2009年4月30日木曜日

鎌倉 稲村ケ崎古戦場 十一人塚の碑 コッホの碑 ボート遭難の碑












①稲村ケ崎を望む
②江の島を望む
③④古戦場の石碑
⑤十一人塚の碑
⑥コッホの碑
⑦ボート遭難の碑
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新田義貞の鎌倉攻めについては、「洲崎古戦場跡」のところに記してありますので、下記を参考にしてください。
④はこの時、新田軍の大館宗氏ら11人が、鎌倉軍中に攻め入り、討ち死にしたのを埋葬し霊を弔った場所とのこと。
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「未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ、鎌倉中のさはぎ手足を置所なく、あはてふあめきたる有様たとへていはんかたぞなき。高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てふせぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川にをいて討取、其手引退いて霊山の頂に陣を取、同十八日より廿二日に至るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。・・・」(「梅松論」元弘3年5月18日条)。
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稲村ケ崎から僅かに極楽寺寄りの所にあります。
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⑥は、明治42年、コッホと北里柴三郎が鎌倉を訪れた際、コッホが富士山の眺望にいたく感動したのを記念した碑。(コッホは、日本から帰国してすぐに亡くなった、という事情があるようですが、ちょっと動機が弱い?)
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⑤は、「真白き富士の嶺 緑の江ノ島」で始まる「七里ヶ浜の哀歌」にちなむもの。明治43年1月23日、七里ヶ浜沖合で遭難した逗子開成中学校生徒ら12人が題材。彼らの遺体は、友をかばい、兄は弟をしっかり抱きかかえた姿で発見されたそうです。昭和39年、遭難した徳田兄弟をモデルにして建てられたそうです。
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季節によっては、②の江の島のすこし右側に富士山が見えるそうです。
朝日、夕日なども美しいんではないかと思います。

天文6(1537)年 今川義元、信玄と同盟。北条氏綱、駿河侵攻。[信長4歳]

天文6(1537)年 [信長4歳]
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この年
・教皇、インディアンも人間であり、カトリック信仰を理解する能力を持つと宣言。
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・ラス・カサス、グアテマラの未征服地トゥストゥラで布教開始。スペイン人軍人を同行せず「平和的植民計画」を実施。布教に成功したあと地名をベラパス(真の平和)と改称。
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・~1538年頃、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、新教の盛んなアジャンに赴き、新教傾向のユマニスト、ジュールのセザール・スカリジェやフィリベール・サラザンと親交。迫害されかねなくなり言動を慎む。
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・デンマーク、ルター主義によるデンマーク国教会創設の勅令発布。
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1月1日
・パリ、スコットランド王ジェームズ5世、マドレーヌ (フランソワ1世長女)と結婚。
マドレーヌは、1537年7月7日(スコットランド帰国の数ヶ月後)、結核により没。その後、1538年6月12日ジェームズ5世は、ギーズ公娘マリー・ド・ロレーヌと再婚。1542年12月8日マリーは、メアリー・スチュアートを出産(1542~1587)。
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1月6日
・トスカナ公(フィレンツェ公)アレッサンドロ・デ・メディチ(23)、暗殺。
暗殺者は一族のロレンツィーノ(ロレンザッチオ)・デ・メディチ(22) 。ロレンザッチオはヴェネツィアの反メディチ派亡命者フィリポ・ネッリ・ストロッツィ邸に向う。後、フランス王家に仕える。1548/2/26ヴェネツィアでメディチ刺客により暗殺。
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インノチェンツォ・チボ枢機卿、48人評議会召集。非常大権発動し3日間、司政権掌握。カール5世に皇帝軍派遣を要請。アレッサンドロ遺児ジューリオ(5)を擁立して自ら摂政となる野望。
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フランチェスコ・グイッチャルディーニ、ジローラモ・デッリ・アルビッツィ、フランチェスコ・ヴェットーリなどは、コジモ・デ・メディチ17、1519~1574、位1537~1574)、を推しフィレンツェ帰還を要請。
コジモ母マリーア・サルヴェルティはコジモがフィレンツェ主席たるべきことを説く。48人評議会はコジモを元首に選出。カール5世もコジモを推す。
コジモ、トスカナ大公に即位(半年後、カール5世よりフィレンツェ統領⇒トスカナ大公の称号を与えられる)。
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[コジモ・デ・メディチ(コジモ大公)] 
父はルネサンス最後の傭兵隊長と呼ばれた剛毅な「黒備えジョヴァンニ」(マントヴァ近郊の戦いで重傷を負い、1526年11月30日28歳で没す。ジョヴァンニが生きていたら、半年後のローマ劫略(サッコ)~フィレンツェ劫略(サッコ)の悲惨を嘗めなかったものを、とフィレンツェの人々を悔しがらせたという。
母は、メディチ家と並ぶフィレンツェの名門サルヴィアティ家のマリーア・サルヴィアティ。
父ジョヴァンニの母は、イタリア第一の女と呼ばれたカテリーナ・スフォルツァ。1478年、父ガレアッツォ・マリーア暗殺。1488年、初婚の夫ジローラモ・リアーリオも暗殺。1495年、再婚の夫ジャコモ・フェオもまた暗殺。1498年4月、フィレンツェ共和国大使としてフォルリの駐在するジョヴァンニ・デ・メディチの子を産む。1500年、チェーザレ・ボルジアに決戦を挑み敗れる。
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1月8日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ベネチアに着く。ロヨラと合流。暫くヴェネツィアの病院で働く。
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2月
・議定所の庭園修築。宮家・門跡寺院・公家から自前の庭木や石を徴発。
この頃、幕府は、柳原御所から室町新第(義満が新築した室町第の故地)に新築移転の造営工事を行なっており、禁裏への援助負担の余裕はない。朝廷は、独自ルートで財源捻出する必要に迫られる。
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2月6日
・木下藤吉郎、尾張国愛知郡中々村に誕生(大村由己「関白任官記」、「太閤記」には1536年1月1日とある)。父は織田信秀家臣木下弥右衛門。母はなか。
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2月10日
・甲駿同盟成立

甲斐武田信虎の娘・信玄の姉、駿河今川義元に嫁ぎ今川・武田の同盟成立。今川氏と同盟関係にあった北条氏は敵対関係になる
北条氏綱は、扇谷上杉朝興・武田信虎・今川義元と敵対することになる。
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「此年二月十日、当国屋形(信虎)御息女様、駿河屋形(義元)ノ御上ニナホリ食(メ)サレ候」(「妙法寺記」)。翌天文7年、義元の嫡男氏真を生む。名は伝わっていない。天文19年(1550)6月2日(6月10日説もあり)没。
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前年天文5年7月、武田信玄が転法輪三条公頼の娘と結婚する際、これを斡旋したのは義元する説があり、京都の公家との人脈を持つ義元ならできないことではなく、そうとすれば、同盟は前年から成立していたかも知れない。
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義元の祖父義忠の室は、京都の伊勢氏に繋がる伊勢盛定の娘、父氏親の室は中御門宣胤の娘で、いずれも京都ゆかりの女性であり、京都指向の強い義元が、京都の女性でなく、しかも、少し前まではお互い戦いあっていた間柄の甲斐武田氏から室を迎えるには、それなりの決意があったものと思われる。父氏親が果たせなかった三河進攻の為の背後固めが最優先されたと推測できる。
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武田信虎はこれより本格的に佐久郡攻略を進め、天文9年頃までには、南佐久郡域を攻略、同年5月には北佐久郡に大攻勢をかけ、1日に36城を攻略(「勝山記」)。また11月、諏訪氏の家督を継いだ頼重(頼満の孫)に、晴信の妹を嫁して、同盟を強化。
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2月19日
・パリ、エチエンヌ・ドレに赦免状。ギョーム・ビュデに哀願して王に助命請う。但し、リヨンで投獄。同日、執行猶予で出獄。
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2月26日
・第一次河東一乱。
北條氏綱、駿河河東地方に出陣。駿河吉原まで兵を進め、東駿河の有力国人葛山氏を味方に付ける。救援の為、武田信虎が須走口に出陣。
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甲駿同盟成立が駿相同盟を破綻させ、北条氏と今川氏は富士川を挟んで10年余対立抗争。
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第一次「河東一乱」は、北条方が優勢
北条軍は富士川をこえて興津辺りまで押し寄せ、結局、河東地域を占領し自然休戦となる。
義元側は、前年の花蔵の乱の余波で軍の纏まりがなかったこともあるが、氏綱の巧みな外交戦略(「遠交近攻同盟」)の勝利でもある。氏綱は、遠江・三河の武将たちと手を結び、義元を挟撃する態勢をとる。氏綱は、遠江の見付端(ミツケハ)城の堀越氏延(今川一門の遠江今川氏、今川了俊の後裔)と手を結び、遠江の有力な国人領主井伊氏や、三河の奥平氏にもアプローチする。
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3月10日
・仏フランソワ1世軍、イタリアに侵攻。17日、アルトワに入る。
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4月3日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ロヨラ以外の同志たちとローマに行き教皇パウルス3世に謁見。ロヨラを含む同志全員が司祭叙任。但し、トルコの地中海攻略が始まりエルサレム巡礼は断念。
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4月27日
・扇谷上杉朝興(55)、没。家督は朝定(13)が継承。
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5月
・上総の武田信隆と異母弟信応の家督争い。
信応は真里谷城に拠り小弓公方足利義明と結び、信隆は峰上城・百首城に拠り北条に支援要請。
14日、信隆支持の真里谷一族、新地の天神台城に籠もり、南東に対峙する真里谷城の信応を圧迫。
16日、小弓公方義明、信応支援のため進発、信隆の拠る峰上城を攻撃。北条氏綱は大藤宋永を派遣するが、信隆の籠もる峯上城は陥落、相模へ逃亡。
18日、安房の里見義堯、北条氏を離れ小弓公方義明に応じる。
27日、小弓公方義明、武田信応と信隆を調停。
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5月
・山科言継(31、トキツグ)、従三位に昇叙。父言綱の堂上入りより2年早い。この年公卿入りを果たした同期の仲に、烏丸光康・四辻季遠・西洞院時長・東坊城長淳らがいる。三位昇叙の2日後、左中将から左兵衛督に転任。
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5月13日
・本願寺証如、若狭守護武田元光と通好。
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5月27日
・古河公方晴氏、上総成東城の千葉八郎(千葉昌胤の弟胤定)へ書状による出陣を命じる。
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6月11日
・真里谷武田信隆、鎌倉へ参着、翌日、江ノ島に一宿。
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6月18日
・ニース、フランソワ1世、カール5世、教皇パウルス3世と会見。大綱的休戦条約調印
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6月23日
・北畠具教(伊勢国司晴具卿男)、従五位下に叙位。26日、侍従に任官。
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6月24日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂にて同志とともに司祭に叙階。同志の会の名を「イエズス会」とする。ヴェネツィアとオスマン帝国の戦争の為エルサレムへの船が出ず、聖地巡礼を諦め同志はイタリア各地へ散る。
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6月25日
・元服前の松平広忠(家康の父)、駿府での人質生活から解放され三河岡崎城に入る。
[三河とその周辺の情勢]
この年、今川義元は甲斐武田信虎と結び、後北条氏との関係悪化。北条氏綱が駿河駿東・富士2郡に侵入。手薄になった三河方面に織田信秀の勢力浸透。三河はもと一色氏の守護両国。1440年一色義貫が将軍義教に暗殺され、駿河守護細川持常(庶流)の領国となる。応仁の乱後、細川氏は支配権を手放し、守護勢力は形骸化するが、台頭する国人松平氏の統制力もまだ弱い。
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7月
・ストロッツィ家フィリッポ2世(49、フィリッポ・ストロッツィ)、子のピエロとロベルト・共和国亡命者の一団を率いフランソワ1世支援のもとフィレンツェを攻撃。失敗して捕縛される。
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フィリッポ2世:
1488~1538、フィリッポ1世孫、妻は不運ピエロ娘クラリーチェ(1493~1528)。
1527年(39歳)、反乱首謀者として、メディチ家をフィレンツェより追放。1530年(42)、メディチ家復帰、国外亡命。1537年(49)、フィレンツェ攻撃失敗、捕縛。1538年(50)、拷問を受け獄中死。 
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7月3日
・フランス軍とコジモ軍、モンテムルロ渓谷で激突。ストロッツィ兄弟、バッチオ・ヴァローリ捕縛。フィレンツェでの「亡命派」粛清(1538~40)。1540年だけで500人処刑。
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7月11日
・北条氏綱、武蔵に出陣。
16日、北武蔵の拠点(扇谷上杉氏の本拠)河越城を攻略。扇谷上杉朝定(13)、松山城に後退。
23日、武蔵松山城(埼玉県吉見町、守将難波田憲重)を攻める。
北条氏は武蔵4拠点のうち河越・江戸を押さえる(残りの拠点は松山城・岩槻城)。河越城主には氏綱次男・為昌を入れる。
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7月22日
・「濃州多芸一揆」(「石山本願寺(証如)日記」同日条)。
西美濃山間の多芸郡の福勝寺十日講の一向衆を中心とした一揆、土岐氏と対決。基底に300余の「新道場」をもって(同、天文10年2月8日条)容易に屈せず、本願寺の仲介によりようやく和平を受け入れる。
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8月
・勧修寺家、誓願寺衆僧に宛て、門前の寺庵在家建立を停止する御教書を発給。前年の天文法華の乱で類焼した誓願寺が再建される前に、門前に引接寺再興の勧進所が建てられ、勧進聖の在家も建ち始めたため。
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その後の顛末:
天文8(1539)年11月3日、幕府は引接寺再興許可の奉書を下す。
12月1日、引接寺再建延引決定。
12月24日、誓願寺の諸勧進所及び在家再興を一切停止する幕府奉行人奉書及び細川晴元家臣茨木長隆の添状発給される。
天文11(1542)年9月10日、「誓願寺門前釘貫事件」。茨木長隆、町組小河一町へ釘貫撤去を命じる。
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8月8日
・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、最高法院勤務。
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8月10日
・幕府、六角定頼を近江守護に補任。
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8月25日
・オスマン帝国軍、ヴェネツィア領コルフ島包囲
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9月
・フランス、後の宰相ミシェル・ド・ロピタル、宗教改革運動弾圧担当刑事奉行ジャン・モラン娘と結婚。婚資として最高法院参議官の地位。妻娘は新教に改宗。自身は旧教。
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9月30日
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェニス・ヴィヴァロロの聖ペトロの教会で初ミサ。
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10月
・公家三条西実隆(83)、没。
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・管領代茨木長隆、山城北野・西京地下中に対し北野社経王堂の破壊を禁じ、材木を運び出す輩は見つけ次第注進するよう命じる。日蓮宗以外の一般寺院の門前検断権の衰退に乗じて管領代の圧力強化
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10月 
・フランシスコ・ザビエル(31)、ヴェニスの不治の病の人達のいる病院で働く。秋以降、「イエズス・キリストの伴侶」の意味で「イエズス会」の会名が選ばれる。単にカトリック教会内部の粛正運動だけでなく、宗教改革運動に対する防壁としての役割。
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10月12日
・英、ヘンリ8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア、(待望の)王子エドワード(後の6世)出産。24日ジェーン・シーモア、没。人々はアン・ブーリンの祟りと噂。
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10月21日
・武田信虎、冷泉為和を甲斐府中に招いて、歌会を催す。この年、御宿監物が武田氏に内通。
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11月
・尼子経久(80)、家督を孫(晴久、23)にゆずる。
尼子晴久、祖父経久に代わって当主となる。毛利元就の郡山城攻略をもくろんで南下作戦を加速。防戦一方となった元就は、援助を乞うために大内氏寄りを一層鮮明にしていく。 
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11月3日
・足利義昭(第15代将軍)、誕生。
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11月12日
・本願寺証如(光教)、六角定頼と和睦。
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12月1日
・毛利元就、嫡子隆元を大内義隆に人質として送る。19日、隆元、元服。天文9年まで山口に滞在。
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12月6日
・京都知恩院の惣門が再興(「石山本願寺日記」)。
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to be continued

