2023年12月31日日曜日

人権団体ユーロメッド「イスラエル兵がガザ住民の財産を略奪」 ユーロメッド人権モニターは、シオニスト政権軍の兵士らが、パレスチナ人の住居を中にあった財産を略奪した上で放火し、その後、高価な盗品の画像をSNSにアップしていたことを明らかにしました。— ParsTodayJapanese    

2023年12月30日土曜日

不安定なのは自分のせいですか 49歳独身・非正規雇用、ずっと手取り月15万円の氷河期世代、結婚にも憧れるけれど…(信州毎日);「95年に日経連(当時)が提言「新時代の日本的経営」を公表。派遣など非正規労働者を「雇用柔軟型」と名付け、人件費を抑えるために活用する方向性を示した。労働者が自由な働き方を模索する動きと相まって、好意的に受け止められた面もあり、玲奈さんも「合理的で魅力がある」と考え、派遣社員を選んだ。」   

吉村府知事「政党パーティー禁止」発言に「個人のパーティーはいいのか」批判殺到…自身は2022年に700万円ゲット(SmartFLASH)

 

大阪・関西万博 9割近くが「工事参画に興味ない」建設業界調査(NHK); 建設業界では全国的に工事が豊富な状況であり、人手も逼迫。万博のように、短工期で軟弱地盤で地理的条件も悪いうえ、政府や大阪府市が予算を増やさないと喧伝しているため利益が望めず、半年で取り壊すような建物を受注するインセンティブはありません。— 岡田 悟

三井住友建設、都内大規模マンションも「工事停止」に!麻布台ヒルズは建設再延期の恐れも ;「「麻布台ヒルズ」が11月24日に開業したが、麻布通りに面する住宅中心のタワー「レジデンスB」は準大手ゼネコンの三井住友建設がまだ工事中だ。2023年3月末の工期を2024年6月末に大幅延長したものの、再び延期する可能性も出てきた。さらに、三井住友建設が設計・施工を請け負う、住友不動産と京王電鉄が開発する都内の大規模マンションでも、工事が止まっていることが判明した。(ダイヤモンドオンライン 井出豪彦)

 

2023年12月29日金曜日

「沖縄を馬鹿にするなよ!」繰り返された国と沖縄県の法廷闘争、民意置き去り 苦悩の歴史【報道特集】; 玉城知事 「何が沖縄県民の公益かの判断は、国が押し付けるものではなく、沖縄県民が示す民意こそが公益とされなければなりません」 / [社説]対話せず代執行に頼った国は反省せよ — 日本経済新聞 / 令和の琉球処分 代執行。  国交大臣が沖縄県の許可権限を奪い、名護市辺野古の埋立てを進める。日本初の強権発動となる。この手法を使えば、国は地元が反対する公共工事を強行できる。地方自治が死んだ。… — 屋良朝博 / 「対話したら何か変わるのか」問答無用で辺野古工事「代執行」を決めた政府 岸田首相の「聞く力」とは(東京) / 県「新たな屈辱の日」と憤り 政府「粛々と」 問題を矮小化 辺野古代執行(琉球新報) / 問いには答えず、「対話で解決」を放棄した政府 辺野古代執行(毎日) / 国策 自治踏み破る 反対の民意 無視 国対峙の首長経験者証言(沖縄タイムス)    



 

ホントにデタラメな維新、吉村洋文さん → 吉村洋文知事が絶賛する「5mで1億円」の大阪万博リング 大半は接着剤で貼り合わせた集成材(AERA);「木材も国産檜(ヒノキ)や福島県の杉を使っていると言いますが、使っているのは縦と横の梁(はり)など一部だけ。大半は、細い木を接着剤で貼り合わせて圧縮したフィンランド製の集成材で、国内の林業振興にもなっていません。」 / 「日本の恥さらし」大阪万博344億円木造リング、伝統的貫工法のはずが「釘もボルトも活用」…吉村知事らの「弁明」に呆れ声(FLASH)      



 

政治資金の不正を公開情報から解き明かしてみませんか?あなたもできる調査報道マニュアル|NHK取材ノート

 

「年が越せない」という悲痛な声、生活保護引き下げを主導した自民党の世耕参院幹事長の1000万円キックバック疑いと辞任(雨宮処凛);「そんな自民党で、生活保護に関するプロジェクトチームの座長をつとめたのが、現在、疑惑の渦中にいる世耕弘成氏(12月19日、世耕氏は参院幹事長を辞任)。当時、世耕氏は生活保護利用者の「フルスペックの人権」を制限するような発言をしたことでも有名である。 そうして実際に生活保護費は引き下げられ、その影響は10年以上にわたって当事者を今も苦しめている。」    

トランプ氏、メーン州でも立候補の資格認められず 州務庁官が判断(朝日) / トランプ氏、米大統領選のコロラド州予備選に出馬資格なし 州最高裁 ; 来年の米大統領選への立候補を表明している共和党のトランプ前大統領について、コロラド州最高裁は19日、党の指名候補を争う同州の予備選への出馬資格がないとする判断を下した(朝日新聞) / 2024年合衆国大統領選挙で、コロラド州最高裁はトランプ前大統領を候補者として認めないと判決。1月6日議会襲撃事件で果たした役割により、合衆国憲法修正14条が定める反乱者の公職禁止が適用されると判断。同州の投票用紙から排除されることになった。            

 

===========================

 



 

2023年12月28日木曜日

【民族浄化】 南アフリカ、イスラエルが「ジェノサイド行為」と国際司法裁に訴え(BBC) / 「ガザ北部はもう存在していない。言語を絶する犯罪行為」(動画) / エルドアン氏 イスラエル首相とヒトラー「違いはない」 非難の応酬(朝日) / 国連専門家、ガザ侵攻に警告 「民族浄化に相当」(日経)   

意味不明! 自分でもナニ言ってるか分かってないんじゃないか? → 【大阪・関西万博】運営費が赤字になったら…「国は万博協会が負担すると言っているが、それは違う」と吉村知事 どこが負担するかは明言せず「税で負担となると計画がずさんになる」(関西テレビ)

西村前経産相を任意聴取 安倍派裏金事件 幹部ら、不記載の関与否定(朝日) / 狭まる西村前経産相「包囲網」…自民裏金捜査“聴取のオーラス”に選ばれたこれだけの理由(日刊ゲンダイ) / 安倍派幹部、裏金還流把握か 22年、廃止決定後に撤回 パー券事件(朝日); 事務総長(西村前経産相)らの協議で廃止を決めたが、所属議員の反発や安倍氏急逝で撤回され、西村氏を継いだ高木氏の下で還流実施。 / 西村康稔前経産相(61)が溺れた“黒ビキニ秘書官”とコネクティング外遊《安倍派裏金、架空パーティに続く重大疑惑》(週刊文春 有料記事) / 《架空パーティー報道》西村康稔経産相、数百万円ボロ儲けのパーティー会場は「2時間2.4万円の会議室」だった 本人は灘から東大のエリート気質(NEWSポストセブン) / 「架空パーティー。すごいの来た」西村康稔経産相に〝文春砲〟10人足らずの茶話会で儲けは1回数百万…「これはあまりにひどい」ネット上でも怒りの声(中日スポーツ) / 《安倍派幹部に新疑惑》西村康稔経産相が捜査中に「架空パーティ」を開催していた!《儲けは1回数百万、経産官僚をサクラに…》(文春オンライン) ; 会場はコの字型に机が並べられただけの会議室 経産省職員をサクラとして使用 企業が献金できるのは政党とその政治資金団体のみ   

 

=========================================

 



 

2023年12月27日水曜日

本当にアカン政党ですね! → 大阪維新の会、ハラスメント5件 詳細明らかにせず、厳重注意に | 2023/12/26 - 共同通信 / 維新元府議団長・笹川理のパワハラ・性的要求事案を受け実施のハラスメント調査。 調査開始から半年以上経過の後、件数のみ発表し他は隠蔽、、、、

パー券不正疑惑は麻生派にも拡大 麻生副総裁に続き棚橋、森衆院議員も刑事告発 「強制捜査し裏帳簿の押収を」と専門家 (アジアプレス) ; 「政治団体「志公会」(以下、麻生派)が2018年以降、多額の政治資金パーティ券収入があったにも関わらずその明細を政治資金収支報告書(以下、収支報告書)に記載しなかったとして今年1月に刑事告発されていた事件で、新たに不記載が見つかったとして追加の刑事告発状が12月25日に東京地検宛てに出されたことが分かった。また、麻生派の事務総長を務めていた棚橋泰文衆議院議員、森英介衆議院議員も追加告発され、麻生派で告発されたのは麻生太郎自民党副総裁をはじめ、5人となった。(フリージャーナリスト・鈴木祐太)」

大阪万博、お金も企画も全崩壊やん! → 大阪万博の目玉に「月の石」再浮上の呆れた懐古趣味…北九州で無料で見れるやん! ; 大阪・関西万博 の目玉展示に「月の石」が再浮上。前回の大阪万博と同じ展示を持ち出すとは何という懐古趣味。そもそも万博チケット代7500円(会期中販売、1日券)を払わずとも、国内2カ所の博物館で常設展示されており、格安で見学できます(日刊ゲンダイ)   

 

マイナ保険証、11月時点の利用率4.34% 7カ月連続で低下 ; マイナンバーカードと健康保険証が一体になった「マイナ保険証」の利用率が11月時点で4・34%だったことがわかった。厚生労働省が27日公表した。 — 朝日新聞   

「スナックやキャバクラで会議、パーティざんまい」コンパニオン料が10万円、小池百合子の花代は約208万円…自民党5派閥パー券明細不記載を告発し検察に裏金捜査をさせた執念の男が語る「セコすぎる政治資金流用疑惑」; 政治資金オンブズマンの上脇博之代表は「政治とカネ」を告発し続け100件超。「自民党の5派閥の政治資金パーティーの収入明細不記載」を告発し裏金捜査のきっかけをつくった人物だ。長年、政治資金収支報告書をチェックするなかで、スルーせざるを得ない政治家のセコい政治資金流用疑惑について聞いた。(集英社オンライン)

