2011年11月30日水曜日

東京 江戸城(皇居)東御苑 もみじの紅葉が見ごろを迎えている

江戸城(皇居)東御苑のもみじの紅葉が見ごろを迎えている
写真は、今日11月30日の状況
やはり例年と比べると遅い

下は二の丸雑木林のもの。
時間の都合で、本丸広場の松の廊下辺りには行けなかったが、そちらにももみじは多い

その代わりに、北の丸公園のもみじを見に行った(コチラ)

(最新)
12月7日時点の江戸城(皇居)東御苑、本丸広場のもみじ(コチラ)

12月7日時点の北の丸公園のもみじの紅葉(コチラ)











川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(9) 「八 「余花卉を愛する事人に超えたり」 - 庭の小宇宙」

東京 江戸城東御苑(2011-11-22)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(9) 
「八 「余花卉を愛する事人に超えたり」 - 庭の小宇宙」
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「庚申の年孟夏居を麻布に移す。
ペンキ塗の二階家なり。
因って偏奇館と名づく。
内に障子襖なく代ふるに扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に畳を敷かず榻を置く。
朝に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉ずの煩なし。
冬来るも経師屋を呼ばず大掃除となるも亦畳屋に用なからん。
偏奇館甚獨居に便なり」(随筆「偏奇館漫録」(大正9~10年))

「余花卉を愛する事人に超えたり。
病中猶年々草花を種まき日々水を灌ぐ事を懈(おこた)らざりき」(随筆「偏奇館漫録」)

大正9年6月2日。
「苗売門外を過ぐ。
夕顔糸瓜紅蜀葵の苗を購ふ。
偏奇館西南に向ひたる崖上に立ちたれば、秋になりて夕陽甚しかるべきを慮り、夕顔棚を架せむと思ふなり」
西日を防ぐ棚を作ろうと夕顔、糸瓜、紅萄葵(モミジアオイ)の苗を買う。

9月23日
植木屋に頼んでプランタン(プラタナス)3株、窓前に植える。
このプランタンは順調に成長し、昭和3年6月18日には、「木陰の窓あまりに暗ければ朝の中より庭に出でプランタンの枝を伐る」とある。

苗売りから夕顔や糸瓜の苗を買ったあと、さらに、6月18日、
「虎の門を歩み花屋にて薔薇一本を購ふ」。

11月10日
「虎の門金毘羅の縁日なり。草花を購ふ」。

「菊を植ゆ」(大正9年10月16日)、
「窓外山茶花満開」(11月2日)、
「チユリップ球根を花壇に埋む」(11月17日)、
「庭に福寿草を植ゆ」(12月28日)、
「雁来紅の種をまき、菊の根分をなす」(大正10年3月23日)、
「瑞香(*沈丁花)の花満開なり」(3月30日)、
「雨の晴れ間に庭の雑草を除く」(6月26日)、
「松葉牡丹始めて花さく」(7月2日)、
「午後庭のどうだん、かなめ杯の刈込みをなす」(大正14年5月23日)、
「昨日のごとく庭に出で花壇を耕し、肥料を施す」(11月8日)、
「午後庭を掃ふ。瑞香の花将に開かむとす」(大正15年3月2日)、
「午後庭に出でゝ草花の種を蒔く」(4月12日)、
「小園の新緑甚佳し。躑躅花落ちて芍薬ひらく」(5月8日)
・・・

「断腸亭」は、断腸花(秋海棠)にからとられている。
かつて大久保余丁町の父の家では、夏に秋海業が小さな赤い花をつけた。そこから荷風は自らの書斎を「断腸亭」と名づけた。
しかし、麻布に引越してからは、胡蝶花はあっても秋海棠には恵まれない。

大正15年9月26日
日頃から欲しいと思っていた秋海棠が手に入る。喜んで庭に植える。
「秋海棠植え終りて水を灌(そそ)ぎ、手を洗ひ、いつぞや松莚子より贈られし宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蛼(こほろぎ)の鳴音、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞え出しぬ。
かくの如き詩味ある生涯は蓋しさかな鰥居(かんきよ)の人にあらねば知り難きものなるべし」

この秋海棠は、翌年の初夏に芽を出す。
昭和2年5月11日
「去年の秋清潭子より貰ひたる秋海棠悉く芽を出したり、今年の秋には久しぶりにて断腸花の色を愛づることを得べし」

昭和5年夏
秋海棠の花が例年より12輪早く開いたときには、父の作った秋海棠を読んだ漢詩の掛け軸を客間に掛ける(昭和5年7月1日)。

秋海棠を通して、漢詩人でもあった父の文人趣味を偲ぶ。

随筆「枇杷の花」(昭和10年)
庭に花がなくなった寒い季節に、忘れられたようにひっそりと花をつける。
「見栄えのしない花」へのを思い入れを書く。
日かげの花に心ひかれる荷風らしい。
秋海棠も日かげを好む花。

野草にも目をとめる。

昭和7年9月29日
知人からもらった龍膽(りんどう)を写生して日記に添える。

昭和10年6月3日
西光寺墓地の生垣に咲いていた忍冬(ニンドウ、スイカズラ)の花を写生し日記に添える。

沈丁花も荷風が愛した花のひとつ
「余の沈丁花を愛するは、曽て先考大久保の村園に多くこの花を植ゑ其書齋を小丁香館とよびたまひし事を思ひ出すがためなり」(昭和9年4月12日)。
父が愛した沈丁花を自分も愛することで、亡き父のことを思い出す。


大正9年に偏奇館に移居の際には、世田谷から種苗師を呼び、庭に沈丁花2、30株を植えている。

大正10年3月30日

「瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉々として面を撲つ。
俗塵を一洗し得たるの思あり」

昭和10年3月3日

夜、銀座で食事をして偏奇館に戻ると、「沈丁花馥郁人の面を撲つ」。
思わず沈丁花の句を三句作る。
「春寒き闇の小庭や沈丁花」

「春寒き門に匂ふや沈丁花」
「沈丁花環堵(かんと)粛然として春寒し」

昭和16年6月1日
あじさい(西洋あじさい)を賞でる。
「西洋紫陽花コバルト色に染り出しぬ。
この花もと日本の紫陽花を佛蘭西の土に移植ゑしなりと云ふ。
花の色その葉の色ともに淡くやはらかなり。
三年前或人鉢植の一株を贈りくれしなり。
庭におろして既に年を経たれば花の色も今年あたりは日本在来のものに化し終るならむと思ひしに、始めて見し時のうつくしさを保ちたり。
わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あじさゐの如くなれかし

