2020年12月31日木曜日

2020年大晦日の湘南海岸散歩 七里ガ浜 鎌倉高校前 腰越海岸 片瀬西浜海岸 富士山 2020-12-21

12月31日、はれ

2020年の大晦日、いいお天気なので湘南海岸を散歩。

七里ガ浜から片瀬西浜海岸まで、総歩数1万5千歩。

▼七里ガ浜


▼行合橋鉄橋と江ノ電


▼江ノ電鎌倉高校前

▼腰越海岸

▼片瀬西浜海岸

2020年12月30日水曜日

《今年読んだ本2020》 纏めてみました 2020-12-30

《今年読んだ本2020》

2020年に読んだ本を纏めてみました。

本題に入る前にちょっと、幾つか但し書きが必要なので、、、

①読んだ「本」とは言っても、中には雑誌1、展示会図録3(神奈川県立近代文学館での大岡昇平展で購入した3冊)、NHK100分de名著テキスト3が含まれています。

②「関東大震災朝鮮人虐殺横浜証言集」が不注意でダブってしまいまし。図書館で二度借りした時に二度写真を撮ったためか、と思われます。

さて本題、、、、

私の読んだ本のラインナップの中で朝日新聞の書評委員が選んだ「今年の3点」に一致するものとして、ただ1冊、横尾忠則が選んだ『長谷川利行の絵』がありました。ハマる絵描きさんです。長谷川利行関係では他に、『池袋モンパルナス そぞろ歩き 読んで視る長谷川利行 視覚都市・東京の色』というのを読んでいますが、実はこれは二度目の図書館貸し出しでした。他にも、以前に吉田和正著『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』というのも読んでいます。(若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)がいま進行中)

今年の一冊目『鶴見俊輔伝』は、昨年の朝日新聞書評委員が選んだ本に入っていて、即図書館予約をしたものとの記憶があります。

大岡昇平さんの関連は神奈川文学館での展示会で触発されたもの。一連の関連本、再読も入れて、これらを手に取るのはすごく心地よい時間でした。

地味に『資本論』関係が3点。商品の分析から始まるこの本の意義、ここがこの本のキモでではないでしょうか?。来年1月からの100分で名著、待たれます。

子規の関連本、動機はそろそろ3年目に入るかもしれない漱石年譜作りの一環でハマり込んだもの。そろそろ抜け出て、漱石に戻らないといけない。







二階の安倍斬りは本物? → 田原総一郎「安倍さんの勝手にお金使って.....安倍さんはもっと怒っていいはず」  二階「安倍さんの方から、そこから支払いなさいということを言ったわけですよ」 ← 補填を指示した(但し、原資が安倍の預金かどうかはチェックすべし)  

 



 

高齢者から切り捨ててゆく?..... → 埼玉の介護施設 感染後、入院先なく2人死亡 「保健所が病床確保困難と」(毎日);『施設によると、県の保健所から、重症者でも入院先確保は大変困難な状況▽無症状の入所者は隔離待機となる――との説明を受けていた』 / 自宅で健康観察中の感染者が死亡 年齢、居住地公表せず(朝日)     

 

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和歌山県のコロナ対策 ; 和歌山県|知事からのメッセージ 令和2年12月28日 「厚労省は発症前2日間は無症状でも人にうつすおそれがあるので、行動履歴はちゃんと調べるようにという見解ですが、我々の調査では発症3日前にうつしている例もありましたので、自発的に発症3日前から行動履歴を調べ.....

 

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2020年12月29日火曜日

鎌倉師走散歩 妙本寺の名残の紅葉と八重の紅梅 2020-12-29

 12月29日、くもり

いよいよ押し迫って来た年の瀬。

予報とは違って冴えないお天気だったが、師走の鎌倉を散歩。

ま、予想はしていたものの妙本寺の紅葉、なかなか綺麗だった。

祖師堂の右側、二天門の前、参道階段の上あたりが最後の名残の紅葉。

晴れていればもっと綺麗だったかも知れない。しかし、明るくて難点も見えやすいかも知れないので、まあこれで良かったことにしておこう。

また、祖師堂左側では紅梅(八重)が少し開花を始めていた。

大巧寺にも立ち寄った。ここでは、蝋梅が咲き始めていた。









日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)「「柿二つ」は虚子が子規の晩年の数年間をその死まで描いた小説で、大正四年一月から四月まで朝日新聞に連載された。この年、数えで四十二歳の虚子は大阪毎日新聞「俳句欄」の選者も務めており、『俳句と自分』や『子規居士と余』を相次いで刊行するなど忙しい年であった。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)

「柿二つ」 - 虚子と碧梧桐


1 雑誌を編輯してゐる俳人


「柿二つ」は虚子が子規の晩年の数年間をその死まで描いた小説で、大正四年一月から四月まで朝日新聞に連載された。この年、数えで四十二歳の虚子は大阪毎日新聞「俳句欄」の選者も務めており、『俳句と自分』や『子規居士と余』を相次いで刊行するなど忙しい年であった。

小説のタイトルは子規が明治三十年秋に詠んだ


三 千 の 俳 句 を 閲(けみ) し 柿 二 つ


から採っていることは周知の通りだ。この作品で虚子は写生文の特色を存分に活かし、子規の風貌を実にリアルに活写して余すところがない。おそらく虚子の小説の中では最も秀れたものの一つであろう。

ところで大正四年といえば子規没後十四年、俳句の世界で虚子と碧梧桐が袂を分かってからだいぶ経つ。当時、碧梧桐は新傾向俳句の旗頭として『新傾向句集』を出すなど、その活躍ぶりが世間の注目を浴びていた。

こうした二人の文学上の対峙だけが理由とは思えないが、子規とその周辺を描きながら「柿二つ」はあくまでも子規と虚子の交友が主であって、その他は全て脇役でしかない。また、ここでは主な登場人物はSは子規、Kは虚子といった具合にイニシャルで表す。子規は幼名の升(のぼる)からNの場合もあるし、画家の中村不折はFだ。しかし、どこにも碧梧桐のイニシャルHは出てこない。余り顔を出さない不折にイニシャルを与えるのなら、碧梧桐もHとすればいいのに虚子はそうしていない。