 

安倍派幹部5人 派閥の政治資金収支報告書 不記載への関与否定(NHK);「ノルマを超えた金額が還付されていることは知っていたが、パーティー収入の一部が派閥側の収支報告書に記載されていないことは知らなかった」などと話している

 

〈100年前の世界167〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉔) 松下竜一『久さん伝』より 大正14(1925)年9月~昭和3(1928)年2月 和田久太郎、秋田刑務所独房において和田久太郎自裁。縊死。満35歳になったばかり。  

 

旧秋田刑務所正門

〈100年前の世界166〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉓) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年12月~大正14(1925)年9月 和田久太郎無期懲役(村木源次郎獄死、古田大次郎死刑) より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉔) 

松下竜一『久さん伝』より 


大正14(1925)年9月

9月19日、和田久太郎は市ヶ谷刑務所を出て、翌20日夜、秋田刑務所に着いた。

21日、和田は刑務所の運動場で北国の秋天を仰いで、その感慨を句にとどめている。


死ぬ迄の赤い衣か彼岸暗


11月6日、ようやく和田の所在を知った近藤憲二と望月桂が秋田刑務所を訪れた。

秋田駅から約2km郊外に刑務所はあった。横ざまに吹きつける霰(あられ)が音を立ててはじける刑務所の高塀を仰ぎ、近藤も望月も地の果てにきたような暗い思いに沈んだ。

しかし金網越しに会う和田は、柿色のぶくぶくした綿入れを着込んで、少し肥っているようにみえた。身体の調子のいいことを告げてから、和田が尋ねた。

「僕がここにきてからいちばん心配になっているのは古田君のことだ。どうなったろうか?」

二人がその問いに答えようとする前に、立合いの看守長が慌てて、「その話はいけない」とさえぎった。しかし、二人の無言の表情から和田は答を読みとったようであった。

近藤憲二は『労働運動』誌上での、古田大次郎の刑死と、秋田刑務所での和田との面会を報告した文章を、次のように結ぶ。


古田君は絞首台の上に倒れた。和田君は其の生涯を秋田の牢獄に送ろうとしている。僕等はそれを忘れない。古田君の首に残った紫色の紐(ひも)跡 - 。網笠をとって振り返った和田君の姿 - 。僕等はそれを忘れない。


刑務所から出す書信は2ヵ月に一度と制約されていて、家族相手にしか宥されぬので、中村しげ(望月福子の妹)を形式上和田の内縁の妻という届けにして、いっさいの書信のやりとりは、しげを通すことに定めた。

12月13日、和田の中村しげ子宛ての第一信が宥された。第一信で和田が訴えているのは、北国の冬の厳しさである。此の年はまだ積雪はみないが、毎日毎日風と霙(みぞれ)と霰が吹き荒れ、獄窓に仰ぐ空の暗さにめいっている。房内の気温は華氏13度というから、摂氏では零下10度である。もちろん、暖房具はない。

1926(大正15)年4月11日、第二信が宥された。


屋根の雪とどろと落ちて揺るる陽や

空へひたと顔つけて春を讃(たた)えけり


和田の老いた母か病身な義兄のどちらかが面会に来たがっていることを、しげが伝えると、和田は、どうか二人とも止めてくれと、彼女に頼んでいる。和田は、1920(大正9)年に父の死をみとったとき以来、もう5年余母と会っていない。

房内に母の幻をみて句を作る。

老母を包む冬の光線の濁(にご)る塵(ちり)

また、この第二信に、〈鉄君がまだ生きているなら「笑って死ね」と伝えてくれ〉と和田は記しだが、中浜鉄は4月15日堺刑務所で刑死していた。

1926年(大正15)年5月15日、和田は読書と筆墨の許可を得る。入所から半年という計算でいけば3月下旬には宥されているはずで、2ヵ月近くも遅れたのは、和田の反抗的態度に対する懲罰であったのかもしれない。あるいは、労役ノルマを達成できなかったということもあるかもしれない。靴下の先かがりという単純作業であるが、和田の能率はあまりよくなかったらしい。

筆墨が宥された日、ここ8ヵ月間に作った句や歌で記憶にとどめていたものを、一気に書き並べ、夜は『乞食桃水』に読みふけった。

6月10日付の第三信は悲痛である。


僕からの手紙は、今後雑誌に決して発表しないでくれ。ただ是非とも『労運』にだけは発表せねはならぬ場合は、極く簡単な消息だけ抜き書きにして発表してくれ。でないと、今後僕の手紙や俳句などがそのまま世間へ発表さるれば、「受刑者に社会の雑誌の原稿は書かせぬ」という理由から、君との文通は「厳密に是非必要用件の外は書かせない」と申渡された。旬や歌は勿論、公子に童謡を書くこともいけなく、且つ一寸した感想にしても「原稿じみる」の一言で片づけられる。知っての通り、不平や不満は勿論書かされない。そうなれば、「僕は毎日嬉しく感謝に満ちて働いている。皆んなに変りはないか」と二ヵ月に一度書けばお終いだ。そんなものなら僕は書きたくない。手紙をやらねば皆んなが心配しよう、僕にも楽しみや慰安がなくなる。・・・こういう訳だ。そして、「決して雑誌へ大びらに発表せぬ」という誓いの下に、この手紙及び今後の通信が今まで通り出来ようというのだ。

そんな馬鹿な事があるかっ。和田もそんな腰抜けになったか!! 卑屈だ!! と嘲罵する者が若しあったら、和田は其の嘲罵を笑って甘受する、と答えてくれ。

君からの手紙も、いつでも可なり切り取られる。殊に今度の手紙は「社会の出来事を沢山書いてあるから不許にする筈だが・・・」とて渡された。君は何枚薯いたか知らぬが、僕の見たのは三枚だ。それに、二三行の切っ端が二つ三つくっつけてあった。それだけだ。あれに望月が九州へ行った事と、ルイズの事とが少々あったので、僕は破り棄てた先の手紙に「マコの様子を知らせ」と書いた。ところが、これもいけないのだそうだ。「大杉の子供の消息などは断じてならぬ」という所長の意見だそうだ。この時ばかりは僕も口惜し涙がこぼれた。僕が大杉の子供の消息を知っちゃいけない・・・。何んという事だろうと思った。


「マコの様子を知らせ」と書いたのが検閲にひっかかって返され、久太郎は怒って荒れた。

叱責されて4日後に全面的に書き直したのが、この悲病な手紙だった。手紙の後半にみられるのは、諦めのみである。もともと和田には一種の恬淡味があるが、この投げやりな諦めには、たんに恬淡とはいえぬ痛ましさがのぞいている。

が、だ。が・・・・・僕はこれもあきらめる事にしたよ。ウン、あきらめたよ。だから、大杉の子供の事も今後知らせてくれても無駄だ。見せられない。同志の消息なんか勿論駄目だ。時事問題も知りたくない。『人』(刑務所用の雑誌)と『新聞年鑑』で沢山だ。書いて来るのは止してくれ、無駄だ。君自身のことでも、今後は沢山書いて来てくれ。君のいろんな感想もよかろう。公っペいの悪戯ぶりや、望月が商売に精出さない、絵も書かない、そのグチもよかろう。世間の事でも地下鉄道が出来たの、尾上栄三郎が死んだのはよかろうじゃないか。庭の草花は今年はどうだい。待宵草も大きくなったかい。お地蔵さんはどんな顔をしているかい。・・・まあ、そんな事でも面白可笑しく書いて来てくれ。僕も亦、雀や燕のいたずら振りでも書こうよ。胸につかえたり、腹に溜ったりする事は、すっぱり忘れよう。・・・これが僕をして「短気を出さしめない、負け嫌いをつっぱらせない」何よりの薬だ。そして「忘」と「無為」の妙味を説く禅書にでも親しみながら、けり、かな、とやっていよう。

同志との交渉を強制的に断ったなら、それで和田の心がすっかり変る - 長い間には ー というのが刑務所の自信だ。僕はただ、これに対して「微笑」をもって答えるのみだ。

和田が獄中のノートに次のように書き記したのは、この手紙の直後であったろうか。〈「総べてに負くるは総てに勝つ事なり」という、奇妙な、しかし確かに一つの真理である事を最初に悟った人間は、負け嫌いな人間という動物中の、最も負け嫌いな奴だったに相通ない〉

仏書や禅書や俳書に読みふけりながら、和田は自らを殺して平静に生きようとする。獄中で再びめぐってきた9月1日にも、〈人の問わば秋の黄雲を指ささむ〉という禅問答めいた句を詠んだのみである。

11月4日の第6信では、たしかに自分も落ち着いてきたと書く。刑務所側も和田の安定を認めたのか、かねてから本人が希望していた久留米がすりの機織り作業を許可したが、しかしこれは20日しか続くかかった。慣れぬ仕事で体調をくずしたために、また靴下の先かがりという単純作業に戻らねはならなかった。

12月25日、昭和改元

1927(昭和2)年1月9日付けの手紙でも、和田は獄中での落ち着きを強調してみせる。


僕は最近徹底的に落着く事が出来るようになったように感ずる。外の事も大して気にしなくなったし、頭に詰め込んでいる生半熱な学問の片々など、すっかり捨ててしまいたいと思うようになった。その内に賞与金が溜ってくるから、年に二冊の本は買える事になる。だから本の事もそれで沢山だと思うようになった。一切の通信を断たれても、心静かに、落霜いて生きていられるという自信もついて来た。その点も決して心配してくれるな