あじさいへの想いと同時にフランスへの変らぬ憧憬を述べる。

「日本の紫陽花」:ガクアジサイのこと。

大正11年4月21日
2年前に隣の家の垣根際に茂っていた胡蝶花(シャガ)を偏奇館に移しかえる。
「庭の片隅に胡蝶花のひらくを見る。

一昨年移居の際鄰園のシャガ垣際に匐ひ出で生茂りたるを採り、日当りよきところに移し栽えしに、いよいよ繁茂し多く花をつけたり。
此の草余の生れたる小石川金冨町の庭、または崖にも茂りたり。
大久保の家の庭には鶯草ありしが、此花を見ざりし故、築地庭後庵の茶室のほとりに繁りたるを請ひ受け、移植えむと思ひしこともありしなり。
麻布の家のあたりには石垣の間竹薮の中などにシャガの茂りたる処多し。
地勢小石川に似たるが故ならむか」

大正12年11月11日
散歩の途中、道源寺で寒竹が打ち捨てられているのを見て、人足に頼んでそれを偏奇館に移し植える。
「吾家の門前より崖つたひに谷町に至る阪上に道源寺といふ浄土宗の小寺あり。
朝谷町に煙草買ひに行く時、寺僧人足を雇ひ墓地の石垣の崩れたるを修復せしめ居たり。
石垣の上には寒竹猗々として繁茂せるを、惜し気なく掘捨て地ならしをなす。
予通りかゞりに之を見、住職に請ひ人足には銭を輿へて、其一叢を我庭に移し植えさせたり。
寒竹は立冬の頃筍を生ずるものにて、其の頃に植れば枯れざる由。
曾て種樹家より聞きし事あり」

大正15年10月2日
「西郊の秋色を見むとて、午後電車にて玉川双子の渡に抵(いた)り、杖履逍遥(じようちしようよう)、世田ケ谷村に、葵山子を訪ふ。
相携へて駒場農科大学の園林を歩む。
・・・予去秋、草木の名称を知らむとて、再三筇(つえ)を曳きたりし園林を尋るに、既に其跡だになし」
「草木の名称」を学ぶために「駒場農科大学の園林」を訪ねている。

植木の値段。
大正13年9月18日
世田谷の植政という植木屋に行き、青木を数株注文し、主人から震災後植木が値上りしているという話を聞いて、この日買った植木、さんご樹、青木、むべの値段を細かく記している。

偏奇館の大きな椎の木。
大正9年、移り住んだときにはすでに老い、虫がついて弱っていた。それをワラで幹を包み、幹の穴に薬液をそそいで手入れをした。その丹精の甲斐あって、椎の木は年々元気になり、昭和3年5月には、再び花をつける。

5月31日
「晴れて暑し、窓外に繁りたる椎の老樹今年始めて花をつけたり、・・・」

6月9日
「晴れわたりて風さはやかなり、椎の花咲く薫り書窓に満つ、物の黴びるが如き匂なり、されば揺水の臭気に似たりとも云はるゝ由なり、余は椎の花咲く香気をかぐ時は何となく人跡絶えたる山間の幽逕を歩むが如き心地す、夏の花にて余の好むもの椎の花と紫陽花にまさるはなし、・・・」

偏奇館の荷風が、秋海棠、枇杷、椎、紫陽花といった日本的な花、それもどちらかといえば目立たない地味な花を愛したことは、彼なりの反時代的趣味、頑固さのあらわれだろう。」(川本)

昭和3年5月30日
「快晴、緑蔭清風愛すべし、午後樹下に椅子を移して鴎外全集ギヨオテ伝を読む」

昭和18年6月17日
「晴。午後落葉を焚き藪蚊を追ひつゝ茂りし椎の木蔭に椅子を持出で読書の後ふと興の動くがまゝ手帳に小説の筋書をしるす。
此日蒸暑甚しく机に向ひ難し。
椎の木蔭は日を遮り涼風絶えず崖の竹林に鳥の声しづかなり」

世を離れた荷風にとっては、偏奇館の庭は小宇宙である
庭は、隠れ場所であり、世を避けようとする文人の小さなユートピアである
このとき、「断腸亭日乗」とは〝庭の文学″でもあったことに思いあたる。

「庭」は、荷風にとって、社会や国家と鋭く対立する特権的場所である
それを私小説的空間だと矮小化したり、隠居趣味だと批判するのは当らない。
荷風は、大逆事件を見ている文士であり、自身、強権によって「ふらんす物語」を発禁されたことのある人間である。
国家権力の強大さを知る荷風であればこそ、庭という小宇宙は、小さな、しかし、絶対に譲ることの出来ない場所になったのである。」(川本)

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弘仁8年(817)~弘仁9年(818) 「卑、貴と逢いて躓く等、男女を論ぜず、改めて唐法によれ」

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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弘仁8年(817)
・この年、空海(44)、泰範・実恵らを派遣して高野山開創に着手。
高野山麓の丹生氏などの援助により、山上に「一両の草庵」が造られる。
また山麓紀ノ川南岸に政所が設けられる。
そこから山上まで山道が後に町石道となる。
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9月
・弘仁2年の征夷において、文屋綿麻呂が俘軍1千人を委ねて弊伊村を討たせようとした吉弥侯部於夜志閇(きみこべのおやしべ)が反乱
同族61人と共に捕らえられる(『類聚国史』巻190)。
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10月7日
・常陸国新治郡の倉庫群の不動倉13宇が焼ける(『類聚国史』巻173)。
日本古代の郡衙の考古学的研究の出発点となった茨城県上代遺跡。