ただ「Kと雑誌を編輯してゐる俳人」というのが碧梧桐のことだ。もっともこういう言い方は碧梧桐だけでなく、伊藤左千夫は「ストーヴを寄附した歌人」になっている。これは左千夫が明治三十三年、子規庵へ石炭ストーヴを寄贈したからである。ちなみに子規生前の根岸界隈はガスはおろか、水道も電気も来ていなかった。電話を引いているのも陸羯南の家だけであった。電気が来ていないのに電話があるのは不思議なようだが、電話は電話線を引くだけで工事が簡単だったからであろう。

(略)


2 もう一つの絶筆


子規の病気を案じて、明治三十五年一月、碧梧桐は妻の茂枝と共に子親庵とは目と鼻の先の上根岸へ転居して来た。虚子も明治三十年十一月から、新婚早々のいとと子規庵からさして遠くない日暮里村元金杉に部屋を借りていたが、何度目かの転宅の末、明治三十四年九月からは麹町区富士見町に移った。長女真砂子、長男年尾が生まれ家が手狭になったからである。寒川鼠骨は以前から子規庵の真南、鉄道線路を渡った空き寺の涼泉院に間借りしていた。

この三人の門下生が中心になって明治三十五年三月の末から、看護当番を決めて子規庵に交替で詰めることにした。子規の母や妹の看病の労苦を少しでも軽くするためであった。

案じていた矢先、それから間もなくの五月十三日、子規の容態が悪化し危篤に近い様相を呈した。子規も『病淋六尺』の五月十八日の項に、


十三日といふ日に未曽有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても迫つ附かず、どうやらかうやら其日は切抜けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といぶ体温は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず・・・


と後日筆記させている。この時は子規ももうこれで駄目かと覚悟し、牡丹の花生けの傍に置いてあった石膏の自分の塑像を碧梧桐に持って来させ、


自題

土 一 塊 牡 丹 生 け た る 其 下 に


と自ら書きつけた。もしこの儘眠ってしまったら、これが絶筆になるところだった。碧梧桐は前夜から当番で泊まっていて、子規が絶筆を書くのを手伝うことになったわけだ。虚子も碧梧桐からの連絡で遅れたが駆けつけ、碧梧桐と交替しその晩は当直した。この日の模様を碧梧桐は、子規の三十三回忌のために補筆した『子規を語る』の〈続編〉に、


それから秀真(ほずま)の作つた子規の塑像を持つて来いと言って、其の裏に「自題 土一塊牡丹生けたる其下に 年月日」と墨をつぎつぎ書くのであった。「病牀六尺」にも「若し此儘眠つたらこれが絶筆であるぞと言はぬ許りの振舞」とあるやうに、明らかに辞世の一句であつたのだ。                (二十八 辞世)


と書いている。

しかし、こんな大騒ぎをした子規も午後になると次第に苦痛も薄らぎ、その日が根岸の祭礼日だったことを思い出す。そして朝の様子とは打って変わって、豆腐のご馳走を取り寄せたりワインに口をつけてみたり、俳句を作ったりする。

(略)

さて問題の子規の塑像は、正面からとひっくり返して底面を撮ったものの二葉が講談社版の『子規全集』第三巻の口絵に出ていて、絶筆もはっきり読みとれる。それは、なぐり書きながら子規らしい筆致でさほど弱々しいものではない。ただ日付は「五月十五日」と書くべきところを「明治三十五年五月十二日」としているが、これは気分の高ぶっていた子規がうっかり間違えたのだろう。


つづく




「安倍氏は自分の言葉でご飯論法を使いこなせないタイプ」 法政大・上西教授(毎日);"野党にその場で質問されて困ったときも、後ろに控えている秘書官を振り返れば、その秘書官が答弁する内容のメモを差し入れてくれました。しかし、今回は首相を退任し、秘書官の助け舟がありません。そうなると途端に何をどう答えていいのかわからなくなってしまう。"   

 

仏記者が酷評「菅首相は本当の記者会見をしたことがない」(日刊ゲンダイ);「8年近くの官房長官時代、菅氏は文書を読み上げ、即答できない質問には官僚がメモを渡していた。総理になっても同じ。本当の記者会見をしたことがないのだなと思います…安倍前首相よりひどいと思う。」  「日本学術会議問題が主題でしたが、菅首相は10回以上、繰り返し事前に用意したメモを読みました。質問に窮して、答えられなかったのです。異様な光景でした。この場面が最大のハイライトなのに、ほとんどのメディアは、発言内容を伝えるだけで、首相の困惑ぶりを報じなかった。」   

2020年12月28日月曜日

【DHC現役社員が告発(#1 #2 #3)】ヘイト炎上の源泉は会長のヤバすぎる“差別通達”《タレントの出自に関する記述も》 / DHC会長が全社員に口コミサイトへ“サクラ投稿”奨励「ゴールド社員の称号を与える」《消費者庁は「非常にグレー」》 / 【内部文書入手】DHCのヤバすぎる勤務実態「産休取得で降格、査定基準に“愛社精神指数”、ボーナスのお礼を会長にファクス」 / DHC会長文章の審査要請、大阪 在日コリアン、反ヘイト条例で        

 

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菅首相、県知事らと「マスク会食」 GoTo再開で意見交換(12/28) / 二階氏「会食」を否定 「8人で会っただけ」 菅首相参加のステーキ店会合 / 徳島自民党県議ら、数十人会食 飯泉県知事も参加 / 全国知事会長の飯泉・徳島知事、県議ら46人と会食 「問題ないものと認識」 / 「『会食』ではなく『自由参加の食事』だ」という新たな言い訳。→ 埼玉 自民県議が大人数で会食 / 橋本聖子・五輪相、ぐるなび会長の130人大規模パーティに参加していた / 宮腰元大臣 30人超の酒席参加 / ”宴会”した議員らが謝罪「コンパニオンはコロナ感染対策のため」と説明 愛知県西尾市 / 尾身会長警鐘の夜に… 橋本聖子五輪相「6人で高級寿司会食」ほろ酔い写真        