裕仁践祚にょる恩赦で、無期懲役から20年の有期刑に減刑されたことも、予想外のことであっただけに和田に希望をもたらした。

4月には、近藤憲二の尽力で出版された『獄窓から』が届き、久太郎は感無量の思いで読みふけり落涙する。

5月11日には、中村しげが面会にきてくれた。彼女は『良寛和尚詩歌集』『一茶と良寛と芭蕉』『万葉全集』『万葉以後』と、『獄窓から』に寄せた芥川竜之介の批評の切抜きを持参していた。さらに、医師奥山伸からの伝言と10円の差し入れまで預かっていた。

芥川は東京日々新聞に寄せた書評のなかにこう書いている。


和田久太郎君は、この書簡の中に、君の心臓を現している。しかも社会運動家でも何でもないわれわれに近い心臓をあらわしている。僕はここに理性の力を云々しようとは思っていない。又和田君の心臓を云々しようとも思っていない。ただこの心臓の持ち主は、同時にまた唯物主義的に鋭い頭脳の持ち主だった。これは勿論和田君には悲劇的な矛盾である。しかし同時代に生まれ合あせたわれわれに共通する矛盾である。和田君はこの矛盾を持っているために必ずしも大を加えないかも知れない。けれどもとにかくわれわれには少からず親しみを加えるのである


こう書いた芥川が自殺するのは、このときから4ヵ月も経たぬ7月24日である。獄中の和田にもこのニースは知らされた。

〈地の下で虫の鳴く声をきかるるか〉と、芥川を悼む一句を残している。

どうやら平静な日々がつづくとみえた久太郎に、決定的な破局が訪れたのは9月である。

9月、平静な日々が続くとみえた和田久太郎に決定的な破局が訪れる。9月20日の手紙。


今から三カ月以後、囚人に対して私本を読ませる事が絶対に禁じられた。勿論当所だけというのではなく、全国一般なのである。が、私がこの事を聞いた時の失望と憤慨とがどんなに大きかったかは察してくれ給え。行刑局からの一般的達しとあれは、いくら当所長へ掛け合ったところで仕方のない話だとは思っても、残念さ口惜しさが胸先さへ込み上げてくる。私本が読めない位なら、暴れるだけ暴れて暴れ死んでやれ、というような自暴自棄的な考えが高まって来て、十八日から今日の昼まで暴れに暴れて、トンダ事をしてしまった。結局、明日私本全部をそちらへ送り返す事にしたのである。で、この手紙の着いてから間もなく、全部の本がそちらへ行き着く事と思う。

期間はまだ三ヵ月間ある。けれども、どうせ駄目なものなら、今からすっぱり思い切った方がよいと思うので、明日送り返す。これは君からの手紙にあったような、ひねくれ根性からでは毛頭ない。誤解せないようにしてくれ。


和田はけっきょくこの打撃から立ち直れなかった。

獄中ノートに残された最後の歌。


また誰か狂いゆくらしくろかねの窓の吹雪のひと日ひと日を

寂しさに狂える人をあざ笑う同じ囚徒の悲しくもあるか


1928(昭和3)年2月20日、秋田刑務所独房において和田久太郎自裁。縊死であった。満35歳になったばかり。


「大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉔) 松下竜一『久さん伝』より」終り


つづく



2023年12月26日火曜日

万博関連、デタラメが多すぎる! → 万博、博報堂が資格停止後も継続 五輪談合で処分(共同);「吉村洋文知事は「手が挙がらない結果、博報堂との契約継続はやむを得ない」と説明した。」 ← それでもダメでしょ。資格がないんですよ。 / 【万博】吉村知事、協賛金集めで入札停止企業と契約続けるも「やむを得ない」…建設費上ぶれでも「やむを得ない」いつだって逃げの一手(SmartFLASH)     

1人あたりの名目GDP日本は21位 イタリアに抜かれG7最下位に (朝日新聞デジタル)

 

〈100年前の世界166〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉓) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年12月~大正14(1925)年9月 和田久太郎無期懲役(村木源次郎獄死、古田大次郎死刑)   

 


〈100年前の世界165〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉒) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月29日~12月1日 獄中の和田久太郎 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉓) 

松下竜一『久さん伝』より 


大正13(1924)年 大正13(1924)年12月

魔子が送った童謡は、「労働運動」第6号(第4次、1924年12月1日発行)掲載の村木源次郎の短信にある。


童謡二ツ   大杉マコ

私ハ花ガ大スキヨ

チラチラチラト

チルカラヨ

ホントニ花ハ大スキヨ

花ガサク 花ガサク

ハルガキタカラ 花ガサク

風ガフクタビ

花ガチル


右は、先日、福岡にいるマコちゃんから、村木の源兄ィに見せるんだといって送って来た、童謡の中の二つであります。源兄イ同様に、マコちやん達の事を心配してゐて下さる諸君にお目にかけます。

マコちゃんは、今八つで二年生になってゐます。


この短信の載ったとき、村木源次郎はすでに獄中にあった。大杉らを虐殺した軍部に対し報復テロを実行し、失敗して捕えられた。

和田久太郎は12月、短歌をも詠み始めるが、それにも魔子を憶うやるせない感傷を托している。


しみじみと嬉しかりけり星一つかかるすき間の逢う瀬を思えば

キラキラと突いてやまぬ星一つ見飽かざりけり魔子や如何はと


「不思議な失策が却って辛(?)となり、先ず死刑だけは逃れそうな様子だ。が、監獄の中で長年に亙(わた)ってジリジリ死んで行く無期なんかは有難くないね。嫌やだね。有期で、そして確かに生きて出られそうな刑期なら受刑するが、無期の様なのなら、やはり死刑に願いたいものだと思っているよ。どうなるかなア。アハゝゝゝ。秋天高く月麗朗たり、さ」


事件直後の新聞予測では、せいぜい懲役4、5年ぐらいかということであったし、事件の筋もはっきりしているので、簡単に予審も終わるだろうと考えていたのに、久太郎は年末に沼判事から呼ばれ

「本年中に終わろうと思ったが、事件がこんがらかって、つい面白くなっていくものだから、やはり来年に延ばすことにした」

と告げられる。古田大次郎がかかわっているギロチン社事件とのからみのようであった。久太郎も覚悟を据えるしかない。


村木源次郎はこの獄中で病気が重くなり、翌1925(大正14)年1月22日に担架で労働運動社に返されてきたが回復することなく24日に息を引き取った。その日は、幸徳秋水らが処刑された大逆事件記念日でもあった。

和田久太郎が獄中で、悲痛な書簡を残している。


村木はあの体ですから、捕ったら駄目だとは思ってゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかったです。が、何んとも仕方ありませんでした。しかし、村木は村木らしく死にました。僕が思はず枕頭に涙を流したのを見て、彼は「泣いたつて……しょうが……あ、あるかッ」と切れ切れな言葉で僕を叱りました。そして、既に意識を失った死体同然の体を、タンカに乗せられて監獄を出て行きました。それは一月半ばの風の激しい、寒い闇の夜でした。


一味に対する判決は、暗殺未遂から1年後の1925(大正14)年9月10日で、古田大次郎は死刑(弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される)、和田久太郎は無期懲役、倉知啓司は懲役12年、新谷与一郎は懲役5年という重刑を宣告された。

未遂に終わった和田久太郎に対する無期懲役は過酷な重刑であった。大杉らを虐殺した甘粕は懲役10年の刑で、しかも在獄わずか2年10ヵ月でひそかに仮出所している。


つづく

2023年12月25日月曜日

稟議と決裁のプロセスどうなってたのか?、最終決裁者は誰か? → 資材キャンセルで十数億円負担か 万博パビリオン「タイプX」24棟分を先行発注も…採用は最大3ヵ国に(ABCニュース)

 

▼大和ハウス

 

保険証廃止を批判すれば「頭おかしい」、万博に反対すれば「変なヤツ」…堀江貴文氏、橋下徹氏の “強すぎる言葉” に「何の説得力もない」集まる批判(FLASH)

〈100年前の世界165〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉒) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月29日~12月1日 獄中の和田久太郎  

 


〈100年前の世界164〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 

松下竜一『久さん伝』より 


大正13(1924)年9月29日~12月1日

9月29日夕、村木源次郎・古田大次郎は市ケ谷刑務所へ護送。

古田大次郎『死の懺悔』の記述


門の外で僕たちは、縄につながれたまま、ゾロゾロと虱(しらみ)のように、自動車をおりて、水たまりをよけながら、門の内にはいっていった ー のでなくて、じつは引きずりこまれた。いま一歩で門の内というときに、僕はこれが裟婆の土の踏みおさめかとおもうと、妙に心細かった。さぞ、しょんぼりと、あわれ気に見られたことだろう。

僕たち一同はそれから、いい加減あちこち引き廻されたあと、奇怪な室につれてゆかれた。(このへんは、あまりくわしく書かない。刑務所の規則に違反するそうだから)。そこで僕たちは、裟婆で着ていた着物から猿またまできれいにぬきすてて、素裸となり、尻の穴まで検査されたあげく、うす汚ない青色の獄衣を着せられた。これで立派な囚人が一人出来あがったわけである。

村木君も、皆と同様の囚人姿になりすました。小男の村木君が、うすっぺらな青着物をつけたかっこうはいたいたしいほどにみすぼらしかった。しかし村木君は元気だった。すこしはかり顔がむくんだように見えたが、たいして弱ってもいなかった。頭はまるで百日かずらのようで、青白い顔に、無精ひげがボソボソとはえたさまは、昔の武士が、長らく閉門をおおせつけられていましたが、今日やっと許されました、といった体裁だった。二人は着物の襟にぬいつけられた、番号札をゆびさして笑いあった。

大分おそくなってから、僕たちは、点呼をうけて、めいめいの部屋に引きとられた。村木君は、蒲団を小脇にかかえて、「では失敬」といいすてたまま、階段をスタスタと上っていった。壮健な姿の村木君を見たのはじっにこれが最後だった。

