2024年2月29日木曜日

億単位のカネが光と音に化ける…東京都庁プロジェクションマッピング 「都立高ボロボロ」「困窮者支えて」の声も(東京); 主婦「息子が通っていた都立高校の校舎はボロボロ。子どものためにお金をかけてほしい」 稲葉剛氏「困窮する人が若年層、外国人、女性と多様化している…18億円あれば、かなりの数の住宅が確保できる。見た目を飾り立てることに予算を使うのではなく、苦しい人を支えるために予算を充ててほしい」

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死   

 


大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士 より続く

1891(明治24)年

9月

坪内逍遙「春廼舎漫筆」(春陽堂)

9月

この頃、田中正造の日記に鉱毒関係記事現れる(重大な関心を持ち始める)

9月16日、「鉱毒」という文字が初めて現れる。この年、正造は、7月に東京専門学校を卒業したばかりの左部彦次郎を群馬県邑楽郡に派遣、被害地を調査させる。左部は、調査とともに邑楽郡渡瀬・大島・西谷田・海老瀬4村農民を援助し、4村長連名の鉱毒除外・採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に出させる。

9月

一葉(19)、この頃書いた「筆すさび」

「おのれ十四ばかりのとしまでは、病ひといふもの更に覚えず、親もはらからもみな脳の病ひにくるしむなるを、我は一人かしらいたきなどいふことふつになく、・・・やや大人び行くままに、ここにかしこに病ひ出来て、こと更にかしらいたみ、肩などのいたくはれなどすれば、物覚ゆる力とみにうせて、耐えしのぶなどは更にできうべくもあらず」


少女時代は健康であったが、成長とともに体力が弱ってきたことが述懐されている。

「少し大人びていくにつれて、あちこちに病気が出て来て、その中でも殊に頭痛や肩などの大そう腫れるなどのことが現れると、物を記憶する力が急になくなってきて、忍耐するなどということは一向できそうにもない。」

9月

混迷打開の為の黒田・井上会談。井上は薩長調和問題と今後について述べる。

①藩閥政府は「未だ曾て一度も外部から破れたる事なく、皆内部の猜疑より由来」しており、猜疑の起因は「互に胸襟を開きて国事を相談せざる」からである。

②「薩長共に先輩の偉功に依り今日迄王室の御為に尽し来りたるも、相互の猜疑により遂に互に調和する能はずして国家を誤り候様の事有之候ては、実に地下の先輩に対し漸塊の限り、且我々は国家の罪人たるを免るゝを不得」という薩長間調和を重視。

③薩長調和重視と関連し、内閣首班・閣僚の交代方式が慎重考慮される。

9月1日

日本鉄道会社線盛岡・青森間開通。上野・青森間全通(後に東北本線となる)。1日1往復。約26時間半。

9月2日

文部省の委嘱で井上哲次郎『勅語衍義』を著す。

9月4日

西園寺公望、前月ドイツ公使から帰国し、この日、勲章授与実務を担当する賞勲局の総裁に任命(閑職)

9月10日

政府、小笠原南方の無人島を硫黄島と命名、日本領土とする。

9月12日

群馬県、公娼を禁止する旨の布告。

9月12日

漱石、午前、帝国大学文科大学書記小林忠謨を訪ね、子規の追試験について尋ねる。1週間位の間に受験すればよい。少々遅れてもよいとの回答を得る。夜、子規に手紙を書く。

9月13日

この日から15日の間、漱石、氷川公園万松楼(埼玉県大宮町、現・大宮市)の高島方に、保養と追試験準備をしていた子規を訪ねる。鶉か何かの焼いたものを生れて初めて食べる。子規から「俳句分類」という計画を聞かされ、即座に賛成する。書道についても大いに論じる。

9月15日

この日か又は17日、漱石、子規と共に万松楼から東京に帰る。

「明治二十四年九月の追試験には、正岡は大宮公園内の旗亭方松庵の奥座敷を借りて、集中して試験準備をするつもりで金之助の応援をあおいだ。ある日突然呼び出しの手紙が届いたので、金之助が大宮まで出かけて行くと正岡は上等の部屋におさまりかえって威張っている。そして、

「どうだ、この鶉はいけるだろう」

などといって、凝った鶉料理を出させて気焔をあげていた。しかし、表面上の印象とは逆に、正岡は経済的・心理的にますます窮迫しつつあった。追試験には「やうようの事にて及第」することができたが、学業を嫌う気持ちがつのり、寄宿舎にいづらくなりはじめた。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

「九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうもないから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊したり野逕(のみち)を逍遥したり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思ふて手紙で竹村黄塔を呼びにやつた。黄塔も来て一、二泊して去つた。それから夏目漱石を呼びにやつた。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかつたが頭の保養には非常に効験があつた。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。」(『墨汁一滴』)

9月15日

この日より一葉(19)の日記は「蓮生日記」と改題

9月18日

フィリピン、リサール「エル・フィリブステリスモ」出版。

9月26日

一葉(19)の妹くに、関場悦子より桃水の女性関係の派手な事や影の多い生活などの、悪い噂をきいてくる。

7月に桃水宅に同居していた鶴田たみ子が出産したが、その相手が桃水だというスキャンダルが拡がっている。事実は桃水の弟浩がその相手で、桃水は若い二人をかばっていただけだが、一葉は最後までその噂を信じていたらしい。

9月30日

大津事件犯人の津田三蔵(38)、肺炎で獄死


つづく

2024年2月28日水曜日

鎌倉 福寿草、乙女椿ほか2種の椿、馬酔木、沈丁花 川喜多映画記念館の河津桜 鶴岡八幡宮の寒桜 若宮大路の木瓜、ミツマタ 大巧寺の椿(氷室雪月花、薩摩錦、浜千鳥、羽衣) 鎌倉市役所前の玉縄桜 白旗神社(東戸塚)の寒緋桜 2024-02-28   

 2月28日(水)はれ

▼今日は久しぶりに鎌倉、海蔵寺へ。

梅(特に枝垂れ梅)は既に期待できないとの情報があったが、その情報通りであった。全体の大きさと言い、花の数と言い、すごく立派な枝垂れなのだが、今年は良い時期がなかったみたいだ。

なので、ここでは、フクジュソウ(福寿草)、椿3種(乙女椿ほか)、アゼビ(馬酔木)を。






▼海蔵寺への道沿いに沈丁花を植えておられる家があり、辺りにはその香が漂っている。

▼川喜多映画記念館の庭のカワヅザクラ(↓)と玉縄桜(写真割愛)は満開

▼鶴岡八幡宮の寒桜 花の数が増えてきた

▼若宮大路にある表具屋さんの庭のボケ まだ咲き始め

▼若宮大路にあるホテルの前庭のミツマタ

▼大巧寺の椿(氷室雪月花、薩摩錦、浜千鳥、羽衣)




▼鎌倉市役所前の玉縄桜満開

▼地元東戸塚、白旗神社の寒緋桜、よやく開花


新潮の取材では議員辞職を仄めかすも一転、辞めないと発表 / 「エッフェル騒動」自民党女性議員「赤ベンツホテル不倫」の決定的証拠写真 歌舞伎町から国会へ直行 / 自民党・広瀬めぐみ議員の赤ベンツ不倫、相手はカナダ人有名サックス奏者 直撃に議員は「しょうがない、もう撮られてるんだから」(デイリー新潮)

 



 

「両手一杯の荷物を抱えて2人で…」 松下新平参院議員と中国人秘書の‶親密写真”《公安部外事二課が詐欺容疑で書類送検》(文春オンライン) / 「海外警察」元幹部女性が秘書 松下新平参院議員側「関係ない」(共同);「中国が日本国内の中国人を監視するために設けた「海外警察」の拠点だとして、2022年に海外の人権団体に指摘された一般社団法人で幹部を務めた中国籍の女性(44)が、19年秋から少なくとも21年まで、自民党の松下新平参院議員(宮崎選挙区)の事務所に「外交顧問兼外交秘書」として出入りしていたことが28日、関係者への取材や訴訟資料で分かった。」    

 

大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士   

 


大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山 より続く

1891(明治24)年

8月

康有為、広州に万木草堂学館を開設

8月

西園寺公望、ドイツ公使として3年半ベルリンに駐在し、この月帰国。

8月

津田梅子、米留学より帰国。

8月

穂積八束「民法出デテ忠孝亡ブ」(「法学新報」)。民法延期論。論理でなく煽動。

8月

米、働きながら苦学している高野房太郎・城常太郎・沢田半之助ら、サンフランシスコで労働問題の研究会「職工義友会」を組織。実践的な関心も強く、城をはじめ米で働く靴職人を組織、加州日本人靴工同盟会を結成。1897年帰国し、同年春職工義友会を再組織、高野起草も「職工諸君に寄す」を配布し、日本の労働者に労働組合の結成を呼びかけ労働組合期成会を組織。

