2018年11月14日水曜日

皇居東御苑 二の丸雑木林 木々の赤味が増してきた 白侘助が開花 25018-11-14

11月14日、はれ
お昼休みに皇居東御苑を散歩。
今日は二の丸雑木林を中心に歩いた。
ケヤキやモミジがだんだん赤味を帯びてきた。

天守台傍の白侘助が開花した。
寒椿も咲き始めたが、これは写真がダメだったので割愛。

(全てスマホP20で撮った)







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狡猾な安倍政権、弱体化するメディア…6年弱で国は変貌(日刊ゲンダイ);「保守を標榜する安倍首相は口では愛国を訴えますが、やっていることは売国そのもの。安倍政権が恐ろしいのは、国民に政策への賛否を問わず、国会でまともに議論もせず、世論の理解も得ないままにやりたい放題を続けていること」— Ikuo Gonoï


【片山さつき スキャンダルは止まらない】 政治資金報告書の訂正47件 「事務所の管理すらできないのに大臣の資質がない」 / 片山大臣にさらなる疑惑 暴力団との“密接交際者”から事務所無償提供、秘書給与肩代わり(週刊新潮) / 【動画】声紋鑑定は一致 片山さつき第5弾(週刊文春) / 片山さつき大臣「事務所費」にも疑惑発覚(週刊文春)











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2018年11月13日火曜日

横浜 港の見える丘公園ローズガーデンの秋バラ 2018-11-01   

港の見える丘公園ローズガーデンの秋バラがきれいに咲いている。
インスタグラムの投稿でもかなりの「いいね」を貰っている。

関連記事
「寺山修司展」開催中の神奈川近代文学館に行った 2018-11-01
なお、これに関連して最近、こんな情報が来た(↓)






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(YouTube)Britney Spears, Beyonce & Pink - We Will Rock You (Pepsi)  (15年くらい前の、P!nk姐さんとビヨンセ様とブリちゃんが剣闘士になってクイーンの曲を熱唱する超カッコいいCM)  







▼オマケ


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韓国最高裁判決─日韓政府間で冷静な対応を(岡田克也 BLOGOS);「そもそも、三権分立の中で、司法の最終判断を政府が批判することすら一定の節度が求められるなか、外国の司法判断に対する行政府の長の発言としては適切とは思えません。それは、日本の最高裁の判決に対して、外国政府首脳が「あり得ない」とか「暴挙だ」と発言した場合のことを考えれば明らかです。司法判断に対する行政の介入、しかも外国政府の介入はあってはならないことです。」


いま在る あなたの如く 私の如く やすらかに 美しく 油断していた。(石垣りん) (折々のことば 鷲田清一 「朝日新聞」2018-11-11)

いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。
                 石垣りん
広島に原爆が投下された「午前八時一五分は/毎朝やってくる」と、詩人は詩「挨拶」(1952年)に記す。
核の装備があちこちでなされ、地球は「生と死のきわどい淵」にあるのに、一瞬にしてあまたの命を奪ったあの日の記憶は遠のき、人は平和に安らう。
かつてその健やかな微睡(まどろみ)みのすきをついて戦禍が始まったことを忘れまじと。
(折々のことば 鷲田清一 「朝日新聞」2018-11-11) 


米中間選挙上院はアリゾナで民主党候補に当確が出て、非改選含め共和党51、民主党47、残2(再集計のフロリダ、決戦投票のミシシッピ補選) 改選だけでみると、民主党24、共和党9、残2となります。 / 米フロリダ州再集計、共和のリード縮小 大統領は打ち切り要請 / 大激戦のフロリダ州の上下院、知事選。軍人を含む在外在住者はまだ未カウント。16日から票が開きます。トランプはそれを恐れている。








築地市場解体問題~東中労に対する明渡し仮処分を東京都が取り下げ ; 東京都が、築地市場で営業を続けている業者と、市場内に組合事務所を構えている東京中央市場労働組合に対し明渡を求める仮処分を10月18日付で申し立てていました。.....しかし、.....9日付で申立を取り下げるに至りました。





麻生が言うか! → 日本企業で相次ぐ「改ざん問題」 麻生大臣らが苦言 - ANNニュース


東京新聞:かすむ専守防衛 官邸主導で攻撃兵器選定 / 総理は周囲に『敵にやられっぱなしで、日本が守るしかないでは良くない。攻撃的な技術をやった方がいい』と語っているようだ。日本は専守防衛の歯止めがきかなくなった。米軍と一緒に戦争に参加する道を着々と進んでいる。