 



 

2020年12月27日日曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)「子規もまた漱石から見れば拙を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした拙に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ9)

4 拙を守る


漱石は子規没後、子規にふれたものとして「無題」(明治三十六年)、『吾輩は猫である』中篇自序(明治三十九年)、「京に着ける夕」(明治四十年)、「正岡子規」(明治四十一年)、「子規の畫」(明治四十四年)の五篇を残している。

「無題」は子規の墓参記だが未定稿でどこにも発表していない。「京に着ける夕」は明治四十年四月、朝日新聞に入社した漱石が読者への挨拶のため書いたエッセーで、その中に子規の思い出も入れたもの。「正岡子規」は談話筆記で厳密には漱石の著作とはいい難い。そうなると、子規のことを念頭において執筆したのは『吾輩は猫である』中篇自序と「子規の畫」の二篇ということになる。

「子規の畫」は明治四十四年七月四日の朝日新聞に掲載されたもので、「畫」とは明治三十三年六月中旬、子規が熊本にいる漱石に送ったあづま菊の畫のことだ。子規はこの年の春頃から畫を描くのが面白くなり、漱石の長女筆子の初節句に三人官女を贈る時にも、


・・・此項ハ何もせずに絵をかき居候 それが又非常に面白いのでいよいよ外の者がいやになり候 一枚見本さしあげんかとも存候へど大事の秘蔵の畫を割愛して却て笑はれるのも引き合はずと其まゝ秘蔵、ひとりながめて楽居候      (明治三十三年三月三日付)


と畫をかく楽しさを吹聴している。そして六月の中旬には前にもふれたように、あづま菊の畫を一枚漱石に送った。

漱石はたった一枚しか持っていないこの子規の畫を、散佚させてはいけないと思い後に表装させた。畫だけでは淋しいので、それを挟んで上と下に手紙を入れ三つを一纏にして懸物にしだ。上の手紙は明治三十年九月六日、熊本に発つ漱石に送った《秋雨蕭々(しょうしょう)》で始まる漢詩のような短い手紙。下は《僕ハモーダメニナツテシマッタ》で始まる、例の子規最後の手紙であった。

漱石はこの懸物を時折壁に掛けて眺めた。


・・・眺めて見ると如何にも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せて僅に三色しか使つてない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。・・・


東菊によって代表された子規の畫は、拙(まず)くて且(かつ)真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦(すく)んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じ得ないのである。・・・


子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。・・・彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ畫が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかつた。      (「子規の畫」)


これは漱石が子規の畫を貶(けな)しているのではない。寸分の狂いもなく巧みに描かれたものより、どこか「拙」のある方が漱石の美学にかなうのである。もともと漱石は「拙」にこだわり、熊本時代、「正岡子規に送りたる句稿」(明治三十年、三十一年)の中にも、


木 瓜 咲 く や 漱 石 拙 を 守 る べ く

正 月 の 男 と い は れ 拙 に 処 す 


といった句が見られる。

「拙を守る」とは陶淵明の詩「拙を守って園田に帰る」から来ていて、世渡りの下手に甘んじ、利巧に立ち回れない男のことをいう。事実、陶淵明は「帰去来辞」にあるように江西省のある県の長官だった時、上官に媚びることを潔しとせず、職を辞して郷里に帰り酒と菊を愛して悠々自適の生活を送った。漱石は『草枕』(明治三十九年)の中でも、


世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度(きつと)木瓜になる。余も木瓜になりたい。


と主人公の画家に言わせている。画家は漱石とみていい。そう言えば、『吾輩は猫である』の苦沙彌先生や『三四郎』の廣田先生も守拙派であるともいえる。

もっとも小説の登場人物だけでなく、漱石の周辺にも拙を守る人はいた。二歳上の友人、狩野亨吉などもそのひとりだ。狩野は一高校長や京都帝大の初代文科大学長を務めた立派な大学者でありながら、生涯娶らず退職後は八畳と三畳二間の借家に住んで、書画や骨董の鑑定に甘んじる。子規の上司である陸羯南や、叔父の加藤拓川なども栄誉や名声を求めぬ点では守拙派だった。

子規もまた漱石から見れば拙を守る男であった。「拙」なるが故に世間の常識とは逆に芭蕉より蕪村を高く評価したり、保守派の歌人の顰蹙を買うのを承知の上で「歌よみに与ふる書」を書いて短歌革新を試みたりする。漱石はこうした拙に生きる癖に、《妙に気位が高かつたり》《何でも大将にならなけりや承知しない》(談話「正岡子規」)俗なところのある子規が好きであった。

それだけに漱石は畫だけでなく文学においても、《出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮》してもらいたかったが、子規は志半ばで世を去ってしまった。漱石はこの「子親の畫」を見るたび、それが残念でならない。


つづく



桜を見る会「国家溶かした安倍氏、菅首相も同罪」文筆家・平川克美さんの問い(毎日);「制度の運用者が、その制度の信頼を根底から破壊したのです。特効薬なんてありません。まずそれぞれの制度が、本来持っていた制度として機能を回復していくことしかないんじゃないですか。国会は国会、メディアはメディア、司法は司法、というふうに」

 


 


領収書も明細書も開示しない安倍晋三 → 修正された3年分の安倍後援会収支報告に補てん分の領収書(2604908円他)が添付されていない問題。紛失なら再発行可能だがなぜしない?仮定①領収書の宛名が違う(宛名が資金管理団体なら代表者は安倍前総理)②本当に紛失したが実は「出納帳」が存在するため細かい金額が記載可能…疑惑は深まった(辻元清美)    

 


