2011年7月30日土曜日

永禄6年(1563)8月4日~閏12月18日 家康、三河一向一揆と和議  [信長30歳]

永禄6年(1563)
8月4日
・毛利隆元(41)、佐々部(高田郡高宮町)に構えた自軍の陣所で急没。
*
8月6日
・武田晴信、西上野在陣
*
8月13日
・毛利元就、出雲白鹿城を攻め、小白鹿城を奪取。大森銀山の工夫を徴発し坑道を掘らせる。
*
8月17日
・フランス、シャルル9世(13、1550~1574、位1560~1574)、「成人」に達したと宣言。統治は母カトリーヌに委任。
*
8月23日
・朝倉義景、「秋十五番歌合」。判者老法師(三条西公条か柳原資定)、作者左右各5名の10名、会場は一乗谷朝倉館。
*
8月25日
・三好長慶の嫡男義興(20)、病没(松永久秀による毒殺説あり)。
 家督は十河一存の子重存熊王丸(13)、義存のち義継と名乗る。
*
*
9月
・上野国長野原の戦いで、大戸氏、真田幸隆(51)に降伏。  
*
9月5日
三河一向一揆
家康家臣の菅沼定顕による上宮寺からの糧米強制徴発が発端(「守護不入の権利」侵害)。
上宮寺は一向宗寺にも檄を飛ばし農民門徒を蜂起させる。
これに、家康家臣で一向宗に帰依する一部武士門徒や反松平勢力が加わる。
三河統一目指す家康(23)には脅威。
10月末、家康、佐崎で三河一向一揆勢を撃破。
11月25日、家康、小豆坂で針崎の三河一向一揆勢を破る。
翌永禄7年2月和議成立。
条件は一揆加担者の本領没収しない、首謀者を殺さない、寺道場や信者・僧侶はもとのまま、というものだが、家康は寺道場を破却し、有力な僧侶を追放。

三河の矢作川デルタ地帯では、領国確立を目ざす松平(徳川)家康に対し、酒井・吉良・荒川などの国人領主と上宮寺・本宗寺・勝鬘寺・本証寺などの三河門徒の土豪・島民が惣国一揆的な連合のもとに蜂起。
蜂起の直接契機は、寺内町特権の侵害、夫役の徴発の問題。
家康家臣団は、家康と一揆側に分裂
*
9月15日
・真田幸隆、岩櫃衆より起請文をとる。  
*
9月18日
・井伊直平、家臣の飯尾則重により毒殺される。  
*
9月23日
・尼子倫久、1万余を率い白鹿表に殺到。元就これを撃破。  
*
*
10月
・武田信玄、西上野の盟主的存在である長野氏の箕輪城攻略開始。
*
・信長、美濃稲葉山井口城攻撃に際し尾張国曼陀羅寺へ全5ヶ条の「禁制」を下す。
*
10月13日
・真田幸隆(幸綱)、岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻略。
6月、吾妻郡の鎌原氏と隣の三原荘の羽尾氏とが争う。
岩櫃城の斉藤憲広が羽尾氏を、真田幸綱が鎌原氏を支援。
幸綱は岩櫃城を調略開始、城主の甥弥三郎や海野兄弟の内応に成功、この日、城を急襲。
真田幸隆(幸綱)、岩櫃城城代として吾妻領支配に深く関与。
この後も幸綱の上野出陣は頻繁で、翌永禄7年5月には信玄の上野出陣に参陣。
その後、真田氏では、信綱が信濃先方衆として幸綱を継承、3男昌幸は信玄膝下の奥近習衆から侍大将となる。
*
10月13日
・毛利軍、小高丸を急襲攻略。
*
10月24日
・幕府、京都清水寺と本国寺との山木相論を裁許し、本国寺に安堵。
*
10月29日
・毛利軍攻撃、尼子義久の白鹿(しらが、松江市法吉町)城開城。城将松田誠保、隠岐に逃れる。
富田城内に武器・兵糧搬入を図る尼子軍と弓ノ浜に戦い潰走させる。鉄砲隊200・水軍約100隻も参戦。  
*
*
11月
・信長、美濃斎藤氏との戦闘中に織田側に内応する者が出たため長田弥右衛門尉へ「当知行」を安堵。
*
・ヴェネツィア、ビアンカ・カッペロ(ヴェネツィア名家当主バルトロンメオ・カッペロ娘、後のトスカナ大公フランチェスコ・デ・メディチ側室)、ピエトロ・デ・ブオナヴェンチュリと駆け落ち。
ピアッツァ・サン・マルコのピエトロの実家に落ち延び、12月12日結婚。      
後、街でビアンカを見初めたフランチェスコはビアンカを愛人にして宮廷に住まわせる(公然たる側室)。
夫ピエトロも宮廷に住まわせ歳費と地位を与える。
また、1571年9月、ピエトロ父ゼノビオも貴族にする。
*
11月6日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ長男フランチェスコと結婚するジョヴァンナ(皇帝マクシミリアン2世妹)、フィレンツェ入り。
*
11月11日
・トリエント公会議、独身制堅持を宣言。
独身は結婚より高次の状態(司祭・修道士・修道女が有効な結婚ができるということは信仰に反する)。
*
11月13日
・細川忠興、誕生(異説1564年1月13日)。  
*
下旬
・武田信玄2万、高崎鳥川北岸倉賀野城攻撃。    
*
*
12月
・信長、池田恒興へ、「扶助」分・「持分」・「家来者買得持分」を安堵。
尾張瀬戸へ「瀬戸物売買を保護する全3ヶ条の「制札」を下す(「加藤新右衛門氏所蔵文書」)。
尾張亀井山円福寺の熱田亀井覚阿弥へ、「買得田畠・屋敷」以下を末代まで安堵、「引得」分のうちで弟子に譲った分は「新儀諸役」・「理不尽使」を入れないと安堵(「張州雑志抄」)。
*
・武田信玄、陣頭指揮をして上野倉賀野城・箕輪城を攻める  
*
・江戸衆太田康資(北条氏重臣)、北条家を離反。    
*
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ長男フランチェスコ、ジョヴァンナ・ドオストリア(皇帝マクシミリアン2世妹)と結婚。
フィレンツェ宮廷の3勢力:
①ジョヴァンナ大公妃(フランチェスコ夫人):ハプスブルク皇帝派。エレオノーラ元大公妃側近が合流。
②カーミラ・デ・マルテッリ大皇后(コジモの再婚相手):フェルディナンド枢機卿(フランチェスコ弟)。
③フランチェスコ側室ビアンカとイザベッラ(フランチェスコ妹、ブラッチアーノ公妃。
*
・フィレンツェ、アルビッツィ家の中で唯一メディチ家に荷担しているルイジ・ディ・メッセル・マーゾ・デッリ・アルビッツィ娘エレオノーラ、大公コジモの子を出産。
フランチェスコ大公妃ジョヴァンナは、義父コジモとエレオノーラ、夫フランチェスコとビアンカの不倫を兄マクシミリアン2世に訴える。
*
12月2日
・三条西公条(右大臣)、没。
*
12月3日
・毛利氏、石見銀山を朝廷・幕府に献上。
*
12月4日
・トリエント公会議、閉会。
カトリック教会の改革を具体化した教令が採択。
秘跡(サクラメント)堅持。司教・司祭に担当地域での居住を強制。司教は2ヶ月以上司教区から離れることができない。司教の聖職の掛け持ち禁止。司教区毎に神学校を設立(聖職者の教育と育成を義務づけ)。司祭に毎週説教壇よりの説教を強制。
*
12月16日
・上杉謙信、越後・府中を出て関東進発、沼田城に着く。
閏12月5日、厩橋着。  
*
12月20日
・細川氏綱(室町幕府最後の管領)、山城淀城で没。  
*
12月29日
・カルヴァンによりジュネーヴを追放(1544/7/22)されたセバスチャン・カステリョン、バーゼルで没。
*
*
閏12月  
・武田晴信(信玄)、北条氏康と共に金山城を攻め、越年。
*
閏12月1日
・松永久秀嫡男久通、従五位下・右衛門佐、叙任。
14日、久秀、久通に家督を譲る。
21日、久通、将軍家に対し家督相続を許された御礼言上のため上洛。
*
閏12月9日
・丹羽長秀、笠覆寺に観音堂修理田を安堵。
*
閏12月19日
・上杉謙信(34)、5度目の関東越山。
27日、上野和田城(群馬県高崎市高松町)を攻めようとしたところ、常陸の小田城(茨城県筑波郡筑波町小田)城主小田氏治が北条氏康と通じ謙信に背く。
この年も関東(上野厩橋)で年を越す。    
*
*
「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月29日金曜日

永井荷風年譜(13) 明治42年(1909)満30歳(2) タトゥーあり 「さうきち命」 「こう命」

永井荷風年譜(13) 明治42年(1909)満30歳(その2)
*
この夏、新橋新翁家の富松(吉野コウ、24歳)を知って交情が深まる。
*
この頃、浜町不動新道の私娼・蔵田よしと懇ろになっている一方で、この夏から翌年9月頃まで新橋新翁家の富松(吉野コウ)と深い関係になる(翌年9月に彼女は落籍される)。
*
二人は、「さうきち命」「こう命」と互いに腕に刺青をしあったという。
実際、荷風は後年までもその刺青部分を絆創膏で隠していたという目撃証言もあるらしい。
*
富松は評判の美人であったが、荷風はあろうことか、富松とつきあっている間に、のちに結婚することになる八重次(内田八重、藤蔭静枝)とも浮気をする
(その八重次とはのちに離婚)。
しかも、富松がその現場に踏み込み、女同士の取っ組み合いが始まったそうだ。
*
富松(吉野こう)は、大正6年6月6日、30歳代前半の若さで没することもあり、荷風は後々までも未練を残していたようだ。
*

荷風は間もなく夏目漱石の依頼により「朝日新聞」に小説「冷笑」を連載(明治42年12月~翌年2月末)するが、その中に30歳の小説家が登場する。
「私は文学者の一番苦労しなければならない点は文章だと云ふのです」と述べ、荷風を代弁をさせている登場人物のその名前が「吉野紅雨(よしのこうう)」となっている。富松の本名を殆どそのまま使っている。
*

随筆『きのふの淵』(昭和9年11月)(段落を施す):
「わたくしは江戸ツ児の性情には、滑稽諧謔を好むくせがあって、悲境に沈んだ時には此の癖が却て著しく現れて来るらしい事をたしかめた。
富松は三代つゞいて浅草に生まれた江戸ツ児であった。
その後心易くなるにつれ私はたびたび芸者家まで尋ねに行つた事もあつたが、火鉢の緑に頬杖をつき襦袢の襟に頤を埋めてゐる様な、萎れた姿を一たびも見た事がなかった」
*
「文藝倶楽部」大正元年9月号には、「清楚」と見出のついた「新橋新翁家・富松」の写真が1ページ大に紹介されているくらい美人で評判だったようだ。
*
「萬朝報」大正5年6月30日~7月4日に富松のインタビュー記事が連載。
タイトルは「女から見た男」。
*
1回目。
「私が初めて逢いましたのは、荷風さんが帰朝したばかりの頃で、帰朝のお祝いを、亡くなられた大野病院の院長さん(故大野酒竹氏)や何かゞ高輪の萬清でお開きになりました。
その席へ新橋から五六人呼ばれて行ったその中に私もいたのです。
私は、新橋で新翁家の富松といって、まだ抱えの身分でした。---二十のときのことです。
(略)
それから、その翌日も、また翌々日もお茶屋から永井さんに呼ばれたのです。

『私、あの方、様子がいゝから岡惚れにしようかしら』なんて云っている頃でしたから、逢えば嬉しゅうござんした。
そうしてる内に、---あの方はまだ待合なんてご存知なかったのでしょう---『知った待合へ連れて行っておくれ』と云いますから、私の馴染の家へ連れて行ったのです。
それは例の木挽町の祝い家、勘弥さんの姉さんの家です。
それがまた私の旦那の来る家でしょう。その家へ永井さんを連れ込んで私があんまりパッパッするものですから、とうとう旦那に知れてしまって、首尾の悪いったらなかったのですよ。

でもその頃はお互いにのぼせ詰めて『壮吉命』なんて腕に入れ墨をするほどになっていたんですからね。
それからメチヤメチヤに逢うようになってしまったの」
:*
2回目(7月1日)
「でも荷風さんはまだお部屋住みでお父さんにお小使を貰っているという身分でしょう。
小説を書くとはいったところで、まだ月々百円ぐらいの収入しかないし。
それに私の方はとうとう旦那をしくじってしまったと来てるでしょう。二人ともたちまちどうすることも出来なくなってしまいました。
それでも荷風さんの書く物がポツポツ評判になってきた頃でしたから、私はお座敷でのろけてばかりいました。

(中略)
それからお正月早々、私を落籍した旦那が、これも帰朝のお祝いにそのとき初めて呼ばれまして、その席で、私は大変に酔って、さかんに永井さんのお惚気を云ってしまったの。
・・・

それから八日間というもの旦那は私を遠出に連れていってしまったのです。その留守に、永井さんは私の家へ幾度も来たり電話をかけて下すったりしたのですけれど、家でも私の居所は分かっていなかったのです。

こうして永井さんにしばらく逢わずにいますと、私の軒並みにいた巴屋の八重次と永井さんがおかしいというのでしょう。
その噂を耳にはさむと、胸の虫が承知しません。
『八重次の義理知らずめ。今にどうしてくれるか見ているがいい。』
口惜しくて口惜しくて私はこう思いました。
『永井さんも永井さんだ。』

その日、車で髪を結いに家へ帰ってきますと。八重次のやつめ、永井さんと出雲町の藤田へ這入って行くところではありませんか。
私はすぐ後から押しかけて行ってやりました」
*
3回目(7月3日)。
「藤田へ飛び込んでゆくと、八重次が永井さんと差し向かいになってコソコソいちゃついてるじゃありませんか。
『やい、お前さんは誰に断って昼日中永井さんをこんなところへくわえ込んだのだい。』ッてね、さんざん八重次のやつに毒づいてやりましたよ。
それから取っ組み合いになるほどの喧嘩をしてしまったの。

でも私は、捨てられるのはいやだから、『こんな人ぐらい、欲しけりやこっちから呉れてやってしまえ』と、威勢よく啖呵を切ったまではよかったが、それからきまりが悪くなって、とうとう二円のお祝儀を藤田の給仕に散財して帰ってきました。
(略)」
*
4四回(7月4日)。
「それから永井さんのお父さんがお亡くなりになると八重次がその家へ入り込んだのです。

その間に私も落籍されまして、赤坂に三吉野(料理屋)を始めたり、その土地から(〆勇と名乗って)出たり、……いろいろに変転しましたのです。

私が麻布へ出るとまもなく、永井さんが柴田さん(待合)から七度も呼んで下すったのですけれど--もう永井さんは八重次を止していたのです - 私は、すっぱり断ってしまいましたの」
*
八重次と離婚をした後も、富松にアプローチしたようだが、「すっぱり」と振られている。
*
*
「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
*

