2010年8月30日月曜日

永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(1) 関東大震災の年

大正12年(1923)年9月1日の関東大震災

午前11時58分、相模湾の北西端を震源とするマグニチュード7.9の大地震。
昼食時であったため火災発生、そのため大きな被害がでる。

死者9万9331人、行方不明者4万3476人、家屋全壊12万8266戸、半壊12万6233戸、被害総額60億円、震災恐慌突入。

更に、9月2日
・朝鮮人暴動に関する(「不逞鮮人来襲」の)流言拡大。

朝鮮人虐殺(~7日)2,613人、中国人160人。10日迄兵員5万動員。

また、9月4日には亀戸事件
南葛労働会の川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、亀戸警察署で軍隊(習志野騎兵第13連隊員)に虐殺。

9月末、布施辰治・春日庄次郎(出版産業従業員組合)ら10数人と荒川放水路土手を掘返して死体を捜す。10月10日新聞発表。

次に、9月16日
・大杉栄・伊藤野枝(28)・甥橘宗一、虐殺。

憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。

こんな事件が起ったこの年の永井荷風「断腸亭日乗」を追ってみた。

大地震と前後して、前は5月、後は11月まで余震が続いている。

主に、天候、世相、女性関係などの記述に絞り込みました。
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大正十二年荷風散人震災の記(荷風四十五歳)

正月二日。烈風暁に及ぶ。午に近く起出で顔を洗はむとするに、水道の水凍りゐたり。・・・

正月五日。水道の水今朝は凍らず。雑誌女性の草稿をつくりし後、四谷の妓家に往きお房と飲む。

正月八日。臺灣喫茶店女給仕人百合子といへるもの、浅草公園に往きたしと言ひければ哺時公園に赴き、活動写真館帝國館に入り、仲店にて食事をなし、安来節を看、広小路のアメリカンに憩ひタキシ自働車にて四谷愛住町なる女の家まで送り、麻布に歸る。方に夜半三更なり。・・・。

正月十日。・・・。寒風凛洌。厨房の水昼の中より凍りたり。

正月十二日。・・・。南風吹つゞきて心地悪しきほどの暖気なり。市中雪解にて泥濘歩むべからず。

正月十七日。厨房の水道鐵管氷結のため破裂す。電話にて水道工事課へ修繕をたのみしに、市中水道の破裂多く人夫間に合はず両三日は如何ともなし難しとの事なり。

正月二十日。午後雪を催せしが夜に至り風吹起りて晴る。宵の中より水悉く凍る。病床讀書。

正月廿一日。風南に轉じ寒稍寛なり。・・・。夜清元秀梅来る。
(*註 清元師匠「秀梅」さんがこの頃のメインの女性。
但しあくまで「メイン」。違う女性の名前がアチコチに散見)

正月廿四日。微雨雪となりしが須臾にして歇む。

正月廿六日。・・・。秀梅来る。

二月六日。曇りて寒し。

二月七日。朝まだきより雪降り出し夜に入るも歇まず。

二月八日。雪ふりつゞきたり。屋根の上に二尺ほどもつもる。薄暮に歇む

二月十三日。日ゞ晴れて暖なり。

二月十五日。病未癒えず。深更雨。

二月十六日。終日大雨。

二月二十日。昨夜枕上雨聲を聴いて眠りしが、今朝起出るにいつか雪となれり。・・・。

二月廿一日。午頃より雨に交りて雪また降る。街路忽沼の如し。

二月廿三日。・・・。夜暖なること四月の如し

二月廿六日。帝國ホテルにて与謝野寛誕辰五十年の祝宴あり。
(*註 この年荷風は45歳。森鷗外全集編集に関して両者に確執あり)

二月廿八日。春寒くして梅花未開かず。秀梅に逢ふ。

三月六日。晴れて風寒し。

三月十二日。春雨歇まず。終日机に凭る。

三月十三日。・・・。風冷なり。

三月十五日。春雨晩晴。泥濘の路を歩み高輪楽天居句會に往く。

三月十七日。快晴。新橋の妓鈴乃に逢ふ。

三月十八日。南風頭痛を催さしむ。日暮俄に雨。

三月十九日。春雨烟の如し。・・・。

三月廿二日。・・・。深夜雨。

三月廿三日。・・・。春風冷なり。

三月廿八日。午前十時過京都驛に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖気五月の如し。祇園の櫻花忽開くを見る。夜島原に遊ぶ。

三月廿九日。午後より雨。気候再び寒冷となる。夜玉川屋に飲む。

三月三十日。終日散歩。夜九時半の汽車にて東歸の途に就く。

三月三十一日。朝十時新橋に着す。・・・。

四月一日。東京の櫻花は未開かず。風烈し。・・・。

四月二日。晴天旬餘。風強く塵烟雲の如し。市兵衛町表通の老櫻三分通花ひらく。午後四谷のお房来りて書斎寝室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。

四月三日。・・・。風冷なり。

四月五日。風俄に寒く夜に入りて雨雪に変ず。

四月七日。雨歇みしが空晴れず風冷なり。富士見町に往き賤妓鶴代と九段の花を見る。

四月八日。夕刻驟雨。

四月十一日。快晴。・・・。夜に至り雨ふる。

四月十二日。雨午後に晴る。

四月十四日。・・・。春日駘蕩、品海の眺望甚佳し。・・・。

四月十五日。晴天。風猶寒し。今年花開きてより気候順調ならず

四月十六日。俄に暑くなりぬ。・・・。

四月十七日。夕方より風吹き出で大雨となる。・・・。

四月十八日。日の光夏らしくなれり。・・・。風吹き出でしが雨にはならず。・・・。

四月二十日。晴れしが風猶冷なり。本年の春ほど気候不順なる時節は罕なるべし。宿痾よからず。深更雨。

四月廿一日。・・・。曇りて風寒し。・・・。

四月廿四日。午後散歩。・・・。風寒く日暮雨となる。四月末の気候とは思はれず、暖爐に火を焚く

四月廿五日。雨ふる。・・・。

四月廿八日。・・・。薄暮細雨糠の如く風竹淅瀝たり。・・・。

四月三十日。曇りて風冷なり。・・・。

五月三日。雨終日小止もなく降りつゞきたり。・・・。午後一葉全集の中たけくらべ濁江の二篇を讀む。
(*註 一葉を読むところ、ワタシ的には嬉しい)

五月六日。立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。・・・。深更地震

五月七日。雨もよひの空なり。・・・。

五月八日。終日雨歇まず。

五月十一日。・・・。深夜雨聲あり。風呂をたきて浴す。

五月十三日。麦藁帽子を、購ふ。

五月十四日。・・・。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。・・・。

五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。濱町阿部病院に往きラヂウム治療の後、深川邊を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に歸る。此日午前邦枝完二来訪。・・・。

五月十六日。・・・。雨ふり出して寒冷冬の如し

五月十七日。曇りて寒し。・・・。

五月十八日。快晴。気候順調となる。・・・。

五月十九日。晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき當もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の邊まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ

五月廿一日。風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。

五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。・・・。

五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り讀書創作意の如くならず、夜々眠り得ず。大石國手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ歸途四谷見付より赤坂離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。

五月廿八日。黄昏驟雨。

五月三十日。・・・。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に歸る。初更雨烈しく降り出しぬ。

五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。・・・。夜また雨。
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2010年8月28日土曜日

東京 江戸城 東御苑 夏の草々 トウフジウツギにアゲハ舞う はるかのひまわり ヤブラン ナデシコ オミナエシ コバギボウシ ウド 江戸城の夏風景

8月24、25日の江戸城東御苑です。
街ではまだまだ元気なサルスベリを見かけますが、あれだけ咲き誇ったここ江戸城二の丸庭園のサルスベリは徐々に寂しくなってきました。
そこで、サルスベリの次は何か、を探しにゆきました。
いつものように、天守閣跡から本丸跡方向をみたところ。