2009年4月28日火曜日

横浜 神奈川奉行所跡 日本ガス灯発祥地







JR「桜木町駅」から、みなとみらい側とは反対方向に、横浜能楽堂や掃部山公園方面に向かう、音楽通り~紅葉坂を上ります。
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①②神奈川奉行所跡(紅葉坂)
③ガス灯発祥地(音楽通り)
④金星太陽面経過観測記念碑(紅葉坂)
⑤神奈川運上所跡(これは①~④とは異なり、神奈川県庁敷地内)
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「神奈川奉行所跡案内板」
 横浜開港にともない安政六年(1859)6月4日、開港場建設の事務に当たった外国奉行酒井忠行・水野忠徳・村垣範正・堀利熙・加藤則著の5名に神奈川奉行兼帯の命があり、青木町(神奈川区)に会所、戸部村宮ヶ崎(西区)に奉行役所を置き、また横浜村(中区)の中央に運上所を置いて事務を執りました。この地にあった奉行役所は戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では、関税及び外務全般の事務を取り扱いました。万延元年(1860)神奈川奉行は専任となり、松平康直・都筑峰暉が任命されました。 
 明治元年(1868)3月、明治政府は新たに横浜裁判所を置きましたが、4月神奈川裁判所と改め、これを2つに分け横浜裁判所・戸部裁判所とし、運上所並びに戸部役所の業務を引き継ぎ、神奈川奉行所は廃止されました。その後、明治3年、神奈川県庁と改称されました。
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・・・ということで、⑤に「運上所」を加えました。
背景にあるのは、神奈川県庁(昭和3年建造)。
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神奈川奉行所跡
*神奈川奉行所跡碑
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③ガス灯発祥地。
高島嘉衛門という豪商が、明治5年(1872)9月1日、伊勢山下石炭蔵跡(現、本町小学校辺り)に横浜瓦斯会社を創立し、同年9月29日、日本初のガス灯が、横浜大江橋(桜木町近くの橋)~馬車道・本町通界隈に設置されたことに由来します。
この高島嘉衛門というひと、「高島易断」の創始者でもあるそうです。
詳しくは、Wikiを見て下さい。興味を引く方です。
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ガス灯発祥地
*ガス灯発祥地
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④金星太陽面経過観測記念碑。
金星が太陽の前面を通過するという珍しい現象(日面経過)が明治7年(1874)12月9日に起きた。日本はこの観測の最適地であったため世界各国から大勢の天文学者が渡来し、横浜、神戸、長崎などに大規模な観測陣がしかれ、横浜では、コバルビアスを隊長とするメキシコ隊が、宮崎町に観天場を設け観測にあたった。この観測100年を記念した碑。
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「★横浜インデックス」をご参照下さい。
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明治17(1884)年11月1日(3) 秩父困民党、小鹿野を占領す

