2017年10月31日火曜日

横浜 イチョウの黄葉が始まった山下公園前の海岸通り お昼はホテルニューグランドでイタリアン 横浜公園の紅葉・ススキの感じがいいね 関内に来た時は北口で「ビッグイシュー」 2017-10-31  

10月31日 曇りのち晴れ。
今日は山下公園周辺を散歩。
食後。中華街~横浜DeNAで湧く球場を通り抜け、関内駅北口で「ビッグ・イシュー」を購入して帰宅。

▼山下公園の海岸通り、予想外にイチョウの黄葉が始まっていた。


▼お昼は、ホテルニューグランドのイタリアン「イル・ジャルディーノ」で。
ビールをやめてスパークリングワインを一杯だけ戴いた。



▼二階にあるロビー
さすが昭和2年創業の風格

▼中華街でもハロウィンだって!

▼横浜公園(横浜スタジアムとなり)の日本公演
秋の感じが出てた



▼関内に来た時にはいつも駅北口で販売している「ビッグ・イシュー」を購入
販売員のお兄さん、元気そうに見えた。



日銀 物価上昇率見通しを引き下げ(NEWS24); 金融緩和策を転換し出口へと向かう欧米との方向性の違いが鮮明となっているが、黒田総裁は「今の時点で出口の議論をするとかえってミスリードとなり、市場に対してもマイナスだ」との認識を示した


渋谷のハロウィンに安倍晋三のコスプレ / LOOK: "Prime Minister Shinzo Abe" at the annual Halloween street party at the Shibuya Crossing in Tokyo(Manila Bulletin News)





【維新内紛】 虎の尾踏んだ? アホな先輩のマネをしたアホな後輩がイビリ出された? / ついつい面白くて深入りしてしまう / 「をば」? なんやそれ? / 「結局、丸山さんは離党の理由を探してたんやろな」と足立 / 「橋下さんの表現、あまりにも辛辣」と松井    








▲凋落の自民党二階派が待ってるゾ!
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▼自分のリーダーシップ欠如を棚に上げて・・・


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東京・千代田区の明大通りで、たった2.5cm歩道を広げることなどを理由に、71本もの街路樹の撤去が決まった(フジテレビ)


杉本博司の「国威発揚」発言 その問題点とは何か?  「国威発揚芸術」をプロパガンダ研究の視点から読み解く(辻田真佐憲 文春オンライン)


〈佐川宣寿国税庁長官〉苦情殺到の矢面に立たされている国税庁職員にも謝る姿勢なし(全国税労働組合の機関紙『全国税』2017年10月25日号); 佐川宣寿国税庁長官との団体交渉で、職員の苦悩や窮状を訴えたが「明るく風通しのよい職場を」等の一般論ではぐらかし「職員へ謝る姿勢なし」 / 佐川新国税庁長官に世論の怒り 苦情殺到で税務署員困惑? / 国交省積算ごみ撤去費 森友値引き6億円過大 検査院が疑義 / 会計検査院「事案終了と言えず」 財務省の森友資料巡り      





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NHK:過労死事件を問う ある若手記者の悲劇 佐戸未和さん31歳に捧げるレクイエム=下村健一(サンデー毎日)




東京新聞 望月記者。 「総理と籠池夫妻の関係では無く、昭恵さんと籠池夫妻の関係と、イタリアに栄転された谷査恵子とのやり取りを、御本人の口からキッチリ国会の場で、政府として説明させる気は?」 菅「総理は何度も説明した。谷さんは栄転では無い」 ← 答えになってない! 


2017年10月30日月曜日

(YouTube)中島美雪 - 世情 (獻給在雨傘革命中曾並肩作戰的香港人) 日漢字幕


中島美雪 - 世情 (獻給在雨傘革命中曾並肩作戰的香港人) 日漢字幕
世情  ピアノ弾き語り cover by kei




【改憲補完勢力を野党筆頭に】安倍官邸が仕掛ける希望・維新 統一会派構想 小池「排除」した民進出身者との連携は「さらさら」 通常国会は翼賛化 安倍自民党は野党の質問時間の削減まで検討しているが。国会の大政翼賛化なんて冗談じゃない。安倍はそんなに立憲の躍進を脅威に...(日刊ゲンダイ) ← 国会骨抜きの野望の数々



2017年10月29日日曜日

(YouTube)ファイト!吉田拓郎


ファイト!吉田拓郎



【日本の「ものづくり」に黄信号 意外に根は深い】 米国自動車初期品質調査(JDパワー)ブランド別ランキング 10位にようやくトヨタ / 品質世界一の車メーカーは韓国の起亜 日本の車メーカーは業界平均を維持するのが目一杯





人種差別について語るダルビッシュ有「完璧な人間はいないので、彼(グリエル)も僕もここにいる皆もそうでしょうから、彼の中での1つのミスであって、色んな人がこのことから学べると思う。人類として学んで、人類として1つ前にいけるステップになれば、ただのミスで終わらないんじゃないか」



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青木理さん「謙虚と言うが、麻生さんの発言を見ても謙虚のかけらも見られない。質問時間の問題も、与党もしっかりした質問をすればよいがそういう状況じゃない中で、立法府が行政府をチェックする国会の場で野党の質問時間を少なくして何を狙うのか。謙虚さのかけらもない」




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【黙っていたらナメられる】特別国会 1日-開会、2日-総理指名、3日-休、4日-休、5日-トランプ来日、6日-トランプ、7日-トランプ、8日-閉会。 / 秋の国会で与野党の論戦 行うべきか 行うべき- 64.9%、 必要はない- 6.4% / NNN電話世論調査 安倍内閣支持率2ヶ月ぶりに不支持が支持を上回る(支持41.7%、不支持44.2%) / 殆ど憲法違反(学習院・野中尚人) / 【自民船田氏 審議なし国会批判】自民党の船田元・衆院議員が11月1日召集の特別国会で実質審議を行わず、8日に閉会すると提案したことを批判。「丁寧に、真摯(しんし)に対応」と「言行不一致」。     







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3銀行大リストラ時代 3.2万人分業務削減へ(日経新聞); 多くの人員が浮く計算になるため、バブル期の大量採用の退職増加と新規採用の抑制で適正規模に調整を進める。.....環境がさらに悪化すれば大量の希望退職などに踏み込まざるを得なくなる恐れもある。



 多くの人員が浮く計算になるため、バブル期の大量採用の退職増加と新規採用の抑制で適正規模に調整を進める。ここ数年、新卒を数千人規模で採用し、就職の人気度でも上位だったメガバンクの門戸は狭くなりそうだ。

 環境がさらに悪化すれば大量の希望退職などに踏み込まざるを得なくなる恐れもある。「縮小均衡に陥るつもりはない」。構造改革に携わるみずほ幹部は力を込める。大胆な選択と集中が待ったなしだ。


「立憲より希望のほうがよかったのに」 総選挙後も安定の珍言連発中 総選挙から一週間の問題発言総まくり (大山 くまお 文春オンライン BLOGOS)