【遂に日銀さえもが改竄政府に不信を表明】政府統計、信頼に揺らぎ GDPなど日銀が不信感: 日本経済新聞 :「日本の現状を映す統計を巡り、内閣府と日銀が綱引きしている。国内総生産(GDP)など基幹統計の信頼性に日銀が不信を募らせ、独自に算出しようと元データの提供を迫っているのだ」














2018年11月12日月曜日

広渡清吾さん(市民連合呼びかけ人) “安倍首相はしばしば自らを「立法府の長である」と言います。自分が日本で一番偉いんだと言った気持ちがあるからこういうことを言ってしまうのです。この政治家は独裁者です。民主主義にとって独裁者は一番危険です。”




「麻生氏は辞任を」 市民団体が署名1万699人分提出(朝日新聞) / 近畿財務局OBも参加 麻生大臣の辞任求めデモ(テレビ朝日系(ANN));「職員が自殺した近畿財務局OB:「自死に追い込まれるという悲惨な結果を招いたにもかかわらず、麻生大臣は佐川氏は有能と持ち上げる。そんなことは断じて許されない」






会津は維新150年も長州を許さない…徴用工の恨みは当然だ(三枝成彰);「ドイツは見事に謝っているよ。大統領は欧州各地のナチスによる虐殺の現場を訪れ、弔意を示すことを続けてきた。アウシュビッツを残し、ざんげし、過ちを認めてきたんだ。.....加害者に「終わったことだ」と言われて納得する被害者なんて、いるわけがないんだよ。」





2018年11月11日日曜日

鎌倉 鎌倉宮前にもうカワヅザクラが咲き始めた 永福寺跡 鶴岡八幡宮源平池 2018-11-11 

11月11日、はれ
今日は快晴の予報だったハズで、稲村ケ崎辺りで富士山撮り放題.....と期待していたが、実際は思いのほか雲が多く、テンションだだ下がり。
で、思い切って鎌倉の二階堂あたりを歩いて、運良ければ鎌倉宮の河津桜と遭遇.....とアタリをつけた。

河津桜、すごく小さいのが2,3開花していた。
ま、運がよかったことにしておこう。

その先、永福寺(ようふくじ)跡の整備はどうなってるのか、もう少し足を延ばした。
なにしろ、初めてこの辺りを散歩し始めたときは、背伸びしても雑草の間から僅かに跡地が見えるような状況だったので。
なにしろ、田村隆一さんの「ぼくの野原」だったんだもの。
鎌倉 廃寺永福寺跡 田村隆一さんの「ぼくの野原」

可哀そうで写真、撮らなかったけど荏柄天神などのイチョウ、塩害で酷いことになっていた。大船フラワーセンターと同じように、もうすでに葉が全て落ちている。

あ、そうそう、昨日(11/10)はマゴちゃんの2歳のお誕生会だった。
たまたまいろんな都合があって2週間ほど遅れての開催。
ワタクシは朝から揚げ春巻きを30個ほど揚げた。
下拵えは全て済んでいたので単純に上げるだけ。
鶏唐揚げより楽だし、出来栄えもまずまずだった。
たっぷりビール飲んで、お寿司食べて、千疋屋のメロンいただいて、.....。
楽しいひと時だった。



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▼永福寺跡地

▼鶴岡八幡宮、源氏池と平氏池


東電よ!…罪を思うなら毎日燃料プールの様子を放映しろ(井筒和幸);「#萌え」タグ付きに、安倍内閣のイエスマン、世耕経産大臣も「ユーモアを見せるのも悪くない」とほざく始末。おまえは何者のつもりなんだ。こんなクソなセンスのやつが大臣をしてるから、この国はカッコ良くなれないのだ。「プールから使用済み燃料が取り出され、安定している状態」とは一体、どういう意味か。.....



