2010年5月30日日曜日

こてこて大阪の焼き肉でっせ

最近、近所に下の写真にあるようなお店ができました。
場所は、あくまで横浜市戸塚区です。
昨日、家族一同で毒見に行きました。
ワタクシは、この日、あいにく(・・・と云うか、いつもと云うか)週末午前サマでありまして、テンションはイマイチでありましたが、しかし人知れず関西の血が騒ぐひとときではありました。
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で、結果、慎重な審議の末、このお店にはコスト/パフォーマンスにおいて合格点を出すことにしました。
帰りには、お店の前には待ち行列ができてました。
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でも、不思議?にも、また来ようという話にはなりませんでした。



北の丸公園 ブラシの木 カラタネオガタマ(唐種小賀玉) シャクナゲ シロバナヤエウツギ ガクアジサイ

北の丸公園の花ばな。
5月28日の状況です。
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ブラシの木。
5月22日の記事でこの花についていい加減なことを書いたのですが、白黙翁さんからコメントを戴きました。
ネットで調べましたら、ご指摘通りこれは「ブラシの木」という名前でした。
花にも失礼なので、再登場と致しました。



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カラタネオガタマ(唐種小賀玉、Banana shurub)
バナナの香りがします
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シャクナゲ
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シロバナヤエウツギ
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ガクアジサイ
ぼちぼちアジサイが咲き始めました。
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明治5年(1872)6月~7月 マリア・ルーズ号事件 鷗外(10歳)上京 西郷隆盛、山県有朋を救い、参議兼元帥兼近衛都督となる 

明治5年(1872)6月 (この年11月まで日本は太陰暦)
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この月
・陸奥宗光、大蔵省租税頭に任ぜられ、7月、神奈川県令、辞任。
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・フランス人女性ラクロット、育児院董女学校を建てる。
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・「郵便報知新聞」創刊。
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上旬
・秘密回状「インタナショナルのいわゆる分裂」2千部、ジュネーヴで発行、各支部に分配。*
6月3日
・教部省、市村・中村・守田の3座に興行の脚本許可を受けて上演するよう指示。
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6月4日
・司法省、犯罪人の写真保管を決める。
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6月5日
マリア・ルーズ号事件
ペルー国汽船マリア・ルーズ号横浜着。数日後の深夜、中国人苦力脱走、イギリス艦が救助。船内での清人虐待が発覚。
駐日英大使ワトソン、外務省に善処要請。副島外務卿主導で裁判。
8月25日、特別法廷、苦力解放判決。神奈川県権令大江卓担当。船長は国外へ出国。神奈川県は清人の世話をする。
9月13日、清人を清の官吏に引渡す。
明治8年5月29日、ロシア皇帝仲裁裁判で最終決着。
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6月9日
・司法卿江藤新平、「司法省の方針を示すの書」執筆。
公正・迅速・簡易な民事裁判、無実の罪はださない刑事裁判。そのため、本省事務組織、裁判所の判事・検事、法令の調査研究のための明法寮を設置。組織相互の職務権限明確化のため章程を作る(8月3日制定)。
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6月9日
・井上馨・大隈重信連名で、障害が多く「士族卒禄は先着手仕らず」とアメリカの吉田清成に通知。
10日、大久保宛に、華族の禄制改正だけは実施すると報告。
正院が、井上の華族禄制改正にも難色を示し、8月、井上は従来の計画を白紙撤回。
禄制改革計画の後退。
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中旬
・ブリュッセル、「フランスの内乱」フランス版9千部、発行。
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6月24日
・マルクスとエンゲルス、「共産党宣言」ライプツィッヒ新版に序文。パリ・コンミューンの教訓を強調。
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 6月25日
・ビスマルク宰相の文化闘争。ドイツ・イエズス会追放。
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 6月26日
森鴎外(10)、父に従い上京。
8月、旧津和野藩下屋敷内(南葛飾郡須崎村小梅)に住む。
10月、神田西小川町の西周邸に寄寓。この年、本郷壱岐殿坂の進文学社に入り、ドイツ語を学ぶ。
翌明治6年6月30日、祖母(於清)、母(峰子)、弟(篤次郎)、妹(喜美子)、上京。
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6月28日 
・島津久光、4箇条の建白書提出。政府攻撃。西郷・大久保を政府からはずすよう要求。
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6月28日
・自葬を禁止。死者を葬るときは神官か僧侶に依頼するように命じる。
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6月28日
・英米代理公使、マリア・ルーズ号で清人奴隷虐待(日本の裁判権無視=国家主権侵害)調査申入れ。
副島外務卿は、日本領海内でおきた事件とみなし、神奈川県に与えられた居留地規則による裁判権でこの事件を審理する決心。
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7月
・沼間守一(28)・井上毅ら、横浜港から出航、ヨーロッパ視察に向かう。6年9月6日に帰国。
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・琉球駐在官伊地知貞馨、台湾生蕃による琉球人虐殺事件報告の為、鹿児島へ帰還。報告。 
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7月1日
・(新8/4)外務卿副島種臣、居留地規則による裁判権により神奈川県参事大江卓にマリア・ルーズ号取り調べ命ず。
司法卿江藤は反対。神奈川県令(兼大蔵省租税頭)陸奥宗光も反対。陸奥は県令辞任、租税頭に専任。大江は神奈川県権令に昇格。
4日、大江卓(裁判長)、マリア・ルーズ号ペルー人船長・清国人召喚。
19日、清国人乗員231人全てを神奈川県施設に収容。
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 7月4日
・天皇の西日本還幸に随行の西郷隆盛・従道兄弟、鹿児島からの帰路、四国・丸亀で急ぎ帰京命令を受ける。
薩摩・土佐系近衛兵(旧御親兵)が陸軍大輔近衛都督山県有朋に反発、山県が辞表提出まで追詰められる(官僚的な軍統治施策、山城屋和助事件への関与)。
西郷は山県を庇い、政治生命を救う
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7月8日
・インターナショナル・スペイン連合分裂。新マドリード連盟結成。
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7月中旬
・「資本論」第2版第1分冊、マイスネルより刊行。
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7月中旬
・頃~8月下旬。マルクスとエンゲルス、ハーグ大会の政治上、組織上の準備に没頭。
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7月19日

