じ奉り申し候。即ち義経の早く行ってまつことあればいさぎよく、おそくていそぐ道は危しとはこの場合かと愚考仕り候。時に拝借金大いにありがたく存じ奉り候。近日御地へ差し送り申し候あいだ、急ぎ早々ご返上仕るべく候。宜しくお聞済遣され候べく願い奉り候。先は幸便に任せ、取り敢えず愚考のまま申し上げ候。ご取捨願い奉り候。毫末ながら佐々木君はじめ諸君へ然るべくご致意願い奉り候。その中時下ご時玉第一に存じ奉り候。 匇々頓首拝。 九月四日 尚々この芝居に付候ては少しも損のいかぬようご工風ならせ在、且また役に立ち候ものは御引込みならせ在たく、迂遠ながら存じ奉り候。敬白。 さい様御内拆御火中 きと」
・木戸準一郎、長崎より馬関に帰る。
・後藤象二郎、大政奉還の建白書を持ち京都に到着。
・幕府、デンマークと通商本条約を締結。
9月6日
・幕府、伊太利と通商本条約締結。
・島津備後珍彦、城下兵2小隊1千余を率いて大坂に到着。
9月7日
・西郷隆盛、再度、後藤象二郎から大政奉還提出論を聞く。西郷は建白反対表明。
・龍馬、佐々木萬にて岩崎らと事件について論議、岩崎は出港落ち度のことで口書始末を佐々木栄と共に出す。
9月8日
・後藤、会津藩より京都一力亭へ招待されて出席。
9月9日
・後藤、西郷と面談し建白実行に付き挙兵期日延期を求めるも再び拒絶される。
・幕府、関八州における酒造貸株を停止、各地に於る醸造高を三分一に減石。
9月10日
・龍馬、佐々木高行と共に立山奉行所で申し渡しを受ける。イスカル号事件海援隊士の嫌疑解消、蕪レ構となり一件落着。(翌明治元年8月、筑前福岡藩士金子才吉が殺害下主人と判明。金子は、慶応3年7月8日自殺)。
9月11日
・島津備後入京、従兵1千余。
・土佐藩士島村雄三郎・田所安吾、長崎で酔った米国水夫2名傷害。龍馬、佐々木、自首させ解決。17日、立会裁判。長崎奉行能勢大隅守、徳永石見守、英国領事マルクス・フローエルス、佐々木傍聴。
9月12日
・江戸~大坂間の蒸気飛脚船が開設、農民・町人も乗船を許可される。
9月13日
・朝彦親王、会津藩秋月悌次郎を招き、15代将軍慶喜側近原市之進の後任として、近藤勇の登用を提言。
9月14日
・坂本龍馬、陸奥をして丹後田辺藩代表松本検吾と商業取引武器購入の契約を締結させる。
・幕府、江戸の市街地に3階建家屋の建築を許可。
・【資本論刊行】マルクス(49)「資本論」第1巻、ハンブルク、オットー・マイスナー出版社から刊行。
・(旧8/17)栗本鋤雲らの鎖港談判使節団、パリに到着。
9月15日
・坂本竜馬、オランダ商人ハットマンよりライフル銃1300挺(代価18875両、4千両手付け)購入約定。
・薩摩藩大久保一蔵・大山格之助(綱良)・長州藩伊藤俊輔・品川弥二郎、京都発。16日、三田尻を訪問。17日、山口着。木戸・広沢と会見。18日、山口城で毛利敬親父子に謁見。武力討幕に傾きつつある。この日、薩長挙兵討幕盟約。
薩摩・長州藩、改めて出兵「条約書」を結び、20日には芸州藩も加わる。薩摩藩が9月中に武装蜂起し天皇を奪い大坂城に攻め入ることを再度計画。
・島津久光、京都より帰国。
・浦上キリシタン、庄屋に改心取り消しを申し出る。
9月17日
・越前藩士山本龍二(関義臣)、海援隊入隊。/慶2/7/10.坂本の斡旋でシンガポール渡航中、難破。中国上陸後帰国。
・(新暦10月14日)正岡子規(本名常規、幼名処之助、のちに升と改名)、誕生。
伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町3番5号)。父正岡常尚(35、松山藩士)・母八重大原氏(23、松山藩の儒学者大原観山長女)の長男。父が若くして没し、子規と妹律は母と大原家の庇護のもとに成長。祖父観山は、子規に漢文・漢詩の素読を教えるなど大変に可愛がり、子規は、「後来学者となりて翁の右に出でんと思へり」(「筆まかせ」)と語り、観山に憧憬の念を抱く。
