2020年7月4日土曜日

次男と寿司ランチ 2020-07-04

7月4日、くもり
雨が心配だったけれど、お昼、徒歩圏内のお寿司屋さんでランチ(=飲み)。
なかなかいいお店。

予報に反して、幸運にも雨には遭わなかった。
(九州球磨川流域で大きな被害がでているのに)

普段、お昼は軽くしか食べないので(なしの時もある)、夜は、食べる方はうんと軽くして、、、、飲む方は飲む、ということで、今日は新しいお酒。




【夜の街=悪者イメージ植え付けに異議あり!】 また飛び出した「夜の街」発言…小池都知事の会見に非難殺到(女性自身) / 「夜の街」関係者が4割で、それも、「ホストクラブの従業員らが症状がなくても集団で検査を受けている」結果だとしたら、そんな、「夜の街に気を付けて!!」と喧伝するほどの割合ではないのでは??






























嗚呼ウラジーミル! → 「領土交渉は終わった」領土"引き渡し禁止"盛り込んだロシア改憲案成立で認識…北方領土交渉 厳しい道へ(北海道ニュースHUB) / シンゾー「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう、プーチン大統領。(中略)ゴールまで、ウラジーミル、二人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」        







▼領土問題ではこのテ(↓)で逃げるかな?



2020年7月3日金曜日

次男と久々の呑み 2020-07-03

7月3日、曇りのち雨
ようやく繁忙期の明けた次男とひさびさのランチ。
(ジブン的には飲み会)
横浜みなとみらい、インターコンチネンタルホテルのなだ万で。

長男にもモチロン参集呼びかけはしたけれど、2人目が出来たばかりでこのコロナ騒ぎではちょっとムリですよね。

次男からは、ふーんそうなんだ、みたいな話をイロイロ聞かせて貰って、多少は世の中的知識をアップデートできたかな。

雨模様なので、二次会は自宅で。
ワタシは日本酒、次男は焼酎。
長男秘蔵のワイン二本と専用ウィスキーは手つかずで残してますよ。

天の川という和菓子。
ま、7月なのでいいか、と食べてしまった。
おいしい!

おやすみなさい。








2020年7月2日木曜日

この季節にしては珍しく片瀬西浜海岸からの富士山 2020-07-02

7月2日、はれ
今日は梅雨の晴れ間。
珍しく湘南モノレール江ノ島ライブカメラがギリギリだけれど富士山を映し出していたので、今週月曜日(29日)に行ったばかりなのに江ノ島に出かけた。
ま、今日は幸運にもギリギリ富士山を見ることが出来た。
この季節にしては、早朝は見える時があるにしても、お昼頃に見えるのは珍しいと思う。

海岸を引き上げる際、久しぶりに撮り鉄の真似事でもやるかな、と龍口寺から腰越まで歩いた。
貧弱な知識だけど、多分江ノ電では現役最古の型式(305)の電車に幸運にも遭遇した。

今日の総歩数は1万7千歩。



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慶応4年/明治元年記(10) 慶応4年(1868)2月11日~15日 彰義隊結成の動き 慶喜、上野寛永寺に謹慎 堺港攘夷事件 有栖川大総督、京都発(東海道先鋒は名古屋、東山軍は美濃大垣) 庄内藩主酒井忠篤、江戸発 

慶応4年/明治元年記(9) 慶応4年(1868)2月6日~10日 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、江戸城登城禁止 秋田藩、羽州一円の諸藩に使節派遣 大総督府・諸道総督府設置(有栖川宮熾仁東征大総督) 「偽官軍」布告(相楽の赤報隊取り押さえ)
より続く

慶応4年(1868)
2月11日
・一橋家家臣渋沢成一郎・天野八郎(上州甘楽郡岩戸村庄屋大井田吉五郎次男)ら同士17人、雑司が谷の茗荷屋で慶喜の冤罪をすすごうと相談。その後、会合を重ねるごとに同志は増え、21日には67人となる。23日、隊名を彰義隊とし頭取に渋沢成一郎(後、脱退)・副頭取天野八郎、屯所を浅草・本願寺とする。
・仙台藩、朝廷に徳川慶喜の処置を諸藩の議論に委ねられたいとする建白書を提出。
・高松三位(実村)、甲州人小沢一仙らにかつがれ官軍鎮撫隊組織。甲府入り。
・新政府、京阪の豪商に親征費(10万両)調達命ず。
・旧幕府陸軍諸隊に檄文。筆者は陸軍調役並本多敏三郎・伴門五郎の両名。同勤方須永於菟之輔の提唱。
・飛騨の竹沢寛三郎に東山総督府執事より出頭の最後通告。23日、総督府は梅村速水を飛騨国出役に命ずる。3月3日、梅村が高山着。13日、竹沢は高山を去る。後、加納(岐阜)で捕縛、4月10日より武州忍藩に預けられ10月10日に釈放。明治6年、神道修成派を結成。明治35年、74歳で没。
・鹿児島藩、参与大久保利通の意見により、風土10万石の献上を出願
・フランス、物理学者フーコー(48)、没。フーコーの振り子で地球の自転を示す。
2月12日
・慶喜、上野寛永寺に謹慎。慶喜、陸軍総裁勝安房守(46)の非戦論を容れて恭順の意表。午前5時、上野東叡山寛永寺大慈院に謹慎。上野には山岡鉄太郎(33)らの精鋭隊70余、榊原健吉(37)らの見回り組50、新撰組30余が警護。
慶喜の立野寛永寺謹慎に至り、大久保はようやく慶喜処分をやわらげ、死一等を減じ、備前藩に御預けにすべきであると述べる。いよいよ慶喜処分と江戸城攻撃が新政府の東征ブランの上で、射程の中に入りつつある。
・西郷吉之助、薩摩藩東海道先鋒隊差引として藩兵を率い京都を出発。有栖川宮大総督府は15日に出発。
・ロッシュ、大坂の公使館入り。
・政府、外国公使と天皇謁見の最終的討議を大坂裁判所で行う。13日、外国事務総督の東久世・伊達宗城、五代・小松ら外国事務掛と各国代表を歴訪。パークスは京都御所で各国代表が揃って参内を提案。ロッシュは天皇政権は西南雄藩に擁立されただけのもので正式政権ではないという考え。
2月13日
・容保、藩士・軍事奉行添役神保修理(30)に切腹命じる。22日、切腹。
・東山道先鋒総督兼鎮撫使岩倉具定、薩摩藩差引島津式部、本営参謀伊地知正治・大迫貞清・田中清右衛門・有馬藤太・種子田政明・池上四郎左衛門(四郎)、城下4番小隊(川村純義)・5番小隊(野津鎮雄)・6番小隊(野津道貫)・2番砲隊半隊(大山巌)・臼砲半隊・兵具方半隊、京都を出発(「鹿児島県史」第3巻)。20日、東山道軍、大垣集結後に東上する。
・板垣の迅衛隊、東山道先鋒総督府に所属し京都発。18日、大垣着。21日、大垣発。3月1日、下諏訪着。
・東久世・宗城・五代・小松、各国代表歴訪。
・山国隊、京都発。隊長因幡藩士馬場金吾・組頭藤野斎(38)。30人4分隊。岩倉具定東山道軍所属因幡藩兵800人の第13番隊として。水口市之進統率30人京都残留、御所警護・金策。