■明治17(1884)年11月1日(3)
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・午後8時
総理田代栄助、出陣下知。半鐘を鳴らし、竹法螺を吹き、閧を揚げ、西南戦争にならって「新政厚徳」の大旗を立て、甲乙丙大隊に別れ、繰り出す。
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甲隊(副総理加藤織平、大隊長新井周三郎、大野苗吉・坂本宗作・井上伝蔵指揮)1,500、吉田川を遡る方向をとる。下吉田村・井上耕地の高利貸吉川宮次郎宅を焼き討ち。
本隊は吉田川を渡り、巣掛峠を越えて小鹿野を目指し、坂本宗作指揮の隊150はそのまま吉田川を遡り日尾村方面駆り出しを行う(宗作は役割表では伝令使だが、影の参謀長ともゲリラ隊長ともいえる働き。自分の戒名を書いた白鉢巻。後、死刑)。
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吉川宮次郎宅襲撃について。
まず新井周三郎が踏み込んで、「貸金四十年賦ニスルヤ否ヤ、若シ年賦ニセザレパ焼払フガ如何哉」と迫る。吉川は、「仮令焼払フトモ年賦ニハナラヌ」ときっぱり拒否。周三郎は、「焼払へ」と周囲の者に命じる。放火に先立ち「瓦礫等ヲ家内へ投入レテ」日頃の鬱憤を晴らす者もいる(「引間元吉訊問調書」)。
上吉田村では戸長役場を襲い、「地所売買譲渡公証割印帳」4冊と「地所質入書入公証割印帳」16冊を焼く。
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新井貞吉(小板橋禎吉、のち死刑)ら上州勢第4陣9名、小鹿坂峠で蜂起軍主力に追いつく。
貞吉は引続き1日も、「マダ風邪ガ全快セズ、六三トカ云フ病ニテ左ノ手ガ痛ミ伸ビザル程」だったので、村の小柏山養明寺住職の祈祷を頼みに行く。そこに若者3人が中食をとっており、挨拶すると、その3人は北甘楽郡天引村の古館市蔵、白倉村の竹内嘉市、秩父郡下日野沢村の新井牧次郎(新井蒔蔵)ということで、初対面であったが、相手はこちらを知っていて「オ前サンガ貞サンデ御座ルカ」と云い、「秩父ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルモ今日ニテ、既二今夜ハ大宮郷へ入込ム日ナレバ、御前モ是非同道シテ呉レロ」と強く誘われる。
貞吉は「六三ノ祈祷ヲ頼ミニ参ル程故腕モ利カズ難渋」していると言って断るが、「達テ」と強請され同道することになる。
一行は村の者4名を加え、午後1時頃出発、夜中12時秩父郡石間村加藤織平宅に立寄り夕食をとり、新井蒔蔵は自宅へ刀を取りに行こうとするが、「モウ家へ行ッタトテ何モアリマスマイ、皆繰出シテ刀ヤ何力皆持出シタ様子ダ」と忠告され諦めて、直ちに蜂起軍主力の後を追い、小鹿坂峠で追いつく(「新井貞吉訊問調書」)。
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乙隊(総理田代栄助、大隊長飯塚森蔵、落合寅市指揮)1,000余は南の小鹿野町へ進軍。銃砲隊長新井悌次郎(石間村、44)率いる銃手30余が先鋒。
下小鹿野村信濃石の高利貸平喜十郎宅を襲う。家人は逃げて「空家同様」なので放火、火は隣家の住宅・物置。
11時30分、小鹿野警察分署には警官はいなくこれを襲撃。ついで、甲隊も合流し高利貸7軒放火・打壊し。小鹿野占領
この間、高岸善吉の隊は三山村から河原沢へ長駆駆り出し。
宮川寅次郎の隊は薄村~小森村へ、長駆、贄川・白久方面に駆け抜ける(困民軍は多数の両神村困民を巻き込んで更に増殖する)。
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□小鹿野襲撃の詳細
まず、下小鹿野コースをとった田代栄助の隊が突入。
「十一月一日午後十一時三十分、下小鹿野村ノ方ニ当り鯨浪声響クト均シク、暴徒大凡三百人余り押シ来り、百余挺ノ猟銃ヲ以テ警察分署ヲ取巻、一斉ニ発砲シ、椅子時計ヲ毀シ、書類ヲ焼ク」(「宮下米三郎謄本及御届書」)。
次いで加藤織平の隊が反対方面から突入。
「又、一部ノ暴徒西ノ方ヨリ四百人余鯨浪声卜共二襲来シ、上原町ニ込入、猟銃凡ソ百挺程一声ニ放チ町内ニ押入、槍刀ニテ雨戸ヲ突キ貫キ暴威ヲ示シ「戸ヲ明ケザレパ放火スル」ト声々ニ呼ル、暴徒ハ白キ木綿ヲ以テ鉢巻及襷トナシ、何々組ト書タル木綿ノ旗ヲ立テ、法螺貝ヲ吹キ、抜刀、鎗・薙刀及竹槍ヲ携へ」(「同」)。
警察分署の次に高利貨を襲撃。
「中田賢三郎ヲ放火シ、柴崎佐平・加藤恒吉・柴崎得祐・磯田縫次郎・坂本徳松・丸山篤重郎宅ヲ毀ス、総テ同時ナリ」(「同」)。上目野沢村の河野武七(57)は、日頃の怨念を晴らすのはこの時とばかり、柴崎佐平(「山二」)の店と座敷を、火縄銃をふるって打ち毀す(「河野武七訊問調書」)。
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甲乙両隊に遅れて高岸善吉指揮隊が、「東西北ノ三方ヨリ」(「秩父暴動被害渚村概況 小鹿野町」)突入。
新井周三郎尋問調書では、「下吉田村ノ椋神社ニ集合シ、此処ニテ総勢三千人以上モアル者ヲ三隊ニ分チ、風布村平民大野苗吉ハ自分卜両人相持ニテ甲ノ隊長トナリ、石間村平民落合寅市ハ乙ノ隊長トナリ、上吉田村平民高岸善吉ハ丙ノ隊長トナリ、某日即十一月一日夕方三隊共小鹿野町へ乱入シ」という。
高岸善吉の説明では、「自分ハ間道ヨリ人数ヲ連レ岡野(小鹿野)ニ至ルニ田代ハ先ニ参り居り」とある(「高岸善吉訊問調書」)。
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勢いに乗った困民軍は、打ちこわした高利貸の柴崎佐平・加藤恒吉宅をも放火しようとするが、近所の者が「悲声ヲ発シ災害ヲ免レン事ヲ」訴えたので、これは取り止める。
高利貸襲撃後、困民軍は商家から白木綿を奪い襷・鉢巻を作り、また古道具屋から槍・刀・薙刀を奪い武装を強化する(「桧山省吾記小鹿野町ニ暴徒乱入ノ状況」)。
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・午後10時
皆野に集結の警察官は70余。江夏警部長は県庁笹田参事官宛に県下全警官の出動要請。(憲兵隊派遣を内務卿に申請するよう県令に電報で要請し、1警部を報告の為に県に送る。2日午前2時、寄居から電報を打つ)
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・午後10時20分
鈴木巡査ら、本庄経由藤岡へ急行せよとの命令受ける。翌朝7時、藤岡着。山県・柱野警部指揮で秩父に向う。
*
・夜、柳原正男の脱落
大隊長新井周三郎から携帯武器が短刀・竹槍だけなのを咎められる。初期から指導的立場にいながら、後からきた幹部に傷つけられたため。12月4日東京で禊教祖井上祐鉄に付き添われ千住警察に自首。上吉田村女形出身。山林集会では拘留の経験あり、大宮郷治安裁判所と高利貸との関係釈明を求めたり、風布村オルグとしても活躍。この日も阿熊の警官隊を襲撃、サーベル・制帽を奪う。
*
[詳細経緯]
甲大隊長新井周三郎、柳原正男を叱咤。
「サテ小鹿野ニ参り候処、新井周三郎ニ出逢ヒタリ。シカルニ自分ハ短刀卜竹槍ノミヲ持ツテ居タルニツキ、周三郎大イニ怒り、貴様ハ何ラノ不心得ゾヤ、ト申シ候ニツキ、飯田村ノ新井甚作ニ乞フテ六尺バカリノ手槍ヲ借り受ケ、コレヲ提ゲ居タルモ周三郎ノ隙ヲミテコレヲ棄テタリ。」(柳原正男の証言)。
2日朝、小鹿野町と上吉田村の間の巣掛峠に行き、夕方まで昼寝。夕方、小鹿野町に戻り、3日朝、自宅に帰り、饂飩粉一斗を団子にして持ち、近くの山に10日程潜伏。身の危険を感じ、山伝いに群馬県~東京に行き、12月4日自首。
「大宮郷ノ田代栄助卜云フ者ガ総理トカ申シ候得テ、自分ハ面会不致・・・博徒ガ追々人ヲ集メ、既ニ暴挙ニモ及バントスル景況有之、穏便ニ県庁迄出頭シ歎願スルコトハ到底不行届、此地ニ居り博徒等卜同一視サレテハ一大事卜心得」と脱落の動機を語る。
困民党に加った動機。
「四年据置キ四十ケ年賦ニ致サバ貧民大ニ活路ヲ得、サモナクバ貧民ハ益窮シ、此先餓死スルノ外無之、等閑スルニ忍ビズ」と述べる。
山林集会では、駆け付けた警官に抗弁して拘留されたことがあり、集団による対高利交渉において、大宮郷治安裁判所裁判官と高利貸との黒い噂をきくと、大衆を率い裁判所に押しかけてその釈明を求め、蜂起直前にはオルグとして風布村に派遣され、その蜂起を指導。
*
11月1日
・「郵便報知新聞」上海駐在特派員尾崎行雄の「特別通信」。
「今日の勢を以て推せば台湾島は到底清国の有に非ざるが如し。仏国之を取らざるも必ず他国の取る所と為る可く、之を取る者は東海を控御して非常の勢力を東方亜細亜に有するに至るぺし。台湾島の取捨は我が政治家の決して等閑視す可らざる所に御座候」。
この頃、政府部内でも駐露公使花房義質清仏対立の機を利用して台湾占領すべきと論じる
*
11月1日
・社説「日本ハ東洋国タルべカラズ」(「時事新報」3回掲載)。執筆者は在ロンドンの松浦生こと日原昌三。
欧亜の区別は「天然の地形」によらず、「社会全般人為ノ有様」による。欧米人にいじめられてもアジアにいるから如何ともしがたいとか、清国のような惰弱な国と国運を共にしなければならないとかいう理屈はない。
「或人ガ興亜会ナルモノヲ設ケタルハ日本人ノ馬鹿律義ニ出デタルモノニテ自ラ好ンデ其位置ヲ損スルモノト云フべシ。余ハ興亜会ニ反シテ脱亜会ノ設立ヲ希望スル者ナリ」。今後謀るべきことは「亜細亜ヲ脱シテ欧羅巴ノ仲間ニ入ルコトナリ」。
翌年3月発表の福沢「脱亜論」の先駆をなす。
*
to be continued

2009年4月25日土曜日

April showers











昨夜からの雨が、今日は一日中降りやまない。
庭の花たちにしばらくは水をやらなくて済むなァとか、折角刈り込んだ垣根の木がまた伸びるなァとか、二日酔いのボケ頭でぼんやり考えていたら、ふと「April showers」を思い出した。
*
イギリスの歳時記に、
March winds and April showers Bring forth May flowers.
(三月の風と四月のにわか雨が、五月の花を咲かせる)
というのがあるそうだ。
マザーグースの一節にも用いられているとか。
*
陰鬱で長い冬が終わり、5月に一気に花が咲くその季節感から来ているんでしょう。
*
昔、5月をはさんで3ヶ月ほどイギリスにいたことを思い出した。確かに、5~6月は突き抜けるような晴天が続いていた。
*
日本でも、これは同じで、「穀雨」というそうです。以下、Wikiを借用。
「穀雨(こくう)は、二十四節気の1つ。4月20日ごろ。および、この日から立夏までの期間。
太陽黄経が30度のときで、田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ。三月中。
穀雨とは、穀物の成長を助ける雨のことである。暦便覧には「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されている。
穀雨の終わりごろに八十八夜がある。」
*
回顧モードに入ってしまうが、高校時代の英語の教科書にTSエリオットの難解な詩「荒地」があったのを、連想的に思い出した。もっとも覚えていたのは冒頭の一行だけで、しかもワーズワースの詩だとばかり思っていたが(ワーズワースにしては「暗い」なと、不思議でしたが)。
*
April is the cruelest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
With a shower of rain; we stopped in the colonnade
And went on in sunlight, into the Hofgarten,
And drank coffee, and talked for an hour.
Bin gar keine Russin, stamm' aus Litauen, echt deutsch.
And when we were children, staying at the arch-duke's,
My cousin's, he took me out on a sled,
And I was frightened. He said, Marie,
Marie, hold on tight. And down we went.
In the mountains, there you feel free.
I read, much of the night, and go south in winter.
・・・
*
(西脇順三郎 訳)
四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
冬は人を温かくかくまってくれた。
地面を雪で忘却の中に被い
ひからびた球根で短い生命を養い。
シュタルンベルガ・ゼー湖の向うから
夏が夕立をつれて急に襲って来た。
僕たちは廻廊で雨宿りをして
日が出てから公園に行ってコーヒーを
飲んで一時間ほど話した。
「あたしはロシア人ではありません
リトゥアニア出の立派なドイツ人です」
子供の時、いとこになる大公の家に
滞在(とま)っていた頃大公はあたしを橇に
のせて遊びに出かけたが怖かった。
マリーア、マリーア、しっかりつかまって
と彼は言った。そして滑っておりた。
あの山の中にいるとのんびりした気分になれます、
夜は大がい本を読み冬になると南へ行きます
・・・
*
教師がどういう解釈をしたかは全く忘れましたが、この詩は春よりは冬がいい、と言っているのはたしかだ。
春を、浮かれた世の中、文明的なるもの、現代社会、に喩えたのか?どうか?
*
写真は、我が家から徒歩圏内の今日の風景。

2009年4月24日金曜日

東京駅 浜口雄幸首相襲撃現場




昭和5(1930)年11月14日、浜口雄幸首相が右翼の佐郷屋留雄(23歳、ロンドン軍縮反対の愛国社(岩田愛之助主宰))に狙撃され重傷を負った現場。
当時の軍部・右翼の常套句は、「統帥権干犯」。
*
現場は当時の4番ホームで、今はなく、現場の直下に当たる中央コンコース(新幹線中央乗換口辺り)の床にマークがあります。
また、壁にはプレートがある筈ですが、現在駅全体が改修中で壁も工事準備のために覆われており、発見できず。
また、丸の内南口には原首相襲撃現場のプレートがある筈ですが、これも同様理由により発見できず。
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佐郷屋留雄は、死刑判決ののち、恩赦で無期懲役となり15年で仮出獄。その後、岩田愛之助の娘婿となり、敗戦後も右翼活動を継続。
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翌昭和6年3月9日、浜口首相は、おぼつかない足取りで参内、10日から登院を伏奏。この日、幣原臨時首相代理解任。10日、初登院。
この浜口の復帰により、宇垣を戴く軍部クーデタ計画実行(大川周明画策の3月事件、20日発覚)は潰える。
しかし、浜口の容体は悪化し、4月4日には再入院。13日総辞職、14日第2次若槻禮次郎内閣成立となる。
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その4ヶ月後の8月26日、浜口、没(62歳)。

1871年4月4日 デュヴァル銃殺 マルセイユ・コミューン崩壊 パリ・コミューン(14)

