2018年9月30日日曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(4) 吉井忠 松本竣介 寺田政明 古沢岩美 生まれる

里見勝蔵《室内(女)》 1927昭和2年
*
1908年(明治41)7月25日
吉井忠、福島県福島市陣場町に生まれる。
福島第四尋常小学校から、福島県立中学校に進学し、同校で英語教師をしていた阪本勝(後の兵庫県立近代美術館館長)に影響を受ける。

1912年(明治45年=大正元年)4月19日
松本竣介、東京府北豊多摩郡渋谷町大字青山北町七丁目弐拾七番地(現在の東京都渋谷区渋谷一丁目六番一号)に生まれる。
父は(佐藤)勝身(盛岡藩士の家系)、母はハナ、2歳年長の兄彬との2人兄弟。
「松本竣介はもと佐藤俊介といった。姓が変ったのは、昭和十一年に松本禎子と結婚して妻の姓を名のってからである。「俊」を「竣」とあらためたのは、さらにそのあとである。」(『池袋モンパルナス』)

1914(大正3)
峻介2歳の時、一家は花巻に転居(父は盛岡出身)。
勝身のここでの事業は、シードル(発泡性林檎酒)製造販売で、勝身はその仕事を友だちと共同で始めていた。
竣介は小学校3年生の終わりまで花巻で過ごす。ゴムマリのように肥えて、生まれてこのかた泣いたことは殆どなかったという。

1919(大正8)
4月(7歳)、花巻川口町立花城尋常高等小学校入学
小学校の成績は抜群。3年生の学芸会の日、全校児童と父兄に見まもられながら壇にあがり、「大江山 佐藤俊介」と書いた雄渾な筆跡に拍手が鳴りやまなかった。
図画はもっとも得意な科目で、教室で手本を几帳面に写し、校庭に出ては、そびえるポプラや、この花城小学校のシンボルの鐘楼を描いた。
当時のライヴァルは砂賀(さが)光一といった。砂賀はのちに東京で偶然に竣介と再会し、以後その死まで深くつきあうのだが、小学校のころはときどき、とっくみあいをした。
非のうちどころのない子だった。理解力抜群、よく勉強し、いつもにこにこしていた。級長選挙では毎回満票を得ていた。図画は友たちのぶんも描いてやるほど巧みだった。
竣介は、算術や理科が好きだったから将来は技師になりたいと思っていた。

1922(大正11)
3月、一家は盛岡市に移る。
4月、岩手県立師範学校附属小学校に転校。のちに東京の自由学園に転じる佐藤瑞彦の教え子となる。佐藤は峻介を卒業後も支援し続ける。

1925年(大正14)
3月18日、一番の成績で卒業し、エリート校である岩手県立盛岡中学(現、盛岡一高、卒業生に宮澤賢治や石川啄木ら)に一番で合格。
入学式の前日(4月5日)、母ハナと兄彬と3人でちかくの警察官の家に招かれた。その家の子も盛岡中学に合格したので、両家そろってお祝いしようということで、ちらし寿司をご馳走になった。
帰途、中ノ橋のうえで彬が浮かれて弟の背中を軽くぶつと、竣介は悲鳴をあげ、涙をう浮かべて兄をみつめた。その夜、竣介は激しい頭痛に襲われ一睡もできなかった。翌朝は牛乳1本を飲むのがやっとだった。
家族は入学式を欠席するよう勧めたが、竣介はどうしても行くと主張したので、母は人力車を呼び、竣介は父に抱きかかえられてそれに乗った。式では校長の訓話の間、頭を揉み続けていた。教室で担任の話をきくうちに、父は無理やり竣介を連れ出し、待たせておいた人力車で家に帰った。
呼ばれた医師は鎮痛剤を打ったうえで、明日入院するように言った。
翌朝、医師は脳脊髄膜炎と診断し、助かる望みは少ない、助かっても知能は回復しないと言った。
医師は脊椎の間に太い注射針を射し込んで混濁した液を吸い取り、その後へ血清液を注入した。竣介は悲鳴をあげた。父の頭髪は真白になり、母は病院の中庭の木の下にうずくまり耳を覆っていた。竣介は以後、脂汗をながしながら激痛に耐えた。
3日目、耳が聞こえと訴えたが、病気が治れば耳は聞こえるようになると家族は思い、法華経を唱えながら、ただただ予言の14日目を待った。
14日目の午後1時頃、うめき声が薄れて眠りに入った。深夜、目覚めてサイダーが欲しいと言った。それまで何も口にしてなかったので家族は驚き、喜び、兄の彬が夜の町に買いに走った。竣介はそれをうまそうに飲んで微笑み眠りに入った。医師はいい兆候だと言った。病状は快方に向かったが、聴力は戻らなかった。"
初秋に退院し、10月に登校したが、耳が全く聞こえないので勉強は無理だと言われた。しかし、盛岡中学の校長は翌年の新学年から1年生として通学することを許可した。

1926年(大正15年=昭和元年)
5年生の兄と連れ立って通学。
毎学期末に成績が貼り出された。竣介は聴力と同時に平衡感覚も失っていたので体操と武道は免除されて席次をつけてもらえなかったが、その他の科目の成績は全て甲だった。教師も友も、耳が聞こえないのにこの成績と驚いた。竣介は、正規の学科の柔道・剣道がやれない悔しさから弓術倶楽部に入った。
父は竣介にカメラと現像・引き伸ばしの機器一式を買ってやった。父は、竣介を陸軍士官学校に進めたいと思っていたが、その望みが断たれたため、本人の希望通り工学の道に進ませてやりたい、それにはカメラが役立つだろうと思った。
竣介は戸外に出て写真を撮り、本でしらべて現像液、定着液を調合し、押入を暗室にして現像、焼き付け、引き伸ばしまでやったが、やがて興味を失った。父は、こんどはドイツ製のスケート靴を買ってやった。その頃の盛岡の少年たちは下駄スケートを履いていた。竣介は喜んで池に行って滑ってみせた。スキーも買っても貰って、滑った後は丁寧に手入れしてみせた。
しかし、竣介の心は沈んでいた。
小学校卒業までは耳が聞こえたので、教科書を読むと日本語が聞こえてくる。ただ、英語は聞いたことがないので、リーダーを読んでいてもどう発音するかわからず、先生や友たちが読んでいるときにどこまで進んでいるのか見当がつかない。英語が出来なくてどうして技師になれるんだと竣介は思った。

1927(昭和2)年
竣介が2年生になった年、兄・彬は卒業して上京し、府立一中の補習料に通い始めた。兄は、同郷の画学生(古沢行夫=のちの漫画家岸丈夫)に勧められて神田神保町の角の画材屋で小さな木箱に入った油絵の具一式を買って弟に送った。竣介は洋画の技法書を読み、やがて細かい唐草模様の大皿を写生し始めた。描き終えてそれを写真に撮って八つ切りに引き伸ばし、大皿も写真に撮って同様にして、この2枚の写真を父母に見せて、どちらが実物写真かと尋ねた。
両親は判別ず絵の出来栄えに感嘆していると、竣介は、「みた物をそっくり写せないようでは絵を描く能力があるとはいえないんだよ。でもそれだけではだめなんだ」と言った。
この年、中学生の展覧会に二度小品が入選し、画家への道を考えはじめる。
10月30日、市内中学生を対象にしたスケッチ競技会で2等賞を受賞、この頃行われていた七光社展に作品が展示される。
11月、男子師範学校生の美術団体白楊会を中心として開催された市内中学校絵画展に出品した。