2017年10月28日土曜日

鎌倉 妙本寺のサザンカ、ツワブキ、ピラカンサス 大巧寺のホトトギス 2017-10-27

10月27日(昨日)、快晴。
鎌倉散歩。
出だしが遅かったので、駅周辺の大巧寺、本覚寺、妙本寺をぐるっと歩くだけになった。
妙本寺では思いがけなくサザンカに出会った。

▼妙本寺のサザンカ、ツワブキ、ピラカンサス





▼大巧寺のホトトギス

明治39年(1906)10月15日~31日 漱石、文学に対する決意を語る。 「余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」 「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」

江ノ島 2017-10-26
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明治39年(1906)
10月15日
・1906年7月6日の第2回ジュネーブ条約に対する、韓国の地位に関する外交文書交換(11月20日も同様)。
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10月15日
・サンフランシスコの小学校で、日本児童200余人の通学禁止問題発生。
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10月16日
・谷口房蔵ら紡績業者、韓国棉花設立(本社大阪、資本金20万円、綿作農民への前貸等を行う。のち朝鮮棉業と改称、'16年、日本綿花に買収される)。
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10月16日
・ケーベニック事件。ベルリン郊外ケーベニック市、兵士数名、市庁舎乱入。市長拘禁。
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10月17日
・ロシア、トロツキーの口頭弁論。
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10月17日
・ドイツ、1,600キロメートル離れた場所に電信で写真を電送。
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10月18日
・渡島水電株式会社創立(北海道)。
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10月18日
・神田錦輝館で社会主義演説会。弁士10名中8名に中止命令。
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10月19日
・中国同盟会、湖南省で蜂起。
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10月19日
・韓国、伊藤博文統監、韓国政府と森林経営に関する共同約款調印。
鴨緑江・豆満江沿岸森林は日本・韓国両国政府共同経営とする。
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10月20日
・坂口安吾、誕生。
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10月21日
・この日付け夏目漱石の森田草平あての手紙
森田の自分の生活の秘事を打ちあける手紙に対する返事。
「余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ、満腔の同情を以て裂き棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて、目的以外の事は決して起る気遣ひはない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。(略)余は君が此一事を余に打明けたるを深く喜ぶ。余をそれ程重く見てくれた君の真心をよろこぶ。同時に此一事を余に打明くべく余儀なくさるゝ程、君の神経の衰弱せるを悲しむ。男子堂々たり。這般(しやはん)の事豈(あに)君が風月の天地を懊悩するに足らんや。君が生涯はこれからである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後、誰か此一事を以て君が煩ひとするものぞ。君若し大業をなさば、此一事却つて君がために光彩を反照し来らん。」

続けて、漱石は作家としての自分の覚悟を述べる。
「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。(略)」
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10月22日
・名古屋電力株式会社設立。
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10月22日
・セザンヌ(67)、没。
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10月23日
・この日付けけの漱石の手紙
「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである。」(10月23日狩野亨吉宛書簡)
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10月24日
・英、婦人参政権論者11人が議会開会時に起きた暴動に参加したとして投獄。
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10月25日
・この日付け「光」掲載の社会党公報。
近く日刊「平民新聞」が創刊され、キリスト教派と非キリスト教派が再び手を結び合うこと、また「新紀元」は来月10日号を以て廃刊し、石川三四郎は新しい平民社に創立人として加わること、安部磯雄は社友として援助すべきこと等を報じる。
また、木下尚江の脱党の報告
「然れど吾人は又茲に一の悲むべき事実を報告せざるを得ず。それは吾党の運動に永さ歴史を有せる木下尚江氏が遂に全く吾党と関係を絶ちたるの一事なり。(略)因に記す、氏は今月下旬より家を伊香保の山中に移し、『懺悔録』其他の著述に従事すべしと云ふ」
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10月25日
・仏、クレマンソー内閣成立(−1909)。
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10月25日
・サンフランシスコ学務局の日本学童隔離決議(11日)に対し、青木周蔵駐米大使抗議。
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10月26日
・10月26日付漱石の鈴木三重吉宛手紙。
「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」。
「それでないと何だか難をすてゝ易につき、劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」

と、漱石自身の文学者の立場、文学にはどのような精神をもって取り組むかを語り、「腰抜文学者」にはなりたくないと言う。

さらに、
苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば、単に美といふ丈では満足出来ない。丁度維新の当士(ママ)勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては、文学者になれまいと思ふ。
文学者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる様な小天地ばかりに居れば、それぎりだが大きな世界に出れば、只愉快を得る為めだ抔とは云ふて居られぬ、進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。

と、まだ東大英文科の学生である鈴木三重吉に、文学を遭って生きる者の心構えを説いている。
これは漱石の文学に取り組む姿勢、決意である。
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10月26日
・ドイツ領ポーランドの生徒、宗教の時間にドイツ語使用を強制されることに反対し、ストライキ。
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10月27日
・海江田信義(75)、没。
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10月29日
・帝国肥料株式会社創立(横浜)。資本金300万円。
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10月31日
・木下尚江、伊香保の温泉宿、小暮金太夫方へ転居。「毎日新聞」の退職金が彼の生活を支えた。木下が伊香保を選んだのは、この夏ロシアから帰った徳富蘆花が、出発前に、精神的な苦悩の果て伊香保に隠退していたことから暗示されたため。木下の実社会離脱、自己否定、懺悔という衝動は蘆花が1年前の明治38年末に味わった経路に似ていた。冬の間、客の少い宿で、彼は半年の約束で安い料金で座敷を借り、その前半生の自叙伝なる「懺悔」を書きはじめた。
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宮崎駿監督、新作タイトルは「君たちはどう生きるか」(朝日新聞) ; 1937年に吉野源三郎が発表した名著から取った。「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と内容にも触れた。「完成には3年か4年かかる」と言う。











茂木担当相:無償化「大学を限定」 対象基準を検討(毎日新聞) ; 「産業界から人材を受け入れるなど実社会で評価されている大学に限定すべきだ」と...講義の内容やガバナンス(統治)などが一定の基準に達していることなども考慮される可能性があると... / 要は自民党お気に入りの大学に限定する可能性大ということか!