81日

福井県で、「郡制」施行。郡の分合がない為、全国的に最も早く郡制施行。8月1日より「府県制」施行。

府県制により府県は初めて法人と規定され、府県会の職務権限は、従前は「地方税規則」で列挙制限された予算・地方税徴収方法の決議に限定されていたものが、府県会は県民を代表し広く府県に関する一切の事件を決議するとされる。府県会規則で諮問機関とされる常置委員会は廃止され、新しく参事会が設置、府県知事・高等官2人・名誉職参事会員として府県会で互選された県会議員4人(府会議員8人)で構成される参事会は、議決権・意見陳述権・行政監査権などをもち議決機関であるだけでなく執行機関としても位置づけられる。府県会議員選出方法は間接選挙(複選制)となる。市では、市長・市会・市参事会が会同し市長を会長として、郡では郡会・郡参事会が会同し郡長を会長として選挙を行う。但し、会長は投票に加わらず、投票は列記無記名で行う。県会議員の被選挙権資格は、県内市町村の公民中選挙権を有し、1年以来直接国税10円以上納める者に与えられ、衆議院議員を兼ねることはできないが、町村会議員、郡・市会議員、貴族院議員との兼務は認められる。議員定数は、福井県のような人口70万以下の県は30人とされ、1市11郡に割り当てられる。

郡・県行政への住民参加が参事会を通じて許容され、複選制により福井県では県会議員に町村長・郡会議員を兼ねるものが多数選出され、県会には各地域の町村会や郡市会の意向が強く反映されることになる。これは、国家と人民の間に府県・郡(市)・町村の自治体を設置し、これに制限選挙・複選制により選出された地域有力者を参加させ、官僚的統合と密接に結合させる支配様式が形成され、明治憲法体制の基底を支える地方自治体制が構築されたことを意味する。こうした体制が構築されると、資格任用制度が導入されたこともあり、知事は個性的手腕により地方を統合する存在ではなくなり、専門的行政官僚の性格が強くなる。20年代に入ると人格的支配から機構支配へと地方官制も整備され、福井県では8年間知事であった石黒の後は短期間に知事交替がなされることになる。

8月3日

漱石の子規宛て手紙に嫂登勢の「悼亡」の句13句を送る。また、鴎外の作品2篇を賞めて叱られたことに触れ、弁明を試み、感懐を吐露する。

大学入学当時には、「英語英文に通達して、外國語でえらい文學上の述作をやつて、西洋人を驚かせようといふ希望を抱いてゐた」(「處女作追懐談」)と自信を持っていたが崩れ、正岡子規に勧められて、日本文学の研究にも眼を向けようかと思う。

8月3日、この日付け漱石の子規宛て書簡


「不幸と申し候は余の儀にあらず、小生嫂の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻(おそ)と申す病気にかゝり、兎角打ち勝(すぐ)れず漸次重症に陥り子は闇より闇へ、母は浮世の夢廿五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業(じようごう)とは申しながら洵に(まこと)洵に口惜しき事致候。

わが一族を賞揚するは何となく大人気なき儀には候得共、彼程の人物は男にも中々得易からず、況(まし)て婦人中には恐らく有之(これある)間じくと存居候。そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共、社会の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人に候ひし。先づ節操の毅然たるは申すに不及(およばず)、性情の公平正直なる胸懐の洒々落々(しやしやらくらく)として細事に頓着せざる抔、生れながらにして悟道の老僧の如き見識を有したるかと怪まれ候位、鬚髯鬖々(しゆぜんさんさん)たる生悟(なまさと)りのえせ居士(こじ)はとても及ばぬ事小生自から慚愧(ざんき)仕候事幾回なるを知らず。かゝる聖人も長生きは勝手に出来ぬ者と見えて遂に魂帰冥漠魄帰泉只住人間廿五年(こんはめいばくにきしはくはせんにきすただにじかんにすみてにじゆうごねん)と申す場合に相成候。さはれ平生仏けを念じ不申(もうさず)候へば極楽にまかり越す事も叶ふ間じく、耶蘇(ヤソ)の子弟にも無之候へば天堂に再生せん事も覚束なく、一片の精魂もし宇宙に存するものならば二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんかと夢中に幻影を描き、ここかかしこかと浮世の羈絆(きはん)につながるゝ死霊を憐み、うたゝ不便(ふびん)の涙にむせび候。母を失ひ伯仲二兄を失ひし身のかゝる事には馴れ易き道理なるに一段毎に一層の悼惜を加へ候ば、小子感情の発達未だ其頂点に違せざる故にや。心事御推察被下(くだされ)たく候。

悼亡の句数首左に書き連ね申候。俳門をくゞりし許りの今、道心佳句のあり様は無之、一片の衷情御酌取り御批判被下候はゞ幸甚。

朝貌(あさがお)や咲た許りの命哉(かな)

細眉を落す間もなく此世をば(未だ元服せざれば)

人生を廿五年に縮めけり(死時廿五歳)

君逝(ゆ)きて浮世に花はなかりけり(容姿秀麗)

仮位牌(かりいはい)焚く線香に黒む迄

こうろげの飛ぶや木魚の声の下

通夜僧の経の絶間やきりぎりす(三首通夜の句)

骸骨や是も美人のなれの果(骨揚のとき)

何事ぞ手向(たむけ)し花に狂ふ蝶

鏡台の主の行衛(ゆくえ)や塵埃(ちりほこり)(二首初七日)

ますら男(お)に染模様あるかたみかな(記念分(かたみわけ))

聖人の生れ代りか桐の花(其人物)

今日よりは誰に見立ん秋の月(心気清澄)

鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳も無之、これも小子嗜好の下等なる故と只管(ひたすら)慚愧致をり候。元来同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて全体を窺ふ事かたく候得ども、当世の文人中にては先づ一角ある者と存をり候ひし。試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相(あい)聚(あつま)つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色あるやうに思はれ候。尤も人の嗜好は行き掛りの教育にて(仮令ひ文学中にても)種々なる者故己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏窟な議論に見ゆる者に候得ば、小生自身は洋書に心酔致候心持ちはなくとも大兄より見ればさやうに見ゆるも御尤もの事に御座候。全体あの時君と僕の嗜好はこれほど違ふやと驚き候位、しかし退いて考ふればこれ前にもいへる如く元来の嗜好は同じきも従来学問の行き掛りにて、かかる場合に立ち到り候事と存じ、それよりは可成博覧をつとめ偏僻に陥ざらんやうに心掛をり候。その上日本人が自国の文学の価値を知らぬと申すも日本好きの君に面目なきのみならず、日本にそれほど好き者のあるを打ち棄ててわざわざ洋書にうつつをぬかし候事、馬鹿々々敷限りに候のみならず、我らが洋文学の隊長とならん事思ひも寄らぬ事と先頃中より己れと己れの貫目が分り候得ば、以後はなるべく大兄の御勧めにまかせ邦文学研究可仕(つかまつるべく)候。さはれ成童の頃は天下の一人と自ら思ひ上り三身の己れを欺いて今まで知らずに打ち過ぎけるよと思へば自ら面目なきまでに愧入(はじいり)候。性来多情の某(それがし)何にでも手を出しながら何事もやり遂げぬ段無念とは存候得ども、これまた一つは時勢の然らしむる所と諦めをり候。御憫笑。

(略)」

「漱石は、子規の洋学嫌いに閉口しながら、「小子嗜好の下等なる故と只管(ひたすら)慚愧致居候」、とまずは遜(へりくだ)って見せるが、続いてその佳作たる理由をあらためて説明する。鴎外の二作品とは、確定できないが、「舞姫」「うたかたの記」「文つかひ」 の中の二つである。それについて「結構〔構成〕を泰西に得 思想を其学問に得 行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者」であって、「諸分子相聚(あいあつま)って」「一種沈鬱奇雅の特色」があると思うと、その総合的性格を評価した上で、人の嗜好は教育によってさまざまだから、「公平の批評」と思っていても偏屈に見えることもあるだろう、自分では「洋書に心酔致候心持ちはなくとも」大兄にはそう見えることがあるかもしれない。これからは「可成(なるべく)博覧をつとめ偏僻に陥ざらん様に心掛」けて、「邦文学」研究をするつもりである、と神妙である。「性来多情の某(それがし)何にでも手を出しながら何事もやり遂げぬ段 無念とは存候得共 是亦一つは時勢の然らしむる所と諦め居候」。文学一つをとっても、欧米露、さまざまな文学観が権威をもって流入しはじめた時代であった。

一本気で一筋の道を行く子規と、広く全体的な価値観を手に入れようとした漱石と、どちらが正しいという問題ではない。異質な者同士が卒直に自分の考えを述べて成長していく、羨ましい友情である。ただし子規の一般的「標準」嫌いはこの後も変わらなかった。」(岩波新書『夏目漱石』)

「明治十七年(一八八四)九月、金之助が大学予備門に入学したころドイツに官費留学を仰付けられた陸軍二等軍医森林太郎は、ライブツィヒでホフマンに、ドレステンでロオトに、ミュンへンとベルリンでそれぞれぺッテンコオフェルとコッホに学び、西園寺公望・山県有朋・乃木希典などという貴顕のあいだに知己を得た。彼が満四年間の留学を成功裡に終えて帰国したのは、明治二十一年(一八八八)九月八日であった。

彼はすでに少佐相当官の陸軍二等軍医正であり、鴎外と号して新声社S・S・Sの名で発表した『於母影(おもかげ)』の訳詩集や、「文学評論 しがらみ草紙」の評論活動によって文壇にも名をあげていた。その小説『舞姫』が、「国民之友」に発表されたのは明治二十三年(一八九〇)一月である。鴎外はその後、つづけさまに『うたかたの記』(明治二十三年八月)、『文づかひ』(明治二十四年一月)を発表した。(明治二十四年八月)・・・・・、鴎外森林太郎は医学博士の学位を授与された。彼はこのとき二十九歳であった。