9月11日付けの和田久太郎の堺利彦(和田より26歳年上)宛て手紙。

僕も、今年は非常に壮健です。殊に入獄してからは、地震以来の悩みがきれいに一掃されて謂ゆる真如の月とかを仰いだ様な心持でいます (中略)

目的は未遂に終ったが、それも今ではアハハァと哄笑して済ましています。一時は未練がましく残念がりましたが、もう其の事も何んでもなくなりました。元来僕は、貴殿の恬淡味を些か嘲笑して来たものですが、そして今でも矢張り多少はそう思っていますが、然し其の僕自身を省みる時、やはりそれが多分にある事を見出して苦笑に堪えません。お互いに悪く日本人臭い所がありますよ。呵々


和田久太郎の労働運動社に宛てた第一信。

敗軍の卒、兵を語らず、今更ら何をか言わんやだ。・・・・・生ける者に自由あれ!だ。

いろんな所へ、トンダ迷惑が行ってる事と思う。ただ御許しを乞うより仕方がない。僕が斯んなことをやろうとは誰も夢にも思っていなかったろう。しかし、僕としては当然すぎる程に当然な行動だよ

近藤憲二は、大杉門下の三羽烏と称される一番身近な同志でありながら、村木からも和田からも福田大将暗殺計画を打ち明けられなかった。村木も和田も、近藤が安成二郎とともにとりかかっている『大杉栄全集』(10巻)編集に専念し、一日も早い刊行を願った。

また、彼らの運動の拠点である新聞『労働運動』の発行を支える者として、近藤を無傷のまま残したということでもあった。三人のなかで、そういう実務能力を持つのは、近藤以外になかった。

『大杉栄全集』はこの2年後に完結するが、その最終配本となった第4巻の付記のなかで、安成は、「・・・・・殊に、この全集の仕事に没頭している間、近藤君は有らゆる運動から耐え忍んで遠ざかって来た」と書きとどめた。近藤憲二は、村木源次郎と和田久太郎の希いに、誠実に応えた。

事件の余波でほとんどの同志たちが検束され、それぞれに2週間から1ヵ月近い拘束を受けた影響で、月刊『労働運動』は一時休刊とならざるをえなかったが、ようやく再開した12月号に、和田久太郎の市ヶ谷刑務所からの来信が掲載されている。

             

馬鹿に暖かだったり、寒かったりするが、俺は全く壮健だ。毎朝、冷水でからだを拭くし、室も綺麗に掃除する。運動のために。感心なものだろう。 

而して禅学に耽り、座禅三昧に、毎日二三時間費しつつある。悠々閑々たりだ。監獄にも菊が咲き始めた。受刑者の衣の塵のようなトンボも盛んに飛ぶ。紫に匂う曙や、つづれの錦のように輝く夕雲を見たいなら入獄する事だね。裟婆にいると決して自然がこんなに綺麗に映らないよ。

例によって俳句を見せようか。

半旗など買いたり菊も匂う今日

煙突の中程見えて秋の晴

秋の蝶に乾く病舎の布団哉

長き夜や鼠が鳴けば鳩も鳴く

下駄の音は新入りか知らず虫の声


11月25日、和田久太郎の接見禁止が解除され、望月桂の妻福子は、幼い公子を連れて面会にいったらしく、12月1日付けの手紙で和田は面会の礼を述べている。

望月桂は、犀川凡太郎の筆名を持つアナキズム系の画家であり漫画家で、大杉との共著に『漫文画』がある。和田は家庭的雰囲気が恋しくなると、千駄木の望月の家に入り浸っていた。和田にとって、それがいかに深い慰めであったかは、獄中から望月に苑てて次のように書送っていることで分かる。


それからなァ、君の家庭の如き幸福な善良な人々には、殊に福子夫人の如き人には、余り心配させるような事はするなよ。第一線には俺の様な浮浪人が起つ。独身者に限る。君の様な人は陣の背後にあって補助的事業をやってくれ。傷つき倒れる者の病院になってくれ。これ亦大事業だ。最大必要事だ。


福子が幼い公子を連れて面会にきてくれたのが、久太郎にはよほど嬉しかったらしい。福子宛ての手紙に、キミちゃん宛てて〈コレヲ、カアサンヤ、ネーチャンニ、ヨンデモラッテクダサイ〉と但し書きした、おかしな童謡を書き添えている。


久、久、鼠

キュウ、キュウ、ネズミ

キュウオジサン

ネズミノヨウナ

ヒゲデキタ

オマンマタべテ

ホンヨンデ

トキドキ ソトラ

キョロ、キョロト

ココハ、カナアミ

オリノナカ

トキドキ ソトヲ

キョロ、キョロト


この「久、久、鼠」は、たぶん8歳になる大杉魔子がその頃書き送ってきた童謡を読んで、それに触発されて書いてみたくなったのかも知れぬ。

大杉栄と伊藤野枝の遺児たち-魔子、エマ、ルイズ、ネストルの四人は、野枝の里である福岡県糸島郡今宿村の祖父母に引きとられていったが、長女魔子はその後、野枝の叔父にあたる福岡市の代準介方に引きとられている。

和田たちは、できるだけ早く長女の魔子と長男のネストルを労働運動社還れ戻して、自分たちの手で育てたいと考えていたが、もういまとなってはそれも果たせぬ夢となった。薄倖のネストルは、その今橋で此の年の夏8月15日にわずか1歳で病没している。

福岡の魔子が村木の源兄いにみせるのだといって自作の童謡を近藤宛てに送ってきたとき、近藤は村木だけでなく和田にも、さらには『労働運動』誌上にまで披露した。

和田の近藤宛て手紙。


マコの童謡、嬉しく挿見した。花だの風だのと、もう大分、漢字さえ書ける様になったのだね、早いものだ。僕からは手紙を出さないでいるが、君からついでに宜敷言ってやってくれ。その内、僕も童謡を一つ書き送ってやろうかな。最後の時までに、都合がつけは一度マコの顔を見たいものだと思っている。淀橋以来、僕は会わないからねえ・・・・・。然し、来られないなら仕方がない。


魔子に書き送らなかった童謡を、公子に書いたというわけだろう。


つづく


2023年12月24日日曜日

京都、本州の補給拠点に 火薬庫、陸・海自衛隊共同使用―増設に102億円計上・防衛省予算(時事);「祝園分屯地がある精華町は京都、大阪、奈良の3府県にまたがる関西文化学術研究都市の中心地で、町内には多くの企業の研究施設や国立国会図書館関西館が立地する。分屯地近くでも企業誘致計画が進められており、大規模な火薬庫増設は地元の反発を招く可能性もある。」    

〈100年前の世界164〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される   

 


〈100年前の世界163〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 松下竜一『久さん伝』より 和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか? より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 

松下竜一『久さん伝』より


大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される 

9月2日夕、和田久太郎は市ヶ谷刑務所に移管される。

村木と古田は蛇窪の隠れ家でいたたまれぬ思いに駆られていた。すぐにも単身で第二の暗殺計画をはかろうと焦る村木を、古田が止めた。一緒に協力するから16日まで得てという。

もともと、福田大将暗殺計画は大杉直系の村木源次郎・和田久太郎の策したもので、ギロチン社という別グループに属する古田大次郎は、爆弾などの武器調達で相談を受けたに過ぎない。だから9月1日も、古田自身は何の武器も驚せずに小石川ロでの見張り役をつとめた。

村木も、古田が協力してくれるなら16日まで待つことに異存はなかった。指名手配されている村木よりも古田のほうが動きやすかったし、病身な村木にしてみれば、若い古田が頼りだった。このとき村木は34歳、古田は24歳。

9月16日と定めたのには、1年前のこの日に大杉・野枝・甥の橘宗一少年が虐殺された日だからである。その16日に、村木は爆弾を抱いて福田の家に飛び込む計画を立て、古田もその日を村木との訣れの日として覚悟していた。

しかし、照準を9月16日に定めながら、それまでを無為に待つのが、若い古田には耐えられなかった。

9月3日夜、古田は和田久太郎を逮捕した本富士署の裏門から忍び込んで、窓から爆弾を投げ込んだ。点火が不十分であったのか、それは不発に終わった。

つづいて9月6日、ダイナマイト1本を仕込んだ爆弾を菓子箱に偽装した小包みに造り、偽りの差出名で福田大将宅に速達便で送りつけた。小包はこの日午後3時20分頃配達され、たまたま嫁ぎ先から帰っていた長女シノが小包みを開いた。

カチッと音がしてスーッと白煙があがったとき、彼女はとっさに危険を察知し、その場に菓子箱を投げ棄てて隣室へと逃げ込んだ。同時に大音響を発して爆発が起こり、茶の間の床板や天井板を打ち抜いたが、人身被害には至らなかった。この日、福田大将は出張中であった。

この事件は新聞記事差し止めとなって、世間には洩れなかった。風邪で寝ている村木がくやしがって、

「こりゃあ今度は、大勢の前でやって、どうしても隠せないようにしてやるのだな」

と言ったとき、古田はごく気軽な思いつきのように、

「そうだね。じゃあ一つ、汽車をひっくりかえしてやろうか」と応じた。

古田は下調べのあと鶴見川の鉄橋にダイナマイトをー本仕掛けた。汽車は通過したが、なぜか爆発は起こらなかったので、ダイナマイトを回収して帰った。

さら9月8日夜、古田は銀座4丁目の電車軌道にダイナマイト一本を仕掛けて電車に轢かせた。今度は大音響と黒煙をあげて爆発し、銀ブラ連を驚かせたが、電車にも人間にも実害は及ぼさなかった。逃げた位置でその大音響を耳たした瞬間、古田の身体はビグッとして固くこわばり、形容できぬほどの恐怖と悔恨が胸中に突き上げていた。彼は震える心をもつテロリストであった。