正倉に放火する神火事件:
管理不行き届きの廉で現任の郡司を失脚させ、代わり自分が任命されることを目的としたり、実際には正倉に稲穀が納入されていない(ないしは不正に流用されてしまった)ことがばれないように、証拠を摩滅しようとして、正倉に放火する事件。

『続日本紀』天平宝字7年(763)9月1日条、神護景雲3年(769)8月の下総国猿島郡、同年9月の武蔵国入間郡、更に宝亀年間には下野・上野・陸奥に、主に東国で流行した。
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弘仁9年(818)
・この年、儀礼制度が改革され、多くの儀礼や施設の名称が中国的なものに変更される。
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・この年、坂東諸国に激震(『類聚国史』)。
坂東諸国では、山崩れが起き、巻き込まれて亡くなった人は数えきれないほどであったとの報告。震源は、上野・下野・武蔵国の国境付近と推定され、典型的な内陸型地震であった。
被害は、上野国との国境付近でもっとも激しく、河川が崩落した土砂で塞がれ、その決壊により大きな災告に見舞われたと推測される。
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・この年、「文華秀麗集」成立。
嵯峨天皇は、再度、漢詩集撰進を大納言藤原冬嗣にはかり、大舎人頭(おおとねりのかみ)兼信濃守の仲雄(なかお)王に撰進を命じる。

『凌雲集』編者であった清公と文継も加わり、更に新人の大内記滋野貞主(しげのさだぬし)・少内記兼播磨少目桑原腹赤(くわばらのはらあか)が編者に抜擢される。
今回は、中国の『文選』の編別を範とし、一定の類題(遊覧・宴集・餞別・贈答・艶情・楽府・梵門・哀傷・雑詠など)のもとに編集された。
この勅撰第2の詩集は『文華秀麗集』と名づけられ、この年に撰進される。

作者は26人、詩篇は148首。『凌雲集』に漏れたもの、弘仁5年(814)以後の新作が集められ、この集をもって、弘仁年代を中心とした詩業に桓武・平城2朝のものがほぼ網羅された。
嵯峨は3度めの詩の撰集を企てる。
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・この年、菅原清公(きよきみ)は文章博士(もんじようはかせ)を兼ね、勅命をうけて『文選(もんぜん)』の侍読を担当。
2年後に、文章博士が正七位下の官から従五位下に改められる。

文章博士の地位は明経博士を越え、さらに、承和元年(834)には文章博士の定員を2名とした。
嵯峨以後の親政3代の唐風文事への傾倒が、文章博士の存在と役割を高めることになる。
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3月
・跪伏(きふく)礼を禁止し、立礼を用いることを命じる。
推古12(604)年、宮門を出入りする時は匍匐(ほふく)礼をとるが、朝廷内では立礼をすることとし、大化改新後の前期難波宮では、匍匐礼・跪伏(きふく)礼を廃し、立礼が採用された。
しかし、立礼はなかなか根付かなかったらしく、天武11(682)年をはじめ、何度も匍匐礼や跪伏礼の禁止令が出されている。

そして、最終的に、この月、「卑、貴と逢いて躓く等、男女を論ぜず、改めて唐法によれ」との法令が出る。
身分の低い者が上の者に対して、跪伏礼をとることを禁止し、唐の方法、即ち立礼を用いることを命じる。
この他、宮人の服色や、位記(任じられた位階を書いた証明)なども中国風に変更された。
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最澄、かつて自らが東大寺戒壇院で受戒した具足戒(ぐそくかい)を捨て去ることを宣言し、天台宗独自の修学心得の制定にとりかかる

最澄は大乗戒壇設置を求めて懸命の努力を重ねる。
この月、具足戒を捨て去ることを宣言し、天台宗独自の修学心得の制定にとりかかる。

こうして「山家学生式(さんけがくしようしき)」が完成し、これを朝廷に提出して戒壇の設立許可を求めた。
天皇からの諮問を受けた大僧都伝灯大法師位(だいそうずでんとうだいほつしい)護命(ごみよう)以下の僧綱6人は、大乗戒壇設立に反対するが、これに対する反批判が前入唐沙門(につとうさもん)最澄撰『顕戒論(けんかいろん)』である。

経・論・疏は言うまでもなく、『大唐西域記』『鑑真伝』『不空表制集(ふくうひようせいしゆう)』まで博引旁証(はくいんぼうしよう)の限りを尽くし、激しい応答も盛り込んだこの大論文は、論争相手の僧綱そのものの不要論にまで進むが、もはや南都からの反論は聞かれなくなる

かくして、弘仁13年(822)6月、最澄没の7日後、延暦寺に大乗戒壇を設立する勅許が下りる。
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4月
・殿閣・諸門の号を唐風に改める。併せて内裏の建物や門の名称が変更される。
それまで寝殿・南殿と呼ばれていた建物が、それぞれ仁寿殿・紫宸殿などと中国長安城にある建物の名称に代えられる。
大内裏(宮城全体のこと)を囲む築地に取り付けられた12の門(宮城門)には、それまで古くヤマト王権の軍事部門を担当した氏族のウジ名が用いられてきた。西面の玉手門・佐伯門・伊福部門は、それぞれ談天門・藻壁門・殷富門に変えられる。
嘉字(めでたい文字)を用い、それぞれのもとの読み方に近い名称を選んだ。
こうした儀礼や儀式に関する変化は、この時点の宮中儀式を集大成した『内裏式』として弘仁12(821)年に結実する。
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数年来の大旱魃
4月に、藤原冬嗣より最澄に祈雨要請。
4月26日より3日間、叡山の僧侶すべてを率い祈雨修法。雨を得る。
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11月
・富寿神宝(皇朝十二銭の五)を鋳造する。
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2011年11月29日火曜日

東京 北の丸公園 もみじの紅葉が始まる 見頃はまだまだ

北の丸公園のもみじ
ようやく紅葉が始まっているが
例年に比べると、かなり遅い
写真は本日11月29日の状況
(今日はあいにくの曇り空)

このぶんだと、見頃は来週の半ば以降じゃないかなと思う

11月30日の状況はコチラ
12月1日の状況はコチラ






東京 靖国神社のいちょう 見頃はまだまだ

靖国神社のいちょうの色づき
昨日(11月28日)の状況では
例年に比べて暖かいせいか、まだまだイマイチ
ギュッと寒くならないので、今年の色づきはこのままで、果ては落葉かとも思ったり・・・