「ホテルの明細書はない」と話していた安倍氏が、今回突如「事務所にはない。ホテルにはある」と言い出した。 だが、明細書は「営業上の秘密があり、出せない」と主張。 / 辻元議員「あなた、自分の政治資金収支報告書も確認せずにここに来られているんですか?」とド詰め / 江川紹子氏は「明細書の内容など事実関係を把握しておらず、どこに問題があったのか検証していない。年が改まれば忘れてもらえる、と期待しているように思える。民主主義の屋台骨ともいうべき国会での答弁の責任は重い。議員辞職して出直すべきだ」





 

2020年12月26日土曜日

「桜・前夜祭問題」一層巧妙化する安倍前首相のウソ(郷原信郎)  ; 明細書に関する安倍氏の説明の「大ウソ」  費用補填の原資についての苦し紛れの「弁明」 政治資金と個人資金の一体化という重大な問題

 

「何を反省しているか分からない」「責任問われるから隠蔽」 安倍氏説明に疑問次々(毎日);「明細書の内容など事実関係を把握しておらず、どこに問題があったのか検証していない。これでは何を反省しているのか分からない」 / 野党から求められた明細書の提出はいまだに「営業上の秘密」と難色を示し、不記載を始めた動機をたずねられても、「前任者に確認できない」「答えられない」と説明  

「裏切られた」「議員辞職だ」 安倍氏、地元も厳しい声(朝日);「利益供与に当たる疑いがある。違うならば安倍氏が証明してほしい」「知らなかったわけがない。しらじらしくて国民をばかにしている」「ひきょうな逃げ口上だ。本人が自覚するまで、もっと追及してほしい」「議員辞職に値する。これで終わりにせず、真相を究明すべきだ」

 

「ホテルの明細書はない」と話していた安倍氏が、今回突如「事務所にはない。ホテルにはある」と言い出した。 だが、明細書は「営業上の秘密があり、出せない」と主張。 / 辻元議員「あなた、自分の政治資金収支報告書も確認せずにここに来られているんですか?」とド詰め / 江川紹子氏は「明細書の内容など事実関係を把握しておらず、どこに問題があったのか検証していない。年が改まれば忘れてもらえる、と期待しているように思える。民主主義の屋台骨ともいうべき国会での答弁の責任は重い。議員辞職して出直すべきだ」    

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領収書も明細書も開示しない安倍晋三 → 修正された3年分の安倍後援会収支報告に補てん分の領収書(2604908円他)が添付されていない問題。紛失なら再発行可能だがなぜしない?仮定①領収書の宛名が違う(宛名が資金管理団体なら代表者は安倍前総理)②本当に紛失したが実は「出納帳」が存在するため細かい金額が記載可能…疑惑は深まった(辻元清美)




安倍前首相は国会で答弁を「訂正」するはずではなかったのか?(上西充子) / 参議院議員運営委員会(12/25) 安倍晋三は答弁を「訂正」したいと申し出ていたのに、どこをどう訂正するのか、はっきり説明しなかった。 安倍晋三が真面目に答弁しなかった点  ・各自にホテル名義であて先のない領収書を渡していたのか(+産経新聞の領収書報道は何だったのか) ・集金した額を集計もせずにそのままホテル側に渡していたのか ・請求書の宛先は誰であったのか ・どこから補填したのか ・明細書は確認したか など。 — 上西充子

 

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2020年12月25日金曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)「『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。.....ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ7)「『三四郎』は今ふうにいえば明治の青春文学の傑作で、今に至るも決して人気は衰えていない。.....一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。.....小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として『三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういふ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ8)

3 不折の鰹節


「三四郎」を執筆中、漱石はふと子規からもらった最後の手紙を思い出した。

それは子規が明治三十四年十一月六日、久しぶりに漱石にしたためた《僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ》で始まるあの有名な手紙だ。・・・・・

(略)

・・・・・その中に、


不折ハ今巴理(パリ)ニ居テ、コーランノ処へ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドゝイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。


と不折のことを面白おかしく書いた個所がある。これは子規が余りにも悲痛なことばかり書いたので、ここらで漱石を喜ばせようと思って、滑稽味を出そうとしたのかもしれない。コーランというのは、不折が美術学校に通うかたわら個人的に師事していたパリの画家、ラフアエル・コランのことだ。

ところで『三四郎』には「原口さん」という画家が登場する。ある日、三四郎がたまたま廣田先生を訪ねた時、そこへ原口さんがやって来て、三四郎は先生と原口さんの話を聞く羽目になった。どうやら原口さんは、三四郎がほのかに恋ごころを抱いている美禰子の肖像画を制作中らしい。・・・・・それから二人は、


「原口さんは洋行する時には大変な気込(きごみ)で、わざわざ鰹節を買ひ込んで、是で巴里の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴里に着くや否や、忽ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方兄からでも聞いたんだらう」


と取りとめもない話をする。ここでは不折のエピソードが「原口さん」のエピソードになっているが、名前は関係ない。注目すべきは、ここでも漱石は子規の最後の手紙を思い出していることだ。漱石はおそらく「倫敦消息」の続篇を送らなかったことが、こんな時にも唐突に頭によぎったにちがいない。一般の読者にとっては何の係わりもない話だが、漱石にとってそれは心の中にわだかまっている重石のようなものだったのかもしれない。

子規の手紙に出てくる不折は子規の推挙で「小日本」で挿絵を描き、その縁で日本新聞社から従軍画家として、子規といっしょに遼東半島にも派遣された中村不折のことである。不折は子規や漱石より一歳年長の慶応二年生まれだが、画や書を通じて二人とは親しくしていた。子規は不折が明治三十四年六月末、フランスへ留学するとき、『墨汁一滴』に五回にわたって不折の人となりや画業にふれ渡欧の記念とした。その中で、不折が貧しい中から身を起こし苦学力行の末、住まいや画室を建てその後も倹約を重ねて誰の援助も受けず、洋行の資金を作った話なども紹介した。

おそらく不折は、巴里でも鰹節をかじりながら頑張るとつねづね語っていたにちがいない。・・・・・

(略)