2月14日
・東久世通禧(みちとみ)・伊達宗城外国事務総督・醍醐忠順(ただおき)大坂裁判所総督、各国代表と会見。西本願寺。天皇政府の対外政策に従うことを各国代表の前で誓約させるため、主要17藩重臣が列席。入洛して天皇と会見するよう、正式申入れ。フランス公使ロッシュは反対、イギリス公使パークスは賛成、オランダはイギリスに同調、アメリカ・イタリア・プロシアは新政府に懐疑的。午後4時散会。16日午前10時再会合となる。
天皇謁見の件は、2月7日、薩摩島津忠義・越前松平慶永・土佐山内容堂ら6名の議定より建議。ただ、宮廷ではなかなか決まらず、この日14日夜10時頃ようやく決定(朝議決定の報は、15日正午までに大坂に届く)。17日、外国公使引見を布告。
2月15日
・堺港攘夷事件
前日に堺遊歩の届けを出したフランス人2人(ヴェニス号艦長ロア(少将)と兵庫副領事ヴィヨー)が外国事務掛の宇和島藩士らと大和橋に来るが、堺警備の土佐藩箕浦・西村両隊(71人)は免状が無い事から入市を拒否(堺は外国人が遊歩できる区域であるが、警護の土佐藩はそれを知らない)。午後3時、フランス軍艦デュプレクス号のボートが港内を測量、またロア一行を迎えるためランチが旭茶屋前に接岸。午後5時、2人が入市を試みて、土佐藩士に捕まる。1人が逃げ出し、ランチのエンジンに点火し船を出そうとしたため、土佐藩兵が発砲。殺害11、負傷5。
ヴェニス号のボートは、朝から木津川~大和川河口の砂洲を測量しながら港外に到り、堺沖に碇泊したデュプレックス号のランチを正面入口から誘導。ロア艦長以下はなかなか到着しないので、港内を漕ぎ廻って測量を続行。デュプレックス号のボート(上陸用蒸気艇)は、ヴェニス号の測量ポートに額導され、午後3時、堺港正面から入って来て、南側取っつきの岸壁の角にある料亭、旭茶屋前に着岸。乗員は、見習士官シャルル・ピエール・ギヨソを長とする護衛兵15名で、測量ポートはA・パリス少尉を長とする8人。蒸気艇乗員はピストル携行、ポートではパリス以外は武装せず。この時、警備の土佐藩兵側は、陸路を阻まれたので海から来た、と怒る。しかし、実際は港湾への外国人出入も自由で、堺市中に外国人遊歩を許した条項の付帯事項に「外国人は大阪府内に於て海陸共往来する事日本人同様差障なかるべし」とある。
フランス兵2人(デュレルとルムール)が栄橋通りに行くと、2本ざしの西村隊兵士がふいに現われ、どこかへ連行しようとする。デュレルは連行されようというが、ルムールは、不意に逃げ出し、蒸気艇後方甲板に上り繋留索を切ろうとする。箕浦が「射て」と命令、最初の一斉射撃で、ルムール他5名が身に数弾を浴びて即死。(即死は4名で溺死7名の計11名ではないか?=後で行方不明者7名引渡しは事実のようである)
・午後、アーネスト・サトウ、伊達宗城を訪ね、天皇謁見の議の結果について京都から通知があった否か聞きに行く。決定は伝えられたが正式通達はないとのことであるが、直ちに各公使を廻って招請の旨を告げるのがよいと助言。そこで伊達は午後5時、醍醐・東久世と共に最大の難物ロッシュを訪問。
・午後5時、伊達宗城、東久世と共に天皇謁見についてロッシュを訪問。散々時間をとらせた上で、ロッシュは「ミカド政権はクーデタ政権であり、謁見には応じない」と回答。午前1時、宗城はパークスを訪問しロッシュ説得手段を聞く。このとき、堺事件の報、入る。宗城は除外され、外交団はフランス公使館に集まり徹夜で協議。
・有栖川大総督、京都発。但し、既に東海道先鋒は名古屋、東山軍は美濃大垣にあり。/3/5.駿府城着。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、福井着、西本願寺掛所入り(13日敦賀発)。20日、佐賀藩兵が加わる。この間、越前諸藩主に対し、朝命に服する誓約請書を提出させる。また旧幕府領調査を命じ、福井藩には越前国内の代官支配地取締りを命じる。28日、福井発、金津着。翌29日、加賀の大聖寺に向かう。
・越前の松平慶永、上書。慶喜は罪を謝しているので、大総督の出発を中止し、諸軍を引きあげるよう建議。
・庄内藩主酒井忠篤、江戸発。途中、仙台で伊達慶邦と面会。3月9日、鶴岡城着。帰国にあたっては、新徴組を同行させ、幕府の兵器も持帰る。
・庄内藩家老松平権十郎、近日中に江戸を退去して国許へ戻ることを届け出る。
・大木四郎ら赤報隊分遣隊70人、碓氷峠屯集。小幡藩2万石松平摂津守忠恕、吉井藩1万石松平鉄丸、七日市藩1万石前田丹波守利豁が、勤皇誓約書を提出。高崎藩8万2千石松平右京亮輝照は代表を派遣してきたので脅迫して返す。安中藩板倉家から横川関所を官軍に引き渡させる交渉をする予定。
〔官軍先鋒きょう導隊本部〕大木四郎、西村謹吾、竹内健介、外組下10余人、〔大砲組〕金原忠蔵、北村与六郎、外組下10余人、〔監軍隊〕荒木直、小時三七郎、熊谷和吉、外組下10余人、〔探偵検査掛〕神道三郎、組下、土屋勝三郎、野瀬万吉、〔応接掛〕中山仲(造酒ノ助)、小林六郎(六兵衛)、〔小荷駄司令金穀出納役〕川崎常陸、下士2人、中間2人、〔遊撃隊〕桜井常五郎、組下14四人(信州附属扱い)、〔小銃組清水隊〕清水定右衛門、組下5人、〔小銃組大藩隊〕大藩栄、組下5人、〔小銃組今大路隊〕今大路藤八郎、組下5人。
・赤報隊西村謹吾、早駕籠で下諏訪発。佐久へ出た隊の先頭が軽井沢に到達しているが、不慮の衝突を避けるため和田峠まで引き返させるため。
・(新3/8)権田直助・落合源一郎、岩倉命により関東探索途中、下諏訪訪問。相楽謹慎説得目的だが相楽不在。17日、再度訪問。相楽不在のため、居合わせた隊士に、出かけている隊士を纏め、謹慎して総督府到着を待つように説く。この頃、下諏訪には赤報隊討伐の達しが、どこからとなく届いている様子。権田・落合は江戸へ向かう。
岩倉の密偵。これより先に、別の一組で武州賀美郡元安保村(現、埼玉県児玉郡丹ノ庄村)の塩川広平が、正月8日夜、京都を出て江戸に向かう。江戸では、旧幕臣の間に非戦主義者をつくり、旧幕軍の武力を弱めるのが目的(塩川「関東謀攻日記」)。塩川の江戸下りは岩倉の発案でなく、塩川自身の発案で、鳥羽伏見後、旧幕の武力を軽くみては間違うとして、関東謀攻策を岩倉に献策、同意を得る。周旋した者は、岩倉側近の北島千太郎(後の北島秀朝東京府大参事、千葉県令)、原保太郎。その1ヶ月後に、権田・落合が岩倉から関東探索を命ぜられる。これは三州刈谷藩士で、今は岩倉側近の伊藤謙吉が周旋。伊藤謙吉は阪木下枝・榊下枝と・坂木静枝ともいう。
・備前藩主池田茂政、病気を理由に隠居願い。/19.受理。支藩主池田政詮(章政)、藩主となる。
・新選組、2班に分かれて交替で慶喜の警備。
・(露暦2/3)チャイコフスキー「交響曲第1番」初演。モスクワ('73/3に3回目の改訂)。