2011年7月28日木曜日

東京 北の丸公園 ようやくサルスベリ(百日紅) ツバキの実 コムラサキ 武道館では少年剣道大会

昨日(7月27日)の北の丸公園。
朝に小雨、その後、晴れたり曇ったり。
台風以降の涼しさから比べると少しむし暑いが、それでも例年に比べると過ごし易い。

▼ようやくサルスベリ(百日紅)が咲き始めた
今年はかなり遅い。

*
▼ツバキの実
*
▼コムラサキ
これは実がなった時のほうがきれい
*
▼武道館
全国大会とあって、朝から公園のメイン道路はバスがぎっしり。
よく見ると女の子も多い。

*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月26日火曜日

「振れ止まぬ線量計や行々子」(二宮宏) 「朝日俳壇」7月25日

「朝日俳壇」7月25日より


振れ止まぬ線量計や行々子               (福島市)二宮 宏

みちのくの放射能降る半夏雨(はんげあめ)       (いわき市)金成 榮策

*
*

「朝日歌壇」7月25日より


日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り          (郡山市)渡辺 良子

原発に明かり点滅事もなく文月一日海開きの夕べ          (福井県)大谷 静子

被災地の土葬を見つつ経を誦む老師は白き防護服着て      (八戸市)山村 陽一

「原発は明るい未来」と静寂の人消えし町に掲げあり今も      (本宮市)廣川 秋男

気がつけば被曝していたそんなことあってしまったこの国のいま  (福島市)美原 凍子

*
*

東京 江戸城 東御苑 キキョウ オニユリ ミナヅキ ヒメリンゴの実 ハマナスの実

さきの台風以来、お盆が過ぎて秋に向かうような天候が続いている。
蝉しぐれも、やや優しげ。
今日(7月26日)も最高気温は30℃いったかどうかくらいではなかったか。

何週間かぶりに江戸城本丸跡を一周した。

▼キキョウ
*
▼オニユリ
すぐ近くに「はるかのひまわり」があるが、まだ花をつけていない。
あと1週間くらいはかかるかな、という感じ。
*
▼ミナヅキ(ユキノシタ科)
*
▼ヒメリンゴの実
まだサクランボ大の大きさ
*
▼ハマナスの実
*
▼シロバナハマナスの花と実
ただのハマナスとシロバナハマナス、実は見たところ同じだが、こちらの方は一つだけ花をつけていた。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月25日月曜日

「原発は安いのか。事故が起きるととんでもないコストがかかる。福島でわかった」(経済同友会の夏季セミナー)

先ほど経団連の体質に愛想をつかして楽天が脱退したことが話題になったが、7月24日付け「朝日新聞」に経済同友会での議論で、ちょっと興味あるものがあったので、いつものように無断で紹介させていただく。
(段落を適宜施す)

*
*

(タイトル)
「ザ・コラム やらせの失敗 もはや守れぬ「成長神話」」       編集委員 西井 泰之

(記事)

・・・前略・・・


今月中旬に行われた経済同友会の夏季セミナー。
「再生可能エネルギーでどこまでまかなえるのか。『脱原発』は非現実的」 「電気代が上がれば企業は海外に逃げる」。

現状から踏みだせない議論に業を煮やすように新浪剛史・ローソン社長が口火を切った。
「自由化を徹底すれば電気代はもっと安くなる。経済界も反省すべきだ。みんな(電力の)下請け企業だからものを言わないできた」

堰を切ったように発言が続いた。

「原発は安いのか。事故が起きるととんでもないコストがかかる。福島でわかった」 

「地震地帯の日本で原発のリスクを管理できるとは思えない。日本の持つ技術は他国に開発のベースを移して生かせばいい。『捨てる原発』でいいじゃないか」

「空洞化をいうが、すでに日本の代表的企業は海外に出てしまっている」


*
*

2011年7月24日日曜日

「原子力が人類の生死に関わるということ、そして『ひとつの地球』という動かしがたい事実・・・」(坂本義和)

「朝日新聞」7月20日付けに、国際政治学者の坂本義和さんの「知識人とは」というタイトルでのインタビュー記事がありました。

インタビューの中の原発事故に関連する部分をご紹介します。

*
*

----国際政治における核の問題を考えてきた学者として、原発事故をどう考えていますか。

「3月11日は、私たちが持つ核問題の意識を変えました。
冷戦時代には、米ソの全面戦争と人類の破滅というグローバルな脅威が消えず、ある日、一瞬にして私たちの日常生治を無にしてしまう『非日常的な破局』が迫っていました。

冷戦が終わってからは、グローバリゼーションの下で、カネ、ヒト、モノ、情報が国境を超える平時の流れのなかで、原発は『豊かな日常性』の支えだという宣伝を信じがちでした。

3月11日を機に事態は一変し、被災者の苦難はもとより、圏外でも毎日の節電、工場の操業時間の制限、食の安全、子どもの健康など、『不安の日常化』が生活の底流となりました。

世界の反応をみても、これは国境を越えるグローバルな脅威だと身にしみて意識されることになりました」

 ----では、この危機を受けて、新しい市民的知識人は、何を考えるべきなのでしょうか。

「原発が世界中に林立したらどうなるのでしょうか。
原発は自国中心の極度に人工的な発電装置ですが、いくつもの国が事故を起こすことになれば、影響は国境を越えて、地球を居住不能な廃虚と化する危険があります

原発は国家のプロジェクトでありながら、制御不能になると、その国家ばかりでなく、国家間・領土間の境界を無意味にするのです。

今回の原発事故で私たちがあらためて自覚したのは、原子力が人類の生死に関わるということ、そして『ひとつの地球』という動かしがたい事実です。

地球上のすべての命とグローバルな正義を基盤として考えねばならない時です」、

*
*

折角なので、他の部分も以下にご紹介します。

*
*

(前文)
かつて「知識人の時代」があった。「戦後知識人」といわれた学者たちが専門を超えて問題を提起し、世論をリードした。平和研究などで知られる国際政治学者の坂本義和氏は、その最後の世代かもしれない。いまその役割はだれが担っているのか。「人間と国家 ある政治学徒の回想」を刊行した坂本氏に知識人とは何かを聞いた。

----知識人とは、どういう役割を担っているている人でしょうか。
「様々な議論があるでしょうが、知識人には二つの軸が不可欠だと思います。
ひとつは現状に対する批判力。
もうひとつは構想力。構想力とは、間違った現状を超える、まだ存在しない社会のあり方を積極的に想像する力と言えます」

「日本の場合、かって『戦後知識人』という言葉がよく使われましたが、だいたいは大学人でした。理由があって、戦時中も日本だけでなく外国について学び、外国と比較して日本の現状を批判するだけの知識を蓄積していた人が、大学以外にあまりいなかったからでしょう」

----それがどう変わったのでしょうか。1960年代の大学紛争などを経て、現在の大学はエリート機関とは違うと思います。

「知識は大学の独占物ではありません。教育水準が上がり、市民が自分なりに勉強して、外国のことも学び、日本と比較しながら、これでいいのだろうかと考えるようになった。層が広がったために、わざわざ知識人という言葉が使われなくなったのです」

「知識人という言葉はなくてもよいのですが、知識人がかつて示した批判力と構想力は必要です。そうした力は、市民レベルで議論をしながら、急速に積み上がっているのではありませんか。市民の小さなグループがあちこちに出来て、地方にも広がり、それなりの成果を上げている。
他方、国家を超えて、世界中の人たちとインターネットを通じて直接意思を通じ合い、同じ人間として、どういう社会をつくるのか議論をしている。
新しいタイプの市民的な知識人が生まれている」

----知識人の裾野が広がり、あり方が変わってきたとも言えますね。

「主体だけでなく、取り上げるトピックも変わりました。たとえば、戦後初期の知識人は、戦争の経験と記憶を共有し、その歴史を背景にすえて新しい戦後日本をつくろうとしたのです。
しかし時間がたつと、戦後そのものが歴史になる。新しい世代は戦時との比較ではなく、戦後日本をそのまま見て、これでいいのだろうか、と議論するようになった」

「違いが一番明確なのが戦争責任です。戦後知識人にとって戦争責任とは、戦争を止められなかった『悔恨』に根ざした自己批判の問題でした。今は戦後の批判のあり方自体が問われるようになった。背景にはアジアの人たちの声があります。
90年代ごろからアジアの民主化が始まると、反共一本やりで日本の戦争責任を問わなかった人たちが、戦時の日本の罪を問いただすようになる。それを受けて、日本でも良心的な新しい世代により、今の自分たちの責任をどうとるのかという自己批判が出てきたのです」

----新しい世代には、そのほかにはどのような違いがありますか。

「スタイルも違いますね。主に大学人が知識人だった時代は、伝える手段は総合雑誌や新聞などに執筆する論文が主で、論理的説得力が重んじられた。
今は、歌や映像や漫画など感覚で訴えるものの比重が大きい。また、かつて大学人が果たした役割を、作家や芸術家が果たすことが多くなった。

そうした広がり自体は非常によいことだと思いますが、知識人の第2の条件である構想力になると、まだ弱い。構想力には論理あるいは理論が必要ですから、感覚に訴えるものだけでは、構想にはならないのです」

----構想力が不足しているのは、日本だけなのでしょうか。

「それは、非常に大きな問題ですね。たとえば、今日の世界で代表的な政治家と言ったら、だれを思い浮かべますか。一時期はオバマ米大統領だったでしょうが、今やその輝きはありません。
しかし、それは単に政治家の力量が足りないのではなく、いま世界全体で構造的な変化が生じていて、国家とか市場という20世紀の枠組みではとらえきれない問題が起きているからです。
しかし、新しい発想や構想はまだ模索中なのが実情です。
新しいビジョンがなければ、優れた指導者も出ない。こうした時代の政治家は気の毒ですが、みんな小者に見えてしまう」

----20世紀から21世紀にかけての世界の構造変容をもうすこし説明してください。

「国家はなくなるわけではありませんが、経済や金融、科学技術、情報が非可逆的にグローバル化する時代には、国境の意味は低下し、国家は脱力化して来ています。
市場も、格差や抑圧の構造を生み出し、グローバルな不平等や不公正を解決できていません国家や市場では対処できない世界になっている

----でも、依然として大国化を志向する動きもあります。

「たしかに中国やインドは、20世紀型の大国志向を強めています。はたしてそれが続けられるのか、資源・環境問題ひとつとっても私には疑問です。
中国には外国の介入で国を分割された歴史への警戒感があるのでしょう。しかし、チベット、ウイグル、内モンゴルなどに対するやり方は、漢民族中心の支配の域を出ていません。
それに中国の指導者は、抵抗や暴動が起きても、それが何を意味するのか、中国民主化という不可避の未来を読む力が弱い
21世紀は、文化的多様性と社会的公正さが、どこでも求められる世界です

----では、どうやってそういう世界が築けるでしょうか。

「これからの主体となるのは、市民だと思います。

国家や市場が何のためにあるかというと、結局は人間が人間らしく生きられるかどうか、そのための手段ないし道具なのです

NGOの活動などを見ても、国境を超えて交流し、現地の人の自立を支援する高い能力を持つ市民のネットワークが生まれています。しかし、市民の動きは単位が小さく、力をグローバルに結集し切れていません。市民の連帯をどうグローバル化していくかが、重要な課題でしょう。
21世紀に求められる市民的知識人とは、国を超えた連帯をつくりあげ、人間の尊厳を互いに認め合うような立場に立つ人だと思います

----国を超えた連帯といえば、東日本大震災では、世界中の人々から援助や激励が寄せられました。

「コミュニケーションの発達により、福島であれ、アフリカであれ、中東であれ、同じ人間が存在し、人間らしく生きるために闘っていることを、世界の無数の人が日常的に実感できます。
これは歴史上初めてのことです。
21世紀の市民社会では、こうした他者の命に対する感性を共有することを重視していくべきだと考えます」

*
*

小さいなでしこを見つけた

今日(7月24日)も予報とは違い、最高気温はギリギリではあるが30℃を切る、比較的過ごし易い一日。
昨日同様もしかして・・・と、富士山ビューポイントへ行くも、今日はアウト。
頂上あたりの影がかすかに見える程度。

近くで、小さいなでしこを見つけた。
普段だと多分見過ごすほどの小さいのがポツンポツンと咲いていた。



*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

「原発めぐり揺れる保守論壇 核武装諭と絡める主張も」(「朝日新聞」7月19日)

「脱原発」はリベラルないし左翼の専売特許、というのはもう古いらしい。
いつぞやの新聞には、明治天皇の曾孫(?)とかいうお方の脱原発の主張が掲載されていた。
あの大事故の前と後では、いろんな意味での「転換」はあって当然だろう。

「朝日新聞」7月19日付けに、保守(右翼)論壇の動向について書かれていたのでご紹介。
*
*
(見出し)
原発めぐり揺れる保守論壇 核武装諭と絡める主張も

(記事)
脱原発をめぐり、保守論壇が揺れれている。

「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長を務めた保守派の評論家・西尾幹二は、月刊誌「WiLL」7月号に「脱原発こそ国家永続の道」と題した論文を発表。
「国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない」と保守派らしい言いまわしで、脱原発派への「転向」を宣言した。

保守論壇の大勢は、なお原発推進だ。

産経新聞社は社説で原発推進を堅持している。
西尾は、間もなく原子力の安全神話が再び言論界を覆うだろうと予測し、「産経新聞は懲りずにすでにそうである」(同誌8月号)と手厳しい。

原発の維持や推進を、エネルギー問題としてではなく、核武装と関連づける議論も登場し始めた。

評論家の西部邁は「表現者」37号の座談会で、原発が安全でないことを前提にしつつ、国家の自主独立には核武装とエネルギー自給が不可欠であるとし、原発容認の姿勢を見せた。

産経新聞の報道によれば、ジャーナリストの桜井よしこは講演会で「核をつくる技術が外交的強さにつながる。原発の技術は軍事面でも大きな意味を持つ」と発言。

14日に配宿されたAFP通借のインタビューでは、石原慎太郎東京都知事も、今後も原発は必要とした上で「日本は核兵器を持つべき」と答えたという。

西尾も「WiLL」8月号の論文「平和主義ではない『脱原発』」で、核武装の問題に踏み込んだ。
原発を停止すればかえって日本が 独自に核武装する道が開ける、というのだ。
原発を運転している限り、使用済み核燃料の処理やウラン濃縮など、米英など多くの国の協力が不可欠だからだ。
7月号と比べると、より保守派の路線に回帰したともとれるが、脱原発に踏み切れない保守論壇に向かって、「だから安心してこちらに来い」と説得しているようにも見える。

これまでは、原発推進派にとっても、原発はあくまで「原子力の平和利用」であり、核兵器とは明らかに一線を画すものとされていた。
しかし市場経済を重視する人々の中からも河野太郎衆議院議員やソフトバンクの孫正義社長のような、「脱原発の旗手」が登場するなど、経済合理性の観点からも原発は割が合わないと見られるようになってきた。

そこで、最後に残る原発推進の論理が、核武装のための原子力利用ということなのだろうか。 
(樋口大二)
*
*
「核武装」のための「脱原発」、だそうだ。

2011年7月23日土曜日

永禄6年(1563)4月1日~7月31日 ヴィレラの布教により畿内の土豪らが洗礼を受ける 信長、小牧城入り(美濃攻め準備着々と進む) [信長30歳]