もちろん『三四郎』に登場する画家の「原口さん」は不折がモデルではない。「原口さん」は漱石が親しくしていた洋画家の橋口五葉から思いついた架空の画家である。架空だが、たびたび漱石のお供で五葉のアトリエを訪ねたことがある小宮豊隆の話では、漱石の描く「原口さん」は風貌やアトリエの感じまで五葉そっくりだという。五葉は独特の感覚の美人画を得意としていたので、美禰子をモデルにして美しい婦人像を描くのにふさわしい設定だ。漱石はこのように、身近な友人をモデルに使うのが巧かった。

五葉はまた当時、著名な装丁家でもあり『吾輩は猫である』をはじめ何冊もの漱石の著作を装丁している。


つづく



一人5000円という金額は不自然ではないか、という指摘に対して、「信用されている顧客かどうかで違う」と嘲笑するような態度で安倍元首相が答えていたのが、しっかり映像で残っている。しかも金額はホテル側が設定したことになっている。 — 安田菜津紀 / Choose Life Project 動画(安倍晋三の過去の答弁)    

利益供与の疑惑が一層深まる(2020.12.25 田村智子参院議員 「桜を見る会ー前夜祭」について参院議院運営委員会での質問 ; 桜を見る会前日の夕食会、ホテルとの契約は安倍事務所側か。ホテルへの支払いの不足分は、どこからのお金か。 不足するとわかりながら、安い会費で続けたのは何故か。 「契約主体は晋和会というなら安倍前総理が契約者ということだ。あなたは"立て替えた"と言ってるが誰が誰がの支払いを建て替えたのか?」 / 田村智子議員「『桜を見る会』と前夜祭とセットで地元有権者に利益供与―おもてなしを行ったのではないか」 安倍前首相「(答えず)」  

 

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「嘘100回以上。会社の社長だったら辞職」。辻元清美議員の指摘に安倍晋三前首相は...(ハフポスト日本版);「道徳心とか愛国心、人一倍仰っていたじゃないですか。子供の教育にも悪いです。けじめをつけて議員辞職なさる。いかがですか」 虚偽答弁を繰り返したことについて「議員辞職に値すると思いませんか」と質問。安倍氏は自らに「道義的責任がある」としたが、議員辞職は否定した。



 

二階氏に批判集中 求心力急落も 多人数会食主催・GoTo継続主張・派閥不祥事(北海道新聞)

2020年12月24日の出来事 → 検察が午前中に略式起訴し、午後4時予定の次席会見を午後2時に前倒し、質問によっては「裁判所が判断する前に明らかにできない」と答えず。その後東京簡裁が略式命令し、配川被告は速攻で罰金納付。安倍氏側が記者クラブのみを対象に、人数・時間制限での”会見“。組織を超えた見事なスケジューリング — Shoko Egawa

大谷昭宏さん「当初から秘書らと口裏合わせをしていたと考えるのが普通だ。前夜祭という一大イベントの支出を本人が把握していないことはあり得ない。事務所を家宅捜索して徹底解明してもよかったのではないか。詰めが甘い」 / 田原総一朗氏は「秘書が虚偽の説明をしていたならば、それが判明した時点で直ちに秘書を解雇すべきだ。秘書への怒りが全く感じられず当初から全容を把握していたと考えざるを得ない。国会で事実に反する答弁をしているのだから議員辞職すべきだ」       

 



 

安倍晋三というヒト → 言動の一々が、つくづく、これが通って、ずっとこういうふうに生きてきたんだろうなあと感じさせる人物。 — 平野啓一郎 → (12/24会見動画)朝日新聞 「国会で明細書はないと答えていたが?」 安倍前首相 「明細書が無いというのは、事務所に無いということ」

安倍氏秘書の「悪質さ」指摘 「虚偽答弁につながった」(朝日);「捜査終結を迎え、検察幹部は「この問題の本質は国会の虚偽答弁。問われているのは安倍氏の道義的な責任だ。裁判ではなく、国会で議論されるべきだ」と総括しました。」 ← 安倍自身が知らない訳がない、それを立証しないでどうする!  / 「秘書のせい」まかり通るのか 市民から疑問の声<安倍前首相不起訴> / 「罰金刑で済ませる話なのか」検察内部にも幕引きに疑問の声 安倍前首相らの処分で(東京)    

 



 

2020年12月24日木曜日

安倍氏不起訴「公選法違反の不問は許されない」 立命館大・松宮孝明教授 - 毎日新聞 ;「前夜祭に参加したのは、後援会員であり、明らかに会費を超える豪華な会食だったのですから接待を受けているという認識はあったと思います。ましてや、政党の後援会ではなく、安倍前首相個人の地元の後援会ですから、誰に投票するのかは明白でしょう。」   



 

制約だらけ3密状態の会議室で行われる安倍前首相の記者会見。司会は長谷川栄一・元内閣広報官 / 記者クラブのみ、質問は1人1問…安倍前首相が“大甘会見” / 秘書の責任繰り返す 書面の読み違えも / 会見、打ち切り理由は「部屋の使用許可が午後7時まで」←安倍流の誠実、丁寧 / 前夜祭補塡の原資「手持ち資金から(←安倍晋三の私的な貯金)」(秘書が勝手にやった。知らなかった。こんな不祥事をしでかした秘書への怒りは何故かゼロ) / 補塡不記載は「秘書の連絡不足で」 / 秘書が安倍に嘘をつかなくてはならない理由などどこにもない。安倍が嘘をつかなくてはならない理由は、山ほどあるけど。 / 「道義的責任を痛感」。議員辞職は否定。←それは「痛感」とは言はない         

 《12/24不起訴、会見》 

2020年12月24日の出来事 → 検察が午前中に略式起訴し、午後4時予定の次席会見を午後2時に前倒し、質問によっては「裁判所が判断する前に明らかにできない」と答えず。その後東京簡裁が略式命令し、配川被告は速攻で罰金納付。安倍氏側が記者クラブのみを対象に、人数・時間制限での”会見“。組織を超えた見事なスケジューリング — Shoko Egawa