高等教育無償化の具体策である授業料免除や給付型奨学金の拡充の対象となる学生の進学先について「産業界から人材を受け入れるなど実社会で評価されている大学に限定すべきだ」と述べた。政府の担当者によると、講義の内容やガバナンス(統治)などが一定の基準に達していることなども考慮される可能性があるという。





2017年10月27日金曜日

江ノ島散歩 お昼は江の島ビール テレビ番組の収録チームに遭遇したり、『海街ダイアリー』の「海猫食堂」を見に行ったり..... 2017-10-26

10月26日(昨日)、快晴。
江ノ島に出かけた。

週の初め、稲村ケ崎に出かけた日(10/23)に富士山が初冠雪した。例年より23日遅いとのことだったが、その時点では、鎌倉あたりからでは冠雪は見えなかった。
しかし、いまはかなりしっかり見えるようになった。
鎌倉 台風一過の稲村ケ崎 江ノ島 富士山 うねりと白波 2017-10-23

10月22日の台風と高波に襲われて、江の島の裏の海岸(稚児が淵)と岩屋洞窟がひどいことになってるようで通行止めになっていた。何時頃回復しますかと尋ねたところ、調査中で不明とのことだった。従って、遊覧船の運行中止中だ。

お昼は、創業明治24年という江ノ島亭という食堂で。
富士山ビューの席があったのでその席で、富士山を見ながらまずはビール。
2種類の江の島ビールがあるというので、2種類とも戴いた。美味しいビールだったけど、一つは新潟県の醸造所だった。
ついでに(?)、生中なんかいったもんだから、昼間からいい気分になってしまった。

帰途、NHKの番組収録チームにぶつかった(ホント真正面にぶつかりかけた)。
よく見ると、南海キャンディーズのやまちゃんというお笑いタレントだった。とっさにシャッター切ったら、横顔がギリギリに撮れていた。家に帰ってチェックしたら、神社巡礼をテーマにした番組を江ノ島で収録したと、ご本人がツイートしてた。
やまちゃんの背後で”ピース”とかやったら即ボツだろうなと思いながらにやけてしまった。

江ノ島のヨットハーバーとか駐車場がある辺りに、映画『海街ダイアリー』で風吹ジュンが女主人役を演じた「海猫食堂」のロケ地があるので、ざっと見に行った。









参考
海街ダイアリー ロケ地めぐり












立憲民主に流れた学会票…公明「比例票700万割れ」の衝撃 ; 創価学会員いわく「理由は公明党の変節。安保法賛成だけでなく、共謀罪・モリカケなど、今の公明党には平和公正を求めたかつての姿はない。次期選挙で立憲に流れる票はさらに増えるはず」 / 公明9小選挙区「多すぎる無効票」は学会員の無言の抵抗か 






 最も高いのは、大阪3区の10.22%。自公連立の象徴で、太田昭宏元代表が当選した東京12区も、9.71%が無効票だ。

「学会員はちゃんと投票に行ったかフォローされるので、必ず投票所に足を運びます。公明党への批判の意味で、無効票を投じる学会員も少なくありません」(現役の創価学会員)



明治39年(1906)10月 夏目漱石門下生の「木曜会」開始 木曜会の人々 森田草平 鈴木三重吉 「ホトトギス」の俳人たち 小宮豊隆 

稲村ヶ崎 2017-10-23
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明治39年(1906)
10月1日
・吉岡弥生ら、大日本実業婦人会を結成。
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10月1日
・医師法・歯科医師法(5月2日公布)、施行。
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10月1日
・北海道炭鉱鉄道、甲武鉄道など国有化。
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10月1日
・鉄道国有法(3月31日公布)、施行。
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10月2日
・日清間営口還付に関する北京協定ならびに交換公文承認。
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10月2日
・足尾銅山に大日本労働至誠会支部設立。
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10月2日
・(露暦9月19日)ペテルブルク・ソヴィエトのメンバーに対する裁判開始。
反動側の狙いはヴィッテの自由主義と革命への弱腰の暴露。証人喚問400人、1ヶ月。綱領を開陳し帝政を告発する場とする。
トロツキーは元老院議員ロプーヒン(1905秋、警察署内にポグロム煽動文書の印刷局を開設)喚問を要求するが、法廷が拒否したため公判ボイコット。弁護人・証人・傍聴人も退廷。判事・検事のみで判決言い渡しとなる。
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10月4日
・鬼怒川水力電気会社設立(栃木県)。
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10月5日
・中央製紙株式会社創立(岐阜県)。資本金50万円。
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10月7日
・林董外相、英公使に英の威海衛継続占領を希望。
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10月7日
・イランで第1回国民会議開催(テヘラン)。自由憲法作成に着手。
イラン国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
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10月8日
・仏、労働総同盟(CGT)大会、サンディカリズム基本理念を表明したアミアン憲章採択(~14日)。
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10月10日
・この日付漱石の若杉三郎宛手紙。
「明治の文学」はこれからであり、今までは「眼も鼻もない」時代である。これから若い人々が大学から輩出して、「明治の文学」を「大成」するのである。それは「前途洋々たる時機」である。漱石も幸いにこの、「愉快な時機」に生まれたのだから、死ぬまで、「後進諸君」のために路を切り開いて、「幾多の天才の為めに」、舞台の下ごしらえをして働きたい、と述べ、
さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。
と、明治の文学観、過去、現在、将来の抱負などを披歴。
漱石の文学者としての責任感がうかがわれる。
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10月10日
・豊田佐吉、軽糸解舒及緊張装置(自動織機)特許取得。
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10月11日
・夏目漱石門下生の「木曜会」開始。
「木曜日の午後三時からを面会日と定候」(明治39年10月7日付野村伝四宛書簡)。
小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、阿部次郎らが集る。
晩年の大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが始めて木曜会に参加。

《木曜会の人々》
■森田草平
漱石「草枕」(「新小説」明治39年9月号)発表のとき、草平(数え26歳)は岐阜県鷺山村の郷里に帰っていた。7月に東京帝国大学英文科を卒業しまだ就職は決まってなかった。彼は自分の卒業成績では東京によい地位は得られないと思って就職は諦めていた。卒業の少し前、伊藤博文の娘婿、末松謙澄が書いた日本論 ”Rising Sun” の和訳を頼まれて原稿料を得た。そういう雑原稿によって生活するか、それとも中学校教師にでもなって地方へ行くか、決めかねていた。同じ年に東大美学科を卒業した1つ年下の生田長江も同じような気持ちでいた。
森田と生田は、一高時代に「明星」に寄稿したり、上田敏・馬場孤蝶らが創刊した「芸苑」に翻訳を載せたり、小説の試作をしたりしていたので、このまま筆で食って行けそうでもあった。生田は、大学を卒業した頃、博文館から模範文集の編纂という仕事を小遣取りに引き受け、諸作家の文章の編輯と解説をしていた。
森田は、時々夏目家に出入りし、また馬場孤蝶や上田敏を訪ねたりして、生田とともに何とかして文士として生活出来るようになりたいと思っていた。森田は自分と生田と、同じ「明星」の寄稿仲間だった級友の川下喜一と3人の作品集「草雲雀」を編纂して、出版社を見つけてほしいと漱石に頼んであった。

草平11歳のとき父亀松が死んで、母とくが1人で郷里の家を守っていた。家に多少の資産はあったが、その資産は失われ、今度帰って見ると、母屋も離れも売られて、母は買い手のつかない古土蔵に独住いしていた。
郷里では、彼が数え年19歳で金沢の第四高等学校に入ったとき、彼を追って来て同棲し、退学させられる原因を作った遠縁の森田つねという女が、彼との結婚を待っていた。草平が改めて入った東京の第一高等学校を卒業した明治36年夏、つねは彼の息子を産んでいた。その子(亮一)は、この時数え年4つになっていた。草平が大学を卒業したと知って、つねの両親は彼に結婚を迫った。だが、草平はつねと結婚したくなかった。

