2010年12月29日水曜日

東京 番町散策(1) 四番町 六番町 明治女学院跡 菊池寛旧居跡 有島武郎兄弟の旧居跡

過日、おおおそ、九段南から市ヶ谷、四ツ谷、麹町あたりをカバーする「番町」を歩いてみました。
「番町」は下の説明板にあるように、徳川時代に「大番組」と呼ばれた旗本を住まわせた地域の名前です。
今回は四番町と六番町の一部です。


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下は、中江兆民の仏学塾があったというところ。
駐車場になってます。
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次に、与謝野鉄幹、晶子夫妻の旧居跡。
女子学院高校の向いで、この教会の隣あたりです。
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次に六番町に行くと、明治女学院跡があります。
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菊池寛旧居跡
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有島武郎兄弟の旧居跡
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上記の旧跡のある通りの風景。
中央にある塔は日本テレビのもの。
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「★東京インデックス」をご参照下さい。
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2010年12月28日火曜日

東京 北の丸公園 千鳥ケ淵と牛ケ淵の冬景色

今日(12月28日)、仕事収めの日。
好天。
お昼休み、久しぶりに江戸城、いわゆる皇居東御苑に行こうと思ったら、お休み。
お正月の準備なのか?
では・・・、ということで、北の丸公園の外周を固める千鳥ケ淵と牛ケ淵を一周しました。
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下は北の丸公園から見た千鳥ケ淵
この景色があと3ケ月もすると桜花爛漫となります。



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ここから下の写真が牛ケ淵
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先に見えるのが清水門
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今日の武道館
「YOSHII」は、誰あろう?、かのイエモン吉井和哉
イエモン?
イエイエ、四谷怪談じゃないですよ。
一世を風靡したイエローモンキーです。
JAMは名曲でした。
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2010年12月27日月曜日

東京 北の丸公園 冬枯れの風景 武道館前だけがアツイ

今日(12月27日)お昼頃の北の丸公園。
すっかり冬枯れの風景になりました。
相変わらずフユザクラは頑張ってますが、毎度のご紹介なので今回はパス。
お正月前ということでしょうか、落葉は見事にきれいに片づけられてます。




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・・・・・・?
武道館前にはナニヤラ人だかり。
何なのかサッパリ分かりません。
大半がティーンエイジャーのようでした。
アニメ系ですかネ。
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明治6年(1873)10月21日~24日 明治6年10月政変(大久保のクーデタ)なる  [一葉1歳]