(中略)

わずか五歳の年長だというにすぎない鴎外森林太郎の達成が、金之助にどれほどの衝撃をあたえたかは想像にかたくない。なまじ正岡のような文学青年ではなかっただけに、彼は自分の「洋文学の隊長」志望につきまとう貧寒さを、いやというほど痛感させられたはずだからである。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

                 

「日清戦争の従軍記者として志願した子規は、一八九五年五月四日から十日にかけて、金州にいた第二軍兵站軍医部長の森鴎外を連日訪ね、俳句の話をしている。子規は「松蘿玉液」の中で〈鴎外漁史〉を語っている。漱石も子規も子規庵の句会にみえた鴎外に会っている。鴎外主宰の「めさまし草」には、日本派の俳句が掲載されていたので、それを通じ鴎外、子規の交流はつづいた。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

8月4日

兵庫県明石町暴動。明石町では1889年4月発足当初より町長派と改革派の対立が続く。改革派は町長と富豪による町政私物化を不満として,’91年春不正追及の行動を起し、3千人の署名を県当局へ陳情、県は町政を監査、問題点を摘発。自由党は町政糾弾運動を展開、この日、町民4千人が集合して町長宅などを襲う。後、町長は引責辞職。

8月5日

イギリス、初等教育法改定、公立学校授業料廃止

8月6日

労働騎士団のJohn Hayes、高野房太郎に宛て機関誌誌代が切れたが購読を続けるよう勧める手紙

8月9日

北村透谷(23)、小田原鴎鳴館で開催の函東会(小田原出身者の会)足柄部大会に出席し、戯曲を音読。

8月9日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。


「眼病がずるずるべったりで善くなりもしないが悪くもならないと知らせ、庭の景色を措写し、このころは何となく「浮世がいやになり」どう考えても考え直しても「いやでいやで立ち切れず」「去りとて自殺する程の勇気もなきときは」矢張り人間らしき所が幾分かあるせいか、と述べ、ゲーテや鴨長明の言葉を付している。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』)

8月11日

日高藤吉郎、日本体育会を創設。

8月13日

この日付け南方熊楠の、日本にいる友人喜多幅武三郎(和歌山中学の同級生、のち医者、熊楠の生涯にわたる親友)に宛てた手紙。


「小生ことこの度とほうとてつもなきを思い立ち、まず当フロリダ州から、スペイン領キュバ島およびメキシコ、またことによれば(一名、銭の都合で)ハイチ島、サンドミンゴ共和国まで、旅行といえば、なにか武田信玄の子分にでもなつて城塁などの見分にでも往くようだが、全く持病の疳積(かんしゃく)にて、日本の学者、ロばかり達者で足が動かぬを笑い、みずから突先して隠花植物を探索することに御座候て、顕微鏡二台、書籍若干、ピストル一挺提帯罷り在り、その他捕虫器械も備えおり候。虫類は三、四千、隠花植物は二千ばかり集める心組みにで、この辺はあまり欧米人の探索とどかぬ所ゆえ、多少の新発見もこれあるべしと存じ候。紀行はやがて『時事新報』へ出すべく候間、御覧下されたく候。黒人のみの所にて、白人とてもスペイン人のみ多く、人情風俗も大いにかわり、旅券徒然のほど御察し下されたく候。

幸いなることには、小生スペイン語ちょっとやらかし、また顔貌は少しもたがわず候ゆえ、大いに助かり申し候」

8月16日

ブリュッセル、第2インターナショナル第2回大会開催。16ヶ国337人参加。1889年にはマルクス主義者とポッシビリストに分かれていた国際労働者大会が一本化するが、8時間労働日の実現、とくに反軍国主義のための闘争でゼネストを重視するアナーキストと慎重論を説くドイツ社会民主党との対立が顕在化。「戦争に対する戦争を」という標語が初めて出現。23日、戦争反対決議。

8月21日

安部磯雄(26)、横浜港からゲーリック号で出航、ハートフォード神学校に学ぶためアメリカに向かう。28年2月、ヨーロッパを回って帰国。

8月21日

南方熊楠、ジャクソンヴイルを出発、タンパ経由、キーウエストに到着。

8月24日

鴎外(29)医学博士の学位を受ける。12月28日従六位に叙任。

8月27日

ロシア・フランス、政治協定締結。10月、フランス、ロシアにシベリア鉄道敷設費借款供与。


つづく

子育て支援金は論理破綻 少子化財源、国会が仕切り直せ(日経);「最大の欠陥は、支援金制度を新設しても国民には実質的な追加負担が生じないと政権を挙げて強弁していることだ。」 / 子育て支援金「1000円超」わずか2週間で倍増 「賃上げで負担なし」政府説明に疑問の声(テレ朝) / 岸田首相またウソ「子育て支援金の負担額は1人500円」 → 加藤鮎子こども相「1000円を超える」(日刊現ゲンダイ) / 支援金26年度は月300円徴収 制度開始時、少子化対策の財源(共同);「『支援金』ではなく『負担金』だ。国民に“負担を押し付ける”話なのに『支援金』と言うべきじゃない。“1人あたり”とか“月額”とか数字を小さく見せるのに必死だが、“家族全員”かつ”年間”で考えると大きな金額だ。しかも後からの上乗せが見え見え。国民よ、騙されてはいけない! 」(泉房穂) / 子育て増税?実質負担なし? 国民から「月500円弱」徴収する子育て支援金、岸田首相の説明が分からない(東京) / 子育て支援金「1人月500円弱」公的医療保険に上乗せ 泉房穂氏 「支援金って普通は牛丼屋で言うたら大盛りキャンペーンって感じやん、キャンペーンと言いながら『値上げ』するわけやろ、結局のところは『国民負担増』やんか、、、、、」     



 

 

 

==============================

 



 

2024年2月27日火曜日

野田佳彦元首相に「あなたが政治改革の障害」とこき下ろされ… 岸田文雄首相は何一つまともに答えられず(東京); ◆「派閥離脱もパーティー自粛も守らなかった」 ◆「異常だ。ここまでお金集めにエネルギーを割くとは」 ◆政治改革どころか「抜け穴づくりの先頭」 / 「(政倫審公開の是非について)誰も見てない所でつぶやいた事がなんで説明責任になるんですか?」 / 「政倫審も公開しない。脱税議員にも納税促さない。当たり前の事も指示しないなら政治刷新本部長なんか辞めるべき!」 / 「金欠でもパーティーやろうと思わなかった」元総理が岸田総理の”年7回開催”を追及(テレ朝) / 「結論出ました。もう辞めたほうがいい。あなたが政治改革の障害になってると思いますね。」         

 



 

「このドローンはどこのメーカー?」「IAIです」「イスラエル製じゃないですか!」 「こっちは?」「エルビットです」 「………!!!」 防衛省が、イスラエル製攻撃型ドローンの導入を検討していることが判明。 23年度予算で、約100億を確保、イスラエル製5機種を実証運用中です。(動画)

大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山     

 


大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる より続く

1891(明治24)年

7月

正直正太夫(斎藤緑雨)『かくれんぼ』(春陽堂「文学世界」第6巻)刊行。


「この時期の緑雨を、小説家としてのピークと見なす論者は多い。だいいち、緑雨自身が、それを認めているのだから。明治三十二年に雑誌『太陽』に連載された短文随筆「日用帳」で彼は、「油地獄を言ふ者多く、かくれんばを言ふ者少し、是れわれの小説に筆を着けんとおもひ、絶たんとおもひし双方の始なり、終なり」と書いている。つまり彼は、密かに自信を持って発表した『かくれんぼ』の評判があまり芳しくなかったので、小説家としてのやる気を失ってしまったというわけだ。

評判うんぬんはともかく、口語体に近い文章で書かれた「油地獄」に比較して、近世俗文系統の文体を持つ(緑雨自身はこちらの文体の方が書き慣れていたらしい)『かくれんぼ』は、とても読みにくい。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

7月

漱石、特待生に選ばれ月2円50銭の授業料を免除される。

子規が落第必至の形勢になり漱石は子規のために教授のあいだを奔走。


7月9日付け漱石の子規宛て手紙。


「観劇の際御同伴を不得残念至極至極残念(宛然子規口吻)。去月三十日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴く。ぶらぶらあるきの銭いらず。神楽坂より車に乗る。烈(はげ)しかれとは祈らぬ南風に車夫よたよたあるきの小言沢山、否とよ車主さな怒り給ひそ風に向つて車を引けばほろふくるるの道理ぞかしと説諭して見たれど車耳南風にて一向埒あかず。十時半頃土間の三にて仙湖先生を待つ。ほどなく先生到着、錬卿をつれて来ると思ひの外岩岡保作氏を伴ひし時こそ肝つぶれしか(再模得子規妙)。固より年来の知己なれば否応なしに桝に引つばり込んで共に見物す。桝の内より見てあれば団十郎の春日の局顔長く婆々然として見苦し。しかし御菓子頂戴、御寿もじよろしい□取結構と舞台そつちのけのたら腹主義を実行せし時こそ愉快なりしか。仙湖先生は頻りに御意に入つてあの大きな眼球から雨滴ほどな涙をこぼす。やつかれは割前(わりまえ)を通り越しての飲食に天咎(てんきゆう)のがれ難く、持病の疝気急に胸先に込み上げてしくしく痛み出せし時は芝居所のさわざにあらず、腰に手を当て顔をしかめての大ふさぎは、はたの見る目も憐なり。腹の痛さをまぎらさんと四方八方を見廻はせば御意に入る婦人もなく、ただ一軒おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしな。あいつの痘痕(あばた)と僕のと数にしたらどちらが多いだらうと大に考へて居る内いつしか春日の局はおしまひになりぬ。公平(きんぴら)法問の場は落語を実地に見たやうにて面白くて腹の痛みを忘れたり。

