2018年10月22日月曜日

北の丸公園 秋色じわじわ 2018-10-22

10月22日(月)はれ
昨日に続いて快晴。
北の丸公園、秋色ジワジワである。

写真全てスマホ撮り。

▼朝の清水濠
少しは掃除したみたいだけど、まだナンダカナー

▼北の丸公園内






▼昼休み、これだけのために桜田濠まで猛ダッシュしたけど、
その割には写真イマイチ

コレ、「自衛官募集」ポスター、どうでしょうか?


地上波テレビ、衝撃の凋落。(茂木健一郎);「大河ドラマを見ているのが、中高生2000人のうち、たった一人なんて。時代は、すっかり変わってしまったのだ。.....この結果は衝撃だった」




記者会見「2017年6月27日 築地仲卸業者の営業権について 熊本一規 明治学院大学名誉教授」(動画); ≪結論:築地から豊洲への移転を決められるのは誰か≫ ①仲卸業の豊洲移転を決められるのは営業権の権利者である各仲卸業者。権利者でな い東卸が決められることではない。 ②したがって、豊洲への移転についての東卸の総代会決議は、権利のない者が勝手に 声をあげた行為(無権代理行為)に過ぎず、無効である。 ③以上の①、②は「脱退自由の原則」に基づき組合員が脱退すれば、より明確になる。








京都・大山崎町長に新人前川氏 4党推薦の現職を破る(京都新聞);「前川氏は、共産党が支持を表明していた。3公立保育所の堅持を主張し、子育て環境の整備や行財政改革を公約に掲げた」













立憲民主党の一番ダメなところが京都に象徴的にでてる。





2018年10月21日日曜日

相南海岸散歩 片瀬西浜・東浜~稲村ケ崎~由比ガ浜 朝のうちは富士山バッチリ 2018-10-21

10月21日、はれ
朝から快晴。これホントに久しぶり。
湘南海岸を散歩した。

モノレールで江ノ島まで。
片瀬西浜~片瀬東浜
江ノ電で江ノ島から稲村ケ崎まで。
稲村ヶ崎~極楽寺~長谷~由比ガ浜
江ノ電で長谷から鎌倉まで。

暖かかったので、稲村ケ崎に着いた頃は富士山はボヤけてた。

江ノ島で前の会社の後輩Mさんに出会った。
かれは、ナント北鎌倉から江の島まで歩いてきたという。
当然(?)だが、また呑みましょうというハナシになった。







那覇市長選、城間みきこがゼロ打ちで当確。 / 今月に入り、自民は豊見城市長選、君津市長選、那覇市長選、川西市長選と連続して落とした。来週は新潟市長選.....








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スカッとした! → ◆「沢田研二論」 ~黙っとれ!の窮状~(ブログ;中村区中村町の中村) / これもほぼ同感 → 《沢田研二に無関心な人の多くは「来てくれたお客さんに失礼だろう!」、沢田研二の音楽的功績を理解している人の多くは「イベンターしっかりしろよ!」、そして私含む、今でも沢田研二のコンサートに行く熱心なファンの多くは「あぁ、いかにも沢田研二らしいなぁ……(苦笑)」 — スージー鈴木》










《以下、参考記事》
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【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その26)「・・・「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」 「その屍体は?」 「川の中や、焼けている中へ捨てました」 その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。・・・」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その25)「「男子は皆中央広場へ集まれ、.....今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」 時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。.....どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。.....集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
松浦幾蔵〔当時正則英語学校学生〕
「竹槍を振って鮮人2名を刺殺 鮮人の暴動鎮圧に参加した学生の帰来談」
〔宮城前広場で〕警備団の組織された2日から僕もその団員の一人に加入し竹槍を握って鮮人2名を突き殺した。此奴は獰猛な奴で市中を暴回って来たものらしい。鮮人の暴動がないなどというのは全然嘘だ。現に僕の如きは竹槍党の一人として奮戦したのであるから決して間違いはない。
(『山形民報』1923年9月6日)

三宅敬一
私が9月2日午後丸内を通った時、某新聞社は盛んに鮮人襲来を宣伝していたが、これは警視庁から頼まれてやったものとのことである。
(『東亜之光』19巻1号(1924年1月新年特大号)、東亜協会)

本山志津江〔当時東京市立京橋高等小学校普通科1年生〕
〔丸の内で〕2日の日から鮮人騒ぎがあったので男だけ外に女子供は皆仮小屋にとじこもっていた、さわぎのすごさときの声をあげて男と鮮人と戦った。
(「大震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)