■1871(明治4)年4月4日
・日本、「戸籍法」制定・公布。民部省起案。翌5年2月~実施。壬申戸籍。明治6年3月、全国の戸籍簿3万1千冊が完成。
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市街地で4~5町、村部で7~8村を基準に区を設け、戸籍事務を行う為に戸長を置く。
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[福井藩の例]
6月、福井藩は、村方の郷を区に改め、郷長を戸長とし、里長を廃止。
また、同法では、士族卒農工商の別なく居住地の順に戸籍編制する為、福井城下は、町方12区と士族卒の町を合わせ、新たに8区に編制。これにより3人の坊長が戸長と改称され、族長が廃されて新たに5人の士族戸長が任命される。武生・三国の市街地も夫々1区となり、福井藩は16区16戸長となる。
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4月4日 パリ 
・砲・食糧もなく、コミューン軍は退却。
デュヴァルはヴェルサイユ軍の捕虜となり、ヴェルサイユ軍総司令官ヴィノアの命令でその面前で銃殺。ティエール軍はシャティヨンとクラマールを占領。捕虜虐殺
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[経緯] 
ヴェルサイユ側ヴィノワ将軍はヴェルジェ師団の1旅団を、ムードンのファロン将軍への増強部隊として派遣。
ペショ旅団は、ペレ師団・デロージャ旅団に支援のもとにシャティオン保塁を攻撃。ペショ旅団第70混成連隊が正面に殺到し、側面のデロージャの第109連隊は連盟軍の背後に回る。ペレ将軍が生命を保証する投降勧告を出し、午後5時頃、保塁守備隊は降伏。
ヴェルサイユへの連行途中、ヴィノア将軍は将校全員の射殺を命令。
護送部隊長が、投降の際に助命の約束を与えたことを述べると、ヴィノアは、「指揮官は誰か?」と尋ねる。デュヴァルが名乗り出て、次いでデュヴァルの参謀長と義勇兵指揮官が名乗り出るヴィノアの命令により、デュヴァルと将校2名は銃殺処刑される。
* 
ヴェルサイユでは、官吏やその家族、社交界の貴婦人たちが道路にとび出し、捕虜に対して、唾を吐きかけ、拳骨や棒や日傘で殴りつけ、捕虜の帽子や上衣を剥ぎとり、「人殺し!」 「ギロチンへ送れ!」などと叫ぶ。
捕虜たちはサトリーの軍用倉庫に投げ込まれる。
捕虜の証言。「最後にわれわれはサトリーへ連行され、千六百八十五人の者がそこの軍用倉庫におしこめられた。疲労と飢餓でへトへトであったが、狭い所にぎっしりつめられ、横になる場所もなく、二日二晩立ったままで、ときどき交代で湿った藁の上に横になるだけであった。ロに入れるものといっては、パンと、番兵がその辺のどぶ池からすくってくる臭い水だけであった。」。
* 
多くの捕虜処刑の証言。
ある警察隊将校は殺された5人の国民軍兵士の死体を見たと言い、別のひとりは、ヴェルサイユへの行進を拒んだ18人の捕虜が射殺されたと伝える。
ガリフェ将軍はシャトゥーの広場で連盟兵を銃殺し、住民たちに向かって、「戦争はパリの悪党どもによって宣せられた・・・昨日、一昨日、今日、彼らは私の部下を殺した。・・・私がこの暗殺者たちに宣するのは、休戦も慈悲もない戦争である・・・今朝私は手本を示さねはならなかった。」と宣言。
* 
・ヴァンヴとイッシーの要塞は、デロジャおよびラ・マリウーズ将軍の軍隊を撃退。
* 
・コミューン、国民軍経理部を、国民軍中央委員会管轄下に移譲する決定。
* 
・軍事代表委員クリュズレ将軍が総司令官(桂圭男著書では「総司令官格の「陸軍省代表」」)になる。衛兵、特に司令部再組織を望む。
歩兵中隊創設。
ドンプロウスキー(1838~71年、旧ポーランド士官、フランスに亡命)、ウロプレスキーラ・セシリアなど優秀な将校を補佐役に据える。
17~25歳の独身男子市民を召集(重大な過失。確信を持つ古い革命家を除外することになる。中小ブルジョアジーの服役忌避者・逃亡者を発生させる)。
コミューン軍の完全な再編成ができるまで防禦態勢に留まる事を望む。
軍隊移動はパリ防塞地区指揮官ベルジュレ将軍命によってのみ行われると決定。
コミューン砲艦隊指揮官、水兵達に勤務につけとアピール。
* 
[その後の総司令官の異動]
4月末、クリュズレはその無能さによって、罷免され逮捕される。後任はクリュズレの参謀長ロセル。しかし、ロセルは元職業軍人ということで猜疑の目で見られ就任後10日で罷免され、老革命家ドレクリューズに代る。ドレクリューズは民衆に尊敬される人物であるが軍事的は素人。
* 
・パリで「調停派」が再び活動、パリ権利擁護共和主義同盟を組織(国民議会から離脱した議員3名、パリに残る区長若干、その他自由主義者若干)。
*
彼らは議会とティエールの責任を確認。各地(パリと地方)で民主主義的・非宗教的共和政を求める請願や声明の署名が行なわれ、内戦終結が要求される。
* 
「内乱を避けることはついに不可能であった。
パリの権利を承認しようとしないヴェルサイユ国民議会の態度が、運命的に流血を不可避ならしめた。今日となっては、すべての市民を死物狂いにさせている闘争がその運命的結果として、共和制とわれわれの自由の喪失をともなわないように努力することが肝腎である。
それで大多数のパリ市民を一つの考えによって統一する明確な綱領を作成して、理解の混乱と努力の分裂を防ぐ必要がある
・・・われわれは次の綱領を採用した、それは、われわれの確信によれば、パリ市民の欲するところを表現したものである。
すなわち共和制の承認、良心の自由と警察・財政・厚生・教育の自治管理をともなう、自由に選挙された市会によるパリの自治的権利の承認がそれである。パリの警備は、兵役の能力あるすべての選挙人によって構成された国民衛兵のみに委ねられるであろう。」。
最後に、和解達成の為の精力的な努力の必要を強調し、それのみが和平を回復し、共和制を救い得るであろうと結ぶ。
* 
・フルーランス、デュバル虐殺の報復として、パリ大司教ダルボア、マドレーヌ教会司祭ドゲリーその他の司祭や僧侶を人質として逮捕。保安委員会、反動新聞3紙を発行停止。
* 
・パリ第3区区長、学校・軍隊に対し、16~20歳の青年の中から、体操教師養成の特別無料学校開校を公告。
* 
・パリに少女用職業学校を開講。職業教育とともに、将来の手工業婦人の一般教育も予定する。
* 
・パリ~ヴェルサイユ間の鉄道その他一切の交通断絶。
* 
・コミューン兵士、イエズス会経営サント・ジュヌヴィエーヴ学校攻撃。神父8・修士4・使用人7名を留置。教会は、パンテオン(偉人たちの記念殿堂)となる。
* 
校長デュクードレ神父はコンシェルジュの独房に、他のものは拘置所の大部屋に入れられる。6日に彼らはコンシェルジュからマザの監獄に移される。彼らと共に移動させられた人質にはパり大司教ダルポワ、元議長ボンジャンら民間人も多い。13日にはセーヴル通りのイエズス会本部で捕えられたイエズス会員も連行される。4月初めに始まった人質逮捕は5月に入っても続く。
* 
・連盟兵捕虜、ヴェルサイユに到着、中に世界的に有名な地理学者エリゼ・ルクリュがいる。捕虜への侮辱。
* 
マルセイユ・コミューン崩壊
マルセイユでは、この日早朝、政府軍が、市内に突入、人民のデモへ発砲。市街でバリケード戦。県庁奪回。マルセイユ・コミューン崩壊。コミューン戦士の大量逮捕と銃殺。
* 
▽[マルセイユ・コミューンの経緯] 
マルセイユの3月23日のコミューンは、マルセイユ地区の露天鉱における1867、68年の大ストライキ、1870年8月8日の暴動など先立つ運動と考えあわせる必要がある。
* 
1870年8月8日、「先進的」共和主義者ガストン・クレミューが指導し群集が市庁舎を占拠、コミューン成立。
しかし、勢力を回復した警察が、にわかに消極的になった群集を追い散らし、クレミューと彼の仲間は見捨てられ降伏。
9月5日、労働者が市民衛兵3個中隊を編成、市民衛兵は、「正式の」市や県に対して、第2の権力、蜂起の常備兵力を代表する。
9日マルセイユのアルハンブラ公会堂において、無政府主義的傾向のインターナショナル派パステリカが、南仏統治の組織と、労働者を支柱とする国民総動員と人民武装を命ずる地方執政府の組織を要求。
28日、南仏同盟は最初の会合を開き、この計画を支持。
以後、数ヶ月間、マルセイユは殆ど自立的な政府、国家の中の国家を持つことになる。
最も積極的なメンバーは、1793年の意味での公安委員会への道を、南仏同盟(革命的コミューン)としてのこの連合体の中に中に見出す。
11月1日、革命的コミューンを宣言。ガンベッタは中央集権主義者としてそれに抵抗し、特別行政官をマルセイユに任命。市民衛兵と国民衛兵の正面きっての戦い(内戦)が勃発しようとする3日、市民衛兵は、勝利の確信がなく屈服。
9月5日以後占拠している県庁を明け渡し、最初のマルセイユ・コミューンは瓦解し、社会主義的傾向をもつ南仏同盟(ガンべッタはフランス南東部の知事たちに宛てた回状の中で非合法であると声明する)も消滅。
* 
この年1871年3月22日夜、ガストン・クレミューは聴衆1千人超に対しヴェルサイユを激しく非難。「諸君、家に帰り、諸君の銃を取りたまえ。攻撃のためではなく、諸君の身を護るために・・・」。
知事、市長、駐屯部隊司令官エスピヴァン将軍は、衛兵の「善良分子」による一大示威運動を計画し、23日朝、太鼓で召集を告げるが、秩序派国民衛兵は集結せず、アンドゥームとラ・ベル=ド=メー地区の衛兵が大勢駆け付ける。
10時~12時、ベルズュンス散歩道に、ガリパルディー派、市民衛兵、義勇兵などが民衆の大隊に加わる。
午後、大群集が「パリ万歳」を叫び県庁に乱入、プーシュ=デュ=ローヌ県知事コニエ提督を逮捕。クレミュー、靴屋マリエル、人足エチエンヌ、組立工ギラールら委員6人からなる委員会設置され、やがて委員の数は市議会・国民衛兵クラブの代表者を加え12人に達し、委員会は地方権力を掌握する。
委員会は、マルセイユにおいて、全市民は自ら自治を行ない、市民の地域的関心は県或いは地方(レジヨン)にまで拡大される、と宣言。
* 
マルセイユ・コミューンの運命はパリ・コミューンの運命のパロディーとなり、その縮図的な予告となる。
クレミュー指導する委員会は、県議会でもあるコミューン議会を普通選挙で選ぶことによって、また、知事の職務を果す市長と県の軍事的指揮権をもつ衛兵連隊長を任命することによって、委員会の地位を早く正常化しようと望む。
「われわれは、コミューンの自治と共に、行政の地方分権化を望む」という布告が出されるが、この声明も「単一不可分の共和国万歳!」という呼びかけで終る。
委員会は、2、3日間、市行政を担当しようとして、市中に溢れる東部方面軍の敗残兵、義勇兵、遊動隊、ガリパルディー派、ポーランド人志願兵などの軍隊の問題に専念する。
この間、エスピヴァン将軍はティエールを真似て、信頼のおける軍隊と、彼に従う官僚を、郊外のオバーニュの町に撤退させ、反撃の準備をする
市当局は和解を画策し、人々は混乱する。
27日、市当局の代表者が委員会から退き、委員会の孤立が深まる。
28日、パリのコミューン代表者がに到着するが状況立て直しできず。パリのコミューン代表はクレミューを攻撃し、クレミューは委員会から退く。しかし彼らは、衛兵大隊を整理したり、街頭に分散している兵士を集結させることさえせず、4月5日の選挙を告示するだけで満足している。
* 
選挙は4月5日午後6時実施のため、エスピヴァン将軍は「クーロンヌ号」「マニャニーム号」乗員と指揮下の全軍隊を結集させ、4日、マルセイユを砲撃。
しかし、兵士たちは、黒旗を先頭にした非武装デモ隊が、「パリ万歳」と叫びながら進むのに出会うと、砲兵や、空砲の他に2発発射したばかりの大砲と共に、群衆に引きずられて行く。
エスピヴァンは反対側のサン・ニコラ要塞から、コミューンの拠点県庁を砲撃
ランデック、メジー、カンレ・ド・タイヤックらパリの代表委員はガストン・クレミューと共にエスピヴァンに会い、無防備の人々への殺戮に抗議すると、エスピヴァンは、部下の反対を押し切り、ガストン・クレミューとパリの代表委員たちを逮捕。しかし、すぐに釈放されるや、「コミューン万歳!」と叫び、群衆や、人民と交歓する兵士の間を通って立ち去る。
エスピヴァンは反動派や猟兵を窓の背後に隠れさせておき、サン・ニコラ要塞の大砲に掩護させ、7時間にわたり銃撃戦を展開。夕方、水兵たちは守備隊が放棄した県庁を占領。正規軍側損害、死者30・負傷者50。反乱側犠牲者150超(砲撃による犠牲者、その場で銃殺された人を除く)。
*
5日、エスピヴァン将軍は、麾下部隊と市中を行進し、「キリスト万歳!」「サクレ=クール万歳!」を叫んでノートルダム・ド・ラ・ガルドに参詣。冷たい野次が彼を迎える。
*
エスピヴァンからヴェルサイユへの報告。
「一八七一年四月五日、マルセイユ。
師団長より陸軍大臣へ。
本官は麾下の軍隊を率い、かくかくたる勝利をもってマルセイユ市への入城を飾りました。本官は大いなる歓呼をもって迎えられました。
司令部は現在、県庁におかれています。革命委員会の代表委員たちは昨日朝、個々に町を退去しました。
エックスの裁判所の検事総長は、本官のもっとも献身的なる協力者でありますが、フランス全土にわたり拘引状を発しております。われわれは五百人を捕虜としました。本官はこれらの者をシャトー・ディフに送りこみます。
現在マルセイユは完全に平静であります。 エスピヴァン将軍」
* 
マルセイユの蜂起を支持する運動やその反響。
4月4日、労働者パルパルーによるエックスにおける蜂起の企て、5月ドラギニァンに短命のコミューンを引きおこすヴァール県の革命的動揺など。
* 
リモージュ、ヴェルサイユ政府支援の軍隊派遣に対し労働者たちが蜂起。コミューン宣言の試み、弾圧
* 
この日、この地に駐屯の戦列歩兵連隊がヴェルサイユ軍増強の為に出動命令をうける。彼らを駅まで送った群衆は、パリの殺戮に加わらないよう兵士たちに誓わせ、彼らはこれを誓い、人々に武器を渡し兵営に引き返す。兵営では、将校の前で町中が兵士たちに喝采を送る。
しかし、当局側は市庁舎に集まり、市長が弾圧に乗り出す。市長は胸甲騎兵に、服従拒否の分遣隊掌握と群衆鎮圧を命じ、戦閥が始まる。
結果、秩序派は武力で勝利。但し、胸甲騎兵の連隊長・中隊長が死亡。
* 
リモージュの労働組合は、パリのコミューン成立後、代表をパリに送り、コミューン委員のリモージュへの派遣を希望するが、コミューン執行委員会は、それは不可能と回答。
パリのコミューン指導者には運動を全国的規模に展開する計画も熱意もない
* 
パリの革命に呼応して起った地方都市の運動は、分権的コミューンを信奉する急進主義にのめりこみ、ブルジョア国家権力の反撃を許し、4月初め迄に、ティエールの思惑通りに、パリは地方から遮断され、孤立する
*
to be continued
*