惣じて申せばこの芝居壱円以上の価値なしと帰り道に兄に話すと、田舎漢が始めて寄席へ行と同じ事でどこが面白いか分るまいと一本鎗込られて僕答ふる所を知らず。そこで愚兄得々賢弟黙々。

今日学校に行つて点数を拝見す。君の点で欠けて居る者は物集見の平生点(但し試験点は七十)と小中村さんの点数(これは平生も試験も皆無だよ)。余は皆平生点ありじくそんは平生87に試験46、先以て恐悦至極右の訳だから小中村の平生点六十以上と物集見の平生点六十以上あれば九月に試験を受る事が出来る。しかし今のままでは落第なり。

先は手始めの御文通まで、余は後便。

九日午後                                       金之助

正岡常規さま」


物巣高見(国文学者)・小中村清矩(同上)両教授に対する追試の運動は、国文科の一級上にいた芳賀矢一を通じて行われ成功した。

7月

狩野亨吉、帝国大学文科大学哲学科卒業。帝国大学大学院に入学。「数学のメソドロジー」を研究する。

7月

ロマン・ロラン(25)、イタリアからフランスへの帰途、マルヴィーダとバイロイトを訪れ「パルジファル」を聞く。「エンペドクレス」と「オルシーノ」執筆。

7月9日

長谷川利行、京都山科に五人兄弟の三男として生まれる(出生届けの本籍は京都府久世郡淀下津町104番戸)。なお長男は不明だが、次男利一は1887(明治20)年8月2日に、四男利邦は1894(明治27)年8月20日に、そして五男清は1902(明治38)年に生まれている。

安政4年生まれの父長谷川利其(としその)は伏見警察署に勤務、母照子(戸籍ではテル)。祖父軍二は淀藩稲葉家に召しかかえられた俳諧師で南陽の俳号をもつ。紀州田辺に住んでいたこともあり、父もまた其南の俳号をもっていた。また母照子は淀藩御典医小林家の出という。

7月15日

子規の漱石宛の手紙。


「小生ハ如何なる前世の悪業にや今度之試験にも及第せしよし誠ニ有がた迷惑ニ存候 兼て御話申上候通り今度の試験ニ落第したる暁ニハ高等中学ハ勿論やめてしまひ一年間ハ故山の風月に浩然の気を養ひ其後事情によりてハ大学の撰科へはいる積りニ御坐候処・・・・・」

7月16日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。

平凸凹(漱石)より物草次郎(子規)へ、子規の追試への奔走と『文学会雑誌』の報告。


「貴地御安着、日々風流三昧に御消光の事と羨望仕をり候。小弟あひかはらず宰予の弟子と相成雕(ちよう)しがたき朽木をごろごろ持ちあつかひをり候。

小中村、物集見平常点の義に付き教務掛りへ照会致候処、一日も早く御差出し有之べくとの事故去る十二日芳賀矢一君方へ参り右の談判相頼み候処、小中村は当時伊香保入浴中の由にて、早速木暮金太夫方へ同氏より書状差し出しもらひ候。

物集見へも同日同時に頼み状同人より相つかはし候。但し両人とも不承知なら返事をよこすはず承知なら何ともいふて来ぬはずなり。今まで何ともいふて来ぬ故出してくれたに相違なしと断定する者なり(尤もこの頃の暑さに恐れて学校へは参り不申)。由て来る九月に追試験の御覚悟にて随分御勉強可被成候

芳賀氏訪問の節同人の話しに、来る九月より大学にて『文学会雑誌』といふ者を発兌(はつだ)する都合にて、その手順ととのいたる赴きに御座候。過日大兄と御話しの件ふと実行の緒につきたるは随分奇妙、月旦は発兌の上の事。何しろ大学の名誉に関せぬやう願たき者也。大兄も一臂(いつぴ)の御尽力あつては如何(おいやでげすかね)。

先は用事まで、余は後便。

この手紙二本目に付、無性者の本性として非常の乱筆なりおゆるしあれ。

盆の十六白                           平凸凹

物草次郎様 こもだれの中

試験は是非受けるつもりでなくては困ります。

7月18日

この日付け漱石の子規宛ての手紙。学士に固執するより養生専一にと返事。


「去る十六日発の手紙と出違に貴翰到着。早速拝誦仕儀。人をけなす事の好きな君にほめられて大に面目に存候。嗚呼持つべき者は友達なり。

愚兄得々賢弟黙々の一語、御叱りにあづかり恐縮の至り以来は慎みます。

御帰省後御病気よろしからざるおもむき、まことに御気の毒の至に存候。さやうの御容体にては強いて在学被遊候とても詮なき事、御老母のみかは小生までも心配に御座候得ば、貴意の如く撰科にても御辛抱相成る方可然(しかるべし)、人爵(じんしやく)は固より虚栄学士にならなければ飯が食へぬと申す次第にも有之まじく候得ば、命大切と気楽に御修業可然と存候。それについても学資上の御困難はさこそと御推察申上候といふまでにて、別段名案も無之、いくら僕が器械の亀の子を発明する才あるも開いた口へ牡丹餅を抛(ほう)りこむ事を知つてゐるとも、こればかりはどうも方がつきませんな。それも僕が女に生れていれば一寸青楼へ身を沈めて君の学資を助るといふやうな乙な事が出来るのだけれど・・・・・それもこの面ではむづかしい。

試験廃止論、貴察の通り泣き寝入りの体裁、やつたところが到底成功の見込なしと観破したね。

ゑゑともう何か書く事はないかしら、あゝそうそうそう、昨日眼医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、―[銀]杏返しに竹なはをかけて‐‐天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね。まるで夕日に映ずる嵐山の大火の如し。その代り君が羨ましがつた海気屋で買つた蝙蝠傘をとられた。それ故今日は炎天を冒してこれから行く。

七月十八日                                  凸凹

物草次郎殿」

この「眼医者」は井上眼科病院で、この頃、漱石は持病の結膜炎治療のために毎日のようにこの眼医者に通っていた。病院長の井上達也はドイツ留学帰りで、その最新の医療を受けようと患者は激増していた。


漱石のいう「可愛らしい女の子」について、鏡子夫人が『漱石の思い出』「松山行」の中で回想している。


当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームを病んでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女で - そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました ー そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。

但し、この鏡子夫人の回想では、「井上眼科の女」に会ったのは、「小石川の伝通院付近の法蔵院」時代(明治27年(1894)10月16日~)であり、子規宛て手紙の明治24年7月18日とは3年の開きがある。これは、鏡子夫人の記憶違いか、或いは明治27年頃までも通い続けていたということか。また、その美女の方も井上眼科にかなり長く通っていたことになる。

7月19日

自由党の北陸遊説。吉田鞆二郎・林包明が派出。19日福井入り、22日武生、26日敦賀と巡回。

武生での懇親会に、県会議員今村七平・河野彦三郎、郡会議員内田謙太郎、有志者丹尾頼馬・黒田道珍・春日甚右衛門・増田耕二郎・三田村甚十郎・松下豊吉・松村甚左衛門(才吉)・水野(内田)慶次郎・宇野猪子部・山崎悠ら50数人が出席。23年東京専門学校を卒業し帰郷した山田欽二(三田村甚三郎)が有志総代として登場、以後の福井県政界の震動を予言するもの。

7月21日

川上音二郎、書生演劇憲法8ヶ条発表。歌舞伎排撃~社会教育・貧民救済。

7月21日

稲葉寛(一葉の母・滝子が乳母をしていた稲葉鉱の夫)が一葉宅を訪れる。落ちぶれはて、人力卒夫になろうと思っていると語る。

7月23日

漱石、松露菴撰『俳諸故人五百題』(春・夏・秋・冬之部、二冊四巻)を読み、急に俳句を作りたくなり、

「馬の背で船漕ぎ出すや春の旅」

「行燈にいろはかきけり獨旅」

「親を待つ子のしたくなき秋の旅」

など計17句を詠む。

7月28日

内務省令「総て刑死者の賞揚哀悼することを得ず」。墓標に姓名、法号、族籍、年齢などのほかは一切の記入を禁じる。国事犯、テロリストなどの刑死者を英雄視することへの警告。

8月1日付「東朝」社説「内務大臣に忠告す」、社会感情・慣習を無視した内務官僚の高圧的な独善性を痛撃。2日、内相品川弥二郎は1週間の発行停止を命令。

8日、発行停止解除。すぐおひろめ屋が市中にチラシ数万枚を配るとともに、9日には社告「解停と拡張」を掲載、4ページ建てを6ページとして定価を据え置き、9日の1日だけ、終日、鉄道バスの無料サービスをすると告げて満都をアッといわせる。快晴の日曜日、新橋と上野を始発する60両は、四隅に「東京朝日新聞解停祝」と書いた高張りを押し立て、屋根の左右には「本日無ちん東京朝日新聞」と記した木札を掲げ、11万3千人の乗客を集めた、という。「商家の小僧などは車代にと与へられしお銭を氷店に遣い捨て己れは接待馬車に乗りて得意顔に帰るものあり・・・」と記事にある。