▼駐車場側だけは鮮やかな黄葉になっている
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▼正面入り口から見たところ
冴えないのは、曇りのせいもある
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▼本殿側から見たところ
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▼武道館で女性歌手のコンサート
グッズに「湯たんぽ」があったので・・・
なかなかいいんじゃないですか
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▼KOU SHIBASAKIさんのコンサート

明治36年(1903)7月18日~8月15日 「対外硬同志会」結成 ロシア社会民主労働党第2回大会 旅順口にロシア極東総督府

東京 江戸城 富士見櫓(2011-11-22)
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明治36年(1903)
7月18日
・川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座での一座公演で「ヴェニスの商人」「サッフォー」を上演
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7月20日
・「東亜木材会社」と韓国西北辺界鬱陵島森林監理趙性協間で土地租借契約。
駐韓ロシア公使パウロフは、これを龍岩里租借協約にする企図。
日本(公使林権助)の反対(機会均等の公理違反)で実現せず。
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7月21日
・外相小村寿太郎、駐露公使栗野慎一郎に対露交渉開始訓電。
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7月21日
・足尾銅山に鉱毒除外命令。  
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7月21日
・英議会、統一党政府のウィンダム法(アイルランド土地買収法)可決。
アイルランドの地主権益買収し小作農が自らの耕作地を所有。償還期間は68年6ヵ月。
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7月23日
・日本初のオペラ上演。グルック「オルフェオとエウリディーチェ」。柴田環。  
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7月26日
・頭山満、近衞篤麿、神鞭知常ら、「対外硬同志会」結成
8月9日、「対露同志会」と改称。
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7月28日
・小村寿太郎外相、栗野慎一郎駐露公使に、ロシアに日露交渉開始を提議するよう訓令。
日露戦争開幕ノ合図音
(「一たび談判を開始せんとせば、戦争は最初に於て決心し置かねばならなかった」桂の述懐)。
31日ロシア外相ラムスドルフに口上書手交。
8月5日ニコライ2世の允可を得たため交渉に応じる旨、回答。
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7月30日
ロシア社会民主労働党第2回大会開催(~8月23日、ブリュッセル、ロンドン)。党綱領と規約を採択。
規約第1条や「イスクラ」編集部構成をめぐりレーニン・プレハーノフ(後、メンシェヴィキに移る)主導のボルシェヴィキ(「多数派」、急進主義)とマルトフ(後、プレハーノフが加わる)らのメンシェヴィキ(「少数派」、中道主義)に分裂。
トロツキーはメンシェヴィキに与する。

大会期日が迫り、トロツキーらはジュネーブに移る。
大会準備の主問題は規約(特に「イスクラ」とロシア国内の中央委員会との関係)。
レーニンは、国外の「イスクラ」編集部が党を指導するというもの。
トロツキーはシベリア同盟から代議員に推され出席。

ブリュッセルでは大会代議員全員に尾行がつき、警察からの召喚状がでる。
出頭した者は24時間以内の出国申し渡し。トロツキーは出頭せずロンドンに向かう。

大会が進むにつれ、「イスクラ」主要幹部間の対立露呈(「硬派」(レーニン)と「軟派」(マルトフ)との分化)。
「イスクラ」主要メンバで話し合うことになり、トロツキーが議長に選ばれる。
結局、溝は埋まらず大会は分裂。
トロツキーはレーニンと袂を分かつ。古参派アクセリロートとザスーリッチを「イスクラ」編集部から排除するレーニン提案の厳格さをトロツキーは受入れられず。
1904年9月、トロツキー、メンシェヴィキからも離脱。
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8月
・中国、「国民日報」創刊。主編章士釗。編集者陳独秀・蘇曼殊。「蘇報」擁護の論陣。
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・この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化が始まる。

職工たちは家に帰ることを許されず、家庭や下宿から14回の弁当を運ばせ、昼夜兼行の労働をさせられ、深夜に2時間の仮睡をとるだけ。
そういう労働が数日間続いて、職工が倒れると、はじめて家に帰ることを許された。
日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味を悟る。
政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って馬られていたが、この夏、軍部と内閣は、いよいよ開戦の決定をした。
労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。
労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的になっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。
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・児玉花外『社会主義詩集』 すぐに発禁、押収される。
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・龍岩里租借事件を契機に、「時事新報」、連日朝鮮問題を取上げ、日本の民族的危機・朝鮮水域への軍艦派遣主張。
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・川上眉山(34)、里見鷲子と結婚。
前年の徴兵問題や村八分を題材にした作品「一軒百姓」が好評で、この年春頃には、眉山は文壇に復活したとの声が上がるほど。
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・トロツキー(24)、「シベリア代議員団の報告」を執筆、レーニンとプレハーノフを厳しく批判。
出版直前、プレハーノフがメンシェヴィキ側についたためプレハーノフ批判の部分を削除して出版。
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8月3日
・小村外相、駐ロシア公使栗野慎一郎にロシア外相ラムズドルフ宛協商案文を訓令。
「韓国に於ける改革及善政の為め助言及援助(但し必要なる軍事上の援助を包含すること)を与うるは日本の専権に属することを露国に於て承認すること」(第五条)をふくむ六ヵ条。
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8月5日
・ロシア、陸相クロパトキン、極東視察の報告と意見書をニコライ2世に提出。
「東亜木材会社」の売却を進言。
但し、この頃、宮廷顧問官ベゾブラゾフ派の巻き返し工作が宮廷・軍に浸透
(日露関係悪化は、日本が英国と同盟し満州からロシアを駆逐しようとするところにある)。
10日、ベゾブラゾフは満州経営促進のため、関東長官を極東総督に昇格させ権限を付与すべきと進言。
ニコライ2世は、陸相・外相・蔵相など穏健派に知らせずにこの進言を勅令公布。
陸相クロパトキンは辞意表明。ニコライは辞意を認めず、「長期休暇」を与える
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8月7日
・中部ドイツのクリミチャウ、繊維労働者ストライキ(~1904年1月)。
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8月9日
・近衞篤麿・頭山満・佐々友房・神鞭知常ら国家主義者100余の「対外硬同志会」、「対露同志会」と改称。神田・錦旗館で大会。
ロシアの満州撤兵、清国の満州解放要求を決議。桂首相に警告書を送る。
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8月10日
・パリで地下鉄火災。死者84人、負傷者多数。
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8月12日
ロシア、旅順口に極東総督府、設置
軍隊指揮・外交も所管。関東長官アレクセーエフ大将が総督就任。
17日、この情報を得た日本は、ロシアの満州永久占領の表意、対日戦の決意表明と見る。
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8月12日
・駐露公使栗野慎一郎、外相ラムズドルフに日本側6項目の日露協商基礎条項(日露商議条件・日露協約案)提示。
露の満州権益を鉄道に限定、韓国からの引揚げ。満州・朝鮮に関する交渉開始。
10日3日ロシア、拒絶。
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8月15日
・熊本での社会主義講演会、解散させられる。