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本丸休憩所裏にトウフジウツギが咲いており、アゲハが舞っていました。
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はるかのひまわり
阪神淡路大震災で亡くなった小学6年生の女の子「はるか」の家に咲いていたひまわりです。
同じく本丸休憩所裏です
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中雀門
空襲の焼跡かと思ったのですが、明暦の大火の跡とのことです。
この大火では、天守閣も焼け落ち、以降再建されていません。
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ヤブラン
これから下は、二の丸雑木林にあるものです。
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ナデシコ
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オミナエシ
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コバギボウシ
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ウド
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天守閣跡
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展望台から見た白鳥濠と汐見坂
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北桔橋門から見た平川濠
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明治6年(1873)7月1日~26日 朝鮮問題の閣議開催 木戸孝允、帰国、井上救済に動く  [一葉1歳]

明治6年(1873)7月
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この頃
朝鮮問題の閣議(6月~7月の間)
派兵(板垣)、使節派遣(西郷)等の議論。結果は外務卿副島の帰国待ち。
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経緯:
維新後、日本政府側は中央政府主導による両国関係の刷新を期すが、朝鮮政府は、旧来の対馬藩仲介による「通信」関係継続を望み、国交交渉は頓挫。
前年の明治5年9月、外務省は、一方的にこれまで旧対馬藩が管理していた草梁倭館を接収し、これを「大日本公館」と改称して外務省管轄に移すが、この措置は朝鮮側を刺激し、現地は一触即発の危機に陥る。

草染倭館は、朝鮮国釜山草梁項にある広大な土地・建物で、元来は朝鮮政府所有のものを、対馬藩が伝統的に使用を許されて役人や商人を滞在させていたもの。
外務省は、廃藩置県によって対馬藩が消滅した機会に、旧対馬藩役人を退去させ外務省役人にこれを統括させる。
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明治6年5月21、31日、大日本公館駐在の外務省七等出仕広津弘信が外務少輔上野景範宛に報告書を送達。
①公館への生活物資供給と同館在住日本人商人の貿易活動が、朝鮮側官憲の厳しい取締りで困難になっている。
②理由の一つは、三越の手代が対馬商人の名義を借りて商売を試み、「僭商」と朝鮮側の怒りを買った事である。
③朝鮮東萊府が公館門前に出した掲示には、日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない、朝鮮当局は対馬商人以外に貿易を許していないのに達反した、近頃の日本人の所為を見ると日本は「無法之国」というべきである云々、と記載されている。

報告書は、大久保利通の帰国前後に到着。
その頃、外務卿副島種臣は、全権大使として清国に出張中で、大輔寺島宗則は駐英大弁務使に転出しており、上野少輔が外務省務の責任者であった。
上野は、広津の報告書の内容を重大事と見て、太政大臣三条実美に太政官(正院)での審議を求める。
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閣議の原案:
朝鮮側官憲が、「我ヲ目シテ無法ノ国トナシ、叉ハ我ヲシテ妄錯生事後悔アルニ至ラシメヨ」などと掲示したので、「自然不慮ノ暴挙ニ及ビ、我人民如何様ノ凌虐ヲ受ケ侯ヤモ測り難キ勢ニコレアリ」、「第一朝威ニ関シ、国辱ニ係」わる事態であり、「最早、此儘閣(オ)キ難ク」、「断然出師ノ御処分」(武力解決)を決断しなければならないであろう。
しかし、「兵事ハ重大ノ儀」であるから、とりあえず居留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、九州鎮台に即応態勢をとらせ、軍事力を背景に使節を派遣して、「公理公道ヲ以テ、屹度談判ニ及ブべキ」である、との方針。

正院メンバ:
三条太政大臣と、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平。

審議:
板垣が、原案に賛成し、居留民保護のために兵士1大隊を急派せよ、と発言し、閣議の空気はそれに傾きかける。
西郷は、陸海軍派遣は朝鮮官民の疑懼をまねき、日本側の趣意に反する結果となろうと反論し、使節を派遣して公理公道をもって談判すべきである、これまで朝鮮に派遣されたのは大丞以下の外務省官吏であったので、今度は全権を委ねられた大官を派遣せよ、と主張。
三条は、使節派遣であれば護衛兵を率い軍艦に搭乗して赴くべきだと発言。草梁倭館接収事務に派遣された外務大丞花房義質が軍艦「春日」に搭乗し歩兵2小隊を乗せた汽船有功丸を伴ったので、その事例を持ち出したのであろう。
西郷は、これにも反論して、使節は「烏帽子、直垂」(礼装、非武装)でなくてほならないと主張し、日本開国にあたってのペリーやプチャーチンの様に、西郷自ら使節の任にあたりたいとの意向を表明。
しかし、事は重大で、副島外務卿は清国出張中であり、また西郷の国外派遣に三条が躊躇したので、閣議は結論を保留。
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この月
・海軍兵学校、英人アーチボルト・ダグラス准艦長以下34名の雇教員団着。
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・旧庄内藩士(酒田県)の出訴に司法省権中判事早川景矩派遣、松平親懐参事ら100余処分。不徹底。
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・東京府、撃剣興行を禁止
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・森有礼、アメリカより帰国。
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7月3日
・司法権中検事(5等官)澄川拙三、京都出張報告。京都府は裁判所申渡しに対し請書も上告もなし、罰せざるを得ない。
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7月5日
・工部省、「各寮ニ傭使スル職工及ヒ役夫ノ死傷賑恤規則」制定。
死亡5円、重傷2円50銭、その他医薬料支給。
官業労働者対象の日本最初の労働保護立法。
実態は少額の手当金の支給という慈恵的な性格。
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7月5日
・京都府庶務課長関谷生三、小野組に転籍許す通告。
13日、京都裁判所中解部犬塚重遠、京都府庶務課長関谷生三と区長・戸長らを訊問。
関谷らを監置処分とする。
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7月5日
・司法省、正院へ「京都府の官員を推問する儀」伺う。
8日、正院、司法省に取調書類詳細をもって改めて伺うよう指示。
12日、司法省六等出仕早川勇、太政官へ出頭。取調書類を示して閣議で説明。「ただちに罪を科すべき」閣議決定。
13日、司法省中検事澄川拙三、閣議決定により擬律案(知事8円、参事6円の贖罪金)作成。
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7月12日
・陸軍少佐樺山資紀、上海で柳原外務大丞と会い、西郷兄弟への手紙託す。
清が先住民地域を「化外」と表明したこと、出兵すべきであること、ロシアの極東進出の脅威など、について。
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7月16日
・この日付、池上四郎宛ての児玉利国の書簡。
海軍秘書児玉利国は北京長逗留で池上四郎に会えなかったが、池上四郎の台湾偵察を希望する。
この後、児玉利国は陸軍少佐樺山資紀に従い、清国南部と台湾を偵察するが、台湾内地の偵察はできず、後に福島九成が台湾内地偵察に成功。
この月、彭城、復命書を政府に提出。
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7月16
・太政官正院法制課長(3等官)楠田英世(7月9日任命)、澄川拙三の擬律案を採用。
この指令案は直ちに承認され、三条の上奏も裁可され、特命として京都裁判所に電達。
19日、京都裁判所、京都府知事(3等官)長谷信篤・参事(5等官)槇村正直に呼出状を送付。槇村は長谷を説得して、自ら太政官正院に進達状を執筆。
22日、京都府7等出仕谷口起孝、上京、太政官正院に進達状を提出。
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7月20
・太政官正院法制課長楠田英世、前任者小松彰の5月20日の決定を覆し、司法省の伺った「新次郎魚代渋事件」を司法省にて取調べることとする。
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7月21
・西郷隆盛、陸軍大輔西郷従道へ手紙。
台湾出兵の場合、陸軍少佐別府晋介が鹿児島よりも出兵する意志ありを伝える。
数日後、陸軍少佐樺山資紀から手紙。
清が「化外」を言明したからには、気候を考慮して「十月を期限に突入」してはどうか、また、ロシアの極東進出が脅威であるとする。
8月9日、西郷はこの手紙を板垣に廻す。この手紙は岩倉のもとに残る(政府高官に回覧された)。
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7月23
・木戸孝允、帰国。
朝8時、工部大輔山尾庸三がボートで木戸の船を訪れる。
26日、井上を訪問。
28日、井上宅に宿泊。渋沢栄一も同席。井上救済と尾去沢銅山事件のもみ消し工作。
8月19日、京都府権典事木村源蔵が木戸を訪問。
20日、京都府参事槇村正直が来訪。小野組転籍事件への対応。
9月13日、岩倉一行帰国。
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8月1日の木戸日記。
「朝井上世外を訪う、一昨日同氏へ一書を送れり、其主意は使節も不日帰朝に付、暫時奥州行(尾去沢銅山視察)を見合せ在留をすすめり」とある。
しかし、井上は、木戸の忠告にもかかわらず「奥州行」して疑惑を深める。
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小野組転籍事件(纏め)
小野家は三井家・島田家と並ぶ江戸時代以来の巨商、新政府発足当時の為替方をつとめる。
小野組の本拠は京都であったが、東京が首都になり、小野組の営業もしだいに東京中心となったので、本籍を東京に移動したいと考え、6年4月8日、小野善助と小野善右衛門が京都府庁に京都秋野々町から東京への転籍を願い出る。