1912年(明治45年)1月3日
寺田政明、福岡県八幡市に生まれる。

1912年(明治45年)2月5日
古沢岩美、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。
1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡る。

つづく




小泉進次郎のウソくささ ; デヴィ夫人 「わたし、もう小泉進次郎さんガッカリしちゃって、あの煮え切らない態度、何で石破派のくせに安倍さんに遠慮しなきゃならなかったか…冷や飯食べてほしいわ。」 遥 洋子さん 「デヴィ夫人が彼の嘘くささに気づいた!」


沖縄県知事選 ; 辺野古移設 に反対する前衆院議員玉城デニー 氏(58)が初当選。ゼロ打ちの圧勝! 自公候補を瞬殺! 政権忖度NHKぐずぐずしてたけどようやく当確出した! / 史上最多得票! 玉城候補と佐喜眞候補の票差は約8万票(前回約10万票)。ただし、前回の翁長知事より玉城候補の得票数は3万票ほど多い。 / U.S. Marine’s Son Wins Okinawa Election on Promise to Oppose Military Base(ニューヨーク・タイムス)/ 学会員、実は「4割が玉城に投票」 自公崩壊の序曲     




































▲常套のインチキは沖縄では通用しなかった!































コムデギャルソン、川久保玲インタビュー「仕事に楽しみは感じない」(The Guardian);「彼女は自分自身にレッテルを貼ることを拒んでいる。だが唯一、「パンク」であるとだけは自認している。「パンクは一つの精神であり、生き方だ」..........「物事が簡単すぎると、人々は考えなくなり、進歩が生まれない。これはファッションだけではなく、すべてに言えることだ」



(略)

フェミニストたちが川久保を自分たちのヒロインだと呼びたがる一方で、彼女は自分自身にレッテルを貼ることを拒んでいる。だが唯一、「パンク」であるとだけは自認している。「パンクは一つの精神であり、生き方だ」

 ジョフィの通訳によると、川久保はパンクとして「イージーファッションに怒りを感じている。スポーツウエアやストリートファッションが人気だが、それでは本当の意味で因襲を打破するとは言えない。人々はこうしたファッションに夢中になっているようだが、まったく反逆的ではない」と語った。ファッションは気軽であってはいけないのか?と聞くと、通訳された言葉を聞いて激しくうなずいた。「物事が簡単すぎると、人々は考えなくなり、進歩が生まれない。これはファッションだけではなく、すべてに言えることだ」

(略)



【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その17)「みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池のなかでもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。.....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その16)「〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;世田谷区〉
『東京日日新聞』(1923年10月21日)
「鳥山の惨行」
9月2日午後8時頃北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向って疾走する1台の貨物自動車があった。折柄同村へ世田谷方面から暴徒来襲すと伝えたので同村青年団在郷軍人団消防隊は手に手に竹槍、棍棒、鳶口、刀などをかつぎ出して村の要所々々を厳重に警戒した。
この自動車も忽ち警戒団の取調べを受けたが車内には米俵、土工用具等と共に内地人1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原土工親分二階堂友次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼がありそれに赴く途中であった。
鮮人と見るや警戒団の約20名ばかりは自動車を取巻き2、3押問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする兇器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時経てこれを知った駐在巡査は府中署へ急報し、本署から係官急行して被害者に手当を加えると共に一方加害者の取調べに着手したが、被害者の1名は3日朝遂に絶命した。なお2日夜警戒団の刃を遁れて一時姿をくらました2名の鮮人中、1名は3日再びその付近に現われ軽傷を受けて捕われ、他の1名は調布町の警戒団のために同日これまた捕えられた。被害者は3日府中署に収容されたが、同署の行為に対し当時村民等には激昂するものさえあり「敵に味方する警察官はやっつけろ」などの声さえ聞いた。 

『国民新聞』(1923年11月10〜12日)
「鮮人18名刺殺犯人12名起訴さる府下千歳村の青年団員」
9月3日夜、府下豊多摩郡千歳村に起こった鮮人18名刺殺事件の嫌疑者として〔略〕取調を受けていた同村、青年団員並木総三(51)・福原和太郎(43)・並木波次郎・下山惣五郎(29)・宮崎龍助(50)・下山武市(24)・小泉春三郎(24)・駒沢金次郎(23)・下田久治(23)・下山馬次郎(00)・下山友吉(24)・志村幸三郎(50)の12名は8日いずれも殺人罪で起訴され〔略〕。

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
内田良平〔政治活動家〕
2日午前1時頃〔略〕小倉房一が浅草観音堂裏に避難中、2名の鮮人が〔略〕いるを見つけ、大声を発したるより避難者が騒ぎ立ちたるため1名の鮮人は捕えてこれを殺したるも、1名は伝法院の方へ逃れんとするを追い駈け遂にこれを見失いたり。
〔略〕同日〔1日〕夕刻朝鮮人が〔略。観音劇場を〕出て来る所を怪まれ群衆より殺されたるが、それは彼等前後の挙動及言語より察するに鮮人なること証明せられたり。
〔略〕不逞鮮人の行動に就ては〔略〕青年団員に攻撃せられ〔略〕その集団数十名なりし由なるが、その6名を斬殺したり。
〔略〕伝法院の庭の中〔略〕捕えられ鮮人なること明白となり、直ちに群衆より殺されたり。
〔略〕浅草公園にては1日夜より2日にかけ多数の鮮人出没しつつありしか飛行機館の助かりたりしは当時これを保護したる土木請負高橋秀次郎にして、同人はその子分等は共に抜刀を以てこれに当り、その警戒頗る厳重なりしによるという、その付近にては怪しき鮮人の殺されたる者頗る多数に上れり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
香取喜代子〔ひょうたん池のほとりで避難生活〕
・・・・・結局もう2日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるから - そのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよね - だから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人もわるい朝鮮人も全部かまわずね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう……。
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池のなかでもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて。〔略〕ひょうたん池のそばに大きな木が2本あって、方々に木がありますからね、2本の木の股にかけて、材木を買ってきたのとトタンでね、焼けた劇場のドアですよね、ああいうの突っ立てて、一時そこに6畳ぐらいのとここしらえてね、12日ぐらいいましたか。そしたらね、毎晩なんですよ、朝鮮人を見たらとらえろ、ぶっ殺しちやえっていうのね。はな、みんなね、5日ぐらいはぶっ殺しちやえだったんですよ。2週間目ぐらいになったらね、今度劇薬をね、方々に置くとか、そいから燃えるようなもの、アルコールとか揮発油とかいうものを建物のそばへ置いて火をね、燃すから気をつけろ、気をつけろってね、触れて回るわけですよ。〔略〕
殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたに去って連れていかれた。
3人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、5、6人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだーって。そしてひょうたん池ん中から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、32、3の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンとでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。〔略〕
ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。(1970年頃の聞き書きより抜粋)
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで - 関東大震災聞き書き」『新日本文学』2000年10月号、新日本文学会)

つづく




2018年9月29日土曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(3) 1907年(明治40年)長谷川利行(16歳)~1911年(明治44)長谷川利光20歳