つづく


止まらぬ感染者増に専門家が苦言「東京のコロナ対策は失敗」(女性自身);「都民にとって不幸なことが2つあって、1つ目は…五輪をやることを優先したあまり、対策が遅れた。2つ目は、この時期に東京都知事選挙があること…収まりかけたと思ったら、今度は選挙だということで、小池都知事は東京アラートを引っ込めて、自粛を全解除してしまった」




2020年7月1日水曜日

慶応4年/明治元年記(9) 慶応4年(1868)2月6日~10日 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、江戸城登城禁止 秋田藩、羽州一円の諸藩に使節派遣 大総督府・諸道総督府設置(有栖川宮熾仁東征大総督) 「偽官軍」布告(相楽の赤報隊取り押さえ) 

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)2月1日~5日 韓国との間に「皇」「勅」問題 慶喜、絶対恭順(降伏)決意 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず...」(西郷の大久保宛書簡) 親政の詔(「征討の大号令」)宣布
より続く

慶応4年(1868)
2月6日
・下諏訪に向い進軍中の相楽総三に金輪五郎が追いつき、京都に戻るようにとの伊牟田尚平の手紙(忠告)を届ける。総三は伊牟田に感謝しつつも、進軍継続。この日、下諏訪到着。人足を含め総勢220~230。これまで同様「年貢半減」の高札を掲げる。
伊牟田は、「朝廷におかせられては大軍議をなされ、それにつき滋野井、綾小路の両卿をお召しかえしになった。そのことでいろいろ疑惑も起ったので、桑名から昼夜兼行で京へのぼり、伺ったところ案外の好都合で、両卿は会津攻めの総督を仰付けられるとのこと、この手紙着次第、昼夜兼行で、帰洛し、両卿に附属せらるべく、御僻論御無用、何にても人の忠告御用い然るべし、実に千里一歩の場合ゆえ、くれぐれも申し上げる」と忠告。
1月25日、綾小路俊実が鵜沼に泊った時、「赤報隊は速やかに桑名に到り総督の本営に会すべし」との命令が届く。綾小路は先鋒の相楽を鵜沼に呼び、「桑名にある東海道総督の許に行け」と言うが、相楽は応ぜず、「悪名を着るとも、旧幕府の主力を苅るペく自分たちは行動する」と言う。そこへ桑名の本営から伊牟田が駈けつけ、「相楽君それはいけない、本営へ行くべし」と勧告するが、相楽は応じなかった。伊牟田はこれを以て、「僻論御無用」「何にても人の忠告御用い可然」と言う。しかし、この時、相楽が桑名へ行っていたら、山本太宰らのように死刑を免がれなかったと推測される。
□この時点での赤報隊幹部。
総裁:相楽総三、大監察:科野東一郎(斎藤謙助)、監察竹貫三郎(菊池斉)・木村庄蔵(岡田信造)・金原忠蔵(竹内廉太郎)、監察使番:西村謹吾(菅沼八郎)・伊達徹之助(戸田恭太郎)・丸山梅夫(金井清八郎)・大木四郎(大樹匡)・小松三郎(福岡幸衛)、使番:金田源一郎(宇佐美庄五郎)・高山健彦(望月長三)・渋谷総司(大谷総司)・浅井才二(神田湊)、役不明:桜井常五郎・神道三郎(三浦秀波)
・東海道・東山道・北陸道、三道鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と改める。
・幕府別撰隊頭佐川官兵衛、中隊司令官に任命され、江戸城内でフランス式訓練実施。15日、容保は、藩兵全員を和田倉邸内に集め、慶喜に従い東帰したことを謝し、会津藩を守ることを近い励ます。
2月7日
・村田蔵六(大村益次郎)、京都に入る。
・近藤勇、銃創治療のため横浜の医学所に行く
・赤報隊木下四郎ら5人、官軍先鋒と称して信州・上田城下着。8日夕方、中之条陣屋(埴科郡中之条村)に向う。9日、ここで、勤皇の誓約をさせるために、松代藩真田家に向うものと小諸藩牧野家に向うものの二手に分れる。小諸藩(1万5千石)では議論の末、帰順と金穀献納(米200俵・金500両)に決まり、大木らは金だけを受取る。
・丸山梅夫と丸尾清が率いる遊撃隊大砲隊2隊22人、上田より軽井沢に向かう。碓氷峠~坂本~横川~安中藩3万石板倉主計家中の動静探索と碓氷峠の確保が目的。そのうち金原忠蔵が兵を率い合流。
2月8日
・慶喜、松平容保・松平定敬ら朝譴(チョウケン)を受けた者24名に登城を禁じ、江戸からの立ち退きを命じる。
・伊達宗城、神戸事件の滝善三郎(32)助命について兵庫でパークスと会見。10日、滝善三郎(32)、神戸永福寺で米人の目の前で作法通りに切腹。備前藩家老日置帯刀家臣。
フラソス公使ロッシュも減刑に賛意を表すが、イタリアとプロシャが反対。パークスは、自分が陸戦隊上陸を要求する旗を掲げた為に、事件を大きくしたと感じ(実際後日そのように批判されている)、減刑に反対ではないが、事務官サトウとミットフォードが、一旦決めたことを改めるのは良くない、日本人に今後如何に我らに対処すべきかを教えておく方がよい、と反対。
・秋田藩、羽州一円の触頭を命ぜられ諸藩に使節を派遣。庄内・松山・山形・上ノ山・長瀞の徳川譜代5藩には、錦旗に発砲せぬよう諭す。
2月9日
・ハンガリー、全労働者協会設立。ラサール主義の影響。
・8日に東海道総督橋本実梁より呼出しがあり、相楽総三は金輪五郎を連れて出発。19日、大垣本営着。23日、下諏訪帰着。留守中、北信州の追分軽井沢で戦争。
・(新3/2)大総督府・諸道総督府設置。有栖川宮熾仁東征大総督。東海道軍・東山道軍・北陸道軍の総指揮官。参謀:正親町公董(公卿)・西四辻公業(公卿)・広沢真臣(長州、12日、広沢は辞任し、西郷隆盛(薩摩)・林通顕(宇和島)が参謀となる)。3道の先鋒総督兼鎮撫使には夫々公卿2人(正副)を選び、そのもとに参謀をおく。参謀は、東海道に木梨精一郎(長州)・海江田信義(薩摩)、東山道に板垣退助(土佐)・伊地知正治(薩摩)、北陸道に黒田清隆(薩摩)・品川弥二郎(長州)。3道には既に官軍が鎮撫使としてくり出しているが、それを改めて再編成し、兵を増発。15日、有栖川宮大総督、出発。
江藤新平、東征総督府軍監に任命され、同じく軍監の小笠原唯八(土佐)と共に江戸偵察に出発。乞食に変装して潜行、東征軍を待受ける。
・奥羽鎮撫総督沢為量、副総督醍醐忠敬、任命。11日、参謀に品川弥二郎・黒田清隆に任命。26日、九条道孝を総督に、沢為量は副総督に任命。30日、参謀黒田が大山綱良(薩摩)に、3月1日、参謀品川が世良修蔵(長州)に交代(黒田・品川は会津征討方針に異論を持ち、参謀を辞任したと考えられる。世良は強硬派。政府部内では常に穏健派(寛典処分派)と強硬派(武力討伐処分派)がある)。
・天皇の親征大坂行幸、決定。
・永井尚志(なおゆき、54)、御役御免寄合。19日、逼塞。
2月10日
・「偽官軍」布告。東山道総督府より信州諸藩へ相楽隊取り押さえるべしとの布告。13日、京都に行っていた竹貫三郎が、相楽総三が不在の下諏訪の赤報隊陣に、政府の偽官軍布告を伝える。
東山道総督府の布告。「回章 高松殿京師御脱走ニテ人数召連レ、東国へ御下向之趣、右ハ決(ケッシ)テ 勅命ヲ以テ御差向ニ相成候義ニチハ無之、全ク無頼ノ奸徒、幼稚之公達ヲ欺キ奪出シ奉り侯義卜察シ侯、右無頼ノ者共、当総督様ノ先鋒卜偽り、通行ノ道々、金穀ヲ貪り、其他如何様ノ狼薄可有之哉モ難計候ニ付、諸藩イヅレモ此旨篤卜相心得右等ノ徒ニ欺レ不申様可仕候、尤右公達ニ於テハ卒忽之義無之様可仕候得共、人数ノ義ハ夫々取押へ置キ、総督御下向之上、御所置相伺ヒ侯様可仕旨御沙汰侯事 附、先達テ綾小路殿御手ニ属シ居候人数、綾小路殿既ニ御帰京ニ相成供後モ、右ノ者共無頼ノ徒ヲ相ヒ語ヒ、官軍ノ名ヲ偽リ、きょう導隊抔卜唱へ、虚喝ヲ以テ農商ヲ劫シ、追々東下致侯趣ニ相聞エ候、右等モ高松殿人数同様之義ニ侯間、夫々取神へ置キ可申旨、被仰出侯事 二月十日 総督府執事」。宛名は堀左衝門尉(須坂1万石)、内藤若狭守(高遠3万3千石)、諏訪因幡守(高島3万石)、松平丹波守(松本6万石)、松平伊賀守(上田5万3千石)、真田信濃守(松代10万石)、堀内蔵頭(飯田1万7千石)、牧野遠江守(小諸1方5千石)、内藤志摩守(岩村田1万5千石)。
これより先、東山道鎮撫総督は、江州その他、赤報隊の通過した後々に布告。「近日滋野井殿、綾小路殿家来抔(ナド)卜唱へ、市在ニ徘徊イタシ米金押借り、人馬賃銭不払者モ不少候趣、全ク無頼賊徒ノ所業ニテ決而許容不相成候、向後右横之者於有之者捕へ置、早速本陣ヱ可訴出侯、若シ手向等致シ候モノハ討取侯トモ不苦段、被仰出候事。但シ此後岩倉殿家来抔卜偽り、右等之所業ニ及侯モノ可有之哉モ難計、聯ノ用捨ナク同様之取計可致旨、御沙汰ニ候事 戊辰正月 東山道鎮撫総督 執事 東山道諸国宿々村々役人中」
・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(兄弟)、徳川家威信回復を主張し、登城禁止となる。
・小笠原壱岐守長行、老中職辞職。

つづく


宇都宮けんじから小池百合子に対する公開質問(8項目);「あなたは、東京アラート解除の翌12日に都知事選への出馬を表明されました。政治的思惑から恣意的な対応を行ったとすれば重大です。結局のところ、東京アラートの発令とその解除は、あなたの都知事選出馬のための政治的都合を優先し、恣意的に判断されたものではありませんか。明確にご説明ください」









小池百合子氏「カイロ大学卒業証書」に残る疑問……舛添要一氏「ずっと彼女に騙されていた」(文春オンライン)




(略)

 15日、小池氏は会見で、お友だちメディア以外にも初めて卒業証書を公開。そこには「76年10月に行われた試験の結果、学位を与える」とあるが、小池氏は「自由にご覧頂きたい」と語るのみで、『女帝』でも再三示されてきた疑問には答えない。著者の石井妙子氏が言う。

「これまで不鮮明な証書しか見ることが出来ませんでした。今回ようやく小池氏が卒業証書を示しましたが、本人からは何の説明もありません。76年の10月上旬は同居女性とエジプトで国内旅行をし、その後小池さんは日本に帰国しました。その際、日本で取材を受けた記事に『9月にカイロ大を卒業した』とあり(76年10月27日付の東京新聞)、サンケイ新聞(10月22日付)には『10月11日に帰国した』とも記してある。記憶の鮮明なこの時期のインタビューに、なぜこんなに辻褄の合わない間違いが生じるのか。さらに言えば、同年8月、ハイジャック事件が起こって新聞にコメントを求められたとき、彼女は自らの身分をカイロ大生ではなく、『日本航空駐在員』としていたのも不可解です」

 小池氏は自著『振り袖、ピラミッドを登る』(82年)で、「一年落第」と記している。にもかかわらず72年に入学して76年にストレートで首席卒業と書いている点も謎のままだ。

(略)

 あの老獪な二階氏さえも振り回した小池氏。その言動を憂慮する元在日エジプト大使館職員(前出)の声が重く響く。

「首席卒業とはいくら何でも大風呂敷を広げ過ぎ。本当に優秀な卒業生なら、証書以外にバックアップする同窓生が出てきてもよさそうなものですが」

(略)

東京を壊した小池都知事をさらに追い込む「元都職員の重大告白」;「自分の話題作りのために、都の人とカネを使うようなイベントはやめていただきたい。それと、人事権の乱用は慎むべきだと思います。.....小池知事の場合、有力局長を格下の事務局長にするなど、見せしめ人事を行うことがあります。また、女性活躍社会を演出したいのか、副知事、局長、部長クラスに適材適所でない女性を持ってきて、役に立たないと簡単に配置換え。そうした思いつき人事もやめていただきたい」

小池百合子優勢…都知事選前に絶対説明しない「2つの大切なこと」(文春オンライン); 都民は知る由もなく計五回に渡って防護服は中国に寄付された。総数は三十三万六千着。金額にすれば約二億五千万円





2020年6月30日火曜日

「客観的な数値基準は、時の政権の思惑や政治イベントにかかわらず国民の命を守るために必要」 / 現行基準だと既に2つの指標で「(自粛)要請」レベルの数値だからネ → 東京都「新モニタリング指標」発表へ 数値の基準は設けない(TBS) / 東京都 新たなモニタリング7項目設定 数値基準設けず コロナ(NHK) ← 数値基準の無い「指標」? 