7月28日

漱石の兄嫁登世没(享年24)

「三兄直矩の二度目の妻、登世である。彼女は漱石と同年の二十五歳で、悪阻のために亡くなった。その追悼の句に、「君逝きて浮世に花はなかりけり」「鏡台の主の行衛や塵埃」などがある。喪失感に満ちた句である。彼女は賢くて、温かい人柄で、通学する義弟に明るく話しかけたり、弁当を持たせてくれたりしたそうだから、家中で一人だけ彼が親しんだ人物だっただろう。江藤淳『漱石とその時代』第一部では、「恋をしていたとすれば彼はうたがいもなく死んだ嫂に恋をしていたのである」と推測している。その理由としては、子規宛書簡に「そは夫に対する妻として完全無欠と申す義には無之候へ共」や、彼女に「精魂」があるなら、「二世と契りし夫の傍か、平生親しみ暮せし義弟の影に髣髴(ほうふつ)たらんか」とあることを挙げているが、それが「三角関係の自覚」だったという確証はない。嫂は孤立している義弟に同情し、義弟はまた、放蕩者の兄が女遊びをし、それに堪えている妻に同情を寄せていたとも考えられるからである。義弟、漱石の小説で言えば、この二人の仲が、”Pity's akin to love”(『三四郎』の与次郎「訳」によれば、「可哀想だた惚れたって事よ」)なのか、あるいは『行人』の一郎・二郎兄弟と一郎の妻、お直の「三角関係」のように、一郎の「妄想」が作り出した幻想なのかも判然としない。」(岩波新書『夏目漱石』)

嫂死亡時の子規宛漱石書簡及び悼亡句と「行人」との関連について注目した最初の人は、小泉信三であった。彼は『読替雑記』「夏目漱石」(文芸春秋新社、一九四八年)の中で、モラリスト漱石の小説の「道ならぬ恋」のテーマが多い、就中、「行人」の中で弟と嫂との関係が微妙で、図らずも暴風雨のため余儀なく旅館で一夜を共に明かす場面や、家を出た弟の下宿を嫂が訪ねる場面は、架空によるものか、実体験によるものか、と疑問を呈した。そして、子規に嫂の死を報じて悲しみ、悼亡句一三句を披歴したこと(-八九一年八月三日付漱石書簡)との関連に注目した。

小泉の「憶測」に対して、江藤淳は「登世という名の嫂」(薪潮一九七〇年三月)、『漱石とその時代』第一部・第二部で登世という嫂との禁忌の恋が主張された。

登世と漱石の兄直矩が結婚した1888年4月、漱石は養家塩原家から実家夏目家に復縁した時期であった。水田家と夏目家との間に弟妹間の交流が始まり、漱石も芝愛宕町の水田家をしばしば訪れて、密かに「芋金」とあだ名されていたという。水田家には御家人くずれで言葉使いの丁寧なますという婆やがいて、「金さま、金さま。」と言って大の漱石贔屓で、漱石には料理に一品だけ余計に付けていたという。水田家では未だにますが「坊っちゃん」のきよのモデルだと信じているという。さらに、登世の病中漱石が嫂を抱いて二階への上り下りを助けて、濃やかに世話をしたことを伝えた(江藤淳「登世という名の嫂」) 。

7月下旬

7月下旬叉は8月上旬 漱石の二回目の富士登山


「七月下旬または八月上旬(日不詳)、中村是公・山川信次郎と共に冨土山に登る。(富士登山第二回め)御殿場登山道から登り、須走に出て大宮に着いたものと想像される。(第一回めと同じ)吉田口は、頂上に達するまでが楽であるが、当時、汽車は八王子停車場までしか開通していない。八王子から吉田口迄行くのに、汽車を利用することが出来ないとなると、吉田口は到底考えられない。丸木利陽写真館(芝区新桜田町十八番地)で、中村是公・山川信次郎と共に富士登山の服装で写真を撮る。」(荒正人、前掲書)


つづく



2024年2月26日月曜日

【政倫審よりも最低限『証人喚問』で】 『収支報告書に記載していなかった国会議員は議員を辞職する「必要がある」と答えた人が65%、「必要はない」は23%』(テレ朝) / 法大五十嵐名誉教授「政倫審は、痛くもかゆくもないセレモニーの場。しかしゴネればゴネるほど、政倫審の価値が上がっていく。その上で、もったいぶって政倫審に出席し、『説明責任は果たした』と、政倫審への出席を免罪符に使うつもりなのでしょう」 / 「①出席義務があり、②公開で、③嘘がつけない『証人喚問』と違って、『政倫審』の場合、①出る出ないは自由で、②非公開でもよく、③嘘をついても罰せられない。”出来レース“で最後に公開にして終わらす予定だろうが、まさに茶番だ。マスコミも『証人喚問』を求めるべきだ(泉房穂) / 松原耕二「審査する委員に裏金をもらっている人が3人いる。 真相究明のためではなく国会の通過儀礼、国会対策の与野党の駆け引き材料と化した」 / 泉房穂さん、来週開催の政倫審は「ウソつきにウソつきの場を与えるだけ…最低限『証人喚問』だ」(中日スポーツ);「何度も言うが、『政倫審』なんか開いても、ウソつきにウソつきの場を与えるだけで、説明責任を果たしたという”免罪符”を与えるだけだ。野党も情けないし、マスコミも出来レースを報じているだけ。最低限『証人喚問』が必要だし、『第三者調査委員会』を設置すべきだと思う。」   

 



 

BBCニュース -「かつてない規模」のアマゾンの干ばつ、生態系への影響は (動画)

大河ドラマ『光る君へ』脚本家・大石静「2話目を書き終えた頃に夫が他界。介護と仕事の両立は困難だったが、45年間で一番優しく接した時間だった」 / 大河『光る君へ』脚本家・大石静「執筆中に訪れた夫の死を噛みしめるのは、ドラマを書き上げてから。〈平安時代に関する思い込み〉を変えられたら」   

 

全国75%の橋が築50年超...老朽化するインフラ、予算のない自治体では事務員が道路舗装【WBS】(テレ東BIZ)

 

大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる 

 


大杉栄とその時代年表(51) 1891(明治24)年5月 カーネギーホール開場 松方正義内閣成立 大津事件(警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)がロシア皇太子を斬付ける) 田山花袋、尾崎紅葉を訪問 ミルン一座、「ハムレット」上演(浜ゲーテ座) より続く

1891(明治24)年

6月

中村正直(敬宇)、没。主宰する「同人社」立ち行かなくなり、講師を務める福田友作、帰郷。

6月

『千紫万紅』創刊。


「この雑誌は、「会員組織にして出した者で、硯友社の機関と云ふのではなく、青年作家の為であったから、社名も別に盛(ママ、成)春社として、私(紅葉のこと - 引用者註)の楽(たのしみ)半分に発行した」(尾崎紅葉「硯友社の沿革」)。・・・・・成春社すなわち『千紫万紅』からデビューし、売れっ子となった作家に、例えば小栗風葉(代表作に『青春』があり、紅葉の没後『金色夜叉』を完結させる)がいる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

6月

子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省。学年試験を放棄。


「『墨汁一滴』で彼は、こう語っている。


明治二十四年の学年試験が始まつたが段々頭脳が悪くなつて堪へられぬやうになつたから遂に試験を残して六月の末帰国した。


子規は、直接にではなく、木曾路をまわってから松山へ帰省した。わざわざ木曾路を旅したのは、その頃子規がもっとも強く心動かされていた小説の影響があったのかもしれない。

その小説とは幸田露伴の『風流仏』である。・・・・・雑誌『ホトトギス』の明治三十三年九月二十日号に寄せられたインタビュー「天王寺畔の蝸牛盧」で、子規はこう語っている。


新著百種の第五編であつたか、露伴の風流仏が出た。同室の友人はその風流仏をかりて来て、予の傍で読んで居たが、予は前にいつたやうに已に小説界を見くびつて居たのであるから、名も知らぬ人の小説が出ても別に驚きもしなかつた。友人は其小説の文章のむづかしいことゝ且つ面白いことゝを予に説いたけれ共、予はフンといふ返辞で簡単にそれをあしらつて仕舞ふた。