8月末、彼は「新小説」に掲載された「草枕」を読んだ。前に漱石から聞いて、大きな期待を持っていたが、「草枕」の出来は、彼の期待以上であった。
彼は「吾輩は猫である」を読んで以来、熱烈な漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。「草枕」を読んだあと、彼は、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、既に抵当に入っていた7,8反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作って、9月初めに上京した。

彼は先ず「草枕」についての感想を漱石に書き送った。漱石からは返事がすぐあった。
漱石は、「今日まで『草枕』に就いて方々から批評が飛込んで来る。来る度に、僕は喜んで読む。然し言語に絶しちまったものは、君一人だから難有い。今日迄受け取った批評の中、最も長く且真面目なものは深田康算先生のものである。尤も驚嘆し、尤も感情的なものは君のである。」と書いてあった。深田康算は森田より4年前に東大哲学科を卒業して大学院に入っていたが、その学才を認められていた秀才であり、漱石が、寺田寅彦とともに敬意を持って接していた後輩であった。漱石の手紙をもらうと、森田は早速夏目家へ出かけた。

■鈴木三重吉
森田の上京と前後して、鈴木三重吉(数え25歳)が広島から上京した。彼は大学2年になった前年9月から、神経衰弱で1年間休学していた。その間に彼は夏目家ですっかり有名な人物になっていた。
鈴木は、三高以来の友人の中川芳太郎に、漱石讃美の長い巻紙の手紙を送ったところ、それが夏目家に届けられ、しかも夏目家に入った泥棒に尻拭きに使われて笑い話になった。また今年5月の「ホトトギス」に発表された彼の処女作の「千鳥」が大変な好評に迎えられ、今度はいい意味で評判になっていた。
漱石は教室で鈴木の顔に見覚えがなく、この頃よく夏目家に出入りしていた小宮豊隆も森田も鈴木の顔には見覚えがなかった。彼を知っているのは中川芳太郎だけだった。いったい、どんな顔の男だろう、ということがよく話題になった。あるとき、漱石あての手紙の中に鈴木の写真が一枚入っていた。それは黒い背景の中に胸の辺まで裸になり、莇(あざみ)の花をあしらったもので、ギリシャ彫刻のアポロの胸像とそっくりに気取った、石膏のように色の白い青年の姿であった。漱石はその写真を見て幽霊のようだといったが、外の連中は好男子だということに一致した。近くその鈴木が上京するというので、夏目の妻の鏡子や女中などは、笑い話にしなからその上京を期待していた。

9月初め、その鈴木が千駄木町57番地の夏目家にやって来た。鏡子が出て逢うと、顔の輪郭はたしかに写真の通りだが、目玉がぎょろりとして、首の長い色の黒い、とても好男子と言える顔ではなかった。鈴木は調子の高い青年で、はきはきとものを言い、自分の才能が漱石に買われているという自信もあったので、夏目家で先輩の寺田寅彦などに逢っても怖じるところがなかった。

漱石は数え40歳、この年4月の「坊っちゃん」と「新小説」9月号に発表した「草枕」により、学者の余業から完全な文士として、文壇人に力を示し、小説家としての漱石の力を疑うことは何人にもできなくなった。
「草枕」における美文調と脱俗的な文人思想との結合は、泉鏡花の方法を思わせるところはあったが、先例のない新しい小説であった。鈴木から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、25歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年4月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。その意識が、もともと調子の高い人間であった鈴木三重吉を、夏目家において自由に感じさせ、自分は漱石に甘える特権があるという意識を抱かせる原因になった。

■俳人たち
この頃、夏目家の来客には、「ホトトギス」の高浜虚子、坂本四方太、篠原英喜の俳人たちがいた。この人々は34、35歳であった。
それから前々年(明治37年)に東大の理科大学講師となり、38年末に郷里から二度目の妻寛子を迎えて小石川区原町12番地に居を構えた数え年29歳の寺田寅彦がいた。
また松山中学で夏目の生徒であり、一高~東大法科に学び、前年に卒業して宮内省に勤めながら俳句を作っている松根東洋城(豊次郎、29歳)がいた。松根はよい家柄の出で、鷹揚な人物であり、漱石の俳句を遠慮なく古いと言って非難した。
他は多く東大の学生か卒業したばかりのもので、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎、小宮豊隆、野上豊一郎、森田草平、鈴木三重吉などであった。

■小宮豊隆
小宮豊隆は、このとき数え23歳、福岡県京都郡犀川村久富に明治17年に生れた。父弥三郎は農科大学の卒業生で、福岡の農業学校の教師をしていた。小宮豊隆が中学校に入学した頃、従兄の丹村泰介というのが熊本の第五高等学校にいて漱石(夏目金之助教授)に俳句を見てもらっている話を聞いていたので、その頃から彼は、俳句、夏目漱石、「ホトトギス」などということを覚えていた。そして中学の4、5年生頃から自分でも俳句を作った。明治35年、19歳のとき、豊津中学校を卒業して第一高等学校に入学。そのとき同時に一高に入ったものに、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、茅野儀太郎、有田八郎、前曲多門、堀切善次郎、青木得三などがいた。小宮豊隆が一高の2年になったとき、漱石がイギリスから戻って一高の教師になった。そのとき校長は狩野亨吉で、藤代禎輔、桑木厳翼、松本文三郎、原勝郎、岩元禎、杉敏介、菊池寿人等の教授が一高にいた。

イギリスから帰ったばかりの漱石は、小宮から見ると、ひどくハイカラな服装をしている点で、教授たちの中でも異彩を放っていた。洋行帰りの教授たちは一般に服装や態度に細心なものであるが、漱石はその点が一層目立っていた。房々と生えた口髭の両端をぴんと刎ね上げ、高いダブルのカラーに、よく身体に合った紺地の背広をきちんと着こなし、ズボンにはよく折目がついていた。靴はよく磨いたキッドの編み上げであった。漱石はそういう服装で、菊倍判ぐらいの黒いクロース表紙の出席簿の角のところをつまんで持ち、爪先立ちにひょいひょいと弾みをつけて、少し俯向きがちに教員室から教場へ歩いて来た。

夏目と同時期にドイツに留学して帰っていた藤代禎輔は、一高教授のかたわら、夏目と同様東大の文科大学でドイツ文学を教えていた。小宮は東大に入ってからドイツ文学を学ぶことにしたので、フロレンツと藤代禎輔とに就くことになった。

小宮は大学に入るに当って保証人を置かねはならなかった。彼の従兄犬塚武夫がロンドンで夏目と同じ下宿にいて親しかった縁によって、彼は大塚の紹介状をもらい、明治38年9月、初めて夏目の家を訪い、保証人になってもらった。彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