佐伯祐三《ガス灯と広告》 1927昭和2年 東京国立近代美術館蔵
*
1907年(明治40年)長谷川利行(16歳)~1911年(明治44)長谷川利光20歳

6月、母照子逝去。(一説には1910年)

耐久中学の雑誌『三一会会報』4号(8月発行)に「快楽と悲哀」を掲載。

「 - 故に悲哀の裏には快楽潜み、快楽の陰には悲哀の伴うものなり、(略)彼の偉人傑士と世に尊崇せらるる者の多くは能く忍び難きに忍び、耐え難きに耐え、如何なる悲哀に遭遇すとも、決して屈撓せず、以って有終の快楽を購ひ得たるに非ずや、然るに今人の情として其の多くは目前の快楽を得むが為めに働きて自己の力尽き、根涸れ尚能く得る能わざるときには失望落膽して毫も当時の意気を覚むる能はず懊悩煩悶するなり、鳴呼彼の徒、口を開けば処世難を叫び、或は平等説を唱え、又は社会主義を鼓吹せむとす、されど所詮は蜜の如き甘き快楽をのみ揃へむとするなり、(略)」(「快楽と悲哀」)

「同級生間の噂では、全くの高踏派、水彩画は群を抜いて上手、短歌も作るとのことで、一見旧知の如しで、それからは全く心置きなく話し合うやうになりました。・・・長谷川君は、近くの広村の下宿から通学してゐました。小生は寄宿舎生活で、当時の舎費としての生活費は一ケ月四円五十銭から五円までと云ふ時代でした。その寄宿舎は、松林と芦荻の入りまじつたジャングルの中でした。・・・二年が終り三年になりましたが、甲乙二組に別れたままで、同じ教室ではなかつたので、学習の英漢数等の成績は私にはわかりませんでした。ただ一年に二回ほどある学業成績発表の折りの利行君の水彩画は、全く群をぬきん出て秀抜で、一級上の守野綱一君の書と好一対でした。長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてる(い)た小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」)。

1908年(明治41年)の長谷川利行(17歳)
 3年のとき、同学年生薗悌次郎、紀南新聞記者井上豊太郎、浜田峯太郎とで同人雑誌を発行。小説、詩、短歌など多作する。
「当時、長谷川君は繁児と云ふ奇妙な雅号で、その因縁を問ひただしても答えず、ただ恋人に因めるものを云つたやうに思ふ」(薗悌次郎「思ひの記」)。

雑誌を機縁に上級生金沢種美と交友。
「「人として彼(註・長谷川利行)を知ったのは、私達の中学時代、即ち明治四十年前後であり、彼は私より三つ程も若く、私が五年、彼が三年の頃である。絵を習つてゐるといふことであつたが、私達が知り合つたのは共に文学少年としてであつた。彼が紀州の耐久中学生でゐながら小さな雑誌を出してゐたのに、友人の紹介で歌や評論を寄せたのが、私と彼との繁りである。彼は時に歌も詠んだが、最もその才能をみせたのは創作であつた。これが田舎の中学生の作品かと思はれるほどコクのある作品を書いたが、文章には可成り飛躍性があつて晦渋に陥つてゐるとおもへるものもなくはなかつたが、彼が順調に素養を積めば恐るべき作家にならうと思つたのだが、何時の間にやら雑誌も廃刊して爾後消息を不通にしてしまつた」(金沢種美(高崎正男『長谷川利行画集』明治美術研究所刊))。

 夏休みには帰郷せず、同人雑誌仲間と浜田峯太郎の実家、日高郡和田村和田に遊ぶ。

1909年(明治42年)、長谷川利行(18歳)
冬休みの後に耐久中学を中退か。
「かくして明治四十二年になったが、其冬休みを境にして、利行君は全く学校に姿を見せなくなつた。友人たちとも、いろいろ話し合つたが、失恋のためとかの噂が流れて、そのままに利行君の記憶は、同級生の誰からも消えて行つてしまひました」(薗悌次郎「思ひの記」)。

1910年(明治43年)、長谷川利行(19歳)
■画家 - 芸術家になるのは天職だと信じるようになる
中学中退後、29歳で上京するまで利光は何をしていたのか、経歴の多くが空白になっている。

利光の姪、弟・利邦の2女の邦子によると、利行は幼い頃から利其の勧めで絵を習い、高名な画家とも接触があったという。
明治43年8月、水彩画家大下藤次郎が主宰する講習会が滋賀県膳所で開催された折の記念写真がある。その中の利行は端正な顔立ちで存在感を漂わせて写っている。
大下藤次郎はわが国の水彩画発展に多大な貢献をなした画家で、明治34年、技法書『水彩画之栞』を出版し、全国に水彩画ブームを巻き起こした。萬鉄五郎は郷里岩手で同書に接し、制作を始めた。すでに洋画を描いていた坂本繁二郎も写実の基本を学んだという。
当時11歳の利行は、写生大会で藤島武二から画紙を貰ったり、鹿子木孟郎の指導を受けるなどしているから、大下の同書に目を見張らせたと推測できる。利行は大下を崇拝し、彼が41歳で急死する前年に、彼から画筆の年賀状を貰い感激している。
大下は美術雑誌『みづゑ』を創刊させ、また水彩画講習会を組織的に開催するなど事業家としての貌も持っている。
中学中退後の利行は『みづゑ』の熱心な読者で、水彩画を描き、投稿をしている。

明治43年春、利光は「おのれの告白」という文章を投稿。
正月の雪の降った風景に接し、詩をつくり歌を詠み、絵を描き、そして芸術家を志す決意を示している。

「 - するとおのれはどうしても自然画の側にたちてゆく人だ。画家 - 芸術家になるのは天職だと信じるようになる。(略)歌も詩も文も作ったが、描いた絵画が痛切におのれに見ばえがしたのである」(『みづゑ』明治43年3月号)

1911年(明治44)長谷川利光20歳
 8月21日から1過間、『みづゑ』主催水彩夏期講習会に参加。
「幼い時敦賀で兩親と一年程生活したといふ、しかし私にはそんな記憶はさらさらない。畫を描く人の幸福は、敦賀の町と敦賀の海と懐かしい海のトレモロを聞くことを、北國のローカルカラーを景色の曲線美と色彩に富めることを賞美措く能はずであらう・・・」

「水彩畫の講習の成蹟はどうであらうと、私には敦賀の風景畫を讃美せずには居られない、私にデッサンを充分ならしめよ、おまへには必と握手してやると再會を約束したのである、自然に忠實であるはづの私に少くとも檜筆を持つことのいま少しく親しみたく思ひ到つた、未熟な畫生はいたづらに奔走するよりも檜畫の根本的研究をやり、色彩を離れて自然の肖像を畫き。とる丈の素養を養成して置きたく切に思つた。アマチュアで結構、凡人畫工で結構、或はペンキ屋の畫工でもよい、私には尊重すべき品性問題より口考した水彩畫そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をもの新らしく知覺したのである」(利行「敦賀の所感」)。

なお、「敦賀の所感」中に短歌5首が載り、そこでは「繁児」という雅号を使っている。

つづく

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html

日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
https://blog.kenfru.xyz/entry/2017/03/09/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%80%8C%E4%BB%8A%E3%81%8C_%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%81%97%EF%BD%9E%E9%AC%BC%E6%89%8D_%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%88%A9%E8%A1%8C%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%9B