【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その29)「.....大塚警察署に青年たちに連行された。警察に行っても話にならない。「今日殺す」「明日殺す」という話ばかり。半分死んだような人が新しく入れられてくるのを見て、信じないわけにはいかなかった。これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いまは腰がいたくて階段も登れない。.....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その28)「.....「鮮人数百名が浦和の監獄を破って逃走し、途中次第に人数を増して、武器をもって東京に襲撃してくる」とふれまわっている男があった。 「各自武装して防衛して下さい」と巡査が知らせて歩いた。 「今夜豊島師範に鮮人が放火する計画がある」「井戸に毒薬を入れるかも知れぬから注意しろ」ともふれまわっていた。.....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;文京区/大塚〉
会田有仲〔大塚宮仲で被災〕
〔2日〕朝鮮人及支那人の内不良性の奴等が、昨夜数人隊を組んで兇器を携え市内外各所に於て露宿の避難者を脅迫し、財物を強奪して巡査、憲兵、在郷軍人などと格闘の未斬殺されたる者数人ありたる由。
〔略。3日〕夕方に至り不逞の朝鮮人が井戸に毒を入れ或は放火するに付気をつけて下さいと青年団より注意して来た。
〔略。4日、見舞に来た完助と禄蔵が〕「途中福島以南の汽車での話は不逞鮮人と社会主義者が一団となり東京市内外に於て兵隊と戦争中にて、大宮より先の停車場は陸軍で占領し官庁の証明ある者の外入京を許さぬとて、各駅に停車する毎に車掌が来て下車を勧告する」
〔略〕今朝来風説なるか飛語なるか、不逞鮮人は昨夜も各所に於て爆弾、兇器を携え大挙襲来、放火、井戸投薬等をなす。巡査、憲兵、自警団員と闘争の結果双方に死傷者多数ありたる由。逢人毎に専らこの噂で、殊に警察の調なりとて隣家より知らせの朝鮮人が白墨にて門や塀などに記しある符合なるもの左の如し。
ヤヤ:殺人、〇にヤ:爆弾、へに一:放火、△にヤ:井戸投薬。以上の如く震火両災に怯えている人心は更に数段の不安を加えられたり。
〔略〕日没に至り相談があるから出て下さいと子供の使が来た。〔略〕主催者いわく、不逞の鮮人と支那人が放火或は殺人或は井戸に毒薬投入等をする、又社会主義者はこの機会に乗じて大陰謀を挙行せんとし甚だ危険なるも警察も憲兵も取締行届かざるを以て、御互生命財産を保護のため各町村は適宜の区域により、自警団を組織し、その任に当り居る趣故、この同番地十軒も何とか自衛策を講ぜねばならぬという。〔その結果自警団が結成された〕
〔略。6日〕帝都に於てなお不逞鮮人、社会主義者が爆弾、兇器携帯にて、毎夜各地に製来したる噂あり。又大震大火により、横浜は全滅のため糧食なく、鮮人の大集団と同地の監獄にて、大震の時に開放したる囚人300人は食を求めて入京の結果、兇賊隊をなして各地に襲来し、焼け跡の金庫、或は焼け残りの倉庫を破壊して金銭並びに貴重品を掠奪する趣。
(会田有仲『東京大地震日記』私家版、1926年)

李性求〔教育者。当時行商等をしなから東京物理学枝に留学中〕
2日の朝、下宿先〔池袋長崎村〕を出ると、近所の人から「李くん、井戸に毒を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことはしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。
雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ!」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ狩りの記事があって、「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。警察に行っても話にならない。「今日殺す」「明日殺す」という話ばかり。半分死んだような人が新しく入れられてくるのを見て、信じないわけにはいかなかった。これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いまは腰がいたくて階段も登れない。
1週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく!」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、早足で行くしかない。「朝鮮人がいく!」その声が大きく聞こえる。当時はその青年たちに捕まったらその場で殺される。このときの恐怖といったらない。のちに朝鮮に帰ってから学校に勤めたが、うしろから生徒の走る音が聞こえると、身体がいつも硬直したほどだ。
目についた交番に飛びこんで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでもこづき、蹴飛ばした。驚察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き響き』1983年)

伊藤重義〔当時府立第三中学校生徒〕
〔2日〕やっと大塚坂下町の祖父の家へ辿り着いた。〔略〕夜になると町の方で何か騒がしくなった。何が起きたのかと心配していたら、近所の人4、5人が家へ来た。何でも「朝鮮人が暴動を起して日本人の家を襲い、井戸に毒薬を投げ込んだ。彼等は何時我々の町へ入って来るかも知れない。我々は自警団を作って警戒する事にした。お宅でも一人出て貰いたい。そして何か武器を持って来るように」との事だった。祖父の家は隣組8軒で共同の井戸を使っていたので、その防備をしなければならないが、我が家では大人達は疲れ果てているので私が夜警に出ることにした。私は背が高い方なので、見かけは大人の仲間入りが出来たのだろう。我が家には武器らしい物は、私が背負って来た日本刀しかない。仕方がないから父の許しを得て、私は日本刀を持つ事にした。〔略〕私達は井戸の警備と交替で巡回もした。時々町の方で大騒ぎがあった。日本人の避難者が朝鮮人と間違えられてひどい目に遭ったとの事だった。
〔略〕しかし間もなく戒厳令が出されて、地方から続々と軍隊が出動し、街角には銃剣の兵士が立つようになり、新聞の号外等で状況が判るようになったので、民衆の不安もやっと落付いて来たようだった。自警団も多分に行き過ぎがあり被害も多かったようで、解散命令が出たそうだ。私も毎日戦々恐々として参加していたので、これでホッと一安心したのだった。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