・幕府、蘭独白伊瑞丁のヨーロッパ6ヶ国と条約締結の旨を布告。
9月18日
・芸州船震天丸、田辺藩士・海援隊士らと兵器を満載して長崎を出港。菅野覚兵衛・陸奥源二郎・中島作太郎。
9月20日
・芸州の震天丸、下関着。伊藤俊輔、坂本龍馬と下関で会見、薩・長・芸3藩連合出兵を説明。龍馬、菅野覚兵衛と陸奥陽之助に銃200を大阪に運ばせる。銃1千挺、龍馬が土佐へ廻漕。伊藤俊輔(博文)に、「土佐藩が不必要なら長州で一切武器を引き取ろう」と言われる。同日、桂へ倒幕の備えを知らせる書を送る。
「一筆啓上仕り候。然るに先日のご書中大芝居の一件、兼て存じおり候ところとや、実におもしろくよく相わかり申し候間、いよいよ奮発仕るべく存じ奉り候。その後長崎においても上国のこと種々心にかかり候内、少々存じ付候旨もこれあり候より、私一身の存じ付にて手銃一千挺買い求め、芸州蒸気船をかり入れ、本国(土佐)につみ廻さんと今日、下関までまいり候ところ、はからずも伊藤兄(俊輔)上国よりおかえり成され、お目にかかり候て、薩土及び云々、また大久保が使者に来たりし事まで承り申し候より、急々本国をすくわん事を欲し、この所に止り拝顔を希ふにひまなく、残念ながら出帆仕り候。小弟思ふにこれよりかへり乾退助に引合おき、それより上国に出候て、後藤象二郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに仕り可と存じ申し候。先生のほうには御やくし申し上げ候時勢云々の認(したため)もの御出来にあいなり居り申し候はんと存じ奉り候。この上この頃の上国の論は先生に御直にうかがい候えば、はたして小弟の愚論と同一かとも存じ奉り候えども、なんとも筆には尽くしかね申し候。かれこれの所をもって、心中お察し遣わさるべく候。なお後日の時を期し候。誠恐謹言。 九月廿日 龍馬 木圭先生 才谷」(20日付け龍馬から桂小五郎宛書簡)。
・芸州藩植田乙次郎、山口着。木戸・広沢と面会。薩長出兵盟約に加盟。長芸出兵盟約成立。
・近藤勇、永井主水正尚志(幕府目付)の紹介で土佐の後藤象二郎に会し、再見を約す。
9月21日
・慶喜、自ら従前の三条における若州邸より二条城に移る。
・島津久光、病気療養のため大坂から鹿児島に到着。
・土佐藩より長州藩へ答礼便訪問、長土交際復活。
・中岡慎太郎、大石弥太郎にあて「兵談」を記し土佐藩の兵制改革を説く。
9月22日
・龍馬、下関出航。お龍と永訣となる。
9月23日
・大久保一蔵、薩長2藩の出兵交渉をまとめ京都に到着。
・震天丸、土佐浦戸に入港。
9月24日
・坂本龍馬、ライフル銃千挺を震天丸に積み土佐の浦戸上陸。坂本竜馬、土佐藩重臣渡辺弥久馬・本山只一郎・森権次と会談。銃1,000陸上げ、土佐藩買取る。土佐藩武断派乾退助結束固める。
・マルクス、総務委員会でドイツ担当書記に再任。
9月26日
・幕府、軍制を完全に斉一にする為、「万石以下知行取之面々」に対し、軍役銃手に代り、「知行高物成」の10年平均の半額を軍役金として以後10年納入すべきと達す。近代的傭兵制確立。旗本・農民の反対の中で、充分に実現しないまま幕府が瓦解。
9月27日
・土佐藩、重役会議。
9月29日
・龍馬、戸田を伴い高知本町の坂本家に5年ぶりに帰宅、兄姉らと対面、2泊して在郷の同志と会談。この間渡辺らの周旋で、再脱藩罪を土佐藩庁より許される。巷説に容堂と初対面し大義料50両を受けその褒賞金を姉乙女と乳母に与える(真覚寺日記)。
・土佐藩乾退助、仕置役兼帯歩兵大隊司令、内命。/8.大隊司令。/19.仕置役、解任。
・[清・同治6年9月2日]哥老会取締りが強化。