永禄6年(1563)
4月1日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアン入城。コンデ公、モンモランシー公、コリエ提督など
*
4月2日
・京都東寺五重塔、雷火によって焼失。
*
4月3日
・松尾社の例祭が4月上旬にあり、言継の妻の里方の葉室氏の在所に近く、この年は、葉室一家と松尾社社頭において神輿還御、巫女の具足渡、神供などを見物(「言継卿記」4月3日~7日条)。
*
4月10日
・イギリス、エリザベス1世、職人規制法、制定。
農業人員確保の為、労働可能で無職の者に労働を義務づけ、雇用者は治安判事の許可なくして解雇を禁止。
治安判事は毎年州・都市の代表らを招き、有識者と共に労働者の賃金を裁定し、全産業部門で徒弟期間を最低7年と定める。
*
4月15日
・上杉輝虎(謙信)、小山秀綱の立て篭もる小山城(栃木県小山市城山町)を攻略(小山城攻め)、次いで佐野昌綱の唐沢山城(栃木県佐野市富士町)を攻め(唐沢山城攻め)、6月に帰国。
*
4月17日
・信長、斎藤龍興との戦闘にあたり尾張妙興寺へ全3ヶ条の「禁制」を下す(「妙興寺文書」)。
*
4月22日
・スペイン、フェリペ2世、エスコリアル宮殿の造営に着手
*
4月24日
・信長、美濃斎藤氏被官高木貞久へ、市橋長利を仲介に内応した旨を喜ぶ意思を通達。
*
*
5月
・毛利隆元、周防・長門の守護に任ぜられる。
*
・この頃、比叡山僧徒が京都で布教を始めたイエズス会やガスパル・ヴィレラの活動に脅威を感じ松永久秀にバテレン追放を迫る。

ヴィレラ(2回目の布教で堺に滞在)は、松永久秀配下の結城山城守忠正(進斎、前の幕府作事奉行)から、「デウスの話を聞きたいので、来てもらいたい」との連絡をうける。
日本人修道士ロレンソが大和へ赴き、結城山城守・清原枝賢2人に談義、2人はキリシタンになる
(山城守は、久秀から、キリスト教が有害である証拠を探り出すよう指示されロレンソを呼んだが、逆に高名な学者2人が改宗し洗礼を受ける結果となる)。

檜牧城主で摂津高山(大阪府豊能郡豊能町)の土豪高山飛騨守(松永配下)がそのことを聞き、奈良でロレンソからデウスの事を聴聞し受洗、霊名ダリオとなる。
飛騨守は沢城へ帰り、一家・家臣にもキリスト教の偉大さを伝え、更に詳しく聴聞するため、翌7年6月、ロレンソを沢城へ招く。
ここで、右近(12)が受洗
(フロイス「日本史」3、1564年10月9日付の修道士ファン・フェルナンデスの平戸発書簡)  

清原枝賢(しげかた、1520~90):
キリシタン公家。唯一神道確立者・吉田兼倶の曾孫。娘マリアは細川忠興夫人侍女、セスペデス司祭の指導の下にガラシャの霊名で洗礼を授けた。

結城山城守忠正の長男結城左衛門尉(三好長慶被官)も、父が受洗した際、奈良に滞在していて、ヴイレラの説教を傍聴して感銘を受け、同行中の武士7名と共に入信。
左衛門尉は、戦国期畿内の最大の教会に発展する河内キリシタンの最初の入信者となった。
*
5月10日
・北條氏康・氏政、安保氏に上野の地を宛行う  
*
5月24日
・筒井衆、信貴山城を攻め、「本ツフ」を焼き落とす。    
*
5月27日
・フランス、国会開催。イングランドとの戦費は教会財産売却で充てる決議。  
*
*
6月
・木下藤吉郎の働きにより犬山城信清の宿老和田新介・中新左衛門、信長方につく。
藤吉郎、俸禄50貫・足軽鉄砲隊百人組頭。
*
・飛騨の豪族江馬輝盛、上杉謙信と結び越中進出。
*
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、ユグノーに襲われる。無事。  
*
6月1日
・ロバート・セシル、エリザベス女王重臣ウィリアム・セシルと2度目の妻ミルドレッドの間に誕生。    生まれつき障害を持つ矮小な身であったが、才能にあふれ父の後継者として政界に進出。
エリザベスの信任を得て14年間国務長官、更に大蔵卿も勤める。
エリザベス没後、スコットランド王ジェームス6世を支持、その見返りにクラボーン子爵領・ソールズベリー伯爵の地位を与えられる。1612年5月没。
*
6月4日
・フランス、ギョーム・ポステル、サン・マルタン・デ・シャン修道院で終身軟禁宣告。
*
6月23日
・上杉輝虎の師、天室光育禅師、没。      
*
6月25日
・フランス、モンモランシー大元帥指揮国王軍、ノルマンディー進撃    
*
*
7月
織田信長、小牧入り東美濃攻略のため本拠を清州から小牧に移す。
この頃、犬山城の織田信清(信長の従兄弟)は美濃斎藤氏と結んで信長に対抗、小口(丹羽郡大口町)・黒田(羽栗郡木曽川町)を支配。
小牧に移った信長は、翌年、丹羽長秀に小口・黒田を降参させる。
信長は当初、父信秀同様、西方から美濃攻め(美濃稲葉山の齋藤義龍)を行うが、大垣城が齋藤方のため捗らず、東美濃の占領を優先する
*
・武田晴信、関東へ出陣  
*
7月3日
・朝廷、京都醍醐寺堂舎再建を督促(「続史愚抄」)。
*
7月6日
・松平元康(22)、家康と改名。今川氏康との断交を内外に表明。
*
7月6日
・イエズス会のルイス・フロイス、肥前横瀬浦(西彼杵半島北端の漁港)に入港。
8月中旬、大村領主大村純忠の身辺で異変が起き、横瀬浦に波及して大混乱に陥る。
病臥のフロイスと老齢のトルレスは、豊後の商人達に捕われ、ポルトガル商人が商品を引き渡すまで抑留される。    
*
7月27日
・ル・アーヴルのイングランド軍8千、降伏。損害・死傷者を出すことなく帰国。
国王軍司令官ルイ・ド・コンデ。
ユグノー軍、コンデ共々、国王軍に合流。
母后カトリーヌの権利確立。プロテスタントの精神的敗北。
*
7月31日
・北方7年戦争開始。デンマークとスウェーデン。
スウェーデン王エーリック14世、弟ヨハン(3世)の拠るトゥルク城を陥落。  
*
*
「★織田信長インデックス」 をご参照ください。
*      

今日の富士山 2011-07-23 シルエット富士山

今日(7月23日)もまた台風の影響か、涼しい一日であった。
最低気温は20℃を切って、最高も30℃を切ったようだ。

もしかして・・・、と近所の富士山ビューポイントに行くと、僅かながらシルエット富士山が望まれた。
シルエットとはいえ、夏の季節には珍しい、横浜市戸塚区からの富士山である。

▼朝9時前
*
▼昼間の3時過ぎ
夕焼け富士山も期待したが、夕方には雲が空一面に広がった。
この台風、太平洋の遥か彼方にあって自転車のスピードくらいで進んでいるという。

2011年7月22日金曜日

東京 北の丸公園 牛が淵の蓮の花

今日(7月22日)は、まだ台風の影響が残っているせいか、一日中涼しい日。
東京の朝は曇天、午後遅く晴れ。
(横浜は朝から晴天、暑くなる気配濃厚・・・?、しかしこちらも涼しかったようだ)

朝、牛が淵をのぞいて見ると、蓮の花が咲いていた。
コン・デジの目一杯の望遠で撮った。




*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
*

2011年7月21日木曜日

「美しき国に生まれてあはれなり線量計を持たさるる子ら」(美原凍子) 「朝日歌壇」7月12日

7月12日の「朝日歌壇」より


美しき国に生まれてあはれなり線量計を持たさるる子ら       (福島市)美原 凍子

放射能の恐怖が皆のものとなり分かってもらえた被爆者我等の  (アメリカ)大竹 幾久子

*
*

7月18日の「朝日歌壇」より


海峡にくっきり浮かぶ下北は風力強し大間原発             (函館市)武田 悟

目に見えぬ放射能ありひたひたと黒揚羽飛ぶ生の輪郭        (熊谷市)内野 修

浜風がひそやかに野を山を越え太郎を眠らせセシウム降り積む  (福島市)青木 崇郎

地図に置く人差し指に子の任地親指の下に原子力発電所      (平塚市)高橋 英子

*
*

「原発がなくなれば、電気料金は月2千~3千円上がるだろう。 企業の国際競争力が低下し、多くの人が職を失う。」(藤原正司・民主党参院議員)

「朝日新聞」に「エネルギー政策のゆくえ」という連続もののインタビュー欄がある。
ワタクシ的には、殆ど読むに値しない内容のものが続いていたという印象が強い。
しかし、7月20日、伝統的脅迫言辞という点で、目を引く主張があったので、以下に全文をご紹介する。
(但し、適宜段落を施す)
*
*
(見出し)
脱原発 企業の力落とす     藤原正司・民主党参院議員

(記事)
---藤原さんは関西電力社員を経て、電力系労組を統括する「電力総連」の顧問も務めています。菅直人首相が打ち出した将来の「脱原発」をどう評価しますか。

「国民に『原発がいやだ』という感情が広がるのはやむを得ない。
だが、原発がなくなれば、電気料金は月2千~3千円上がるだろう
企業の国際競争力が低下し、多くの人が職を失う
1億3千万人の国民をどう食べさせていくか、国は責任を持つべきだ。
再生可能エネルギーをやったとしてもたかが知れている。
原発は欠かせない」

---再生可能エネルギー特別措置法案の評価は。

「法案の柱である再生可能エネルギーの固定価格買い取りが実現すれば、買い取る側の電力会社はその分を電気料金に上乗せするため、料金は上がる
再生可能エネルギーを増やす方法として有効だが、企業のコストが上がる
海外へ工場などが移る産業の空洞化を起こさないようにするべきだ」

---発電、送電の分離で電力自由化が進めば、自然エネルギー促進につながり、コストも下がるのではないですか。

「現行制度の方がいい。
発電、送変電、配電と分けた場合、送変電はあまりもうからないため、投資が減って設備を良好に維持できない。
2003年に米国、カナダで5千万人に影響が出る大停電が起きたのも、送変電の管理がいい加減だったからだ。
日本の1軒当たりの年間停電時間は平均16分だが、米カリフォルニア州では162分、英国でも100分だ。
発送電を分離して1日に何回か停電していいのか

---原発のストレステスト(耐性評価)は原発再稼働の前提とすべきですか。

ノーだ
耐震性はすでに国が指針を出している。
自分が決めたことを自分が否定するのはよくない。
それにエネルギー政策がぶれまくり、立地自治体は大変困っている」

---藤原さんは出身の電力業界のイエスマンではないのですか。

「決してイエスマンではない。
電力会社も脱原発は冷静に検討しているだろうが、原子力に代わるエネルギーはないと思う」

---首相は「脱原発解散」もちらつかせています。

「受けを狙うキャッチフレーズや選択肢で首相が衆院を解散するのはポピュリズムだ。
国民は賢く、今の民主党の支持率で解散すればぼろ負けだ」
*
*
こういう人を次の選挙でどするか?、しっかり覚えておこうと思う。

リョウブの花が咲き、アゲハが舞う

7月17日の日曜日、富士山ビューポイントである近くの公園で、リョウブの花が咲いているのをみつけました。
炎天の下、富士山はまったく見えず、丹沢さえかすんでいる状況でした。

*
▼アゲハがお食事中。

*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
*

2011年7月17日日曜日

相対的貧困率 最悪の16%

民主党政権の前の時代、「格差社会」を巡る議論がたくさんあったように思う。
民主党への政権移行は、そんな「格差社会」是正への微かな望みもあったように「記憶」している。

しかし、日本の社会の「貧困化」は着実に進行しているようだ。

「朝日新聞」7月13日付け記事より(全文、読み易くするために段落を施します。)
*
*
(見出し)
貧困率 最悪16%  
09年、前回比0.3ポイント悪化

(記事)

所得が少なく生活が苦しい人の割合を示す「相対的貧困率」が、2010年調査(09年時点)は16.0%で、07年調査(06年時点)より0.3ポイント悪化した。
18歳未満に限ると15.7%で、ともに、厚生労働省が貧困率を算出している1985年以降、最悪の水準になった。
同省が12日公表した国民生活基礎調査でわかった。

相対的貧困率は、すべての国民を所得順に並べて、真ん中の人の所得の半分(貧困線)に満たない人の割合を指す。
経済協力開発機構(OECD)の08年報告書では、加盟30カ国の平均は10.6%。

1世帯あたりの平均所得は549万6千円で前年より0.4%増えたが、厚労省は「非正規雇用の広がりや高齢者世帯の増加によって、低所得者層は増えている」とみている。

また、10年の65歳以上の高齢者世帯は1020万7千世帯で、初めて1千万世帯を突破。
このうち一人暮らしは501万8千世帯にのぼった。

介護の担い手の高齢化も目立つ。
自宅で家族の介護をしている人のうち44.7%は65歳以上で、80歳以上も12.3%にのぼった。
介護をする側、される側がともに60歳以上の割合は62.7%、ともに75歳以上は25.5%。高齢化の進展で「老老介護」が広がっている実態が浮き彫りになった。
介護する人の7割は女性で、介護される人の配偶者や子が大半を占めた。


*
*

ちょっとわかりにくい箇所もあったので、WEBのニュースで補足すると・・・。

(1)「毎日」は、貧困線の金額や、一人親世帯の状況などについて、もう少し分かり易く教えてくれた。
*****
子供(17歳以下)は1・5ポイント増の15・7%で、低所得の家庭で育てられている子供が増えていることを裏付けた
また、高齢者世帯数の推移を見ると、65歳以上のみの世帯が1018万8000世帯(全世帯の20・9%に達し、初めて1000万世帯を突破した。【鈴木直】

今回厚労省は、同調査を始めた85年までさかのぼって貧困率を算出した。

同年の12・0%に比べると、09年はこの24年間で4ポイント悪化し、同居する大人の所得で計算する子供の貧困率も4・8ポイント増えた。
同省は非正規雇用労働者や年金暮らしの高齢者らの増加が要因とみている。

一方、「子供がいる現役の世帯」でみると、母子家庭など「一人親世帯」の貧困率は50・8%
3年前より3・5ポイント減っており、97年に最悪の63・1%に達した後は減少傾向にある。

母子世帯の年間所得は200万円台で大きく変わっていないのに対し、非正規雇用増加などで全体の平均所得が下がっているため、母子世帯の貧困率は減っている

経済協力開発機構(OECD)の00年代半ばの調査では、日本の貧困率(03年、14・9%)は加盟30カ国中4番目に悪く、一人親世帯は最も悪かった
OECD平均は10・6%となっている。

◇相対的貧困率
全国民の年間の可処分所得を少ない方から並べ、中央の金額(09年は224万円)の半分の水準(貧困線、09年は112万円)に満たない人の割合
主に国民の間の経済格差を示すが、資産は含まない。これとは別に、所得が定められた最低水準額に満たない人の割合を示す「絶対的貧困率」もある。
*****

(2)「読売」「産経」はサラッとこんな感じ。

(読売)
今回の調査で「貧困」とされたのは、09年の年間所得が112万円未満の人たち。国民の6~7人に1人が貧困状態であることを示している。

(産経)
相対的貧困率は、年間所得が全人口の可処分所得の中央値(09年は1人当たり224万円)の半分に満たない人が全体に占める割合。

(3)NHKは、意識調査にも触れています。
*****
また、子どもがいる世帯の貧困率は14.6%で3年前より2.4ポイント悪化し、特に1人親の世帯では貧困率が50.8%と半数以上に上っています。