それから一年も後のことであつたらう。ある夏の夜本郷の夜店をひやかして居たらば風流仏が出て居つたので、それを買ふて帰つた。わけはどうかといふと、予は嘗て友人が之を読んで居つた時に傍らで少し聞いて居つたが、何分文章がひねくれて居つて聞いて居てもよくわからなんだといふ事だけは予の頭脳にとまつて居たのである。善かれ悪かれ兎に角人に解し難いやうな文章を書くものは尋常でないといふことが始終気になつて居つた為めに頭から見くびつて置きながら、風流仏だけは今一度自分の手にとつて読んで見たいと思ふて居たのであった。そこでその風流仏を買ふて来て読んで見ると、果して冒頭文から非常に読みにくゝて殆ど解することが出来なかった。尤も其時紅葉露伴などゝいふ人は既に西鶴の本を読んで居て西鶴調をまねたのであつたが、予の趣味は尚は馬琴流の七五調を十分に脱する事が出来なかつたのである。それは雅俗折衷と称する坪内氏にあつても尚ほ多少この旧套を脱する事が出来ないので、妹と背鏡などの中には慥(たしか)に七五調の処もあつたやうに記憶して居る。所が、この西鶴調の読みにくいのもいく度も読み返すうちに自然にわかるやうになつた許りでなく、その西鶴調の処が却て非常に趣味があるやうに思はれて、今度は反対に文章の極致は西鶴調にありと思ふた位であつた。元来風流仏の趣向は西洋的のものをうまく日本化したのであつて、今日でさへ兎角世評のある純粋の裸体美人を憶面なく現はしたのであるけれ共、この小説を読んでも毫も淫猥などという感じを起す事なく、却て非常な高尚な感じに釣り込まれて仕舞ふて、殆ど天上に住んで居るやうな感じを起した。そこで今迄は書生気質風の小説の外は天下に小説はないと思ふて居つた予の考へは一転して、遂に風流仏は小説の尤も高尚なるものである、若し小説を書くならば風流仏の如く書かねばならぬといふ事になって仕舞ふた。


・・・・・『風流仏』は、仏師である主人公の珠運が木曾路を旅した時に須原の宿で出会っ美しや花漬売りの娘お辰との悲恋を描いた小説だ。デビュー作『露団々』の原稿料を手にし、明治二十一年暮から翌二十二年正月にかけて木曾路を旅した時の実体験をもとに、露伴は、この小説を書いた。子規も、木曾路を旅すればお辰のような娘と出会える、と考えていたのあもしれない。いや、それより何より、子規はこの頃、『風流仏』をまねた、ある作品 - 彼の処女小説 - を構想していた。・・・・・。

子規のこの木曾路行は、「かけはしの記」という紀行文にまとめられている。『風流仏』の舞台となった須原にも、もちろん立ち寄り、花漬をちゃんと晴入している。明治二十四年六月三十日のことだ。


此日は朝より道々覆盆子桑の実に腹を肥したれば昼餉もせず。やうやう五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購ふ。余りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

〈旅の行程〉

6月25日、子規は学校の試験を途中で放棄し、草鞋ばきに菅笠をかぶって旅をする。軽井沢から善光寺に入り、松本街道から木曽路を巡る旅で、木曽路は、子規が熱中していた露伴『風流仏』の舞台であった。

上野から汽車で横川に行き、馬車で笛吹嶺を通り、千仞の谷を抜け、大樹が聳える森を通り、つづら折りの山路を渡って軽井沢に向かう。

26日、汽車を使って善光寺に参詣。寺院や辺りの家も火事で焼けていたが、本堂だけは無事だった。川中島、篠ノ井まで行き、稲荷山で雨が降り出す。

27日、雨は上がっていた。松本街道には路々に芭蕉塚が建っている。山路は険しく、馬場嶺を登る途中、木いちごがこぼれるばかりに実っています。「さてもくるしやと休む足もとに誰がうえしか珊瑚なす覆盆子、旅人も取らねばやこぼるるばかりなり(『かけはしの記』)」。夜は乱橋に泊まる。

28日、早朝に出発。爪さきあがりの立峠で馬に乗る。松本で昼食をとり、写真館で旅姿を撮影する。原新田まで馬車に乗って洗馬に着き、本山の「玉木屋」に泊まる。

6月29日、子規は本山の宿を出て、桜沢を過ぎ、木曾路に入る。木曽第一の難所・鳥井峠の麓にある奈良井まで来て茶店に休む。そこから馬に乗り、鳥井峠を登り、峠の頂で馬を降り、歩いて山を下って薮原の駅に着く。子規は、ここでお六櫛を買いう。持病の頭痛に悩む村娘・お六が、御嶽山に治癒を祈ると、「みねばり」の木から櫛をつくり、髪をとかすという御告げ通りにすると頭痛が治癒したという伝承がある。

ついで、木曾川に沿って徳音寺へ詣で、この夜は「福島」という繁盛宿に泊まりる。

30日は、朝から雨。木曽の桟に着くと、五月雨で水かさが増している。眼下に松尾芭蕉の石碑がある。ここは芭蕉が『更科紀行』で「桟やいのちを絡む蔦かづら」と詠んだところ。

上松を過ぎ、寝覚の里に着く。寝覚の床で名物の蕎麦をすすめられるが、お腹がいっぱいでとても食べられない。5里程歩いて須原で宿をとり、名物の「花漬(桜の蕾を塩漬けにしたもの)」2箱買う。「花漬」は、幸田露伴の『風流仏』に登場する漬け物。

7月1日、小雨の中、須原を発って野尻を過ぎ、昼ごろに三留野に着き、「松屋」という店で昼食をとる。妻籠を過ぎ、馬籠の麓まで来て、馬で峠を越えようとしますが馬が見つからず、草鞋を履き直して、山を越える。雨が強くなってきてあわてて馬籠の宿に泊まる。

2日、雨が止まず、合羽を買って馬籠を下る。この日は、余戸に泊まる。

3日、晴れ。御嵩を過ぎ、松縄手に出てしばらく休んでいたら、突然の夕立。この夜は伏見に泊まる。

4日、朝まだ暗いうちに舟で発ち、木曽川を下る。犬山城の下を過ぎ、木曽川停車場に着き、茶店で昼食。休んでいると汽車が来たので、急いで乗る。

『かけはしの記』はここで終わる。


6月

一葉の日記。


「母君はいといたく名を好みたまふ質にておはしませば、児賤業をいとなめば我死すともよし我をやしなはんとならば、人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ。それもことわりぞかし。我両方ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも名をのぞみ給へば成けめ。」

にわか士族であるが故に、譜代の士族よりもいっそう武家の誇りと自意識の働いた家風を形成していった。

6月

稲垣満次郎「東方策」。ロシアの侵略の危機を強調、日本が「東洋の大舞台にその雄図を策す」ために海軍拡張が急務と提唱。空前の売行き。

6月

佐佐木信綱、竹柏会創立。

6月初旬

チャイコフスキー、アメリカから帰国。「くるみ割り人形」作曲再開、7月全幕草稿完成。

6月4日

1890年1月31日、渋沢栄一・原善三郎・茂木惣兵衛らの売込商を含む横浜船渠会社創立委員は、船渠築造設計の修正と水面使用料の申告を神奈川県知事あてに申請、翌91年6月4日に設立許可を得る。岩崎弥太郎を中心とした三菱汽船(後の日本郵船)会社は外国商船会社との競争に勝ったものの、その保有船舶の修理は大問題であり、横浜港修築と関連してようやく念願を達する。

6月8日

ゴーギャン(43)、タヒチ到着。夏、首都パペーテから45kmのマタイエアに住む。第1回目、2年間 

6月9日

山際七司(43)、脾臓肥大症により没。

山際七司:嘉永2(1849)年1月2日、西蒲原郡木場村に誕生(天正年間代々庄屋の家柄)。明治3(1870)年10月父没後、庄屋に就任。幕末維新期、幕府側で戊辰戦争従軍。明治3年、村替え反対運動に関わり入牢。この年、父を継ぎ大河津分水工事用弁掛になる(分水工事は信濃川沿岸住民の悲願に拘わらず8年3月廃止)。8年、戸長に就任。9年9月に「新潟汽船会社」を開業(資金不足・汽船整備不良により燕~新潟間の汽船会社経営は失敗)。

11年、民権結社「自立社」の創立に関わる。12年に県会議員に選出。県会を通じて、その後行動を共にする小柳卯三郎(西蒲原郡東中村)と親密になる。13年4月「国会開設懇望協議会」を開催、国会開設建白(2回)、「東洋自由新聞」創刊、「越佐共致会」結成、馬場辰猪・板垣退助の遊説招致、自由党の結成、「北辰自由党」結成なに関わる。17年10月の自由党解党に際して反対電報を打つ。20年9月、大阪事件を無罪出獄。後藤象二郎遊説招致、東北十五州委員会開会、越佐同盟会結成、第1回衆議院選挙当選。23年8月、立憲自由党結成から党運営の主導権をめぐって反主流派を形成、10月除名。国民自由党入党。

6月10日

尾崎三良内閣法制局第一部長(49)、局長昇格。

6月10日

与謝野鉄幹(18)、安藤秀乗養子離縁、安養寺から離籍、与謝野姓に戻る。

6月16日

大井憲太郎(48)、横浜・蔦座での自由党政談演説会で「東洋政略」を演説、弁士中止となる。7月5日、勇座でも演説。

6月17日

桃水の働きかけにも拘らず、編集会議で一葉の作品が採用される機会はついに無く、6月17日、作品についての苦言を言われ、新聞掲載不都合と言い渡され失望。またこの日、折から半井家に寄宿していた鶴田民子の妊娠を知ったことも重なって、失望した彼女は6月17日以降10月末まで桃水を訪ねなかった。7月、鶴田民子は桃水の弟浩の子を出産。