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慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)2月1日~5日 韓国との間に「皇」「勅」問題 慶喜、絶対恭順(降伏)決意 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず...」(西郷の大久保宛書簡) 親政の詔(「征討の大号令」)宣布 

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)1月27日~29日 正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う 政府軍、桑名城接収 相楽総三、「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る 赤報隊四日市事件(赤報隊最初の犠牲者) 綾小路侍従と赤報隊2番隊・3番隊は京都に戻り解隊、徴兵7番隊として戊辰戦争に従軍
より続く

慶応4年(1868)
2月
・この月、対島藩家老樋口鉄四郎、釜山着。持参文書に「皇」「勅」文字あり。日本に朝鮮隷属野望ありと判断。交渉1年余。書契受領拒否。国内での征韓熱かきたてる口実となる。
・2月~3月中旬の箱館の状況。
2月4日、1月9日付の織田信重(勘定奉行兼帯の箱館奉行)・新藤蔵(前年10月まで箱館奉行並)から京坂の状況を伝える「戦争ノ顛末は分り兼候」との注が付いた内状が届き、同日、箱館奉行の江戸詰組頭富田類右衛門らから鳥羽伏見の戦いで徳川方勝利の急報も入り混乱。6日、イギリス商船カンカイ号が入港し、神奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届き、鳥羽伏見の敗戦、慶喜の江戸帰府などの詳報を知る。11日、庄内藩箱館留守居所に国元から急使が到着、人員総引き上げ命令を支配所(浜益・留萌)へ飛ばし、箱館市街は浮説紛紜、騒然となる。13日、人心の動揺を静めるべく町会所を通して、市中が動揺し、乱暴を働く者が出現することもあると思うが、役人の指示に従って取り押さえる様、仕事には励む様にとの町触が出される。また、同日、杉浦奉行は、幕府による秩序維持に不安と困難を感じ、血判を押した緊急処置対策上申書を定役元〆坪内幾之進に持たせて幕閣へ上申すると同時に、組頭以下の属僚ヘも趣意徹底を図る。①賊船等の襲撃には徹底抗戦、②朝命を奉じた軍艦が平穏に引き渡しを要求した場合は従う予定であるが、幕閣の指示を待って実行する。
しかし、指示を待つ間にも情勢は緊迫度を増す(蝦夷地警衛諸藩の不穏な動き、商人は官吏を軽侮し、火付盗賊は横行、入港船激減で生活物資入荷が絶え物価急騰、人心不安)。
19日、杉浦奉行は、組頭4人(荒木済三郎、高木与惣左衛門、山村惣三郎、中沢善司)と議論。杉浦奉行は、箱館に留まり朝廷の派遣者に無事引き継ぐことを主張、高木はこの意見に同調、しかし、他の3人は諸事を警衛諸藩に預け引き上げを主張。その後、荒木は杉浦に同調。21日、治安維持保障と家業継続を推進する触書を出すと共に、杉浦奉行の決断並びに現況説明と蝦夷地経営の展望に関する上申書(2月27日付)を作成。山村・中沢両組頭は帰府懇願を変えず。28日、御雇英船カンカイ号で、支配組頭荒木済三郎は杉浦奉行の建白書を持参して江戸に向かう。この時、有合せの1万両と奉行所の米も、定役木下官一郎・足軽好本保右衛門を添えて江戸に送る。
一方、老中稲葉美濃守は2月12日、元箱館奉行支配組頭で一橋家郡奉行橋本悌蔵を箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応4年は7ヶ年季の場所請負運上金の年季切り替え年)などのため、箱館出張を命じる。箱館奉行所の慶応年間の年々の会計は約10万両で、内9万両程を場所請負運上金等の蝦夷地収納物で賄い、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程。3月2日、出発準備中の橋本悌蔵のもとに、杉浦兵庫頭からの上申書(2月12日付)が到着。橋本はこの上申書を幕閣に提出し、朝命遵奉と恭順、役人の江戸引き上げ指令を受け、6日、品川発で箱館へ赴く。3月16日、橋本悌蔵は支配組頭宮田文吉・御勘定阿久沢銈銈次郎らと蒸気船奇捷丸で箱館に入港。しかし、2月29日、人心動揺鎮静に心を砕く杉浦兵庫頭は、請負人の度々の歎願に押され、自己の責任をもって運上金増徴を見送り年季切替を行っていた。
・ドイツ関税議会選挙。
・ボロディン、ロシア音楽協会の内輪で第1交響曲の試演会をする。
2月1日
・新政府、大赦執行。
・木戸準一郎(桂小五郎)、外国事務掛を兼任。
・東山道鎮撫軍(総督岩倉具定)、大垣藩兵を先鋒とし美濃大垣(東海・東山の分岐点)に到着。土佐藩を含む先鋒は既に集結済み。15日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする本陣は2月15日、京を出発予定。
・英国人医師ウィリアム・ウィリス、アーネスト・サトウらと共に大阪湾安治川河口の天保山堡塁に行き、京都から送還されてきた会津藩傷兵の治療にあたる。
2月2日
・慶喜、絶対恭順(降伏)決定。慶喜、恭順決定のため鳴物・月代剃の停止命ず。
慶喜は、江戸に帰って以来、恭順するでもなく主戦論をとるでもなく曖昧な態度をとってきた。尾張の徳川慶勝や越前の松平慶永が新政府内で慶喜追討に反対し、救解運動を続けており、慶喜はその成果に期待し、諸侯の力による復権を願っていた。しかし、1月下旬、近畿以西の諸大名はほぼ新政府に跪き、25日には尾張徳川家でさえ重臣14名を処刑し、新政権への忠誠うに至る。ここに至り、慶喜は絶対恭順を決意し、事後処理は勝海舟・大久保一翁に任せる。
・西郷の大久保宛手紙。「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず、・・・」
「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越土などよりも寛諭起り侯わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味となりて、退隠位にて相済み候事と思召され候わば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ奉り侯。かく迄押し詰め侯処を、寛(ユル)やかに流し候ては、再びほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」(大久保利通宛書簡、2月2日付)。更に、「何卒御持ち合わせの御英断を以て御責め付け置き下されたく」と大久保に要請。尚、静寛院(前将軍家茂の妻、和宮)は、慶喜の周旋依頼をうけ寛大な処置を求めていた。
・政府、郡上藩に飛騨地方取締りを正式に命令。4日、竹沢寛三郎、飛騨陣屋入り。7日、陣屋門前に「天朝御用所」の高札を掲げ、年貢半減・諸運上軽減を布告。
先(1月18日)に郡上藩より飛騨警守の申し出あるが、安永2年の農民蜂起での郡上藩の鎮圧・虐殺の記憶から、飛騨に不穏な空気が流れ、別に岩倉から竹沢寛三郎への口達となる。しかし、1月下旬より相楽総三のような草莽排除・年貢半減令廃止方針を決めた政府は、改めて郡上藩へ命令。従って、竹沢と郡上藩は交錯。郡上藩は、竹沢の年貢半減令が戦費調達に支障をきたすと東山道総督府に訴える。
2月3日
・親政の詔(「征討の大号令」)、宣布。9日、征討軍編制。
・官制を「3職7科制」から「3職8科制」に改める。
同時に徴士は、「徴士無定員、諸藩士及都鄙有才ノ者公議ニ執り抜擢セラル、則徴士卜命ス、参与職各局ノ判事ニ任ス・・・」と新しい規定がなされる。徴士と参与と判事との職制上の関係を、明確に定める。2月20日の広沢日記にも「徴士参与職内国事務局判事被仰付」とあり、まず徴士となり、その上で参与職につき、内国事務局判事の仕事をするという仕組になる。
・外国事務掛を外国事務局と改める(外国事務局督・晃親王)
・稲葉正巳(老中格)、その職を退かれる。
2月4日
・渋沢成一郎(喜作)、鳥羽伏見の敗戦処理を終え江戸に戻る。
・伝習隊兵卒400、脱走し八王子方面に向かう。
・松平容保、慶喜に会い、養子喜徳に家督を譲ることを申し出、輪王寺宮に謝罪嘆願依頼、慶喜に従って恭順の姿勢を示す。しかし、明確に抗戦準備を進める。
・小泉八雲の妻となる小泉セツ、島根に誕生。
2月5日
・綾小路一行、京都着。鈴木ら、投獄後釈放。一部の者は、徴兵7番隊として採用。綾小路は海軍先鋒総督(後、伯爵)。
・ロッシュ、兵庫に戻る。
・徳川慶喜、松平慶永に書簡。恭順の態度を表明。
・赤報隊の大木四郎ら6人、下諏訪発。7日、遊撃隊大砲隊、出発。11日、金原忠蔵らが佐久へ出発。15日、先頭が軽井沢辺まで行っていて、不慮の衝突を避けるため、和田峠以降に引返す指示をだす。
・歩兵第11・12連隊の兵千余、野州方面に脱走。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜・広島藩兵を率い小浜発、7日、敦賀の陣屋入り。9日、敦賀沿岸の砲台を巡検、気比社に参詣、11日、北陸道諸藩に命じ、勅使一行への軍需物資供給、運搬の為の人馬準備を行わせる。13日、敦賀発。
・開成館(藩直営商館)、高知に設立。

つづく




米大手SNSのRedditは月曜日、79万人のユーザーを抱えるトランプ支持者最大コミュニティ「The_Donald」がヘイトスピーチによるハラスメントの温床になっているとして凍結すると発表

小学校教師が相次ぎ感染 校内を消毒し臨時休校に(テレ朝) / 相次ぐ教師の陽性…小池知事は市中感染拡大も見て見ぬふり / 小池都知事のご都合主義「悪いのは私じゃなくて夜の街」(日刊ゲンダイ) ← 「ウィズコロナ」とか「自衛」とか。自己責任でやってね、ということか! 