沖縄県知事選。金平キャスター「佐喜眞陣営は組織力、宣伝力、物量で玉城陣営を圧倒。そういう意味ではプロの選挙戦を見せつけられた。一方の玉城陣営はあくまで草の根の力。両陣営の戦い方の違いを見ていると、本土政府と沖縄県の現在の関係の相似形に見えた」







マレーシア首相「後退だ」 日本の憲法改正の動きにクギ(朝日);「マレーシアのマハティール首相が28日午後(日本時間29日未明)、米ニューヨークの国連本部で会見し、日本で憲法改正の動きが出ていることに「戦争に行くことを許すようにするなら後退だ」と述べた」 / 「日本の平和憲法を模範に」 宗像でマレーシア首相 「戦争放棄」評価、採用に意欲(西日本新聞)








福島第一原発の処理汚染水 8割以上が基準超の放射性物質 | NHKニュース ; 複数のタンクでは、放射性物質を処理する設備の不具合で基準の2万倍近くに達しているとみられる放射性物質もある





田村智子「(森友・加計門題で)70数%が総理の説明に納得いっていないと言うのは非常にやわらかい言い方で、つまり本当にたくさんの国民がこの国の総理大臣は嘘つきだと思ってる。なのにまたこんな票で再選するのかと、3選するのかと、自民党の末期症状を見てしまう思い」












【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その16)「〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その15)「そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。.....夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。」(『いはらき新聞』1923年9月4日)
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;世田谷区〉
小池嘉平
〔二子玉川の鎌田町で〕2日め位から誰が言ったかわからないですが「溝の口方面で鮮人が暴動をおこして大挙して東京へ襲撃してくる」「神奈川県の住民はほとんど殺されている」といううわさが流れてきたんです。そしてその時、溝の口警察の方面で半鐘を乱打するです。「それ! 大変だ!」ってわけですよ。それがさらにすすんで、すでに「玉川の堤防のむこうに暴動をおこした朝鮮人が散兵している。堤防のむこうの住人は殺されちゃってる。まず老人と女、子供をまとめてお寺なんかに1カ所にまとめちゃえ」と触れがあり、青年団の屈強なものをはじめ残りのものは非常招集です。
「手ぶらできちゃいかん、むこうが刃物をもってるんだから、こっちも凶器をもたなくちゃいかん」「日本刀のあるものは全部日本刀をもってこい。槍のあるものは槍を出せ」というんで、倉の中からひっぱり出してくる(ママ)ですが、もう錆びてるわけですよ。錆びてちゃ仕方ないからみんな研いでね。「さあいつでもこい」というわけです。私は18歳ですから”土地を守れ”ということで青年団に入らせられました。
その頃、二子玉川のすぐ上に渋谷水道〔渋谷町水道〕の水源地があるんですが、それに薬品を朝鮮人たちが投げ込む、同時に各家庭の井戸に薬品を放り込む。もたもたしてたらやられちゃうから井戸に蓋をしろといっていました。
そのときは渋谷水道はまだ完成してなかったんです。朝鮮人は労務者、今でいう土方ですが、渋谷水道は朝鮮人がつくっていたわけです。それで工事現場にいた朝鮮人を1カ所にまとめちゃったわけです。こういうわけだからあんた方は外へ出ないでもらいたい。食糧の補給はいっさいやるからといっているうちに戒厳令が出て〔略〕。
それであの地方は、各所に朝鮮の部落があったんですが、朝鮮人同士で連絡をとられると困るというので連絡をとられないようにしようと検問所を設け切断をはかった。わたしも日本刀を腰へぶちこみ、兵児帯しめました。1週間位して戒厳令が布かれて兵隊が渋谷水道まもっているんです。朝鮮人同士の連絡はさせないようにしていたんですが外部から朝鮮人の誰かが連絡にきたらしいんです。それで軍隊では「三声」といって「誰れだ、誰れだ、誰れだ!」って3回いって応答がない場合は、発砲してもかまわないことになっているんですが、10時頃「ドォーン」と軍隊の銃の実弾の音がきこえ、「ヒューウ」と風をきったのです。「それ! はじまった」てんで村中の人が大騒ぎした。軍隊の方は「だれだ! だれだ!」と声をかけるがわからない。そのうち「桑畑の中に逃げ込んだ」ていうんで、すぐさま全部のものが桑畑を包囲し、夜があげると同時にしらみつぶしにやったんですけれどだれもいなかった。いたらもうそらあ殺すことだってやりかねなかったですよ。だいたい銃音を聞いた時はすごかった。あの音を聞いた時、中にいた朝鮮人は非常に騒いだそうですよ。軍隊があとでいうには、お前たち騒いじぁいかん、お前たちを殺るんじぁない、といったらやっと落ちついたらしいですね。
渋谷水道の中の朝鮮人は50名位だと思います。
(「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年) 

高群逸枝〔女性史家〕
2日(夜)夕方、警告が回ってきた。横浜を焼け出された数万の朝鮮人が暴徒化し、こちらへも約200名のものが襲来しつつあると(もちろんデマ)。〔略〕村の若い衆や亭主たちは朝鮮人のことで神経を極度に尖らせている。これはちょうどわが軍閥の盲動に似ている。もどかしい、いまわしいことどもだ。三軒茶屋では3人の朝鮮人が斬られたというはなし。私はもうつくづく日本人がいやになる。
〔略。3日〕もうそこの辻、ここの角で、不逞朝鮮人、不逞日本人が発見され、突き殺されているという。〔略〕自動車隊の畑で朝鮮人がかたまって、火を燃やしているという情報が伝わると、ここの男衆金ちゃんも、他の同士といっしょに竹槍をひっさげて立ち向かって行った。おお無知なる者よ。
(「火の国の女の日記」高群逸枝『高群逸枝全集第10巻』理論社、1965年)

中島健蔵〔フランス文学者〕
〔2日、駒沢で〕まだ「不逞鮮人」さわぎは、家の近所でははじまっていなかった。しかし、夕方になると、悪夢が追いかけて来たように半鐘が鳴り、「爆弾を持った不逞鮮人が隊を組んで、多摩川の二子の方面から街道つたいに襲撃して来る」という報知が、大声で伝えられた。〔略〕やがて世田谷の方から、1台の軍用トラックがゆっくりと動いてきた。本物の軍隊の出動である。そのトラックをかこむようにして、着剣した兵士が、重々しく走ってくる。これでもう疑う余地がなくなってしまった。
〔略。自警団員に朝鮮軍にいたことのある東京憲兵隊の憲兵下士官がいて〕 いたるところで群衆が朝鮮人を捕らえていじめている。いじめるどころか、なぐり殺そうとする。自分は朝鮮にいてよく知っているが、みなが「不逞鮮人」ではない。あんまりかわいそうだから割りこんで朝鮮語で事情を聞こうとすると、血迷った群衆は、「鮮人だ!」「軍人に化けている」と自分にまで襲いかかってきた。殺気を感じて、「東京憲兵隊の制服を知らんか!」とどなりつけ、人々がひるむすきを見て、命からがら逃げ出したという。
〔略。駒沢で〕 3日のひるまには、三軒茶屋で、歯医者だったと聞いたが、みなの見ている前で、その男が一人の朝鮮人をピストルで射殺した、といううわさもとんでいた。
(「いまわしい序曲 - 関東大震災」中島健藏『昭和時代』岩波書店、1957年)
仲西他七〔実業家〕
〔2日、駒沢で〕続いて忌わしい鮮人騒ぎが起りました。午後5時半頃、抜刀せる鮮人200〜300名、玉川沿岸にて同地住民と戦闘中との状報に始まり、更に大橋にも100名内外の鮮人と住民と戦争が起ったと伝えられ、或は爆弾を投じて帝都を焼き尽すとか、或は井戸に毒薬を投ずるとか言う如き、妖言百出の有様でありました。
〔略〕しかし午後11時過ぎ頃には、玉川にも大橋にも集団的鮮人のなきことを確かめられ、その後は次第に恐怖的動揺も薄らぎ、むしろ内地人が鮮人と間違えられて引かるるやら、たちの悪い邦人が民衆の襲撃を受くるなどの滑稽が所々に演ぜらるることになりました。
(高橋太七編『大正癸亥大震火災の思ひ出』私家版、1925年)