・陸軍少将桐野利秋ら、山城屋和助事件追及。山県有朋近衛都督辞任。
参議西郷隆盛が陸軍元帥となり、近衛都督を兼務(1873/05/08元帥廃止)。
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前年明治4年7月28日の「兵部省官等表」で大元帥・元帥がおかれるが、この時点では誰も就いていない。木戸孝允は西郷の元帥就任に反対。西郷は参議兼陸軍元帥となり、文官・武官の最高位につくことになるため。
明治6年5月、大元帥・元帥が廃止、西郷も陸軍大将となる。
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7月19日
・琉球国王尚泰、表敬使節派遣要請受諾。
29日、琉球使節伊江王子朝直(尚健)一行、首里発。
9月3日、東京着。14日、琉球藩主任命詔書受ける。
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7月22日
・(旧6/17)大久保・伊藤、ワシントン帰任。対米交渉打切り。
24日、交渉中止を米国に通告。(旧6/22)付で寺島駐英大弁務使は、交渉打ち切りを外務卿副島に報告。「使節一同は・・・甚後悔致し居り候」。
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7月23日
植木枝盛(16)、官費を給され致道館に入塾。致道館閉鎖の為、11月26日退塾。
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「輿地誌略」「西洋事情」「万国概誌」「沿革史略」「英史」「西洋各国盛衰強弱一覧表」「坤輿図識」を読む。
「輿地誌略」は、文政9年青地林宗がドイツ書の世界地理書をオランダ訳から重訳したもの。
「西洋事情」は慶応2年以降福沢諭吉が著作出版した書。
「西洋各国盛衰強弱一覧表」は加藤弘之がドイツ書から抄訳し、慶応3年刊行したもの。
「坤輿図識」は、弘化2年箕作省吾が著し、阮甫が修正を加えたもので、オランダの書7部を参考して作ったもの、「福沢の西洋事情以前において、この書の如く弘く流布して、世を啓蒙したものは他に比すべきものがない。正に幕末出版物きっての名著」とされている。
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7月23日
・マルクスとエンゲルス、総務委員会で規約改正問題討議に際し、独自の労働者政党組織の必要を説いたロンドン協議会決定を規約に入れる主張。また、1支部の3分の2は労働者でなければならないことも規約に入れることに成功。
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7月29日
・高島嘉右衛門のガス製造所完成
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* 「★一葉インデックス」をご参照下さい
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治承4(1180)年8月24日 頼朝は椙山(杉山)の鵐窟(しとどのいわや)に隠れる。 追手の梶原景時はこれを見逃す。