森田は、「千鳥」発表のときから、鈴木三重吉に関心を持っていたが読む機会がなかった。9月に上京してみると、「千鳥」の評判はますます高く、寺田寅彦はこの作品に感心して「好男子万歳」と書いた葉書を漱石に寄せ、写生文を熱心に書いていた坂本四方太は「四方太などは到底及ばない、名文である、傑作である」と漱石に書いた。森田は「千鳥」を熟読し、その官能的な筆致には自分の到底及ばないところがある、と思った。しかし、彼は馬場孤蝶の影響でロシアの近代文学を多く読んでいたし、自分の身の上に暗い、解決不可能な事情があったので、自分の書きたいものは告白文学であるときめていた。だから必ずしもこの「千鳥」のようなものは書けなくても構わない、とすかな慰めを感じた。
森田は、ほぼ同じ9月初めに上京した鈴木と夏目家で顔を合せた。鈴木は、いかにも自信ありげに見えた。神経衰弱で休学したというだけあって、鈴木は神経質に見えたが、目玉をぎょろぎょろさせて、始終昂奮しているような賑やかな人間で、夏目家で自分の家にいるように振舞っていた。その率直な態度は、陰鬱な森田や、人々の中で控え目に黙っている小宮よりも漱石の気に入っているらしく、騒々しいほどの鈴木の饒舌を漱石はにやにしなから黙って聞いていた。そして、漱石が時折彼をたしなめると、鈴木は「先生はわしばかり叱る」と不平そうに言った。その言い方にも漱石への甘えが漂っていた。
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10月11日
・サンフランシスコ教育委員会、日本、中国、韓国人学童の隔離指令。以後、対日関係緊張。1907年3月13日に取り消し。
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加計学園の獣医学部新設 最終判断は11月前半に(テレ朝) ; 「日程や内容が報道されるリスクを避けるために日程を再調整」して、11月10日。特別国会は8日まで。←こういう日程調整ね






安倍政権が全力を尽くしてやってきたのは立法府の存在根拠の切り崩しです。質問に答えない、詭弁を弄する、食言する、やじを飛ばす、証人喚問を拒否する、強行採決する、解散する、召集しない・・・そうして「国会は機能していないし、存在しなくても誰も困らない」という信憑を国民に刷り込んできた。 / 「国会なんか開かなくても、行政機構はふつうに機能しているし、みなさんの生活もふだん通りでしょ?つまり国会なんかあってもなくてもどーでもいいということです」というメッセージを発信している   


驕りと慢心の自民党 【国会の質問時間の配分】首相は側近の萩生田光一・幹事長代行に、質問時間の配分見直しを指示。記者会見では、「そういう声が上がったと承知しております」と若手のせいにする ← 信頼を獲得できない人間性 /  ◆麻生政権までは「与党4、野党6」が慣例だった ◆民主党政権下で「与党1、野党9」になり、 ◆安倍政権も通常「与党2、野党8」としている しかし 選挙に勝ったから「与党7、野党3」にしろと。 / 「これだけの民意を頂いた。我々の発言内容にも国民が注目しているので、機会をきちんと確保していこう」 ← また、(自民党・谷川弥一のように)般若心経を聞かせるのか! / (動画)堂故茂議員のヨイショ(質問)「いつか言おうと思ってたんですが、総理、答弁に立たれるたびにですね、必ずこの、ボタンをおかけになります、質問者に対する礼儀を尽くしておられる姿、本当に、好ましい、と思います。本当に、あの、見習いたいな、と思っています」 / 野党時代には質問時間を多く要求しながら、与党になると野党の質問時間を削減する自民党の傲慢さ / 石破茂「我々が野党の時、十分な審議時間を確保すべきだと、野党に配慮すべきだ、と言ったことをさも忘れたかのような発言はまずい。」   






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2017年10月26日木曜日

【醜悪! 傲慢!】 衆院選:麻生氏 自民大勝は「明らかに北朝鮮のおかげ」 - 毎日新聞 / 外敵の脅威を誇張して恐怖心を煽り、我々が守ってやると信じ込ませる、やり口 / 麻生副総理、北朝鮮のおかげ発言「記憶がない」←モリ・カケ官僚答弁と同じ手口か! / 萩生田は「野党の中に北と通じている人間がいる」と言ったけど、ソレ、「麻生」の間違いじゃ? / 同じように、拉致問題も政権維持のために利用されてるんだろうな     




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【訃報】遠藤賢司さんが死去 70歳 / (YouTube)遠藤賢司 - 夢よ叫べ @ 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA! / 遠藤賢司  不滅の男 / 輪島の瞳ー遠藤賢司








いつだって一生懸命やらなきゃ 人の心なんてものは 
決してうちはしないんだと
そう そうだよね 輪島 俺はここに そう 輪島はここに

プロレスはショーで八百長だから なんて偉そうに言うやつに限って
何もわかっていない これからもきっとわからない
だって他人に毎日 ニッコリこんにちわ どうかよろしくなんか頭を下げて
毎日八百長ショーのくせに 毎日八百長のくせに
他人の八百長を けなすやつなんか俺は信じない



【性格の悪さが丸出し】(ANN NEWS画像)女帝小池、マエハラに座敷牢入牢を申し付ける! / (報ステ動画)「はい、次の質問どうぞ」⇐質問を最後まで聞かず、無視する小池 / 辺野古に殺人ギザギザ鉄板を置いた時の井上防衛局長、京都から希望の党から出馬、比例で当選。小池代表のお友達枠だったと特別扱いが批判されています / 希望の党“激論180分”のトホホな中身 小池代表は「ハハハ」と笑い飛ばして…


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韓国政府、公共部門の非正規職20万人を正規職に転換(日経新聞); 政府と地方自治体の公共機関で働く臨時職員ら7万2千人と、派遣職員10万3千人について、公共機関が正規職員に改める。主に高齢者が従事している清掃と警備の職員3万人も定年を延ばした上で直接雇用する。計画が実行されれば、公共部門で働く非正規職員の約65%が正規職に変わることになる。


太田記念美術館で開催中の『葛飾北斎 富嶽三十六景 奇想のカラクリ』展に行った 2017-10-25 『三十六景』全46点と応為『吉原格子先之図』(特別公開)

10月26日、雨
太田記念美術館で開催中の
『葛飾北斎 富嶽三十六景 奇想のカラクリ』展
に行った。

富嶽三十六景というから作品数は36点と思うけれど、
実は、評判が良かったので10点増やして、作品総数は46点、
その46点が、創作のポイント毎に分類されて全点公開されている。

おまけに、
北斎の娘、応為の『吉原格子先之図』が特別公開という、おいしい特典付き。

太田記念美術館、狭いので、ちょっと窮屈感があるけど、
特に2階は、老眼の眼にはぴったり焦点の合う距離で作品をみることができて、嬉しい。

ウィークデイだったけど、人、多かった。

いつもの様に一周して、さらに有名作品を二周目で再度鑑賞した。

いま、国立西洋美術館では、
『北斎とジャポニスム―HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』
というのも開催中なんだな。



関連過去記事
葛飾北斎 『富嶽三十六景 山下白雨(さんかはくう)』 70代 富士に込めた人生哲学 (「美の巨人たち」2016-04-16 メモ)