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【何を隠したいのか⁉️】 学歴に関して聞かれると自身の卒業は《大昔の前世紀のお話》 と、古い話へ押しやった上でイメージ操作をする小池百合子



【読書感想】女帝 小池百合子(fujipon) - BLOGOS ;「この人が都知事で、次の選挙も当選濃厚なんて、むしろ、フィクションであってくれないか……」 





2020年6月29日月曜日

江ノ島 片瀬西浜~鵠沼海岸、片瀬東浜を散歩 2020-06-29

6月29日、晴れ
梅雨の晴れ間、久しぶりに、江の島に行って、片瀬西浜~鵠沼海岸、片瀬東浜を歩いた。
さほど極端に暑くもなく、浜辺の散歩、なかなかグゥでしたよ。
波が良かったのかな、サーファーさんも多かった。
今年は海の家の無い海岸なんだね。

今日の歩数は1万3千歩。ボケっと海を見てただけなので、歩数は少ない。

▼片瀬西浜



▼片瀬東浜


小池百合子が何も言わないので → 埼玉県知事「東京都への不要不急の外出控えて」(20/06/29) / 埼玉県知事「都内での会食ぜひ避けて」 ← 自粛要請は補償とペアが原則 知事間できっちり打ち合わせて下さい!







ヤマザキマリ×内田樹対談 オリンピックについて(高知新聞)

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)1月27日~29日 正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う 政府軍、桑名城接収 相楽総三、「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る 赤報隊四日市事件(赤報隊最初の犠牲者) 綾小路侍従と赤報隊2番隊・3番隊は京都に戻り解隊、徴兵7番隊として戊辰戦争に従軍

慶応4年/明治元年記(7) 慶応4年(1868)1月23日~26日 旧幕職制を徳川家「家職」に改編 小野・三井・島田組、新政府の基金11.5%を負担する 大久保利通、大坂遷都建議、否決される 各国(6ヶ国)が局外中立宣言 赤報隊相楽総三に帰洛命令(草莽隊の位置づけ、民衆慰撫策の変容) 丹波山国隊組織
より続く

慶応4年(1868)
1月27日
・太政官代を二条城に移す。
・深尾左馬之助が率いる土佐藩兵2ヶ小隊、松山藩入城。翌28日、四条隆謌命による長州藩兵2ヶ大隊、三津浜上陸。四国地方はさしたる争闘なく鎮定。大体において、正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う。
これより先、宇和島藩主伊達宗城が藩兵を派遣、13日松山城を接収。
軍事参謀兼中国四国征討総督四条前侍従は、21日、明石城で長州軍に伊予松山討伐の命を発す。第2次長幕戦で、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されるが、長州藩はこのことへの報復のため、四条に働きかけて松山討伐命令を出させる。
松山藩は、土佐・長州・宇和島3藩に狙われ、陸上は土佐(2月27日迄1ヶ月滞陣)、海上は長州に制せられる。宇和島は土佐を「応援」ということになっているが、何を得たか明らかでない。
・慶喜、フランス公使ロッシュと会見。ロッシュ、「建白書」提出。
・勝海舟、シャノワン少佐を訪問。薩長を撃つ事について議論。松本良順へ100両支払う
1月28日
・朝廷、東征の軍を起すと議決。諸藩は軍が集結するに従い出発。
・政府軍、桑名城接収。桑名藩留守家老酒井孫八郎が城を明け渡す。下級藩士の多くは江戸へ走り松平定敬の跡を追うように越後・会津・庄内と転戦、流浪の軍隊といわれた。
・土佐迅衛隊、京都着。乾(板垣退助)、東山道先鋒迅衛隊総督就任。
・サトウ、初めて大久保一蔵を訪問。
・相楽総三、美濃大久手宿で再び相楽隊に合流。翌日、中津川に進む。2月4日、信州飯田入り。この時、相楽は自ら「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る。東山道進軍、「官軍先鋒きょう導隊」の名乗りは、政府の許可なく相楽の独断。
・赤報隊四日市事件、赤報隊最初の犠牲者。
滋野井侍従を中心に綾小路隊に合流するべく松ノ尾山から出発した赤報隊、桑名城下で宿泊のところを捕縛され、四日市で8名が殺害される。滋野井は京都送りとなる。
28日、滋野井侍従の一行は桑名城下の南にある安永村の青雲寺に宿泊。この時、亀山藩の進藤百助が一隊を率い桑名城下外れに敗残兵に備えて進駐しており、偽公卿と強盗=赤報隊の宿泊を知る。岩倉具視から出たと思われる「赤報隊は偽官軍、公卿を擁しているが、それは偽物、見当りに討て」との命令に従い、青雲寺の滋野井侍従以下十数人を捕縛し四日市へ連行。滋野井を偽物と信じてはいたが、嘘でも公卿なので処置を差控え、数人の生掃りと共に大垣の東征軍本営に引渡し、京都へ送る。
捕縛の際に闘ったのは、赤木小太郎のみ。亀山藩士志方小弥太は腿に銃創をうけ死亡。亀山藩の隊長進藤百助は、捕縛した者の中に、川喜多真彦(国学に精しく、号は櫪国、庄村貞甫と「文苑名家紀年大成」を編む。進藤百助はその門人)がいるのを知り、助命運動にかかるが、藩の力ではどうにもならず、四日市を貫流する三滝川(御嶽川)河原で、川喜多真彦、赤木小太郎、綿引富蔵3人を斬首。その他の者は、青雲寺を逃げ出したところを近所界隈の者が、棒や竹槍で追い廻して殺害。
・嘉彰親王、大坂から京都に移る。征討府は「大坂裁判所」となる。
1月29日
・新政府、京大坂の大商人百数十人を二条城に集め、戦費に充てる会計基立金300万両の募集を命じる。
三井・小野・島田の御為替方三組の33万両はじめ、京大阪の一般商人の応募が7割以上で、285万両余、ほぼ目標額に達する。
・板倉周防守勝静、老中を退く。
・綾小路侍従と2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)、名古屋発、午前11時、桑名着。ここで、滋野井侍従一行の悲報を知る。2月1日四日市、2日坂ノ下、3日水口、4日大津、5日京都着。
大原宰相重徳の家人北川大膳が名古屋に来て、綾小路・滋野井両卿とも至急帰洛せよとの命を伝える。綾小路名で先発の相楽隊に、「帰洛せよ」と使者を出し、京都引き返しの準備にかかる。
桑名で、山科能登ノ介は、大和十津川出身の前川鏡之進から、前日、四日市で「滋野井侍従と称するものを擁して、旗をたてて進んでゆく、それらの中の主なものが殺された」と聞く(松ノ尾山金剛輪寺から進軍した者が殺されている)。前川は、「本物でも構わん、附属のものの中で頭立ったものは斬れということになっています。さあ早く逃げてください」と促される。
山科能登ノ介は、武田文三らと相談し、東海道征討総督橋本少将実梁・副総督柳原前光綾小路を会わせ、問題は氷解、至急帰洛となる。入京後、新撰組脱退組の鈴木三樹三郎・新井陸之助・篠原泰之進は御親兵取締所に喚ばれ、拘禁され大津の元石原獄に入れられるが、1週間で放免となる。
京都で解隊した赤報隊は、「徴兵7番隊」として採用されることになる。山科能登ノ介は東伊佐男の変名を棄て、朝廷の医家に戻る。綾小路は、前に綾小路家から離別されており、実家に復し大原重実を名乗り、海軍先鋒総督となる。大原重実の子重朝と、滋野井公寿は、後に伯爵を授けられる。
「徴兵7番隊」は3小隊編制で、半隊長が阿部十郎・宮川次郎・児島一郎、監察は西本祐準・油井錬三郎(武田文三)・多賀啓蔵。のち宮川次郎が病死し、後任は速水湊、吉仲直吉も後に半隊長になる。5月18日京都発の甲州鎮撫総督四条少将隆謌に随行、6月1日遠州自須賀で甲州平穏を聞き東京へ向う。四条少将は奥州平潟ロ総督に任ぜられ、品川から万里九で、22日朝磐城小名浜に上陸。8月7日の大坪の戦闘、9日は相馬領目尻ロの戦闘、11日は菅谷ロの戦闘、その後、9月6日仙台入り、30日に仙台発、11月14日東京凱旋。この時、「7番隊」と行を共にした四条少将直属の小宮山勝蔵は、黒駒の勝蔵のこと(よって世間に伝わる次郎長対勝蔵の明治元年駿府一件なるものは誤謬である)。「徴兵7番隊」は、筑波、相馬、伊予、芸州の各藩兵と合同して戦い、戦死7名、負傷者は馬淵虎吉他17名を出す。

つづく


東京都知事選 情勢報道  6月29日の東京新聞を反映しました。— 三春充希(はる) ⭐みらい選挙プロジェクト






吉村知事に「現場を見に来て」…府下の現役教師が注文…新型コロナ下の混乱(デイリー);「吉村知事やその周辺はなぜ生徒への郵送方法やそれに含まれる代金も含めて立案しなかったのか疑問が残った。男性教諭は「本当に無計画だったとしか言いようがない」と振り返った。「吉村知事の人気取りのパフォーマンスだ」との批判もあったという」



▼維新流アレコレ








2020年6月28日日曜日

水無月を頂いた 2020-06-28

6月28日、あめ
今日は大好物の水無月(みなづき)を頂いた。
虎屋の水無月!