明治6年(1873)10月21日
・捕縛必至と言われている前大蔵大輔井上馨、横浜から大阪に向う。
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10月21日
・この日付け「木戸日記」に、「博文また号泣数刻」とある。
この頃の工作は、岩倉・大久保・黒田・吉井友実らが極秘に進め、伊藤のもとには正確な情報が入ってこない。
この日、伊藤は、岩倉が西郷らを支持するらしいと木戸に伝えている。
岩倉・大久保は、木戸らにも企図を秘匿している。
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10月22日
・岩倉を太政大臣代理とする閣議。
西郷・板垣・江藤・副島4参議、岩倉に15日の閣議決定の上奏迫る。
岩倉は、三条と自分は別人なので自分の思うようにする(閣議決定に拘束されない)、閣議決定の上奏とともに自説を添える、と発言。
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岩倉の露骨な違法・越権に対して、4参議は抗議辞職か天皇直訴しか道はなくなる(岩倉は宮内卿兼侍従長徳大寺実則に直訴阻止を手配)。
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大久保は岩倉に「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ候事」といい含め、
岩倉=大久保が成しとげた王政復古クーデタで「基本を開」いた政権を、それに参画していない三条・木戸・板垣・大隈・副島・江藤らに渡しておけない、と叱咤。
反対派一掃のためには、西郷の巻き添えも止む無しの決意。
黒田は、大久保に西郷を罠にかけた良心の呵責をを感じる悲痛な反省を告白。黒田は、西郷に対して「恥じ入」り「謝し候様これなく」お詫びの言葉もない、「面皮もこれなく」と悩む。
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大久保の岩倉宛て手紙
「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」といい含めら、
「つらつら往事を回憶すれば、丁卯の冬、御憤発(王政復古クーデタ)一臂(イツピ)の御力を以て基本を開かせられ、終に今日に立ち至り侯ところ、豈図らんや此の如き難を生じ、偶然〔太政大臣代理の〕御責任に帰し候も、畢竟、天賦というべし
…‥実に御太儀ながら御負担下され候様」。
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大久保の真のねらいは、征韓阻止でなく、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放すること。       *
岩倉の大久保宛て書簡。
「是非進退を致すの人々これ有り、世上物議も少からず」と辞職者が出ることを覚悟し、
動揺を防ぐために「速に政体改革有無、何とか演舌然るべく」、
「人選御登用の事も迅速の方人心大に定まり」と、
大久保に官制改革の準備を急ぐよう申し渡す
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大久保に激励された岩倉は、
四参議の要請(「太政官職制」遵守して、閣議決定を上奏する)を断わり、
三条と自分とは別人だから自分の思いどおりにする(閣議決定に拘束されない)と主張。
江藤は、代理者(岩倉)は原任者(三条)の意思に従って事を運ぶべきであると法理論を説明するが、岩倉はこれを聞かず。
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明治7年1月9日、鹿児島で西郷に会った旧庄内藩士酒井玄蕃の談話筆記。
「岩倉が申すには、畢竟、見込み違いの事にこれあり、〔三条・岩倉〕双方〔の見解を〕共に具(ツブ)さに〔天皇に〕奏聞に及び、何分にも宸断次第に仕るべくと申す事に侯あいだ、
〔西郷が岩倉に尋ねて〕夫は如何に〔天皇に〕仰せ上げ候や、
三条が見込を個様々々、私(岩倉)の見込は個様々々、然して三条の見込は天下のため然るべからず、私の見込は天下のため然るべしと仰せ上げられ侯やと申し候ところ、
〔岩倉は〕如何にも其の通りと申され侯あいだ、
さ侯わは私(西郷)は退き申すべしと、夫で事分かれと相成り侯」
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黒田清隆の大久保宛ての手紙。
「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり候に、
大いに西郷君へ対し恥じ入る次第
……西君(西郷)とはかねて死は一緒と、
また従来恩義もあり、
旁(カタガタ)我が心を向えは面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐れ入るのみにて……」
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10月23日
岩倉太政大臣代理、西郷派遣決定を上奏
但し、もし使節に万が一のことがあれば、後事が続かないので、不可とすべきと信ずる、と代理としての個人的意見を奏陳
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欧米歴訪によって、条約改正による国権の回復が「意料の外」困難であって、「功を-朝-夕」に奏しえないと痛感した、
したがって「成功を永遠に期し、驟進速成を求むるなく、大にこれが目的を定め、不動不撓政治これ理し、民力これ厚からしめ、以て其の実効を立て其の実力を用い以て国権を復」すことが肝要である、
維新以来日浅い今、「軽く外事を図る」べきではない、いわんや朝鮮に「使を発するの日、乃(スナア)ち戦を決するの日」であり採るべきではない。