つづく

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ミネソタ黒人暴行死 全米各地で抗議デモ ロスでは夜間外出禁止令 / 抗議デモ暴徒化、死者も ホワイトハウス一時封鎖―米黒人暴行死 / 黒人暴行死デモ全米に トランプ氏投稿が拍車:日経 / 米各地で抗議激化、黒人男性殺害と「もはや関係なくなっている」と州知事 / 黒人暴行死、デモ全米に拡大 相次ぐ差別に不満噴出(時事) / ジャーナリストに向けて催涙ガス弾を撃つ警察官。トランプ大統領が「メディアが国民の敵だ!」を再三言い、ジャーナリストを悪者とすると、こうなってしまう(Martin Fackler) / 白人警官に殺されたGeorge Floydの死による苦悩を訴えるオバマの強烈なメッセージ / 米国ミネアポリス 警察官による黒人殺害に市民の怒りが爆発。抗議デモ拡大。警察署に放火。掠奪(警察に監視カメラなど多額の寄付をしていた量販店など)。取材中の黒人CNN記者だけが逮捕される。NYブルックリンでも抗議デモ アトランタではCNN本社ビルに抗議デモ シアトルでも 町山智浩さん撮影のオークランドデモと警官隊の突入(5/29)(動画) 



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テイラー・スウィフトさん、トランプ大統領に「11月の選挙で落選させる」。黒人死亡事件めぐるツイートを批判 「略奪が起きれば銃撃も辞さない」というトランプ大統領のツイートが物議を醸しています。(ハフポスト) / トランプのツイッターのフレーズ「略奪が始まれば、銃撃を開始する」は歴史的に悪名高いマイアミ警察署長Walter Headley(60年代に黒人差別への抗議運動を武力で弾圧)の言葉の意図的な引用だった

《ミネソタ州の公安委員によると、白人のナショナリストが組織化して暴力と破壊のために州に来ているとのこと。 つまり、白人至上主義者たちが、トランプによる煽動に追随しているのです》 / ミネアポリスで暴動を起こしているのが黒人だという報道ばかりだが、このように白人の若者たちが過激な行動をしているのを黒人が止めようとしているという現実もちゃんと伝えるべきだと思う。











石田純一が語る「コロナ肺炎地獄」からの生還 “医師は「もうダメなんじゃないか」と…”(デイリー新潮) ; 「妻の理子が.....帰国者・接触者相談センターや保健所、伝手のある病院など、100回以上も電話をかけてくれたんです。.....とはいえ、公的機関には電話が全然つながらず、医師からも「解熱剤を飲んで様子を見てほしい」と言われるばかり。.....」 ← これは「医療崩壊」とは言わないのだろうか? 第二波が来た時は改善されてるのだろうか? 