6月16日、桃水から話があるから来るようにとの手紙が届く。一葉は、小説の採用についての不安と期待で眠れない夜を過ごす。

「例の小説の事なるべしとおもふにも胸つぶつぶと鳴こゝちす。何となく心にかゝりて夜一夜いもねず」

翌17日、桃水を訪ねた日記には小説の採否については明瞭に書かれていない。

「もの語りどもいと多かり。小宮山ぬしの深き御慮(オモンバカ)り、例のうしの情深さなどかたじけなしともかたじけなし」のみ記す。

日没近く平河町の桃水宅を出て、半蔵堀~千鳥ケ淵~九段上へといつもと違う道をとって帰る。

小宮山は、小説についての基礎的な勉強に時間をかけ、確かなものが書けるよう備えるべきであるという根本の問題を桃水に指摘し、それを桃水が一葉を傷つけぬように配慮しながら、かみくだいて語り聞かせたと思われる。萩の舎での和歌・王朝文学が教養の中心であった一葉に、桃水の親切があったにしろ、短期間の指導で新聞小説を即席に書くことは無理であった。

「暇乞申して出る頃、日はやうや西にかたぶく頃成し。今日は道かへて湟端(ホリハタ)を帰る。夕風少し冷かに吹て、みほりの水の面(オモ)て薄暗く、・・・み返れば西の山のはに日は入りて、赤き雲の色はたてなどいふにや、細く棚引たるも哀(アワレ)也。・・・堤の柳の糸長くたれてなびくは、人もかく世の風にしたがへとにや、いとうとまし。引かへて松のひゞきのたうたうとなるは高きいさざよき操のしるべ覚えて、沈みし心も引起すべくなん。秋の夕暮ならねど、思ふことある身には、みる物聞ものはらわたを断ぬはなく、ともすれば身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思ひ初(ソム)れば、我身一ツにてはあらざりけりと思ひもかへしつぺし。」

風に身を任せる柳のような生き方を拒み、風を受けて立つ松の高潔さに励まされる一葉は、苦しい心をかかえ、死をも思う一方で、厳しさにうち勝とうとしている。

自信の強い一葉は、作品が商品になりにくいと言われて、前途に光を見失い、ふと自殺の誘惑に引かれる。しかし、その後は気を取り直し、近世文学や現代小説の素養を身につけるべくせっせと上野の図書館に通う

6月20日

川上音二郎座長書生演劇。浅草中村座。「板垣君遭難実記」など。幕間オッペケペ、歌舞伎批判。

6月23日

大槻文彦の『言海』完成を祝し、高崎正風その他、紅葉館(芝公園内)に宴会を催す。

6月23日

岸田劉生、誕生。

6月27日

中江兆民、小樽に赴き小樽の「北門新報」の主筆となる(同年4月21日創刊、社長金子元三郎)。~翌年秋。以降、小樽を去り、彼の「実業家時代」となる。

6月29日

アルゼンチン、市民同盟,ミトレらの保守派とアレムの非妥協派に分裂。アレム,急進市民同盟(UCR)結成。甥イポリト・イリゴーエンが幹部。


つづく

包丁右手に警察へ 「生活できやんのじゃ」大声で叫ぶ 無職の女逮捕 和歌山・海南市(ABCニュース);「26日午前9時すぎ、和歌山県海南市の海南警察署を訪れた女が、包丁を手に「生活できやんのじゃ」と大声で叫びました。  警察は海南市に住む無職の女(53)を、銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕しました。」    

2024年2月25日日曜日

邪魔?350億円「万博リング」 建設業界トップ異例のダメ出し 空調設備でも予定変更(テレ朝) / 「もはや恥と不手際の博覧会」万博パビリオン、個別空調を例外容認で形骸化する「省エネ」理念に批判集中(SmartFLASH) / 万博のシンボル“大屋根リング”めぐり…建設業界トップが新たな懸念 「リングで搬入に制約生じる」 費用高騰に建設遅れ 問題山積の大阪・関西万博(TBS) / 「大量の税金を投じた命がけのギャグ」万博350億円リング「完成したらパビリオン作れない!」新たな火種に「計算してなかったの?」(SmartFLASH)

 

トマ・ピケティ「新しい“眼”で世界を見よう」 貧困層を目の敵にするイデオロギーが「公共サービスの質」を劣化させている ;「各種調査によって脱税やホワイトカラーの課税逃れのほうが、金額が大きいことはわかっているのに、そのことはお構いなしだった。富裕層を狙い撃ちにすると、面倒が生じる可能性もあるので、貧乏人を懲らしめてやろうとなったわけだ」 / 高齢者を追い詰める社会 映画の日韓の共通点=堀山明子(外信部)(毎日)有料記事          

 

風俗店勤務にパパ活、ホス狂、給付金チョロまかしに人糞郵送まで…なぜ国税局はこんなにも不良職員が多くなってしまったのか?〈国税局中堅職員の嘆き〉 | 集英社オンライン

新紙幣の対応に100万円かかる!? 「しんどい。これ以上は…」ラーメン店の嘆き(東京)  

大杉栄とその時代年表(51) 1891(明治24)年5月 カーネギーホール開場 松方正義内閣成立 大津事件(警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)がロシア皇太子を斬付ける) 田山花袋、尾崎紅葉を訪問 ミルン一座、「ハムレット」上演(浜ゲーテ座)     

 


大杉栄とその時代年表(50) 1891(明治24)年4月18日~30日 漱石、子規の房総旅行の紀行文に感激する 子規、哲学の試験準備が全く手につかない 一葉、桃水より新聞小説(通俗小説)の手ほどきを受ける より続く

1891(明治24)年

5月

井上哲次郎「内地雑居続論」(哲学書院)。内地雑居は「日本古来の風俗、習慣、政治、文学、宗教、其の他百般の時々物々をして一時に変動」

5月

北村透谷「蓬莱曲」(養心堂)

5月

東洋協会設立。東洋倶楽部発足。「東洋の覇権を握ってさきだち」になることを目的とする。

5月

大山巌、陸軍大臣辞任。在位11年、日本で5番目の陸軍大将となる。

5月1日

ハンガリー、オロシュハーザで、2日ベーケーシュチャバで、6月21日バットニャで、農業労働者賃上げ・労働条件改善要求デモ。政府は「嵐のコーナー」(ティサ河・マロシュ河合流地点)に軍隊・政府委員派遣。戒厳令しいて鎮圧。

5月2日

石川啄木(5)、学齢より1歳早く、岩手郡渋民尋常小学校(現渋民小学校)に入学。

5月5日

ロシア皇太子一行、長崎発。6日、鹿児島入港。9日、神戸入港、京都へ。前年イギリス女王息子コンノート公爵来日時以上の豪華な歓迎振りに、在日イギリス人には不快感を抱く者あり。皇太子来日は他日日本を侵略するための下見であるとの風説も生れる。強大国ロシアへの恐怖心。また、西郷隆盛が皇太子に同行しているとの風説も生れる(西郷隆盛生還説)。

5月5日

鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、音楽用ホール「カーネギーホール」のオープニング・セレモニー、チャイコフスキー招待。

5月6日

松方正義内閣成立。第1次山県内閣は第1回帝国議会(明治23年11月~24年3月)を乗切ったものの、民党の攻撃により予算の大幅削減、多くの重要法案不成立の事態。山県は政治生命温存のため退陣、伊藤に後任指名。伊藤も復帰が得策でないと判断し松方内閣成立となる。

5月6日

ドイツ・オーストリア・イタリア3国同盟、12年期限で更新。

5月8日

井上毅内閣法制局長、依願退職

5月11日

大津事件

午後1時50分、ロシア皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィッチ(22、のちニコライ2世)、琵琶湖見物帰路(京都~大津~三井寺~琵琶湖遊覧~県庁にて昼食~帰路)、警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)、斬付ける。頭部2ヶ所(7cmと9cm)の傷。皇太子は一旦県庁に入り、ロシア艦隊軍医の治療をうけるため特別列車で京都に向う。

津田三蔵:

安政元(1854)年12月29日江戸藤堂藩邸に御殿医に家に誕生。廃藩置県後、家族は伊賀上野に移住。津田は明治5年3月東京鎮台入営、3年後伍長。明治10年2月西南戦争で銃創を負う。本隊復帰後、軍曹昇格・勲7等叙任。明治15年除隊、同11月三重県巡査となる。明治18年8月親睦会席上で同僚を殴打し免職。同12月滋賀県巡査に採用。

津田を取押えた車夫2人(向畑某・北賀市某):ロシア皇帝より勲章・一時金2千5百円・年金1千円が授けられ、あわてて日本も勲8等・年金36円支給とする。向畑はその後身を持ち崩し年金も剥奪、昭和3年74歳で没。北賀市は、田畑を購入、読書きを習い明治3年江沼郡会議員当選、大正3年55歳で没。年金は日露戦争中も支払われ露探と疑われる。

天皇(38)、北白川宮能久親王を名代として現地に派遣。御前会議開催。夜9時5分、西郷従道内相・青木周蔵外相・陸軍軍医総監、特別列車で大津に向う。

膳所監獄にて津田三蔵予審訊問。三浦順太郎・土井庸太郎判事。~15日。

5月11日

ポルトガル、銀行恐慌のため現金支払いが一時停止。

5月12日

午前1時、伊藤博文宮中顧問官、参内。早朝、天皇、京都へ向う。午後9時15分、京都着。13日午前11時、天皇、ロシア皇太子宿泊先常盤ホテル訪問。

日本全国で皇太子の快癒を祈念する行動。ロシアの報復を恐れての行動。宗教・宗派を問わず快癒の祈り、学校休校、帝大などロシア公使館へ見舞い、銀行・会社・取引所の休業も多い、吉原その他遊郭も休業か歌舞音曲を控える。見舞いの電報は1万通超。しかし、ロシアの寛容な対応が明確になるにつれ、国民の反ロシア感情・政府の屈辱への反撥が出始める。