世田谷警察署
9月2日午後4時30分頃、三軒茶屋巡査派出所に急訴するものあり曰く「不逞鮮人約200〜300名神奈川県溝の口方面を焼き払いて既に玉川村二子の渡を越えたり」と、松本署長はこれを聞くと共に秋本・五十嵐両警部補をして巡査十数名を率いて自動車を駆りて同方面に赴かしめしが、その途上の光景たる異様の壮士が兇器棍棒を携帯して三々五々玉川方面に向いて走るあり、又警鐘を乱打する等殺気天地に充満し、既にして玉川原に到れば住民の混乱甚しといえども、遂に鮮人の隻影を見ず、これを高津分署に質すもまた要領を得ず、署長即ち部下に命じて各方面の内偵に従事せしめ、ようやくその流言蜚語に過ぎざるを知りたりしが、而も一般民衆は容易にこれを信ぜず、婦女子の如きは難を兵営に避くるに至れり。
而して自警団の武装せる警戒はかくの如くにして起り、鮮人を本署に拉致するもの2日の午後8時に於て既に120名に及べり。翌3日警視庁の命令に基きて戎・兇器の携帯を禁止し、かつ鮮人の保護に従いしが、4日に至りて鮮人三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、直にこれを調査すれば犯人は鮮人にあらずして家僕が主家の物置に放火せるなり。
疑心暗鬼を生じ、衆庶その堵に安んぜざりし事それかくの如し、これに於て本署は鮮人の保護、流言の防止、自警団の取締に関して爾来最カを注ぎ、鮮人に対しては目黒競馬場を収容所としてここに保護すると共に、注意人物は軍隊に托して習志野に移し、引取人あるものはこれを放還せるのみならず当時多数鮮人の居住せる奥澤・等々力・瀬田・碑文谷・上野等には巡査を派遣して警戒の任に当らしめ、尋て又警視庁の命令に基きその就職をも斡旋せり。
始め目黒競馬場を鮮人の収容所と為すや、町民のこれに反対して極力その移転を迫りしが、署員の懇篤なる説諭に依りて漸次其誤解を一掃せり。〔略〕而して流言は叙上の外「横浜の大火は其放火に原因せり、不逞鮮人数100名東京に襲来せり、鮮人等井水に毒薬を投ずるものあり」と言えるが如き又は東京に於ける震火災を誇張せる説話等種々行われたりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月2日午後5時40分府下世田谷太子堂付近にて鮮人朴某(28)を銃殺した犯人太子堂25写真業小林隆三(27)に令状執行収監す。

つづく




ひたすら逃げる杉田水脈(これでも国会議員、自民党中国ブロック比例第一位) 動画あり / 新潮45休刊について、「関知していない」と














2018年9月28日金曜日

北の丸公園 秋進行中 キンモクセイが香り、ハナミズキが紅葉始める 2018-09-28

9月28日、はれ
しばらく雨とか曇りの日が続いていたけど、今日(一日だけ)は晴れ。
ただ、スキッとした秋晴れでもない。

お昼休みの北の丸公園。
金木犀が香り、コムラサキが色づき、秋が進行中だ。
ハナミズキは紅葉し始めてる感じだけど......どうなんだろ。




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▼ハナミズキ

(YouTube) 荒井由実 海を見ていた午後(’74)


週刊大阪日日新聞(無料版)の1面に、NHKから転職した相沢記者が大きく載っていました。 相沢記者は森友学園問題で、財務省が「価格交渉はしていない」としていたにも関わらず、近財局が学園の支払える上限額を聞いていたと報道したところ、NHK幹部から怒りの電話があったと明らかにしています。







「財務省なんかやめときゃよかったんや」 自殺職員の父:朝日新聞デジタル ; 職員は高校卒業後に国鉄に勤め、民営化を機に当時の大蔵省に転職。地方の事務所や本省勤務を経て大阪の近畿財務局に赴任した。仕事の傍ら夜間大学に通い、教員免許も取得したという / 父親宛ての遺書はまだ返却されないのか!    






【字幕の魅力 見ている者に英語がわかってると勘違いさせるほどの見事さ】 The Tonight Show🇺🇸のジェニファー・ローレンスの回









沖縄県知事選「争点消滅」の重い意味 「永続的隷属」となってしまうのか…(佐藤学) ;  "彼等にとり、辺野古で座り込みをする、復帰前の米軍施政の非道を知る高齢者の気持ちは理解不可能である"   "なぜこうなったのか。根本的な原因は、近現代史教育の欠如である"   "沖縄の若者は、この地域史を、一切学んでいない"










【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その15)「そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。.....夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。」(『いはらき新聞』1923年9月4日)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その14)「2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。 旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。」 
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
氏名不詳
あの日のことは忘れません。なんの罪もない朝鮮人が土手の坂にすわらせられ、きかんじゅうをひたいに向け一発で殺されていったことを。たしか9月2日のお昼すぎだったと思います。「朝鮮人が火をつけた」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人がぼうどうをおこそうとしている」という”うわさ”が人から人へと伝えられました。町にすむ17才以上の男の人たちは竹やりをかついで集まりました。あやしい人を見つけたら「15円50銭」と言わせるのです。朝鮮人は「チュウコエンコチュッセン」としゃべるからわかるのです。最初につかまったのは木下川にすむ青森からきた年よりです。その人は小説家で文章を書くのはうまいのですが、しゃべる方は、方言(なまり)があって、それにつかまったおどろきでよくしゃべれません。私たちは急いでつかまえられた場所(土手)に行って「この人はちがいます。ちがいます」といって助けてもらいました。
町では夜になってあやしい者がきたらすぐつき殺せ、夜のくらやみの中で味方をまちがえたらいけないから”山”とよばれたら”川”と答えるようにと合言葉までつくられました。
地震があって4日日です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。そのきかんじゅうの音はぶきみな音で「プシュ」という音でした。
その1発で朝鮮人は土手の人(ママ)にころげないで後ろにたおれました。土手の上では朝鮮人のお母さんと子どもが死んでいましたよ。
(木下川小学校4年1組『関東大しんさい作文集』添付資料No.3、1983年9月30日。授業で使用した資料)