さらに厚生労働省が、去年、全国2万6000世帯を対象に意識調査を行った結果、「生活が苦しい」と答えた世帯の割合は59.4%に上り、前の年より1.3ポイント増加しました。
厚生労働省は「景気の低迷に加えて年金だけで暮らす高齢者や非正規労働者が増えているため、貧困の状態にある人の割合が増加している」と分析しています。
*****

(4)地方新聞の社説は基本的なところをしっかり押さえている。

まず、「京都新聞」
*****
タイトル
「貧困率最悪  格差の固定化、打開策を」

・・・・・

なかでも、70年代後半生まれの男性を中心に非正規雇用が多い。
90年代から本格化した派遣社員拡大がもたらしたひずみが集中している。
この世代の非正規雇用について11年版労働経済白書は「技能・賃金水準も低いままで、同世代の中でも格差が拡大している」と指摘している。

企業が90年代以降、人件費を削減するために非正規雇用を積極的に活用した背景に、政府による労働者派遣法の規制緩和などがあった。
その経緯を踏まえれば、非正規雇用者への職業訓練の拡充など、正規雇用への道を開く方策を政府の責任で強化するべきだ。

18歳未満の「子どもの貧困率」も、前回調査の06年より1・5ポイント上昇し、過去最悪水準の15・7%になった。
特に母子家庭など1人親世帯の貧困率は50・8%と2人親世帯の4倍にもなっている。
1人親世帯と非正規雇用の問題が、重なり合って貧困に陥っているケースも少なくない
*****

次に「高知新聞」
*****
タイトル
【貧困率最悪】希望を取り戻せるよう

・・・・・

長引くデフレの影響で、所得の目減りが続いている。
09年の世帯当たりの年間平均所得は549万6千円で、ピークだった94年(664万2千円)より2割近くも減っている

日本が先進国の中でも貧困率が高い国であることは、経済協力開発機構(OECD)の調査で以前から知られていた。
だが、国が数値を公表したのは政権交代後の09年になってからだ
憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」のための議論も始まったが、遅過ぎた感は否めない。

バブル崩壊後の景気低迷で非正規雇用は拡大、働いているのに貧困層に属する数百万人規模の「ワーキングプア」を生み出した。
「労働が報われない社会」という閉塞(へいそく)感が日本を覆っている

OECD加盟国の中でひとり親家庭の子どもの貧困率が際立って高いのも日本の特徴だ。
格差の固定化が指摘される中で、将来ある世代が夢や希望を持ちにくくなっている現状がある。
意欲や能力がありながら、進学を断念せざるを得ない子どもが多いことは日本にとっても計り知れない損失だ。
*****

日本のGDPや企業業績は、リーマン後などの落ち込みはあるにしても、中長期的には上向いているのに、日本の「貧困率」は着実に上昇しているようだ。
そして、「貧困」は、「貧困」を再生産してゆく。

昭和16年(1941)6月1日~10日 重慶爆撃 重慶隧道大惨案

昭和16年(1941)6月
この月
・国民政府、法幣増発阻止のため田賦(田地税)の国税化と現物徴収実施
*
・第1軍、山西省経済警察本部を特設(本部長は軍参謀長が兼任)、経済取締を強化  
*
・台湾軍研究部辻政信中佐ら、海南島1周長距離機動演習(敵前上陸に引続く長距離移動演習)。
タイ~マレー~シンガポール想定。  
この演習の研究結果に基づき辻が編纂した「これさえ読めは勝てる」という「虎の巻」は、開戦に当り乗船と同時に全南方作戦部隊将兵全部た配布される
(服部卓四郎大佐(戦後、第1次復員局史実調査部長・資料整理部長、史実研究所長)「大東亜戦争全史」)。
*
・日本鉱業・中野鉱業・旭石油・日本石油の石油鉱業部門を統合し、帝国石油会社設立。
*
・日本撮影者協会が発足。
*
・徳田秋声「縮図」連載開始
・近松秋江「三国干渉」(桜井書店)。
・太宰治(32)、「千代女」(「改造」)
・小林秀雄(39)、「川端康成」(『文藝春秋』)、「伝統」(河出書房『新文学論全集』第六巻)、「伝統について」「アランの『芸術論集』」(『朝日新聞』)。尾沢良三『女形今昔譚』に序文を発表。 
*
・ヘミングウェイ(42)、日中戦争報道特派員として妻マーサと中国およびアジアを取材旅行。
*
6月1日
・ゾルゲ、ドイツのソ連攻撃が6月15日であると打電。モスクワ側はこの情報を無視。

「独ソ戦の開始が、およそ六月一五日という予想は、ショル中佐(ベルリンから来た陸軍武官でゾルゲの古くからの友人)がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。
オット大使は、自分はその情報について直接ベルリソから受け取ることがlできず、ショル中佐の情報が手元にあるのみだと述べた」。
しかし、モスクワに届いたこの電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがされる。
*
6月1日
・ジャワ島からの最初の引揚げ船榛名丸、ジャワ島バダビア発。
*
6月1日
・イギリス軍、バクダッド入城
*
6月1日
・5月20日にクレタ島に上陸したドイツ軍、島を占領。
*
6月1日
・イギリス軍、エリトリアの首都アスマラを占領。     
*
6月1日
・ドイツ「プリンツ・オイゲン」、ブレストに到着。米沿岸警備部隊、グリーンランド南方からの哨戒を開始    
*
6月2日
・フランスのヴィシー政府、ユダヤ人定員法制定。
法律家・医師・大学教授2~3%と制限。ユダヤ人人口調査を命令
*
6月2日
・イタリア、ムッソリーニ(58)、ブレンネロでヒトラーと会談。
*
6月4日
・関東州国防保安令公布
*
6月5日
重慶隧道大惨案
夜、日本軍機による3波の夜襲。防空洞内大量窒息死事件、数千人(2,500)死亡。


国民党政府「大隧道窒息事件審査報告書」。
「当日、この随道に避難してきた人は、普段と比べ極めて多かった。なかでも婦人と子供の数が普段より多く、また避難者の荷物が多かったのも特徴である」
較場口隠道の最大定員は6555人であるが、少なく見積もっても倍以上の避難民を収容と推定。
押し合いへし合いの状況の下、出入り口の泥濘が靴や草鞋に付いて持ち込まれたため、滑り易く足元を踏ん張るのが覚束なくなる。
更に、換気用通風機が故障。毒ガス投下の噂に、出入り口付近の人々は奥へ奥へと詰める。

犠牲者数はいまなお不明。
当局の調査委員会は、死者992人と発表するが、当時でもこの数字は信用されず。

カール・マイダンスの写真(十八悌口脇の石段に折り重なって倒れた男女、子供の姿)によって空襲下の悲惨事を世界に伝えた「ライフ」は、「重慶市民四千人、空襲下の防空洞で窒息死」の見出で報じる。

その頃重慶に住んでいたハン・スーインは1968年に書いた自伝の中で、「約一万二千人が重慶の公衆防空壕で窒息死したのである(二万人という報告もある)」と記す。
*
6月5日
・駐独日本大使大島浩、3~4日にヒトラー、リッペントロップ外相と会見した結果、独ソ関係悪化により開戦必至との報告。開戦2~3ヶ月でソ連を制圧するだろうとの両者の話を盛り込む。

(ヒトラー)
「独ソの関係はますます悪化し、独ソ戦争はおそらく不可避と考えあり。ソ連のドイツに対する態度は外面友誼的なるも、実際は常に全然反対なり。
・・・自分は相手に敵意あるを認むれば、常に相手より先に刀を抜く男なり」。

(リッペントロップ)
「最近にいたり独ソ関係はとくに悪化し、戦争となる可能性はなはだ増大せり。
・・・ドイツは何等の交渉も行いおらず、しこうしてドイツの東方における軍の配置は完了しあり。
・・・独としては、もし日本にして準備の関係等にて南方進出困難なりとせば、対ソ戦に協力せらるることを歓迎す」。

大島は最後に自分の印象を記し、独ソ開戦は今や必至で、ヒトラーの従来のやり口からすれば、短時日中に決行すると判断しうる、と結論づける。
*
6月5日
・英・中500万ポンド借款協定調印(ロンドン)。
*
6月5日
・ドイツ軍、クレタで1万5千人の捕虜を得たと主張
*
6月6日
・日本軍、重慶夜間爆撃
*
6月6日
・大本営、「対南方施策要綱」決定。仏印・タイに軍事基地設営方針  
*
6月6日
・蘭印経済省から日本向け輸出商品の割当額最終回答が提出。
一部の合意点を除き、生ゴム、錫、コプラ、ボーキサイトなどでは妥結に至らず。
17日、日蘭経済交渉打切り
蘭印特派大使芳沢謙吉、チャルダ・オランダ領東インド総督に対し会商打ち切りを伝達(交渉決裂の形をとらず)、引上げる。石油交渉のみ続行。
*
6月6日
・日本編集者協会、日本編集者会と東京編集者協会、合同。
全編集者の統一組織。200余名。自主的結束が崩れ、徐々に戦争協力団体となる。

「これによりわが国編集者組織が一元化されるわけで、同協会の目的とするところは国防国家と日本文化の建設に積極的に協力するにあり、会員相互の向上と協力を図りつつ出版文化協会とも緊密に連絡して出版文化政策の具体化に努めようというのである」(この年の「雑誌年鑑」)。

設立当初に働いた者に代わり、橋本求・萱原宏一(講談社)、上村哲弥(第一公論社)、赤尾好夫(旺文社)、川島篤(ダイヤモンド社)、斎藤龍太郎・柳沢彦三郎・下島連(文藝春秋社)らがヘゲモニーを操るようになる。
彼らは、ナチスばりから「みそぎ」派まで幅はあるが、戦争政策への全面的傾倒のもとに、批判・質疑の類する事を一切排撃する点で一致。

ある右翼総合雑誌編集長は、軍報道部の軍人の同席する出版関係の会合で、
「今夜の会合には、国賊出版社の者が同席している。わたくしは彼らと同席するのを快しとしないが・・・」と言って「中央公論」「改造」編集者の方を睨め、自分の鰻誌がいかに愛国的であるかを宜伝(池島)。

三木清の論文を載せた他誌の編集着に向かい、「君、切腹せよ」と居丈高に詰めよる雑誌「公論」の編集者、陸軍報道部の中佐から金をもらって排英講演会を開催した某誌編集長、古事記・日本書紀を朗諭して、同僚の前に日本精神の「家元」を気取る編集者(池島)。
*
6月6日
・フランス、パリ議定書、ヴェガン将軍の反対で延期
*
6月6日
・ドイツ、「政治人民委員の取扱いに関する指針」。
対ソ戦では赤軍政治委員を分離した後抹殺する「コミサール(人民委員)命令」指示。
従来の戦争倫理無視、非戦闘員の虐殺。      
*
6月6日
・イギリス軍、ハリケーン戦闘機をマルタへ輸送。 
*
6月7日
・北海道紋別雄武町の幌内川ダム、ダム決壊、80人死亡
*
6月7日
・愛知銀行、名古屋銀行、伊藤銀行が合併、東海銀行設立
*
6月7日
・イギリス連邦軍と自由フランス軍、ヴィシー政府派の支配するシリア、レバノンに侵攻。
7月14日、シリアで休戦成立。
*
6月8日
・ドイツ歩兵師団、フィンランドへの上陸を始める。
*
6月9日
・麦類配給統制規則公布  
*
6月9日
・情報局・大政翼賛会の音頭で「日本移動演劇連盟」結成、発会式。
委員長岸田国士(大政翼賛会文化部長)、事務局長伊藤喜朔。事務局は東京日日新聞内。  

前年昭和15年頃より劇団に農山漁村・工場鉱山などを巡回させて、国民精神作興・戦意昂揚に役立たせる為に、移動演劇運動が組織され、これを組織化し拡大する事を目的とする。
専属劇団「くろがね隊」、加盟劇団として東西の歌舞伎各劇団、新生新派、井上正夫や水谷八重子の一座、文学座、前進座など主な演劇団体が全て集まる。
文学座は、初めて8月に川崎の工場で移動演劇を上演。
昭和17年末迄の1年半の間に連盟の移動演劇公演回数は2,300回、観客動員数290万人に及ぶ。
昭和20年には、本土空襲の危険を分散し、交通機関の逼迫からくる移動困難に対処して、連盟は加盟各劇団の地方への疎開常駐を行う。  
*
6月10日
・ドイツ海軍武官ヴェネカー少将、日本にはシンガポール攻撃の意志なしを、日本海軍の情報源から知る。    
*
6月10日
・ドイツ、機雷敷設によるバルト海封鎖作戦開始
*
6月10日
・パリの日本大使館が閉鎖。
*
*

2011年7月16日土曜日

東京 北の丸公園 真夏の清水濠 水面に映る景色が鮮やか

昨日(7月15日)は朝から真夏全開。
こういう天候の時は、清水濠がきれい筈と、朝、少しまわり道。

期待に違わず清水濠はきれいでしたが、日光の強さの余り、水上の景色の方は白けてしまっている。
水面に映った景色の方が実物よりきれい、ということになってしまている。

*
▼牛が淵と正面に武道館
*
▼重文 清水門
*
「★四季のうつろいインデックス」 「★東京インデックス」 をご参照下さい。
*

永井荷風年譜(12) 明治42年(1909)満30歳 新帰朝者として 「深川の唄」発表 「ふらんす物語」発禁

永井荷風年譜(12) 明治42年(1909)満30歳
1月
月初、「ふらんす物語」編集終了。
*
父母と共に有楽座に行って上田敏、黒田清輝に出会う。
*
巌谷小波に小山内薫を紹介される。
*
「狐」を「中学世界」に、「祭の夜がたり」を「新潮」に、「カルチヱー、ラタンの一夜」を「太陽」に、「晩餐の後」を「趣味」に掲載。
*
浜町不動新道の私娼・蔵田よしと親しむ(11月頃まで)。
*
「今年から原稿料全額を貯蓄し五年間に千円ためて伊大利亜へ行ってヱスビヤスの火山へはいつて死にたい。兎に角今年からはつゞくだけ書く」
明治42年1日3日、井上唖々宛て手紙

*
2月
「深川の唄」を「趣味」に掲載。
前年7月に帰国した荷風は、この年初めにかけて「ふらんす物語」に収める諸篇を書き、その間の1月には「狐」を発表。
「深川の唄」は、性急で浅薄な西洋模倣にすぎない日本文化を批判する一連の作品(「新帰朝者もの」)の第1作。

「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。
別に何処へ行くと云ふ当もない。
船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。
これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。」

電車も茅場町あたりで停車し、やむなく歩き始める。

「自分は憤然として昔の深川を思返した。
幸ひ乗換の切符は手の中にある。
自分は浅間しい此の都会の中心から一飛びに深川へ行かう ---
深川へ逃げて行かうと云ふ押へられぬ欲望に迫(セ)められた。」

「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。
電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云尽し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである。」

「それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。
煩悶を知らなかった。
江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。
硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思ってゐた。
近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも云尽し得るものと安心してゐた。
音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんな事は少しも自分の神経を刺戟しなかつた。
そんな事は芸術の範囲に入るべきものとは少しも予想しなかった。
日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由に云ひ現して呉れるものだと信じて疑はなかつた。
自分は今、髯をはやし、洋服を着てゐる。
電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。
時代の激変をどうして感ぜずにゐられやう。」