「万朝報」(16日付け)は、15日午後9時19分熊本発として、「今夕片山潜一行当地三年坂耶蘇教会堂にて社会主義講演会を開き会主旨を述ぶるに当り解散せられたり」と報じる。

「連日の電報欄に記せる如く、去月、四国、中国、九州、各地を遊説せる社会主義者片山潜一行は到処其演説を中止され、解散され、或は辻々に貼れる広告紙を警官の為めに剥取られ、或は其筋の内命なりとて、会場の貸与を拒絶され、或は末だ開会に至らざるに、警官の為めに、数百の聴衆を遂帰さるゝに至れり。
読者は之を見て果して如何の感を為すや。
憲法あり、参政権あり、新聞の発行停止は廃せられ、出版も亦多少の自由ある世の中に、独り演説のみ圧制せらる、何ぞ如此く甚だしきや。独り社会主義の演説のみ迫害せらるゝ、何ぞ如此く甚だしきや、真に奇怪千万の現象に非ずや。
上に如此暴虐の政府あり、吾人は多数人民の権利の保持拡張の為めに、却つて益々社会主義唱道の必要を感ぜずんばあらず。・・・」(「万朝報」8月12日)
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弘仁7年(816) 最澄の苦悩 「劣を捨てて勝を取るは世上の常理ならん。 然れども、法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣あらんや。 同法は同じきを恋う。これを善友という。」

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
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弘仁7年(816)
2月
・最澄、空海より借りていた『新華厳疏』『烏瑟渋摩法』などを返還。
これ以降、書状のやり取りや両者が顔を合わせることはない。
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5月1日
最澄がかつて愛弟子で空海の許にいる泰範(たいはん)に宛てた手紙
最澄は、孤軍奮闘、頼りは天台宗で最初に沙弥となった光定のみという状況。

「老僧最澄、生年五十、生涯久しからず。住持未だ定まらず・・・独り一乗を荷(にな)いて俗間に流連(りゆうれん)す。ただ恨むらくは、闇梨(泰範)と別居することのみ。
往年期するところは、法のために身を忘れ、発心して法を資(たす)けんとなり。
すでに年分を建て、また長講を興す。
闇梨の功は片時だも忘れず。
また高雄の灌頂には、志を同じくして道を求め、倶(とも)に仏慧(ぶつけい)を期せしに、何ぞ図らん、闇梨は永く本願に背きて、久しく別処に佳せんとは。

蓋し、劣を捨てて勝を取るは世上の常理ならん。
然れども、法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣あらんや。
同法は同じきを恋う。これを善友という
我と公とはこの生に縁を結び、弥勒に見(まみえ)んことを待つ。
もし深き縁あらば倶に生死に住して、同じく群生(ぐんじよう)を負わん・・・。」(弘仁7年5月1日。『平安遺文』4411号)

2人で共に苦労した日々を思い出させ、二世を契った者同士ではなかったかと、師弟というより自分を捨てた恋人へ宛てた手紙の如く、赤裸々に真情を吐露している。

この問いに対し、空海は泰範の返書を代筆して答える

権実(ごんじつ)別ちがたく、顕密濫(らん)じ易し
知音(ちいん)にあらざるよりは、誰か能(よ)くこれを別たん。
然りといえども、法応の仏、善なきことを得ず。
顕密の教、何ぞ浅深なからん。
法智の両仏、自他の二受、顕密説を別にし、権実隔てあり。
所以に、真言の醍醐に耽執(たんしゆう)して、未だ随他の薬を噉嘗(たんしよう)するに遑(いとま)あらず・・・。」(『平安遺文』4412号)

最澄は、法華一乗を唱える天台宗と、真言一乗を唱える真言宗とは優劣がないという協調路線に立って説得を試みた。
しかし、空海はこれを一蹴天台宗を含む顕教は権(ごん、かり)にして浅い教えであり、真言宗(密教)の方が実にして深い教えであると、その優劣を明言する

最澄は、恵果(けいか)第一の弟子である。
実体験なしに密教は会得出来ぬと言う空海の権威主義的な言説に対し、強い反感を抱いたであろう。

この書簡の往復が両者の交流の最後となる。

・最澄は、空海と絶交したこの年、南都大安寺での講筵を済ませ東国に赴く
美濃~信濃~上野・下野に至り、特に北坂東に最澄自身によって天台法華宗の種子が播かれた。

東国は征夷や天災の影響で荒廃していた。
また、東国には最澄と親しい僧侶、道忠がいた。
彼は、もと鑑真の弟子で、下野国大慈寺、上野国緑野寺などを拠点として、多くの弟子を擁していた。

最澄の布教は地方の僧をのみならず土豪・有力農民に感化を及ぼした。
天台新宗に身を託そうという者が比叡山寺を目指すようになり、近い将来には、地方に天台の別院(末寺)が成立する道をも拓いた。