小石川大塚警察署
9月2日の正午頃「不逞鮮人等暴行を為し、或は将に兵器廠を襲撃せんとするの計画あり」との流言始めて起るや、民心これが為に動揺して自警団の発生を促し、更に鮮人に対する迫害行われたれば、本署は鮮人を検束するの必要を感じ、即日管内を物色して、85名を署内に収容せり。しかるに民衆はかえってこれを憤りて妨害を試み、一巡査の如きは、頭部に殴打傷を負うに至れり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『河北新報』(1923年9月4日)
「爆弾と毒薬を有持する不逞鮮人の大集団2日夜暗にまざれて市内に侵入 警備隊を組織して掃蕩中」
折柄不逞鮮大多数入り込み井戸に毒薬を投じ石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば、住民は直に警備団を組織すべしとの計画がありたるより人心一層不安の情に陥りたるも協力して直ちに多数の警備隊を組織し、久堅町大塚仲町養育院前等において約数十名の鮮人を引捕え、一々厳重なる身体検査をなし官憲の手にこれを引渡し、或は昂憤したる警備隊自ら適当の応懲を加え専ら放火の厄を免れんと努力しつつあるを発見したり。

『下野新聞』(1923年9月4日)
「大塚火薬庫付近で不逞鮮人と青年団格闘」
本所区を根城とする不逞鮮人約300名は2日の夜丸の内方面に向い、一方約30名の同団は大塚火薬庫を爆破の陰謀があるなどの風評が伝わったので、万一を慮り宮城付近は近衛騎兵隊が警衛の任に当り、各地から上京した青年在郷軍人団等不逞者に一歩も足を踏ませまいとの意気を揚げ、丸の内方面には何等変事を生じなかったが、火薬庫付近では不逞鮮人と青年団との格闘を起し数名の重軽傷者を出したと噂専らである。

〈1100の証言;文京区/小石川〉
石川泰三〔青梅で被災〕
〔2日、肉親・知人を探しに東京市内へ。地蔵横町で小西氏が〕「潰れ家を見かけ、鮮人が火をつけするので、危険ですから見つけ次第打殺すのです」と、少しく興奮して語る。
〔略。護国寺境内で〕境内は避難者で満ちている。時々、火事と共に鮮人を捕えたのでもあるか、「わあ・・・わあ・・・」と、云うトキの声が聞えるのみだ。〔略〕護国寺裏の水窪は、鮮人の巣窟である。〔略〕遠く近く、境内をめぐって拍子木の音が聞える。夜は既に三更〔深夜0時頃〕を過ぎたであろう。夜露は、一同の衣類を透して、いやに湿っぽい。一同は、眠るともなく夢幻の現に入るのであった。拍子木は、護国寺の寺男であった。「別に変ったことはありませんか?鮮人が来ますから油断しないで下さい」言いながら行く。又、少し経つと、在郷軍人・青年会員が、手に手に棍棒などを持って夜警に来る。
〔略。3日青梅をめざす〕午前5時、護国寺門前を勢良く乗出した一同は、ホッとした。〔略〕2、3丁行くと、なんとなく騒がしい。在郷軍人や青年会員が、商店の小僧・番頭或は学生など、共に武装しているのだ。即ち、銃剣、棍棒、竹槍、洋傘、日本刀など携帯して、町の両側を固めて蟻の這い出る隙もないような厳重な警戒ぶりであった。ははあ・・・鮮人騒ぎで俄かに自警団の組織かなと思った。自動車は勢いよく通り抜けようとする。「止れッ!・・・」在郷軍人が、まず銃剣を閃かせて呼びとめた。「どこへ通るか?・・・」血走った顔の軍人や、青年会員、返答によれば、直ちに芋刺しにしようとするのだ。僕は、洋服のポケットより1枚の名刺を渡して言った。「避難者です。昨夜護国寺境内へ露営しました。今日は、これから田舎へ帰るのです」 彼等は、しきりに疑いの目で自動車を見ていたが、ようやく正真正銘の日本人と思ったらしい。「よろ
しい!・・・」「通れッ!」軍隊式だ。僕らは心密かに苦笑せざるを得なかった。
自動車が2、3丁進むと、また在郷軍人青年会員などが堅めて、誰何する。〔略〕郡部へ脱出するまで、7、8回の襲来を受けた。こんな厳重な警戒線は、市内にのみ限って、郡部は無論そんな警戒はあるまいと思ったところが、どうして、市内に劣らぬ、否、より以上の猛烈さである。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