「船艦の設け、兵食の具、銭貨の備へ及び内政百般の調理等に至る迄、予め其の順序目的を定め、而(シカ)る後に朝使を発遣するも未だ晩(オソシ)とせざるなり。
若しこれが備へをなさず、今頓(ニワカ)に一使節を発し万一の事ありて後、事継がず、而(シコウ)して更に他の忠害にかかるあらば、悔ゆといえども追うべからざるなり、
故に之が備をなさず今頓に使節を発するは、臣その不可を信ず」
と、自己の見解を提示して、
「臣その不可を信ず」と、閣議決定の不裁可を進言。
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10月23日
西郷隆盛勅裁を待たず参議・近衛都督・陸軍大臣辞表を提出、東京郊外に身を隠す
(「胸痛の煩いこれあり、とても奉職罷り在り候儀相叶わず」)。
この時点では未だ西郷派遣の天皇裁可は出ていない。辞表は岩倉の違法行為への抗議辞任。
この日、西郷側近陸軍少将桐野利秋、辞表提出。
陸軍少将篠原国幹はじめ、29日迄に46人辞表提出。  
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反対派の一斉退陣を期待していた大久保は黒田清隆に書簡を送る。
辞表は今日西郷一人差出し相成りたる由に御座候、実に意外」と、「一の秘策」の真の狙いを告白。
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10月24日
・岩倉太政大臣代理、大久保の献策を受けて、西郷の陸軍大臣(本官)の辞表却下。兼官の参議・近衛都督辞表は受理。
本官はそのままなので、形式的には西郷の地位に変動はない(大久保の配慮)。
板垣・江藤の辞表提出を誘い出すために、西郷の兼官の辞表受理を急ぐ。
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10月24日
・天皇、「国政を整え民力を養ひ・・・」勅語。岩倉の奏聞を「これを嘉納する」と裁可。
閣議決定は覆され、朝鮮への使節派遣は無期延期となる。  
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「衆庶同心協力、漸(ヨウヤ)く全国一致の治体に至る。ここに於て国政を整へ民力を養ひ、勉めて成功を永遠に期すべし。今汝具視が奏状、これを嘉納す」
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明治6年10月政変(大久保のクーデタ)
(土佐系)板垣退助・後藤象二郎、(肥前系)江藤新平・副島種臣、下野。25日に辞表受理。
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長州汚職閥(木戸=伊藤)の勝利(山城屋和助・三谷三九郎事件の山県有朋、尾去沢銅山事件の井上馨、小野組転籍事件の槇村正直など)。大久保は盟友西郷を失う。
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閣議で西郷を支持した板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四参議は辞表提出。
(太政大臣代理の違法行為を合法的にチェックできず、連袂辞職によって反省を求める)。
閣議で西郷使節派遣に同意しながら大隈重信、大木喬任両参議は、辞表提出せず
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板垣以下四参議の辞表は翌25日に速やかに受理される。
この速やかさに、反対派追放という大久保の「一の秘策」の狙いが現われている。
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大久保の辞表は却下される。
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閣僚の補充にあたり、岩倉・大久保は、参議省卿兼任制を打ち出す。
(大隈は大蔵卿を、大木は司法卿を兼任。参議兼工部卿に工部大輔伊藤博文を、参議兼海軍卿に海軍大輔勝安芳を、参議兼外務卿に特命全権公使寺島宗則を任命)
 24 ・「大久保政権=有司専制」。閣議、参議・各省長官(卿)兼任決議。大隈大蔵・大木司法・伊藤工部・寺島外務・勝海軍卿。
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11月21日、大久保は、堺県令税所篤の問合せに答えて、政変をめぐる事情を説明。
政変に至る対立を囲碁に譬えれば、「此の上は盤上一盃に敗を取り侯か、また勝を取り候か、投げさせるか投げるかの二つ」に一つの闘いであったとし、
「畢竟、此の災難は期したる事にて、それゆえ千思万慮、実に肝胆を砕き、容易に進退致さず候えども、止むをえざる機会と相成り、舞台懸りに出懸け候ところ、
果して一幕終らずに舞台が崩れ、勧進元の大損に相成り侯」。
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25日付け伊藤の木戸宛て手紙。
岩倉・大久保から後任参議の人事について相談されたが、
「人選論は頗る困窮……真に閉口」、
しかし「司法丈けの処は……大久保より相談に及ばれ侯につき、図らず吐露仕り候」と伝える。
伊藤らの最大の関心事は司法省人事。
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翌26日付の岩倉から木戸に宛てた書簡。
大久保・伊藤と後任参議の人事について相談したところ、
ただ司法卿のところ三人見込相異り、小生決を取り候様との事につき、小生大木に決し」と記す。
司法卿後任問題が最も論議のまとになり、三者の意見が食い違い、岩倉の判断で大木喬任を推薦することになる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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2010年12月25日土曜日