2009年4月23日木曜日

横浜 金沢八景 明治憲法起草の碑









先日、称名寺に行ったついでに立ち寄ったところです。
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①②③「明治憲法起草の碑」。
明治憲法の政府(伊藤博文)草案は、通称「夏島草案」と呼ばれてまして、私も伊藤博文の夏島別荘で仕上げられたと思ってましたが、③にあるように初めはこの相州金沢の料亭「東屋」で作業が始まったそうです。
明治20年6月から、伊東巳代治・金子堅太郎は「東屋」に泊り、伊藤博文は夏島別荘から、井上毅は野島旅館から通い、この「東屋」においてドイツ人顧問ロエスレルの意見書、伊藤らのドイツにおける講義筆記などをベースに検討を開始しました。ところが、8月6日夜、機密書類の入った行李が盗まれ、翌日発見されましたが、以降の作業は伊藤の夏島別荘で行ったとのことのようです。
ただ、この頃、この憲法草案の一部が「西哲夢物語」という秘密出版物で出回ったといいますから、この盗難事件があるいは絡んでいたりするのでしょうか。
*
そもそも政府側の憲法制定作業は明治14年(1781)に始まります。
明治14年(1781)3月末
・筆頭参議大隈重信は、「国議院開立の年月を公布せらるべき事」との意見書を左大臣有栖川宮熾仁に提出。第5項で「明治十五年末に議員を選挙せしめ十六年首めを以て国議院を開かるべき事」(明治16年会開設)、政党内閣制を盛り込む。
福沢諭吉の高弟で太政官権大書記官矢野文雄の起草(2年前出版の福沢「民情一新」と殆ど同じイギリス流の議院内閣制度。急進的で岩倉に衝撃与える。
井上毅は、時期的には大隈意見書と同時期での国会開設を主張。但し、皇帝権限の強いプロイセン憲法を模範とするよう主張。岩倉は憲法・国会問題を新設の部局に委ね、ここに岩倉の意に沿った人物を送り込む策を立てる。
*
4月8日
・福澤諭吉の弟子グループ「交詢社」(明治12年9月設立)、「私擬憲法案」発表。福沢の同意ものと矢野文雄(後、改進党)・馬場辰猪(後、自由党)ら、30回以上の会合を経て作成。憲法草案作りに苦心している愛国社以外の地方結社は、この交詢社案を拠り所とする。
* 
明治14年7月12日付太政官書記官井上毅の伊藤博文宛書簡。「・・・皆な憲法考究と一変いたし候にこれあり、その憲法考究は、すなわち福沢の私擬憲法を根にしたし候ほかこれなく、ゆえに福沢の交詢社は、すなわち今日全国の多数を牢絡し、政党を約束する最大の器械にこれあり。・・・その主唱者は十万の精兵を引て無人の野に行くに・・・」。
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6月27日
・伊藤博文、太政大臣を通じて大隈意見書を借覧。
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7月1日
・伊藤博文、大隈意見書に関して三条に怒りの手紙、辞意表明。2日、岩倉に参議辞任表明。
*
7月5日
・右大臣岩倉具視、井上毅起草の憲法大綱領を太政大臣と左大臣に示す。
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・岩倉具視意見書(井上毅執筆)は、交詢社の私擬憲法案を「英国の規範の倣うもの」と断定、朝野に浸透と危惧。
植木枝盛などは交詢社を敵への内通者と見るが、井上毅から見れば交詢社は自由党と変わらないものに見える。
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また、この日、伊藤博文と大隈重信が会見、伊藤は大隈案に反対を表明。
*
7月8日
・伊藤博文、辞意撤回。岩倉らが憲法制定作業の促進を申合せ、大隈が、伊藤に弁明したため。
大隈・伊藤間の確執。
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7月27日
・井上馨(政府内での国会開設論の急先鋒)、伊藤に対し大隈との絶縁を提言。
「・・・ついに彼の先生(大隈)は人望を得るを主とし、今日に至るまでその定説なきは、ご承知の事と愚考せり」。
*
7月29日
・井上馨、イギリス流議院内閣制モデル(福沢・大隈派)の放棄を伊藤に提言。イギリスの立憲君主制はアメリカの共和制に近く、日本に導入には適さない(裏で、プロイセン憲法を規範としようとする井上毅の働きかけ)。
*
また、この月26日には「北海道開拓使払下げ問題」が表面化し、参議・開拓長官黒田清隆は窮地に立たされるが、29日、黒田は、伊藤に対し、この問題は大隈の陰謀と説く。
大隈と福沢系「東京横浜毎日」「郵便報知」が組んで、払下げを攻撃し、黒田は大隈に激怒、薩長系参議を打倒する陰謀と捉える。大隈との断絶決意。
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にわか仕立ての議院内閣論者になった大隈は、反国会派の黒田から、国会論者の井上からも、機会主義者として反撥される。
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こうして、大隈追放の「明治14年の政変」へと展開してゆく。
10月11日
・この日、閣議は、大隈抜きで、北海道開拓使官有物払い下げ取り消し・大隈重信参議の罷免・勅諭による10年後の国会開設と欽定憲法制定の宣言。
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10月12日
・国会開設の勅諭。
国会の組織・権限(憲法の内容)は、天皇が親裁し人民の議論を禁圧(強硬な弾圧方針を示し脅迫)。自由民権運動に分裂の楔を打ち込もうとする戦術的譲歩と反動攻勢の開始宜言。
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この日、大隈罷免に続き、農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密(11月8日)、判事北畠治房のほか、大隈一派と目された官吏、矢野文雄、小野梓、牛場卓造、中上川彦次郎、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎など免官。
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明治15年3月3日
・参議伊藤博文、憲法調査のためヨーロッパ出張を命じられる(勅書)。同行者は、後に憲法草案作成に参画する伊東巳代治(参事院議官補、後に農商務大臣)・平田東助(大蔵省少書記官、後に内務大臣)・西園寺公望(参事院議官補)ら。
3月14日東京発。5月~翌83年2月、ベルリンとウイーンで、グナイスト、スタイン、モッセらから講義を受ける。83年8月3日帰国(横浜着)。
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伊藤は、「憲法の如きは主に独国に模倣し、拙者如きも我日本のビスマークたらんことを期望せり。則ち我党(長州系参議)は施政の大権に当り、飽迄も一種特別なる立憲帝政国の基礎を確立せんことを勉むべし。又海陸軍の如きに剛毅忠実なる薩参議之に当り、皇室の安泰を図られたし云々なりしと云ふ」(「朝日」16日)と「洩れ聞く」伊藤の話。
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この年8月11日付、
・ウィーンの伊藤博文から岩倉具視への手紙。
天皇(君主)に不可干犯の地位を与える智恵(秘策)。天皇に行政権・立法権を集中させ、国会は協賛機関に位置づける狡知。これは、日本の特殊な歴史伝統、1千年来の稀な「国体」により正当化されるとする。
伊藤はベルリンでグナイストに、ウィーンでスタインに就き外見的立憲制を採用する軍国主義帝国ドイツの議会政策を学ぶ。
「・・・博文来欧以来取調の廉々は、片紙に尽兼候故、不申上候処、独逸にて有名なるグナイスト、スタインの両師に就き、国家組織の大体を了解する事を得て、皇室の基礎を固定し、大権を不墜の大眼目は充分相立侯間、追て御報道可申上候、実に英米仏の自由過激論者の著述而已を金科玉条の如く誤信し、殆んど国家を傾けんとするの勢は、今日我国の現状に御坐候へ共、之を挽回するの道理と手段とを得候、報国の赤心を貫徹するの時機に於て、其功験を現はすの大切なる要具と奉存候て、心私に死処を得るの心地仕侯」(伊藤博文書簡、明治15・8・11)
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明治憲法起草の碑
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「★横浜インデックス」をご参照下さい
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2009年4月22日水曜日

「開国博」(4月28日~)について


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右側の「天気予報」の下にもありますが、「CLICK HERE」をクリックしてみて下さい。ちょっとだけ、「面白い」効果が出てきます。
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以上、前回エントリで触れた「開国博」に関しての追伸まで。