氏名不詳〔3日午後4時水戸着の夫婦者。本所から亀有駅へ避難〕
「避難する道で 鮮人3名突き殺す」
ようやく三ツ木の荒川用水路あたりまで逃げのびて来ますとその付近には昨夜(2日)は鮮人が出没し、鮮人なる事をまぎらかす手段として日本人の洋装を奪おうとするので役場員、駐在巡査、騎兵等で警戒しておりました。私共も死を決して鮮人を見付け次第殺そうと2人して竹槍を持って注意しておりました。
そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。昨夜は一人まで突殺しましたがもう自分は命をかけてしたのです。
夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。〔略〕一昨夜の荒川用水路辺はまるで鮮人の出没で戦争の様でした。
(『いはらき新聞』1923年9月4日)

〈1100の証言;世田谷区〉
相原栄吉〔当時世田ヶ谷町長〕
〔翌2日〕自宅は早朝より災害調べ、炊出し等に忙し。午後1時頃より避難者続々来る。聞けば鮮人襲来するなりと、予報に依り老幼婦女は一定の箇所に避難すべしと云ぅ。いずれに行くかと問うに、行くとして目的なしと。次の報告に依るに、横浜を焼き鶴見に来り、爆弾を以て町に放火せりと。或はこれと対抗すと、故に戦場に異ならずと報ず。次に不逞鮮人、大挙して多摩川を渡らんとす。六郷は橋を断ちこれを防ぐと。次は鮮人、丸子にて目的を果さず、溝の口に来る。衝突し、死者20人程ありと。いずれの死者なるや不明。
午後3時頃、警鐘乱打、警報あり。鮮入団、多摩川を渡り、用賀方面に向う由。又一説には、奥澤方面に現れたりと。午后4時半頃、砲兵隊にて空砲を発射す。これは、鮮人を威迫するなりと。これにて大に信ぜざるを得ざるに至る。依て警戒す。砲兵、輜重兵、憲兵等、交々偵察すれども、要領を得ず。
日の暮る頃までに避難者陸続として来る。目的地なき人は、拙宅裏竹薮中に避難させ、四方を消防隊、青年団にて護衛す。握飯を庭前に用意し、各自勝手に食す。
夜に入り、船橋土手下に鮮人2名現れたりと。喜多見橋付近にも出没せりと。六郎次山に怪し者隠れたりと。代田橋にも怪人来れりと。和泉新田火薬庫、大警戒せりと。その内に若林にては、2名鮮人山に入りたりと大きわぎ。一同気を取れおりしに、宇佐神社太鼓を打ち大きわざ。何事ならんと慄々たり。聞けば、2名怪人豪徳寺山に逃入せんと。最も事実らしく、けだし詳細は不明。如何に鮮人地理にくわしくも、人目に触れざるは不思議なり。
かくの如く警戒中、夜半に至る。青年団捜索の結果、2名の僧を連れて来る。この者は、最近豪徳寺の徒弟となりしもの、一人は8月25日、一人は9月1日午前11時、寺へ来りしもの、裏の山に避難し、落伍して畑に出て陸稲の中に隠れ、時々頭を出し外を見たるとき、青年団員に見られ引卒されたるなり。依て避難所警戒を命ず。町内各警戒所の連絡、異状報告、軍隊の連絡、憲兵等交々来る。互に相戒め、その夜は不眠にて警戒す。
翌3日より戒厳令を布かれ、秩序を保持することとなる。しかれども流言区々にして、何等信ずる能わず。加うるに、玉川砂利場鮮人工夫は皆1カ所にトラクターにて運搬、或は護送す。三軒茶屋にて殺傷事件あり(勝光院に葬る)。
(世田谷区編『世田谷近・現代史』世田谷区、1976年)

内田良平〔政治活動家〕
3日の夜自警団が世田谷に於て憲兵及び巡査が鮮人2名を捕え取調中、その行動如何にも奇怪なるにより自警団員は奮激しでこれを撲殺したり。
〔略〕2日の午後10時50分頃、調布方面より「代々幡自動車部」と箱囲に書きたる1台の自動車来りたるが〔略〕鳥山水車小屋第一非常線を通行するや「止まれ」の号令を発したるも彼等は肯かずして突破し去りたるが、第二の非常線前の橋の破壊し居るを知らずこれを突破せんとし遂に車輪陥没して動かずなる〔略〕たちまち自警団員の認むる所となり、団員200名許りにて自動車の周囲を取り巻き取調べたるに箱中13名の鮮人潜伏し居たるを3人(内一人日本人)逸走したるを除く外捕縛し〔略〕また逸走したる鮮人は〔略〕いずれも途中にうろつき居る所を翌日自警団に捕えられたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

つづく



2018年9月27日木曜日

(YouTube) 山本潤子 冷たい雨


(ネコ動画) 何かと思ったら自分の耳だった


安倍晋三、国連演説で「背後」を「せご」と読んでしまうトホホ / 3家連続でステーキとか / FTAじゃない!TAGなんだとまたもや国民をペテンに掛ける / トランプ氏「日本はすごい量の防衛装備品を買うことに」(朝日);「今回、トランプ氏は、米国が優位に立てる二国間交渉に日本を引き込んだことを「勝利宣言」とした。」 / 麻生太郎は3月に「我々はこれ(二国間交渉)だけは断固拒否」と答弁していたが..... / 日本車守るため農産物で譲歩か / TPPよりも日本にとって悪い形になり得ると思う。FTAよりも悪いかもしれない / 外国メディアはアベがFTA交渉を受け入れ,トランプが喜ぶと報道。TAGなどない。 / 安倍首相が米国に差し出す 農産物 受ける打撃は2兆円規模 「日米の協議において日本に残された唯一の戦略は、『どれから差し出すか』という順番だけなのです」    









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生活保護、67%世帯で減額 10月から、食費や光熱費(共同);「厚生労働省は5年に1度、一般の低所得層の消費支出額と比較し生活扶助を見直している。今回は2018~20年の毎年10月、3回に分けて見直す。.....」


【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その14)「2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。 旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。」   

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その13)「警察は自警団について歩いているようなもので、なんの役にもたたなかった。このあたりでは、朝鮮人が蓮田のなかに入ったといって、自警団の連中が追いまわしていた。玉の井のいまでいう暴力団の連中が先達でずいぶん切ったという話も聞いた。自分の親戚の家も朝鮮人を使っていて、そいつを逃がすのにえらい苦労をしたと聞いている。かくまっていることがばれたらやられる。なんせ警察で保護するといっても、警察に踏みこんでやっちゃうんだからどうしようもない。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;墨田区/原公園〔現・橘銀座商店街内〕
小野内寿松〔吾嬬町請地で被災〕
2日になっても誰が言い出したか「津波が来る」という流言に驚かされ一時右往左往、大騒ぎをした。まもなくこれは消えたが、今度は外国人が一団となって襲来するとか、井戸の中へ毒を入れたから井戸水を飲むなとか誰が言いだしたか、又それを信じて急遽自警団を組織してちょっとでも怪しいと思われる人を誰何し、仲間同士は合言葉まで作っていた。実際、原公園や雨宮の原、四ツ木橋下、京成電鉄の線路上などで奇禍に遭った人を見た。
(墨田区総務部防災課編『関東大震災体験記録集』墨田区、1977年)