専門家会議、議事録作成せず、録音もなし。内閣官房「自由な議論できない」【新型コロナ】 発言の内容を記した「議事概要」は公表されているが、発言者や、議論がどのように進んだかは分からず、批判の声が上がっている(ハフポスト) / コロナ専門家会議、議事録作らず 歴史的事態検証の妨げに(共同) 









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2020年5月28日木曜日

慶応3年記(8)8月 イカルス号事件談判(高知、長崎)、海援隊への嫌疑はれる 坂本龍馬、密かに高知上陸 一橋家臣・慶喜侍臣原市之進暗殺 名古屋にお陰参り「ええじゃないか」おき、諸国に蔓延

慶応3年記(7)7月 土佐藩、大政奉還を藩論とする 幸田露伴生まれる 中岡慎太郎の陸援隊結成
より続く

慶応3年(1867)8月
・駒場野一揆。この月、幕府、武蔵荏原郡上目黒村駒場野一帯を上知して、撒兵伝習調練場としたため、農民騒擾起る。
駒場野西方下北沢村の田畑並木・家屋取り払いを決めるが、替地などの連絡はなく農民達は連日相談を繰り返す。やがて対象土地が代田村・代々木村にも及び8月4日に現地見分があり、付近8ヶ村民家200軒取壊しを決める。20日、動揺した村民達は駒場野番人宅を打毀す。代官が説得に努めるが農民を沈静化できず、止む無く対象を羽根沢村などに変更するが、これを聞いた羽根沢村などの農民・町人は硬化し、見分もできない状況となる。結局、幕府は駒場野の上知を撤回。
・渡仏中の栗本鋤雲、アルプス登山し植物を採集。
・英、IRBマンチェスター大会、IRB再建。
・ナポレオン3世、ザルツブルグでオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフと会見。ロシアの南下政策を警告。
8月1日
・坂本龍馬、イカルス号水夫殺害事件再調査の土佐藩大監察佐々木三四郎と大坂から薩摩船三邦丸で土佐へ。イカルス号事件について松平春嶽より山内容堂あての手紙を託されている。2日、須崎入港。船中潜伏。
・(新8/29)パークス、イカルス号事件に関して大坂を出発し土佐へ向かう。
・ワーグナー「タンホイザー」再上演。ミュンヘン。
8月3日
・幕艦回天丸、イカルス号事件談判の為高知須崎入港。5日、外国奉行平山図書一行、高知城下にいる。
・龍馬、土佐藩大監察佐々木高行に托し春嶽書翰を容堂に渡す。龍馬帰国同乗のことを容堂は「内外やかましきことかな」と洩らす。8日夜、龍馬、密かに上陸し同志川原塚茂太郎を訪い時勢を談じて高知の兄権平の消息文を頼む。
8月4日
・杉浦譲(愛蔵)、江戸への派遣の辞令を受ける。
8月5日
・(新9/2)幕府、山城国全部を朝廷に献上。
8月6日
・イカルス号事件に関連してパークス公使、英艦パブリスク号で須崎入港。7日、パークスと後藤象二郎ら土佐側代表、夕顔船上にて第1次談判交渉。パークスの威嚇、後藤にたしなめられる。8日、第2次交渉調査は長崎に移すことになる。同日英艦でパークス出帆。10日、幕府回天丸出帆。12日、土佐藩大監察佐々木三四郎、松井・岡内重俊・アーネスト・サトウらと共に浦戸発。須崎で潜伏中の坂本龍馬も乗込み長崎へ。佐々木と上陸しお龍を紹介す。「有名なる美人なれども善悪ともになしかねまじき女」と批評。
8月8日
・伊東・斉藤・藤堂・鈴木4人、老中板倉伊賀守勝静へ建白書提出。この日、伊東甲子太郎・新井忠雄、再度九州遊説の旅に出る。
8月11日
・通訳官サトウ(24)、高知九反田開成館にて山内容堂と会見。
・薩摩藩村田・長州藩品川ら、京都着。西郷・大久保と会見。
この月、薩摩藩、長州藩に挙兵の「秘策」を説明。御所に藩兵を入れ、討幕派公家が結集して制圧。会津藩邸・幕兵陣営を「急襲」し「焼き払う」。天皇を男山に移し、「討将軍」の布告を出す。藩兵3千で大坂城を制圧し、大坂湾内の幕府艦隊を「破砕」。関東方面では、甲府城に「立て籠もる」という武力蜂起計画。久光・西郷・大久保・小松4人のみが関知する「奇襲」作戦と説明。
8月12日
・長府の三吉あて対幕戦に備え薩長土3藩に長府藩を加えて連合艦隊にて応ずる策を報知。
8月13日
・幕府、ベルギーと通商条約締結。
・小栗上野介忠順、三野村利左衛門(三井組)の訪問を受ける。
8月14日
・一橋家臣・慶喜侍臣原市之進(38、元水戸藩士)、暗殺。加害者の同藩士鈴木豊次郎・依田雄太郎ら3人も自刃。
8月15日
・坂本龍馬、長崎到着。海援隊本部小曽根家に入る。佐々木三四郎、土佐商会岩崎弥太郎と打合せイカルス号事件解決のため懸賞金つける。