寺院組織における本山と末寺の関係は、天台・真言の宗派によって初めて形成され、その基盤として寺領庄園が拡大されていく。

最澄の東国での布教を契機として、彼は南都の仏徒との間に教義上の激しい論争をくりひろげる。

最初に最澄に挑戦したのは、北坂東で教化していた会津の法相(ほつそう)宗の僧徳一(とくいつ)
で、弘仁12年(821)まで猛烈な論争(三一権実諍論さんいちごんじつのそうろん)を展開していく。
この論戦を通じて、最澄の天台的立場が外部に対して明確なものになった。
法相家が固持する五性各別説(仏教修行者をその能力によって五種に分け、その差異はいかんともしえないとする)に対し最澄は、一切の有情が皆成仏するという天台によって力説されたテーゼを対置した。
この論争は、最澄にとっては天台宗独立のための戦いであった。

この時期、大同2年(807)以来の天台宗年分度者の半数は離散し、若干の者は、最澄の当面の対立者である法相宗に身を寄せていた。
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6月
・空海に対し、紀伊国の高野山に金剛峯寺を建立する許可がおりる。

空海は山林修道の体験と教団確立の念願から、新宗派の本拠地を求めていたが、ようやく自分が選び、嵯峨天皇から紀伊国伊都郡の高野山が与えられる。
弘仁9年(818)とその翌年には、空海は自ら山嶺ふかく入り幾棟かの道場を設けている。

山岳の寺院という点では最澄の比叡山寺と同じだが、高野山は平安京から遠い。
しかし、空海は、高雄山寺を布教と政略の基地にしている。
高野山経営には勅命で国司が力を入れており、空海は、その広大な山麓の各地に多くの寺領庄園をもうけうることを見通していたと思われる。
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8月1日
・この日、因幡・伯耆両国の俘囚が入京して「小事」を「越訴」した際、国司らの「撫慰」が方法を誤り、「判断」(法に基づいた判定)が道理に合わないからであると譴責し、今後も同様な事案が発生した場合には、夷俘専当国司を処罰するという勅が出される(『類聚国史』巻190)。
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10月13日
・新羅からの漂着民に帰化を許可する。
新羅の憲徳王7年(815)~11年(819)、新羅西辺の草賊(盗賊)の反乱が相次ぎ、また飢饉のため新羅全土が騒乱状態に陥いる。
新羅からの漂着民は日本に殺到するが、この日をはじめ、翌8年2、4月、9年正月と、漂着してきた数十人から百数十人規模の集団の帰化を許可している(『日本紀略』)。
これはいずれも宝亀5年の指示に従ってなされた処置であろう。

宝亀5年の指示:
新羅からの漂着者に対し、帰化の意思の有無を確認し、意思の明瞭でない者は基本的に全て追い返す指示。
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2011年11月28日月曜日

「荒草を分け入るわが家戻れざることを予感す一時帰宅に」(東京都 半杭螢子) 「朝日歌壇」11月28日より

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
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「朝日歌壇」11月28日より


首都圏の産廃ダンプが通う道震災ガレキが南下して行く       (福島市)伊藤 緑

荒草を分け入るわが家(や)戻れざることを予感す一時帰宅に  (東京都)半杭 螢子

福島を「負苦島」にして冬が来る汚染されたるまんまの大地   (福島市)美原 凍子

西に8基、東に7基のど真中銀座に住んでフクシマを想う     (小浜市)津田 甫子

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永禄11年(1568)7月~8月 足利義昭、越前(朝倉氏)から美濃(信長)に移る [信長35歳]

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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永禄11年(1568)
7月
・この月、武田氏が相模早川の海蔵寺僧に与えた伝馬口付銭規定による甲府~木曽福島の使用伝馬一疋の口付銭。
甲府~台原(40文)~蔦木(15)~青柳(30)~上原(14)~下諏訪(15)~塩尻(15)~洗馬(40)~贄川(18)~奈良井(12)~屋子原(藪原、12)~福島(18)。

後の甲州街道~中山道の道筋に宿駅が設けられ、伝馬が常備されている状況が明らかになる。
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・信長、足利義昭上洛供奉のため武田信玄と和を申し合わせ。
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上旬
足利義昭、朝倉義景の了解を得て美濃への動座準備
10日、入洛を後援するという信長からの使者(村井貞勝ら)を迎え、13日、一乗谷出発。
16日、浅井長政居城小谷城に立ち寄り饗応を受ける(信長が妹婿浅井長政に道中警護を依頼)。ここで、明智光秀の出迎えを受ける。
22日、美濃へ移る。
27日、美濃西の庄立政寺到着。
29日、信長、立政寺出仕。