今日は午前中、本降り。


以前、京都駅で撮ったもの。
「五建」はお菓子屋さんの屋号。
これによると、6月30日に食べるのが古来からの習わしだったということになる。







慶応4年/明治元年記(7) 慶応4年(1868)1月23日~26日 旧幕職制を徳川家「家職」に改編 小野・三井・島田組、新政府の基金11.5%を負担する 大久保利通、大坂遷都建議、否決される 各国(6ヶ国)が局外中立宣言 赤報隊相楽総三に帰洛命令(草莽隊の位置づけ、民衆慰撫策の変容) 丹波山国隊組織  

慶応4年/明治元年記(6) 慶応4年(1868)1月19日~22日 慶喜・ロッシュ会見 赤報隊、美濃・岩手宿着 土佐藩迅衛隊(参謀乾退助)、高松藩開城 青松葉事件(尾張藩の佐幕派粛清) 慶喜、退隠表明、在京列藩主に救解依頼
より続く

慶応4年(1868)
1月23日
・(新2/16)旧幕府の職制改め、徳川家の「家職」の組織とし、陸軍総裁勝海舟・会計総裁大久保一翁・外国事務総裁山口直毅・海軍総裁矢田堀鴻・海軍副総裁榎本武揚(旧海軍頭)ら登用。譜代大名の職を免じ、直参旗本を登用。幕府が日本を支配する政府であることを制度的に諦める。中島三郎助(48)、両番上席軍艦役となる。
総裁・副総裁:①陸軍:勝安房守(海舟)・藤沢志摩守(次謙、梅南)。②海軍:矢田掘讃岐守(鴻、景蔵)・榎本和泉守(武揚、釜次郎・梁川)。③会計:大久保越中守(忠覚、一翁)・成島大隅守(惟弘、柳北)。④外国:山口駿河守(直毅)・河津伊豆守(祐邦、三郎太郎)。
・新政府、由利公正建議により会計基金300万両決定。小野・三井・島田組、11.5%負担し、会計局付き御為替方として募債協力。
小野組:旧幕時代から禁裏出入りを許され、御所や仙洞(上皇の御所)の用達を勤める。「小野組の総理」西村勘六の隣家は、たまたま大納言家の雑草を兼ねた社家(神職)で、その縁により由利公正と知り合い、軍用金調達について相談をうける。早速、勘六は、三井三郎助と島田八郎左衛門に話し、夫々1千両ずつ持参。更に、鳥羽・伏見の戦が始ると3家で1万両を献金。
・新政府、各国代表に局外中立を要請。
・大久保利通、朝廷改革を目的として、岩倉・木戸の同意を得て、大阪遷都意見書を朝議に提出。太政官会議で否決、但し、天皇自ら兵を率い大坂親征することは28日の朝議可決。3月21日、大坂行幸。
17日、大久保は内国事務掛に任命され、同日、総裁有栖川宮熾仁の諮問に応じ、天皇の石清水八幡宮と大坂行幸を強く訴える。目的は、「朝廷の旧弊御一新、外国御所置(大坂の外国公使館との交渉に便利)」にあり、親王も趣旨を理解(「大久保利通日記」上)。翌18日、大久保は、同僚広沢真臣に遷都が内国事務掛の仕事で「当務の急」だと相談して同意を得、副総裁岩倉具視も賛意を表し、親王と副総裁三条実美にも提案するよう助言される。19日、親王・三条に提案すると、特に反対もなく、広沢・後藤象二郎と相談して、朝議に付すことに決める。23日、遷都の建白書を太政官代に提出、公卿・諸侯で構成される議事所で持論を展開。大久保は、「復古の鴻業(コウギョウ)はまだ道半ばである。朝廷が一時の勝利をたのんで永久の治安が実現すると思っているならば、北条という前姦(ゼンカン)の跡に足利という後姦(コウカン)が生じ、(建武の)覆轍(フクテツ)を踏むことは必然である」(「大久保利通文書」2)と主張、南北朝内乱にたとえて、天皇親政の崩壊の危機を訴える。大久保の危惧は京都の存在にある。京都は「数百年来、一塊したる因循の腐臭」を放っている。これを一新して、「一天の主(シュ)」(天皇)と「下蒼生(シモソウセイ)」(国民)の「国内同心合体」を実現すべきで、その為に「大英断を以て挙げ玉ふべきは遷都にあるべし」とする。人民の為の天皇(絶対君主)を核に、「万国に御対立」(=「万国対峙)」)を実現するには、天皇は京都の「玉簾(ギョウクレン)」の中に閉じ篭らず、国民の前に姿を現すべきだと言う。
大久保の大坂遷都論は保守的な公家には過激に映り、支持を得られず、この日は、「衆評決せず」(大久保日記)。26日、大久保は岩倉から遷都反対の中心人物は久我建通(タケミチ、前内大臣)と聞かされる。久我らの主張は「遷都の事、薩に奸謀(カンボウ)これあり、是を期にして薩長相合し、大いに私権を張り候」(「大久保日記」)という。
①戊辰戦争遂行上の戦略として天皇親政(征)をアピール、②大坂の富商からの資金調達、③王政復古を宣言しつつも、新しい政権を作るという宣言。寺社・公家などの伝統的旧勢力からの脱却、イメージ、薩長で天皇を囲い込む。
「朝廷上に於て一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則ち北条の跡に足利を生じ、前姦去て後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たるべし。これに依り深く皇国を注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、国内同心合体、一天の主と申し奉るものは斯く迄に有難きもの、下蒼生といへるものは斯く迄に頼もしきもの、上下一貫、天下万民感動涕泣いたし候程の御実行挙り候事、今日急務の最も急なるべし。是迄の通、主上と申し奉るものは、玉簾の内に在し、人間に替らせ玉ふ様に、纔に御職掌には乖戻したる訳なれば、此の御根本道理適当の御職掌定りて、初て内国事務の法起る可し。右の根本推窮して大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし。如何んとなれば、弊習といへるは理にあらずして勢にあり、勢は触視する所の形跡に帰す可し。今其の形跡上の一二を論ぜんに、主上の在す所を雲上といひ、公卿方を雲上人と唱へ、竜顔は拝し難きものと思ひ、玉体は寸地を踏玉はざるものと、余りに推尊し奉りて、自ら分外に尊大高貴なるものの様に思食させられ、終に上下隔絶して、其の形今日の弊習となりしものなり。敬上愛下は人倫の大綱にして論なき事ながら、過れば君道を失はしめ臣道を失はしむるの害あるべし」(「大久保利通文書」)。
・新政府、理由の如何を問わず暗殺を禁止する触れを出す。
・アーネスト・サトウ、公使館付医官ウィリス、大坂着。25日、ウィリス、入京。相国寺養源院収用の100人の薩摩傷兵に外科手術。礼金500両は公使館付医官の義務として受取らず。ウィリスは2週間滞在。サトウは兵庫に呼び戻され26日、西郷と会見。
・相楽総三、再度太政官に建白(赤報隊への錦幟の下賜、東山道軍の附属とする)。意見上申というより東山道侵攻の決意表明。この頃、政府の征東政策は大きく転回。当初の兵力不足状況から、関東以西諸藩の帰順が決まり、動員された諸藩兵中心の組織原理に展開(=草莽隊不要、切捨て方向)。また、新政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面に押し出すこともなくなる。
速やかに東征軍を進め、赤報隊に「錦幟」を下賜されたいと歎願。東山道筋は「兵威モ不張」、「好藩」も多く、是非とも東山道で朝廷の為に働きたい、その為にも東山道軍附属として欲しいと要望。同時に、信州、甲州、武蔵、相模、両毛、両総、奥羽に同志が居り、官軍出陣の時には決起することになっているとも述べる。相楽は、かつての関東地方での擾乱工作や同志糾合の実績を背景に、東山道進攻の決意表明ともいうべきもの。
しかし、政府の征東政策は大きく転回しつつある。当初は、兵力不足の為、相楽ら草莽も兵力として期待され動員される。しかし、1月末迄に、関東以西諸藩の新政府帰順という大勢が明らかになり、征討軍は動員された諸藩兵中心の組織編成原理となる。つまり、諸藩兵を正規軍とし、相楽ら草莽隊を切り捨てる方向をとるようになる。
次に、鳥羽・伏見戦争以降、民衆の政府支持をとりつける策として年貢半減令を一時採用していた。しかし、三井・島田・小野・鴻池ら京阪の大特権商人から軍事費献納を受ける代償に、彼らに対し、年貢米取扱を特権的に保証し、米相場を掌握することによる利潤確保を保障する必要に迫られ、新政府の年貢半減令がその障害となってくる。1月下旬以降、政府は年貢半減令を民衆慰撫政策の前面には押しださなくなる。三井らが、軍事費調達の代わりに、年貢半減令取消しを政府に迫ったと推測できる。
・赤報隊綾小路侍従隊、22日に岩井を発ち、この日、加納着、ここで赤報隊に関する悪い噂を聞く。参謀山科能登ノ介は阿部十郎を上京させ事実無根と陳弁させる。
江州松ノ尾村に滞在中の赤報隊士と称する強盗が附近の豪家を襲い、金を強奪したとの浮説。しかし、目的をもって作られた噂であり、弁明も効果なし。
29日、相楽は布達を発す。「此度滋野井殿綾小路殿御人数御下向被成侯挙動ニ乗ジ、宿々村々無賃ニ而人足ヲ申付、或ハ手当無之泊リ等イタシ候モノ有之趣、以之外之事ニ侯、右者偽リ者ニ付、右横ノモノ宿々村々竹槍等用意イタシ置、突殺侯様急度可致候、決而遠慮無之事ニ候、若差扣(ヒカエ)其儘致シ置候ハバ、其宿其村役人共不調法ニ候間、他日急度御沙汰有之事ニ侯以上。 辰正月 官軍一番隊 相楽 総三」。
・庄内藩の府内取締りが廃止。
・1/10の騒擾事件で備前藩家老日置帯刀家臣滝善三郎、米人の目の前で作法通りに切腹。
・鍛治橋大名小路の酒井飛騨守役宅を新選組屯所に当てられる。
・河井継之助ら、大坂を去る。長岡藩兵、江戸に帰着。
・細井半之助、幕臣戸川伊豆守から託された徳川慶喜より山内容堂宛の救解依頼書を京都に届ける。25日、山内容堂、徳川慶喜からの救解依頼書を朝廷に提出。
1月24日
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、姫路着。27日、大坂に戻る。
1月25日
・各国(6ヶ国)代表、局外中立宣言。幕府と天皇政府を対等な交戦団体と認める。天皇政府には有利。幕府にとっては、正当政府が交戦団体に格下げされたことになる。
各国代表は連日会議を重ね、25日、局外中立を布告。各国は、鳥羽・伏見戦後の日本の国内情況を、幕府と天皇政府が国土を2分していると捉え、この戦争を幕府政権と天皇政権との間の戦争と規定、居留民の利益と安全、戦乱長期化に伴う国内市場荒廃を回避する為に、厳正中立を保つ事を決意。
これは、幕府と天皇政府が対等な交戦団体と認めた事を意味し、戦争は薩摩藩の反乱とする幕府の主張は退けられる。しかし、条約を対外諸国と結んでいる日本側当事者は幕府であり、列国側からすれば依然、日本を代表する「正当政府」は幕府の筈であるが、在日各国代表は本国政府の指令なしに、新政権(天皇政府)を幕府と対等な政治権力であると承認。天皇政府にとっては旧幕府と対等の国際的地位を承認される利点が、旧幕府にとっては正当政府から交戦団体に格下げされる不利がある。
・木戸準一郎(桂小五郎)、太政官の徴士、総裁局顧問となる。伊藤博文(28)、参与に抜擢。
・綾小路侍従、鵜沼で信州入りを断念、赤報隊先鋒相楽に戻るよう指示。相楽従わず。綾小路、2番隊(鈴木三樹三郎)・3番隊(武田文三)率いて引き返し、27日、名古屋着。
相楽は、「今、急に進軍して、一方は甲府を一方は碓氷峠を扼さないでは官軍の不利となります。譬え、後に軍令に反したといわれても、実利の要地を押えないでどう致しますか、相楽は名聞も栄達も考えていません、徳川氏が信州甲州の嶮を扼し、錦旗に抗したら日本はどうなりますか、今は区々たる一身のことを考慮するときではありません」といって引返しに応じず。
・赤報隊相楽総三に帰洛命令。相楽は潔白を弁明するために京都に戻る。詳細は不明であるが、相楽は28日、美濃大久手宿の相楽隊に合流。
・赤報隊(滋野井隊)を捕縛し鎮圧せよとの命令が下る。
・丹波山国隊組織。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜入り、慶喜追討の「大号令」・「農商布告」・「制札」3件を小浜藩重役に示し、朝命に従う旨の請書を出させる。
・箱館の飛脚屋島屋方に「上方大変」で始まる書状届く。鳥羽伏見の戦い、4日の仁和寺宮出馬までの情報。28日、「大政復古の大号令」の詳細情報も届く(箱館奉行杉浦兵庫頭の日記「日次記」)。
1月26日
・ロッシュ、幕府新任の陸軍総裁勝麟太郎ら諸役と面接。慶喜、ロッシュに宗家当主を紀州藩茂承(前将軍家茂の子、17)に譲ると告げる。
・サトウ、兵庫で西郷吉之助と会談。開国和親布告条文について議論。条約改正議論。