ところが、京都府は、口実を設けて願書の受理を拒む。
転籍申請拒否の理由は、管轄下の富豪に賦課していた臨時の公納金に関係がある。この頃、地方官は、かつて大名が有力町人に御用金を課した慣習を引き継ぎ、富豪に公租以外の臨時の出金を命じており京都府に限らず、地方官は、管轄下の富豪の転出を好まなかった。
また、京都府知事は公卿出身の長谷信篤であったが、実権は長州出身の参事槇村正直(木戸の腹心)が握っており、槇村は、木戸の京都邸買収にあたったり、木戸の機密金の運用を三井源右衛門と相談したりしている。
京都府は、木戸の政治資金の重要な源泉だった可能性があり、府庁は金づるである小野組の転出阻止を目論む。

さらに、三井組と関係のある井上大蔵大輔が、三井の商売敵小野組の足を引っぼるために、槇村に手をまわして小野組東京進出の妨害をはかったとの噂もあったという。
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府庁は、小野家の代表を白洲に引き据えて転籍を断念せよと罪人扱いして強要したり、様々な迫害を小野家に加える

小野側は、司法省達第46号(地方官が人民の権利を侵害したときは裁判所への出訴を許す)を知り、6年5月末、京都裁判所に、「先般御布達も之れ有り候儀に付、恐れ多く候えども、余儀なく御訴訟申し上げ奉り侯、何卒出格の御憐慇を以て速に送籍御聞き届け相成り侯様、伏して願い上げ奉り侯」と、恐る恐る「御訴訟」申し上げる。

京都裁判所長北畠治房は、天誅組志士の生残りで、江藤の眼鏡にかなった硬骨漢で、6月、京都裁判所は、原告小野善助らの請求を認めて京都府は転籍届を受理すべき旨の判決を下す。

しかし、京都府庁は、小野側を府庁に呼び出して裁判所に訴えたのはけしからんと逆にこれを脅迫。
ここで、事件は転籍をめぐる行政訴訟から刑事訴訟に発展。
府庁首脳(知事、参事)は裁判所判決を履行しない罪を問われて、刑事被告人となり、その結果、裁判所は、長谷知事に贖罪金8円、槇村参事に同6円を課せられる。

ところが、府庁側が伏罪を拒否したため、北畠裁判所長は「槇村正直の法権を侮辱する更に之より甚しきはなし」と、司法大輔に槇村の拘禁を上申。

この背後には、裁判権・警察権の移管をめぐる地方官と裁判所との対立、ひいては大蔵省と司法省との対立が存在している。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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天文22(1553)年1月~閏1月 甲相同盟成立 平手政秀(62)諌死 三好長慶、将軍足利義輝と和睦 [信長20歳]

天文22(1553)年
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この年
・北条氏康、石切の条規を定め、これに扶助を与える。
57年にも、新石切に扶持を与え、北条氏の築城技術の進歩を窺わせる。
58年には、伊豆国内の革作の条規を定め、武具製作技術者確保を図る。

大名権力による領内農民労働力の集中的使役、及び、扶持人・給人として大名に奉公する職人衆の農民からの分離が進む。

大名の軍事力構築の為に労働力と技術が確保され、また普請資材である竹木の大名権力による確保も伐採規制強化として進められる。
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・近江守護六角義賢、犬上郡の百姓がみだりに名字を称して侍となり、多賀社神事役を勤任しない永正8年以来の不法を停止するが、容易に徹底せず。

百姓が恣意的に侍となり百姓役を勤めぬ秩序解体情況は、とくに畿内において進行していたと推測される。
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・興福寺僧尭顕と朝倉氏家臣杉若吉藤との相論。
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尭顕は河口荘新郷の代官で、この郷の本役米分70貫文余は尭顕より杉若に納入されることになっている。
他方、杉若は坪江郷政所職代官で、興福寺年貢収納使でもある尭顕に100貫文余を納入することになっている。
ところが、尭顕が杉若に本役分を納入しないため、杉若は自分の収納分と納入分を差し引いて30貫余しか興福寺に渡さないでいた。

興福寺学侶衆徒は朝倉義景にこれを訴え尭顕・杉若相論となる。
興福寺は将軍義晴にも訴え、将軍より義景に紛争究明と裁決を加えるよう「下知」し、義景はこれに対し朝倉氏として審理し裁決すべきことを将軍に「御請」する。
義景の裁決は、杉若が70貫文余を興福寺に納入せよというもの。 
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・若狭の羽賀寺、地頭・領家の要請を受けて雨乞を行なう。
雨が降り始め、羽賀寺礼堂で寺家衆・百姓衆が酒を酌み交わし喜び合う。
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寺社と地域社会
費用負担の問題もあり雨乞祈は領主・守護の要請によって実施されるが、僧侶・百姓が「大酒」を飲んで喜び合う光景は、顕密寺社が地域民衆の切実な願いに応えていることを示る。

中世後期には、地方寺社と中央との関係は疎遠になり地域に密着した寺社としての性格を濃厚にしてくる。
若狭の明通寺・羽賀寺・妙楽寺・大飯郡飯盛寺には如法経信仰に基づき、逆修・追善・女人成仏を求める地域民衆の信仰を集める。
敦賀郡江良浦寺庵の僧侶は在所で「いろは字」を教え、武田氏有力家臣の粟屋家長は少年のとき稚児として羽賀寺に入寺しており、寺院は地域諸階層への教育的機能をも果たしている。
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在地領主・土豪層の寺社内部への進出も顕著で、明通寺では檀越の多伊良一族が寺僧となり、敦賀郡西福寺の正寿院坊主職を巡る寺家・檀那の相論の背景には、檀越一族の子院への進出がある。