横浜 和親条約締結地 海岸教会







横浜は、来週28日から開国150周年ということで「開国博(Y150)」が開かれる予定で、盛り上がって(?)ます。
昨年撮ったものですが・・・。
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①②:「日米和親条約締結の地」碑。神奈川県庁近くにある「横浜開港資料館」(昭和6年建築の旧イギリス領事館)横の「開港広場」にあります。
③:同じく「開港広場」にある旧居留地に設置されていた大砲。
④:「開港広場」に隣接する横浜海岸教会。
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嘉永6年(1853)7月、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊(軍艦4隻)が三浦半島沖に出現、久里浜海岸で開港要求国書が幕府に手交される。翌年2月、ペリーは予言通り再び来航、開国交渉が久良岐郡横浜村字駒形(現、神奈川県庁付近)で行われ、3月31日、日米和親条約12ヶ条が調印される。碑はこの条約締結地を示すもの。
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「開国150周年」というのは、その後、安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が結ばれた時点を起点としたものです。見方を変えれば、不平等条約を結ばされた「屈辱」記念でもある訳ですが・・・。
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明治4年(1871)、バラとブラウンというアメリカ人宣教師が、石造りの小教会を建て、翌年、彼らの下に集まった青年11人によって日本最初のプロテスタント教会である日本基督公会が組織される。ついで1875年、ここに大会堂が建設され、これを「横浜海岸教会」と称する。
1879年、この教会で日本人による最初のクリスマスミサが行われる。
関東大震災では大小両会堂ともに崩壊するが、昭和8年(1933)、宮内省技師雪野元吉の設計で再建され、現在に至る、とのことです。

昭和13(1938)年1月(6) 近衛声明後の南京は・・・

昭和13(1938)年1月17日
・南京、第16師団の華北転出が決まり送別宴。上海派遣軍司令官朝香宮が、第16師団佐々木少将の酒乱気味の言動に怒り、これを一喝。
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17日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。
日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。見わたすかぎり廃墟が広がるだけ。
大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、また瓦礫だ!いったいだれが元通りにするというんだ!帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。
南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。」(黙翁の判断で改行を施した)
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17日
・軍需工業動員法発動。陸海軍、一部軍需工場に軍需工業動員法による管理を開始。
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17日
・この日の高嶋辰彦(参謀本部戦争指導班)の日記。「中国側の追加情報」の中味は不明。
「午前九時、第二部長(本間雅晴)室に至れば、果して中国側の追加情報到着しあり。
和平の名を中国側にとられ、日本は好戦のための持久戦となれり。千秋の恨事なり。早速その対策につき次長に意見具申をなす。
帰室後、秩父宮殿下にも報告、殿下を始め奉り、今田、掘場、武居など一室一座悲憤の涙粧咽ぶ」。
堀場も、「期限に応ずるの支那側回答は十六日到着せるものの如し。その内容は未だに之を知るに由なし」と書く。これは高嶋と同じものを指すと考えられる。
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17日
・スペイン、テルエルの戦い。
天候の回復を待ち独・伊の飛行機数百・フランコ軍8万の兵士、テルエルに投入、反撃。共和国軍後退。
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17日
・パリ美術学校展示室、第1回シュルレアリズム国際展覧会。日本から岡本太郎が出展。
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18日
・中国国民政府、近衞声明(1.16)に対して抗日自衛を強調。20日、駐日大使を召還、日中国交断絶。
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18日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「ほうぽうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気良く放火が続いているのだ。・・・
午後、スマイスとフィッチがきた。米だけでなく、ほかの食料品も運んでもいけないし倉庫から取ってきてもいけないことになったというではないか。上海からとりよせることも禁じるという。どうやら日本軍は難民を飢え死にさせるつもりらしい。・・・」
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18日
・政府、16日の近衛声明の補足説明。
「相手とせずというのは同政府の否認よりも強いのである。・・・国際法上の新例を開いて国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとするものである。・・・」。
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18日
・秩父宮(参謀本部戦争指導班、不拡大派)、参内。伏見宮軍令部総長、参内。
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18日
・川越大使に帰朝命令。28日、上海発。
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18日
・午前0時38分、函館駅、駅の湯呑所から失火し全焼。大正3年12月竣工の木造建築。
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18日
・フランス、第4次ショータン内閣成立。
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18日
・米ルーズベルトの回答。チェンバレンの意見に従い諸国会議提案は延期、しかし、英が伊のエチオピアにおける現状を承認するかもしれぬとのチェンバレン回答には十分注意を払うと回答。
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19日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所(ジーメンス社南京支店)を閉鎖しなければならないからだ。」
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19日
・近衛首相、華北・華中の傀儡政権樹立に関して、「新興政権成立の過程は満州国の場合と同じようになるかもしれぬ・・・」(近衛首相記者会見談。38年1月19日「東京朝日新聞」)という。軍部の独断と政府の無力さを語る。
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19日
・北日本農民組合(人民戦線事件で玉井委員長ら幹部を失う)、各支部代表者会議で、「我が国体観念を基調とし国情に即した上下共和の日本伝統の精神を以て其の公道とする」と決議、「国策順応」の新方針を決定。
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20日
・中華民国臨時政府、成立直後に天津・泰皇島の海関を接収するが、この日、税率を約半分にする新関税を発表。日本からの華北への輸出は激増。
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20日
・許駐日大使、離日。日中国交断絶
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21日
・仏、下院、第4次ショータン内閣信任。501対1(棄権105)
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21日
・ソ連の文献学者リャザノフ、獄死。
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22日
・第16師団(中島今朝吾中将)、南京を去り華北へ移駐。
第11師団(善通寺)歩10旅団(天谷直次郎少将)、南京警備司令官就任。残虐行為は続く。
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第16師団の「申継書」には、
「二、軍内の軍紀風紀を厳正にせんがためには、警備司令官の区処権を厳格に行使し、方面軍、各軍直轄部隊の優越感を打破すると共に、通過軍隊の行動を監視すること必要」、
「南京市内は漸く兵・民を分離し、概して民のみとなれり。将来更らに戸口調査を完了し、武器の捜索、押収と共に、出入者の監視を厳格ならしむれば、心配なきに至るべし」、
「・・・敗残兵を捕獲しつつあり。示威、徴発、行軍等の目的を兼ねて、不断実行せらるるを可とす」などが示される。しかし、兵士の非行は続く。
アリソン書記官は、2月12日、上海派遣軍へ、1月28日~2月1日に89件の略奪・強姦があったと抗議。飯沼参謀長が憲兵隊に調べさせると、該当の事実は数件しか見つからず、憲兵隊の把握する非行は、氷山の一角に過ぎない事がわかる。それでも、国際委員会が認めるように、犯行は大通りから姿を消し、奥まった裏通りに移る。
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22日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。」
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22日
・第73議会、近衛首相、「戦捷相つぎ、たちまち首都南京を政略し、戦局は極めて有利に展開しつつある」と称する一方、「惟うに事変の前途は遼遠であります。これが解決は長期にわたることを覚悟せねばな」らぬと説き、「物心両様にわたり国家総動員態勢の完成を図」ると唱える。
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22日
・嵐寛寿郎、大谷松竹社長を説き落し、日活入社。3ヶ年、15万円(内5万円は前渡し)。昭和15年までの3年間で25本を撮影。入社第1作「鞍馬天狗」(マキノ正博・松田定次共同監督)、「忠臣蔵」(マキノ正博・池田富保共同監督)、「右門捕物帖・血染の手形」(荒井良平監督)と、アラカソは更生日活のドル箱となる。続いて「出世太閤記」「髑髏銭」と好評続く。
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いわゆる「四剣豪時代」(パンツマ・アラカン・千恵蔵・月形)、嵐寛寿郎主演映画は天狗8本・右門4本を含む36本(昭和17年度まで)。興行成績は、常に他の3剣豪を圧倒。
* 
この頃、日活は内紛。
3月23日、多摩川撮影所長根岸寛一、「松竹の走狗となって日活乗っ取りを図った」との理由で取締役を罷免、撮影所従業員はストライキの気勢を示す。
社長以下、多摩川に暴力団を引き連れ、「根岸寛一という男は無政府主義者崩れで、抗日支那人の同類である」と、所員に演説。
5月3日、大谷竹次郎・横田永之助(日活創立者)が会談。紛争は一段落と見えるが、突如、根岸が辞表提出、マキノ光雄・江守清樹郎らと共に、「満映」に去る。
7月13日、森田佐吉社長は合名会社弥生商会を設立、大谷竹次郎所有の債権を譲り受ける。この時、大蔵貢(のち新東宝社長)が弥生商会の黒幕的主宰者・日活常務として登場。後年の新東宝社長・大蔵貢。
そこへ10月17日、堀久作が出獄してくる。「十一月、私は千葉銀行が所有していた日活株式の三千五百株を譲り受けることとした。私は日活株を一万株ほど買いたいと思い、これを皮切りに株式市場からボツボツ買い集めた。この話を聞いた大谷氏は、にわかに日活株を買い出した」(「日活四十年史」昭和27年発行)。
昭和14年6月、株価は16円から120円に高騰。堀の資金は東宝の小林一三から出る。次に、堀は、千葉銀行の弥生商会に対する債権(担保物件)2万5千株仮処分で、小林一三は147万円を用立て、堀久作はこれを供託して日活全株式16万株過半を制す。これに対し、大谷竹次郎は仮処分に対する仮処分を申立て、弥生商会内部も東宝派の森田と松竹派の大蔵とが争い、互いに訴訟を起こす泥試合に発展していく。
* 
23日
・第16師団師団長中島今朝吾中将、上海新市街の音楽学校にある中支那方面軍司令部に松井石根大将を訪問。異様な空気となる。
* 
松井の声がよく聞きとれず、「モウ声量ガナクナッタノカ、或ハ小生ノ前ナレバ消極的声音ニナリタノカ、モットモ少シ顔ガ振レル様デアル」(中島日記)と毒づく。
松井は軍紀問題を持ち出すが、中島は頭からはねつける。
「此男案外ツマラヌ杓子定規ノコトヲ気ニスル人物卜見エタリ。次ニ国民政府(中島師団司令部所在地)ノ中ノカッパライノ主人ハ方面軍ノ幕僚ナリト突込ミタルニ是ハサスガニシラバクレテ居リタリ。家具ノ問題モ何ダカケチケチシタコトヲ愚須々々言イ居リタレバ、国ヲ取り人命ヲ取ルイニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン。之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜プモノアラント突パネテ置キタリ」(中島日記)。
松井も返す言葉が無かった様だが、「其云ふ所、例に依り言動面白からず。殊に奪掠等の事に関し甚だ平気の意見あるは、遺憾とする所、由て厳に命じて転送荷物を再検査せしめ、鹵獲奪掠品の輸送を禁ずる事に取計ふ」(松井日記、24日)とある。
掠奪家具・骨董品持ち出し阻止の意志が見えるが、翌年、この家具問題が兵務局や憲兵隊で摘発された事情を考えると、松井の阻止手配は実行されなかった可能性が高い。
* 
23日
・政府「国家総動員法案要綱」33項目発表。
*
to be continued 

2009年4月21日火曜日

京都のいしぶみ 小松帯刀寓居跡ほか





今年のお正月の3日に全く予期しないところでこれを見つけました。
場所は、京都市上京区堀川一条東入ル南側(一条戻橋を西に入ったところ)。
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・正面:此向かい 近衛堀川屋敷跡
    小松帯刀寓居参考地
・左側面:藤原道綱母子 一条邸跡
      源頼光
・右側面:此付近応仁の乱洛中最初合戦地
 (写真の撮り辛い位置のため、写真はなしです)
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説明板には・・・。
「 当地は平安京の左京北辺二坊五町(キタノベ ニボウ ゴチョウ)にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。
 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦った。
 そのため、当時この北方にあった革堂(コウドウ、行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。
 以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。
 江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎・桝屋喜右衛門も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。
 なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑(オハナバタケ)」があった。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるため、当邸は有力候補地といえる。
 慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。
 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。
                                    歴史地理研究者 中村武生」
とありました。
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応仁の乱のこの日の戦いは、勘解由小路の斯波義廉邸(武衛陣、後に信長が将軍義輝の為にここに二条城を建てる、現平安女学院)に集結した西軍(山名方)が、一条大宮の細川勝久邸宅を襲ったので、東軍は京極持清を急派したところから始まるようです。
武衛陣については、下記。
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また、古高俊太郎については、下記。