渡辺富久子〔当時尋常小学校5年生。京橋区木挽町で被災、球場前広場へ避難〕
〔2日夜明〕そのうち、いろいろ不安な噂が飛び交いました。朝鮮人が井戸へ毒を入れたとか、朝鮮人と社会主義者が暴動を起こしたとか、捕まった朝鮮人が数珠つなぎにされて自警団の人たちに連れて行かれたとか・・・。
(渡辺富久子『大空にかける希望の虹 - 付・人生の指針 - 後進の皆さんに』私家版、1988年)

麹町日比谷警察署
9月2日の夕、鮮人暴行の流言始めて管内に伝わるや、人心の動揺甚しく、遂に自警団の組織となり、戎・兇器を携えて鮮人を迫害するもの挙げて数う可からず、本署は未だその真相を詳かにせざるが故に、敢て警戒と偵察とを怠らざりしといえとも、しかも種々なる現象より観察して真なりとの肯定を与うる能わざるの状況なるを以て、不取敢(とりあえず)民衆の軽挙妄動を戒むると共に、将に迫害を受けんとする鮮人60名を本署及び仮事務所に収容して保護を加えたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

東京鉄道局
〔2日〕午後7時50分抜刀鮮人千名が品川方面へ来襲したとの飛報があったので、右防備打合せの為め参謀本部へ貨物自動車1輌を急派すると共に自動車全部を挙げて兵員輸送の手配をした。〔略〕不逞鮮人暴行に対する流言蜚語が伝わり各所共人心恟々として不安に脅かされている折柄、恰も新宿駅には陸軍兵器支厳より関西線津田駅宛の火薬が一部積込まれてあったので右出貸主に交渉し兵員護衛の下にこれを引取らせた。
〔略。4日〕・・・・・本日近衛第二連隊第二大隊第六中隊が東京駅に来着し、ここに大隊司令部が置かれることになったので、一同愁眉を開いて執務することが出来るようになった。
(鉄道省・老川慶喜編『関東大震災・国有鉄道震災日誌』日本経済評論社、2011年)

『北海タイムス』(1923年9月5日)
「鮮人十数名を銃殺 いずれも爆弾の携帯者」
2日夜東京駅付近にて朝鮮人十数名警備隊の為銃殺せらる。鮮人は爆弾携帯者ならん。
(『北海タイムス』1923年9月5日)

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
小林勇〔編集者、随筆家。当時20歳〕
翌日〔2日〕は、その頃大久保に住んでいた兄の安否をたずねた。兄は無事だった。帰途「牛込へ来た時、武装した青年団や在郷軍人たちがひどく騒いでいるので、何事かと思い、きいて見ると、朝鮮人が放火したというのである。それから帰途は全部朝鮮人騒ぎで大変であった」とあり、ノートには〔略〕「もし仮にそんな朝鮮人が少しくらい現れても当然ではないか。日本人が日頃この人達を迫害圧迫している罪悪に較べれば彼らのお返しの方が小さい」と記した。〔略〕
「朝鮮人騒ぎ」のために「自警団」が組織され、2日の夜から交代で夜警に当たった。私は朝その仕事から解放された時、岩波茂雄が下町の方へ行ってみようといった。〔略〕佐久間町の狭い一郭が残っていた。川岸に近い所に電車が一輌残っている。2人は中へ入って一休みした。「中には一人の男がいて」私達は問答をした。
「えらいことでしたね」
「まったくえらいことですね」
「ここらも大分朝鮮人騒ぎをしていますね」
「ええもうひどいですよ。ようやく焼け残った所を放火されたのではやり切れませんからね」
「実際朝鮮人は放火したのでしょうか」
「ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね」
「殺したりするのですか」
「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」
「その屍体は?」
「川の中や、焼けている中へ捨てました」
その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。そして私はノートに書いている。「こんどの惨害の中で一等不幸の目に会ったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人間に殺されるかもわからないとは何ということだ」
(小林勇『一本の道』岩波書店、1975年。「 」内は当時のノートからの引用)

神田西神田警察署
9月2日午後1時頃より、鮮人暴挙の流言行わるるや、民衆は自警団を組織して警戒の任に当ると共に、戎・兇器を携えて鮮人を迫害するに及び、本署は鮮人保護の必要を感じ、爾来検束を行えるもの数十名の多きに上れり。〔略〕収容の鮮人は衣食その他を給与して厚く保護を加え、9月8日に至りて習志野収容所に引渡したり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく






横浜市戸塚区からの今朝の冠雪富士山 2018-10-21

2018年10月20日土曜日

フロリダ州のゴルフ場に全長4.5メートルの巨大なワニが出現(動画);「Chubbs」と知られているワニの一種 🐊。こう見えても人を襲ったりすることはないようです






「貴乃花さんに参議院議員になっていただきたい」安倍首相“指南役”が出馬要請 〈週刊朝日〉; 安倍首相とも親交が深い“永田町の怪僧”の池口恵観・高野山別格本山清浄心院住職 / 貴乃花自身は「天孫降臨を信じて.......」みたいなんだけど.......




【「お買い物ツアー」連日開催】小池都知事真っ青「築地市場は解体できない」 都は市場の工事の前提「廃止認可」を受けていない ナント、都は農水省から豊洲市場開設の認可は受けたが、築地解体の根拠となる「市場廃止」の認可を受けていないのだという(日刊ゲンダイ)















安倍総理の携帯番号をカメラに晒した「桜田義孝」五輪相 軽すぎる舌禍録 ;《自民党議員が嘆息する。「飲み会の席では下ネタも平気で話しますが、韓国の悪口が多いですね。慰安婦問題だけでなく、特にひどいのは現職大臣を名指しして“あいつは韓国にルーツがあるから、気をつけろ”と訳のわからないことを言ってくるのです」》




2018年10月19日金曜日

贅沢な昼休み 東京国立近代美術館で過ごす 2018-10-19

10月19日(金)曇り一時雨
今日は運の悪いことに、出退勤の時に限って雨(小雨だけれど)に降られた。

お昼休み、コレクション展が更新されたので近代美術館に行った。
贅沢なお昼休みだ。
時間に限りがあるので今日は4階を重点的に鑑賞。
もう何度も来ているので、初見の作品は殆どない。
今日はガチの鑑賞の積りではなかったので、カメラを持参しなかった。
(実は持って行くべきだったと反省中)
写真は全てスマホによる。

▼菱田春草《王昭君》1902明治2年 重要文化財

▼靉光と松本竣介のツーショット
靉光《自画像》1944昭和19年 遺作
松本竣介《黒い絵》1940昭和15年

▼橋口五葉《浴場の女(ゆあみ)》1915大正4年 漱石『吾輩ハ猫デアル』の装丁を担当した画家

▼猪熊弦一郎《〇〇方面鉄道建設》 1944昭和19年

靉光《蝶》1942昭和17年 ガラスの反射を避けるため斜め撮り

▼麻生三郎《とり》1940昭和15年

▼川端龍子《輸送船団海南島出発》1944昭和19年頃 これは初めて観た

▼山口華楊《基地に於ける整備作業》 これも初めて観た

2018年10月18日木曜日

鎌倉 由比ガ浜 長谷の光則寺 2018-10-18

10月18日(木)はれ
今日は会社お休み。
雲が多いが一応の晴れだったので、鎌倉に出かけた。
鎌倉駅~由比ガ浜~浜辺を長谷まで歩き~長谷の光則寺~
江ノ電で長谷から鎌倉まで~鎌倉の大巧寺
のコース
海に向けて雲が多く、写真は冴えなかった。

光則寺はホトトギスやシュウメイギクなどが主流。
既に伝えられてることであるが、台風による塩害でモミジがやられてるような感じだった。
フジバカマがもう殆ど終り段階。
偶然、アサギマダラの飛来を見た。
カメラを構える余裕すらない一瞬のことだった。残念!






東電刑事裁判 武黒元副社長 津波試算「覚えていない」 元社員の証言と食い違い 津波対策(常務会議事録にある)「了承」さえも否定 「巨大津波もすぐに何かをとは…」 / 武藤元副社長 津波対策“先送り”否定 元部下と真っ向対決 / 2日間の武藤被告の証言は、ナイナイ尽くしだった。報告を受けたこともない、記憶もない、メールもない、認識もない、指示もしていない、その権限もない、津波に関する資料だけは読んでいない…。左陪席が最後に「武藤さん、あなたの職責は何ですか?」と質問した..... / 海渡弁護士「残っている証拠にまで見た記憶がないと言うのは自ら信用性を失った」    