・英、都市労働者階級を対象とした第2次選挙法改正法案成立。都市住民の殆どが選挙権を持つ。
8月16日
・マルクス、「資本論」第1巻の校正を終え、エンゲルスに感謝の手紙を書く。下旬、「資本論」第2巻の仕事に着手。
8月18日
・長崎立山役所にてイカルス号事件正式取調。海援隊。土佐藩、アーネスト・サトウ、幕府外国奉行平山図書頭、海援隊への嫌疑はれる。犯人は筑前藩士、犯行後自殺。
・陸援隊隊長横山勘蔵こと中岡慎太郎、東山の月真院を訪ねる。御陵衛士橋本皆助、陸援隊へ加盟し名を水野八郎と改める。
8月19日
・幕府、兵庫開港に備え大坂に商社設置。
8月20日
・龍馬、玉川亭で木戸・佐々木を会合させ土藩金1千両を桂に貸与周旋。21日、龍馬、岩崎を訪い、桂へ貸す金子1千両を依頼。
・土佐藩山内容堂、後藤の意見いれ大政奉還建白の意志布告。山内容堂・(藩主)山内豊範、大政奉還策推進について全権を後藤象二郎・寺村左膳に委任する旨を布告。同日、山内豊範、藩内に対し討幕論・攘夷論を唱え人心を刺激しないよう諭告。同日、板垣退助アメリカ派遣内命。翌日、軍備用兼致道館係解任。板垣拒否。板垣の武力討幕論かわす目的。
・幕府、外国渡航者に対する許可状、手数料等を決める。
8月21日
・後藤象二郎、単独で大政奉還の建白書をもち高知を出発。
・桂、龍馬あて書翰。建白論は「老婆の理屈」と批判忠告を発信。
・伊東甲子太郎・新井忠雄、太宰府に入る。
8月22日
・この日付けの木戸孝允の書状。
「幕府も一橋将軍と相成候巳後、諸事大変革に而兵制改革等之儀は実事余程相挙り」と、冷厳に判断し、「国に二王なき之大義」すなわち統一国家実現の立場から、「大姦雄(慶喜)を軽蔑致し候事は甚可恐儀に而」と対決的。
8月25日
・龍馬、岩崎と来談。横笛丸呼び戻しのこと(海援隊士管野・佐々木をイカルス号事件の証人として召喚するため)で岡内・石田英吉らを幕船長崎丸で鹿児島へ派遣。この時、龍馬は薩藩の贋造2歩金入手を岡内に依頼。27日、龍馬、岩崎訪問。28日、龍馬、長崎奉行所管の10万両を、一朝事起これば奪い取る計画を佐々木と相談。此頃より佐々木をしばしば訪問。時に起居を共にして論談大いに発す。31日、岩崎と置酒談話、海援隊旗にかけ「中白来」とからかわれる。
・英、化学者・物理学者ファラデー(75)、没。
8月26日
・【バルカン同盟完成】セルビアとギリシャ、同盟条約締結。セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ。
8月28日
・塩谷宏陰(59)、没。
・ロッシュ、将軍慶喜に政治改革意見書を呈す。
建言には、家屋・宅地税、営業税、酒・煙草・茶・生糸などへの課税が主張されている。この税制改革は、幕府の倒壊により実現せず。
・名古屋に御札の降下が始まる。この月、名古屋地方より、お陰参り「ええじゃないか」おきる。神礼降り庶民狂喜群舞して諸国に蔓延。10月中旬、京都でお札が降りはじめ踊りが始まる。大坂では10月下旬に始まる。10月14日の「大政奉還」直後から、降札も増え、騒動が繰り広げられた事は、この「ええじゃないか」騒動の政治性を物語る。
「恰も此時に当り京師に一怪事ある。空中より神符翩々と飛び降り処々の人家に落つ。其の神符の降りたる人家は壇を設けて之れを祭り、酒肴を壇前に陳らぬ。知ると知らざるとを問わず其人家に至る者の酔飽に任す。之れを祝して吉祥と為す。都下の士女は老少の別なく綺羅を衣て男は女装し、女は男装す。群を成し隊を作す。悉く俚歌を唱ひ太鼓を□ち以て節奏をなす。其歌辞は『ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、クサイモノニ紙ヲハレ、ヤブレタラマタハレ、エイジャナイカ、エイジャーナカト』と云ふ。・・・八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む」(「岩倉公実記」)。
8月4日の三河国宝飯郡御油宿の「お札ふり」を初見とする説。7月に三河吉田近辺のお札降りなど、初見には異説あり。
この騒動は、伊勢・京坂以西、とくに山陽筋・四国で、「ええじゃないか」のはやし言葉とともに祭りと踊りが展開し、美濃以西では「お札祭り」「お札ふり」「お札様」「おかげ」「チョイトサ踊り」などと呼ばれている。
8月29日
・浜松藩、「ええじゃないか」のための参詣を禁止する令を発布。
8月31日
・仏、詩人ボードレール(46)、没。