2009年4月20日月曜日

映画「スラムドッグ$ミリオネア」

スラムドッグ$ミリオネア (ダニー・ボイル監督) [DVD]
スラムドッグ$ミリオネア

ぼくと1ルピーの神様
映画「スラムドッグ$ミリオネア」を観てきました。
アカデミー賞8部門(監督、作品、作曲、脚本など)受賞とのことです。
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過酷なスラムに生きる少年たちの逞しさと、その中で幸運にも「金」と「愛」を掴む青年の物語。
貧困、宗教紛争(殺戮を伴う)、犯罪(幼児誘拐)、警察での自白強要(拷問)・・・と、ムンバイの繁栄が、クイズの進展に併せて描かれてゆく。
その物語の展開の構成は素晴らしい。
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製作者は過酷な状況の中でも(明るく)逞しく生きるポジ的側面を描きたかったのだろうと思う。例えば、日本で言うならば、「焼け跡闇市で逞しく生きた人たちや、大阪でいえば危険を冒して砲兵工廠跡の鉄材を売り飛ばして金にする「アパッチ族」などの物語のように。
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しかし、現実には、圧倒的多数の人々は、「幸運」を掴めず、「神」の恩恵なども受けられずに、(表現は失礼だが)、朽ちてゆくのだろう。
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だから、エンディングは、その幸運な男女とそうでない多くの人たちが、せめて伝統的インド映画のように楽しく歌って踊ろうよ、というように私には見えた。
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金融危機のさ中の現在はよく知りませんが、ムンバイはインド繁栄の象徴と言われてきました。日頃、そのムンバイというのは一体どうゆうところか知りたかったので、その辺でも大変満足できる映画ではありました。
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「ぼくと1ルピーの神様」というのは、この映画の原作本です。
真中はサウンドトラック。音楽担当の方は、インドのモーツアルトと云われているとか。
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横浜みなとみらい ドックヤード 帆船日本丸






みなとみらいに映画を観に行きましたので、帰りにちょっと遠回りをしてドックヤードと日本丸の写真を撮ってきました。(今更ながら・・・、ですが)
でも、みなとみらいで写真を撮りたいと思うのは、上の2ヶ所と遠景くらいですかね。
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明治時代に設立された横浜船渠(株)(後、三菱重工業に合併)には、第1号と第2号のドックがありまして、第1号ドックは現在、帆船「日本丸」が繋留されているものです。第2号ドック(写真①②)は、ドックヤードガーデンという施設になっており、周辺(ドックの側壁の外側)はレストラン街です。
なかなか端正な顔をしていると、思ってます。
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帆船「日本丸」は、1930(昭和5)年建造で、練習帆船として54年余活躍し、現在は船内の一般公開、海洋教室の開催などの事業を行なっている、とのことです。
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「歴史的建造物」はコチラ」
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「★横浜インデックス」をご参照下さい
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2009年4月19日日曜日

京都のいしぶみ 高倉宮跡とその周辺







①高倉宮跡
以仁王の御所。ここで頼政に叛乱を説得され、令旨を発し、露見後は「信連合戦」のあったところ。
平安京の左京三条四坊四町にあり、高倉小路に面しているので高倉宮と呼ばれる。
現在の、京都市中京区東洞院通姉小路下ルにあたる。
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この辺りをぶらぶらしていて、残りの2つを見つけました。
②③高倉小路西側側溝跡
(③の道路上に波をうった模様のある個所)
*
④曇華院跡
高倉宮のあと、室町時代から明治初年にかけての約500年間、禅宗の尼寺曇華院があった地域との説明があります。
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このあたり、もう一度ゆっくり歩いてみたい街です。
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京都 三条通りを歩く」で実現しました。

治承4(1180)年4月9日(3) 以仁王(高倉宮)

治承4(1180)年4月9日(3)
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〇以仁王について:
後白河院の第2皇子。三条高倉に住んだので高倉宮・三条宮とも称す。「王」「王女」は、「親王」「内親王」の宣旨を受けられない皇子・皇女の称号。
異母兄弟は天皇(兄は二条天皇、弟は高倉天皇)。
白河・鳥羽・後白河の血の半分は閑院流で、以仁王はいとこ同士の父母による息子。母の閑院流藤原成子(高倉三位(タカクラノサンミ)局)は後白河の母・待賢門院の姪。
後白河の最初の皇子は二条(1143生)、次が守覚法親王(法親王は、出家した親王)、3番目が以仁王(1151生)。守覚と以仁王は同母で、女流歌人式子内親王も同母。 異母弟の高倉(1161生)は以仁王よりも10歳年下。
*
後白河と成子(高倉三位)の間には男2女4の子が生まれ、男(守覚と以仁)は幼少期から出家の道に進み、守覚法親王は第6代御室(仁和寺の最高位)となる。女4人のいずれもが齋宮となり内親王となっている。長姉・亮子は安徳准母として殷富門院の院号を授けられている。つまり、以仁を除く全員が親王宣旨を受けている。
*
以仁王は、兄同様、出家のため天台座主最雲(堀河院皇子)に預けられるが、応保2年(1161)最雲が没し、その遺領城興寺領を譲られ、里に戻り、15歳の永万元年(1165)、近衛・二条の「二代の后」として知られる近衛河原の大宮多子の御所で密かに元服。
幼少時より、鳥羽上皇の妃で二条天皇の母である美福門院の娘八条院の庇護を受け、その猶子とされ、周囲から秘かに二条帝の流れを継ぐ皇位継承者と目されていた。
半年前に二条天皇が譲位して順仁親王(六条天皇)が帝位につくが、皇太子は決まっていなく、元服には皇位への希望が秘められていたと推測されている。
しかし、その翌々年の仁安2年(1167)に後白河の寵妃建春門院(滋子)の生んだ憲仁親王が皇太子に立てられ、翌年に8歳で即位するにおよびその望みは断たれてしまう。こうしたことから建春門院に疎まれ、その圧迫により親王にもされず、無官の王として以仁王は不遇の日々を送る。
「平家物語」に「故建春門院の御猜によって、押篭められさせ給ひけり」とある。
*
八条院に出仕する女房との間に、若宮(7)・姫宮(5)があり、八条院がこれを養育。明経・紀伝・陰陽道を学び、笛にすぐれ、蝉折という名器を所持し、書にも秀れていたという。
*
(異説)
「平家物語」「吾妻鏡」のように頼政が高倉の宮に平家打倒を誘いかけたのではなく、事件の中心人物は高倉の宮であるとの説。
「頼政はそれまでの七十六年間にわたる生涯を大過なく過ごして来、多少歌道と武芸にすぐれた身が報われなかったとしても、とくに不遇であったとはいえない。ことに前年三位に叙せられたのも清盛の推挽によるもので、平家打倒に決起する動機を見いだしがたい。
これに反して以仁王には、帝位への望みを平家ゆかりの高倉天皇の即位によって妨げられたうえ、師僧最雲の死後に譲られた常興寺とそれに付属する荘園を平氏の推す座主明雲のために没収されたことから、平家に対する宿怨が強く、これを排除しようとするじゅうぶんな動機をもっていた」と指摘(上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」)。
また、謀反発覚の際、頼政の子の兼綱がその追捕役人の中に含まれ、三井寺攻めの討手の大将の1人に頼政が選ばれるなど、当初は頼政を首謀者とする観測は全くない。「頼政に謀反の動機がなく、以仁王に動機が多いとすれば、『平家物語』にいうように頼政が以仁王をそそのかしたのではなく、以仁王が頼政を誘ったことになる。」という。
また、「以仁王が令旨を発し、謀反をおこすにいたったのは、安徳の立太子により以仁王の皇位継承が絶望となった段階で、後白河が平氏に幽閉されたことがおそらく大きく影響しているであろう。」と、皇位継承の夢を断たれた無念の思いが、宮を平家転覆の反乱へと駆り立てたとの推測もある(五味文彦「平家物語・史と説話」)。
*
〇「物語」に描かれる以仁王。
□「源氏揃」(「平家物語」巻第4):以仁王のプロフィール。
「その頃一院(後白河)第二の皇子(出家した守覚法親王は数えない)以仁の王と申ししは、おん母加賀大納言季成卿のおん娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。
去(イ)んじ永萬元年(1165)十二月十六日、御年十五にて、忍びつゝ、近衛河原の大宮御所にて御元服ありけり。御手跡(シュセキ)厳(イツク)しう遊ばし、御才学すぐれてましましければ、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりしかども、故建春門院の御猜(ソネミ)によつて、押し籠められさせ給ひけり。
花の下の春の遊には、紫毫をふるって手づから御作をかき、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくして明し暮らしさせ給ふ程に、治承四年には、御年三十にぞならせましましける。」
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「今鏡」巻8
「高倉の三位と申すなる御腹に、仁和寺の宮の御室(オムロ)伝へておはしますなり。・・・次に元服せさせ給へる(以仁王のこと)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。」。文芸に通じ筆跡も巧みですぐれた資質を備えているという
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「古今著聞集」巻13
「二条院かくれさせ給て、中納言実国卿、白河宮(以仁王)にまゐり見まゐらせけるに、故院にあさましく似まゐらせ給ひたりければ、・・・」。二条天皇に生き写しという
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□皇統を巡る争い
以仁王は八条院の猶子となるが、その時期は不明。
幼少時、天台座主最雲(法親王、堀川天皇の皇子)の弟子となるが、応保2年(1162)12歳の時、師が没し還俗。永万元年(1165)12月16日、15歳の時、大宮・多子の邸である大宮御所(向かいには頼政邸がある)で密に元服(5歳の弟宮(高倉)が親王宣旨を受ける9日前)。
閑院家や六条家の流れは、以仁王担ぎ出しを企図し、平氏側はその弟宮憲仁(高倉)を皇位につける準備を進める。
以仁王元服の2日後、元服式場を提供した大宮多子は出家し、4ヶ月後、王の生母の兄権中納言公光は免職されている。
以仁王元服(15歳)時点では、5歳の弟親王に対しては、帝位候補者として優位な足場を固め、それ故に高倉帝位を実現させようとする平家側からは厳しい警戒とその後の圧迫(「建春門院(滋子)の御猜」)が想定される。
to be continued

2009年4月18日土曜日

鎌倉 鎌倉宮 身代りさま







先日(4月8日)、桜見に鎌倉に行った際、立ち寄ったところです。
由来などは、説明板を参照してください。
護良親王については、以下のエントリを参照してください。
護良親王の処刑の有様は、「太平記」によれば、書くのを憚るほど壮絶なものです。
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再訪版はコチラ。親王幽閉の土牢などがあります。
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「寺社巡りインデックス」
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2009年4月17日金曜日