古田は、のちに獄中でこう書いている。


この銀座事件は、僕のやったいろいろの仕事の内で、一番悪戯(いあたずら)気分に満ち、不真面目な、そして「性質」の悪い仕葉と自分でも思い、他人も思っている。殊に親父なんか「まるで悪魔の所業だ」と云って叱ったものだ。 

僕は、この言葉を泣きながら肯定した位、辛い切ない気特で、あの「悪戯」をやったのだ。

詳しい説明は今すまい。只、これだけ言っておく。大震当時、僕の同志に加えた民衆の無知なる迫害、僕はそれを忘れられない。僕等は彼等に抗議しなければならないのだ。

(『死刑囚の思い出』)


この爆弾事件は、「人出盛の銀座で電車の大爆音、黒煙立昇りり大騒ぎしたが電車も軌道も無事で原因も判らぬ」と報じられて、いっこうに彼らの「抗議」とは結びつけられなかったので、二人はかえって苛立った。

いっそ今度は警視庁を灰にしてやろうかという相談をして、古田が下見に出かけ、村木が放火用の爆弾をつくった。

しかし、すでに警視庁は、一連の爆弾事件を関連づけて、網を絞ってきていた。

9月9日夜、平塚村上蛇窪五三二番地の鳥貞尚名義の隠れ家は、警視庁の網に包囲された。アジトには爆弾も拳銃もあると知って、踏み込む刑事たちは酒盛りをして酔いの勢いで繰り出していた。隠れ家の内では、それとは露知らぬ村木と古田がのんびりと文学論を交わしていた。                     

9月10日未明、「電報です」の声に、古田が戸をあげたところを、ぐいと手を掴まれて外に引っ張り出され、あっけなく組み伏せられた。間髪をおかず雨戸を蹴破ってなだれこんだ刑事たちは、蚊帳の釣り手を切り落として村木を袋の鼠とした。それでも村木はいったん拳銃を構えたが、発射はせずに観念した。             

「十六日まで待つのではなかったに1という村木の思わず洩らした痛恨の呟きを、傍らの刑事が聞きとめた。

上蛇窪のアジトを自白したのは、拷問に屈した和田久太郎であったと推測できるが、逮捕され古田は、少しも和田を疑っていないばかりか、むしろ獄中で次のよう詫びている。

「村木君和田君にも、僕は許して貰わなけれならない。それは蛇窪の隠れ家があのようにやすやすと警察に察知されたのは、撲たちの日常の注意が足りなかったからである」(『死の懺悔』)

さらに連累として、9月29日大阪で倉地啓司が捕まり、12月5日に京都で新谷与一郎が捕えられた。いずれも爆弾製作にかかわった一味としてで、倉地・古田とともにギロチン社に属していた。


つづく

2023年12月23日土曜日

安倍晋三元首相の政治資金をゴッソリ継承…これが許される「世襲優遇」の仕組み 国会で問われた岸田首相は(東京);〈政党交付金の国庫返納もなく、無税で政治資金を「相続」〉  〈政治資金収支報告書によると、安倍元首相が亡くなった後の昨年7月〜今年1月、晋和会に五つの関連政治団体から総額計約2億1470万円が寄付の形で移され、このうち1億6434万円は5回にわたり、税金を原資とする政党交付金を受ける第4支部から受けていた〉  

 



 

「平和破壊する道」「鍋の底抜けた感覚」 殺傷兵器輸出に相次ぐ批判 ; 「殺傷能力のある武器」の輸出解禁に踏み切った。「平和主義」の看板が揺らぐ判断に、紛争地で平和活動に取り組んできた人たちやジャーナリストからは批判や懸念の声が相次いだ。 — 朝日新聞 / 「殺傷能力ある武器」輸出解禁、自衛隊「パトリオット」を早速アメリカに 国会で議論ないまま「三原則」改定(東京)      



 

〈100年前の世界163〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 松下竜一『久さん伝』より 和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか? 

 

布施辰治

〈100年前の世界162〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年9月1日 和田久太郎、福田雅太郎大将狙撃に失敗 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 

松下竜一『久さん伝』より


至近距離で発射しながら、和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか。  

予審決定書では、

「久太郎は此機に乗じて同大将の身辺に迫り所持の拳銃を以て其背部を狙撃したるも偶々第一弾は空弾にして第二弾は故障に因り発射せざりし為め僅かに同大将の背部に一銭銅貨大の火傷を被らしめたるに止り遂に暗殺の目的を遂げるに至らず」

と簡記されているに過ぎない。

新聞は、和田が使用した拳銃はかなり旧式の五連発銃で、第一弾以外は実弾が装填されていたと報じている。

銃弾は雷管と薬莢と弾丸部から成っていて、拳銃の撃鉄が雷管を強打することで薬莢内の火薬が爆発し、先端の弾丸を発射させる。

ところが、この弾丸部分が紙や木で擬装された銃弾があって、これは空弾あるいは空包と呼ばれ、一見して実包と見分けがつきにくいが重さが違う。この空包で撃てば、轟音を発して薬莢葉肉の火薬は爆発するが、弾丸は飛び出さない。したがって、拳銃を撃つときの反動の衝撃に慣れるための練習などに使われたりする。

和田が使用した廻転式拳銃では、なぜか第一弾だけが空包で、あとは実包が装填されていたことになる。

その空包で福田大将が小さな火傷を負ったのは、薬莢の火薬が爆発し、熱いガスが走ったためで、和田が背に銃口を押しつけるようにして引金を引いたからである。

明治大学図書館に収蔵されている、この事件の弁護を担当した布施辰治弁護士の記録を見てみる。

拳銃の出所については、村木源次郎が弾丸とともに和田に貸したとを供述している。

村木は二艇の拳銃を所持していて、その一挺は1920(大正9)年頃、原敬首相の暗殺を企んだ折りに神戸の同志安谷寛一から買ったもので、これは福田大将狙撃の日に自らが携行していた。もう一挺は、この事件の年の5月に、東京日々の記者五十里幸太郎(29歳)から40円で買ったもので、それを和田に貸したという。

この拳銃は、山内恒身という青年が「シナノ何トカ事件ノ時使用サレタ記念品ダ」といって所持していたが、肺を病むこの山内青年が「これで自殺するんだ」というのか不安になって、五十里が預かったものという。

生前の和田を知る古河三樹松氏(大逆事件に連座して幸徳秋水らとともに処刑された古河力作の実弟)は、和田の拳銃は「あれは下谷のコーちゃんが村木に売ったものです」と明言する。「詩人くずれのような男」五十里幸太郎は、供述調書でみる原籍が東京下谷区茅町二丁目十番地となっている。「下谷のコーちゃん」である。

古河三樹松氏は、「あの事件のあとしばらくは、飲み屋などにコーちゃんが顔をみせると、皆からおまえのせいだと責められるんで、くさってましたよ」いい、仲間うちでは拳銃のいきさつは広く知られていたことになる。

調書の、検事の訊問に答える村木源次郎の部分。

問 弾丸ハ込メスニ渡シタノテアツタカ

答 ゾウダ、弾丸ハ紙へ包ンデ渡シタ然シ弾丸ノ込方ハ教へテヤリ込メテ見タリ取ツテ見タリシテ教へタ

問 弾丸ハ幾ツ渡シタノテアツタカ

答 十七八ダ

問 空弾ハナカツタカ

答 空弾ハナイト思フ

問 最初ノ一発ハ空弾ニシテ置ケト教へタノテハナカツタカ

答 ソウシタ事ハ云ハヌ

問 和田ハ勿論実弾ヲ込メタ様ニ云ツテイルノテアルカ実際ハ空弾テアツタ訳テアルカ什(ど)ウカ

答 普通ニ護身用トシテ持ツテイルノハ旧式ノモノハ安全機カナイカラ最初ノ一発ヲ空弾ニシテ置クノテアルカ然シ人ヲ対(う)ツ場合ニハ初メカラ実弾テヨイ訳テス私ハ最初ノ一発ハ空弾ニシテ置ケト云フ様ナ事ヲ話シタ事ハナイ・・・・

この調書によると、和田の撃った第一弾は空包で、その弾丸を装填したのは和田自身である。

押収された拳銃の検証結果にょれば、第一弾は薬莢のみが残り、第二弾の雷管には中央をはずれた一辺に撃針の当たった痕跡が残っているので、和田は第二弾の引金を引いたことが分かる。だが、拳銃が旧式のため引金と弾倉の廻転が一致せず、そのために不発に終ったと考えられる。残されている四発はいずれも実包であった。

では、和田は空包と知らずに弾を込めたのか、あるいは空包と知って込めのか?