つづく




小池都知事「都税流用選挙」の狡猾 公務と称して練り歩き(日刊ゲンダイ); 「告示後の動画配信は、都庁の広報を利用した自己宣伝と捉えられかねません」 「都の役人は『動画配信は絶対にやめて』と知事側に伝えていたそうです。しかし、結果的に知事側は忠告を無視。」    

10万円、混乱続く自治体 作業場の電力不足/書類開封に150人動員(朝日); 給付率が低い政令指定都市と東京23区 ①大阪 3.4%  ②千葉7.9  ③名古屋8.8  ④相模原10.4  ⑤世田谷12.4  ⑥静岡16.0  ⑦川崎16.5  ⑧浜松19.1  ⑨品川20.3 20.3







▼名古屋、8人くらいでやってたんか!(人口200万なのに)


▼大阪、名古屋、、、なるほど、アホ市長やわな 雨がっぱ集めとか愛知県知事リコール運動とか、、、、













都知事候補討論会(2020-06-27); 津田大介「関東大震災の朝鮮人虐殺犠牲者への追悼文送付をなぜやめた?」 小池百合子「震災・戦争犠牲者の慰霊の気持ちに変わりない」 津田「変わりがないなら歴代都知事は続けてきた追悼文をなぜやめた?」 小池「犠牲者に追悼の意を表するのが慰霊堂での式.....」 意味不明・・の信号無視話法 / 何がなんでも日本人による朝鮮人虐殺があった事実を取り上げたくない、その非常に強い意志が読み取れる。 「そして、何でしたかしら?」ですからね。この件を切って捨てても、票には影響しないと舐めている。(吉方べき) 



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2020年6月27日土曜日

ご近所散歩 そろそろ紫陽花も終わりかな ムクゲが咲き始めた 2020-06-27

6月27日、曇り
今日は自宅近くをユル散歩。
そろそろ紫陽花の季節も終わりかな。
夏の花、ムクゲが咲き始めた。

開店早々の紀伊国屋書店で1時間ほど過ごす。
7月の100分de名著は吉本隆明なので、これは難解、テキスト買わざるを得ないかと思ったが、これはテキスト読んだくらいではダメだわ、止めた。

今日の総歩数1万歩。






慶応4年/明治元年記(6) 慶応4年(1868)1月19日~22日 慶喜・ロッシュ会見 赤報隊、美濃・岩手宿着 土佐藩迅衛隊(参謀乾退助)、高松藩開城 青松葉事件(尾張藩の佐幕派粛清) 慶喜、退隠表明、在京列藩主に救解依頼 

慶応4年/明治元年記(5) 慶応4年(1868)1月15日~18日 新撰組、品川着 赤報隊進発(「年貢半減」の高札) 主戦派陸軍奉行並小栗上野介忠順罷免 九州地方、新政府へ帰順 大垣藩恭順 三職七科制 慶喜、箱根・碓氷に目付を配備 勝海舟海軍奉行並 仙台藩ほかに会津藩征討令 三井三郎助ほかに献金命令 草莽隊編成
より続く