それから、深川不動尊の境内へ入っていく。
その境内で盲目の三味線ひきの歌沢節に耳をかたむける。

その三味線ひきは、
「江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕉雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失ふと共に盲目になった。
そして栄華の昔には酒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。」
と想像する。

そして、結び。
「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。
永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。
いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたい様な気がした。
あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい
それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……」

この頃の作品
「曇天」「監獄署の裏」「祝盃」「歓楽」「新帰朝者日記」「冷笑」などは、「深川の唄」の延長線上にある。
「深川の唄」を軸として、荷風の江戸趣味-江戸文化への傾斜は強められ、深められて、それがやがて花柳小説へと移行していく。
*
3月
「曇天」を「帝国文学」に、「監獄署の裏」を「早稲田文学」に発表。
*
「ふらんす物語」を博文館より刊行。
届出と同時に27日付けで発売禁止処分

印刷が終わって製本に取りかかったところで発売禁止となる。
出来上がりかけていた「ふらんす物語」初版はすべて断裁されたが、ごく少部数が密かに持ち出されたという。
「幻の奇書」として闇で取引され、ごくたまに古書市場に出てきたときには、家一軒分ぐらいの値がついたそうだ。

どこが官憲に忌避されたのか。
おそらく、冒頭の小説「放蕩」ではないかといわれている。
それは、「欲情をそそる」ほどのものではないが、相当に「不道徳」「反国家」的である。
現在流通している「ふらんす物語」には「放蕩」はないが、「雲」と改題されて、巻頭でなく後ろの方に紛れ込んでいる。

「華盛頓に来ると、其の翌年に日露戦争が起つた。
けれども貞吉は自分で勇立ちたいと思ふほど、どうしても勇み立つ事が出来ない。

国家存亡ノ秋、不肖ノ身、任ヲ帯ビテ海外ニ在り……なぞと自分から其の境遇に、支那歴史的慷慨悲憤の色調を帯びさせやうとしても、事実は、差当り、国家の安危とは、直接の関係から甚だ遠かつた政府の一雇人に過ぎない。

毎日、朱摺の十三行卦紙へ、上役の人の作つた草稿と外務省公報を後生大事に清書する、暗号電報翻訳の手伝ひをするだけだ。
上役、先輩の人の口から聞かれる四辺の談話は、日清戦争講和当時の恩賃金や、旅費手当の事ばかり。
人が用をして居る最中に、古い官報や職員録を引張り出させて、身寄でも友達でもない人の過去つた十年昔の叙爵や叙勲の事ばかり議論して居る」

「貞吉は実際、自分ながら訳の分らぬ程、日本人を毛嫌ひしてゐる。

西洋に来たのを鬼の首でも取つたやうに得意がつて居る漫遊実業家、何の役にも立たぬ政府の視察員、天から虫の好かぬ陸軍の留学生。
彼等は、秘密を曝かれる懼れがないと見て、夜半酒場に出入し、醜業婦に戯れて居ながら、浅薄な観察で欧洲社会の腐敗を罵り、其の上句には狭い道徳観から古い武士道なぞを今更の如くゆかし気に云ひ囃す」
(以上、「放蕩」)

「酒に酔ひ女に戯るゝ事の愚なるは人巳に知れり。
されど其の愚なる事も極みに達すれば、又解すべからざる神秘を生ず。
われは実に、人の血には何故かゝる放蕩の念の宿れるかを、極むるに苦しむ」
(「橡の落葉・夜半の舞踏」)
*
5月
「祝盃」を「中央公論」に、「春のおとづれ」を「新潮」に発表。
*
7月
「歓楽」を「新小説」に、「牡丹の客」を「中央公論」に発表。
*
8月
「花より雨に」を「秀才文壇」に掲載。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
*

明治7年(1874)12月1日~12月31日 福地源一郎(桜痴、34)、「東京日日新聞」社長となる [一葉2歳]

明治7年(1874)12月
・三島通庸、酒田県知事就任。
*
・官金出納担当の島田組が破産。
*
・馬場辰猪、イギリスより帰国。    
*
12月1日
福地源一郎(桜痴、34)、条野伝平・西田伝助等に誘われ「東京日日新聞」社長となる

福地源一郎(桜痴):
長崎の医師の子として誕生。
幼時に漢学を学び、15歳から長崎で最も著名な蘭学者、和蘭陀大通辞、名村八右衛門について蘭学を修める。
福地は、極めて優秀な門弟で、名村は彼をその娘婿とするが、彼は才を誇って、同僚と衝突し、それがもとで離縁される。

その後、福地は上京し、父の知人の外国奉行水野筑後守の食客となり、幕府の英語通訳の頭取森山多吉郎について英語を学ぶ。
安政6年(19歳)、横浜が開港場となった際、通弁御用雇となり、後幕府通訳として横浜・江戸間を往来して次第に認められる。

文久元年(23歳)、京極能登守・松平石見守等が開港場問題の交渉にヨーロッパへ出かけた際には、通訳として福沢諭吉と共にこの使節の一行に同行。
文久3年帰国。
翌年、外国奉行柴田日向守についてフランス・イギリスに渡る。
その後、幕府の通弁をしながら、下谷二長町で塾を開いて英仏語を教える。

維新の上野戦争の際、薄い雑誌風の「江湖新聞」という木版新聞を発行。
大いに売れるが、官軍攻撃の文を書いたとして1ヶ月間投獄される。
新聞は潰れ、福地は、日新舎という名の塾を湯島に開く。
この時、福地を助けてフランス語を教え、塾頭となるのが中江兆民(篤介)。
福地の名声をしたい、多くの書生が集るが、福地が毎日のように吉原に入りぴたって、禄に授業をしないので、生徒たちは憤慨し、塾の仇や書物を売りはらって解散。

その後、福地は渋沢栄一の紹介で伊藤博文を知り、明治4年月給250円の大蔵省御雇となり、岩倉具視についてアメリカに渡り、銀行や公債や貨幣制度を研究して帰国。
次に、伊藤についてアメリカ~ヨーロッパ各地を廻り、6年7月に帰国(成島柳北と同じ頃)。
国立銀行設立等で大きな働きをするが、政府と意見を異にすることがあり、明治7年3月辞職。

条野伝平、西田伝助等は、以前に福地と共に「江湖新聞」を経営し、明治4年に「東京日日新聞」を発行。
条野は魯文の旧友の戯作家で、戯作の傍ら出版に携り、幾つかの新聞にも携わるが、いずれも成功している。

この年、「東京日日」は「民選議院設立建白書」を掲載して注目されている。
また、新聞記者は、貧乏書生や落塊士族や、しがない戯作者共の世を忍ぶ仕事と見られていたが、成島柳北(「朝野」)栗本鋤雲(「報知」)福地桜痴(「日日」)が新聞に入ったことで、新聞の重要さや企業としての収益の多さを世間に認めさせた。

この日から、「日日」は紙面を拡張し、「社説」欄を設け福地の意見を発表。
記者には、イギリス帰りの新知識人の末松謙澄がおり、自由党の若手の論客で「日新真事誌」記者大井憲太郎、「民選議院設立建自書」起草者で「報知」主筆古沢滋なども、匿名でこの新聞に寄稿。

しかし12月2日、紙上で「太政官記事印刷御用被申付候条此旨無相違候事東京府」という公達文を掲載。
福地は「日日」を官報にしたいと考え、公達文の掲載し御用新聞だと思われる。

「東京日日新聞」編輯長は岸田吟香
この頃、銀座の名物男と言われ、洋学者、新聞記者、薬屋主人であった。銀座2丁目の東側に住み、精綺水本舗という眼薬の店を営んでいた。
岡山県出身、蘭学の心得があり、安政6年(1859)25歳の頃、伝道のために来日したアメリカ人医師兼牧師ジェイムズ・カアティス・ヘボンの助手になり、和英辞典作成にも携る。
慶応3年、和英英和辞典「和英語林集成」が完成するが、日本には印刷技術がなく、上海でこの辞典を印刷。
この年、政府の調査要請を受け、法律顧問ボアソナードはこの和英辞典が立派なものであると保証したため、政府はこの辞書を2千部買い上げ、開成学校にこれを備えて学生や教授の用に供した。

辞書の完成は岸田の努力と学識によるところが大きく、ヘボンは礼の意味で、岸田に目薬の処方を与え、岸田はそれを精綺水と名づけて売り出す。
文士と売薬はつきもので、精綺水本舗の近くでは、その70年ほど前には、山東京伝が読書丸を売る店を営んでいる。

「台湾征討」では、岸田は、新聞記者の同行は許されず、御用商人大倉組の手代の名目で、軍用船に乗り、「台湾通信」と自筆の写生画を「日日」に発表、「日日新聞」は東京市民の評判となる。
*
12月5日
・「東京曙新聞」、三島県知事の遊蕩ぶりや沼間権大書記官の取調べに対する酒田県旧県官・戸長の狼狽を伝える大森宗右衛門の記事を掲載。
28日、日新堂編輯長代理長谷川義孝は、この日付け「東京曙新聞」652号の記事について、人の栄誉を傷つけたとして讒謗律第1、4条により禁獄1ヶ月・罰金200円の刑を受ける。
*
12月6日
・清国、同治帝、李鴻章に鉄甲船の購入を命ず  
*
12月9日
・大久保ら清国談判への派遣員一同、天皇より慰労される。
また、この日、鹿児島から大久保の家族一同が上京。

「十二月九日、今朝伊地知子入来林子入来、

九字ヨリ皇居へ参昇、属国随行官員一同於学問所謁見被仰付、清国談判ニ付一同太儀之段勅語有之、難有御礼奉申上候、終而内侍所参拝神酒幣物ヲ賜ル、控所ニ退ク、錦三巻紅白縮緬四匹、宮内省山岡ヨリ拝領被仰付、随員へモ夫々賜り候、十一字比退出、税所、吉原同車川村氏へ参、金星経過一覧イタシ候、

今日彦之進、伸熊始母子一同着ノ由参、早々帰宅久々振面会安心イタシ侯、


今晩吉井子税所子大山子寺田子川村子等入来、祝盃ヲ傾候。」(大久保利通日記)

明治6年の政変を経て、清国との談判を終えたこの時期、鹿児島の家族を東京に呼び寄せたことは、大久保の郷里鹿児島(旧藩)との訣別、明治政府の官僚として生きる決意を示すものと推測できる。
新政府の官僚として働くうえでは、薩摩の利益代表ではいけないというその薩摩との絆を断ち切る意味合いを含んでいる。

大久保は、明治2年5月20日、それまで島義勇が住んでいた霞ヶ関の家に入居している。
当日の大久保の日記には「今日島五位旅宿移り替いたし候」(「大久保利通日記」)とある。

そして6月26日には、京都から妾ゆうとその家族が上京している。
「二十六日、無休日十字参朝、条公依召参殿、人撰等之コト御下問云々申上ル、

今日京師より家族着、吉井内田等入来」(「大久保利通日記」)
     
鹿児島の家族の上京を期に、妾ゆうとその子は別邸に、本妻と家族は本邸に住むことになる。

本邸は、明治2年以来、東京麹町三年町(現、霞ケ関、首相官邸附近)にあった。
明治8年初めから1年かけて、同じ場所に木造洋館を新築。
明治9年1月に入居する。また、同年4月19日には天皇がここを訪問している。

「親臨御達以来、一日モ天気雨ナク、実ニ天幸殊ニ今日万事御都合宜シク、大安心イタシ候、

鳴呼人生終世不可思議、我輩ノ家ニ親臨卜申ス事、夢タニモ見サルコトナリ、終身ノ面目ハ無申迄、子々孫々ニ至り天恩忘却ス可カラサルナリ」(「大久保利通日記」)

別邸は純和風の家で、明治8年を通して休日である「1と6の日」には機械的な正確さで大久保はこの別邸に赴いている。
また、この別邸にも五代友厚、黒田清隆、松方正義、税所篤等々はじめ、多くの友人達を招いての囲碁や接待を行い、かつての京都の隠宅と同じように、なかば内外に公然と公開していた。
*
12月13日
・宮内省式部寮雅楽課伶人、海軍軍楽隊から洋楽を習う。
*
12月15日
・参議内務卿大久保、清国談判で琉球が「幾分か我版図たる実跡」を得た、「清国との関係を一掃」する措置をとるべきとの伺書を正院に提出。  
*
12月18日
・京橋・銀座・芝金杉橋間にガス灯がともされる
*
12月19日
・伊藤博文、木戸孝允に手紙。大久保が大阪あたりで木戸と会談したい意向を伝える。
25日、木戸、これを承知。  
*
12月19日
・植木枝盛(18)、民選議院設立建白を巡り起きる民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を読む。
*
12月24日
・大久保、木戸との会談を行うため横浜発。
26日、大阪入り。  
*
12月24日
・中江兆民、文部省報告課御雇となる。明治政府仕官の第一歩。
*
12月24日
・モスクワ音楽院長ニコライ・ルビンシティン、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番変ロ短調」を酷評。
*
12月25日
・築地東京第一長老教会、クリスマス祝会。同日中村正直受洗。
*
12月27日
・西郷従道、東京に帰着、復命。
*
12月27日
・東京英語学校、東京外国語学校から独立。
*
年末
・岩倉具視、維新以降の大勢を天皇に上陳。  
「未だ当初の聖意を対揚すること能わず」(政府の業績があがっていない)と自省し、
「なかんずく征蕃の挙、臣の首唱に係る、一旦功を奏すといえども、得るところ失うところを償うに足らず、臣の罪万々逃がるるところなきを知る、まさに別に罪を乞うものあらんとす」
(台湾出兵は大失敗であった、自分が「首唱」し「罪万々」であると謝罪)。

しかし、台湾出兵の真の「首唱」者は、大久保利通である。
この上陳は大久保が「罪万々」と名指していることと同じ。
大久保・岩倉間の亀裂はますます広がる。
*
*
「明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*

永禄6年(1563)1月1日~3月25日 毛利・大友講和 アンボワーズの和解王令、第1次ユグノー戦争(宗教戦争)終結 [信長30歳]

永禄6年(1563)
信長30歳、光秀36歳、秀吉28歳、家康22歳
この年
・明智光秀(36)、朝倉義景より鉄砲寄子100人を預かる。
*
・越前、この年、惣代が村の代表者となる。
南条郡の「赤萩村之惣代、本番頭之左衛門」とあるのが初見

この左衛門は、番頭として村を代表しているのではなく、村人によって承認された惣代として村の代表者となっている。
番頭は公事負担の為に幾つかの名を纏めた番の差配者として番頭給や番頭袴摺料(番頭への手当料)を荘園領主から認められている下級荘官。

番頭から惣代への変化は、下級荘官の主導する村落から惣百姓が主体となり惣代が代表する村落へと変化したことを示す。
*
・朝倉氏の第2次の街道普請事業。
永禄年間(1558~70)
永禄6年、西街道普請に関し、幅員を1間半、そのうち傾斜面を除いた人馬通行の道路部分は1間を確保するよう厳命、測量のための「定尺」が下付。
永禄11年、北庄橋修理が計画され、用材確保に本保・立田両氏が奔走。
*
・甲斐武田氏の「恵林寺領検地帳」。
国人領内部に立入り「百姓指出」方式の検地を実施。
名主加地子得分の把握により増分=踏出分が打出される。
検地を契機に、踏出分全額年貢諸役免除の条件で軍役衆が村落中に創出され、残る百姓には名請高の4割又は踏出高の2割が免除される。
このような増分=加地子得分の恩給による軍役衆の設定は、今川では天文、北条では永禄に行われる。