鎌倉 洲崎古戦場跡 東勝寺跡 北条高時腹きりやぐら 新田義貞の鎌倉侵攻









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①②大船の常楽寺に行ったあと、大船~江の島の湘南モノレールに乗って、湘南深沢駅下車、洲崎古戦場跡へ。
洲崎古戦場跡
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②~⑥先日、鎌倉の桜を見に行ったあと、鎌倉幕府が終焉を迎えた場所である東勝寺、北条高時腹きりやぐらへ。
東勝寺跡
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洲崎古戦場跡は石碑があるだけ。
ここは、私が以前住んだことのある場所から直線でせいぜい100m程のところにありました。当時は、自分の住んでいる場所が、新田義貞の鎌倉攻めのルート上にあるとは全く知りませんでした。「いしぶみフェチ」の今から考えれば、つくづく「昔はものをおもはざりけり」といったところです。
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東勝寺も、今は看板・石碑(掲載は割愛しました)があるだけで、まだ発掘が完了していないのか、金網に囲まれていました。ここで高時はじめ鎌倉の多くの武士たちが自刃し、寺に火をかけたとのこと。
「腹きりやぐら」は、直接的な表現が過ぎて、もうすこしいい呼び方がありそうなものだと感じましたが、町中の道しるべも全てこの呼び方で書かれていました。
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「鎌倉勢870人がここで自刃」という事にどこかスッキリしないところがありましたが、逃げのびた者も相当いるとの説もあります。ご参考まで。
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「東勝寺の再訪版」はコチラ
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以下、義貞の挙兵から鎌倉陥落までの「黙翁年表」抜粋。
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元弘3年(1333)5月8日の義貞挙兵までの情勢は、・・・。
①1月には楠木正成が河内・和泉で反幕の支配権を確立。
②1月21日、赤松則村が播磨で挙兵。
護良親王は引き続き吉野で倒幕運動展開。
④閏2月28日、後醍醐天皇は、名和長年を頼り、伯耆の船上山に向かう。
⑤3月27日、足利高氏(28)は、妻子(子は後の義詮)を鎌倉方の人質に出して、鎌倉方として出陣。
4月29日、丹波篠村で倒幕挙兵。5月7日、京都に進軍。9日、京都の六波羅探題を陥落する。
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5月8日
・新田義貞、挙兵
新田義貞(32)、上野新田荘(群馬県新田郡新田町市野井)の生品(イクシナ)神社の神前で幕府討伐の旗を掲げる。
大館氏・堀口氏・岩松氏・山名氏・里見氏と、足利氏一党の桃井尚義ら150騎。世良田に陣を張る義貞の許へ、上野一円の武士が馳せ参じる。
「同五月八日卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、綸旨ヲ披テ、三度是ヲ拝シ、笠懸野ヘ打出ラル…」(「太平記」)
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得宗被官を追い落とした義貞の軍勢は、更に越後新田氏・甲斐源氏を併せ、多勢を駆って南下を開始。一方、幕府も急ぎ軍勢を召集。北条高時の弟である泰家に1万騎をつけ、新田軍追討に向かわせる。
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「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は源家之を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む」(「太平記」)。
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新田義貞に呼応して、千葉貞胤も下総で挙兵。下総道を通って六浦・材木座方面から鎌倉へ進軍。
(のち、武蔵国忍岡(台東区上野)で小山秀朝(判官)の軍勢と合流して南下。多摩川を渡り、鶴見で従兄弟の幕府軍金沢貞将(武蔵守)の軍勢と戦い、これを破り、金沢から朝比奈切通を通って鎌倉に突入)。「千葉伝考記」「房総通史」、「梅松論」「太平記」で異説あり。
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5月9日
・鎌倉を脱出した高氏嫡子千寿王(後の義詮)、紀五郎左衛門ら200騎に守られ武蔵で新田軍に合流、鎌倉攻めに加わる。
「太平記」は、千寿王の参加により倒幕軍に参加する者が増えたと述べ、「梅松論」は、鎌倉陥落後、義貞に属する者より千寿王に参候する者の方が多いと述べる。
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5月9日
・足利高氏ら(五辻宮の勢)に攻められた六波羅探題北条仲時(28)以下、近江の番場宿(米原市)で自刃。 五辻宮の勢、光厳天皇らを近江国分寺に入れ、三種神器を没収。
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「太平記」では、琵琶湖東の番場宿を過ぎたあたりで伊吹山近辺の寺社に動員をかけていた五辻宮(守良親王)と遭遇戦。一行は、番場蓮華寺に追いつめられ北条仲時は自害(280余名が自害あるいは討死)。光厳天皇・後伏見(45)・花園(36)両上皇が捕らえられる。 六波羅探題は滅亡
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5月10日
・楠木正成の篭城戦が終結。
千早城包囲の鎌倉勢(阿曽時治・大仏高直・長崎四郎左衛門尉ら率いる幕府軍)、奈良へ退き、興福寺などに立て篭る。1ヶ月の合戦の末、旧幕府軍は降伏。
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5月11日
・新田義貞、武蔵小手指原(所沢市)で北条軍と戦う。義貞方300余騎、北条方500余騎の損害、勝敗決せず、双方兵を引き布陣。 12日、両軍、久米川で戦う。義貞方が先制攻撃をかけ、北条方は敗れて府中の分倍河原に退く。
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5月12日
・北国探題淡河時治、平泉寺衆徒に攻められ、越前牛ケ原にて自害(「太平記」)。
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5月15日
・島津・大友・少弐諸氏が挙兵、九州探題北条英時を攻撃。英時は自刃、一族340人もこれに続く。肥前国彼杵庄で挙兵の尊良親王を近国の武士が奉じる。
九州探題の滅亡を聞いた長門探題・北条時直は抗戦をあきらめて降伏。
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5月15日
分倍関戸河原(多摩川の北)の合戦
多摩川の分倍河原に退き最後の防衛線としている北条軍(北条恵性を大将とする鎌倉勢)に対して義貞軍が突入、義貞軍は押し戻され入間川畔にまで後退。北条軍の一応の勝利。
にも拘らず相模御家人の大多和氏一党の離反など、義貞軍に味方する武士多い。相模の三浦義勝が国人衆を引き連れて義貞方に参陣。
16日、合戦再開。新手を加えた義貞軍は北条軍を圧倒。主戦場は再び南下して分倍河原に移り、更には多摩川を越え、関戸河原にまで南進。北条軍は敗れ、北条泰家は辛くも逃げきる。従う者は北条氏縁故の500余。16日夜半、泰家は鎌倉に逃げ帰る。
「十五日、分倍関戸河原にて終日戦けるに命を落し疵を蒙る者幾千万という数をしらず・・」(「梅松論」)。
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5月17日
・伯耆の後醍醐天皇、関白鷹司冬教(ふゆのり)以下を解任する詔を発する。
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5月17日
・越中守護名越時有・有公ら、自害
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5月18日
・早朝、新田軍、三方より鎌倉を攻撃開始。鎌倉に入る。
義貞方:義貞軍は三方より鎌倉に侵攻。
①主将大館宗氏・副将江田行義の軍を極楽寺坂へ、
②上将軍堀口貞満・副将軍大嶋讃岐守の軍を巨福呂坂へ、
③義貞自身は弟脇屋義助と共に化粧坂に向かう。
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迎える北条軍は、
③化粧坂方面には大将金沢左近将監忠時3千、
①極楽寺方面には大将大仏貞直3千、
②巨福呂坂方面に5千を差し向ける。別に予備兵力5千。
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幕府側:先ず、陸奥守貞通率いる一手が葛原で敗れる。次に、北条守時(足利高氏義兄)率いる一手が洲崎で新田軍と遭遇、激戦、守時は一歩も退かずここで自害。最後に残った金沢貞将率いる一手も、鶴見で新田義貞に呼応して攻め込んだ千葉貞胤の軍勢に敗れる。
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州崎口の戦い:巨福呂坂を守る赤橋守時は6万騎のうち半分を守備に残し、洲崎まで進出して布陣。18未明、赤橋軍3万が義貞軍(堀口貞満・大島守之)10万に戦いを挑む、一昼夜に65度の突撃を敢行するが、破れて最後に残った90余と洲崎千代塚で自刃。
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化粧坂・巨福呂坂の防衛線は極めて堅固。
極楽寺坂口方面は、大館宗氏率いる軍勢が稲村ヶ崎沿いに鎌倉に侵入、前浜付近を焼き払う(煙が立ち、鎌倉は恐慌をきたす)。諏訪・長崎など北条高時配下の家臣が急行、大館勢を迎え撃ち撃退(大将宗氏を稲瀬川で討取る)。大館勢の残兵は霊山に立篭る(霊山はその南が海に迫り岬となっている)。
化粧坂・巨福呂坂の切通は狭く、計画的な防御工事が施されており、新田勢は攻めあぐねる。これに対し、稲村ヶ崎の波打ち際の道は、狭い乍らも防御工事は急ごしらえで、水軍の存在や道の狭さの問題もあるが、干潮時を狙って総攻撃をかければ、いくぶん緩和されると思われる。
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5月21日
・新田義貞、鎌倉を攻略。稲村ヶ崎、干潟となり、新田勢、鎌倉へ侵入(「太平記」)。
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21日午前3時頃、潮が干くのを待っていた新田勢が行動開始。幕府軍もこれに気づき、極楽寺大門に拠って防戦するが、新田氏義配下の三木一党が間道から奇襲して幕府軍を追い落とし、本軍の通行は容易となる。
稲村ヶ崎を突破した新田軍の一手は、極楽寺坂の幕府軍を背後から急襲、壊滅。
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続いて大仏坂、化粧坂、巨福呂坂も夫々挟撃される。
新田軍の放った火は鎌倉の街を焼き尽くす。
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極楽寺坂口守備の大将大仏貞直、新田勢と斬りむすび討死。
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長崎思元・為基は極楽寺坂から若宮大路へ退きつつ由比ヶ浜まで新田勢を蹴散らす奮闘。
化粧坂口から巨福呂坂へ転戦した金沢貞将は鎌倉東端・葛西ヶ谷の東勝寺(北条家菩提寺)に立て篭った後、再び兵を率い鎌倉市街で新田勢と戦い、討死。
元執権北条基時も化粧坂に攻めのぼり、自刃。
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内管領長崎円喜入道の孫長崎高重は、僅兵を引き連れ自ら敵勢32人を斬り払い、東勝寺へ帰参。高重は高時に、自分が戻るまでは自害しないよう言い残し、新田勢に紛れ込む。義貞まで数10mに近づいたとき、新田勢に見破られ、数10倍の敵勢相手に斬り廻り、新田勢の同士討ちの隙をついて東勝寺へ退却。率いる騎士は僅か8騎。23筋の矢を体中に立てながら、高時の前で自刃。
続いて北条泰家(高時弟)の老臣諏訪入道が自刃。次々に側近や一門が自刃。
高時は諏訪入道の一族・諏訪盛高に2男亀寿丸を託し自刃。
金沢貞顕・安達時顕・長崎円喜・長崎高資らも同所で自刃。東勝寺も炎上。
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5月22日
・北条氏滅亡。
北条高時(31)283人、鎌倉東勝寺で自害
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北条泰時は、兄の高時の子を御内人に託して落ち延びさせ、自らも自決を装って奥州へ脱出。その後、上洛して西園寺公宗に匿われ、北条時行・名越時兼らと挙兵、しかし露見してまた逃亡。南北朝期は、南朝方として各地で挙兵。
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「未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ、鎌倉中のさはぎ手足を置所なく、あはてふあめきたる有様たとへていはんかたぞなき。
高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てふせぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川にをいて討取、其手引退いて霊山の頂に陣を取、同十八日より廿二日に至るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。
さしも人の敬なつき富貴栄花なりし事、おそらくは上代にも有がらくめいしかども、楽つきて悲来る習ひ遁がたくして、相模守高時禅門、元弘三年五月廿二日葛西谷において自害しける事悲むべくも余あり。
一類も同数百人自害するこそあはれなれ。
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。然間に鎌倉は南の方は海にて三方は山なり。嶺つゞきに寄手の大勢陣を取て麓におり下り、所々の在家に火を放ちしに、いづかたの風もみな鎌倉に吹入て、残所なくこそ焼はらはれける。」(「梅松論」元弘3年5月18日条、読み易くするため段落をつけました)。
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5月23日
・後醍醐天皇、六波羅探題滅亡の報により、船上山を下って帰京の途につく。
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宜しければ、下記ご参考まで。

(稲村ヶ崎古戦場)
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(極楽寺坂)
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(宝戒寺) : 北条得宗家(高時)の邸宅跡
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(九品寺):新田軍の鎌倉攻めの本営跡
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(東勝寺橋)
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「寺社巡りインデックス」
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「★鎌倉インデックス」
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