岩川友太郎〔教育者、動物学者。神田で被災、小石川竹早町の修養杜へ避難〕
9月2日〔略〕その晩より小石川区は各家にて警戒して、朝鮮不逞の徒の放火を防ぐこととなり、ほとんど徹夜の状となれり。
(「大正の大震災の記」船永清『岩川友太郎伝 - 日本貝類学の開拓者』岩川友太郎伝刊行会、1983年)


糖尿病って自己責任? 麻生氏「不摂生で病気に医療費 あほらしい」 貧困層ほど発症率上昇 - 毎日新聞 ; 「低所得層の方が糖尿病になるリスク高いことは常識」「糖尿病は社会問題と強く結びついており、それを解決するのが政治家の役割」


「徴用工」でなく「労働者」=政府、強制イメージ回避:時事ドットコム /  「労働者」に呼び方統一 元徴用工判決で政府 (日経); 日本政府は「徴用工」を「労働者」と言い換え、「移民労働者」のことを「実習生」といいはり、奴隷制度を正当化する












日銀、緩和へ打つ手乏しく 利下げなど重い副作用(日本経済新聞); 14日公表の7~9月期の実質成長率はマイナス成長とみられているが、曇る景気に日銀がとれる手段は見えてこない


2018年11月10日土曜日

贅沢な昼休み 東京国立近代美術館で過ごす 2018-11-9 《MOMATコレクション2018/10/06-2019/01/20》

11月9日(金)雨(昨日)
昼休み、東京国立近代美術館に行った。
この日は、後編。
前編はコチラ↓
贅沢な昼休み 東京国立近代美術館で過ごす 2018-10-19

前編は4階から攻めたので、後編は2階から。

会期中にもう一度行く積り。
森山大道《にっぽん劇場》(↓)をじっくり観たい。

太田聴雨《星をみる女性》1936昭和11年

福沢一郎《人》1936昭和11年

森山大道《にっぽん劇場》1968昭和43年

横尾忠則 左から
《風景No.17 入れ墨男》1969昭和44年
《風景No.1 女の子》1969昭和44年
《風景No.3 お葉さん》1969昭和44年

鏑木清方《鰯》1937昭和12年

堂本印象《朝顔》1942昭和17年

児玉希望《花下吟詠》1942昭和17年

中村大三郎《春雨》1942昭和17年

川合玉堂《採雨(さいう)》1940昭和15年

小林古径《栗》1944昭和44年

(YouTube)「DNAの旅」 日本語字幕版 / 弥生と混ざらず縄文のDNA受け継いでる、ってことあるんだ!



▼奈良美智さんの場合






▼弥生と混ざらず縄文のDNA受け継いでる!

【新刊予告 11/22発売予定】 『中野重治・堀田善衞 往復書簡 1953-1979』竹内栄美子・丸山珪一 編 戦後を代表する作家・中野重治と堀田善衞が、冷戦下の1953年から中野が亡くなる79年までに断続的に交わした全書簡82通を収録。詳細な註を付し、編者他六氏による解説も収める。— 影書房


2018年11月9日金曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(7) 1924年(大正13年)初夏、佐伯祐三(26歳)、里見勝蔵と共にオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。   

佐伯祐三《モランの寺》1928昭和3年 東京国立近代美術館蔵
*
若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(6)「利行が狂ったように絵を描きはじめたのは、大正十二年九月一日の大震災のあとであった。震災の日からなん日も、利行は火のなかを歩きまわり、吉原の池で数百の遊女の焼死体をみた。また人からたのまれて車を挽き、焼跡を片づけていた。」
から続く

1924年(大正13年)
詩人花岡謙二が立教の学生下宿としてアパート「培風寮」を建築
(宇佐美承『池袋モンパルナス』)
「百坪の敷地は檜の生垣でかこまれていて、門柱には、これも檜の一枚板がかかっており、「培風寮」と書かれてあった。その門から敷き石を踏んで十数歩も歩けば玄関で、正面にまるい乳白色の電灯がついていた。木造二階建で、松材の鎧ばりの外壁とトタンの寄陳屋根は茶褐色に塗られていた。玄関の格子のガラス戸は、ガタビシ音をたてながら左右にあいた。階下には、食堂と台所のほかに七室あり、ほとんどが四畳半の間であった。玄関から、きしむ階段をのぼると十一室あり、ここもほとんど四畳半であった。四畳半といっても半畳は押入れで、畳は四枚しか敷かれてなかった。
部屋によっては雨戸もなく、ガラス戸のすき間から風が吹きこんでいた。天井では、たえずネズミの走る音がしていた。もちろん水道など、あるはずはなかった。間代は三円だったり五円だったりしたが、それを律義におさめる住人は少なかった。貸アトリエの家賃が払えなくなった者など、世のあぶれ者が吹きよせられるようにしてあっまっていた。」