つづく

「格好いい大人がいた ある反体制知識人の死」(田原牧「編集局南端日誌」東京新聞2020-05-28)




産経に重大疑惑…まさかの開き直り!賭け麻雀記事の執筆者に当事者記者の名前 発覚後も呆れるほど黒川擁護続ける(プレジデント)




これが自由主義経済圏の市場(マーケット)なのか! → 日銀、年内にも日本市場最大の株主に 先進国では異例:朝日新聞 ; 近く年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)を上回ることになる。 / これに加えて、国家公務員の共済基金が東証に年間数兆円単位で突っ込んでる



だからホントのことを言えばよかったんじゃないの? → 稲田朋美氏・平将明氏ネット対談 「批判、結構落ち込む」 - 毎日新聞 ; 稲田氏は結局、隠蔽に自分は一切関与していない、全く知らされていなかったと最後までシラを切り通した。しかし実際には報告を受けていたし、陸上自衛隊に日報があることを知りながら「破棄した」と虚偽答弁を続けていたのである。





検察、自民党本部関係者を聴取 - 河井案里氏側への1.5億円で(共同);「党本部が案里氏側に提供した1億5千万円について、目的や決定者などを確認したとみられる」 / 河井前法相夫妻の事件で自民党本部に捜査のメス 「安倍官邸が黒川問題で余計なことしたから…」と恨み節(AERAdot)













小池氏4年前公約「7つのゼロ」大半未達成 都知事選あと2カ月:東京新聞

死者10万人を突破、米国民が語る新型コロナ「悲劇の現場」(ロイター 字幕・28日); 犠牲者の大半は、高齢者、基礎疾患のある人、介護施設の利用者、アフリカ系の人々、貧しい人、保険に無加入の人..... / 「もし私が良くやっていなければ、今の10万人プラスの死者ではなく、150万人から200万人の死者が出た可能性がある」(トランプ)   



2週間後の日本(東京)かも? → 韓国、再び外出自粛呼び掛け(時事) / 韓国、29日から再び外出自粛要請 ソウル首都圏(日経)





2020年5月27日水曜日

今日のウォーキング 東戸塚~弥生台~緑園都市~東戸塚 2020-05-27

5月27日、はれ
今日は、
東戸塚から阿久和川沿いに相鉄弥生台駅へ、ここで休憩して、
弥生台から緑園都市を経由して名瀬川支流沿いに東戸塚までを歩いた。
お昼は弥生台のいつものパン屋さんカフェ。
弥生台から緑園都市へは初めての道。
弥生台を下りて、緑園都市へは今度は上がるというアップダウンのきつい道だった。