治承4(1180)年8月23日
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・石橋山の合戦で大庭景親に敗れた頼朝は、土肥実平・遠平の案内で、椙山の鵐窟(しとどのいわや)に隠れる
追手の梶原景時はこれを見逃す。
その後頼朝は、箱根権現別当行実の弟永実の助力で箱根権現に向う。
25日、箱根権現出発。小道峠で敵と遭遇し、再び椙山に戻り、27日迄鵐窟に潜む。
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□「吾妻鏡」(改行を施す)
「武衛椙山内堀口の辺に陣し給う。
大庭の三郎景親三千余騎を相率い重ねて競走す。武衛後峰を逃げしめ給う。
この間加藤次景廉・大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。
・・・武衛また駕を廻し、百発百中の芸を振るい、相戦わるること度々に及ぶと。
・・・北條殿父子三人、また景親等と攻戦せしめ給うに依って、筋力漸く疲れて、峯嶺に登ること能わざるの間、武衛に従い奉らず。
・・・早く武衛を尋ね奉るべき旨命ぜらるるの間、各々奔走し数町の険阻を攀じ登るの処、武衛は臥木の上に立たしめ給う。・・・
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武衛この輩の参着を待ち悦ばしめ給う。
實平云く、各々無為の参上、これを喜ぶべしと雖も、人数を率いしめ給わば、この山に御隠居すること、定めて遂げ難きか。御一身に於いては、例え旬月を渉ると雖も、實平が計略を加え、隠し奉るべしと。而るにこの輩皆御共に候すべきの由を申す。また御許容の気有り。實平重ねて申して云く、今の別離は後の大幸なり。公私命を全うし、計りを外に廻らさば、盍ぞ会稽の恥を雪がざらんやと。これに依って皆分散す。悲涙眼を遮り、行歩に道を失うと。
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・・・また北條殿・同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと。・・・
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景親武衛の跡を追い、嶺渓を捜し求む。
時に梶原平三景時と云う者有り。慥に御在所を知ると雖も、有情の慮を存じ、この山人跡無しと称し、景親が手を曳き傍峰に登る。
・・・晩に及び、北條殿椙山の陣に参着し給う。爰に筥根山の別当行實、弟僧永實を遣わし、御駄餉を持たしめ、武衛を尋ね奉る。
・・・永實件の駄餉を献る。公私餓えに臨むの時なり。値すでに千金と。・・・
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その後永實を以て仕承と為し、密々筥根山に到り給う。行實の宿坊は参詣の緇素群集するの間、隠密の事その便無しと称し、永實が宅に入れ奉る。
この行實と謂うは、父良尋の時、六條廷尉禅室並びに左典厩等に於いて聊かその好有り。茲に因って、行實京都に於いて父の譲りを得て、当山別当職に補せしむ。下向の刻、廷尉禅室下文を行實に賜い東国の輩に備う。左典厩の下文に云く、駿河・伊豆の家人等、行實相催せしめば従うべしてえり。然る間、武衛北條に御坐すの比より、御祈祷を致し、専ら忠貞を存ずと。石橋合戦敗北の由を聞き、独り愁歎を含むと。弟等数有りと雖も、武芸の器を守り、永實を差し進すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「甲辰。頼朝は杉山の内の堀口辺りに陣を構えた。
大庭三郎景親は三千余騎を率いて再び迫ってきたので、頼朝は後方の峰に逃れた。この間、加藤次景廉と大兄平次実政が頼朝の後に留まり、景親の軍勢を防ぐ。
・・・頼朝はまた馬を廻らし、百発百中の技を見せながら何度も戦い、その矢ははずれることがなく、多くの者を射殺した。
・・・北条殿父子三人(時政・宗時・義時)は、景親らと戦われたため、しだいに疲労困憊し、山の峯に登ることができず、従うことができなかった。