東京 鍋割坂 千鳥が淵緑道散歩

千鳥が淵の戦没者墓苑の北側に、千鳥が淵緑道と内堀通りを結ぶ坂道があり、それを鍋割坂と呼ぶそうです。
昨日(12月24日)昼休みに行ってきました。
命名された時は坂に値するものであったかもしれませんが、現在の状況はと言いますと、まずこれは単なる傾斜道といったところです。
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説明では、
「この坂を鍋割坂といいいます。
「新撰東京名所図会」には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。
同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。
千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同じ名の坂があります。」
と、あります。



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千鳥が淵
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水に入ると冷たいからか?
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千鳥が淵緑道と呼ぶそうです
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年始モード
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濠に映る雲と濠端に僅かに残るススキ
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武道館は、12月23、24日は「THE ALFEE」
クリスマスツリーの設営中でした
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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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治承4年(1180)9月7日~9日 関東反逆に対し追討軍派遣を詮議

治承4年(1180)9月7日
・新田義重、平清盛に書状を送る。
(義重は宗盛に仕え、頼朝・武田信義が関東を勝手に領している為、源氏家宗に背きこれを討つ為に坂東に下向)。  
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同日、中納言藤原忠親、東山観音寺で母親の忌日の供養。
導師の僧源実から延暦寺座主明雲の坊で聞いた話として、源頼朝挙兵、早川で敗退、箱根への逃亡を聞く。
兄前太政大臣忠雅から、所領上野新田荘の下司新田義重からの書状で、武田太郎信義の甲斐占領を聞く。(28日との記述あり)
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この頼朝敗退の報により、清盛は再び12日に安芸厳島に赴く予定をたてる。20日に高倉上皇が出発する為、その手はずを調えるため。
しかし、12日になって上総介八郎広常や下野の足利太郎らが頼朝に与力する事態が判明し、安芸詣を延引する。
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○新田義重(1135~1202):
源義国の子。義家の孫。母は上野介藤原敦基の女。新田氏の祖。
父義国が久安6年(1150)勅勘を蒙り下野国足利の別業に引退した時、ともに下向したと思われる。
上野国新田荘の開発を進め、保元2年(1157)、開発した私領を藤原忠雅に寄進し下司職に任命される。
のちに出家して上西と号す。
この年(治承4年)8月、朝挙兵時に、参陣要求に応ぜず「自立の志」をもって上野国寺尾城に軍兵を集めた記事が「吾妻鏡」での初見。
12月、これに対する頼朝からの弁明要求に応じて鎌倉に参上。この時、「国土闘戦有るの時、輙く城を出で難きの由、家人等諌を加ふるによりて猶豫す」(「吾妻鏡」治承4年12月22日条)と弁明、頼朝と連合。
以後、頼朝から冷遇され、「吾妻鏡」には寿永元年(1182)頼朝の江島弁財天勧請に御共した記事など数件に散見するのみ。
「吾妻鏡」建仁2年(1202)正月14日条に死亡記事が記されている。
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義重の子に新田義兼がいる。
母は豊島下野権守源親広の女。通称蔵人。
文治元年(1185)10月、頼朝の勝長寿院供養の随兵として登場するのが「吾妻鏡」での初見。
その後、頼朝の随兵として「吾妻鏡」にたびたび登場。
文治5年7月、頼朝の奥州征伐に「御供の輩」として従軍。
建久元年(1190)11月、頼朝上洛時にも随兵として従う。この時、後白河法皇は、「密々御車を以て」河原からその行列を「御覧」じたという(「吾妻鏡」建久元年11月7日条)。
建久6年の頼朝上洛でも、3月の東大寺供養などや5月の天王寺参詣の随兵として従う。
この記事を最後に「吾妻鏡」にはその足跡を追うことはできない。
元久2年(1205)8月、実朝から、新田荘内の村田郷・田嶋郷・中今居郷など12ヶ郷の地頭職に補任されている。
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9月8日
・頼朝、北条時政を甲斐源氏へ派遣。  
「北條殿使節として甲斐の国に進発し給う。彼の国の源氏等を相伴い信濃の国に到り、帰伏の輩に於いては早くこれを相具し、驕奢の族に到っては誅戮を加うべきの旨、厳命を含むに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。
