江戸城(皇居)東御苑 2013-12-25
*天喜2年(1054)
この年
・藤姓足利氏興る
藤原成行、上野国淵名庄から足利に進出し、足利両崖山に城を築く。
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・スコットランド、マクベス王、マルカム・カンモー(前スコットランド王ダンカン1世息子、後のマルカム3世)にスクーンの戦いで大敗。
マルカム・カンモーにはダンカン1世王妃シビル兄ノーサンブリア伯シューアドの支援。
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・ビザンツ人、エルサレム・ロトンド(聖墳墓教会)一 部再建許可を得る。
315年コンスタンティヌス帝(母ヘレナ)、ロトンドをアナスタシス(キリスト復活の場所)に建立。
カリフ・ハーキム(ハキム)、ロトンドを徹底的に破壊。
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・ムラービト朝のアミール、ヤフヤー・イブン・ウマル(1061年没)、シジルマーサを奪取、その後、南モロッコを奪取。
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・アラゴン王ラミーロ1世(位1035~1063)、ロアーレを奪取。
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・ナバーラ王(パンプローナ王)ガルシーア・サンチェス3世、アタプエルカの戦いで戦死(位1035~1054)。
息子サンチョ・ガルセス4世、即位(位1054~1076)。
1054年ガルシーア没後、ガルシーア弟カスティーリャ王兼レオン王フェルナンド1世、ラ・リオーハ併合。
ラ・リオーハを失ったことは、ナバーラ王国がイスラム教徒の領土から切り離されレコンキスタの直接的当事者でなくなったことを意味。
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2月
・モルトメール(モルトムル)の戦い。
フランス王アンリ1世とアンジュー伯ジョフロワ・マルテル、7代ノルマンディ公ウィリアム(26)へ宣戦、軍をマントに集結。
弟オド司教、ルーアン大寺院モーガー大司教、ガイ伯などが反乱。
ウィリアム公、反乱軍をモルトメールの戦いに破る。
フランス王は引上げ。
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3月
・教皇レオ9世、ベネヴェントよりカープア経由してローマ帰還。
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4月19日
・教皇レオ9世(51)、没(位1049~1054)。僧侶の妻帯を禁止したローマ教皇。
ハインリヒ3世、自分の官房長を教皇に任命。
教皇ウィクトル2世、即位(ヴィクトル、位1055~1057、シュヴァーベン出身)。
ノルマン人アプーリア地方コンヴェルサーノ(バーリ南)を占領。
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5月3日
・定朝最後の事績、西院邦恒(くにつね)堂の丈六阿弥陀如来像
「丈六阿弥陀仏を安置す。尊容満月のごとし。堂字の体、壮麗にして誠に歎美すべし」(『春記』この日条)とある。
70年後の『長秋記』にも「西院故邦恒朝臣堂に向ふ。この所に仏師定朝の造りし仏あり。天下是を以て仏の本様となす」(長承3年(1134)6月10日)とある。
定朝のこの仏は特に理想とされたらしく、模範として造仏するため、仏師院朝に阿弥陀像の各部位の細かな採寸をさせている。
邦恒堂を建立した藤原邦恒は、阿波守など多くの国守を歴任し治暦3年(1067)に正四位下、82歳で歿した豊かな受領層であった。
『中右記』永長元年(1096)3月には、白河上皇が、邦恒堂の阿弥陀の相好がほかより勝るとして、わざわざ臨幸したと記している。
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7月16日
・東西教会分裂
ローマ教皇の使節団(フンベルトゥス枢機卿、フリードリヒ枢機卿、アマルフィ大司教ペトゥルス)、ビザンチンでミサ中に入り込み、コンスタンチノープル総大司教(東方教会総主教)ミカエル・ケルラリオスとその支持者に教会破門状(「ローマ教皇教書」)をつきつける。
以後東西の教会分裂が1965年12月7日まで続く。
<東ローマ側の事情>
宗教的問題である東西教会の紛争がビザンツ帝国の愛国心を煽る政治的な独立保持の闘争に発展。
①東方教会の修道士が皇帝教皇主義に反抗してローマ教皇に「教会の自由」を訴えるも、ローマ教皇はドイツ皇帝の傀儡と化していて援助できず。
②総主教ミカエル・ケルラリオスの策動。
③ノルマン王国の勃興により南イタリア東ローマ領喪失。
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7月17日
・ハインリヒ4世(4)、アーヘンで共同国王に即位。
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12月21日
・越前、気比大神宮諸殿舎の造営完了と伝えられる(「気比宮社記」)。
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