景員、光員、景廉、祐茂、親家、実政は、時政らの供をすると言うが、時政は、「それはいけない。早々に頼朝をお探し申せ。」と命じる。彼らは数町の険しい道をよじ登ったところ、頼朝は倒れた木の上に立ち、実平がその傍らにひかえていた。頼朝は彼らの到着を喜んだ。
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実平は、
「おのおの無事に参上したのは喜ばしいが、これだけの人数を引率してこの山に隠れるのは難しい。御身だけは、どれほどの時間がかかっても実平が計略をめぐらして隠し通しましょう」と言う。
しかし彼らは御供したいと言い、頼朝もそれを許そうとする。
実平は再び、
「今の別離は後の大幸のためです。共に生きながらえて別の計略をめぐらしたならば、会稽の恥を雪いで復讐を果たすことができるでしょう」と言い、
これによってそれぞれが分散することとなる。悲しみの涙に目が遮られ、歩くべき道が見えないほどであったという。
・・・
また、北条殿(時政)と同四郎主(義時)は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かおうとしていた。同三郎(宗時)は土肥山から桑原へと降り、平井郷を通っていたところ、早河の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって射取られた。茂光は歩くことができなくなって自害したという。頼朝の陣と彼らが戦っていた場所とは山谷を隔てているので、どうすることもできず、悲しみは大変深かったという。
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景親は頼朝の跡を追って峯や谷を探しまわった。
梶原平三景時という者がおり、頼朝の所在を知っていたが、情に思うところがあり、この山に人が入った痕跡はないと偽り景親の手勢を引き連れ、傍らの峯に登っていった。
・・・
夜になって、時政が杉山にいる頼朝の陣に到着した。
箱根山の別当行実は、弟で僧の永実に食事を持たせて頼朝を尋ねさせたところ、永実はその前に時政に会い、頼朝の御動向を尋ねた。
・・・時政は大いに笑い、永実を連れて頼朝の前に参上された。永実は持参した食事を献上した。その食事は、全員が餓えていた時だったので、千金に値したという。
・・・その後、永実を伴として頼朝は)かに箱根山に到着。行実の宿坊は参詣する僧侶や俗人たちが群れ集まっており、隠れるには向かないというので、永実の宅に頼朝を入れる。
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この行実は、父の良尋の時に六条廷尉禅室(源為義)、左典厩(源義朝)らと多少の親交があった。これによって行実は、京都で父の譲りを受けて箱根山の別当職に補任された。
京都から箱根に向かった折、行実が賜った為義の下文には「東国の輩は、行実がもし催促したならば従うように。」とあり、義朝の下文には「駿河・伊豆の家人らは行実が催促したならば従うように。」とあった。
そこで、頼朝が北条にいる頃から、頼朝のために祈祷をし、ひたすら忠義を尺くしてきたという。石橋合戦での敗北の報を聞き、愁えていたが、弟の中でも武芸の器量がある永実を頼朝に遣わしたという。」
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「治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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本能寺の変(13) 天正10年(1582)6月2日 山岡景隆、瀬田橋を焼く。 伊勢の信雄は明智を牽制。 「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。」(光秀の勧降工作書状) 「信長公阿弥陀寺由緒之記録」のことなど 