「花岡謙二は明治二十年、東京にうまれた。父は保険の外交を、かなり手びろくしていた。謙二は二人兄弟の次男で、少年のころから胸を患っていた。親はこの子を薬剤師にでもと願って東京薬学校にいれたが、しょっちゅう血を吐いて中退した。入退院をくりかえしながら父の仕事を手つだわされていたが、その間に前田夕暮れの「詩歌」に投稿して認められ、ほどなく夕暮門下四天王のひとりといわれるようになった。
二十歳代のなかば、福島県平にいたころ山村暮鳥を知った。暮鳥は流浪の末にクリスチャンになった詩人。伝道しつつ、虐げられた人びとへの愛情をこめた詩を多作していた。花岡は暮鳥を師としたが詩歌で食えるはずはなく、さりとて保険勧誘の仕事にほどだい不向きであった。では教職にでもと、小学校で教えはじめたが、それもうまくいかなかった。

教壇に立ちて算術問題が解けずわれはかなしき無免状教師
校長とことを争ひ二ケ月もたたでやめたり教師といふものを

暮鳥が辿った道をなぞらうべく大正七年、築地にあった聖三一神学校に入学したが、そこでも血をはいて翌年退学した。

ゆられつつ黒き肩車の幌のうちこのうつしみの悲しさを耐ふ

小康をえて大正九年、池袋西口の豊島師範まえに、ごくちいさな本屋「みどり屋」をもった。趣味にあった文学書をならべたが、資金がたりなくで書架はうまらず、前田寛治など池袋の若い絵かきの個展をひらいた。前田はまだフランスへわたるまえで、もちろん無名であった。そんな花岡のところへも、無名のころの西条八十が、よく電車賃を借りにきた。劇作家田中澄江はまだ豊島師範付属小学校の児童で、毎日のようにあらわれ、本を読んでは夜おそくまで遊んでいった。
大正十二年、ちかくにプロレタリア歌人の渡辺順三と井上康文が印刷屋をひらいた。花岡は、この唯物論者たちとも親友になり、渡辺らが編集していた雑誌に詩歌を寄せ、その歌会にも出席した。「みどり屋」には自然、池袋の左翼、もしくは人道主義の文人かあつまるようになった。秋田雨雀、野口雨情、尾崎喜八、大藤治郎、中西悟堂、堀江かど江、勝承夫らで、その後に培風寮主人になってからも、これらの人たちはよく訪ねてきたから、花岡は、しばしば刑事の訪問をうけた。

太陽だけは共産だ。妻よ金の無い日は、
みんなかたまって、
日でもたべるか。

「みどり屋」をひらくころ、花岡は妻にトリ子をむかえた。花岡とは対照的に勝気な女だったが、長崎小町とよばれた美女だったから、人恋しい花岡にとって、トリ子をむかえることは至上の幸福であった。花岡はそれまでに、のちの作家吉野せいなど、なん人かの女性に想いをよせ、多くの恋歌を詠んでいた。

いくたびかさびしくなりてわが凭(よ)りしへやの柱によれる君かな

花岡はトリ子とのあいだに四人の男の子をもち、終生家族を愛した。

いたはつていたはられていつしよに生きるのだこの家ともよ
戸籍法違反科料何でもいい保彦よ俺はお前の生れた日をかうして守ったぞ

保彦は三男で、戦後にこの子を北アルプスで失ってから、謙二はぬけ殻のようになった。

大正十三年、「みどり屋」を手放し、長崎町北荒井に培風寮を建てた。父親が、下宿屋ならやっていけるだろうといって五千円を出してくれ、立教の学生相手に始めたのだった。しかし、あい変らず喀血をくりかえしていたし、トリ子は外へ働きに出ねはならなかったから、母と妹に培風寮を託し、房州保田にあった石原純、原阿佐緒の愛の巣「靉日荘」に身を寄せた。石原はアインシュタインの相対性理論の紹介者として知られた国際的物理学者であり、「アララギ」の歌人でもあった。恋多かった断髪の歌人阿佐緒とむすばれ、東北大学教授の職を投げうっての房総すまいであり、花岡は、ふたりの影響で口語短歌をつくりはじめた。
昭和五年、すずめケ丘にもどり、下宿屋培風寮を賄なしのアパートにあらためたが、そのころから、さきに書きつらねたような”あぶれ者たち”があつまり始めることになった。」