後者だとすれば、和田は暗殺未遂をわざと演じてみせたということになる。当時も新聞には一部にこの狂言説が流れた。事件を売名行為と解釈するものだ。   

しかし、大がかりな準備を重ねて福田大将を狙い続けた経過に照らせば、狂言説は首肯できない。狂言を演じる意味がないうえに、その結果の犠牲はあまりにも大きい。

従って、結論は、和田が込めた第一弾は空包であり、和田はそれに気づかなかったということになる。のちに和田は獄中で、「命がけで打っ放すピストルの弾が空っぽだということを知らなかったほどの呆れ者」と、いくども自嘲しているが、その嘆きは痛切で演技臭は感じられない。

望月桂の証言。

事件発生の1日夜から2日にかけて、和田の周辺にいた者がつぎつぎに拘引され追及されているが(新聞によれは14人)、望月もその夜のうちに検束され芝の三田署に泊められ、翌朝には本富士署へ護送されて本格的な取調べを受けている。 

その本富士署で、便所へ行った帰りの廊下で、望月は調べから帰ってくる和田とばったり出遇った。                                 

和田が小声で「どうだった?」と聞くので、望月が頭を横に振ってみせると、「畜生!」と唇を噛んで留置場へ入っていったという。和田は、事件の翌日になっても自分の狙撃結果を確認でさすにいた。


つづく


2023年12月22日金曜日

「ワンワンと・・・」 二階氏の人柄がよくわかる → 「大臣になりたい時はワンワンと…」 二階氏激怒、自見氏の退会拒否(朝日); 自見大臣の退会申し出に二階氏が激怒 「大臣になりたい時は『ワンワン』と言っておいて。礼儀を知らない」。「『大臣はそのまま、派閥は離脱』はおかしい」

 

田中真紀子 「岸田さんはまるで下手な手品師。何回やってもダメなのでお客さんが席を立って帰り始めているのに、『次こそうまくやりますから』と、失敗する手品を平気で国民に見せ続けているようなものです」 「私が申し上げたいことは、嫌でも野党に投票するしかない。 何年も保たないで代わるかもしれない。でもそうやって有権者が政党をつくる、政治家を鍛え、野党を鍛える。そういう努力を有権者が示して政権を獲らせるんです」  



 

「安倍派」なぜゆがんだ? 福田赳夫氏の清く正しい理念どこへ(毎日);「当時、福田派の若手だった森喜朗元首相の著書によると、森氏は車の中で福田氏に「田中派から相当なカネが流れたという話があります。こっちもドンと積んだらどうでしょうか」と進言した。  すると、福田氏は「おい、車を止めろ。不愉快だ。君はここで車を降りろ。君は総理大臣の椅子をカネで買えと言うのか。有望な青年だと思って目をかけてきたが、そんな汚らわしいことを口にするなら出て行け」と「すごい剣幕(けんまく)」で激怒したという。  森氏は「申し訳ありません。失礼しました」と謝罪。「危うく破門になるところだった」と振り返っている。」   

 

〈100年前の世界162〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年9月1日 和田久太郎、福田雅太郎大将狙撃に失敗   


燕楽軒

〈100年前の世界161〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年7月 ギロチン社の爆弾試験 9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 

松下竜一『久さん伝』より


1924(大正13)年9月1日 和田久太郎の福田雅太郎大将狙撃失敗

和田久太郎の福田雅太郎大将狙撃失敗のその日(9月1日)、本郷区駒込片町の労働運動社が警察隊に急襲された。

近藤憲二は、その日の午後、2時間かかって青桐の枝おろしをすませ、浴衣に着かえ縁に立って明るくなった枝を見上げているとき、表と裏からどっとなだれこんできた警官たちに、いきなり連行された(『一無政府主義者の回想』)。

午後6時半頃に和田久太郎が逮捕されてからほとんど時を置かぬ警察の迅速行動であった。警視庁は労働運動社の村木源次郎を和田の共犯者とみて、緊急手配を布いた。

警察は、この日午後3時頃、労働運動社を出る村木をみかけながら、尾行をつけなかったという失態を演じていた。この日、浴衣がけの村木が出ていくのに、「村木さん、どちらへ?」と、尾行巡査が声をかけた。

「なに、天下の形勢はどうかと思ってね」

散歩にでも出るようなのんびりした答が返ってきて、つい尾行はついていかなかった。実はこの時、村木は懐に5連発の拳銃をしのばせていたが、同志たちでさえ「ご隠居」と呼ばれている彼の、いつもながらのものうい静けさに尾行は欺かれた。

この日、襲撃側は三重の網(本郷口に和田、小石川口に古田、長泉寺(会場)に村木)を張っていた。

会場の長泉寺のある菊坂町に車で到るには、本郷口と小石川口からの二つの進入口がある。福田の車のくるのは、たぶん燕楽軒のある本郷口からと考えて、そこを曲がる自動車に和田が爆弾を投げ込むというのが、必殺の第一計画であった。

ただ、もう一つ小石川ロから菊坂を登る道があるので、そちらをくるとは思われなかったが、念のため古田大次郎が見張りに立った。和田の失敗に備えて、会場である長泉寺に拳銃を持って待機したのが、村木である。  

予想通り、福田を乗せた車は、和田がいる本郷口のほうへきた。しかし、車は菊坂町へと曲がらずに、予想外にも燕楽軒前で止まり福田が降り立った。和田はすっかり慌てたらしく、最初の策であった爆弾投擲を忘れて、近接して拳銃で狙撃してしまった。失敗して逃走しようとする和田が現場に投げ棄てた女物の手提げ袋には、短刀一ふりと自動発火式爆弾一個が遺されていた。

村木は会場で待っていたが、一人の男が飛び込んできて「大変だ、大変だ」と叫んだので、さてはと思い飛び出していった。燕楽軒の角までの、軽い登り坂を約250m駆けつけてみると、燕楽軒周辺はすでに厳重な警戒で、何がどうなっているのかわからない。そのうちに警官が増えて、彼自身危険を感じたので、そのまま一人で古田の隠れ家となっている、平塚村上蛇窪(現在・東京都品川区)の家に引き揚げた。

夜10時すぎ、古田が帰ってきた。このときはまだ詳細はつかめなかった。

遅くなって出た号外で、ようやく二人は和田が逮捕されたことを確認した。福田大将は負傷したが「生命に別状はなき見込」とあるのをみて、村木はかえって喜んだ。これは当局が真相を伏せているので、和田の撃った弾は福田の体内に入っているに違いないと信じた。

和田自身もまたそう信じていた。

東京朝日の記事が報じている。

本富士署に引致された和田久太郎は係官から与へられた弁当をパクツキ、煙草を吹かしながら取調べに対して豪然たる態度を示してゐるが、本人はピストルが空砲であったことは知らず、従って福田大将は即死したものと思ひ込み、「これで大杉君も地下で喜こんでゐるたらう、確かに手ごたへがあった」と云ってゐる。


実際は、福田大将は燕楽軒楼上で、詰めかけた記者団などを前に褌姿で仁王立ちになり、背中の小さな火傷を調べてもらったあと、やや遅れて9時10分から20分間、予定通りの講演をすませた。

つづく

2023年12月21日木曜日

東京電力社長「仕組みよりも魂を入れる」 原子力規制委に「テロ対策」説明 柏崎刈羽は「運転禁止」解除へ / しどろもどろ…小早川智明・東京電力社長が答えあぐねたシンプルな質問 いつも「主体性」は言葉だけ:東京新聞 / 東京電力・柏崎刈羽原発“事実上の運転禁止命令”解除の方針決定 原子力規制委員長「ここから改善していくという決意が見られた」 | TBS        

 

ガザ地区における死者数が2万人を超えた。ガザ保健省発表。「信頼できる数字」とWHO。ガザ人口のほぼ1%。1日あたり300人近くが命を奪われるという異例さ。 大半が民間人とみられる。亡くなった子どもは8千人以上。医療従事者310人、報道関係者97人も殺害されたという。(藤原学思)   

 

イスラエル軍の狙撃兵、ガザの教会にいた母と娘を「冷酷に」射殺 | ローマ教皇も「無差別攻撃」を非難(クーリエ・ジャポン);「ビラを投下して住民に警告すれば、その後はこれらの地域を自由射撃区域として扱うことができるという(イスラエル軍の)構造的なルールが、民間人の死者をこれほど多く出している一因だ」

 

〈100年前の世界161〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年7月 ギロチン社の爆弾試験 9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗    

 

和田久太郎(アナキストの漫画家望月桂の作)

〈100年前の世界160〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑰) 松下竜一『久さん伝』より 11月頃、中浜鉄、村木源次郎・和田久太郎に復讐決行を迫る 武器調達のため朝鮮に渡るがこれに失敗 翌年5月頃、労働運動社から離れて行く より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 

松下竜一『久さん伝』より


1924(大正13)年7月 ギロチン社古田・倉地の爆弾試験

924(大正13)年7月19日、ギロチン社の古田と倉地が、東京市下谷区谷中の共同便所で最初の爆弾を試験爆発させ、28日には青山基地でも爆発させている。

労連社を離れた和田久太郎は、読売新聞社に勤める宮崎光男の新築の家(屋根が彩色されていたので、通称アメチョコハウスと呼ばれた)へ転がり込んだ。厳密には、宮崎が夏のあいだ九州の実家へいくので、望月桂の一家が留守を頼まれて吉祥寺の安養寺裏にあるアメチョコハウスに移ってきて、その望月家に和田は転がり込んだ。

和田は、千駄木にある望月家が好きで、労連社でも和田が見えないと、また千駄木だろうと言われるくらいに、この家庭に甘えていた。

アメチョコハウスに移ってからも、和田は、夕方になると女の所に行くといって家を出た。望月は首をかしげたが、和田の行先は蛇窪の古田の隠れ家であった。

一方、村木源次郎は労連社にとどまっている。彼らの打ち合わせは、労連社から遠くない本郷肴町にある軽食堂南天堂で行われた。

8月10日から、村木と和田が代々木山谷の福田大将の自宅を見張り始めた。朝夕2時間ずつ家の近くに立ち、福田宅の出入りを監祝して、隙あれば狙撃しようというのだ。二人は懐に拳銃をしのばせていた。

が、数日して村木が古田のところにきて言う。

「だめだ。僕らにはとうてい気長に張っている根気がない。面倒だから、ひと思いにやっつけようと思うんだ。最初、家のなか爆弾を投げ込んでおいて、それから二人で爆弾を抱えて家へ飛び込もうという計画にした。二、三日中に爆弾を三つ造っておいてくれないか」

村木に頼まれて、古田と倉地は爆弾を用意して待ったが、村木は姿をみせなかった。実は、大杉の遺した唯一の男児ネストルが、引きとられていた野枝の里で病没したので、村木はその葬儀に駆け付けていた。

大杉が晩年心を寄せたロシアの無政府主義将軍ネストル・マフノにちなんで命名したこの子は、薄倖であった。生後2ヶ月足らずで両親と死別し、自らも僅か1年の短い生を終えたのだ。村木や和田の悲嘆は深く、それがいよいよ彼らを復讐のテロへと駆り立てた。

8月29日、村木・和田は、この日の東京朝日新聞を見て歓声を挙げた。震災1周年の9月1日、本郷菊坂の長泉寺で、福田雅太郎が講演するという。彼らは、9月1日に綿密な照準を合わせた。