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9月8日
・ルイ7世(59)、没。(位1137~)。
フィリップ2世(15)、カペー朝フランス王国支配権を相続(位~1223)      
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フィリップ2世起用の修道士:
グランマン会士ベルナール・デュ・クードレ。サント・ジュヌヴィエーヴ修道院長エティエンヌ(スティーヴン)・ド・トゥールネ。サント・ジュヌヴィエーヴ修道院修道士ギョーム。聖ヨハネ騎士団修道士ゲラン。       
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 フィリップ2世、ヘンリ2世と7年間の休戦条約(1177年の条約を再確認)。
治世初期はプランタジネット家と協調的。フリードリヒ1世の危険が迫る。
1181年、母親の敵愾心とシャンパーニュ人一味との対決に際し、家族内のもめ事の調整をヘンリ2世に頼る。
ヘンリ2世、フィリップ2世のフランドル封臣達の反乱克服を援助。
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○フィリップの施政:
①都市に特権を与え発展を支援、各都市はフィリップに大量の納付金を献上、これで雇われた有給官僚達が王領各地に派遣。
②パリ市を拡大し周囲を城壁で囲み、市内の排水路や石畳を整備。
パリの人口はフィリップ治世末年に20万に達す。
パリ市の教師・学生に対する裁判権をパリ市警察管轄から教会に移し、「パリ大学」の基礎を築く。
③最大の目標はプランタジネット家との対決とそのフランス領土の攻略。
しかし、ヘンリ2世はスコットランド・ウェールズ・アイルランドを服属させ、シチリア王・カスティリア王・ザクセン公に娘を嫁がせ、名実共にヨーロッパ最強の君主。
プランタジネット家の弱味は、フランス王の臣下であること。
ヘンリ2世はフランス王に3回臣従の礼をとり、王子達もフランス王を主君として認めている。
フィリップは彼等の宗主という立場を利用し、プランタジネット家の親子・兄弟間の争いにつけ込み、フランス領土を合法的に奪取する魂胆。
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9月9日
関東反逆に対し追討軍派遣を詮議
平維盛(大将)・平忠度(副将)、追討使を命ぜられるが、公卿達の反対、平維盛と藤原忠清対立で出撃延期。また、兵糧米の収集も遅れる(2年来の凶作)。
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「関東反逆の聞こえ有り。去る五日大外記大夫史等、召しに依って院に参り評議有り。
追討すべきの由、頭の弁宣下し、左大将官符を成さる。
維盛・忠度・知度等、来二十二日下向すべしと。
但し群賊纔か五百騎ばかり、官兵二千余騎、すでに合戦に及び、凶族等山中に遁れ入りをはんぬの由、昨日(六日なり)飛脚到来すと。
然れば大将軍等の発向、若くは事に後れ有るかと。」(「玉葉」同日条)。
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9月9日
安達盛長、千葉より帰還。千葉氏の協力を得る
上総広常は千葉常胤と相談して参上との回答があり、これで房総諸域の帰趨決まる
*
□吾妻鏡
「盛長千葉より帰参す。申して云く、常胤が門前に至り案内するの処、幾程を経ず、客亭に招請す。
・・・而るに件の両息同音に云く、武衛虎牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う。縡の最初にその召し有り。服応何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献らるべしてえり。
常胤が心中、領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり。
・・・速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべきの由これを申す。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「九日、戊午。(安達)盛長が千葉から帰参し、申して言った。
「常胤の館の門前に到着し、取次ぎを求めたところ、程なく客間に招かれました。
常胤は前もって座に在り、子息の胤正・胤頼もその横にいました。常胤は、詳しく盛長が述べるところを聞いていましたが、しばらく言葉を発さず、ただ眠っているかのようでした。
そこで、二人の子息(胤正・胤頼)が、『武衛が武門を再興し、平家の狼籍を鏡められるにあたって、その初めに我々を召されたのです。これに応ずるのに、どうしてためらっていられましょうか。早く承知する旨の文書を提出しましょう。』と言いました。
常胤が言いました。『心の中では、承諾することに全く異議はない。源家が中絶した跡を興されようとするので、感激の涙が止まらず、言葉にすることもできないはどなのだ』。
その後、酒宴となった折に、『今いる居所は取り立てて要害の地ではありません。また源氏にゆかりの地でもありません。早く相模国の鎌倉にお向かい下さい。常胤は、一族郎党を率いて、お迎えの為に参ります。』と申しました」。  
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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啄木日記抄 「予の思想に一大変革ありたり。・・・思想上に於ては重大なる年なりき。」