在地領主・土豪層の寺社への進出が中世後期の顕密寺社の地域的発展を支え、寺社・仏教の在地性の深化が、一方ではその対立物としての一向一揆を生みだす原因となり、他方では近世幕藩権力の脱宗教化の要因ともなる。
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こうした状況したでも、中央との関係はなお意義をもって存続する。
①天皇は、中世を通じて勅願寺免許、僧位僧官や禅師・国師・上人号の授与、香衣・紫衣の勅許などの権限を保持。
②幕府は、将軍家祈願所の認定、や安国寺・利生塔の設営、五山・十刹・諸山の管理、僧位僧官などの実質的叙任権を掌握。
③本寺との関係。
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・[明の嘉靖33年]上海県に周囲9里の城壁が築かれる。
旧「城内」のかたちができる。
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1月
'・武田晴信、中信濃から進出し、村上義清を攻める。
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・大友義鎮(宗麟)、幕府要人に肥前守護職を請う書を送る。
翌天文23年1月、義輝に南蛮鉄砲を献上。同年8月、肥前守護職に補任。
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1月1日
・神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世、メッツ攻略断念、包囲解除。譲位決意。
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1月3日
・ミシェル・セルヴェ、ヴィエンヌで「キリスト教復位」上梓。
三位一体説、キリスト先在説、幼児洗礼を否定。新旧両派より憎悪される。
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1月6日
'・信濃の小笠原長時、武田晴信の誘いを退けて越後国の長尾景虎を頼る。
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1月17日
甲相同盟成立
信玄の娘と氏康嫡男氏政との婚約が成る。北条氏康使者、氏康の婚儀誓書入れる。
2月21日、武田晴信使者、晴信誓書入れる。
更に翌天文23年7月、氏康の娘が義元の嫡男氏真に嫁ぐ。
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1月22日
・毛利隆元長男幸鶴丸(輝元)、郡山城に誕生。
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閏1月
・安曇郡の仁科盛康、武田氏に帰属する。
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・府内の乱。
一万田鑑相、宗像鑑久、服部右京助ら、大友氏に謀反するが、大友義鎮に誅伐される。義鎮は服部の妻を妾とする。
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閏1月13日
'・織田信長の傅役平手政秀(62)、諌死
政秀は信長の素行(「大うつけ」)を憂い諌死したとされるが、「信長公記」には信長と政秀父子の確執の事件が記されており、それが諌死であったか真相は不明。
のち、信長は政秀の所領小木村に政秀を弔うため政秀寺を建立し、開山に沢彦宗恩を招く。
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閏1月15日
'・三好長慶、将軍足利義輝と和睦
前年12月、将軍義輝が、清水坂の合戦で荒された霊山城修築の為、京都の各社寺に竹木人夫を徴発するが、政所執事伊勢貞孝が反対。
これに怒った奉公衆上野・細川刑部・彦部ら近習が晴元に内通し、貞孝・長慶を除こうとし、長慶と義輝の関係が悪化。

幕府近臣らは、先に堅田を脱出して長慶に降りた貞孝を裏切り者と見倣すが、一方で、貞孝は長慶の信任厚く、洛中の裁判・課税など財政・司法を掌握しており、復活した幕府との関係はうまく行かない。
正月、長慶は入京するが義輝の勘気にあい、閏正月8日、淀城に退く。
この日、仲介する者があり表向き義輝と長慶は和睦するが、長慶の義輝側近に対する疑惑は解けていない。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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2010年8月25日水曜日

「九月十二日。晴。朝の中より華氏八十八九度のあつさなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年9月12日条)

永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年9月12日条に、

「九月十二日。晴。朝の中より華氏八十八九度のあつさなり。」

というくだりがある。

「華氏八十八九度」?・・・
調べてみたら、華氏88度が31.1℃、華氏89度で31.7℃ということらしい。

9月12日で朝から31℃越えというんだけど、今年の日本はどうなることやら。

ついでに、「断腸亭日乗」のこの年7月からの天候、気温の記述はどうなっているのか見てみた。
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「七月初(旧五月十三日)。陰。夜・・・。雨に逢ふ。」

「七月初二。雨ふりてはまた歇(ヤ)む。・・・。」

「七月三日。空は朝よりくもりしまゝなれと、今日はどうやら雨は降るまじきやうに思はれたれば、・・・。夕刊新聞に相澤中佐死刑の記事あり。」

「七月四日。陰。・・・」

「七月五日。陰。・・・」

「七月六日。雨霏々。・・・。雨深更に至るも歇まず。」

「七月七日。くもりて雨無し。忽然新蝉の聲を聞く。・・・。
〔欄外朱筆〕二月二十六日叛乱軍将卒判決の報出ヅ」

「七月八日。陰。・・・。深更雲散じて月あり。」

「七月九日。陰。森先生忌辰。午後より豪雨沛然。夕方小降りになりしが初夜過ぎてより大雨とな
る。」

「七月十日。陰。俄に暑し。」

「七月十一日。晴後に陰。・・・。夜・・・。雨降出したれば高橋邦氏と車を共にしてかへる。
流行唄忘れちやいやよと題するもの蓄音機圓板販売禁止。また右の唄うたふ時は巡査注意する由。・・・。」

「七月十二日。陰。・・・。寝に就かんとする時俄に雨聲をきく。
〔欄外朱筆〕叛軍士官代代木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ」

「七月十三日。終日大雨。夜に至って霽(ハレ)る。」

「七月十四日。晴れて俄にあつし。・・・」

「七月十五日。晴れて晝の中は南風吹きしきりでさほどに暑くもなかりしが、夜に入り風やみ溽暑堪えがたくなりぬ。・・・。」

「七月十六日。晴。晝中華氏九十度(32.2℃)の暑なり。・・・。」

「七月十七日。昨日にまさる暑たり。・・・。」

「七月十八日。快晴。炎暑ますます甚し。・・・。」

「七月十九日。・・・。」 

「七月十九日 補。夕刻・・・。八時頃驟雨雷鳴甚し。・・・。」

「七月二十日。陰。暑気やゝ忍びやすくなれり。今日より二十四日まで毎夜鮎燈を禁ぜらる。・・・。〔以下一行抹消〕朝鮮人暗夜に乗じ暴動を起すやの流言頻なり」

「七月廿一日。天気快晴。風ありてすゞし。・・・。」

「七月廿二日。朝晴。晝頃くもる。風さはやかなれば・・・。点燈禁止の第三夜なり。・・・。」

「七月廿三日。・・・。点燈禁止の第四夜なり。・・・。」

「七月廿四日。早朝大に雨ふる。・・・。」

「七月廿五日。暑甚し。・・・。」

「七月廿六日。炎暑甚し。」

「七月廿七日。炎暑咋の如し。・・・。」

「七月廿八日。風ありて稍(ヤヤ)涼し。・・・。」

「七月廿九日。土用に入りても蝉の聲少し。」

「七月三十日。・・・。」

「七月升一日。晴。夾竹桃秋海棠花さく。」

「八月初一。空くもりて風俄に涼し。夜驟雨あり。」

「八月初二。曇りて涼しきこと昨日の如し。」

「八月三日。小雨。涼味秋の如し。・・・。」

「八月四日。晴。涼風颯々たり。蟬聲稍多くなりぬ。・・・。風聲既に秋のごとし。」

「八月五日。・・・。」

「八月六日。牛後より雷鳴驟雨。夜に入って霽る。」

「八月七日。薄晴。風ありて涼し。・・・。」

「八月八日。晴また陰。風涼し。・・・。夜驟雨。」

「八月九日。晴。晩來小雨。須臾にして歇む。」

「八月十日。晴また陰。・・・。」

「八月十一日。晴。・・・。」

「八月十二日。晴。暑気夜に入りで殊に甚し。」

「八月十三日。晴。・・・。」

「八月十四日。晴。・・・。」

「八月十五日。晴。秋風颯々たり。始めて法師蟬の鳴くをきく。夜墨堤を歩む。言問橋西岸に花火の催しあり。・・・。夜伯林オリンピクの放送十二時頃より十二時半に至る。銀座通のカフヱー及喫茶店これがためにいづこも客多し。」