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【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その25)「「男子は皆中央広場へ集まれ、.....今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」 時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。.....どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。.....集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その24)「2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。」
から続く

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
鈴木喜四郎〔当時京橋区京橋高等小学校1年生〕
〔2日〕日は西に傾いた。今晩は〇〇〇人の夜襲があると言ううわさがばっとたつと巡査が「今晩は〇〇〇人の夜襲がありますから気を付けて下さい」
と叫びながらまわってあるいた。
いよいよ晩になった。提灯の火は皆けされた。
血気にはやる若者が白八巻をして手には金棒や焼けた刀を握って5、6人通った。後は人々は言い合わした様に話声一つしない。座蒲団を敷いて少しうとうとしたかと思うと、
「わーいわーい」
とただ事ならぬ人の叫びに夢は破られた。あのすごい氷の様なぴかぴか光る刀 - あの恐ろしいぎょっとした眼 - 等の事を考えると全身の毛も、さかだつ様である。弟や隣の子供はこの恐ろしい事も知らずに前後の正体も無くすやすやと軽いいびきをして寝ている。
夜は次第にふけ渡る。時々巡査の帯剣の音がする。それからは夜の明ける迄何も知らなかった。
(「思ひ出」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)"

中島孝之〔当時東京市立京橋高等小学校2年生〕
〔2日〕やっと衆議院に入れてもらった。むしろをひいて休んだ〔略〕盛んに御飯を食て勢をつけているそれを見て僕は咽喉から手が出る程で、たまらなくなって水を飲んで我慢した。時しも不逞鮮人来襲するから静かにしろといいふれに来たので、院内上を下への大騒動中には車を引いて逃げ出すのもあり、女子は泣だす所へ、大丈夫ですここは宮城に近いから急ぐ軍隊が来るといいに来た。一時は大変だった。
(「大震火災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
野木松治
〔2日夜、日比谷公園で〕木の枝にもぐって何時間か眠ったようですが、急に辺りが騒がしくなりました。何が始まったのかと起き上り周囲を見回わすと、頭に鉢巻をした4、5人の人が大声で呼び掛けているのです。「男子は皆中央広場へ集まれ、女子と子供は1個所へ集まって動くな。男子は頭へ白い布で鉢巻をして何か武器になるような物を持て、今朝鮮人が3千人程品川沖へ上陸したという情報が入ったから、我々はこれを迎え戦うのだ」
時間はもう夜中の12時頃であったと思います。大人の人達は既に400〜500人位は集まったようです。手に手に棒切れや、中には日本刀など持っている人もいたようでした。どの顔にも血走った目が光り異様な雰囲気でした。
私は白い布切れなど持っておりませんし、なおの事子供でもあり、とても大人の中へ入って朝鮮人などと戦う勇気はありません。小さくなって遠くの方から眺めているだけでした。集まっている人達は別にどこかへ移動する様子もなく、ただ中央広場に集まってお互いに何かガヤガヤと騒いでいました。
果して朝鮮人が事実来襲するのかどうか、私には何も判りませんでした。ただ恐ろしくて他のどこか安全な所へ逃げようと決心しました。それで、公園の南側の暗い所を選んで、柵を乗り越えて馬車道を御成門の方へ歩きました。逃げ出したのです。
ところが、公園から200メートル程も歩いた四つ角の所へ来たときです。物陰からいきなり3人の鉢巻をして、竹槍を持った男達が現れて、「山」といって私の両脇へその竹槍を突き付けました。
私は驚いて、何と言ってよいのか、ただぶるえていると、一人の男が私に向って、「お前は日本人か、朝鮮人か」と強い句調で言いました。「日本人です」私は恐しさに声がふるえてうまくしゃべれませんでした。「本当にお前は日本人か!」「10円50銭と言ってみろ!」男達は私を取り囲み詰問してきました。脇腹にはピタリの竹槍がついていました。「10円50銭、日本人です。私は日本人です」。私はやっとのことでそれを言い終えましたが、両足はガタガタとふるえてどうすることもできませんでした。「どこへ行くのか」。男達はやっと竹槍をもどして言いました。「今まで日比谷公園にいたが、品川に親類がいるからそこを頼って行くところです」。これだけ答えるのもしどろもどろの有様でした。
〔略〕御成門を通って芝公園へ着くまでに、四つ角へ来るたびに必ず暗がりから同じような風体の男達が現われて「山」といって威かされました。それぞれの角には「川」と答えなかった何人かの人が詰問されていました。ある所では両手をしばられた朝鮮人らしい人もいました。
(野木松治『体験』私家版、1975年)