東京 『北斎の帰還 幻の絵巻と名品コレクション』展を開催中のすみだ北斎美術館に行った 2016-12-09 《隅田川両岸景色図鑑》 《須佐之男命厄神退治之図》(復元) 《あづま与五郎 残雪 伊達与作せきの小万 夕照》 《賀奈川沖本楚之図》 《新板浮絵三芝居顔見世大入之図》 《百人一首乳母かゑとき 猿丸太夫》

ロスト北斎「幻の巨大絵に挑む男たち」(2016-11-23放映)メモ 北斎86歳の時の大作《須佐之男命厄神退治之図》の復元


葛飾応為『夜桜美人図』 ”光と闇”を追い求めた伝説の絵師 (美の巨人たち2016年4月23日) メモ

産経:浮かび上がる幻の女絵師 葛飾応為「吉原格子先之図」 太田記念美術館 北斎の娘 「80歳を過ぎた晩年の北斎の制作助手をしていたことが知られている。北斎にして『余の美人画は、阿栄におよばざるなり』といわしめ…北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる」

あまり知られてないけど葛飾北斎の娘が天才過ぎてため息が出るレベル(NAVERまとめ)

『百日紅(さるすべり)~Miss HOKUSAI~』予告編90秒 (Youtube)






2017年10月24日火曜日

ああ、あの愛媛県知事だったというあの加戸守行さん。もう少しの間、静かにされてた方がアベサマのためには良かったのかも.....。

読売新聞社説。【国会審議から逃げるな】首相は自らの疑惑について「誠意を持って丁寧に説明する」と明言した。新内閣発足を機に、首相の所信表明演説や各党の代表質問、予算委員会質疑などを行うのは最低限の責務だ。見送れば、森友・加計学園隠し」批判は免れまい…


正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(4終) 「「溲瓶を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。」(小森陽一『子規と漱石』)

鎌倉 東慶寺
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 ついでに庭のけしきを見んと、母を呼びて障子を左右にあけしむ。同じ庭ながら病室の前に当る処は鶏頭(*同じ)、葉鶏頭(*同じ)頭など今にぎやかに見ゆれど、こちらの方は見るべき花もなきに殊に日もかげりたれば寒さ身にしみて小淋しき様なり。萩は已に刈られ花もなき菊の一本二本ねぢくれたるが杖に扶(たす)けられて僅(わずか)に腰をあげあり。薔薇(ばら)、朝鮮薔薇は葉大方落ちて返り咲の一輪二輪かすかにほのめく。その後にある一間ばかりの丈の赤松の根元に二枚の板をもたせ置けるあり。こは前日の野分(のわき)に倒れたるを母などが引き起して仮初(かりそめ)の板を置きそれで支へるつもりなり。松に並びて垣根にある桜桃、梅、柿、柘榴(ざくろ)などの苗木、殺風景いはん方なし。

 鉄網の大鳥籠はここよりは病室にて見ると反対の側を半ば見るなり。鉄網を隔てて鶏頭(*同じ)の赤や黄が二、三本見ゆ。鉄網と鶏頭(*同じ)、如何に俗なる事ぞ。されどこの内に面白き処もあるなり。

 平和なる天気は静かに暮れて少しの風もなけれど感冒を恐れて障子をたてしむ。なほぼんやりと頬杖のままなり。頭脳ややのぼせたる気味なれば、硯箱の中に筆と共に入れられたる験温器を取り出して左の脇に挟(はさ)む。胴も腕も痩(や)せたれば脇の下うつろとなりて、験温器ゆるく、ややもすれば辷(すべ)り落ちたるを知らざる事あり。

 母、夕飯を運び来る。験温器を検するに卅七度五分なり。膳の上を見わたすに、粥(かゆ)と汁と芋と鮭の酪乾少しと。温き飯の外は粥を喰ふが例なり。汁は「すまし」にて椎茸(しいたけ)と蕪菜(かぶらな)の上に卵を一つ落しあり。菜は好きなれどこの種の卵は好まず。今夕の飯御馳走(ごちそう)不足にて不平の気味なり。母は今来たる雑誌の封を破つて、傍にある『ホトトギス』募集句の山なせる上に置きながら、今度の『明星(みょうじょう)』は表紙の色が変つた、といふ。余は横目にてちよつと見る、茶色なり。汁をかへよ、といはれて、喰ふて見れば喰へぬほどにもあらねば、かへて喰ふ。芋は、といはれてこれも二皿喰ふ。子芋の煮たてはうまきものなり。粥二碗、汁二椀、芋二皿、鮭の乾肉尽(ことごと)く喰ひつくして膳の上復(また)一物なし。クレオソート三袋。自ら梨一個を剥(む)いで喰ふ。心(しん)を噛(か)み皮を吸ふ。

 少し休みて日記の手入にかかる。妹、五分心の置ラムプを点じ来る。ややありて発熱の気味あり。筆を投じて仰(あお)ぎ臥(ふ)す。験温器を挟み見るに卅八度一分に上る。此の如きは余にありては高き熱にあらねどこの頃の衰弱はこれほどの熱にも苦(くるし)められて二、三時間は、うめきつ、もがきつするなり。さりながら卅九度以上の熱にても苦痛にはさほどの差違なし。畢竟(ひっきょう)苦痛は熱の高低に因るよりも体の強弱に因る事多きか。元気よき時は卅九度の熱ありながら筆を取りて原稿を書く事すらあり。

 夕食後、子規は「発熱」してしまう。「元気よき時は三十九度の熱ありながら筆を取りて原稿を書く事すらあり」と「病気」になる前のことを口惜しそうに想い起こしている。熱は「三十八度一分」。「此頃の衰弱」状態では、このぐらいの熱でも「二三時間は、うめきつ、もがきつする」ことになる。「一日記事」はしばらく書けないだろうことを読者は理解する。

 ふと思ひ出でて仰臥(ぎょうが)のまま『明星』を取りて見る。一枚一枚あけては表題を見、挿画を見る。ゲーテの死顔の画ある処に到りてしばし注目して見る。画(え)ときの短き文を読む。また一枚一枚あけ行くに蛇口仏心と題して余に関せる一文あり。読む。前号に余が受けたる嘲罵(ちょうば)は全く取り消されたり。此度の事は誤報臆測等より出でたる間違ひなれども全体余は世人より嘲罵を受くる値打ありと自ら思ふ。また一枚一枚あけて、あけ終る。