「八月十六日。陰。終日風あり。・・・。深更大雨。」

「八月十七日。くもりて風なし。午後小雨。・・・。」

「八月十八日。晴れて涼し。・・・。夜・・・。秋風肌に沁む。」

「八月十九日。快晴。涼味九月の如し。・・・。歩みて京橋より電車に乗りてかへる。窓外の虫聲昨夜に此すれば更に多し。」

「八月二十日。快晴。晝の中より秋風肌寒きばかりなり。・・・。」

「八月廿一日。晴れて涼し。・・・。」

「八月廿二日。陰。再び暑し。・・・。」

「八月廿三日。晴。後に陰。」

「八月廿四日。晴。残暑甚し。・・・。」

「八月廿五日。晴。朝の中より日の光強く残暑酷烈なり。・・・。溽暑眠難し。」

「八月廿六日。くもりて暑し。・・・。此夜三更驟雨濺來りしが溽暑更に減ぜず、寝室蒸すが如し。」

「八月廿七日。くもりて湿気多し。・・・。」

「八月廿八日。快晴。秋暑いよいよ甚し。・・・。」

「八月廿九日。晴。・・・。夜熱甚しければ・・・。月佳し。」

「八月三十日。晴れて暑し。」

「八月卅一日。晴れて暑きこと昨日の如し。・・・。十一時過雨始めて霽る。」

「九月初一。晴。溽暑甚し。夜明月皎然。深更に至り驟雨。」

「九月初二。終日驟雨、夜に入るも霽れず。雷聲殷々たり。・・・。」

「九月初三。晴また陰。燈刻雷鳴驟雨。」

「九月初四。陰。溽暑坐ながらにして汗流るゝばかりなり。・・・。途中疾風俄に砂塵を捲き驟雨來る。・・・。日暮れて松屋閉店の時刻となるも雷雨猶歇まず。・・・。夜八時雨始めて霽る。月よし。」

「九月初五。晴。・・・。」

「九月初六。快晴。秋暑猶熾なり。・・・。」

「九月初七。晴。朝の中既に華氏九十度の暑なり。・・・。」

「九月八日。晴。残暑更に退かず。・・・。」

「九月九日。晴。今年の暑さは夜のふくるにつれてますます甚しくなるなり。今夜も亦十時頃より風絶えてむしあつく眠りがたし。唯虫の聲のみ夜毎に秋のふけ行くを知らしむ。」

「九月十日。晴。・・・。夜また玉の井視察。・・・。蒸暑眠りがたきこと昨夜のごとし。」

「九月十一日。晴。昨日に此すれば稍涼し。・・・。深更驟雨の来るを聴く。」

「九月十二日。晴。朝の中より華氏八十八九度のあつさなり。・・・。」

「九月十三日。晴れて風やゝ涼しくなりぬ。・・・。」

「九月十四日。風は颯々として響を立つれど日の光強く暑気更に退かず。今年の如き残暑は未曾て無きところなり。・・・。」

「九月十五日。・・・。夜玉の井に往く。・・・。」


この辺りで、「暑」の字が日記から消えます。
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この年は、8月22日以降に暑さがぶり返す、所謂残暑が厳しい年であったようです。

この年58歳の荷風散人であるが、9月14日条でつくづくと、「今年の如き残暑は未曾て無きところなり。」とぼやいています。
暑さが増幅する環境、暑さをしのぐ(又は耐える)環境も異なりますので比較はできないと思いす。

でもねえ、荷風散人、
それでも玉の井通いはしっかりと・・・。

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猛暑、残暑、熱帯夜・・・、それに甲子園ときたら、
昔(?)は、電力消費節減キャンペーンがあったもんですが、
さるニュースによれば、電力消費量はリーマンショックの年の7月のレベルにはまだまだ及ばず、ということらしいです。
器具の消エネ化、電力会社に依らない発電も、少しはそれに寄与?
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2010年8月24日火曜日

獄中の小林多喜二の戯れ歌 「この暑さ 独房なれば・・・」 昭和5年(1930)9月17日付け手紙

猛暑が続く中で、小林多喜二の戯れ歌を思い出しました。

小林多喜二の獄中書簡に

「宮木君はどうしていますか。私からも出しますが、同君からも是非とお伝え下さい、私の小説と同じように汚い歌を一つ最後に御照会します。「この暑さ、独房なれば褌をもはずして居るがくせとなりたり。」 名句でしょう、では、又。」(昭和5年9月17日付け原まさの、中野鈴子宛て手紙) 
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「貴女たちの手紙を、同じ手紙を、一日に二度は読み返えしています。その中に、何か読み残したもの、新しいもの、社会の匂い・・・が無いかと。これは本当です。
   この暑さ、独房なれば褌をもはずして
         居るが癖となりたり。(名句でしょう。)
私の小説のように、汚い歌です。どうも人様のようなものは出来そうもないとは、さても争われないものです。」((昭和5年9月17日付け中野鈴子宛て手紙) 

というくだりがあります。
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多喜二はこの年8月21日、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に収監されています。
この歌は、その収監直後のもののようです。
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確かに、戯れ歌にしてもヘタで、ご本人自ら言う様に「汚い歌」です。
でもこの時、多喜二は27歳。
これくらいはじゃれる(戯れる)でしょう。
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この多喜二の一連の獄中書簡には、若さ、明るさ、率直さ、真摯さが溢れていて、既に80年も経った文章とは思えない生気が溢れています。
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多喜二は、北海道拓殖銀行に勤めながら、陰で労働運動、無産政党選挙支援を行い、「蟹工船」「一九二八・三・一五」で中央文壇に新進プロレタリア作家として認められます。
しかし、徐々に、職場に特高が現れるようになりして、「不在地主」発表を機に銀行を解雇されます。

そして翌昭和5年3月、念願の上京を果たします。
私生活では、田口タキさんと短いながらも同棲生活を送り、作家としては「工場細胞」を発表します。
この年5月、「戦旗」防衛巡回講演に江口渙、貴司山治、片岡鉄平、中野重治、大宅壮一らと参加し、その帰路の23日、大阪で逮捕。
この時は、6月7日に釈放されるも、帰京後の24日に立野信之方で逮捕されています。
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昭和6年1月22日に保釈出獄となります。
(その3年後には虐殺されています)
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手紙の宛先になっている「原まさの」さんは、同時期に獄中にある中野重治さんの奥さんで女優の原泉さん、中野鈴子さんは中野重治さんの妹で詩人(「一田アキ」)。
「一田」は、故郷の一本田から取られたんでしょう。
原さんは、中野重治さんにこの歌を紹介して、「あんまり汚くて笑って仕舞まいました」と書く。
中野さんは、「小林の歌驚いたネ」と、応えたとのこと。
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これらは、昨年11月に出版された「小林多喜二の手紙」(「岩波文庫」)に依っています。
この本の注釈、解説は秀逸です。
小林多喜二の手紙 (岩波文庫)
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今年2月、父が逝って帰郷した際に、昔の本棚に「青木書店版 小林多喜二全集」を見付けたんですが、この「2」には、「蟹工船」「不在地主」「暴風警戒報」に「日記」「書簡」が収められていました。
刊行は昭和34年、定価280円(!!)。
しかも、私は、刊行の10年後くらい(多分)に270円で買っているようです。
帰りの新幹線でこれを読み始めたのですが、手紙の文体の若々しさに惹かれるもののイマイチもの足りなかったので、この岩波文庫版を買って読んだところ、今までの「もどかしさ」みたいなものが吹っ飛びました。
理由は岩波文庫版の注釈の豊富(背景、関係人物、事件など)さです。
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それと、
なんだかインネン話っぽくて恐縮ですが・・・
新幹線で青木書店版全集を読んだ日が、2月20日で、多喜二忌の日でした。
その週の、日付けは忘れましたがある日には、NHKの歴史番組が、多喜二忌に合わせたのか、「小林多喜二」を特集していました。
多喜二のデスマスクを長く映していましたが、創作と闘争への静かな消えることのない意志を見るような気がしました。
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さて、
多喜二忌と言うとすぐおもいつくのは・・・

「多喜二忌や麻布二の橋三の橋」

多喜二の奥さんだった伊藤ふじ子さんの歌。
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伊藤ふじ子さんは、再婚後、幸せな生活を送られましたが、70歳で亡くなられています。

一方、田口タキさんは、昨年6月19日、102歳で亡くなられました。
ニュースサイトはコチラ
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お二人ともに美形です。
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このお二人に関しては、澤地久枝さんの本があります。
完本 昭和史のおんな