野村秀雄〔当時『国民新聞』記者。二重橋前に遭難して「天幕編集局」を設置〕
2日の夜に荒木社会部貝が飛んできて、「いま各所を鮮人が襲撃しているから、朝日新聞で触れ回ってくれと警視庁が言っている」と急報した。一同はこれを聞いて、「よしッ」とばかり小高運動部長ら5、6人と自動車に乗って全市の要所へ「鮮人が襲撃するから用心せよ」と触れ回ったものだ。この朝鮮人騒ぎというものは、実は、通信が途絶えたため警視庁にも正確な情報が集らず、あわてたものだ。流言の因は当時六郷の郊外電車の架橋工事に多数の朝鮮人工夫が働いていたが、震災にあって飯がないので付近の民家へ入って飯を食ったということが誤り伝えられたものらしい。また朝鮮人が井戸へ毒薬を入れたという風説もあったが、これはその2、3日前に牛乳配達だか新聞配達だかが、月末にお得意先の家に白ボクで○印を付けて歩いたのを地震になってからこれを見た人々が勘違いして朝鮮人の毒薬投入説をふり撒いたものらしかった。
(有竹修二『野村秀雄』野村秀雄伝記刊行会、1967年)

原亀夫〔京橋木挽町3丁目12で被災〕
〔2日、日比谷公園で〕夜には在郷軍人が来て「教育勅語を申してみよ」と詰問し、言えない者を連行していきました。
(「浜離宮へ逃げる」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

平島敏夫〔政治家、満鉄副総裁〕
面白い例がある。「時は9月2日の朝、場所は丸ビル正面、前日から餓に苦しんでいた避難民は丸ビル地階の明治屋を襲撃して窓ガラスを破壊して食料品を略奪せんとした。警備の憲兵が来てこれを制したが群集は聞かぬ。憲兵は剣を抜いて群衆を切りつけた」
これは直(すぐ)向うの東京駅ホテルの窓から見ていた人の実見談である。由々しき大問題としてかなり宣伝されかけていた。明治屋襲撃の群衆の一人であった人の実話はこうである。
「2日の朝、明治屋は表の避難民に同情してビスケットの数箱を提供した。群衆は先を争って集ったが箱が大きいのでなかなか開けられぬ。憲兵が剣を抜いて箱を開いてくれた。群集は明治屋の好意に感激し又憲兵の臨機の処置を賞賛した」
この2人の実見者は僅かに1町しか隔てていなかった。しかも事実の相違は百里や千里の問題ではない。怖ろしい事だ!
(「帝都震災遭難記(16)」『満州日日新聞』1923年10月4日)

つづく






2018年10月17日水曜日

今日の皇居東御苑 青空と雲のバランスがきれい 2018-10-17

10月17日(水)はれのち曇り夜一時雨
今日は予報では一日中ずっと曇りのはずだったけど、午前中はラッキーにも晴れ。
お昼休み、皇居を散歩したが、気温もちょうど好い加減で気持ちよかった。
今月の日照時間、かなり短いんじゃないかな。
晴れが少ない。

モミジ、かなり紅くなったように見える・・・。

午後、あちこちで話を聞かせろとあって、しゃべり続けたのでちょっと疲れた。







消費税が導入されて30年。「でも社会保障が良くなった実感はない。消費税は一体何のために使われたの?」という方。 是非、下のグラフをご覧ください。(出典:消費税をなくす会)




記者に記憶の誤りを指摘された麻生太郎財務相は「良かったね。特にねえよ、それで?」(東京新聞17日付朝刊)。いつもながらの傲岸不遜。謝り方のひとつも知らない、漢字もまともに読めない。まるで幼稚園児だ。こんな人物が大臣に居座り続ける日本の不幸。 / 普通の感覚だと、あれだけブーイングを受けたら、自分から身を退くもんだけどねえ。やっぱり麻生氏は普通じゃない…。→ 特集ワイド:麻生氏続投にブーイング 責任取らない副総理兼財務相 発言に共感性なく デフレ対策でも「失格」の声    