安倍前首相の秘書は正式な裁判をやるべき(渡辺輝人);「動画で安倍氏の国会における虚偽答弁の一端を見ることができますが、社会常識からしてありえない虚偽答弁を平然としながら、質問者に問題があるように批判する発言すらしており、病的な人格であると言わざるを得ません。」 「本件は、現役の総理大臣の側が、自身の後援会の会員に多額の利益供与したうえ、そのことを隠蔽していたものです。我が国の最も強い権力者の側の犯罪であり、国会議員事務所による実質的な有権者の買収でもあり、極めて重大な犯罪です。」

え? これで済むの? 済まないよね! → 菅首相「国民の皆さんに大変申し訳ない」 事実と異なる答弁で陳謝(毎日) / 桜夕食会「ほかの政治家の活動だ」 開き直る菅首相(朝日)←ひたすらご奉仕したんやろ!

「#安倍晋三の不起訴処分に抗議します」16万件超投稿 ネットで抗議次々(毎日) / 安倍氏への抗議、ツイッターで拡散 投稿20万件に迫る(朝日)

安倍氏不起訴「公選法違反の不問は許されない」 立命館大・松宮孝明教授 - 毎日新聞 ;「前夜祭に参加したのは、後援会員であり、明らかに会費を超える豪華な会食だったのですから接待を受けているという認識はあったと思います。ましてや、政党の後援会ではなく、安倍前首相個人の地元の後援会ですから、誰に投票するのかは明白でしょう。」

安倍氏秘書の「悪質さ」指摘 「虚偽答弁につながった」(朝日);「捜査終結を迎え、検察幹部は「この問題の本質は国会の虚偽答弁。問われているのは安倍氏の道義的な責任だ。裁判ではなく、国会で議論されるべきだ」と総括しました。」 ← 安倍自身が知らない訳がない、それを立証しないでどうする!  / 「秘書のせい」まかり通るのか 市民から疑問の声<安倍前首相不起訴> / 「罰金刑で済ませる話なのか」検察内部にも幕引きに疑問の声 安倍前首相らの処分で(東京)

安倍晋三というヒト → 言動の一々が、つくづく、これが通って、ずっとこういうふうに生きてきたんだろうなあと感じさせる人物。 — 平野啓一郎 → (12/24会見動画)朝日新聞 「国会で明細書はないと答えていたが?」 安倍前首相 「明細書が無いというのは、事務所に無いということ」

大谷昭宏さん「当初から秘書らと口裏合わせをしていたと考えるのが普通だ。前夜祭という一大イベントの支出を本人が把握していないことはあり得ない。事務所を家宅捜索して徹底解明してもよかったのではないか。詰めが甘い」 / 田原総一朗氏は「秘書が虚偽の説明をしていたならば、それが判明した時点で直ちに秘書を解雇すべきだ。秘書への怒りが全く感じられず当初から全容を把握していたと考えざるを得ない。国会で事実に反する答弁をしているのだから議員辞職すべきだ」

 《12/25衆参議運》 











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「#安倍晋三の不起訴処分に抗議します」16万件超投稿 ネットで抗議次々(毎日) / 安倍氏への抗議、ツイッターで拡散 投稿20万件に迫る(朝日)

 

え? これで済むの? 済まないよね! → 菅首相「国民の皆さんに大変申し訳ない」 事実と異なる答弁で陳謝(毎日) / 桜夕食会「ほかの政治家の活動だ」 開き直る菅首相(朝日)←ひたすらご奉仕したんやろ!    

 

安倍前首相の秘書は正式な裁判をやるべき(渡辺輝人);「動画で安倍氏の国会における虚偽答弁の一端を見ることができますが、社会常識からしてありえない虚偽答弁を平然としながら、質問者に問題があるように批判する発言すらしており、病的な人格であると言わざるを得ません。」 「本件は、現役の総理大臣の側が、自身の後援会の会員に多額の利益供与したうえ、そのことを隠蔽していたものです。我が国の最も強い権力者の側の犯罪であり、国会議員事務所による実質的な有権者の買収でもあり、極めて重大な犯罪です。」  

コロナに勝った証として → 東京五輪、予算を増額 史上最大規模に(BBC) / 誤解する人がいるので言う。2020東京五輪は神宮の国立競技場を改築するがほとんど40年前の五輪施設をそのまま使うので世界一カネのかからない五輪なのです。(猪瀬直樹2012年7月28日)   

 

2020年12月23日水曜日

晩秋の横浜散歩 東戸塚~南万騎が原~こども自然公園~緑園都市~弥生台~東戸塚 2020-12-23

12月23日、はれ

晴れの日が続いている。今日の気温は13~14℃あったそうだ。

今日は自粛期間中に開発した散歩コースのフルコースを歩いた。

東戸塚(自宅)~名瀬川支流沿いに南万騎が原~こども自然公園~緑園都市~弥生台~阿久和川沿いに東戸塚。

総歩数は2万8千歩。お蔭で、今月の歩数累計は31万歩になり月の目標を達成した。

▼緑園都市辺りから見える富士山

▼こども自然公園

薄氷がはっている。いつもは野鳥観察のカメラが砲列をなしているところだが、氷のせいなのか野鳥が集まらないらしくカメラはゼロだった。





日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ7)「『三四郎』は今ふうにいえば明治の青春文学の傑作で、今に至るも決して人気は衰えていない。.....一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。.....小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として『三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういふ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ6)「忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。.....忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ7)

木瓜咲くや - 漱石、拙を守る


1 子規の七回忌


明治四十一年九月十九日は子規の七回忌に当たるので、「ホトトギス」は九月発行の第十一巻第十二号を「子規居士七回忌号」とし、漱石の談話「正岡子規」を掲載した。

これがその後、漱石の子規像の一つになるわけだが、落語の好きな漱石らしい話しぶりで楽しく読める。これを「ホトトギス」に載せるため、編集者が漱石のところへ話を聞きに行ったのは、たぶん夏前だったにちがいない。この頃漱石は前年の朝日入社第一作『虞美人草』、第二作『坑夫』に続いて第三作『三四郎』の連載を九月から開始する予定で、構想を練っている最中であった。そんな忙しい時期だったので漱石はおそらく資料を十分に準備する暇もなく、思いつくまま話したと思うが、なかなか巧みに子規の人間像を捉えている。・・・・・