今年は所謂「大逆事件」100周年ということで何度か記事にしました。
(タグ「大逆事件」をご参照下さい)
事件に衝撃を受けた人物に石川啄木がいます。
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啄木は、紀州組と呼ばれる被告大石誠之助の関連から、与謝野鉄幹に紀州組の高木顕明、崎久保誓一の弁護を依頼された平出修(同じく明星派歌人)から幸徳の陳弁書や裁判書類を見せて貰い大きな衝撃を受けます。
これは、明治44年(1911)1月のことです。丁度、100年前になります。
年明けから、この年の啄木の日記を辿って行こうと思います。
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まずその前に、今回は、
啄木の「明治四十四年当用日記」の巻末補遺欄に記されている明治四十三年の回顧である、
前年(四十三)中重要記事」についてご紹介します。
但し、読み易さのために改行を施します。
*
啄木自身による明治43年(1910)のサマリ
(啄木24歳、没の前々年)
* 
*
 本郷区弓町二ノ十八新井(喜之床)方二階にて年を迎ふ。
前年十二月二十日野辺地より上京せる父を併せて家族五人なり。
前年三月一日以来東京朝日新聞社勤続、月給二十五円。
*
 一月――無事。
*
 二月――無事。
*
 三月――無事。
*
 四月――雑誌「新小説」に小説『道』掲載せらる。原稿料一枚三十銭。
またこの頃朝日紙上及び東京毎日新聞に作歌を発表す。蓋し前年初夏以後初めての作なり。社中の評判可し。
この月北海道旭川に在りたる小妹光子名古屋なる聖使女学院に入るを許されて十七日入京、滞在数日にして名古屋に向ふ。
*
 五月――無事。
*
 六月――幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む
この半期末の社の配当三十四円、賞与十五円、計四十九円、前年末と同じ。
移転を企てて果さず。
前年十二月以来予の校正したる二葉亭全集世に出づ
*
 七月――光子休暇にて上京、九月初旬まで滞在す。
*
 八月――より九月にかけ、東京及び各地に大水害あり。盛岡加賀野磧町の旧居流出せるを聞く。
*
 九月――十五日より朝日紙上に「朝日歌壇」を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。
月末本籍を東京本郷弓町二ノ十八に移す。
*
 十月――四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に附す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。
またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。
*
 十一月――八日野辺地の葛原対月老僧盛岡にて死す。父の師父にして母の兄なり。報に接して父急遽盛岡に下り、親属の無礼を怒りて、宿ること一夜にして帰り来る。
*
 十二月――初旬『一握の砂』の製本成る。序は藪野椋十氏(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来の格調を破れり。定価六十銭。
半期末賞与五十四円を貰ふ。
またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。
*
 四十三年中予の文学的努力は主として短歌の上に限られたり。これ時間に乏しきによる。
歌集の批評は年内に聞くをえざりしと雖ども努力はたしかに反響を得たり。
主として朝日紙上及び雑誌「創作」に作歌を発表し、年末に至りては「早稲田文学」その他三種の雑誌に寄稿を求めらる。
*
 思想上に於ては重大なる年なりき
予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。社会主義問題これなり。
予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。
ただ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり。
*
 文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。
一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。
森氏には一度電車にて会ひたるのみ与謝野氏をば二度訪問したるのみなりき。以て一斑を知るべし。
時々訪ね呉れたる人に木下杢太郎君あり。
夏目氏を知りたると、二葉亭全集の事を以て内田貢氏としばしば会見したるとは記すべし。
その他の方面に於ては、金田一君との間に疎隔を生じたると、丸谷喜市君の神戸高商を了へて東京高商研究科に来り、往復度を重ねたるを一変化とす。
函館諸友と予との交情は旧によりて親密なり。
予の『一握の砂』は宮崎君及び金田一君にデヂケエトせられたり。これ往年の友情と援助とを謝したるなり。
しかも金田一君はその為に送本受領のハガキをすら寄越さざりき。
また予はこの年に於て、嘗て小樽に於て一度逢ひたる社会主義者西川光次郎君と旧交を温め同主義者藤田四郎君より社会主義関係書類の貸付を受けたり
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 経済的状態は、逐月収入に多少の増加を見、その額必ずしも少からざりしも、猶且前年来の疲弊及び不時の事によりて窮乏容易に緩和せざりき。
家人の動静は、前記節子の出産及び産後衰弱の外、父は夏の頃を以て脚気に患み、母また著しく衰弱したり。
而して猶且節子不健康の故を以てよく一家の事を処理されたり。予の健康も概して佳ならざりき。京子一人頑健なり
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 十月より三日に一夜の夜勤あり。為に財政の上に多少の貢献ありたれども、健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。
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 年末収入総額は左の如し。
     円
  五四、〇〇   社の賞与
   五、〇〇   米内山より御礼
   三、六五   十二月分俸給前借残り
   三、〇〇   精神修養稿料
   一、〇〇   秀才文壇稿料
   一、〇〇   早稲田文学稿料
  二五、〇〇   宮崎君より補助
  二七、〇〇   一月分俸給の内前借
   九、〇〇   夜勤手当
   八、〇〇   朝日歌壇手当
  一五、〇〇   協信会より借入
   五、〇〇   書籍質入
  計 百六十五円六十五銭
 而して残額僅かに一円二十一銭に過ぎず。
不時の事のための借金及び下宿屋の旧債、医薬料等の為にかくの如し。猶次年度に於て返済を要する負債は協信会の四十円及び蓋平館に対する旧債百余円也。
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2010年12月24日金曜日