“獄中手記”で暴露 籠池夫人が明かした森友問題の核心部分 ;「安倍首相の答弁を聞いた佐川氏が「ヤバい」と直感し、関係者を通じて籠池前理事長の弁護士に“雲隠れ”を指示。その後、安倍首相の秘書までが昭恵夫人の学園への関与を“削除”しようと試みた」 / 籠池夫人が安倍首相夫妻、稲田朋美、小川榮太郎らの嘘と手のひら返しを大暴露! 青山繁晴が籠池夫妻に送った失笑メールも公開    








国場幸之助(自民党副幹事長、自民党沖縄県連会長); 不倫LINEと離婚騒動(週刊文春)  / 4月にも事件 ; 酒に酔い女性と口論、それを目撃した観光客が仲裁に入り、議員は足の骨を折る重傷 / 国場幸之助議員の知られざる7つの秘密 / スキャンダルや「傷害容疑で書類送検」された過去










下地ミキオも怒った! → “沖縄県の埋め立て承認撤回” “政府が対抗措置”  防衛省→法律を所管する国土交通省に申し立て→承認で工事再開へ / 玉城知事「民意踏みにじるもの」 国の法的対抗措置を批判 対話による解決策模索












加計学園のイベントにも出席していた(画像) → 文科省幹部人事【また〝官邸のご意向〟】加計問題の「キーマン」が事務次官就任 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権は、第1次政権時代から教育行政に手をかけてきた。文科省を「完全支配」したことで、いよいよ戦前の「愛国教育」へ突き進む恐れが強まってきた(日刊ゲンダイ)















今ごろ、よう言うわ! → 時代の伝言 平成の原子力 エネ政策、再考の時 前原子力規制委員長・田中俊一さん(73);「核のごみの最終処分場のめどは立っていない。核燃料サイクル政策も行き詰まっており見直しも含めて現実的に考えていかないと原子力の維持は難しい。現在のように問題を先送りしながら原発を動かしていくなら、やめた方がいい」


元秘書「100万円頂いたのは事実」 / 片山さつき、現金授受否定 / 片山さつき地方創生担当大臣に100万円国税口利き疑惑(10/18発売「週刊文春」);「疑惑の構図は、甘利明経済再生担当相(当時)のURをめぐる口利き疑惑に近く、あっせん利得処罰法違反の疑いがあります」 / 書類では“口利き”の対価として、100万円の支払いを求めている。日付は、〈15/07/01〉。差出人欄には〈議員名 参議院議員 片山さつき〉 そして、書類の末尾には、こうあるのだ。 〈着手金100万円を、至急下記にお願い申し上げます。ご確認後、国税に手配させて頂きます〉



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2018年10月16日火曜日

稲田朋美氏選挙支部に脱税企業献金 地元福井の建設会社から、返還検討(福井新聞ONLINE)




『軽減税率は消費税制度の劣化  導入で本当に得をするのは富裕層』(ダイヤモンドオンライン);「軽減税率が所得再分配効果を果たしていないこと、しかし各国とも政治のパフォーマンスとして導入されてきたことなどが報告された。」 「欧州をまねするな」と忠告 森信茂樹 / 荻原博子さんが指摘「住宅ローン減税は消費増税不況に効果なし」(女性自身)







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東京五輪の医療スタッフ無報酬 競技会場で活動する責任者以外(共同);「2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は15日、大会中に競技会場などで活動する責任者以外の医師、看護師らの医療スタッフに、一部を除いて組織委が報酬を支払わない方針を明らかにした」






大規模再開発で消えゆく昭和の街並み 渋谷の「ガラパゴス」桜丘町の記憶




内閣改造「評価」22% 「評価せず」50% 支持率上昇せず 朝日世論調査 / 産経・FNN合同世論調査 内閣改造「評価せず」58%、厳しい結果(産経新聞)








2018年10月15日月曜日

カラムーチョとムンクの『叫び』、異色のコラボが爆誕「ジャンルを超えた魂の共鳴だ」 ; 東京都美術館で「ムンク展―共鳴する魂の叫び」が開催されるのに合わせて、「叫び」風のカラムーチョを発売すると、湖池屋が10月15日に発表した。