1924年(大正13年)
靉光は画友中島茂男とともに上京し、谷中の下宿に住み太平洋画会研究所に通う。
そこで井上長三郎、鶴岡政男、麻生三郎らといった個性派画学生たちと知りあい、川端画学校にもかよった
■この頃の靉光
「上京のころはもうすっかり、こうした身なりが板についていたとみえで、太平洋画会研究所で後輩にあたる麻生三郎は〈絵の実力もさることながら、その服装や態度にいたるまで、まことに典型的な絵描きらしい雰囲気が身についていて印象深かった〉と筆者に語ったことがある。
当時の太平洋画会研究所の学生たちは、長髪にツバ広のおかま帽をかぶって、着流しに絵具箱をぶらさげるといったいでたちのものが多かったが、靉光は、冬だというのに、白っぽい浴衣の着流しで長髪をバサバサにして通学していたこともあるという。額がせまいのを気にして、剃刃で剃りあげたり、頭髪を黄色に染めたり、そうかと思うとイガ栗坊主にしたり、泥鰌ヒゲやコールマンヒゲを生やしていた時代もある」(ヨシダ・ヨシエ 菊池芳一郎編『靉光』昭和40年8月所収)

「(靉光が太平洋画会研究所に入った頃は、)岡本唐貴ら、やがてプロレタリア美術に走る人たちが、ヨーロッパ近代画風を追い求めたすえにダダにいきつき「あとは自殺しかない」と思っていた、まさにその頃であった。
地方の泥臭さを身につけたままの、きのうまでの図案職人は170cmを優に越す長身で、痩せて頬がこけていた。靉光は、研究所からは近い根津宮永町から、谷中初音町、板橋大山、滝野川、神楽坂下、牛込横寺町へと、上野からそう遠くない範囲の、いずれも低地の下宿を転々としていた。
・・・・・
板橋大山の下宿は井上(長三郎)の筋むかい、新撰組近藤勇の墓のかたわらにあった。その炭屋の二階で靉光は、二、三の友ととも自炊していた。あたりはまだ畑や雑木林ばかりで、その風景をゴッホ風の筆づかいで描いていた。貧乏で、米が一粒もはいっていないポロポロの麦めしと味噌と大根の葉しか食べていなかったのに、また研究所にあらわれたときは、そのちかくのー膳めし屋の大野屋で、大盛り二銭五厘の飯、味噌汁、魚の煮つけ、馬肉などを、せいぜい十銭で食べるだけだったのに、なぜか夜な夜な滝野川、駒込、神田あたりのパーやカフェにあらわれてコーヒーや安酒を飲み、音楽に聴きいっていた。また、だれもその音を聴いたことのない舶来のギターをもっていて、それは貴重な質種(しちぐさ)であった。コーヒーなどとはおよそ縁のなあった井上はいつも、靉光のそんな奇妙な振舞いをみては笑っていた。
靉光のかよったカフェは、・・・・・お色気専門の店ではなかったし、また、女給が組合をつくって集会でぶちあげるといった”左翼の店”でもなかったが、いずれにしても、大正のふたけたのころからはびこった風俗の一端を荷なう店ではあった。
「神楽坂では「芸術倶楽部」というアパートに住んでいた。三階建で、吹きぬけの天井からうす暗い電灯がぶら下り、梁がむき出しのそのアパートは、この国初の新劇女優松井須磨子が大正八年「カルメン」に出演中に、前年十一月に急逝した劇作家島村抱月の後を追い、赤い腰ひもでくびれて死んだ小劇場「芸術倶楽部」の、のちの姿であった。貧乏絵かきや、役者や、売れもせぬ小説を書いている文士や革命家など、異様な若ものたちがうごめいていて、靉光はかれらと一緒に酒を酌みかわすこともあったが、その人たちが熱っぽくかたる革命の話には、いっさい口をはさまなかった。」(『池袋モンパルナス』)

柿手春三の証言(『池袋モンパルナス』)
「ぼくは井上さんに刺戟されて、神保町の古本屋や日本橋の丸善へフランスの絵をみにいきよったんです。丸善では『カイエ・ダール』、そう、シュルレアリスムを紹介しとったアチャラの美術雑誌ですな。それがガラス戸棚のそとに出とって、若いもんの手垢がつくままになっとったんです。ある日いったら靉光が先にきとって、えっとながめよるんですよ。しばらくうしろに立っとったら見つかってしもうてね。靉光、いかにも照れくさそうにしとりました」

1924年(大正13年)
井上長三郎(17歳)、上京し、太平洋画会研究所に通い始める。

1924年(大正13年)
三科造型美術協会
「大正十三年十月、・・・・・「三科造型美術協会」をつくり、翌年五月に第一回展をひらいたが、会場にはアナーキーな、ダダイスディックな作品が目だち、官憲の弾圧もあって雲散霧消した。三科の中心的存在だった岡本唐貴は・・・・・」(『池袋モンパルナス』)