 徒(いたずら)に静臥しあらんはかへつて苦しければ、談話して苦痛を紛(まぎ)らさんと、母を呼ぶ。この時妹は銭湯にでも行きたるらし。母は長火鉢の間の襖(ふすま)をあけて入り来り、ラムプの向ふに坐す。先づ、翌(あす)の晩の御馳走は何にしよう、と余はいふ。これは左千夫、碧梧桐、虚子、麓(ふもと)の四人を明日の夕刻来てくれと招き置きたる者にて、その用事は、頃日(けいじつ)余が企てたる興津(おきつ)へ転居の事今まで遷延(せんえん)して決せざりしを、諸氏と相談の上最後の決定をなさんとするなり。余は前議を取り消して今度は転居中止の議を提出せん心組なり。御馳走てて別に仕様もない、と母の返答。御馳走といふは例の通り何か一つ珍しい者がほしいだけの事なり、この前のやうなおりん饅(まん)はいけないが何か菓子でもあるまいか、茶人が多いからわざと西洋菓子にでもしようか、といへば、西洋菓子とは青木堂へ行くのか、それならば今夜行かん明日はとても行く隙(ひま)なし、と母いふ。今夜てて今から行けるものでない、それなら岡野に何か珍しい菓子はあるまいか、といへば、餅菓子の上等はどうか、といふ。餅菓子の上等、それは余りに平凡なり、と余は笑ふ。それはそれとして膳の上は肴一皿、初茸汁、したし物と定む。したし物にキヤベツはあるまいか、いつかのやうにゆでたやつを牛の油で煮ると非常にうまいが、といへば、母は、牛の油で煮たりしたのでは岡さんが得おたべまい、といふ。得くはぬ処が妙さ、と余いふ。この頃八百徳でキヤベツを見ないからないであらう、といふ話に、なければ何でも善い、といふ事にてこの相談をはる。先ほどより余は左向に寐て、母に背を向けながら話し居たるが相談すみて母は立ちて行く。

 気をまざらわすために、雑誌を読み始めるが、すぐ終ってしまう。子規は「談話して苦痛を紛らさん」と母を呼び、翌日の夕食の「御馳走は何にしよう」という相談をする。メニューを一つひとつ決め、食後の「菓子」のことも話し合う。しかし、その「相談」も済んでしまう。

 また独(ひとり)になりて、今日の日記の事思ひ出す。これ位波瀾なき平和なる日は一ヶ月に二日とはなきに丁度それが日記の日に当りたるは不運なり。しかし余はかつて人に見するにはあらで自分の一日の生活を極めて詳細に書きて見たしと思ひし事あり、その後、志を果さざりしが今この機を利用して今日の記事を書かんには平和なる日こそかへつて自分の境涯を現すに適すべけれ。これを雑誌に載せんは余りに人を馬鹿にしたる事なれどこれを以て消息に代へんには妨げなかるべきか。従来地方の親戚知人より容態を問はるる事しばしばなれど一々詳細の返事もせざるため種々の誤解を来し、あるいは実際の病状よりは重く見て特に虚子抔(など)に手紙を贈りて安否を問はるる事あり、あるいは実際よりは極めて軽く見て、安坐は勿論、多少の歩行位は出来る者として漫遊を促し来り、俳稿その他の添削(てんさく)を頼み来る事あり。これらの誤解を正さんには容体的記事もまた必要なるべきか、などさまざまに思ひ煩(わずら)ふ。溲瓶(しびん)を呼ぶ。

 特別なことが何も起きない「平凡極る日」で、書くことがなく「不運」だと思っていたそれまでの発想を、子規は逆転させる。特別なことが一切起こらない「平和なる日」だからこそ、病床についてからの「平日」の「平常」、つまり毎日毎日繰り返される病床での「自分の一日の生活」、日常生活を「極めて詳細に書」くことが出来るのだ。「自分の一日の生活」を「詳細に書」く、「平和なる日」にしか書けない病床における「自分の境涯」、文字どおりに自分の「生」を写す「写生文」を書こうと、子規は思い立つ。

 公の活字媒体としての「雑誌」の「記事」であると考えると「人を馬鹿にしたる事」になるが、私的音信としての手紙、すなわち「消息」の「代」りだと考えればいいではないか、と子規は言う。実際に「地方の親戚知人」から、よく自分の病気の「容態を問はるゝ事」があるが、「一々詳細」を報告してきたわけではない。そうすると、もう手紙も書けなくなったほどに病状が重くなったと「誤解」し、「虚子抔」に「安否を問はるゝ事」も多々ある。また逆に病状を「実際よりは極めて軽く見て」、俳句の「添削」を頼んで来たり、「漫遊を促し」てくる者さえいるのた。「誤解を正」すためには、「容体的記事も又必要なるべきか」と、子規は「さまざまに思ひ煩ふ」のである。

 ここまで「一日の記事」について構想を立てながら、まだ執筆にとりかかっていないという設定なのだが、読者はまさに「一日の記事」、子規の「一日の生活」の「極めて詳細」な「容体的記事」の叙述をずっとここまで読んできたことに気づかされる。それだけではない。あらゆる出来事について文字で記すところの「記事」を書く行為は、記述されている全ての出来事が終った段階で実践されるはずだという、あたり前のことを突きつけられる。実に巧みな写生文の特質への自己言及である。

 先刻来慢性的嘔吐(おうと)を催す事頻(しきり)なり。こは殆(ほとん)ど平常の事なれど今夜はやや多量なり。晩飯を喰ひ過ぎたりと見ゆ。

 妄想は一転して倫理教育の上に至る。中学以上の生徒に分りきつたる忠孝のお話など何の役にも立たぬ事なり。殊に不道徳なる先生の鹿爪(しかつめ)らしき道徳談や、あるいは二、三十円の月給を頂戴(ちょうだい)してやうやうに中学校の教員となつて校長のお髯(ひげ)を払ふやうな先生が天下丸呑(まるのみ)の立志論を述べ立つる抔(など)片腹痛きにも限りあるものなり。今は知らねど余が中学や高等中学に通ふ頃の倫理の先生は必ず漢学者なりしもをかし。こは倫理学は西洋よりも支那が発達し居るといふ訳にや、または漢学者の道徳は西洋学者より高きといふ訳にや。このわけ校長に聞いて見たらば校長も返答に困るなるべし。学生の道徳を高くするは薫陶(くんとう)より外に良法なしと思ふ。されどもし倫理科の先生を置かざるべからずとせば校外に求めてもなるべく名望ある人を聘(へい)して講釈でも演説でもさすべし。生徒の軽蔑し居る先生がいくら口を酸(すっぱ)くして倫理を説くとも学校内のいたづら者が一人にても減るまじ。今の東京の高等学校にては哲学的の倫理学を説くとか、そは不道徳先生の道徳談に勝ること万々なれど、これまた倫理哲学を教ふるがためにいたづら者の一人にても減るまじきは前同断なり。

 妄想また妄想、終に漢字制限論に移る。文部省が尋常小学四年間に教ふべき者として漢字千二、三百を択びたるは一日一字を覚ゆるほどの割合になりて字数の上にてはほぼ適度を得たるべし。されどその字の択び方は当を得たりや否や疑問に属す。余は字引を繰つて普通なる字を片端より抜き出だすなどの方法を取らんよりも、小児の談話を筆記し、その中よりその一人その一家またはその一地方に固有なる語を省き、極めて普通なる者のみを択び、これを標準として教科書を作らば、教へらるる者には記憶しやすくして忘れ難きの利あるべし。たとへば三歳の児童の用語、四歳の児童の用語、乃至(ないし)、五歳、六歳、七歳とその年齢に従ひて用語表を作らば教科書を作るの参考になるのみならず、児童心理の研究にも裨益(ひえき)する事論なし。はた詩人の眼より見ても興味少きにあらず。