弘治3年(1557)7月~12月 旱魃、飢饉、疾病流行、大洪水 三好長慶の丹波制圧 信長、弟信勝を謀殺 毛利元就「三人心持之事」 毛利氏の防長征服完成  [信長24歳]

弘治3年(1557)7月
この月
・スペインとフランスが破産状態に陥る。
アントウェルペンが危機的状態に陥いる。
ドイツのフッガー家、大損害を受ける。
・ジャン・カルヴァン、「詩篇註解」公刊。
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7月5日
・武田晴信(信玄)、小谷城を攻める。
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7月5日
・諸寺社で雨乞いの祈祷。
この年、旱魃で作物が不作、各地で飢饉・疾病が流行、多くの死者。
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7月7日
・大友義鎮の筑前(秋月文種)討伐軍(総大将戸次鑑連)の高橋鑑種・臼杵鑑速ら2万、秋月氏出城・杉本の城を陥落、後、本拠地古処山城を攻撃。
18日、古所山城攻撃で長男秋月晴種、討死。秋月文種、自刃。
落城寸前、大橋豊後守が文種の子(種実・種冬・種信3子)を連れて毛利を頼り山口に落ちる。
秋月氏と共に決起した筑紫惟門も、五箇山城を放火し、嫡子広門を連れて毛利を頼り落ち延びる。
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8月
・上杉謙信の重臣大熊朝秀の造反事件。信玄の調略。
大熊氏は信玄の援軍ないまま制圧される。のち甲斐に逃亡し信玄の足軽大将となる。
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8月10日
・サン・カンタンの戦い。パリ北北東130Km。
サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト指揮イングランド・スペイン連合軍、サン・カンタン防備コリエ指揮フランス軍を破る。
サン・カンタンに籠城のモンモランシーと息子(サン・ダンドレ元帥、シャルル・ド・ブルボン大公、ロングヴィル公爵)、ゲントに連行。
コリニー(モンモランシー甥)だけは尚も17日間抵抗。コリニーは、捕虜生活中に新教(カルヴァン派)に改宗)。
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8月26日
・朝、東風が起こり、夕方南風となる。大雨となって各国で洪水発生
尼崎、別所、鳴尾、今津、西宮、兵庫、前波、須磨、明石に高潮が押し寄せる。死者多数。
文明7年8月の洪水に並ぶ被害という。
この年、春~夏100日余、早魅が続き、諸国は不作。
加えて台風襲来により、米価が高騰。
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9月4日
・サン・ジャック通り事件。反ユグノー蜂起。新教徒大量虐殺。
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9月5日
・第105代後奈良天皇(62)、没。
10月23日、正親町天皇、践祚(即位式は1560年5月27日)。
11月22日、葬礼。
朝廷は葬礼費用を三好長慶に依頼、長慶は京都市中に棟別銭を課す。
この徴収のため、「玉体」放置2ヶ月半という新記録となる。
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9月11日
・フェルディナント1世、ウォルムスで宗教会議を開催。
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10月
・三好長慶、再び丹波八上城に出陣しこれを攻略。波多野晴通降伏。
氷上郡を除く丹波が三好氏の版図に入る
この月、京都大徳寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「大徳寺文書」)。
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10月6日
・フランス、教皇援助のためイタリア遠征のギーズ公フランソワ、ビエモンテ軍率いパリ帰還。
年末までに3万5千を侵略軍とパリの間に配置。
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11月
・毛利軍、防長2国の大内氏残党を一掃。
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11月2日
・信長、重病の虚報に見舞いに来た弟信勝を信勝家臣柴田勝家を抱込み清州城で謀殺
遺児信澄は勝家のもとで養育。
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信勝が再び謀反を企てる(岩倉城主織田信安と通じて信長直轄地篠木3郷を奪おうとする)。
信勝家臣の津々木蔵人の専横甚だしく、柴田勝家は疎んじられ、勝家が信勝謀反を信長に告げる。
信長は、病と偽り信勝を清洲城に誘殺する。
永禄元年説もあり。
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11月9日
・三好長慶、中沢一直と大原野神社神官の下地相論に裁許を下し、大原野神社へ安堵(「大原野神社文書」)。  
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11月25日
毛利元就(61)、息子の毛利隆元(35)・吉川元春(28)・小早川隆景(25)に教訓状ともいえる「三人心持之事」の書状を送り互いに協力するように説く。
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同時に、隆元に与えた書状には、国人衆はもとより、毛利家中にもなお毛利氏に対する反感が充満していると記す。
国人統制はもとより、庶家直臣支配さえもまだ容易でなかった実情が窺える。
しかしこの戦勝の過程で、起請文による誓約を用いながら、国人・譜代直臣の統制強化を図り、また毛利・吉川・小早川3家が毛利を中心に有機的に一体化する毛利両川体制がとられたことにより、毛利氏の権力は確立する。
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11月27日
・信長(24)、熱田検校馬場氏・田島氏へ、敵味方からの依頼された保管物処分に同意しない、また、信長は使者を門外に入れたり竹木を要求したり郷質を取り立てることを永久にしない旨安堵。
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12月
・スコットランド議会、ジョン・ノックス起草カルヴァン主義の信仰告白を採択。
・スコットランド、プロテスタント貴族ら(4代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル、4代モートン伯ジェイムズ・ダグラス、5代グレンケアン伯アレグザンダー)、プロテスタント信仰を誓う盟約
(「第1次信仰盟約」)。
ローマとの断絶、改革した国民的教会創設。
・スコットランド、改革派教会、第1回総会を開催。ジョン・ノックス(52、1505~1572)の指導。
「教会規律書」を公布。司教職廃止と2つの職制(牧師と長老)設置。
牧師は、信徒達自らが選出(ジュネーヴは牧師官の協議で任命)。
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12月5日
・大友義鎮、寶満山僧坊の前栽・茶園に至るまで検地の上課役。
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12月26日
毛利氏、防長征服
毛利軍、防長征服をはたし吉田郡山城に帰着。
この月、元就は隆元・吉川元春・小早川隆景ら11名と共に傘連判により、軍勢狼藷と陣払いとの禁止を誓約、同日付で福原貞俊以下241名が同趣旨の起請文に連署。
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12月31日
・フランス、ギーズ公フランソワの仏軍、カレー奪回に向う          
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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2010年12月23日木曜日