オセロ世界チャンピオンの話題 いいはなし 「谷田機長のサプライズスピーチ!」 / 「機長が元オセロ王者」、ANAの配慮だった 帰国把握で事前に手配










【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その24)「2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その23)「鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になってあった。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
内田良平〔政治活動家〕
2日午前11時頃〔略〕3名の日本大学生の服装をなしたる鮮人ありて〔略〕付近の避難民等はこれを捕えんとし追い駈けたるに招魂社裏門より社内に逃げ込みたるを2名はこれを撲殺し1名はこれを半殺しにしたる儘、取調の為め陸軍軍医学校に入れたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・秉洞縞『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
池内たけし〔俳人〕
〔2日夜、華族会館内の馬場で〕乏しい蝋燭の火で淋しい第二夜を送る。突然〇〇〇〇〇〇の噂が来る。折角ようやく安心して眠りかかっている天幕の中の女や子供を俄に起して後ろの暗い庭の木陰に避難させる。灯を全く消す。馬場の中に避難している2、3軒の家の若者達で俄に防禦の一団を編成する。手に各々〇〇〇〇〇を持つ。親父も一団の中に老人として若い者に劣らず〇〇〇〇をして、手に日頃〇〇〇〇〇〇ものを引さげて立つ。私はあり合うものもなかったので、家財の中に見当った能狂言に使う木太刀を持つ。夜目には其の○のようにも見える。久しく襲来を待ったが遂に流言蜚語に終って何者の影も見えない。
〔略。3日夜〕またまた〇〇〇〇〇前夜に増し○○が厳しい。市中に渡って敷かれた戒厳令で兵士が帝国ホテルの門には立っているという。焼け残ったこの一画を特に警戒しなければならぬとあって一夜また一睡もせず。提灯を灯して各々若い人々で厳しくこの一画を守る。○○を突き提灯を提げて暗夜のこの界隈を警戒して歩く。
ホテルの厩に怪しのものが侵入したと誰かが伝える。たちまち大騒ぎとなる。兵士も駆けつけて来て集まった若い人々と共に厩の中を隈なく探す。厩の馬が驚いてはねる。怪しい人影は見えない。一同拍子抜けの形で引上げようとすると、暗闇の中で誰かいたぞと呼ぶ。そら行けと皆声のする方に駆けつける。駆け寄って見ると、何の事だ。一人の老婦が荷物を背負って、ホテルの裏からとぼとぼと闇の中に現あれる。お助けなすって下さい。私は麻布の娘の所まで参る者ですと泣声で云う。一同余りのことに笑って散る。
〔略。4日夜〕今宵から華族会館裏門にも警戒の兵士が立つ。暗闇に歩哨の○がぴかぴかと光る。
(たけし「震災日記 鎌倉に行くまで」『ホトトギス』1923年11月号、ホトトギス社)
小西嘉兵衛
〔2日夕方、丸ノ内大川田中事務所で〕 そうするうちにあたりが昏くなって来た。そこへ警官が来て、宮城前へ移っていただきたい、警戒上諸々方々に散らばっていることは不便でもあり、かつ流言が横行して人心不安の折でもあるからとの注意である。一同は先刻までの畳の上で寝られる期待を捨てて、追い立てられるように宮城前の楠公銅像下へ露宿するに決めた。
宮城前は昨夕よりもずっと多くの避難の人が詰めかけて、芝生の上は一杯だった。心労とこれから先の不安とに動揺しているこれらの避難者のどこからともなく流言が盛に伝えられて来た。詳細を記すことは事更に避けるが、その一つは「この大地震を期に或る不逞の輩が暴動を起し、今既に品川辺りで警官軍隊と衝突を起して目下格闘中である」と。「だからこの丸ノ内も遅かれ早かれ襲撃を受けるだろうから、その時は男は総て何かステッキか棒でも持って立向っていただきたい。吾々は不逞人が見えたら直ちにお知らせするから、その時はこの丸ノ内にいる人達はまず一斉に鯨波の声をあげて下さい。そしていかに多くの人数がいるかを知らせて、不逞の輩の気勢を挫くようにして下さい」と避難の人達の間を説き回っている人々もいた。
午後8時頃かと覚えているが、凱旋道路の方面に当って物凄い鬨の声が起った。戦々兢々たる罹災者達は「ソレ来たッ!」とばかりにこれに和して出来る限りの声を張り上げて「ワアーッ」とどなった。全くその時の鯨波の声は物凄いものであった。津波が押し寄せて来る時はかくもあろうかと思われる程で、寄せては退き、退いては寄せ、次第に高調する悲壮な人間の叫び声は大火災を映す赤黒い夜の空にこだました。
これが静まってしばらくすると、日比谷署の警部らしい正服の警官が属僚2、3人を連れて、罹災者の間を縫ってやって来た。「今、大きな声を出したのは誰ですか、愚にもつかぬ流言蜚語にだまされて鬨の声を挙げたのは誰方ですか、不逞の徒が襲うなどということは全く根もない嘘言です。安心して我々を信用して下さい。ここをどこと心得ていますか、宮城前ですぞ。場所柄もわきまえず大声を挙げたりすると、今度からその人を真先に検挙します!」と慰撫ともつかず、警告ともつかぬ注意があった。一同は先刻のが流言蜚語に属する無責任な噂だった事に気が付いて、それからは大分静かになった。こうして9月2日の夜は楠公銅像下に我々一家は露宿の夢を結んだ。
(小西喜兵衛『関東大震災の思ひ出』私家版、1939年)