 ふと自分が仰(あお)のけに臥したる影の大きくなりて襖(ふすま)の上に写りたるを見るに、両膝を立てたる上に毛布を著せたれば、その影はのつぺりしたる山の如く、膝(ひざ)の処にてどんと絶壁をなして急に落ちたり。これをつくづく見る内に、近頃しばしば書く、文章の山の図を思ひ出す。しかも落語的尻きれ的の拙(つたなき)文章を図に現す時、山の形が、今の膝の影に似たるによりて自分の影をますます面白からず思ふ。

 妄想と、寝返りと、口の内にて演説のまねと、今朝来の経過を繰り返して考へ見る事と、二つの扁額(へんがく)、(為山の水絵、不折の油絵)を見つむる事と、これらの中にやうやう苦痛の三、四時間を過ぎて、熱次第にさめかかる。

 子規は、「襖の上に写りたる」「自分」の「仰のけに臥したる影」に気づく。「両膝を立てたる上に毛布を着せ」ているので、その影は「山の如く」見える。「膝の処」から「絶壁」のようになって、「急に落ち」ている。この自分の影を見て、子規は「写生文」の実践のために開催するようになった「山会」で、繰り返し強調している「文章の山の図を思ひ出す」。

 「写生文」には必ず「山」がなければならない、というのが「山会」の命名の理由である。自分の「膝の影」は、「落語的尻きれ的の拙さ文章を図に現す時」と同じ「山の形」だ。子規は「自分の影を益面白からず思ふ」と記述しながら、「妄想と、寝返りと、口の内にて演説のまね」、そして「二つの扁額」を「見つむる事」という具合に、「今朝来の経過を繰り返して考へ見る」と書く。

 余は勇気を鼓して右向に直り筆を取る。再び日記の手入にかかるほどに、熱全くさめて、頭脳明瞭に、筆の進むを覚えず。発熱後はいつも頭脳明瞭にして仕事の捗取(はかどり)非常に早ければ昨年頃までは徹夜して為したる仕事多かりしが、翌日苦しき故に今は徹夜する勇気なくなりたり。発熱後一、二時間の仕事にてもその夜は睡眠出来ずして翌日は一日頭悪く仕事も何も出来ぬが例なり。

 四隣ひつそりとして音なく、日記の手入次へ次へと移る。母は忽然(こつぜん)襖をあけて、煎餅(せんべい)でもやらうか、といふ。これは平生夜仕事の時に何か食ふが例となり居ればかくいふなり。生憎(あいにく)今夜は嘔吐やや烈(はげ)しかりしために腹具合悪く、食慾なけれど、無下(むげ)にことわるも如何にて、煎餅より外に何もないか、といへば、今日貰ふたる日光羊羹(ようかん)ありといふ。食意地(くいいじ)のきたなさに、それ貰はうか、と答ふ。母は羊羹を持ち来りて小刀にて切る。二切を食ふ。母も食ふ。時計十二時を打つ。

 また筆を取る。終に秀真の鋳物日記に到る。これが今度の募集日記の第一等なり。面白く趣味ある材料の充実したる上に、書き方子供らしく真率(しんそつ)にして技術家の無邪気なる処善くあらはれたり。書き直すに及ばず。二、三個処字を直して、それにて全く総ての日記の手入終る。嬉し嬉し。

 母を呼んで、もう寐る、といふ。妹は湯の労(つか)れにて早く寐たりと覚ゆ。母は病室に敷きある蒲団の上に更に毛布を敷きなどす。余は再び病室の方に這(は)ひ戻りて蒲団に上るや否や頭を枕の上に安めて、口の中にて、極楽、といふ。日記の手入すみたるが馬鹿に嬉しきなり。母は余が枕元に背の低き角行燈(かくあんどん)をともし置き、坐敷の方の硯箱、原稿など片づけて寐に就く。

 羊羹のためにや口の中苦し。一時を聴く。

附記

喀痰(かくたん)は一昼夜の分量、二個のコツプに六、七分目づつ位なり。朝殊(こと)に多し。血痕(けっこん)をまじへず。
睡眠の時は多く仰臥なり。仰臥も後には背の痛み堪へ難くなればその時は左向に寐ぬ。寐るには右向よりも左向を可とすれど、左向になりては頭を蒲団の上にすりつくるやうにして寐るのみにて、半ば体を起して仕事などする事出来ず。かつ左向は長く続かねば終には仰臥に返るなり。左の足は屈(かが)まりて伸びず。故に仰臥の時は左の膝は常に立て居るなり。沐浴(もくよく)せず。時々アルコールにて体を拭(ぬぐ)ふのみなれどそれも一ヶ月に一、二度位なるべし。但(ただし)足先の垢あかはアルコールにて取れねば一ヶ月に一度位脚湯(あしゆ)するなり。
斬髪は一ヶ月一度位、床屋を呼び来りて、自分は半ば身を起して居て刈らしむ。
食器抔(など)は余の分と家人の分と別々に取り扱ふなり。来客の分はいふを待たず。
郵便は一日平均三、四通はあるべし。されど『日本』への投書などは家人の取扱に任して余は手も触れねばこの日も何通来りしや知らず。
この日位の熱は平常なり。この頃は筆取らぬ日さへ多ければこの日の如きは多くの仕事をしたる日なり。けだし平日よりは余の気分の善かりしを証するに足る。

 以上で、子規の平和な一日が終る。
 
 『記事』に読み取れる介護を受ける側の介護者への気遣いについて

「溲瓶を呼ぶ」
 規は「おい、溲瓶」とでも言うのだろうか。
そう言ったからといって「溲瓶」が自分でやって来るわけではない。持って来るのは母か妹である。排尿させるには、男性器をつまんで溲瓶の中に入れ、終ったら同じようにして外に出して、下着の中に入れなければならない。介護者は肉身とはいえ二人とも女性である。排便は「繃帯取換」と連動しているから、日課として律の仕事に組み込まれているが、母や律が忙しく家事労働をしていることがわかっていても、尿を漏らす前に呼ばなければ、かえって大事になる。

 「溲瓶を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。

 「溲瓶を呼ぶ」という五文字があらわれるのは、朝昼晩のわずか三回。あまりにも少なすぎる。
そこに読者が気づくと、にわかに昼食の記述の際の「漬物と茶は用ゐぬ例なり。自ら梨二個を剥いで喰ふ。終に心を噛み皮を吸ふ」という記述が「山」になっていることに注意が向く。喉がかわかないように塩分をひかえ、排尿が少なくなるよう水分をひかえているから、「梨」の「心」や「皮」まで、「吸ふ」ことになる。
こうした「山」をつなげていくと、『明治三十三年十月十五日記事』が介護を受ける側の人間と、介護をしてくれている人間との間の、心の動きの「山」並の「写生」になっていることが伝わってくる。

おわり