(略)


その頃漱石が書き始めていた『三四郎』は、周知のように熊本の五高を卒業した三四郎が、帝大に入学するため上京するシーンから始められている。車中で三四郎は、後に廣田先生と分かる髭を生やして面長の四十男と隣り合わせになり、


(略)


といった会話を交わしていたが、豊橋の駅でその人は窓から首を出して水蜜桃を買った。


・・・・・

次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだつた。且ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿を十六食つた事がある。それで何ともなかった。自分抔(など)は到底(とても)子規の真似は出来ない。 - 三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。


ところで漱石の小説の中で歴史上の人物を除いて、朋友や恩師の名前が実名で出てくることはまず無い。子規は没して既に六年も経ち、当時それほど文名が高かったわけでもない。朝日新聞の読者でも俳句に関心のある人は別だが、一般の読者にとって子規はさほど馴染みのある名前ではなかった。

そこへ漱石が果物の話にかこつけて、いきなり子規を登場させたのである。それは、漱石が「ホトトギス」で子規のことを話したように、朝日の読者にも子規のことを話しておきたかったのにちがいない。あれだけ親しかった友人だったのに留学中で死に目にも会えなかったし、懇願されていたのに「倫敦消息」の続篇を書くという責めも果たさなかった。こうした自責や悔悟の念もあって、ここで唐突とも取られかねないほど不自然な形で、子規を登場させたのであろう。『三四郎』の連載は明治四十一年の九月一日から始まったが、ページ数から勘定すると子規の話が出てくるのは九月五、六日頃で、子規の七回忌の十日程前であった。


2 佐々木与次郎


九州から出て来た三四郎が最初に親しくなったのは、専門学校を出て選科にはいった佐々木与次郎という同級生であった。彼は東片町の原田という高等学校の先生の家に住んでいて、半ば書生のようにしていた。初めのうち、三四郎はこの先生が東海道線で乗り合わせた髭の男と同一人物だと分からない。

田舎出で純朴な三四郎は毎日学校へ律義に通って講義を聴いていたが、一か月たってもなぜか学校にも東京にも物足りない。そのことを与次郎に打ち明けると、外へ出て電車に乗って東京中をぐるぐる回るのが一番だと教えてくれた。


(略)


このあたりの与次郎は、漱石が「ホトトギス」の「正岡子規」で語った子規そっくりで、初(うぶ)な三四郎は若き日の漱石である。

(略)

・・・・・漱石は自分自身や朋友や門下生をひっくるめて、三四郎という明治の青春像を作り上げたのである。

(略)

さて、与次郎が兄貴ぶって三四郎を連れ回すのは入学直後だけで、やがて与次郎から子規らしい面影は薄れ、ただの軽率な世話好きの男として描かれている。・・・・・廣田先生だけは相変わらず世間に背を向け、だんだん漱石の分身らしくなっていく。

いうまでもなく『三四郎』は今ふうにいえば明治の青春文学の傑作で、今に至るも決して人気は衰えていない。漱石の作品の中では『坊つちゃん』『吾輩は猫である』『こゝろ』に次いでよく読まれているという。しかし、一般の読者にとってこの中にときどき子規の影がちらついているのに気づくことはまず無い。漱石没後『漱石全集』を編集し、漱石研究に専心した小宮豊隆でさえ、そのことにふれるのは『三四郎』が書かれて半世紀近くたった昭和二十八年に、『夏目漱石』を出した時からであった。小宮はその中で《全体として『三四郎』の上に、ほのかなる哀愁が漂ってゐるのも、子規に対する追憶と当時の自分自身に対する追憶とが一つになって、漱石にさういふ気特を用意したものかも知れない。》と初めて子規の存在をはっきりさせた。


つづく


尾身会長警鐘の夜に… 橋本聖子五輪相「6人で高級寿司会食」ほろ酔い写真 | スクープ速報 — 週刊文春 / 橋本聖子・五輪相、ぐるなび会長の130人大規模パーティに参加していた(NEWSポストセブン)    

言ったもん勝ちのアベ政治(ウソつき政治)を継承中! → 加藤官房長官が首相の発言修正 英国から入国「1人、2人」実際は150人(毎日); 菅首相がTBS番組で水際対策を巡り「(イギリスから)日本に入って来るのは1日1人、2人だ」などと説明した発言。実際には、イギリスからの入国者数は11月が1日平均約50人、12月が同約150人でした。 / 菅首相「英国から入国者1日1、2人」 TBS、ファクトチェックせず放送 実際は1日平均150人(楊井人文)     

 

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安倍氏擁護してきた菅首相「国会答弁に責任持つべき」 責任問われる可能性も?(東京新聞);「菅首相は11月の参院予算委員会でも「安倍前首相が国会で答弁した内容について、確認しつつ答弁していた。その事実が違った場合は当然私にも答弁した責任がある」と答えていた」   

2020年12月22日火曜日

晩秋の横浜散歩 イタリア山公園~港の見える丘公園~山下公園~横浜公園 2020-12-22

 12月22日、はれ

今日は横浜を散歩。

JR石川町~イタリア山公園~港の見える丘公園~山下公園~横浜公園(スタジアム)~JR関内駅。

総歩数は1万8千歩。

山手の洋館街はコロナ対策により恒例の「世界のクリスマス」を中止、加えて入館登録、消毒、撮影禁止などの規制があった。写真撮影を許可すると人の流れが滞る為なんだろうが、万事ことなかれ主義が見えて興醒め。

港の見える丘公園は薔薇は殆どゼロで、ま、開店休業中みたいなもの。

山下公園のバラもまだほんの少し。

ということで、今日の散歩はひたすら歩いただけという印象。


▼フランス山の上り口の紅葉(左右の階段の周辺ともに紅葉していた)