天文~永禄の戦国盛期において、戦国大名の国人=在地領主統制は、名主加地子得分の掌握という形の農民把握によって領国統治として確定。
「公事検地」の方式にもとづき、農民相互の競合に委ねながら農民収奪と給人=地頭統制を強化した今川氏と、積極的に自ら検地を強行した武田氏との差違はあるが、ともに名主百姓は存立条件を上から解体させられる。
*
・小領主層への特権付与による惣型闘争組織解体
荒川沿いの武蔵井草郷を水損から守る為、領主側は現地土豪牛村助十郎を「政所」に任じ「政所免」「つつみ免」を与える。

大名の農民闘争への対応は、
①土地緊縛、
②小領主層の被官化、
③それへの特権付与による惣型闘争組織解体
という形で進められる。
小領主層の特定人物を選び、開発・用水・治水等、本来村落共同体に属する諸機能の管理権を、大名がこれに保障するという方式を磯極的に推進している。
本例の他に、永禄2年(1559)、武蔵足立郡宮内村の開発に際し「郷中百姓等、無莵角可為入籠」しと小領主級の大嶋大炊助に命じている。

荘園制段階の「勧農」が荘官層によって遂行されたのに対し、ここではそれが、村落共同体の共同機能として展開されつつある現実を踏まえ、大名がその機能を被官化した特定の小領主的階層に掌握させることによって、村落=農民支配体制を編成しようとしている。
*
・フランス、新教徒・陶工アンリ・ベルナール、「確実な道…」、恩人モンモランシー将軍とカトリーヌ・ド・メディチに捧ぐ。
国民全体が豊かな生活ができるように根本的な「確実な道」。
*
・スペイン、エル・エスコリアル宮が着工。
*
*
1月
信長、小牧山に新城築き移住決定。2月着工、90日で落成。
美濃の斎藤氏と、これと結ぶ犬山城の織田信清を攻略するた。
小牧山は清洲より北東に位置し、犬山はじめ尾張平野を一望できる軍事的要衝。
信長の清洲城から小牧山への移城時期は不詳。
*
・毛利元就、安芸佐東銀山を二分し朝廷・幕府に寄進。
大友義鎮、豊前松山城を攻める。毛利軍これを撃退。
*
・三河一向一揆起こる
*
・上杉輝虎(34)、厩橋城で関東諸将に号令をかけ、松山城救援に向かう
*
1月1日
・松永久秀、多聞山城で茶会。客は興福寺成福院・曲直瀬道三・松屋久政・堺宗可・竹内秀勝。 
*
1月7日
・武田信玄、北条氏康・氏政父子へ武蔵松山城攻略出兵依頼。
*
1月19日
・今川氏に寄食していた武田信虎、京都に行く。  
*
1月19日
・カルヴァン諸侯派、「ハイデルベルク教理問答」公表。ルター派諸侯との対立激化
*
1月22日
・松永久秀、大和多武峯(とうのみね)衆徒が挙兵したため、久通と共に出陣。
23日、釜口に本陣を敷く。
27日、多武峰東口で多武峰衆徒と戦うが敗れ、壺阪まで退く。
*
1月24日
・和泉で三好勢と根来衆徒、衝突。
10月14日、和睦。対抗意識消えず。
*
1月27日
・将軍足利義輝、戸次鑑連に対し、豊藝和談に付、大友義鎮に意見を加ふべきを命ず。
*
1月27日
・毛利元就、石見国大森銀山を御料所として献上。
*
*
2月
・大友宗麟、豊前松山城に派兵、毛利隆元と激突。
前年、石見一国を完全制覇し大森銀山を支配化におく毛利元就、この年、尼子氏の本拠地・出雲に本格侵攻を始めようとする。
尼子氏と大友氏、連携して南北より毛利氏を挟み込む作戦
松山城攻めは大友氏の連携作戦の一環。松山城攻め指揮は戸次道雪。
大友氏の目的は将軍家の和平説得を拒否し続けている毛利氏に決断を迫るためのもの。
出雲攻めをきりあげて長門に急行した毛利隆元は、南北に敵をもつ事の難しさを痛感、和平へと傾く。  
*
・摂津池田城(三好長慶の傘下)当主池田長正、病没。後継は勝正。  
*
2月2日
・フランス、ジャンヌ・ダルブレ、信仰の自由を宣言。
*
2月3日
・丹波の土豪、宇津・柳本・薬師寺・長塩ら、200で京都乱入、放火。以後もゲリラ活動続く。
*
2月4日
・北条氏康・武田信玄、上杉憲勝の武蔵松山城を攻略(武田勢、金山衆を使って城を掘り崩す策で攻める)。
上杉謙信の越後勢の反撃が始まる。
騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)を攻略(騎西城攻め)。    
信玄は、帰路碓氷郡に侵攻、安中城を攻撃、城主安中景繁は降伏し本領安堵される。
その父の松井田城主重繁は抵抗し成敗される。
信玄、碓氷郡域を制圧
*
2月15日
・リトワの商業都市ボロツク、ロシア・イヴァン4世(雷帝)の攻撃に降伏。
*
2月17日
・フランス、コリニーに命令されたポルトロ・ド・メレ(20)、翌日のオルレアン攻撃を控えて巡察中のギーズ公フランソワを火縄銃で後ろから狙撃。
24日、ギーズ公フランソワ(44、1519~1563)、没。
*
2月28日
・武田信玄嫡男義信1万余、甲府進発。
北条・武田連合軍4万6千、松山城(上杉憲勝)攻撃。和睦、開城。
*
*
3月
毛利・大友講和
毛利元就、将軍義輝の命で大友宗鎮との和議を承諾。
門司城は毛利に、松山城を大友氏に還付。
幸鶴丸(輝元)に義鎮の娘を嫁すことを約す。    
大友氏の主張する香春岳城破却に対して、毛利氏傘下の宝満城主高橋鑑種、古処山城主秋月種実、香春岳城主杉連緒、宗像大宮司宗像氏貞らは、反対して毛利父子に講和撤回を申し入れる。
毛利氏は九州の一城よりも、背後の尼子征伐を優先させる方を選択。
*
・上杉謙信、北条方の属城・武蔵鐘撞城を攻略。続いて、武蔵騎西城を攻略。
*
・武田信玄、本格的な伝馬定書を信濃塩尻宿中に宛てて下す。
この頃までには、伝馬制度は占領地を含め整備され、定書・手形により広範に展開。
主要道の宿駅整備、伝馬を負担する伝馬役衆の創出、問屋の新設承認。
*
3月1日
・摂津富田普門寺幽門の細川晴元(50)、没
*
3月2日
・織田信長の娘五徳(徳姫、5)、松平元康(家康)の嫡子竹千代(信康、5)と婚約
五徳が岡崎城に嫁ぐのは永禄10年5月27日。  
*
3月3日
・松永久秀、春日祭の費用として15貫を、清原枝賢から山科言継を通して献上。
*
3月18日
・幕府、浄福寺寮舎の破却を命令(「浄福寺文書」)。
*
3月18日
・パリ、クレーヴ広場、ギーズ公フランソワの殺人犯ポルトロ・ド・メレ、処刑(四つ裂き刑)。
*
3月19日
・フランス、アンボワーズの和解王令、第1次ユグノー戦争(宗教戦争)終結
両派とも不満。
カトリック側捕虜コンデ公とユグノー側捕虜モンモランシー公の交渉。
ユグノーの既得権承認。
貴族の宗教的権利守る(信仰の一元化に社会的階級的差別持込む)。
王令(ユグノーの礼拝の自由を原則として承認)。
裁判権を持つ「位の高い貴族」は家族と家臣達に限って家の中で礼拝式が許される(家臣達が自分の家で「集会」を持つことは許されない)。
一般庶民は大法官裁判管轄区に設置された「教会」でのみ説教を聞くことができる。
「パリ」及び「パリ子爵領の全域」ではユグノーの「礼拝」を全面的に禁止。


ルイ・ド・コンデ(33、1530~1569)、「王令」を承諾して釈放(カルヴァンとコリニーはコンデを非難)。
数多くの教会が閉鎖、布教と集会が国中で妨害、盛んだった一般庶民の改宗が下火に。

・カトリーヌ・ド・メディシス、ルイ・ド・コンデを「国王総代理官」に任命(1ヶ月前まで反乱軍最高司令官で逮捕されていた)。
カトリーヌはマドモワゼル・ド・リムーユをコンデにあてがう(兄アントワーヌと同じ戦術)。  
*
3月22日
・細川藤賢、三好軍を率いて京都杉坂に放火(「言継卿記」)。  
*
3月22日
・荒木村重、(摂津)池田二十一人衆の池田勘右衛門正村を宴席で討ち取り、家中からの信頼を勝ち得る。
池田長正を継ぐ家督相続争いと重臣格池田四人衆と有力武将池田二十一人衆の対立。
池田四人衆(池田勘右衛門尉正村・池田山城守基好・池田十郎次郎正朝・池田紀伊守正秀)のうち正村・基好が二十一人衆に誅される。
*
3月25日
・益田藤兼(35)、伝家の宝刀「舞草・房女」を毛利元就に献上、毛利家への忠誠を示す。
*
*
「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
*    

樋口一葉の手紙 明治27年(1894)7月20日(22歳) 「世間のうくもつらくもお前様おハしませバと 心丈夫にさだめて 大海を小ぶねにて渡る様な境界 ミ捨給ハゞ波の下草にこそ候はめ」

丸山福山町に移ってからの一葉の日記を順次ご紹介してますが、今日はこの頃、半井桃水に宛てた一葉の手紙をご紹介。
前回ご紹介した日記に続く時期に相当するもので、実物は台東区の一葉記念館にも展示されています。
一葉記念館については、コチラ と コチラ
*
*
7月12日、一葉は2年ぶりに桃水を訪問し、その日の日記には彼への思慕の情を記しています(前回)。
*
*
そして今回は・・・。

雷さえ鳴らなければそのうちにお宅に行きますとの桃水の言葉を頼りに、一葉は今か今かと桃水を待ちます。
そして、7月15日に待ち焦がれた桃水が一葉を訪ねて来ます。
しかし、桃水は初めからゆっくりとする気もないらしく、外に車を待たせていました。
また、あいにくこの日は兄が来ており、桃水は早々に一葉宅を引き上げました。

桃水の余りの素っ気なさによるものか、7月20日頃、一葉は桃水に手紙を書きます。
「強気の夏子」にしては、すねたような甘えたような手紙です。
*
*
明治27年(1894)7月14日

十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。
此夜更(ふく)るまでねぶり難し
あすの雷雨いかにや
*
*
7月15日 桃水が鶏卵の折を持って一葉を訪れる

十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。

少し物がたるほどに半井君参り給ふ。
少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ
門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。
鶏卵の折到来。

兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。

此夜の月、又なく清し。
*
*
7月17日
十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌のこと申来る。
*
*
7月19日

十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。
*
*
7月20日頃 一葉の桃水宛の手紙
暑さはげしく候所 いかゞいらせられ侯や 御様子伺度 

朝鮮もやうやうけしきだつ様に承り侯間 もしおぼし召立もや 

御ちかくながらつねに拝姿(はいし)も得がたければ 人のうわさのさまざまに 驚かされて胸とゞろかれ申候

よは虫と笑はせ給ふな 一筋に兄上様と頼ミ参らする身の心ぼそさ故に御坐候

もしその後の御立寄もやと待わたりまゐらせ候日数も 今日はいくかに成候ハはん

御めにかゝらばしミじミお話も申上 御をしへにもあづかりたしとはかねての願に御坐候を 此ほどのやうに他人行儀の御義理合ひに御出(いで)下され候ては 何事を申上らるべき 

さりとは御恨(うら)ミにも存じ候

御心もしらず御詞(おことば)一つをたのみに我れ一人妹気取のおろかさ よしや世間のうくもつらくもお前様おハしませバと心丈夫にさだめて大海を小ぶねにて渡る様な境界 ミ捨(すて)給ハゞ波の下草にこそ候はめ

はるかに成し月日をかぞへ候へば 私はお前様の御怒にふるゝ様なる事斗(ばかり)かさね申居候

罪は心浅き我れにあれば 今更に人ハうらまねど 後悔のおもひにかきくらさるゝ朝夕を せめてはおもふほどのこと御聞にいれて御詫(わび)のかなはゞうれしかるぺく 

それむつかしくハよそながら我心のうちにだけ兄上様とたのミ参らするを御ゆるしいたゞき度(たく)

さりとて夢さらあやしき心ありてにはあらず 

かねての御気質をしれバ 何としてその様なこと申上らるべき 

唯(ただ)々隔てなき兄弟の中ともならバと これのみ終生の願ひに御坐侯を 

けふ此ごろのおぼしめし斗(はかり)がたさにおもひ侘(わび)申候

夕風すゞしからんほど 御そゞろあるきのお序(ついで)と申様な折に御はこびは願ハれまじくや 

しゐては申がたけれど これは欲の上の欲に御坐候
                                       かしこ
                                       夏子
師之君
    御前
*
*
*
桃水は対馬藩藩医である父に従い少年の頃から釜山の倭館で過ごし朝鮮語は堪能。
壬午事変(軍乱)に際しては、大阪朝日新聞の海外特派員として活躍し評判を得た。
この手紙の頃は、甲午農民戦争の頃であり、一葉は桃水の目下の最大関心事であろう朝鮮の情勢を、その手紙の冒頭に置いている。

そのあと、15日の素っ気無い他人行儀な訪問に対して、「その後の御立寄」を心待ちにしていたのに、とその残念さを訴えている。

*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*






2011年7月15日金曜日

昭和16年(1941)7月15日 「この頃共榮圏といひ佛教圏といふが如く圏の字大に流行せり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年(1941)の永井荷風「断腸亭日乗」を順次ご紹介してます。
今回は、7月の後半。
ただ、今回ご紹介する時期については、依然に年表とともにご紹介している箇所とダブります。
詳しくは該当の箇所をご参照下さい。

①第二次近衛内閣総辞職、松岡外相更迭

②関特演の動員
*
昭和16年(1941)7月15日
七月十五日。暮方よりまた雨。本年の税金暴騰して一囘分の金高四百四拾五圓七拾五錢となる。一年分にて金壱千七百八拾参圓となるわけなり。

戦禍いよいよ驚くぺし。

街頭の廣告に經国イタリヤ婦人朝日など新しき雑誌の名見ゆ。
洋紙節約のため新刊雑誌は出ぬ筈なるに奇怪千萬と謂ふ可し。

政黨も解散せられたる筈なるにこれ亦東方會建國會日本大衆黨其他いろいろありて辻ゝに勝手次第の立札を出せり。

この頃共榮圏といひ佛教圏といふが如く圏の字大に流行せり
今迄見馴れぬ漢字を使ひたがるは如何なる心にや。
笑ふべきなり。
*
*
7月16日
七月十六日。陰。数日來市中に野菜果實なく、豆腐もまた品切にて、市民難澁する由。銀座通千疋屋の店頭にはわづかに桃を並べしのみ。牛肉既になしこの次は何がなくなるにや。
*
*
7月17日
七月十七日。くもりで風甚冷なり。晩間池之端に飯して淺草に行く。連日の雨と冷氣とに世間ひつそりとして何の活氣もなし。