慶応4年(1868)
1月19日
・慶喜、諸藩老臣を江戸城西丸に召集、3日以降の事態を説明し自己の心境を述べる。会津容保・桑名定敬は再起を進めるが、「慶喜従はず」(「復古記」)。
・慶喜・ロッシュ会見。慶喜、江戸城でフランス公使ロッシュと会見。
慶喜:徳川家の領地を守るためには、場合によっては戦う。ロッシュ:軍艦・武器・資金援助するので抗戦せよ。26、27日と計3回。
「徳川慶喜公伝」その他で、慶喜の恭順の意は東帰後一貫して不変となっているが、ロッシュがアメリカ公使ファン・ファルケシバークに語ったところによると、第1回会見の際の慶喜の態度は抗戦の意志を秘めたものであった。「第一回の謁見のさい、大君(タイクン)は御門(ミカド)の意志に従う意向を表明したが、同時に徳川家の家長として大君が所有している領地に侵入したり、その領地を剥奪したりする権利は御門にないことをはっきり述べた。大君はこの領地をあくまでも防衛すると主張した。大君はこの戦いが起こったいきさつをくりかえし説明し、・・・御門は監禁状態にあり、決して自分のの自由な意志で行動しているのではないと断言した」(ファルケンバーグよりシェアード国務長官への報告、陽暦3月1日付)。
26日の第2回目の会見で、慶喜は、隠居の身分になって領地防衛に専念する為、徳川宗家の当主の地位を紀伊藩主茂承(17、前将軍家茂の子)に譲ると告げる(同、3月1日付ファルケンパーグ報告)。第3回会見の様子は米公使に話さなかったのか、報告にはない。ロッシュは、「隠居は大政奉還に続く戦略的撤退であり、その地位は日本の歴史に例があるように、その権威を奪うものではなく、むしろ一層自由に影響力を行使し得る。彼は依然として強力な実力者である」とムスティエ外相に報告(陽暦2月24日(陰暦2月2日)付報告)。
この日、ロッシュはオイエ提督と登城し、「建白書」を提出(彼に好意的でないフランス軍事顧問団長シャノアーヌ大尉の本国陸軍省宛報告にも提出したとの記述あり)。
[見解1]この時点で、慶喜は、徳川家の領地を守るため、場合によっては戦うと言い、あわよくば薩長を打倒し、王政復古の時点まで失地を回復しようとの野望が秘められていると考えられる。
[見解2]ロッシュとの会見で抗戦意欲を見せたのは、外国人相手に気張って見せたか、ロッシュの誇張かもしれない。ロッシュの報告には都合のよいことをならべたてる不正確なものが多いという(萩原延寿「遠い崖」)。
・大久保利通、有栖川宮・三条実美(議定)に大阪遷都進言。天皇の在り方の一新狙う。
・乾退助率いる土佐藩兵1,100、高松城接収のため丸亀に到着。京都から樋口真吉が錦旗をもたらす。
「十九日暁、樋口真吉、錦旗ヲ護シ姫(路)駅ニ著ス、昼二字(時)、全軍丸亀ニ達ストアリ」(「高知県史料」)。樋口は幡多郡中村出身、慶応3年5月、容堂ともえ扈従隊目付として高知を出発。錦旗伝達の役目を果した後は、東征軍に加わり、江戸、会津に転戦、翌明治元年11月帰国。
土佐藩兵:大監察小南五郎右衛門、迅衝隊大隊司令乾退助を含む戦闘部隊で、後の江戸、日光、会津攻めの主力。郷士にも元込銃を持たせたので有名。実数600名で、あとは弾薬方、輜重など補給の為の人数。
・赤報隊、美濃・岩手宿(岐阜県不破郡岩手村)着。22日、相楽総三隊、出発。
岩手には竹中丹後守重固の陣屋があるが(竹中は、鳥羽伏見の戦いでは徳川家本軍別軍2つの総指揮者で、若年寄並・陸軍奉行)、丹後守家老児玉周左衛門が苦心して、丹後守の老父竹中図書を同処の香華院へ謹慎させ、家人家士の妄動を抑え、流血騒ぎはなし。また、児玉周左衛門は、有志を募って赤報隊に加入させる(その数は20余とも12ともいう)。
この内、北村与六郎は慶応2年6月、藩主竹中丹後守の命を受け、同僚柵橋新次郎と共に、周防岩国藩吉川家に使いしたことがある程の人物。これは幕府の長州再度目の攻撃の際で、談判は周防玖珂郡新湊で行われ、吉川家と手切れの談判となる。北村は、主家のため身を棄てて赤報隊に入り、後に脱走者が出るが、最後まで赤報隊に踏止まり戦死。
赤報隊は諸所に出張し、会津・桑名その他、徳川家従軍の藩兵が落ちて行くのを訊問し、輜重を没収し、一方では糧米などを窮民に与えるなどする。
桑名藩主松平越中守定敬は、慶喜に従い12日に江戸入り、深川霊岸寺に蟄居謹慎しており、藩士の間に主戦非戦両論があるものの、桑名城は総攻撃をかけないでも、官軍の手に入ることが明らかになっている。そこで、赤報隊は東海道を進むを喜ばず、信州へ入り、甲州を鎮め、東征軍の江戸討入りに協力すべしと決す。相楽総三はその先鋒隊を志願して承諾を得て、22日岩手を出発。2番隊鈴木三樹三郎は遂に出立せず。
1月20日
・土佐藩迅衛隊(総督土佐藩家老深尾丹波・参謀乾退助)ら、丸亀藩・多度津藩と協力して高松藩開城、家老2名切腹。27日、伊予松山藩開城。
・(尾張藩)青松葉事件。尾張藩の佐幕派粛清。
尾張藩(藩主徳川慶勝)、藩内佐幕派の渡辺新左衛門(年寄列、2,500石)・榊原勘解由(城代格、1,500石)・石川内蔵允(クラノスケ、大番頭、1千石)ら3名を斬罪。「年来姦曲の所置」があり「朝命により死を賜う者なり」と言い渡し。~25日に計14名処刑、家老3名含む17名蟄居その他処分。
・徳川慶喜、松本・高崎藩に碓氷関警備命ず。この日、慶喜、鳥羽伏見の負傷者を収容する三田会津藩下屋敷を見舞う。家老梶原平馬(26)が出迎え。
・この頃から、京都で赤報隊に関する「悪い評判」(無頼の徒と如く農商人から金穀を奪う)が広まる。政府が意図的に流す。
・新選組屯所として、鍛冶橋大名小路の元秋月右京亮種樹の屋敷を与えられる。
・小坂騒動(塩飽島)。
・政府、幕府締結の条約遵守確認を各国に通告。
・夜、岩倉の放つ間諜塩川広平、京都からの同行者である中御門家の藤井弥三郎と共に江戸着。
堀江無名子(克之助)、中島蔵人、宮太柱、小倉但馬、川村壱岐守、遠山備後守、宅間朔之助、山岡鉄太郎、中条金之助、松岡万、老中小笠原壱岐守(長行)、松平大和守(直克)、石川熊武、小暮藤太郎、三木七郎、桑名廉助、小津小太郎、小倉庫之丞などと往来し、「関東謀政策」を行う。
1月21日
・外国事務総督東久世通禧、6ヶ国公使に兵器船舶の慶喜とその属臣に販売貸与を禁ずるよう申入れ(局外中立を要請)。具体的には、幕府がアメリカより購入して、現在太平洋を航行中の甲鉄艦を引渡されないようにするのが目的。パークス、サトウの示唆による。
これより先、鳥羽・伏見で戦端が開かれた3日、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、プロシアの各国代表に、薩摩藩の暴徒を嶺圧するために「日本政府」(=幕府)以外には武器・軍艦等を売らないよう要求。
・慶喜、退隠表明。慶喜、再度、在京の徳川慶勝・松平春嶽・浅野茂勲(芸州世子)・細川護久(肥後藩主弟)に書を送り救解依頼。
慶喜は、病気の為隠居を考えていること、鳥羽・伏見のことは素志に反し、朝敵の悪名を負ったが、これまでの厚誼により、朝廷をはじめ列藩へも説諭して、汚名をすすぐよう尽力されたいと、一歩後退した姿勢を示す。
・軍事参議兼中国四国征討総督四条隆謌、明石城で長州軍に伊予松山藩討伐命令出す。長州が報復のため命令を出させる(第2次征長戦の際、松山藩は長州領大島を攻略しようとして撃退されている)。
・東山道鎮撫総督(岩倉具定)の軍、京都発。その日に大津着。軍資金無く3日間滞在。東山道軍には京都三井家番頭堀江清六が従軍しており、堀江が京都に戻り、三井家が工面した3千両を24日、守山で軍幹部に渡す。しかし、この3千両も美濃大垣で無くなり、軍はここで10日間足踏み。沿道で金穀を募るが、相楽の年貢半減布達のため、思うに任せず。
・木戸孝允、上京。
・土佐藩別軍(総督深尾左馬之助)、高知発。仁淀川上流で先鋒と合流し1600となる(迅衛隊より多い)。26日、伊予松山領入り。27日、伊予松山城を包囲・開城。これより先、大監察小笠原唯八が松山に赴き、藩主久松定昭は恭順の意を表している。
・土佐藩士吉井源馬・山本復輔ら、天草諸島で乱暴を働いた花山院隊を鎮撫。
1月22日
・相楽総三隊、1番隊を率い美濃・岩手宿発。2番隊(鈴木三樹三郎)、後続せず。
・神戸事件下手人処罰は国辱とする備前藩藩論を背景に嘆願書提出される。
・東久世通禧、兵庫鎮台総督に就任。

つづく




犬や猫、150匹処分したのに「殺処分ゼロ」?その訳は(朝日2019年4月23日);「小池百合子知事が今月、昨年度の犬や猫の「殺処分ゼロ」を達成したと明らかにした。だが、実際には処分した犬や猫が約150匹いたという。「ゼロ」の裏に何があるのか。」      





2020年6月26日金曜日

横浜散歩 関内~横浜公園(スタジアム)~山下公園~フランス山~港の見える丘公園~アメリカ山~元町中華街 2020-06-26

6月26日、曇りのち晴れ
今日は一日中曇りの予報だったが、午後からは梅雨の晴れ間。
気温、湿度共に高い。
今日は横浜を歩いた。
JR関内駅~横浜公園(スタジアム)~山下公園~フランス山~港の見える丘公園~アメリカ山~元町中華街駅
総歩数は1万6千歩。
暑くてヘロヘロ!でした。

大桟橋では飛鳥Ⅱが4月からずっと係留中。先日、あろうことかボヤ騒ぎが起きた。溶接工事かなにかの火の粉によるものらしい。弱り目に祟り目、お気の毒。








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2020-06-26 #アーティチョーク #横浜 #港の見える丘公園

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