和田久太郎はこの日(29日)夜、労連社を訪ねて一泊し、翌30日近藤憲二とともに外出し、31日夜、再び労連社に戻って入浴し、それから吉祥寺の宮崎の家に帰っていった。和田久太郎の、近藤や労連社とのひそかな別れの挨拶であっただろう。

9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗

関東大震災1周年、1924(大正13)年9月1日は、晴れて風もなく暑い一日であった。

復興途上の東京では、各所で法要や記念の震災展、講演会が催されたが、なかでも3万4千人の焼死者を出した本所被服廠跡での大法要には、すでに払暁から焼香の遺族が集まり始めて、午前7時にはもう混雑するほどであった。

銀座通りなど商店街も店の大戸をおろし、地震が襲った午前11時58分、一斉に鳴る工場や汽船の汽笛に合わせて、東京市民はそれぞれの場所で起立し2分間の黙祷を捧げた。そのあいだ、電車も自動車も動きを停めた。本所被服廠跡での大法要の参拝者は、この日だけで延べ40万人に達した。

震災時の戒厳司令官であった陸軍大将福田雅太郎は、この日午後6時から本郷区菊坂町の長泉寺での在郷軍人会主催の震災一周年記念講演会で講演をすることになっていた。

末曽有の震災で壊滅状態の東京には戒厳令が布かれ、全国からの兵の動員は19個師団に及び、一時は4万8千人が駐屯し、福田はその指揮系統の頂点に位置した。

「当時、吾輩も戒厳司令官をしていたのだから大いに思い出がある。とにかく震災当時難局を切り開いた軍隊の働きをみて、世間では軍隊の功労を賞めそやしておるが、吾輩をしていわしむれば、軍隊とはああしたもので、何も殊更に軍隊の功労といいたてるに当たらない。軍隊は褒貶の外に立ち困苦艱難して自立していくものであって、これが即ち軍隊の性質に外ならないのだ」

1年目の震災記念日を前にして、福田はこのような新聞談話を発表した。

この日夕刻、福田は迎えにきた菊坂町会会長石浦謙二郎大佐と副会長山根卓三郎とともに、府下代々木山谷の自邸を車で出発した。

午後6時をかなり過ぎた頃、長泉寺に近い本郷区四丁目の西洋料理店燕楽軒前まできたとき、一時小憩のため車を停めて、三人は車を降り立った。三人が燕楽軒の入口のほうへ歩きかけた瞬間、物陰から飛び出した一人の男が福田大将を背後から拳銃で狙撃するという事件が発生した。

東京朝日新聞(9月2日)が報じるその瞬間。


先づ石浦大佐が下車して福田大将を導き出さんとした際、突然附近の物陰から一人の怪漢飛出し、大将の背後僅に三尺位の所から、大将目蒐(めが)けて轟然ピストルを発射した。実に大将が下車して僅に数歩を運んだ刹那であった。その物音に驚いて大将は遽(にわか)に振向き、剣帯に手をかけたが、之より先石浦大佐は咄嗟に兇漢に飛附いて右腕を捻上げたので、山根氏は透(すか)さずピストルを捥(もぎ)ぎ取った。射撃された大将は幸ひにも空弾であったため、火薬のために背筋首下三寸の処の上衣とワイシャツ並に莫大小(メリヤス)シャツの三枚を一寸四分ばかり焼抜き命中部に梅干大の火傷を負うたに過ぎず、その儘燕楽軒の楼上に上り、附近勝島医師の手当を受けた。一方怪漢はピストルを奪はれるや逃走を企て電車線路を突き切って向ふ側に走ったところを、山根氏が追跡し左手で頭部を締め右手で両眼を打って、其場に倒すと、折柄見物中の群衆が寄ってたかって凶漢を打ちのめし、間もなく本富士署の清水・竹内・高行の三交通巡査其他二名の警官の手で犯人を引致した。


引致された小柄な男は、パナマ帽をかぶり、白絣に絽の羽織を着ていた。

この男の身元は、調べるまでもなくすぐに割れた。本郷区駒込片町十五番地、労働運動社内、無職和田久太郎(32歳)で、警視庁が常時尾行をつけて厳重な監視下に置く無政府主義の徒である。この時期、和田久太郎は駒込片町の労働運動社を出て、府下吉祥寺村の宮崎光男の新築の家へ居候しているが、この日は尾行を撒いていた。

狙撃者が、震災の混乱の中で憲兵大尉甘粕正彦によって虐殺された大杉栄の一味であると知って、警視庁は色めきたった。


つづく

2023年12月20日水曜日

「岸田内閣は店じまい内閣」 止まらぬ支持低下、ささやかれる退陣論(朝日) / 「次の総選挙、岸田総理では難しい」 小泉元首相ら会食、二階氏欠席(朝日) / 岸田氏は、18日は石原兄弟と会食、19日は広島県議会議長らと会食。なんか、寂しいネ / 岸田首相、裏金捜査の夜の『宴会はしご高級中華』報道にネット怒り「全てが他人ごとの自由民主党」(中日スポーツ)     

〈100年前の世界160〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑰) 松下竜一『久さん伝』より 11月頃、中浜鉄、村木源次郎・和田久太郎に復讐決行を迫る 武器調達のため朝鮮に渡るがこれに失敗 翌年5月頃、労働運動社から離れて行く

 


〈100年前の世界159〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑯) 松下竜一『久さん伝』より アナキスト結社ギロチン社の古田大次郎 小阪事件(10月16日) そして、古田は朝鮮に渡る(11月半ば) より続く

正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑰) 

松下竜一『久さん伝』より


11月頃、中浜鉄、村木源次郎・和田久太郎に大杉らの復讐決行を迫る

11月頃、中浜鉄が村木源次郎と和田久太郎に、虐殺された大杉らの復讐の決行を迫る場面を、江口渙は目撃者として『わが文学半生記』に記している。小阪事件によって追いつめられているギロチン社一党にしてみれば、肝腎の労運社がいっこうにテロを決行しそうにないことに苛立っていた。

「いくらいってやっても和田久のやつ、はっきりした返事をしないんだ。それに村木は村木で、そんなにあわてなくたっていいじゃないか。マコやルイズなど、あとに残った大杉の子供の始末をやってからだっておそくはないよ、なんて、のんきなことをいってやがって、あのクツ爺!!」

結局、中浜の強引さが二人を説き伏せ、両者のあいだに密約が纏まる。村木と和田による復讐計画を、ギロチン社が側面から助ける。そして、ギロチン社としては本来の目的である摂政裕仁を狙うという二つの暗殺計画である。その段階で、大杉の復讐の対象は、震災時の戒厳司令官、陸軍大将福田雅太郎と決定する。

古田・中浜・和田、武器調達のため朝鮮に渡る

古田大次郎が11月半ばに朝鮮に渡ったのも、しばらく国外に逃亡するという事情に加えて、武器調達とりわけ爆弾の入手が目的であった。

間もなく中浜も朝鮮に渡ったが、血を吐いたという中浜はひどくやつれて相貌も嶮しくなっていた。中浜も村木も和田も、病気に追いつめられている。古田は健康だが、殺人犯として官憲に追われている。彼らにはもう、引き返す途はないという悲愴な共通項がある。

朝鮮での武器の入手には、なお多額の金が足りないことが分かり、古田が村木の小父さん(彼はそう呼んでいた)に金策を頼むために、いったん帰国する。

1924(大正13)年1月末、和田が300円持ってきて、自分も一緒に朝鮮に渡るといった。

しかし、朝鮮での武器調達はさっぱりうまくいかない。村木に用意してもらった金も、買い付けにいった仲介者が途中で馬賊に襲われて奪われたといって帰ってくる。詐欺のようだ。古田は日本に戻って、江口に500円を作ってもらうが、それでも足りない。

3月、今度は中浜が金策に戻っていく。これが古田と中浜のこの世での別れとなる。

朝鮮での武器調達を諦める

中浜は、鐘紡社長武藤山治から大金をゆすりとることで、一挙に資金を得ようとして(これまでいくども鐘紡でのリャクが成功しているので)、大阪の鐘紡本社に乗り込んだ。通報を受けた警察はトラック一台の武装警官を派遣して中浜鉄(本名富岡誓)を逮捕する。外で見張りをしていた倉地はあやうくその場を逃れた。

中浜逮捕を知った古田は、もはや朝鮮での武器調達を諦めて帰国し、自分たちで爆弾の製造を開始する。ギロチン社の同志で、広島の水力電気発電所工事場で働いていた倉地啓司がダイナマイトと雷管を盗み出し、古田と倉地は平塚村大字蛇窪五百三十二番地(現在・東京都品川区)に隠れ家を借りて、ここで爆弾造りに専念する。

『労働運動』第3号(4月1日付け)に、和田は「野を焼く煙」という時評を書いている。ここで、和田は、真に目覚めた大衆の決起がないことに嘆息している。逆に支配階級の奸計のままに、大衆自身が社会主義者や朝鮮人を敵として追い廻した、あの震災時の衝撃が忘れられない。

〈けれども、此の人々の不安な気分や反抗精神は、いろんな迷行をたどりながらも、次第に行くべき所へ行きつつある。そして、其の流れの先頭には、光明を認め、目的地を発見した少数の団結体が、血に塗みれながら進みつつある〉

和田久太郎は社会変革の起爆剤として、先鋭的な労働組合運動を想定している。そこがギロチン社の中浜鉄や古田大次郎らと、大杉栄や和田久太郎との違いである。

中浜や古田は、摂政を頂点とする支配階級の要人たちをテロによって斃すことで、革命を起こせると信じている。

和田久太郎は、先鋭的な労働組合の直接行動、すなわち怠業や罷業により資本家を追いつめていく方向にしか革命はないとみている。和田久太郎はその頃主義者のあいだで盛んな普通選挙促進運動を、まったく信用していない。議会というものは、大衆の底辺から湧き起こる直接的な革命運動の気運をそらせるための、体制の安全弁に過ぎないとしかみていない。