▼港の見える丘公園から見えるガンダム(山下公園からは上の3割くらいしか見えない)



▼横浜公園の日本庭園


▼自宅近くの公園

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ6)「忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。.....忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。」   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ5)「昭和二年三月、忠三郎は京大経済学部を卒業すると阪急電車に入社し、又しても東京には帰らず関西に住み着くことになった。.....昭和十二年五月十五日、現在のリーガロイヤルホテルの前身、新大阪ホテルで挙行された結婚式の写真を見ると、律は忠三郎の実母ひさと並んで嬉しそうだ。.....昭和十六年五月、律は二人目の孫明の顔を見ることもなく七十二歳で亡くなった。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ6)

5 畢生の功績『子規全集』


ところで、だいぶ脇道にそれたが忠三郎畢生の功績は二高時代からの友人ぬやま・ひろし(西沢隆二)にけしかけられて、新しい『子規全集』を刊行したことだ。

子規没後、『子規全集』は大正十三~十五年にはアルス社から、昭和四~六年には改造社からと戦前に二回出ている。しかし、その後の研究成果や新しい資料を取り入れた全集は、戦後の全集ブームにも取り残されて戦後三十年もたつのに出ていなかった。

戦前、非合法の革命運動で逮捕されたぬやまは、獄中で子規の著作にめぐり合い生きる力を得、夢中になって子規を読んだ。そして忠三郎と子規の関係を抜きにしても、ぬやまは子規に惚れ込んだ。子規を読まなかったら、ぬやまは十二年に及ぶ府中刑務所での獄中生活に、堪えられなかったかもしれない。

ところが、ぬやまが『子規全集』を出したいと思い立った時、忠三郎はすでに病床にあったのである。

「忠三郎の生きている内に、最初の一冊でも手にとらせてやりたいのだ」

こうしたぬやまの情熱が出版社をゆり動かし、いろいろな曲折を経ながら最新の編集理念のもと、別巻三巻を含めて全二十五巻の『子規全集』が講談社から刊行されることになった。昭和五十年四月、最初の第一冊が配本されたが、忠三郎は全巻の完結を見ることなく、十五冊目の配本が終わった昭和五十一年九月十日に死んだ。また、全集刊行に命をかけていたぬやまも、忠三郎のあとを追うように忠三郎の死の八日後に没した。忠三郎が七十四歳、一歳下のぬやまは七十三歳だった。

ところで子規と血の繋がる従弟である忠三郎は、小学生時代「俳譜童子」という異名をもっていたという服部嘉香の話(『子規全集』月報20)もあるぐらいだが、どうして文学の道に進まなかったのだろうか。よく「歌も俳句も作らない」約束で、正岡家の養子に迎えられたのが原因だといわれるが、それは小学校を出たばかりの時のことである。

中学生、高校生になれば自我にも目ざめ、いくらでも軌道の修正ができるのに、忠三郎はかたくなに律との約束を守った。これが前にも拙著『子規山脈』でふれたことがあるが小幡欣治の『根岸庵律女』(「劇団民藝」初演は平成十年六月)の一つのテーマであった。

芝居の中の律が雅夫(忠三郎)に俳句を禁じたのは、雅夫がいくら精進しても子規をしのぐ程の俳人になれる保証はない。子規の縁者として、ひとときは持て囃されるかもしれないが、やがて忘れられていくだろう。律はそんなことで雅夫を、ひいては子規の名を傷つけたくなかったのだという。

忠三郎は小林秀雄など府立一中時代の文学仲間を振り切るように、高等学校では理科を選び大学では経済学を学んだ。そして周囲から、忠三郎にサラリーマンが務まるものかといわれながら、子規のことはおくびにも出さず、生涯無名の一市井人に甘んじた。

しかし血は争えない。忠三郎も職を引いた昭和三十年代の終わり頃から、律がしていたように子規や父拓川の遺品や書簡類の整理を思いつく。そしてふと知り合った雑誌「大阪手帖」の編集長のすすめで、その小さな雑誌に全て未発表の「子規への書簡」の連載を始めた。それは昭和三十九年二月号から、途中病気で休載することもあったが、昭和四十四年五月号まで五十一回続き、病気のため続稿は日の目を見ることはなかった。この中で忠三郎が取り上げたのは九名で、回数は碧梧桐が最も多くて二十回、次いで五百木飄亭が十二回。漱石は一回だけだった。

それらは『子規全集』別巻一「子規あての書簡」に全て収録されているが、「大阪手帖」の編集長は《東京辺りの》《一流の雑誌では出来ないことをやらねばならないという楽しみと自負を持って》連載を開始したと語っている。

忠三郎は収録する書簡や発信者について、子規との関係などコメントを付けているが、これがまた身内から見た子規論になり面白い。・・・・・

(略)

ところで、忠三郎のこの連載の功績の一つは、今まで所在の分からなかった漱石が子規に出したロンドンからの初便りを見つけ出したことだ。このことは本書の「倫敦の漱石」でもふれたが、漱石が明治三十三年十二月二十六日、ロンドンに着いて初めて子規に出した絵葉書が見付からず『漱石全集』書簡集や、『漱石・子規往復書簡集』にも収録されていない。子規がそれを翌年二月十四日に受け取ったところまでは分かっているのに、現物の所在は杏として不明だった。それを忠三郎が律没後、他の断簡零墨といっしょに、反故紙様のものに包まれた書簡類の中から見付けたのである。

その絵葉書はロンドンの目抜き通りを描いたもので、それに漱石がロンドンのクリスマスと新年の感懐を記し、俳句を添えている。忠三郎の注によると絵葉書の絵はイングランド銀行、丸く囲まれたのはエー・バンク・ピードルの肖像だという。

このように晩年の忠三郎はあくまでも裏方に徹し、中央の「一流雑誌」ではできないような地味な子規研究を続けた。・・・・・


つづく