今日の総歩数は2万2千歩なので頑張った方かな。

沿線では紫陽花が色づき始めていた。






慶応3年記(7)7月 土佐藩、大政奉還を藩論とする 幸田露伴生まれる 中岡慎太郎の陸援隊結成 

慶応3年記(6)6月 「エエジャナイカ踊り」始まる 新選組105名、幕府召し抱えとなる 坂本龍馬「船中八策」 薩土王政復古盟約成立(のち安芸が加わる) 福澤諭吉、米より帰国
より続く

慶応3年(1867)7月
・仏、元老院令、立法院は委員会・参事院の承認がなくとも奉答文修正に関する審議をしてもよいと定められ、また憲法に定められている立法院会期(3ヶ月)規定削除。自由主義勢力の主張を取入れ、議会との軋轢を緩和する政府の議会対策。
・朝鮮【シャーマン号事件】重武装のゼネラル・シャーマン号、大同江から平壌近くまで侵入、殺人・略奪・暴行。
・ニーチェ、ライプツィヒ大学に懸賞論文提出。「文献学研究会」で「エウボイアの吟遊詩人の競争」発表。「文献学研究会」に入会したローデと短期間同じ下宿に住む。
7月1日
・坂本龍馬、中岡と共に十津川邸を訪う。後藤は薩邸に行き討幕挙兵の延期を依頼。
・前年、英議会通過の英領北米法発効。英領北米植民地のうちノヴァ・スコシア、ニューブラウンズウィック、ケベック、オンタリオの4州からなるカナダ自治領が発足。
・北ドイツ連邦憲法が発効。
7月3日
・成瀬正肥(尾州藩付家老)、登城し徳川慶喜に謁見。
7月4日
・後藤象二郎、大政奉還建白進言のために薩土王政復古盟約を持ち京都出発、土佐へ帰国の途につく。7日帰藩。
7月5日
・(新8/4)パークスと新潟奉行白石下総守との会見が行われる。
7月6日
・長崎丸山で英国軍艦イカルス号水夫2名殺傷事件。海援隊に嫌疑がかかる。
・長州藩正使岡義右衛門・副使野村靖之助、高知着。/10.容堂に藩書(毛利候親)を渡す。
7月7日
・田中顕助、京都より太宰府に至り5卿に上国の情勢を報告。
・後藤象二郎・真辺栄三郎、土佐浦土入港。容堂を訪問。9日、山内容堂、後藤象二郎・真辺栄三郎から大政奉還の説明を受け藩論とする。寺村左膳、大政奉還策を山内豊範に伝える。後藤象二郎・寺村左膳・真辺英三郎ら、藩庁に有司を集め大政奉還策の推進を声明。
・ゴーギャン(19)母アリーヌ・ゴーギャン(42)、没。
7月8日
・長崎で英国水兵を殺害した金子才吉、自刃(この時は彼が加害者とわからず)。
7月10日
・品川・新宿・下板橋・千住・新井の5関門、廃止。
7月13日
・土佐藩山内容堂、後藤・神山佐多衛門らに建白準備命ず。
7月14日
・福沢諭吉(外国書取調所)、前年の遣米使節に同行した際、公費を自分の資料購入の為に使い込んだとして謹慎処分。8月、外国奉行宛に弁明書提出。10月末、謹慎処分解除。謹慎中、中島三郎助が訪れ、事情を知ると、蟄居処分撤回を老中稲葉美濃守を訪れて嘆願(「福翁自伝」)。
7月15日
・薩摩藩村田新八、西郷吉之助の代理として山口着。/18.長州藩品川弥次郎・柏原数馬、村田と共に上京。
・中島三郎助(47)、軍艦役並となる。
・メキシコ、フアレス大統領、内戦を抑え共和制を復興。財政再建のため革命軍を解散し経済復興に力を集中。
・フランスとシャムの新条約が調印
7月16日
・山県狂助の婚礼。
7月17日
・土佐藩主山内豊範、兵制改革として士格も銃隊に再編成するよう布告。