天正10年(1582)6月2
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未刻(午後2時頃)、吉田兼見は粟田口で大津方面に向う光秀に会う。
光秀は信長本拠地の近江制圧を優先する。大坂方面の押えに勝龍寺城に溝尾勝兵衛を置く以外は全軍を近江に移動。
瀬田城の山岡兄弟(瀬田城主山岡景隆、膳所城主山岡景佐)を勧誘するが、午後4時、景隆は「信長公の御厚恩浅からず」(「信長公記」)と拒否し、瀬田橋・瀬田城を焼いて甲賀山中に脱出。
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瀬田橋は幅4間、長さ180間という巨大なもので、山岡景隆が破壊できたのは、その一部のみ。
光秀は橋補修を命じ坂本城に帰還。瀬田橋復旧までの1日半、光秀は船を使って先遣部隊を近江各地に派遣し、織田家諸将に誘降の書状を発信。
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「都から五レーグアのところに、信長がしばらく前に作らせたはかりの、日本随一と言われる瀬田の橋と称する美しい橋があり、・・・橋際に監視だけを使命とする指揮官と兵士がいる砦があったが、彼(指揮官)は、信長の訃報に接すると、明智の軍勢があまり迅速に、安土に向かって通過できぬように、異常な注意深さをもってただちに橋梁を切断せしめたからである。そのために、次の土曜日まで通行できなかったが、明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された。瀬の深さと、同所を流れる水足がきわめて早いことから、それは不可能事と見られていたのである。」(フロイス「日本史」)。
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前田利長(21)、夫婦で上洛途中、近江勢田で変報を聞く。
夫人(信長の娘・永姫)を尾張荒子に避難させ、信長の婿同士の蒲生賢秀(後の氏郷)らと共に信長の夫人達を日野城(中野城とも。滋賀県日野町)に匿う。利長らは明智軍の進行を止めるため瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側軍勢を集める。
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明智の使者が日野城を訪れているが、蒲生氏はその応対を明らかにせず、利長は、蒲生家が明智に一味するのではないかと危険を感じ、日野城を脱出し、伊勢松ケ島城(松阪市)織田信雄の許に駆け込む。
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2日、信雄は本拠伊勢松ケ島城にあり、信忠軍団として中国出陣の準備中。
信長と兄信忠が亡くなり、次男信雄が家督継承順位の筆頭となる(信雄を核にして織田の残存勢力を結集させなければならないが、・・・)。家康一行を案内した長谷川秀一は、伊勢を通過して尾張に渡る。
信雄は近江に兵を進めるが、戦力が不足しており、日野城の蒲生賢秀の去就も不安定のため、近江へ深入りはせず、鈴鹿峠の麓の土山で停止し、明智方を牽制する態勢をとる。
伊賀では、光秀の煽動を受けた一揆が蜂起し、伊勢でも北畠一族の北畠具親が五箇篠山城(三重県多気町)に籠って挙兵、信雄はその対応に追われる。
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信長の次男信雄:
永禄12年、伊勢の名門北畠氏は、織田家との和睦条件として信雄を養子とすることを受け入れる。
その後、織田家の支配体制が安定し、天正4年、北畠氏は相次いで粛清される。
信雄は、摂津で作戦中の信忠に合流するよう命じられた際、独断で未征服の隣国伊賀を攻撃し、大敗。
兵約8千で伊賀に出兵。狭隘な地形で長く伸びた隊列をゲリラ攻撃で寸断され、山中に迷い込み、部隊は包囲殲滅される。重臣柘植三郎左衛門は討死し、信雄は伊勢に逃げ帰る。
信長は、信雄の油断と同母兄の信忠に対する甘えに激怒。
いずれ家督を継ぐ信忠に対し、信雄が家臣としての立場をわきまえなければ、争いの種ともなりかねない。
信長は譴責状を送り、そのような心がげでは親子の縁を切ると厳しく言い渡し、兄信忠に忠節を尽くすように叱る。
天正9年、甲賀から滝川一益・丹羽長秀、信楽から堀秀政率いる近江衆、大和から筒井順慶、伊勢面から信雄と叔父の信包が、一斉に伊賀に突入し平定。伊賀4郡のうち山田郡は信包に加増されるが、残りの3郡は信雄に与えられ、信雄は本領の伊勢南部と合わせて約30万石となる。