南厳〔労働運動家〕
〔2日〕夕刻に到り鮮人来襲暴動の噂あり、猶海嘯起りたりとの声あり。次で夜8時頃には原公園付近にて警官の鮮人を多数殺すを見受けたり。
(亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』日本国民救援会、1972年)

〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉
平山昌次
〔被服廠から安田邸へ行き、2日〕朝になって一番怖いのは流言蜚語ですね。何々人が爆弾を放り込んだとか、蔵前のガス栓を抜いたとか、井戸に毒物を入れるとか、高波がくるとか。これはみんなデマだね。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

堀晴雄
私の父(堀紫朗、震災当時30歳)は、震災の翌日から数日間、東京市内の被害状況を見て回ったそうで、その様子を私が小・中学校の頃に色々と話してくれました。話の中に朝鮮人虐殺がありました。その話の内容を以下に報告いたします。父が実際に見た状況です。正確性を重視して、文章でなく箇条書きと致しました。
時:震災直後
場所:本所被服廠近傍
加害者:日本人の、自警団員を含めたグループ
犠牲者:朝鮮人男子(人数不詳)
虐殺方法:荒縄で犠牲者の右手首、左手首をそれぞれ縛り、2人の男が荒縄を左右に引っ張り、一人の男が犠牲者を数回刺して虐殺した。 以上。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第79号、1997年)

本多茂〔軍人〕
〔2日、被服廠跡から厩橋へ行く〕その途中、棒を持った男が追いかけてきて、「井戸へ毒を投げこんだ朝鮮人があそこへ逃げていく。兵隊さん、つかまえて下さい」と呼びとめられた。見ると100メートルほど右手の焼け跡を逃げる男と、これを追う数人。私は関わり合うのを避け、返事もしないで先を急ぎ、鉄骨だけになった厩橋を渡った。
(関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)

宮崎勝次〔本所南二葉町で被災〕
〔2日朝まで被服廠に〕2日に小松川まで私達ゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りてケガ人も集まりました。その夜には朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹槍を持ったり、寝ていられずそれは大変でした。その間に地震がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。
どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまり言いたくありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

本所相生警察署
9月2日正午猛火の余炎未だ鎮まらざるに突如「海嘯襲来す」との流言伝わり、人心の動揺甚しく、殊に歩行不能なる傷・病者・老・幼・婦女の如きは何れも色を失えり。本署は即万一を慮り、傷・病者を避難せしむるの準備を整えると共に、他面流言の真相を探査せるに、事実無根なるを確知し得たるに依り、直にこれを民衆に告げ、以て人心の安静を図れり。然るに同日夕更に「鮮人襲来」の蜚語喧伝せられ、午後1時頃に至りては「鮮人300名厩橋方面より押し寄す」との情報を為すものあり、続いて同10時頃、一青年団員来りて割く「只今鮮人50名製来す、警戒あれ」と。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
大滝トラ〔当時23歳。旧四ツ木橋の少し下流に在住〕
9月2、3日ころだったと思いますが、荒川の土手のほうからボンボンという音が聞こえました。そして土手のほうから、火葬場で死人を焼くのと同じにおいがただよってきたのです。「死んだ人を若い者がみるものじゃない」と言われたので、見に行ったわけじゃないけれど、旧四ツ木橋の水道鉄管のあたりだったと思う。人の話では線路のレールを渡して、その上に人を置き、燃えやすくして焼いたといいます。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

鈴木良雄〔当時25機。青森古川町出身、向島墨田村鐘紡工場募集員鈴木福蔵長男〕
〔2日夜、四ツ木橋辺で〕軍隊から又も急報あり「男子は全部後鉢巻して不逞鮮人逮捕の応援に出でよ、後鉢巻の無い者は銃殺刺殺の危険に遭うも致し方無し……」と云う事であった。素破(すわ)! と男子の一隊は直に後鉢巻に日本刀を提げて軍隊、警官隊の傍らに馳せ参じた。軍隊は着剣、警官は抜剣、青年団・軍人会は日本刀に提灯を忍ばせ殺気紛々として〔略〕。
(『東奥日報・函館日日新聞』1923年9月6日)

首藤安部男〔当時東京相互利殖株式会社勤務〕
「言語に絶せる 鮮人残虐の跡」
〔車中で記者に語る〕私は本所吾嬬町大畑に自宅があったのですが、あの辺は地震にも倒壊せず火災も起らないので安心して避難していたのですが、2日夜になって突然鮮人40名が押かけて〔略〕佐倉連隊に急報すると共に一同小学校に避難婦人を中心にして男子が周囲を警護し襲い来る鮮人を撲殺して防禦したが、奴等は泥溝の中に30分も頭を埋めているという有様、又出した所を一青年が竹槍で顔面を突き刺したら跳んで来て肩に喰いつかれたのを他の青年等が駆けつけて殴り殺した。
京成電車方面では鮮人と青年との格闘が猛烈で全く戦場の様、〔略〕この鮮人の暴虐比類なき蛮行には彼等の麘殺を図る外はないとて各所共青年団等の奮起を見たのであるが、真に意外とも心外ともたとえようがない蛮行で考えても身の毛がよだちます。
(『いはらき新聞』1923年9月5日)

中島碧川〔本所松倉町で被災〕
〔火災を逃れて船で白鬚橋に上陸し、大正新道を通って荒川堤をめざし、2日、四つ木の友人宅へ。そこで〕丁度〔午後〕7時半頃、俄然幾箇所かの非常警報が乱打されて、何処ともなく、海嘯だ ー 海嘯だ -。
〔略〕昨日から災難続きに怖気のついている幾万の群集はゆめやも分らぬ暗夜に、この海嘯には一層驚いて四ツ木の木橋と、京成電車の鉄橋を越えて幾万の堤上の人が我勝ちにと避難した。その混雑さ、鉄橋を渡る者は枕木と枕木の間に落込んで如何する事も出来ない、その上を後から後から人が逃れて来る、木橋を渡る人は押合い押合って欄干の外に押し出され数十尺の下に落ちるその混雑、私も肝を潰して里芋のご馳走所の騒ぎではない直ぐに起き上って逃げようとしたが、人で逃げられない。その内にこの海嘯は或者の流言であったが、これがその海嘯よりも怖しい事件の襲来の前提でありました。その事件の内容は、私にはここに書き現すの自由が許されておらないのです。
(中島碧川『帝都遭難から長崎まで』国糸之友社出版部、1923年)

長谷川〔仮名〕
2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。
旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

つづく




2018年9月26日水曜日

(YouTube) 真夏の果実 (斉藤和義&BONNIE PINK)


玉川徹 「マスメディアはヘイトや差別の言論をしてはならない。今回の謝罪と是正を評価するが、きっかけをつくった国会議員は記者会見も開かず、逃げ回っている。比例の党代表で選ばれており、自民党総裁の責任が問われる」 / 青木理「杉田水脈さんは比例の中国ブロックでなぜ一位で当選したかというと、安倍政権の側近が推薦したから。 文章書いた文芸評論家と自称する人は、安倍首相のちょうちん本を出して、それによって世の中に出た人。 政権と論調の親和性が根本にある。」

























安倍晋三、国連演説 そして、誰もいなくなった 座ってる人もスマホに夢中 誰もまともに聞いていない / がら~ん し~ん / 「私は今、ウラジーミル・プーチン大統領と共に、70年以上動かなかった膠着を動かそうとしています」 「自由貿易の旗手として立つ」 「日本が、立たずして他の誰が立つのを待てというのでしょう」 「未来を確実なものとすることが外交の目的」 「若い人への願いは、チャレンジに立ち向かうこと」 ← そら引くわな   



