わが人生の案内人 (文春新書)
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澤地さんは、中野重治ご夫妻の書簡も編集されています。
愛しき者へ〈上〉 (中公文庫)
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2010年8月22日日曜日

京都の夏 祇園白川から白川沿いに三条通りまで 明智光秀塚

8月17日、猛暑の中、買い物を頼まれたついでに祇園白川に立ち寄り、桜の頃とは違う白川の風情を見てきました(コチラ)
それから、(何度も言いますが)酷暑の中、白川に沿って明智光秀塚まで歩きました。
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写真で見ると涼しげですが・・・
白川は清流です
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三条通りに達する少し手前の東側に、「東梅宮 明智光秀墳」との石碑があります。
裏には弘化2年とありました。幕末ですね。
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この奥です。
通り抜けはできません。
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小さな祠です
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由来、真贋など云々するよりも、人々に親しまれ守り継がれてきていることに注目したい。
地蔵盆!
なんとも懐かしい
まだ続いているんだ
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光秀塚あたりの白川の風景
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三条通りに出て東側を見たところ
すぐそこに平安神宮
・・・、この暑さでは、これ以上はムリです。
地下鉄、バスを乗り継いで帰宅
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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2010年8月20日金曜日

ワイダ監督にロシアが勲章

お盆休み前で少しばたばたしていた8月11日の「朝日新聞」夕刊に、

ワイダ監督にロシアが勲章

という見出しの記事があった。

「ロシアのメドベージェフ大統領が、ポーランドの有名映画監督アンジェイ・ワイダ氏に友好勲章を贈る大統領令に署名した。・・・」

というもの。

朝日のネット版記事はコチラ
関連情報はコチラ

肝腎の監督本人がこれを受けるのかどうかについては、私の知る範囲では不明であるが、大いに関心が持たれるところ。

政治家のやることだから、当然何らかの「政治的」配慮が働いているには違いないのではあるが、

①関連資料引渡しなどのこのところの一連の動き(コチラ)

②映画「カチンの森」のロシアでの放映などは、ロシア国民に正しい歴史認識を定着させている筈であるし、もうあと戻り出来ない一定段階に来ているのではないかと考えられる(ここに映像の強さがある)、

などの点からして、単なるスタンドプレーではないように思える。

この問題、いつも、日中、日朝の問題に重ねて見てしまいます。

2010年8月19日木曜日

京都 「壹錢洋食」(商標登録)の包装紙は二・二六事件を報じる朝日新聞

京都に「壹錢洋食」(商標登録)というお店がある。
何の事はない、お好み焼きを売っているお店である。
しかし、このお店、お好み焼きをパックに入れて包装するに、二・二六事件を報道する朝日新聞の写しを使用している。
下の新聞の数か所に血糊のような色が付いているのは、血なまぐさい殺戮事件とは無関係に、単にお好み焼きのソースが漏れた跡なのである。
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この頃、弘前第8師団歩兵第31連隊の大隊長であった秩父宮の動静が注目さていたとは聞いていたが、新聞でもその様に扱われていたのを知った。
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秩父宮は、昭和11年(1936)2月27日午前0時22分に弘前を出発。
東京への途中、午後1時、水上駅で東京帝大教授平泉澄が列車に乗り込む。
入京後は、安藤輝三の親友の歩3の森田大尉を呼んで情報を聞く。
事件終了までその収拾に腐心しているが、疑惑を生む行動もある。



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□荷風「断腸亭日乗」では・・・
「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、××××軍人警視廰を襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるぺしと報ず。・・・
九時頃新聞號外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長又重傷せし由。十時過雪やむ。」

「二月廿七日。曇りで風甚寒し。午後市中の光景を見むと門を出づ。・・・銀座通の人出平日よりも多し。・・・居合す人々のはなしにて岡田斎藤等の虐殺せられし光景の大畧及暴動軍人の動静を知り得たり。・・・虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を点じたれは金毘羅の縁日の如し。・・・此日新聞紙には暴動の記事なし。」
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昭和16年(1941)7月4日~11日 ゾルゲ、7月2日御前会議の内容を打電 関特演発動 荷風散人、「近年世變の次第」を録す 

昭和16年(1941)
7月4日
・この頃(3日か4日)、尾崎秀実は西園寺公一と会い、7月2日の御前会議の内容を知る。
これを、5日か6日に訪ねてきた宮城与徳に渡し、宮城は10日頃ゾルゲに渡す。
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この報告書には7月2日御前会議の決定として3点が記されている。
①わが国は国際情勢におけるあらゆる事態と推移に対応できる準備をする。
②わが国は日ソ中立条約を厳守し、これは国際情勢に大幅な変化がないかぎり継承する。
③わが国はいかなる困難に遭遇しようとも南進策を遂行し、そのために必要な軍備態勢を整える。
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一方でゾルゲは、ドイツ大使オットより、オットがベルリンの指示により2日夕に松岡外相と会見し、日本軍によるウラジオストク占領を勧めた際、日本はドイツの要請に応じるとの印象を持ったという情報も得る。
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7月4日
・イギリス政府、戦後の領事裁判権撤廃・租借地返還などを中国に表明。
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7月4日
・ユーゴ、共産党、ドイツ占領軍に対する武装蜂起を決定。
チトー、ユーゴのレジスタンスを宣言。
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7月5日
・陸相東条英機、関東軍特別演習を承認。
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7月5日
・クレーギー英大便、日本軍の南部仏印進駐に関し、大橋外務次官に対し問い合わせと警告を行う。
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7月5日
・この日付け荷風「断腸亭日乗」 (改行を施す)
「七月初五。晩間驟雨雷鳴。
夜に入りて四鄰のラヂオ喧騒を極む。毎年暑中となれば夕方六時日の未沒せざる頃より夜は十時過まで軍人輩の政論田舎なまりのラヂオドラマ浪花節など止む時なし。驚くべき都と云ふぺく實に住み憂き國といふぺし。
燈下徒然のあまり近年世變の次第を左に録して備忘となす

一毎月一日及七日を奉公日とやら科して酒煙草を賣る事を禁じ、待合料理屋を休みとなせしは昭和十四年七月七日を以て始めとなす。
其の原因は戦地より歸來りし士官發狂し東海道列車中にて剣を抜き同乗せし車内の旗客を斬りし事あり。
又浅草公園にて兵卒酒に酔ひて通行人を傷けし事ありし爲、軍人への申譯にかくの如き禁欲日を設くるに至りしなり。
以後この日は藝者と女給の休業日となり、熱海をはじめ近縣の温泉旅館連込の男女にて大に繁昌するに至れり。
襚に十五年四月頃より温泉場の手人となり新婚の夫婦まで督察署に拘引せらるゝの奇観を呈したり。

〔欄外墨書〕一圓タタ遠方に往かず夜十二時過客を断るやうになりしは十四年三四月頃よりなり

一燈火管制といふ事は昭和八年七月より始まる。

一煙草二割値上となる。ヒカリ十一錢なりしを十三錢となす。

一十二月一日より市中飲食店はん半搗米を炊きて客に出す。

一舶來の酒化粧品殆どなくなる 十二月中

一市中自働俥夜十一時限りとなる。

一昭和十五年四月二日よりカフェー飲食店夜十二時限り。遊廓及玉の井亀戸は十二時までとなる。

一六月より砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品制造並に販費禁止の令出づ。

一八月二日より市内飲食店夕飯は夕五時より八時頃迄。晝は十一時より二時頃迄。この時間以外には米飯を出さず。九月一日より酒は夕方ばかりなり。待合玉の井吉原あたり、夕五時より晝遊禁止となる。