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午後10時半、播州三木城(兵庫県三木市)の前野長康(秀吉家臣)に細川藤孝より密書が届く。
長康は秀吉に、
「藤孝が光秀より同心の誘いがあったが、これに合力しない旨の心底を告げて来たので、まず丹後は味方であろう」
と速報(吉田蒼生雄全訳「武功夜話」)。
後、忠興娘が長康嫡子に嫁ぐ。藤孝は迅速な行動をとっている。
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この日付の光秀の美濃野口城(大垣市野口町)西尾光教宛の勧降工作書状。
信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まされるべき候。委細、山田喜兵衛尉申すべき候。恐々謹言」(「武家軍紀」所収文書)。
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信長父子の悪虐:新王都安土を原点とする新秩序形成の兆し(伝統と社会秩序の破壊)。
①正親町天皇の譲位強要・皇位簒奪計画、
②京暦(宣明暦)への口出し、
③平姓将軍への任官、
④職太政大臣近衛前久への暴言、
⑤国師号を持つ快川紹喜の焼殺、などを挙げる論者あり(小和田哲男)。
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・「信長公阿弥陀寺由緒之記録」による阿弥陀寺と信長の遺骨。
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阿弥陀寺清玉(芝薬師蓮台野の阿弥陀寺住職)は光秀の本能寺襲撃を聞き、僧侶20人を連れて駆けつける。
表門は明智軍が厳重に囲み寺内には入れず、裏門より辛うじて入る。既に堂宇は焼かれ、信長も自刃した後である。
そばの竹林で信長の家臣10余人が火を焚いており、信長の遺言により信長の遺骸を火葬にしたとのことであり、彼らは遺骨を隠し、その後自決する覚悟だという。
そこで、清玉は、家臣に頼んで火葬された遺骨を法衣に包み、本能寺の僧侶が逃げるのに紛れ込んで寺から脱出したという。
この後、昼の八ツ時(午後2時頃)、清玉は七条河原で兵を休息させている光秀を陣中に見舞い、本能寺や二条御所で戦死した者の中には、阿弥陀寺の檀越の者が多くいると言い、遺骨収容を嘆願。光秀の許しを得て、信忠の遺骨や、討死者の死骸を阿弥陀寺に持ち帰って供養することが出来たという。
「言経卿記」7月11日条では、「阿弥陀寺へ参了、今度打死衆前右府御墓巳下拝之」とあり、その後の日記に、阿弥陀寺の信長の墓の記事もある。
9月8日からは、信長の百ヶ日追善供養が同寺で行われている。
阿弥陀寺や臨済宗妙心寺では信長の院号を「天徳院殿」と称するが、10月15日の大徳寺総見院で秀吉主導で行われた本葬の時に、「総見院殿」と改められたらしい。
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この由緒書は、記憶を頼りに享保16年(1731)に作られたという。
記された当時の阿弥陀寺の位置は2ヶ所あるが、その近いほうでも本能寺まで約3kmあり、事件を知ってから、戦いが続いている最中に駆けつけることは不可能と思われる。
更に、信長家臣が集まって信長の死骸を焼くことができる場所も時間的余裕もなかったと思われる。
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加藤廣「信長の棺」は、この由緒書を下敷きにしている。
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阿弥陀寺の写真、現在の位置などはコチラ
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・この日付の「言経卿記」、「言語道断ていたらく也、京洛中の騒動是非に及ばず」と感想を述べる。
3日には「洛中の騒動斜めならず」、
4日にも同じく「洛中の騒動斜めならず」、「禁中へ俳諧しおわんぬ」と記し、12日まで日記は中断。
13日に再開され、15、17日と続くが、4日までは干支が記されているのに反し、この3日間はなく、18日には干支が記される。
この13、15、17日の3日間は後の追記で、18日に日記を再開したと推測できる(3日分を18日に新たな紙に書き継いだと推測される)。
世情の混乱による狼狽に起因するのか、吉田兼見のように、都合の悪い記事を抹消する意図があったのか。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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瀬田