佐々木
1日には何ともなかったのが、2日目の夜になって不逞鮮人が放火し、井戸に毒を入れる由が盛である、各自警戒しろという貼紙が各警察署長の名前で出ている。警視庁が始めたなという事を思った。日比谷公園では警察署長が触れているのに出会った。3日目に戒厳令が布かれてからは、そんな触れや掲示はなくなった。一旦大衆を煽動しておいて後から戒厳令を布くとのけてしまった。何故こんな根も葉もない事を警察がやるかというと、手前共がいつも鮮人をひどく圧迫して来たために、こういう動乱期には鮮人が何をやるか恐ろしいのだ。
(「震災当時を語る(座談会)」『大衆の友』1932年9日名号→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

清水一雄〔京橋区南小田原町で被災〕
〔地震後すぐに「津波だ!」との流言。日比谷交差点で夜を過ごし、2日午後5時丸ノ内広場で〕多くの巡査が一団となって何事か協議している。そのうちに一人の巡査が我等の所へ来て、「今夜は灯をつけてはなりませんよ。今夜8時、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。お互いに気をつけて下さい」と言った。言は簡単だが、その顔色、その言葉のもの凄さよ。さながら死を決して戦陣に臨むかの趣があった。僕等はすっかり怯え上った。そしてどこと目的地はないながら、大急ぎにここを立った。三宅坂に来ると、交番の前に黒山のように人が集まって、口々にただ一人の巡査に問うていだ。「○○は今何処まで来ていますか?」「青山方面は安全ですか?」「四谷は焼けませんか?」「火事は今どこですか?」「どこが一番安全ですか?」大勢の勝手の質問に巡査は面食らって、ただ「何事もハッキリ分りません」と答えるのみだった。〔略〕仕方なく僕等は三宅坂を上って行った。丁度上り切った所で、幾百人の兵士が騎馬で突進する、砲車が走る、喇叭が鳴る、さながら戦地の光景なるを見た。○○の来襲! いよいよ真実なのかしら?
〔略。2日夜〕僕等は女子学院跡の御料地内に入って一夜を明すことにした。〔略〕「ソレッ! 一人そっちへ行ったぞ! 袴の男だ!」と叫ぶ声がする。「ピリピリッ」と合図の警笛が鳴る。多くの監視はドッと走って行く。間もなく一人の書生らしい男がつかまえられて来た。しかしそれは果して○○であったかどうかは解らなかった。やがて夜は明けた。
(中央商業学校校友会編『九月一日 罹災者手記』三光社、1924年)

志村勇作〔宮城守衛の衛兵所詰めで記録係の任務にあたる〕
〔2日〕午後9、00 皇軍警察より、不逞鮮人約200名青山御所に向って、襲来するとの報告があり。直に歩兵教導連隊長に、右の旨砲兵伝騎を以てす。
午後11、55 賢所衛兵司令に、実弾使用の件通報す。
午後12、05 連隊より軽機関銃到着す。午前0時45分より1時5分まで池田守衛隊司令官の巡察をする。往々、日比谷公園及び二重橋広場方面の、避難民の喧騒甚だし。
(「近衛歩兵の現役中、関東戒厳勤務に服務した」震災記念日に集まる会編『関東大震災体験記』震災記念日に集まる会、1972年)

正力松太郎〔政治家、実業家。当時警視庁官房主事〕
次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。
大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして1日夜ごろから朝鮮人が不穏の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し2、3時間後には何れも確証なしと報告しましたが、2日午後2時ごろ富坂警察署からまたもや不逞鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。
折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。私は直ちに警戒打合せのために司令部に赴き参謀長寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。
その後、不逞鮮人は六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどの報告が大森警察署や品川驚察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。
(正力松太郎『正力松太郎 - 悪戦苦闘』日本図書センター、1999年)

つづく