一十月より自働車は芝居の近處また盛場淺草公園附近にて客の乗降を禁ず。

一十一月かぎり市中舞踏場閉止。                         」
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7月6日
・グルー駐日米大使、日本の対ソ戦不参加を要求。
翌日、松岡洋右外相、米国大統領へ対ソ戦不参加を回答。
*
7月7日
・関東軍特別演習(関特演)の動員令(允裁)。第1次動員下令。動員予定85万人、徴用予定船舶90万トン。
16日、第2次動員。
最終的に内外16師団70万人・軍馬14万頭・航空機600機が集結。
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7月7日
・米・アイスランド駐留協定調印。米第1海兵旅団、アイスランドに上陸
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7月8日
・警視庁検閲課、美術雑誌38社を8社に統合するように指示。また婦人雑誌関係者50余人を招いて、10誌内外に統合を指示
*
7月8日
・ドイツ軍、レニングラード攻略開始
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7月8日
・ドイツ・イタリア、ユーゴスラビア分割協定調印。
*
7月8日
・ペタン仏首相、国民革命を宣言。ヴァレリー・クローデルら、ペタン政権を支持。
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7月8日
・アメリカの暗号解読室、2日の帝国国策要綱の解読に成功。 
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7月10日
・大本営政府連絡会議、ようやく米国の6月21日案とハルのステートメントを審議。この日は外務省に意見開陳のみ。
この日夜、近衛首相、陸海内3相と松岡問題を凝議。
12日、大本営政府連絡会議、松岡外相が日米交渉打切りを提議。松岡の癇癪玉が破裂し、松岡の政治生命がこの瞬間に絶える。
*
7月10日
・7月2日御前会議の内容に関するゾルゲ電報。受発信は11日。
「インベスト(尾崎)筋によると、御前会議において、対サイゴンの軍事行動計画は変更しないことが決定された。しかし同時に、赤軍が敗退した場合には、対ソビエト行動を準備することも決定された」。
ゾルゲは、御前会議の情報を
①尾崎秀美より、
②松岡外相~オット駐日大使よりの2ルートから入手。
②の情報は北進に偏っており、ゾルゲは①を用いた模様。
尚、独ソ開戦のゾルゲ情報を無視して失敗した赤軍情報部は、今回は信用できる情報と正確さ・信頼度の高さを認識。
*
7月10日
・関門海底鉄道トンネル貫通
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7月10日
・独リッペントロープ外相、オット駐日大使に日本の参戦を働きかけるよう指令
*
7月11日
・大本営陸軍部、「関東軍特種演習(関特演)」決定・発動(対ソ戦準備、9月迄に70万の兵力集中)。
ソ満国境に兵力を集中
*
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天文21(1552)年9月~12月 将軍義輝・三好長慶の和議破綻 ザビエル(46)、マカオで病没 [信長19歳]

天文21(1552)年9月
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9月5日
・イヴァン4世(雷帝)のカザン攻撃。カザンの町に構築した地下道爆破、カザン陥落。
*
9月7日
・山科言継、滞在先の葉室家の持ち山の栗が熟し、200~300個を拾う(「言継卿記」同日条)。
*
*
10月
・尼子軍、備後福永城攻撃。毛利軍救援し、これを破る。
*
10月2日
・三好長慶2千、入京。
3日、松永甚介3千と合流し、細川晴元党の潜伏地域を焼き討ち。京都西岡に放火し三鈷寺・善峰寺などが炎上(「言継卿記」)。
*
10月2日
・イヴァン4世(雷帝)、カザン・ハーン国カザン市征服。ロシア領に。カザン・ハーン国は滅亡。
29日、イヴァン4世(雷帝)、モスクワ帰国。
*
10月12日
・信長、知多郡郡代大森平右衛門尉へ、知多郡と篠島の商人が守山を往来する自由を安堵(「古今消息集」)。
21日、織田秀敏(大叔父、祖父信定の弟)へ尾張中村3郷を信秀の判形通りに安堵(「尊経閣文庫所蔵文書」)。
*
10月20日
・細川晴元党香西元成、内藤貞正(八木城主、氏綱党)を撃破し、河瀬城(大堰川流域、位置不詳)奪取。
*
10月26日
・幕府軍、京都杉坂および嵯峨に打廻す。
29日、京都船岡山に出張。細川晴元軍、蓮台野へ退却。(「言継卿記」)。
*
*
11月20日
・神聖ローマ皇帝カール5世(アルバ公6万)、仏ギーズ公フランソワ(33、519~1563)が守備のメッツ到着。包囲開始。
12月26日、ギーズ公フランソワ、皇帝軍を撃退。アルバ公軍、補給続かず撤退開始。 包囲戦動員6万のうち帰還1万2千。
*
11月27日
将軍義輝・三好長慶の和議破綻(この年1月~11月)。
足利義輝、新規築城の東山霊山城入城。同日、細川晴元、高雄口から嵯峨に現われ、桂川を渡って西岡一帯の村落を焼打ち。
郡城(コオリ、右京区)・西院城を守備する三好長慶被官小泉秀清・中路修理亮らは小泉城を焼いて将軍義輝のいる霊山城に逃れる。
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28日、清水坂の戦い。細川晴元軍、嵯峨から霊山城に向う。霊山からは小泉・中路氏らが出撃し、五条坂で交戦。負傷者双方数人、死者なし。建仁寺、兵火に炎上。
翌日、河内守護代安見直政上洛の報に、晴元らは丹波に引上げう。
翌天文22年8月1日霊山城陥落。
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「去夜西院の小泉・郡の中路修理等城自焼(ジヤキ)、霊山へ参ると云々」(「言継卿記」11月28日条)。
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義輝、この頃、東山霊山(時宗寺院の伽藍跡、東山区円山公園の北東)に城霊山城築城。
「義藤(義輝)霊山御城普請始」(「後鑑」所収「異本年代記」天文21年10月27日条)が初見。
「東山霊山の峰に、公方様御城構へらるゝ事これあり」(「厳助往年記」同年11月条)とある。
京郊地域で殆ど最後に築城された中世城郭。
時宗寺院「正法寺」のあった場所で、原因は不明だが天文19年6月に山科七郷はじめ近隣郷民の焼打ちにあい(「言継卿記」同月21日条)、荒廃したままの伽藍跡を、義輝が中尾城焼失の代わりとして修築したもの。
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□「言継卿記」(改行を施す)
義輝方と晴元軍との清水坂の合戦のあった11月28日、山科言継(正二位権中納言、陸奥出羽按擦使、現役公卿中17位の序列)は霊山城に義輝を見舞う。
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「牢人(晴元方)衆西辺方々放火す。辰の刻計霊山へ取り懸かる。
五条坂悉く放火す。建仁寺の大竜・十如二塔頭悉く炎上し了んぬ。
・・・。清水の坂にて軍これあり。但し討ち死にこれなし。手負左右(双)方六七人宛これありと云々。午の時これを引く。
・・・申の刻計り。予(言継)・冷泉・広橋黄門(国光)・庭田・尊勝院等同道せしめ霊山へ参る。其外奉公衆、摂津掃部頭(晴門)・飯尾大和守(尭連)・同加賀守・疋田弥四郎・梅雪等同道し了んぬ。則ち御対面。次いで清水へ罷り向かう。・・・」(「言継卿記」)。
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翌12月の下旬でも霊山城の普請は続いている。
「御城山普請の事、前々御下知の筋目、殊更先年御堀の時の例に任せ、当社務(北野社)西京七保人足の儀、家次(イエナミ)としてこれを申し付けらるべし。若し異儀に及ぶ族(ウカラ)これあらば、御成敗を加へらるべきの由仰せ出され候なり。
仍て執連件の如し。 
天文廿一 十二月廿日 (松田)盛秀(花押) (中沢)光俊(花押) 竹内宮御門跡雑掌」
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11月28日
・今川義元娘と武田信玄嫡男義信との婚儀。
天文19年(1550)6月2日、義元夫人(信玄姉)が没するが、甲駿同盟を継続するための政略結婚。更に翌天文22年正月、信玄の娘と氏康嫡男氏政との婚約が成る(甲相同盟成立)。
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12月
・小笠原長時、長尾景虎を頼る。
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・松永久秀、朝廷4府(左右近衛府・左右兵衛府)の駕輿丁御服座衣更の件を裁判する。  
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12月3日
・[明・嘉靖31年11月18日]フランシスコ・ザビエル(46)、マカオの上川(サンシャン)島で病没
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12月7日
・将軍義輝、本願寺に要求し、堺を通じて火薬の原料硝石を入手。
「室町殿(足利義輝)へ塩硝十斤これを献ず。中務書状にてなり。比儀は一昨日三淵より中務へ書状を以て塩硝四五斤御所望の由候間、堺へ取りに遣はし進(マイラ)すなり。」(「石山本願寺証如上人日記」12月7日条)。
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12月12日
・古河公方足利晴氏、家督を嫡男義氏(北条氏康甥)に譲る。以降、北条政権の傀儡として存在。
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12月20日
・幕府、霊山城修築のために西京7保に人足役を賦課(「古文書集」)。
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12月20日
・信長(19)、織田氏御用商人の加藤全朔・資景父子へ商売に関する優遇を安堵(「加藤秀一氏所蔵文書」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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明治6年(1873)6月 第一国立銀行創立 京都裁判所、小野組転籍受理 筑前竹槍一揆 副島全権、単独で清国皇帝謁見 名東県一揆 [一葉1歳]