信長と義景による義昭争奪戦:
「綿考輯録」によると、細川藤孝が義景による義昭帰洛を勧め、義昭は評議の上、浅井・三田村・和邇・堅田・朽木・高嶋・武田義頼から兵2万3千余を集め、6月18日出陣と決まる。
この時、加賀・能登・越中一向一揆の留守中蜂起の情報が入り、藤孝は顕如と談判、義景娘を教如に嫁す約束をして戻る。
しかし、6月5日、義景嫡男阿若丸が急逝(毒殺?)し、義景は次第に物事が疎かになる。
藤孝と上野清信が義昭使者として岐阜に赴き、光秀の取次により信長に面会、信長は義昭の岐阜動座を勧める。
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7月5日
・宇喜多直家、金川城松田元輝の属将伊賀久隆(津高郡虎倉城主、直家の妹が嫁ぐ)と謀り、松田氏を攻略。元輝・長男元賢(直家娘婿)討死。
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7月10日
・武田信玄、本庄繁長(もと上杉輝虎家臣)を援助するため信濃国飯山城を攻撃。
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7月11日
・細川昭元、下京諸商人に魚公事銭を拘置させる(「京都大学氏所蔵文書」)。
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7月12日
・足利義昭、上杉輝虎へ、信長より岐阜移座を要請され近日中に発足する、朝倉義景はこの件で悪感情を有していないと通知。
同日、京都本能寺へ禁制を下す(「本能寺文書」)。  
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7月12日
・武田信玄、越中一向一揆の勝興寺顕栄に書状を送り、上杉方の越中松倉城主椎名康胤が、武田信玄の調略を受け、一向宗と結び上杉輝虎から離反し敵対していた神保氏と和睦したので、謙信の乱入に備えるよう通告。
16日、同寺宛て書状で、越後の本庄繁長が信玄の調略により挙兵したので、椎名氏と同調して越後侵攻を求める。
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7月25日
・信長、足利義昭を将軍として奉戴するため、義昭の滞在する越前へ迎えの使者(和田惟政・不破河内守光治・村井貞勝・島田秀順ら)を出す。
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7月25日
・フランス、カトリック同盟の成立。
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7月26日
・大和興福寺、三好康長に寺門領押領を愁訴するため珎蔵院・吉祥院を河内へ派遣(「多聞院日記」2)。
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7月28日
・京の烏丸での踊りに、40~50人の踊り衆に10人余の公家衆が混ざる(「言継卿記」同日条)。
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7月29日
信長、足利義昭を美濃西庄の立政寺(現岐阜市西荘内の立政寺)に迎える
座所の末席には銭や太刀・鎧・武具・馬などの進物が積まれ、家来衆もそれぞれ盛大な歓待を受ける。
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7月29日
・信長、上杉輝虎へ書簡。
織田・武田間は和睦成立、武田信玄・徳川家康間は相互に侵略しない「契約」が成立、「越甲(上杉・武田)間」が和睦して「天下之儀」に尽力するよう願う。
また、越中での一揆蜂起と上杉方神保父子の様子を尋ね、信長も心配していること述べる(「志賀槙太郎氏所蔵文書」2)。
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8月
・信長、美濃瑞龍寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「瑞龍寺文書」)。
近江柏原成菩提院へ全3ヶ条の「禁制」下す(「成菩提院文書」)。
近江多賀神社へ全3ヶ条の「禁制」下す(「多賀神社文書」)。
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越前朝倉氏、若狭進攻
若狭守護武田元明は越前へ拉致(保護)。若狭中心部は朝倉氏支配に入る。

武田氏を支援して三方郡の粟屋勝久らを攻める越前朝倉氏は、遠敷郡に兵を進め、遠縁の元明を越前へ救出。
8代約130年続いた武田惣領家による若狭支配は事実上終る。
若狭はこの時点で形の上で将軍支配とされ、遠敷郡賀茂荘本所方について森尊久の知行を妨げないよう白井氏や当所名主・百姓に対し、また寺領安堵を求める神宮寺に対し、幕府の奉行人連署奉書が発給されるようになる。
国内は、将軍支配となった為、元明を立てて朝倉氏が支配することもでず、依然混乱状況が続く。

その後の若狭:
元亀元(1570)年4月、信長が朝倉氏攻撃のため若狭へ下向すると、多くの武田氏被官人がこれに従う。
天正元(1573)年8月、義景滅亡後、若狭は丹羽長秀に与えられる。
元の守護武田元明は一乗谷から若狭へ帰国、粟屋勝久らかつての被官人の嘆願により信長から赦免され神宮寺に蟄居。
天正9年、逸見昌経没後、彼の所領大飯郡のうち3千石を与えられる。
天正10年6月、本能寺の変後、明智に加担し、丹羽長秀の佐和山城を攻略。
このため、明智滅亡後、丹羽長秀に海津に呼び出され、7月19日、自害を強いられる。若狭武田氏滅亡。
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・夏、オラニエ公ウィレム1世、フェリーペ2世に対する非難声明。
ネーデルラントの騒擾原因は異端審問・数々の勅令・新教徒迫害・新しい司教の任命にある。  
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オラニエ公ウィレム1世、ネーデルラントに侵入
兵力を4分(南と東と北から侵入。オラニエ公自身は第4軍を率い国境で待機)。


①南軍(フランス国境よりの侵入軍)2,500、スペイン軍に簡単に打ち破られる。逃げ延びた兵士400、捕虜は全て絞首刑。


②東軍(ラインとマースの間から侵入)歩兵3千と騎兵。期待した市民蜂起なくスペイン兵1,600に襲われ潰滅。残兵1,300、退却しながら堅固な地形に立て籠もる。スペイン兵600、全員を斬殺叉は捕虜(スペイン兵損害20)。


③北軍(フリースラントに侵入)ウィレム弟ルイとアドルフ、少数の手勢で侵入。フローニンゲンより市を攻略しない代償に資金供給、志願兵・傭兵で解放軍編成。
アルバ公、アレムベルフ伯2,500、メーヘン伯1,500を派遣、北上中に5千に膨れ上がる。
アレムベルフ伯、功を焦ってメーヘン伯到着前に攻撃開始、スペイン軍敗北(沼地に迷い込み、反乱軍の包囲攻撃で潰滅)。
アレムベルフ伯、突撃。騎士道の作法によりアドルフと一騎打ち、2人共戦死。
アルバ公、兵力12千で北上。
ルイ反乱軍、出撃、死者7千の大敗北(スペイン軍7人)。
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8月2日
・信長、近江甲賀諸侍へ、足利義昭入洛の件で信長は供奉命令を受けていること、5日に進発するが、近江通過は困難であり信長への協力を依頼。
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8月5日
・信長、岐阜城下に5万の大軍集結。
7日、250連れ佐和山城へ出発。近江守護六角入道承禎処遇を浅井長政と相談。
六角に協力要請するも既に三好三人衆側についており拒否。信長は攻撃決意。
7日間の交渉後、岐阜に戻る。
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8月9日
・吉川元春、下関長府一の宮に戦勝の願文を捧げる
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8月16日
・この日付けの栗原伊豆守宛ての武田勝頼文書に、「駿陣触れ」「日付を差し越され候」とあり、駿河侵攻が日程に上がっていることが窺える。12月6日侵攻。
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8月17日
・山科言継、三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆が近江観音寺の六角義賢(承禎)のもとへ赴いた事を知る(「言継卿記」4)。
三好三人衆の使者、大和興福寺成身院で多聞院英俊らと参会(「多聞院日記」)。
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8月18日
・松永久秀軍、山城国富野城で敗北。
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8月21日
・佐久間信盛、柳生宗厳へ、信長上洛は近江の情勢が不安定であり延引しているが、松永久秀と相談して準備の出来次第上洛するので尽力を期待すると通知。
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8月22日
・大友宗麟、マカオ滞在中のドン・ベルショール・カルネイロ司教に、大砲の贈与を求める書状を送る。永録初年にも。2度ともに大砲が積んだ船が遭難。
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8月24日
・フランス、第3次ユグノー(宗教戦争)開始(1568~1570)
ルイ・ド・コンデ親王、コルニー等のユグノー派首脳、ラ・ロシェルに籠城。
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8月29日
・信長、朝倉義景へ足利義昭入洛に供奉するため武田信玄と和睦した旨を通知。  
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弘仁6年(815) 空海、内供奉十禅師となる 蝦夷との交易緩和