東京 銀座・築地散歩(6) 勝鬨の渡しの碑 勝鬨橋(重文) 隅田川テラス 佃大橋

勝鬨の渡しの碑
日露戦争における旅順陥落記念として有志によって明治38年1月に「渡し」が設置されたという。


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勝鬨橋は、昭和15年6月に竣工。
「東洋一の可動橋」と言われたが、1970年に開閉を停止した。
重要文化財である。
Wikiはコチラ
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橋の中央部
多分ここが、開閉時の先端であったと思われる。
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橋の月島側
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下流側から見た勝鬨橋
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勝鬨橋から上流側を見たところ
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隅田川テラス
築地川の河畔、勝鬨橋から佃大橋までの散歩道
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佃大橋から勝鬨橋方向を見る
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「★東京インデックス」をご参照下さい。
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京都 南禅寺 三門

かの石川五右衛門の「絶景かな」で名を馳せる南禅寺三門。
写真は今年のお正月に撮ったものです。やや曇天。
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つい先ごろの「朝日」夕刊で南禅寺水路閣が紹介されており、これは記事にしましたが(コチラ)、三門については忘れたまま、バックログになってました。
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禅寺はどこも同じですが、勅使門、三門、法堂(仏殿)が順に並んでいます。
なかでも、これらが一直線に並ぶ美しさは、その規模とともに他のお寺から抜きんでていると思います。


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藤堂高虎による建立
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上に上がるのは有料。確か500円だったか。
(門も高いが料金も高い)
下の写真は勅使門側を見たもの
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下の写真は法堂側を見たところ
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京都市街と、その先に愛宕山
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「★京都インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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