新聞に近衛内閣総辞職の記事出でたれど誰一人その噂するものもなし。
*
*
7月18日
七月十八日。今朝の新聞紙に近衛一人残りて他の閣僚更迭するに過ぎる由見ゆ。初より計畫したる八百長なるが如し。

そは兎も角以後軍部の専横益甚しく世間一層暗鬱に陥るなるべし

この日冷風昨の如く曇りて雨はふらず。庭を掃き落葉焚く烟を見れば何となく暮れ行く秋の如き心地す。レオン、プロワの日記をよむ。千九百十五六年戦時の日記なり。
余はプロワの知己朋友が戦場に行きで歸り來らざるもの多きを見るにつけ、余が孤獨の身には親友と稱すべきものもなく又召集せられて骨を異郷の土に埋めしものもなきを思ひて、自ら幸なりとせざるぺからず。

余はつくづく老後家庭なく朋友なく妻子なきことを喜ざるぺからず

模倣ナチス政治の如きは老後の今日余の身には甚しく痛痒を感ぜしむることなし。

米は悪しく砂糖は少けれど罪なくして配所の月を見ると思へばあきらめはつくべし。
世には冤罪に陥り投獄せられしもの尠からず。
殊に火災保険の事に関し放火犯の疑を受けて入獄するものあるは屡聞るところなり。
これに比すれば余が自炊気儘の残生ほどよきものはなかるぺし。
*
*
7月20日
七月二十日。晩間雨の小降りとなりし隙を窺ひ芝口の金兵衛に至り夕飯を喫す。歌川氏に逢ふ。

汽車の荷物輻湊甚しきため、西瓜の産地より西瓜を東京に送るることを禁じたれば、今年は水菓子類凡て品切のもの多くなるぺしと云。
*
*
7月24日
七月廿四日。晴れて涼し。風の向を見るに西南の風なり。今年は夏なくして秋早くも立ちそめしが如き心地なり。晩間土州橋に至る。

下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。
いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亞(シベリア)に送らるゝならんと云ふ

三十代の者のみにして其中には一度戦地へ送られ帰還後除隊せられたるものありと云ふ。
市中は 物資食糧の欠乏甚しき折からこの度多数の召集に人心頗恟々たるが如し。
*
*
7月25日
昭和十六年七月廿五日。くもりて蒸暑し。夜芝口の金兵衛に飯す。この店の料理人も召集せられ来月早々高崎の兵営に行く由なり。

此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に佛領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。
この度の動員は盖しこれが為なりと。

此の風説果して事實なりとすれば日軍の為す所は欧州の戦亂に乗じたる火事場泥棒に異らず
人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり。
斯くの如き無慈悲の行動は軈て日本國内の各個人の性行に影響を及すこと尠からざるべし。
暗に強盗をよしと教るが如く(ママ)ものなればなり。
*
*
7月26日
七月廿六日。くもりて暮方よりまた雨。野菜果實いよいよ拂定(ママ)にて八百屋店をしめるところ少からず。牛肉についで此両三日雞肉もなくなりし由。夜女事務員椎野よし電話。銀座食堂に行きで飯す。
*
*
7月28日
七月廿八日。晝前驟雨あり。天候猶定らず。溽暑甚し。・・・
欄外朱筆 英米二國日本卜通商交易スルヲ拒絶ス
*
*
7月29日
七月廿九日。くもりて時々雨來る。風冷にで一トしきり鳴き出でし蝉の聲聞えずなりぬ。夜店にて買ひたる一年有中江兆民著を讀む。幸徳秋水の序あり。
*
*
7月31日
・七月三十一日。午前驟雨來りしが午後より再び晴れたり。谷町通の八百屋豆腐屋麺鞄屋の店先にぢゞむさき女房供の集りわめくを見る。丸ノ内より銀座に行き夕餉を食して後浅草に至る。八日頃の月よし。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
*

2011年7月13日水曜日

東京 江戸城 夕陽に映える平川濠 平川橋

江戸城の石垣の中で最も美しいといわれる平川濠。
西に沈む陽の光りに濠が映えて、さらに絵になる美しさ(・・・だと思います)
今日(7月13日)の午後6時前です。
*
▼竹橋から見た平川橋
*
▼北桔橋門前の歩道橋から見たスカイツリー
*
「★東京インデックス」 をご参照下さい。
*

東京 北の丸公園 逆立ちするトンボ ヤブミョウガ

暑い! 暑い!
昼休み散歩は短縮バージョン、プラス、木陰から木陰への渡り歩き、さながら義経の八艘飛びのの如し、といったところ。
但し、木陰は要注意。
蚊だとか、ひどい時は毛虫などが攻撃してくる。

▼どうしたことか、めずらしくトンボがじっと木の枝にとまっていた。
微妙に方向を変えているところを見ると、じっとエサを探しているようだ。


*
▼ヤブミョウガ
至るところで咲き始めた。
この花はおいしいらしく、よく虫がとまっている。
*
▼公園内の池
初めて水辺まで近づいたのですが、危なく昼寝中の猫を踏んづけるところ。
もっとも猫のほうが敏捷ですが。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月12日火曜日

東京 北の丸公園 野生のインコ?  気の早いクリ(栗)

今日(7月12日)も一日暑かった。
さすがに、昼休みの散歩も30分ほどの短縮バージョン。

▼木陰でサッと横切る小鳥が・・・。
どうやら、姿かたちから見て、野生化したインコか?
(真正の野生の小鳥で、こんなフウに私のカメラに収まるものは、まずいない)

*
▼もうクリが・・・。
お腹をすかした小鳥かカラスが落としたのかもしれない。
それにしても気の早いクリである。
*
▼散歩道
*
▼今日の武道館
RIP SLYME(リップスライム)というヒップホップのグループらしい。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月11日月曜日

東京 北の丸公園 真夏全開 もみじの林は陽光に燃える

梅雨があけて、北の丸公園は真夏全開となりました。
僅かに蝉もなき始めました。
もみじの林は、陽光きらめいて燃えています。



*
▼サルスベリはまだこんな状況です。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

東京 竹橋のサルスベリ(百日紅)

先日もご紹介したのですが、その際は夕方に撮った写真だったので、改めて今朝撮ったものをご紹介します。




*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年7月10日日曜日

フウセンカズラ(風船葛)の実がなった

▼フウセンカズラ(風船葛)の実がなった。
実を鑑賞する風流心からではなく、緑のカーテンを作るために植えたものだが、この風船様の実はなかなか可愛いではないか、ということでご紹介。

*
▼花は非常に小さい。
たくさん花をつけており、もっとたくさん実がなるのではないかと楽しみにしている。
*
「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

永禄5年(1562)7月3日~12月26日 義満以来10代余の将軍の家宰伊勢氏の終焉 ハンプトンコートの密約 [信長29歳]

永禄5年(1562)7月
この月
・北条氏照、武蔵野蔦郷(町田市)の窮乏を救うため、年貢や諸公事を免除し、郷村の復興施策を行う。
*
・湯河直春・鈴木孫一ら、雑賀五荘郷の衆に起請文を呈す。        
紀伊では、真宗門徒を主体とした雑賀衆と国人領主湯川一族・根来寺勢力などの間に「惣国」が成立。
この惣国を基礎とした門徒・非門徒の連合が、ある場合には大坂石山を支え、ある場合には門徒の石山救援を規制する役割を果たす。
*
7月1日
・オスマン帝国スレイマン1世と神聖ローマ帝国フェルディナント1世の間の和約成立。
ハンガリー全土がオスマン帝国領となる。  
*
7月3日
・毛利軍1万5千、郡山を発ち、28日、出雲赤穴に進軍。尼子義久の諸城を攻略。
*
・尾張知多郡の今川水軍、信長に属する。  
*
・上杉輝虎(33、謙信)、松倉城の椎名康胤の救援の為に越中に出陣。神保長職は敗北。
9月、長職は又も再起(永禄3年と同様)。
*
7月16日
・松永久秀方の箸尾為綱、伴堂・金剛寺両城を破却、箸尾城を築く。
*
7月21日
・信長、尾張阿弥陀寺へ従来の如く「門家」(寺内)及び「末寺」の支配を委ねる(「阿弥陀寺文書」)。
*
7月24日
・この頃より、豊前国柳浦にて大友勢と毛利勢との競り合いが始まる。
*
*
8月
・小人頭木下藤吉郎、普請奉行の権限与えられ、壊れた清州城の城壁修理。十貫俸禄加増。  
*
・安東愛季1,200、比内地方(秋田県北秋田郡)への侵略を開始。
独鈷城の浅利則祐、扇田・長岡城に籠もって反撃。
安東勢の攻撃強く、則祐は長岡城で自刃。
後、則祐弟勝頼が安東氏被官として比内の領主となる。
  この地方は、大葛・阿仁など金銀山があり、森林資源に豊富、甲斐より移住した浅利氏が支配していた。  
*
・松永久秀、大和一国と南山城に徳政令を発す。  
*
8月6日
・幕府、毛利隆元を備中・備後の守護に任ず。
*
8月10日
・土佐一条房基の娘と伊東義益との婚姻が成立し、使者を派遣。
*
8月21日
・大覚寺義俊(近衛尚通の子)、京都から越前へ下向。
この日、一乗脇坂尾(阿波賀河原)で盛大な曲水の宴が張られる。
参会者は、義俊など京都の文化人、朝倉義景やその一族・家臣。
曲水宴詩歌は、水辺に座を定め、上流から盃を流し、自分の前を過ぎるまでに詩歌を作る遊び。
*
8月25日
・伊勢貞孝父子、将軍義輝の内命で六角義賢・畠山高政と連絡し北山で挙兵、杉坂より入京。
9月11日、松永久秀8千の猛攻。伊勢貞孝父子・有馬重則、討死。
*
8月29日
・ハンプトン密約に先立ち、イギリス軍、ル・アーヴル入り。
*
*
9月
・武田晴信、上野安中城を攻める。
*
9月2日
・幕府(義輝・三好方)、3月の六角義賢の徳政を承認しない方針をとり、従来伊勢貞孝(政所執事、六角方に奔る)が加判した安堵状その他も無効と宣言。
また、この月、伊勢貞孝父子を幕府より追放、評定衆地方頭人の家柄の摂津晴門に頭人加判の権限を与える。
11日、貞孝父子、長慶嫡子三好義長・松永久秀らにより山城杉坂で殺害。
更に幕府は伊勢家の断絶まで考慮する。
義満以来10代余の将軍の家宰伊勢氏の終焉
*
9月5日
・再挙した神保勢、この日、上杉勢を破り、神保民部大輔・土肥二郎九郎その他多数を討取る勝利。
椎名康胤は長尾景虎に支援を求め、景虎は再度越中へ出陣、神保方諸城を落とし、長職を呉羽山(五福山・白鳥城)に追い詰める。
上杉勢は城近辺を放火して退路を断つ。
*
9月20日
・フランス、ハンプトンコートの密約
ロンドン西郊の旧王宮。イングランド女王エリザベス1世とユグノーのコンデ親王、「軍事同盟」締結
(ルイ・ド・コンデがシャルトル司教代理とモンゴメリーを名代としてイングランドに派遣)。
エリザベス1世、コンデ親王に「兵士6千」+「ドイツ傭兵」を雇う資金を提供。
コンデ親王、事が成就した後に次の都市をイングランドに割譲(ル・アーヴル、ディエップ、ルーアン、カレー)。
エリザベス1世、カレーを入手した場合はル・アーヴルを返還すると約束。  
*
9月29日
・松平元康(家康)、今川氏真の兵を三河御油に破る
*
9月29日
・鈴木孫一ら雑賀の衆、湯河宗慶に起請文を呈す。
*
*
10月
・フランス、ユグノー・イングランド連合軍、ルーアンを占領。
*
・フランス、ヴェルグトの戦い(フランス西南部、ペリゴール地方のユグノーの中心地ベルジュラック)。
モンリュック元帥とモンパンシエ、デュルフォール・デュラスに勝利。ユグノー5千戦死。
*
・フランス、セバスチャン・カステリョン、「悩めるフランスに勧める」。強制によって信仰は成り立たない。
*
10月5日
・神保長職、金屋村の戦い後、富山城に篭り長尾景虎を迎え撃つ。
景虎勢、富山城攻撃。
長職は能登守護畠山義綱に仲介を頼み景虎に降伏(長職の越中統一の野望は潰え去る)。
甘い処分。長職の射水・婦負2郡の知行安堵。これを機に畠山・神保・上杉氏は同盟関係を築く。
19日、長職、5日の金屋村の一戦で功のあった家臣寺嶋牛介に対し、この日付で感状と知行を与える。
*
10月6日
・フランス、国王軍、ルーアン近くのサン・カトリーヌ砦陥落。カトリーヌ・ド・メディシス、ルーアン攻囲軍の先頭に立つ。
15日、国王代理人アントワーヌ・ド・ブルボン(44)、カトリーヌのすぐ傍らで狙撃され、致命的な重傷。17日、没。直前、「アウグスブルクの信仰告白」のルター派教義受入れる。息子アンリ・ド・ナヴァール、直ちにベアルヌの母ジャンヌ・ダルブレの許に戻る。
26日、ギーズ公指揮国王軍、ルーアン奪回、占領。モンゴメリーを取り逃がす。  
*
10月13日
・大友勢と毛利勢、豊前国柳浦にて一戦を交え、大友方の大勝利。部将戸次道雪、 宗麟より戦功を褒せられる。
*
・上杉輝虎(政虎)の家臣、小 幡景貞の守る国峰城を攻略。
*
*
11月
・北条軍(氏康・氏政父子)5万、北武蔵の拠点・松山城に押し寄せ包囲。
要害を相手に戦況を打開できない北条氏は甲斐の武田氏に助勢を願い、関東の反北条勢力は越後の上杉氏に加勢を願い出る。
*
11月5日
・吉川元春、宍道・幡屋滞陣中の本城常光と一族郎党を殺害。
これにより、先に毛利氏に服属した諸豪のうち、熊野城主熊野兵庫、白鹿城主松田誠保、牛尾城主牛尾信濃守ら再び尼子氏につく。
高矢倉・銀山城を奪取し石見を征服  
*
11月16日
・大友義鎮、崇福寺并末寺を安堵。
*
11月24日
・上杉輝虎8千、松山城救援のため春日山城進発。27日、越後柏崎に着陣。
*
11月26日
・フィレンツェ、コジモ大公のロシニャーノ離宮とリヴォルノの中間の森、鹿狩り中に3男ガルツィアが長男ジョヴァンニを殺害。
コジモ大公はガルツィアを殺害。1ヶ月後、エレオノーラ大公妃、病死。
*
*
12月
・北条家の最長老幻庵、花嫁の心得を記した「覚え書」を著す。  
*
・駒千代や大勝院などの給人・寺庵が越前の織田神領内で本役米を無沙汰し、度々の催促にも応じず、織田寺社の訴えを受けた朝倉氏は年内中に納入しなければ、これら寺庵・給人の内徳分を没収するとする(「劒神社文書」49号)。
*
12月3日
・北条氏照、下総古河城を攻略。足利藤氏、安房・里見義堯を頼る。
*
12月10日
・毛利元就、出雲洗骸に移陣、尼子氏の富田月山城を包囲。  
*
・フランス、ドルーの戦い(パリ西75Km、ブランヴィル(ドルー近傍))。
国王軍(司令官モンモランシー)、ユグノー軍(ルイ・ド・コンデ軍)に大勝利。
国王軍:モンモランシー(ユグノー軍の捕虜)。サン・タンドレ元帥(戦死)。
ユグノー軍:ルイ・ド・コンデ(国王軍捕虜)。ガスパール・ド・コリニー(残党をまとめてオルレアンに向う)。  
*
12月13日
・松永久秀、春日社の陪従御神楽の施主を務める。願主は近衛前久。
15日、春日社神事の下行銭1500疋を朝廷に献上。  
*
12月14日
・今川氏真、井伊家与力小野道好の讒言を容れ朝比奈泰能に井伊直親を殺害させる。
*
12月16日
・武田晴信、北條氏康と共に武蔵松山城を攻撃し、越年(要害堅固な武州松山城を相手に、北条勢の苦戦は続く)。
*
・上杉謙信4度目の関東越山。上杉輝虎、春日山城を発するが、大雪に阻まれ、12月26日、沼田城に入り年を越す。
*
12月21日
・毛利隆元、厳島神社に元就の健康を祈願。
*
12月24日
・大内氏を破った出雲の尼子晴久(49)、没。嫡男義久、後継。
*
12月28日
・立入宗継、兄の立入修理進の代りに御倉職に補任。
*
12月末
・フランス、ギョーム・ポステル、パリ最高法院命令により逮捕。
*
*
「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
*        