首相官邸、津田処罰問題。山田・後藤・陸奥・黒田・伊藤。農商務相陸奥宗光・大審院長児島惟謙・司法相三好退蔵以外全て(津田を死刑にする法的根拠として)「皇室に対する罰」適用主張。皇太子訪日前、青木外相はロシア公使シェーヴィッチに対して、皇太子に危害を加えた者には日本の皇太子に危害を加えた者と同じく刑法116条によって処罰すると約束していた。

児島惟謙大審院長、北畠治房大坂控訴院長と松方首相訪問。松方、皇室に対する罰主張。

早朝より司法省で山田顕義法相・高等官・御雇外国人の会議。イタリア人顧問パテルノストロが一般謀殺未遂罪適用主張、反対論なし。児島が司法省についた頃、山田顕義法相は刑法第116条適用主張。法相秘書官栗塚省吾・菊池武夫らは適用不可主張。

5月13日

午前、児島ら大審院で議論。全判事、第116条適用反対・一般謀殺未遂罪主張。午後、児島大審院長、山田法相にこれを伝える。この日、大津裁判所長、児島院長に対して、津田の犯行を普通法律に準拠すべきものとして予審着手を報告。児島は「他の干渉を顧みず予審を進行せよ」と返信。

5月14日

検事総長三好退蔵、京都地裁にて話し合い。数名の地裁所長・検事正ら、全て第116条適用不正主張。

5月15日

京都御所で御前会議。犯人死刑と謝罪使節派遣決定(ロシア側より辞退あり、使節はのち取止め)。三好検事総長、第116条適用不当主張するも賛成者なし。伊藤・青木は極刑論主張。三好、適用方針認めさせられる。御前会議終了後、三好検事総長、大津地裁検事局山本検事正に予審中止請求を出させる。

夜、京都地裁所長加太邦憲・司法省参事官倉富勇三郎ら、大津地裁に赴き御前会議で「皇室に対する罰」適用方針決定を伝える。

5月15日

教皇レオ13世(81)、労働問題に関するキリスト教的指針「レムル・ノウァルム」発布。

5月16日

滋賀県知事沖守固(4月9日着任)・滋賀県警部長斉藤秋夫、免官。

ロシア皇太子は神戸への帰途、天皇に寛大な措置を訴える。沖はのち和歌山県知事・貴族議員・男爵。

5月16日

大津事件に関する言論統制のため勅令第46号公布。

5月17日

[露暦5月5日]ペテルブルク、ロシア最初のメーデー。

5月18日

午前、松方首相、児島惟謙を呼出し青木・シューヴィッチ合意を持出し説得、拒否。欧米各国の法律にも、他国の皇太子に危害を加えた者を特別に処罰する法律はないと言明。質問に対して、担当裁判官7名の合議判決には大審院長としても異を唱えることはないと回答。要求により児島は裁判官7名の名を松方に渡す。

午後、大審院判事4名が司法省に呼ばれる。堤正巳には陸奥農商務相が、中定勝には山田法相が、高野真遜には大下喬任枢密院議長が、木下哲三郎には山田法相・栗塚法相秘書官が、説得にあたる。

三好検事総長、大津地裁宛に大審院判事意見一致により予審終了指示。

ロシア皇太子の誕生日の宴、神戸のアゾーヴァ艦上にて。天皇出席。

5月18日

川上音二郎(27)、横須賀の立花座で、21日まで興行。

5月19日

午前8時、法相、大審院特別法廷を大津地裁に開設する旨告示。大審院予審判事を土井大津地裁判事に命じる。

児島惟謙大審院長、「意見書」を松方首相・山田法相に提出し、午後9時50分、5名の判事と共に大津経由大阪に向かう。外国に対する法権・司法の独立。児島は帝国大学法科大学教授穂積陳重教授(35、貴族院勅選議員)に見せ賛成される。

ロシア皇太子一行、神戸発。23日ウラジオストーク着。天皇に感謝を表す電報送る。

5月20日

午後2時30分、児島惟謙、京都着。天皇拝謁。皇室罪適用など具体的指示なし。

21日、大津地裁で大審院特別裁判部会議。25日公判開始を決定。児島は堤判事を自室に招き、変節を難詰、勅語に注意深く触れ、「意見書」を渡す。午後4時、大阪に向う。

5月23日

児島惟謙に同意する判事、7名中5名となる。堤判事から児島に同意との連絡。児島は大津に赴き木下判事を説得同調させる。初めから同意見の安居判事が土師判事を説得、更に児島も説得し同調、意向は強硬な児島同調者となる。

5月23日

子規、高浜虚子と文通始まる


「五月二十三日(土)、高浜虚子(清)(十八歳)、伊予尋常中学校の級友河東秉五郎(碧梧桐)を介して、初めて正岡子規と文通する。夏、正岡子規松山に帰省中、高浜虚子と河東秉五郎は、俳句を学ぶ。十月二十日(火) の正岡子規からの手紙で、虚子と号す。)」(荒正人、前掲書)

5月24日

午前1時、児島惟謙、三好検事総長と連名で司法大臣宛に「刑法第116条適用不能、止むを得なければ緊急勅令必要」と電報。早朝、閣議で皇室罪適用確認。方針貫徹のため、西郷内相・山田法相、大津出張。法相、三好検事総長に25日開廷延期を指示。判事達は法相指示で開廷延期はできないというが、検事総長は延期を認める。

5月24日

尾崎三良内閣法制局第一部長、前局長井上毅を訪問、共に大津事件の政府対応批判、あと、山田法相を訪問、箕作麟祥司法次官、河津祐之刑事局長と尾崎の3人、緊急勅令反対を山田法相と争う

5月24日

田山花袋、尾崎紅葉宅を訪問

文壇に打って出たいとの手紙に対して、紅葉から返事をもらった3日後のこと。


「紅葉の第一印象は、とても感じ好かった。「いかにも江戸児らしい快活な城府(じょうふ)を設けない話しぶり、若い文学書生をも別に侮(あなど)りもしない態度、尠(すくな)くとも私の動揺する心を静めるに十分であった」。

西鶴について語り、近松について語り、『読売新聞』に連載中の新作『焼つぎ茶碗』(のち『袖時雨』と改題)について語ると、外国文学に話題を転じた。そうなると、売れっ子作家の前で背伸びをしてみせたい無名の文学青年田山花袋は、紅葉相手に、ユゴーやディッケンズ、サッカレー、デュマなどの文学を論じた。「更に『しがらみ草紙』でやや知りかけたドイツ文学の話までした」。

こんな生半可で青くさい文学青年に、紅葉は、とても誠実に対した。それだけ紅葉は文学に真剣だったのだ。棚の上から一冊の洋書、ゾラの小説を抜き出すと彼は語りはじめた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

文中の引用は田山花袋『東京の三十年』による

5月25日

尾崎三良意見書、緊急勅令による遡及処罰は罪刑法定主義に反し憲法違反(法制官僚は刑法第116条適用にも緊急勅令にも反対、判事の判断に委ねる他なし)

5月26日

西郷内相・山田法相、滋賀県庁で児島・三好と会談。物別れ。判事も法相との面談拒否。

5月27日

大津事件大審院特別法廷、大津地裁。一般謀殺未遂とし津田三蔵を無期徒刑。非公開。堤裁判長。

5月27日

西郷内相・山田法相・青木外相、引責辞任。

6月1日、法相に田中不二麿就任(民法典断行を条件)。

5月28日

ミルン一座、完全な「ハムレット」上演。横浜ゲーテ座(明治18年4月完成。現、山手ゲーテ座)。

6月1日、坪内逍遥・北村透谷が観劇(日本人は2人のみ)。逍遥はこの期間中「ヴェニスの商人」も観劇。この時も日本人は1、2人。

5月30日

斎藤緑雨「油地獄」(『国会』連載)

5月31日

ロシア皇太子ニコライ、シベリア鉄道起工式出席、ウラジオストーク。


続く

2024年2月24日土曜日

鎌倉 宝戒寺 ウメにウメジロー 椿多種 鶴岡八幡宮 ミモザ(花いっぱい) カンザクラ(蕾ほころぶ) 若宮大路の玉縄桜(元気いっぱい) 本覚寺のカワヅザクラ(ピーク越え) 大巧寺の椿(氷室雪月花、薩摩錦、羽衣) 2024-02-24

 1月24日(土)はれ

今日は、雨天曇天続きの中の貴重な晴天日。鎌倉に出かけた。

▼宝戒寺

門の前の梅にメジロ(ウメジロー)が。いつもは、1時間かけても満足いく写真はなかなか取れないのに、今日は5分ほどでタップリいいところが撮れた。




▼梅はほぼ終わった感じなので、椿を中心に。






▼鶴岡八幡宮
レストラン前のミモザがキレイに咲いている。花はまだまだ増える勢いのように見えた。


▼カンザクラ
蕾がほころびかけている。

▼若宮大路の玉縄桜
全体で五分咲きくらいだろうか。花に勢いがある。





▼本覚寺のカワヅザクラ
もうピーク越え

▼大巧寺の椿
①氷室雪月花 ②薩摩錦 ③羽衣