1924年(大正13年)
長谷川利行(33歳)、震災後の一時期、利行は東京を離れ京都へ戻っている。
家族と別居して京都市伏見稲荷神社前の二階建て木造アパート「稲荷倶楽部」の一室に住む。院展の画家後藤芳仙を知り交友、東山区林下町の後藤宅に頻繁に通う。
この年から翌年にかけ、一乗寺付近、銀閣寺裏、北白川などの貸家に住む。

「『稲荷倶楽部』から、利行は一乗寺辺の小さな貸間に引越した。ろくな荷物もなかった。貧しい、暗い生活であった。後藤氏の知る限りでは、妻もなく子もなく、愛人のいたらしい形跡もない。全くの孤独の生活であった」。

「利行は銀閣寺近くの白川辺に、一軒の貸家を借りた。・・・そして、奥へ通じる通路の荒壁に、小学生の描いたクレヨンのスケッチが、無数にピンで貼りつけてあった。『これは、最高のお手本です』と、利行は後藤氏に言ったという」(矢野文夫『長谷川利行』)。

1924年(大正13年)
福沢一郎、彫刻研究を目的に渡仏、木内克、森口多里らと親交する一方、エコール・ド・パリの空気に触れるなかで、次第に絵画への関心を強めていき、同年のサロン・ドートンヌに「ブルターニュ風景」が入選した。

1924年(大正13年)
1月3日、佐伯祐三(26歳)、パリ着。
3月、パリ郊外クラマールの借家に引っ越す。
初夏、里見勝蔵とオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。翌日ゴッホの墓を詣で、また医師ガッシェの家でゴッホの作品を見る。
秋から冬にかけてパリ北郊の村々を写生旅行、激しい筆致の作品を描く。
12月、モンパルナス駅南のリュ・デュ・シャトーに越す。

1925年(大正14年)27歳
7月、セツルメント(隣保事業)視察のため兄の祐正が来仏。祐正には視察とともに病弱な祐三を心配した母の意向で祐三の帰国をうながす目的もあった。

つづく




日米経済対話、また見送りに 麻生氏の「ヒトラー発言」影響か(朝日新聞); ペンス米副大統領から見てもナチス的という麻生太郎ってどうよ




カナダの首相、ナチスを逃れた907人のユダヤ人難民の受け入れを拒否するという1939年当時のカナダ政府による行いを、現首相として公式に謝罪。謝罪が遅くなった事実に関しても謝罪し、今後はユダヤ人に対しても積極的に暴力からの護りを提供する意向を表明


衆院内閣委。今井雅人「先週公開された音声は鮮明だった。御自分の声ですか?」 片山「たしかに前の物よりは鮮明で人の声には聞こえる。私の声に近いとも感じたが解らない」 今井「現在、声紋鑑定を始めているところです / 片山、言い逃れが出来なくなり、南村氏を私設秘書として通行証を交付させた事を認める / 「どじょうより、うなぎ、カレンダー!」自分で、ウケる(動画)






















2018年11月8日木曜日

北の丸公園 イチョウが色づいてきた 2018-11-07

11月7日(水)はれ(昨日)
北の丸公園のイチョウが色づいてきた。
写真一番上のイチョウは例外的に黄葉が早い個体で、もはや完熟ベース。
二番目以降が公園では平均の色づきのもの。
多分、一番遅いのは武道館の前の大イチョウかな。
年末、YAZAWAコンサートの頃に完熟ベースになる。





“世界経済は踊り場状態” 米中貿易摩擦に懸念の声 日銀会合(NHK) ; 【今頃慌てて】10月の日銀の政策決定会合で、世界経済は踊り場にある、トランプの保護主義の影響が出てきている、地銀への副作用を警戒とか、今頃慌てている。そして出てくるのは、追加緩和しかない思考停止。





辺野古新基地:石井国交相(公明党)「全部読んでいない。スタッフは読んだ」 県の意見書(沖縄タイムス); 照屋議員「意見書を読んで、辺野古新基地建設を判断したのか」 石井国交相「全部読んでない。スタッフは読んだ」 辻元議員「沖縄は地盤の問題など具体的に出した。防衛省の反論は弱い。一度全部読んでほしい」 石井国交相「全文を読む必要はない」


【炎上】自治体側は社長を呼び出す方針を固める / 東海第二原発再稼働「拒否権ない」に自治体が謝罪と撤回要求 | NHKニュース / 東海第二原発、20年延長認可。今月末に運転40年を迎え、廃炉の予定のところ、規制委が優先的に審査をし、延長に間に合わせた形に。 (満面笑顔の)日本原電副社長 「例えば新協定の中には“拒否権”なんて言葉どこにもないのに」   



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