7月18日
・陸奥宗光「商法の愚案」起草(9月初旬龍馬に提示)。
7月19日
・イギリス公使パークスの名代書記官ミツトフォード、通弁官アーネスト・サトウ、南京人リン・フー3人、福井入り。
能登七尾~18日、加賀から越前入り。19日、福井入り、昼過ぎ、福井発。鯖江城下を通過、夕方、府中着。20日朝、府中発。栃木峠~近江。
・米、第3次再建法が可決。
7月20日
・英国パークス公使、長崎発。/24.大阪着。老中板倉勝静に抗議。土佐藩取調べ要求。
・プロイセン軍艦ヴィネタ、箱館入港。公使ブラント乗船。箱館奉行杉浦誠を表敬訪問。ヴィネタは箱館沖で大砲射撃訓練。8月6日出港。7日、プロイセン領事ゲルトナーが杉浦を訪問し、かねてから勧めている箱館への西洋式農法導入の件を催促。
・バイエルン王ルートヴィヒ2世、パリ到着。~7月末迄。
7月21日
・土佐藩答礼使原平四郎・寺村亨、毛利敬親父子に謁見、大政奉還建白計画報告。毛利俊子の山内豊範への復縁。
7月22日
・幕府、陸軍奉行並平岡庄七に水戸藩政改革用掛を命ず。
・(新8/21)ええじゃないかの発祥。三河吉田(豊橋市)近くの草間・牟呂・野田新田・萱町などに伊勢のお札が降る。
7月23日
・天理教の中山秀司、吉田家より布教を許される。
・パークス、板倉老中へイカルス号事件で会見を求む。
・将軍慶喜、京都より大坂に至る。25日、フランス公使レオン・ロッシュを大坂城に引見、仏艦を訪問。26日、またロッシュを引見。27日、イギリス公使パークスを引見。28日、帰京。
・幸田露伴生まれる。
「幸田露伴は幕府お坊主衆、幸田成延の四男に生まれた。お坊主衆には表坊主、奥坊主、お数寄屋坊主などがあり、露伴の父は表坊主(表お坊主)だった。「お坊主といふのは、その頭が僧形なところから来るので、今日でいぶと、宮内省あたりの式部職の下役のやうな職をもってゐたと考へたら、一番よく当ってゐるかも知れない。格式や典例や犠礼のやかましい幕府に於けるその方面の案内掛りであり、引廻し役であり、頭次下役、高等給仕、さういふものをも兼ねてゐたと見てよい」(柳田泉『幸田露伴』)。お坊主衆は必ずしも身分的に高いとはいえなかったけれど、将軍や幕府の高官たちと直接に接する機会が多かったから、かえって、「田舎の小大名や無役の千石旗本などよりも威勢がつよがった」という。」(『七人の旋毛曲がり』)
7月24日
・土佐藩乾退助、参政抜擢。
7月25日
・マルクス、「資本論」第1巻の序文を書く。
7月26日
・西郷隆盛、アーネスト・サトウと会見。
7月27日
・土佐藩参政由比直春・大監察佐々木三四郎、中岡に白川村土佐藩邸の使用許可。
・伊東甲子太郎、柳馬場の中岡慎太郎を訪ねる。
7月28日
・長崎水夫殺害容疑、海援隊にかかる。滞京中の幕府大目付永井尚志、土佐藩京都留守居役森多司馬呼出し。大監察佐々木三四郎ら、再調査のため京都発。
7月29日
・この月6日長崎丸山のイカルス号英国水兵2人殺害事件に関し海援隊に嫌疑を蒙ること京坂に伝わる。同日、龍馬、松平春嶽より山内容堂あてイカルス号事件に関する書翰を托せられ京都出足、下坂。
・中岡慎太郎、京都で陸援隊結成。洛外白河村土佐藩邸(洛東白川藩邸)。中岡隊長、参謀格田中顕助、香川敬三(水戸)、大橋慎三、岩村精一郎、斉藤治一郎(大江卓)。隊員77名。中岡下宿は柳馬蛸楽師。

つづく