2011年7月9日土曜日

昭和16年(1941)5月11日~31日 ルーズベルト大統領の国家非常事態宣言

昭和16年(1941)5月11日
・駐米大使野村吉三郎、松岡修正案を米に提示。
①米は中国より手を引く、
②日本は三国同盟厳守、
③日本は南進に武力を持ちない保障をしない。
ハルは失望するも、交渉打ち切りは好ましくないと判断。
*
・フランス、ユダヤ人問題研究所創設。占領当局の反ユダヤ機関の拠点となる。
*
5月12日
・大本営政府連絡会議、松岡外相の発言。
「我外交ノ集中ハ米ヲ参戦セシメズ、「コンボイ」(船団護送)ヲヤメサセル事、ニ指向スルニ在り。
・・・「ヒットラ」ヨリハ、未ダ返事ガ来ヌガ、「コンボイ」ハ重大ナル結果を招来スルカラ、米ノ「コンボイ」ニ対スル独ノ行動ハ特ニ慎重善処スヘキ旨ヲ申送り、其際米ノ不参戦、独米戦争セサルコトヲ外相親シク伊勢神宮ニ祈願シタ事ヲモ附加シタ」
*
・青森県三本木町で大火。684戸が焼失
*
・自動車修理用部分品配給統制規則公布
*
5月13日
・ドイツ、バルバロッサ訓令。
「バルバロッサ地域における軍法の適用と部隊の特別措置」。ソ連侵攻時、大量虐殺を実行する機動部隊4個編制
*
5月14日
・貿易統制令公布。翌日施行  
*
・フランス、パリ在住ユダヤ人3,747人、フランス国内収容所強制収容
*
・ドイツ空軍、マルタ島大空襲を開始。 
*
5月15日
・フランス、レジスタンス国民解放戦線結成  
*
・フランス共産党、「フランスの独立のために戦う国民戦線」結成呼掛け  
*
・イギリス軍「ブレヴィティ作戦」(ハルファヤ岬における反撃作戦)で反撃、失敗
*
・クロアチア王国、樹立。
*
・ドイツ空軍、クレタ島を空襲。 
*
5月16日
・中国共産党、蒋介石に対して「国共調整臨時弁法」12ヶ条再要求  
*
・南京汪政権、「清郷工作」開始
*
・中原会戦
第3飛行集団が参加、中條山中で陸上部隊に物資を投下して包囲作戦を支援。
中国軍の遺棄死体は4万2千。  
*
・情報局第4部懇談会。毎月10日までに全雑誌の編集プラン・執筆予定者を事前に情報局提出命ず。        
*
・イタリア・アフリカ軍、降伏。
*
5月17日
・「日本の領事裁判権を行使できる地域での国防保安法と治安維持法適用に関する特例」公布
*
・阿部定、恩赦で栃木刑務所を出所。
*
・アメリカ、アーノルド米陸軍航空部隊司令官、B29試作着手時点で量産内約結ぶ  
*
5月18日
・利根川で汽船が転覆、49人死亡。定員超過が原因。   
*
・エチオピアのイタリア軍主力、降伏。
*
5月19日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、ドイツは9軍団103師団を対ソヴィエト用に準備。
*
・東京市、夏季のビールの配給は1世帯8本と決定。
*
・ホー・チ・ミンら、ベトナム独立同盟(ベトミン)結成
インドシナ共産党第1期第8回中央委員会(5月10日~19日)決議。
カオバン省バクボ。
反日・反仏民族解放路線(反封建を外す)決定。インドシナ3国が夫々の独立を追及。
*
5月20日
・東京港、外国貿易港として開港指定  
*
・硬化油等配給統制規則公布
*
・教科用図書調査会設置      
*
・ドイツ軍(空挺部隊)、クレタ島攻撃。メルクーア作戦。6月1日 占領。
*
5月21日
・国産機械見本展示船、北米へ向け神戸を出港
*
・農林省、家庭用米の外米混入率を63%に増量。
*
5月22日
・硫黄配給統制規則公布
*
・支那駐屯憲兵隊を北支那派遣憲兵隊に改編し、憲兵隊の性格を常設から野戦に変更  
*
・山口梧郎「皇陵二千六百年史」、天皇・皇后御陵等の誤謬が多いとして発禁
*
5月24日
・関東州燐寸専売令公布    
*
・アメリカ、ボブ・ディラン、誕生。
*
・ドイツ軍「ビスマルク」「プリンツ・オイゲン」、英「フッド」「プリンス・オブ・ウェールズ」と交戦、「フッド」沈没
*
5月26日
・難波田春夫「日本経済の諸問題」、マルクス主義的国家観であるとして発禁
*
・フランス、北部フランスの炭坑スト始る
*
・チェコ、プラハ、行政長官・帝国治安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ、チェコ人に狙撃され、6月4日.死亡。
*
・イギリス空母フォーミダブル、イタリア領ドデカネス諸島の急降下爆撃機基地を攻撃。 
*
5月27日
・科学技術新体制確立要綱、閣議決定。  
*
アメリカ、ルーズベルト大統領、国家非常事態を宣言
欧州でのドイツ軍の行動は対米侵略準備と決め付ける。
「米政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法制定。
ブラウダーは旅券法違反で起訴され禁固4年刑。
*
・ドイツ主力艦ビスマルク、イギリス軍に撃沈
*
・フランス、ダルラン副首相・ヒトラー会見。
中東・北アフリカ植民地のドイツ軍利用協定(パリ議定書)同意。
近東諸国一帯でのフランスの軍事的対ドイツ協力。
これにより、ヴィシー側のフランス委任統治領シリアの飛行場にドイツ・イタリア飛行機120機が到着。
ドイツは、ヴィシーに対して占領税を1日4億フランから3億フランに減額、捕虜9万人を釈放。   

シリアのフランス軍はヴィシーに忠誠を誓い、多数の戦車・航空機を含む兵力約3万で国境地帯を固める。
自由フランスは兵員6千、大砲8門・戦車10輛・飛行機20機の動員能力しかなく、シリア攻略にはイギリス軍の協力が必須。
しかし、イギリスは、特にエジプトに強力な軍を保持しているが、リビアのドイツ・イタリア軍との戦いに集中するためシリアに戦線拡大する余裕なし。
更にこの頃、イラクで親ドイツ派が政権掌握し、イギリスはこれへの対応も迫られている。
*
5月28日
・社団法人新聞連盟、設立。
軍・政府の方針に追随しながらも、自己の地位を守ろうとする全国新聞社の自主的統制団体。
半年後に公布される新開事業令により、「統制会」として発足した日本新聞会にとってかわられる。
日本新聞会は、
「その機構組織性格すべてが会長(田中都吉)の裁定命令に委ねられ、これに反するものに対しては、法令に依って廃刊停刊の極刑をも科し得るやうにした。
連盟が審議機関に止つたのに反し、「新聞会」は純然たる執行機関、新聞行政機関となった」
(伊藤正徳「新聞五十年史」、昭和22年)。  
*
・イギリス軍、クレタ島から撤退を開始。
*
・シリア攻略。イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムを本拠とする自由フランス・イギリス連合軍がシリアへ侵攻(自由フランス軍は後詰め)。7月12日停戦。  
*
5月29日
 ・三菱商事、米、濠、マニラ、ジャカルタ、シンガポール、スラバヤ、バグダッド、等各支店に全支店員の引揚げ命令
*
・神戸市滞在亡命ユダヤ人、中東に向けて神戸を出港。
*
5月30日
・リヒャルト・ゾルゲ報告、6月後半にドイツは対ソヴィエト攻撃開始。
*
・イギリス軍、バグダッドを占領してイラクのクーデター鎮圧。
*
5月31日
・内務省検閲課、偽暦記事掲載出版物取締りに関する件を全国各府県に通牒、大安・仏滅などの記載を禁止
*
・米、ハル国務長官、野村大使に非公式案提示、
①全国家の領土・主権の尊重、
②内政不干渉、
③通商上の機会均等含む平等原則、太平洋の現状維持の4原則  
*
・イギリス軍、ギリシャ地方からエジプトへ完全撤退。クレタ島より駆逐。
*
*
*
*

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)7月12日(22歳) 「かく計したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如かるべし。」(樋口一葉「水の上日記」)

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)
7月8日
八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。
*
*
一葉は、友人田中みの子の紀行文の雑誌掲載を平田禿木を介して世話する。
「かまくら紀行」は、明治25年7月1日~5日、師匠の中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行文。
「しがらみ草紙」は鴎外が主宰する雑誌で、この年7月号(第58号)に掲載される。
*
*
7月9日
九日 早朝、くらを送て上野に行。上野丁の小松星といへる旅店に、知人の待合せ居りて、共に帰県をなすよしに付、同家までゆく。上野よりにはあらで、新宿の汽車にて行よしなれば、我れはこゝより帰宅。朝飯をしまひて、無沙汰み舞に伊東、田中の両家を訪ふ。日ぐれまで遊ぶ。田中ぬしのもとにありける『艶道通鑑』とて、五冊ものゝ随筆めける、小出ぬしの蔵書のよしなるをかりる。
*
*
7月10日
十日 禿木子より状(ふみ)あり。「森君のもとにて、田中ぬしの紀行よろしきよしに付、本名、宿処、報道あり度し」となり。返事つかはす。奥田君来訪。
*
*
7月11日
十一日 師君のもとへ行く。田中ぬしも盆礼として来訪。雑誌の事を語るに、喜色あふるゝやう也。師君いかなるにか、衣類その他を質入して金子をとゝのへ給へるよしにて、加藤の妻より、我れは金子をうけとる。師君ははやく出稽古に趣給ひぬ。此日、日ぐれ前より雷雨、中々に晴がたし。夜に入りてより帰宅。佐藤、盆礼に来たりしよし。
*
*
どうしたことか、師匠は、衣類などを質入れして一葉のお手当てを工面したようだ。
*
*
7月12日 桃水を訪問
 十二日 到来物のありしかば、半井君を訪ふ。
めづらしくこゝろよげにて、にこやかに物がたらる。
されども、来客のありければ、長くもかたらで帰るに、「いづれちかくに御音(おおと)づれ申べし。十五、六の両日のうちに、雷雨なくはかたらず」といふ。
たけくをゝ敷此人のロより、かみなりの恐ろしきよしを聞こそをかしけれ。
*
*
久しぶりに半井桃水を訪問する。彼は元気であったが、来客もあり長居はしなかった。
桃水は、「いずれ近いうちにお訪ねするつもりです。十五日か十六日のうち、雷や雨がなかったら必ずお訪ねしますよ」と言う。
強そうで男らしいこの方の口から、雷が恐ろしいなどと聞くのは、可笑しい気持ちであった。
*
*
静かにかぞふれは、誠や、此人とうとく成そめぬるは、をとゝしのけふよりなり。
隔たりゆく月日のほどに、幾度こゝろのあらたまりけん。

一度は、これをしをりにして悟道(ごどう)に入らはやとおもひつる事もあり。

一度は、
「ふたゝびと此人の上をば思はじ。
おもへばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。
諸事はみな夢、この人こひしとおもふもいつまでの現(うつつ)かは。
我れにはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし」
と、あきらめたる事もありき。

そもそも思ひたえんとおもふが我がまよひなれば、殊更(ことさら)にすつべきかは。
冥々の中に宿縁ありて、つひにはなれがたき仲ならばかひなし。
見ては迷ひ、聞てはこがれ、馴ゆくまゝにしたふが如き我れならば、遂に何事をかなしとげらるべき。
かく計(ばかり)したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如(ごと)かるべし
悟道を共々(ともども)にして、兄の如く妹のごとく、世人(よびと)の見もしらざる潔白清浄なる行ひして、一生を送らばやとおもふ。
*
*
一葉は、変わらぬ桃水への思慕を語り、「潔白清浄」に生きて貞節を守ると願う。


*
*
この人との間が疎遠になり初めたのは一昨年の今月からである。
その後、月日がたつにつれて私の心は何度変わったことか。

一度は、これを栞として悟りの道に入ろうと思ったこともある。

一度は、
二度とこの人のことは思うまい、思うからこそ色々の悩みが湧いてくる。
人生はみな夢のように消えるのだから、この人を思う現実の心も何時まで続くとも思われない。
こんな迷いの中に沈んで行くことの何とはかない事よとあきらめた時もあった。

しかし、あきらめようと思うこと自体が迷いなのだから、わざわざあきらめる必要もないように思う。
それぞれに前世からの因縁があって、 離れられないものならば、それも仕方がない。

逢っては恋しく、声を聞いてはますます焦がれて行く私は、一生を何もしないで終わるのだろうか。

慕わしく懐かしいこの人に対し、思う事も言わず、愚痴も言わずに、ひたすら気持ちを抑えてばかりいると、恋の心はかえって大きくなり、大河の流れを塞いでかえって水を溢れさせてしまう。

互いに悟りの道に志し、兄のように、妹のように、世間の人が誰も知らないような潔白清浄な関係でこの一生を送りたいと思う。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*

東京 北の丸公園 ムクゲ咲く 竹橋にサルスベリ咲く

昨日(7月8日)、東海地方の梅雨明け。
平年よりも13日早いとのこと。
今日あたり関東地方も梅雨明けかもしれない。

▼北の丸公園にムクゲが咲き始めました。
いよいよ本格的な夏到来。
ムクゲは、「槿」と書きますが、韓国の国花で韓国では「無窮花(ムグンファ)」と書きます。


*
▼八重のムクゲ
*
▼サルスベリ(百日紅)
退勤時に気がついたのですが、竹橋の毎日新聞社前にサルスベリの木が植わってますが、そのうちの一本に花が咲いていました。

*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*