【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その13)「警察は自警団について歩いているようなもので、なんの役にもたたなかった。このあたりでは、朝鮮人が蓮田のなかに入ったといって、自警団の連中が追いまわしていた。玉の井のいまでいう暴力団の連中が先達でずいぶん切ったという話も聞いた。自分の親戚の家も朝鮮人を使っていて、そいつを逃がすのにえらい苦労をしたと聞いている。かくまっていることがばれたらやられる。なんせ警察で保護するといっても、警察に踏みこんでやっちゃうんだからどうしようもない。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その12)「戦争で中国や南方へ行ったが、その時「なぜ朝鮮人虐殺が起きたのか」わかった。明治以来、朝鮮の人たちに相当ひどいことをしてきたから、仕返しされると思ったからじゃないか。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
曺仁承
〔1日夜、荒川土手四ツ木橋上で自警団に捕えられ、2日朝に寺島腎察署へ連行された〕寺島驚察署までくると、門の両側には日本刀を抜いた巡査が、ものものしく立っていた。彼らの白い制服も同胞の血で染まっていた。警察の門脇には、血走った数百名の消防団がたむろしていて手に持った鳶口や日本刀をふりかざして、私達を殺そうととびかかって来た。だがさすがに巡査等はそれをとめさせ、私達は署の中に入る事ができた。
〔略〕 この日〔2日〕この警察署に連行された朝鮮人の数は360人余であったが、その内には負傷者が大変多く、そのまま放っておけば生命にかかわる者もいた。
〔略〕しばらく眠ったであろうか、耳のあたりをひどくけられて、ちぎれるような病さに思わず目を覚ましたが、いつのまにかあれほど多勢の人々が一人も見えなくなっていた。実は私が眠っている間にも、地震が続きあちこちで窓ガラスがこわれたり、ひどい騒ぎ声がワーワーと庭の中に聞こえてきたので、同胞たちは又殺しにくるのだという恐怖感で、いっせいに逃げ出したのである。
私もこのままおとなしく殺されてなるものかという気特で、無我夢中外にとび出そうと警察の塀にとび乗った。すると、外には自警団の奴らが私を見つけて喚声を上げてとびかかって来た。私はそのまま警察の庭の方に落ちて助かった。私は外に出ることも出来ず、そのままそばの杉の木に登りかじりつくようにしていた。
30分程して、私はそつと杉の木を降り、庭の中の方へ行ってみた。するとその時私の目の中に入った光景は、巡査が刀を抜いて、同胞たちの身体を足で踏みつけたまま突き刺し無残にも虐殺しているのであった。只、警察の命令に従わず、逃げ出したからという事だけで、この時8人もの人が殺され、多数の人々が傷ついた。
(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)
長谷川〔仮名。玉ノ井駅近くで被災〕
1日夜から流言蜚語がとびかった。ポカンと音がしたら爆弾を投げているとか。火事なんだから石油缶なんかが破裂しても音がするわけだ。井戸に毒を入れたとか、避難民が集まれば津波が来るとか言っていた。
2日ごろ、警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた。〔略〕でも信憑性のある話はいま考えると一つもなかった。実際に見たものはなかった。みんな人から聞いたことだった。朝鮮人が集団で追っかけてきて逃げたという話も、よく聞くと、追いかけられた朝鮮人の前を歩いていてそういう状況になったということだった。
〔略〕2日ごろ避難してきた人たちを加えて自警団ができた。自分も自警団に引っぼぱり出されたが、在郷軍人会だからというわけではなかった。警察は自警団について歩いているようなもので、なんの役にもたたなかった。このあたりでは、朝鮮人が蓮田のなかに入ったといって、自警団の連中が追いまわしていた。玉の井のいまでいう暴力団の連中が先達でずいぶん切ったという話も聞いた。自分の親戚の家も朝鮮人を使っていて、そいつを逃がすのにえらい苦労をしたと聞いている。かくまっていることがばれたらやられる。なんせ警察で保護するといっても、警察に踏みこんでやっちゃうんだからどうしようもない。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

古谷考一〔本所中之郷で妓災〕
私達が泊まっていた晩〔2日、現向島郵便周辺〕なんかも、一人蓮田のところで殺されたんですよ。刀で切られて。朝鮮人だって。で、それからも3日か4日くらいでしたかなあ、曳舟川の土手のところをゾロゾロしばられて、四つ木の方へ向かって行く行列を見ましたけどね。あとで問題になった朝鮮人の虐殺ですね。私なんか、まのあたりに数珠つなぎにされて行くのを見ましたけどね。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

寺島警察署
9月2日午後5時「不逞鮮人等四ツ木橋付近に集合し、放火その他の暴行を為さんとす」との報告あり、ただちに署員を派遣したるに避難せる鮮人160人を発見せしかばこれを検束して保護を加えしも、民心の動揺甚しく、鮮人にして自警団の為に本署に同行せらるるもの同3日既に236名に上れり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

本所向島署
9月2日の夕に至り、鮮人が変災に乗じて放火・掠奪・強姦等の暴行を逞(たくまし)くせりとの流言始めて管内に伝わり、自警団の組織を促せしが、翌3日益々拡大して午前零時には「飲料水中に毒を撒布せり」と云い「請地町の油問屋硲文七の倉庫に放火の計画あり」と称せるのみならず、午前3時に至りては「避難者の収容所たる大川邸を襲えり」「既に寺島署管内大畑方面を掠めて漸次吾妻請地方面より本署の管内へ襲来の途にあり」と伝え、人心兢々として其堵に安んぜず、而も万一の変を慮り、署長は署員を率いて現場に急馳せしに、徒らに群集の喧躁せるを見るのみにして何事もなかりき。同日正午頃に「海嘯将に来らんとす」の流言ありて、人心は倍々動揺したるもその無根なるを喧伝して鎮撫に努め、幸にしてこれを安定せしむるを得しが、鮮人襲来の流言は民衆を刺戟して彼等に対する迫害は至る所に演ぜられ、これが為に同胞の奇禍に罹れるものまた少なからず、鮮人と誤解せられたる護謨風船行商人某が請地町自警団貝の包囲暴行を受け、同所巡査派出所詰巡査の救護に依りて漸く免れしが如きはその一例なり。かくて本署は各種の報告と実地の踏査とに依り、鮮人に関する流言が全く訛伝に過ぎざる事を認めたれば、民衆に対してその信ずるに足らざるを戒諭すると共に管内の有力者と議り、自警団の取締と指導とに鋭意する所ありしにより、9月中旬に至りて流言漸く其跡を絶ち、人心また平静に帰せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『報知新聞』(1923年10月4日)
「寺島署を襲った一団も検挙された」
暴行の最も猛烈であったのは寺島方面で、多数の被害者を出したばかりでなく、同地在郷軍人分会幹部岡田某中村米蔵外数十名の自警団が、去月2日夜の混乱最中に各自兇器を携えて寺島署を襲い、同署勤務の某警部補が○○である事を知り隠匿してあるだろうといって菅野署長以下に暴行を加えた事実があり〔略〕。

つづく