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2010年5月27日木曜日

鎌倉 新緑深まる円覚寺と松嶺院の山野草

5月22日に鎌倉の円覚寺に行きました。
好天の土曜日でしたが、予想外に人出は少ない印象でした。
やはり北鎌倉はこれからのアジサイの季節待ちということでしょうか。
境内一帯が新緑に覆われていました。








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境内の「松嶺院」にはたくさんの季節の山野草があります。
追加で参観料100円が必要ですが、お花の質・量からして、コストパフォーマンスは高く、参観おススメです。
尚、松嶺院には、オオム事件で殺害された坂本堤弁護士ご家族のお墓、田中絹代さん、開高健さんのお墓がありました。
坂本弁護士ご一家のお墓にはお線香が絶えない様子と拝見しました。
当然、私ら一同も心をこめて念入りにお参りしました。
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以下、山野草のほんの一部のご紹介。
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2010年5月25日火曜日

江戸城 二の丸庭園 本丸跡 ウツギ シロバナヤエウツギ ヤマボウシ ナンテン ヒイラギナンテン アジサイ ガクアジサイ

今日(5月25日)の昼休み、江戸城本丸跡から二の丸庭園へ。
濃い新緑に覆われていますが、花ばなたちは、いま丁度端境期。
そこらここらにいっぱい咲いていて、時間が足らずに早足で見て歩くような状況ではないです。
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二の丸庭園前の雑木林にウツギ。



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こちらは、シロバナヤエウツギ。
「ウツギ」は種類が多い。
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シャクナゲのはずですが・・・?
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ヤマボウシ
何ヶ所かに大きなヤマボウシがあります。
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ナンテン
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ヒイラギナンテンの実は色が変わるんですね
これは国立公文書館の前庭
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アジサイはもう少し時間が必要か?
下の二つは、北桔橋門を入って、天守閣跡との間の庭にあるもの。
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2010年5月24日月曜日

鎌倉 モミジ燃える寿福寺 裏山から源氏山公園に出て、化粧坂に抜ける

寿福寺は、山門と山門をくぐってからの参道がいいですね。
昨年1月昨年5月にも来ていますが、今回は参道とモミジが絶妙にマッチしてました。
今回は、政子さんや実朝さんのお墓のお参りもそこそこにして、お寺の裏山から源氏山公園に出ました。


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裏山から政子さんのお墓の「やぐら」辺りを見たところ
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源氏山もまた、もみじ、モミジ・・・でした。
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頼朝像
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公園内をひとまわりして、化粧坂を下る。
急坂と地下水が滲み出て滑りやすい個所がありますが、それもそんなには長くは続きません。
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坂下にある石碑
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2010年5月23日日曜日

鎌倉 鶴岡八幡宮 大銀杏のその後 根からも幹からも新芽が出てきた

昨日(5月22日)、鎌倉に行きました。
いろいろ歩いて廻りましたが、まずは鶴岡八幡宮の大銀杏の状況です。

先月初めの桜の頃はよく確認できませんでしたが、 今回はしっかりと芽が出ているのが確認できました。
手前の方が埋めた根から出てきている新芽、向こうが埋めた幹から新芽が出てきている様子。

銀杏の生命力はスゴイですね。




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「★鎌倉インデックス」をご参照下さい
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2010年5月22日土曜日

北の丸公園 セイヨウバイカウツギ ピラカンサ エゴノキ ガマズミ ハマビワ 初夏をおもわせる公園風景

北の丸公園
5月20日時点の花ばなです。
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セイヨウバイカウツギ
(ぎりぎり判読できるマジックインク書きの花の名を書いた板が近くにあり、そこにセイヨウバイカウツギとありました。
しかし、この赤のケバケバは「・・・ウツギ」ではないですよね)

鮮やかな赤い色をしています。




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ピラカンサに蝶が・・・。
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エゴノキ
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ガマズミ
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ハマビワ
もう少し大きくなってからご紹介しようと思ってましたが、2週間たっても3週間たっても大きくならない。
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公園の風景
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ハナミズキの林
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江戸城上空の怪しげなる飛行物体
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