その和田久太郎がテロを決行しようとしている。動機は、大杉たちの怨みを晴らしたいという衝動である。いまさら陸軍大将福田雅太郎を斃したところで、それが革命の導火線になりうるなどとは信じていない。だから、これはほとんど無意味なテロである。それを承知のうえで、和田久太郎はそれにのめりこんでいる。

4月の段階で和田久太郎はまだ『労働運動』編集にたずさわっているが、彼の署名入り原稿は、「野を焼く煙」が最後となった。

和田・村木は労働運動社から離れて行く

5月頃から彼は、出版社のアルスに勤め始め、この頃から労運社を離れていく。テロの計画を秘めた彼が、累を同志たちに及ぼさぬためのである。

村木と和田は、近藤憲二をこの計画の埒外に置くことを決めていた。『労働運動』を発行し、『大杉栄全集』を完成させ、大杉の遺児たちを見守る存在として、近藤だけは無傷に残さぬばならなかった。村木も和田もこの計画を近藤に打ち明けていない。

村木と和田は、労運社を離れ、同志たちとの連絡を断っていった。


つづく

自民2派閥 複数の議員側がノルマ超えの収入を派閥側に納入せず(NHK); 対価性などほとんど考慮せず、8割9割の利益率で荒稼ぎが目立つパーティーだが、その上どれだけの裏金を稼いできたというのか。まともに収支報告する意思など全く感じられない(山添拓)    

検察つかさどる二階派の法相、続投に疑義も 「首相の鈍感力すごい」(朝日) / 岸田総理、二階派2閣僚続投明言 党内からは「ギャグなのかと思った」安倍派と二階派の待遇の違いに注目【記者解説】(TBS) / >岸田内閣、二階派2人は大臣続投 問われる「安倍派一掃」との整合性(朝日)  

 

大阪万博中止でええやん → 万博整備費、想定上回る地盤対策 「底なし沼」「中止決断を」指摘も(毎日);「半年で更地になるイベントにこれだけのお金をつぎ込む価値があるのか」 「赤字になれば開催自治体の負担は免れないだろう。傷の浅いうちに中止を決断してほしい」



 

岸田首相“正念場”…対応協議へ 自民党・安倍派、二階派事務所に強制捜査(日テレ); 一方、安倍派内では「裏金作りは派閥主導というシナリオにし、最後は亡くなった安倍元首相や細田前議長に責任を押しつけたい」といった声も出ています

2023年12月19日火曜日

危機的自民党の政治改革は 派閥解消論も…「捜査見極める」(TBS);「官邸側からは『捜査を見極めないと、どこまでの改善をすべきか見えない。後出しじゃんけんの方がいい』などと慎重な声も」 ← 「どこまでバレるか見極めてから動こう」       

 

〈100年前の世界159〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑯) 松下竜一『久さん伝』より アナキスト結社ギロチン社の古田大次郎 小阪事件(10月16日) そして、古田は朝鮮に渡る(11月半ば)

 


〈100年前の世界158〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑮) 松下竜一『久さん伝』より 10月4日、ギロチン社による甘粕実弟襲撃未遂事件  12月16日、大杉、野枝、橘宗一の葬儀 遺骨を奪われる より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑯) 

松下竜一『久さん伝』より


アナキスト結社ギロチン社の古田大次郎 小阪事件(10月16日) そして、古田は朝鮮に渡る(11月半ば)

のちに和田久太郎・村木源次郎と結び付く古田大次郎。

古田は偶発的とはいえ殺人を犯す(小阪事件)。彼は、獄中で『死刑囚の思い出』・『死の懺悔』(ベストセラーになる)を書き遺すが、この二冊の遺著によって、彼の人柄・思想・行動が後世に伝えられることになった。

古田大次郎は東京の出身。1900(明治33)年元日に生まれで、震災の年には満23歳。彼は、早稲田大学英法科に入って間もなく、学校の図書館で幸徳秋水の『社会主義神髄』を読み社会主義に目覚める。間もなく民人同盟会に加わり、のちに北沢新次郎教授の指導する建設者同盟に移る。だが、彼はそこにはなじめなかった。

彼は、自身が知識階級の端くれに位置しながら、研究にも打ち込めず、さりとて労働者にもなれぬという曖昧さを悩みつづけ、やがて建設者同盟を出て、アナキストたちに近づいていく。

卒業問ぎわの大学をやめ、農村問題に取り組むため、二人の同志と小作人社を結成し、雑誌『小作人』を発行し始めたのは、1922(大正11)年2月上旬。社会主義者としては自立した活動の第一歩であった。

『労働運動』の小さな広告では、〈『小作人』(月刊)定価一部三銭 埼玉県南埼玉郡綾瀬村上蓮田 小作人社〉とある。

この蓮田の家へ、中浜鉄がひょっこりと立ち寄る。この中浜との出通いが、古田をテロリストの道を選ばせる。中浜は古田の人柄を信じて、重大計画(4月に来日する英国皇太子の暗殺、またあわよくば、摂政裕仁をもともに葬りたい)を打ち明け、古田はこれに同意する。

英国皇太子襲撃については、中浜は武器の入手が遅れて機会を逸してしまう。

このあと、古田は小作人社を解散して、中浜と二人で那須温泉に出かけた江口渙の借家に転がり込む。古田は拾った小猫をかわいがり、毎日本を読むか海岸を散歩するかで静かな日々を過ごす、中浜は精力的に諸方に出没して活動をつづげ、やがてギロチン社(テロによって現体制を転覆させることを目的とする虚無的結社)を結成する。

年が明けて、古田は東京に戻る。ギロチン社の一党は北千住に家を借りて、狭い家に7、8人がごろごろしていた。彼らは「会社廻り」(リャク)に精出していた。掠奪の「リャク」で、会社をゆすって金を出させることをいう。

しかし、本来、革命運動のための資金集めという大義名分であったが、いつしかそれは自分たちの口腹を肥やし、女遊びに蕩尽されるようになって、多くのアナキストを堕落させることになった。

しかし、古田だけはいつも留守番役でリャクには加わらず、仲間もそれをさせようとはしなかった。古田は彼らの遊興にも加わらなかった。

東京ではリャクをやり尽くしてしまった中浜たちは、本拠を大阪へと移す。このとき、江口の紹介状で有島武郎を訪ねた中浜は、大阪へ移るための資金をもらうが、それが有島の自殺の前日であったという秘話を、江口は記している。

関東大震災のときには、古田は大阪にいた。ギロチン社の一党は、ここでも会社廻りを中心とするリャクをつづけたが、次第に仲間内がすさんでいた。古田は憂慮し、思いつめ、ここで一挙に巨きな資金を強奪する計画(銀行襲撃)を同志たちにはかる。

彼はこの計画をロシア虚無党にならったと述べている。ロシア虚無党はその活動資金を得るためにあらゆる手段を当然のこととしたが、暮夜銀行を襲ったり、白昼に現金輸送車を襲ったりしている。革命的な行動の陰には、強盗の汚名を着た党員がいたのであり、古田は自分もそのような縁の下の「石」となろうとした。

1923(大正12)年10月16日、小阪事件と呼ばれる銀行出張所襲壁事件がおこる。

その日午後、古田は小川義雄、内田源太郎とともに、大阪府中河内郡布施村にある十五銀行小阪出張所附近に待ち伏せしていた。小西次郎は運搬役として、別の場所に自転車を用志して待機していた。下調べによって、夕刻になると現金が運び出されることをつかんでいた。

午後4時、二人の銀行員が、一人はカバンを一人はトランクを持って出てきた。踊り出た三人が立ちはだかり、まず目潰しを投げつけると、古田は脅しのために短刀を抜いて突きつけ、トランクを奪おうと手をかけた。

男は叫び声をあげながら、逆にトランクを胸にひしと抱き締めた。カバンのほうの若い男が古田に組み付いてきたので、小川と内田がステッキをふるって撃ちかかり、あとは入り乱れての乱闘となった。その混乱のなかで、男はトランクを胸の下にかばうようにして地面に打ち伏した。男の身体の下からトランクを抜き取ろうとした古田は、男の腰部に短刀が突き刺さっているのを見た。いつ刺したのか自分でも気づかなかった。慌てて引き抜くと、濃い血潮がしたたった。恐怖に襲われた古田は、仲間に向かって「だめだ、引き揚げよう」と叫ぶと走り出した。二人も一緒に走り出した。

げっきょく、奪ったのはカバンだけで、そのなかには75円分の勧業債券が入っているだけだった。臆病風を吹かせて、トランクをとらずに逃げてしまったことを古田は恥じた。中浜たちに合わせる顔がなかった。男が即死であったことは、のちに知った。

・・・    

思いがけないはずみとはいえ、古田大次郎は殺人犯となった。しかし、この事件の主犯が古田であることは警察にはなかなか割れなかった。間もなく河合康左右らギロチン社の幾人かが大阪で逮捕されたが、彼らも古田のことは口を割らなかった。

とはいえ、もはや追われる身である。11月半ば彼は朝鮮へと渡った。

〈その頃、中浜と僕との間には、大阪で逮捕された河合達のために、或る報復手段及び脱獄の事が計画されてあった。この計画と、僕達が最初から抱いている或る事業、それから、も一つ友人の村木、和田君が企てている暗殺計画、これらのために、僕達は是非爆弾と拳銃とが欲しかった。僕が朝鮮に来て、新局面を展開したいと云うのも、一つは何とかして朝鮮の所謂不逞団と接近し、彼等の手から爆弾等の武器を得る事に努めようという目的があったのだ〉(『死刑囚の思い出』)

村木源次郎、和田久太郎と古田大次郎がここでからまってくる。


つづく