明治6年(1873)6月  [一葉1歳]
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この月
・洋画塾「天絵楼」開設、高橋由一、弟子約70名(於 日本橋浜町)
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・検事職制章程、改定。検事の地位強化。
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・左院職制章程、改定。
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6月1日
・京都裁判所、小野組転籍「御難渋訴訟」受理決定。日本で最初の行政訴訟。
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6月1日
・英、探検家リビングストン(60)、没。
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6月4日
・四条隆平奈良県令、天皇の写真下賜を願い出て許可。
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6月5日
・タンザニア、ザンジバル島、奴隷貿易が全面禁止。
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6月6日
・ロシア、アレクサンドル2世、フランツ・ヨーゼフ2世とシェーンブルン軍事協定締結。
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6月8日
・木戸孝允、マルセイユより乗船
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6月9日
・大蔵事務総裁大隈重信、「明治六年歳入見込会計書」を官報「太政官日誌」に掲載。財政は黒字。毎年37万円を外債利払い。
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6月11日
第一国立銀行創立総会
3万株中、三井・小野組が各1万株、残り1万株公募。
頭取三井八郎右衛門(7千株)・小野善助(7千株)、副頭取三野村利左衛門(500株)・小野善右衛門(500株)。
渋沢栄一(400株)、取締役に推挙。一旦辞退して総監となる。
(「国立」とは「国家設立認可」のこと)
兌換紙幣を発行して、殖産興業の資金を集める。
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6月12日
・朝鮮問題が閣議にかかる。
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6月13日
・太政官「改定律例」布告。7月10日、施行。
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6月15日
・京都裁判所長北畠治房、被告欠席のまま、小野組転籍受理判決
府庁の履行拒否に対し、知事長谷信篤に8円、参事槙村正直に6円の贖罪金判決
16日、京都府庁、不承服の抗議書簡を京都裁判所へ送付。
23日、京都裁判所、上告か請書提出かの選択を京都府に通告。
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6月16日
筑前竹槍一揆
福岡県。徴兵令・学制反対。30万人参加。県庁・豪商打壊し。
民衆死者28。死刑4人・処罰6万4千人。
小野組鎮圧費用献納。
他、北条県・鳥取県・名東県でも一揆。
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21日
・福岡県の暴動農民、県庁に乱入。多数の死者。
スローガン:
「旧暦復帰(太陽暦では水田農民の生活のリズムが崩れる)」、
「士族は藩政に戻り、士族の本務を専行ありたきこと」、など。
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6月18日
・彭城中平、清国人申尚元を伴い、上海を出航し、帰国の途に就く。
6月中、彭城、長崎に滞在。
7月1日、彭城、長崎から米船で東京へ向かう。
7日、東京に到着。
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6月19日
・江藤新平、後藤象二郎、大木喬任ら、参議就任
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6月20日
・跪拝問題で交渉は暗礁に。
副島大使、謁見辞退し帰国通告。
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6月21日
・副島随員柳原前光(一等書記官)・外務少丞鄭永寧、総署を訪問し琉球民遭難事件に関する清側見解質問。
清国は朝鮮の「和戦権利」に関与せずとの言質も引出す。
文書化はしないが、台湾先住民は清国の管理が及ばぬ「化外」であるので責任負えないとの言葉も引出す(「「台湾生蕃は化外の民にして政教不及」」)。
29日、総署軟化。
副島全権大使、単独で清国皇帝謁見、国書奉呈。跪拝なし。立礼3回。外国使節間でも評判となる。
29日、各国公使、初めて同治帝に謁見。
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6月24日
・仏、弁理公使鮫島尚信、ボアソナアドと15条の御雇契約結ぶ。
9月28日、名村泰蔵と共にマルセイユ発。
11月15日横浜着。
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6月26日
名東県(香川県)の徴兵反対一揆
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□「明治初年農民騒擾記」(改行を施す)
「明治六年七月四日付 名東県権令他報告書 
豊田郡辺の土民、同二六日頃より、俄然暴動す。
右の原因は、
徴兵御規則血税の条を誤解して妄説を付会し、
或ひは学校を厭ひ又は肉食行はれしより、牛価騰貴、貧民困却等を唱ると雖も、
総て其の筋へ紙面の申立もこれ無く、
要する処、ひたすら暴威を逞しく、隣郡各区と飛語、同意致さざる者は撃破し毀焼き致すべき旨を以て、直ちに処在放火、村民これが為め畏怖。

響広する者一時四方に波及するの形勢より、予め戸長等説諭、官員亦派出しともに鎮撫尽力すと雖も、多数紛擾、暴行一一言語の入るべきに非ず。

・・・此の挙たる人数、凡そ壱万人余、然れども多く山に拠り離合常ならず。
放火の際に於ても、出没酢酢頗る速にして、全数を概計し屯所を認視する能はず。
故を以て一挙駆逐に至らずして放火数所、屯中丸亀・多度津両地は、貫属等勉励防禦を厳にせしより異常これなく、遂に高松支庁西南五里計の地に於て兵隊の為に退散、
続いて長駆進撃し、漸次区々鎮撫に向ひ候処、
同夜より暴徒転じて右支庁東南四里半計の山外に出で、其の数凡そ千有余人、又々数ケ所放火、右地方各区動揺、
兵隊迅速これに向ひ互に砲撃、二次暴徒遂に山中に四散し未だ其のゆく処を知らず。
現今探索中。
捕縛亦多数これあり」(「明治初年農民騒擾記」)。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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2010年8月18日水曜日

京都の夏 鴨川 四条大橋 レトロな建築(レストラン菊水 東華菜館 南座)  祇園白川の流れ 柳 吉井勇歌碑 

折角の京都ではあるが、こう暑くては、ガリガリ君アイスでもなめながら甲子園をテレビ観戦しているのが、一番の楽ちんではあるが・・・。
ちょっと買い物を頼まれて祇園近くまできたので、四条大橋辺りと祇園白川辺りをぶらついた。
四条大橋近辺の過去の記事二つはコチラ(  

四条大橋から北側を眺めたところ

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三条大橋と背後に北山
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北東角のレストラン菊水(大正15年築、登録有形文化財)
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南西角の東華菜館(大正15年、登録有形文化財)
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南東角の南座(昭和4年)
出し物は「義経千本桜」でした。
「円楽襲名披露」も近々あるような看板がありました
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祇園白川辺り
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白川に架かる新橋
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かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる  吉井勇
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この暑いのに、私はここから白川沿いを三条通り近くまで歩いて、明智光秀塚まで行きました。
次回ご紹介
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