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弘仁5年(815)
この年
・この年、国司任期が4年に戻される。
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・この年、空海(42)は、内供奉十禅師(ないぐぶじゆうぜんじ)に任じられ、宮中に密教を持ち込む一方で、主に関東地方の僧侶への真言密教流布を展開。
しかし、東国は最澄の教練が伸びていたところであり、最澄と空海との対立関係が先鋭化する。
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・この年、最澄は北九州に赴き、諸所で法華経を講じ、新宗布教活動を展開。
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1月10日
・空海(42)、陸奥守として赴任する小野岑守へ餞別の詩を贈る(『野の陸州に贈る歌ならびに序』)。
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3月20日
蝦夷との交易について軍用馬の取引だけが禁止となる。  

国司の私的交易を禁ずる法令は、延暦6年以後出されておらず、9世紀には王臣家・富豪層の交易だけが規制の対象となり、この年以後は軍用馬の持ち出しだけが禁止されるようになる(弘仁6年3月20日太政官符、貞観3年3月25日太政官符)。

国司の交易は事実上容認され、征夷終焉によって交易の対価が蝦夷側に渡ることも利敵行為と見なされなくなった。
軍用馬持ち出し禁止の法令には、「但し駄馬は禁ずる限りにあらず」という但し書きがあり、駄馬と称して良馬を買うこともできる。

元慶の乱を描いた三善清行『藤原保則伝』にも、秋田城司の良岑近(よしみねのちかし)が秋田城下の蝦夷に対して搾取を行い、「権門の子」が「善馬・良鷹」を求めて出羽に集まる様子が描かれている。

中央の皇族・貴族は、蝦夷の特産物を欲していた。
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7月
・この月、嵯峨天皇の夫人橘嘉智子が皇后に立てられる。

嵯峨天皇の意向が正良(まさよし)親王(後の仁明天皇)の立太子にあることが明示され、皇太子大伴(後の淳和天皇)は、非常に危険な立場に立たされることになる。  
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8月23日
・陸奥国で鎮兵が全廃。
代わりに健士(こんし)という勲位者からなる新たな兵制が発足(『類聚三代格』巻18)。
同時に陸奥国の軍団は6団6千人に戻る。

出羽国では、9世紀を通じて兵士1千人・鎮兵650人が定数であったが、実際には定数は満たされておらず、元慶の乱の頃には、兵士・鎮兵が1人もいない状態であったという(『日本三代実録』元慶3年(879)3月2日壬辰条)。

これらの事実は、綿麻呂の征夷終結宣吉が実質的な意味を持っていたことを示す。
東北最大規模の払田柵(第2次雄勝城)も、西暦850年頃には外側の外柵がなくなり、内側の外郭線だけに囲まれる小規模な城柵に変化している。
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2011年11月27日日曜日

今日の富士山 2011-11-27

今頃の季節になると、ここ横浜市戸塚区からでも富士山がくっきり見えるのだが・・・。

実際、今月12日にはいい富士山が見えた(コチラ)。
しかし、それ以降は、土日曜日になると雨か曇り、或いは昨日のように関東地方は「晴れ」なのだが、西方向に雲がかかっている。

今日(11月27日)は、一応「晴れ」なのだが雲が多く、富士山ビューは諦めていた。
しかし、午後4時頃、念のためにとビューポイントに行ったところ、かなりきれいな富士山が眺められた。
やはり、憶測・事前観測はだめ、現地主義でゆかなきゃね。

▼ということで、横浜市戸塚区からの今日の富士山(午後4時過ぎ)
冠雪も見える
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▼こちらは、昨日(11月26日)午後5時前の富士山
朝は、雲が下から丁度頂上までかかって、富士山を覆い、頂上から上は雲ひとつない快晴という具合であった。
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東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 秋模様 寒椿

11月25日のお昼休み、秋晴れに誘われて千鳥ヶ淵戦没者墓苑に出かけた。
千鳥ヶ淵緑道も堤上もすっかり秋模様である。

▼千鳥ヶ淵
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▼千鳥ヶ淵と戦没者墓苑との間にある緑道
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▼墓苑内では、近くのサラリーマン数人がベンチで日向ぼっこをしていた
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▼寒椿
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▼代官町通りを走る皇居ランナー
千鳥ヶ淵の堤上から見たところ
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▼千鳥ヶ淵の堤
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詩人金子光晴の関東大震災 金子光晴「詩人 金子光晴自伝」より

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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詩人金子光晴の『詩人 金子光晴自伝』(講談社文芸文庫)にある関東大震災に関する記述

詩人による震災の惨禍の描写、避難者を導いた(らしき)行動ぶり、朝鮮人・社会主義者への弾圧・加害、震災により崩れ行く(江戸から続く)明治日本の様子、詩人の受けたダメージ、などがわかる。

1.震災までの金子光晴略伝

明治28年(1895)12月25日、愛知県に生まれる。本人は海部郡津島町を故郷としている。
明治30年、2歳で金子荘太郎(29)・須美(16)の養子となる。
 義父の転勤に伴い、京都~東京へ移る。
明治40年(1907)6月、12歳の時に義父が牛込区新小川町に土地屋敷を購入。
大正4年(1915)2月(20歳)、前年入学していた早稲田大学を退学。
4月、東京美術大学日本画科に合格。但し、殆ど通学せず除名。
9月、慶応義塾大学文学部予科1年に入学。
大正5年10月、義父(48)が没し、遺産を義母と折半。
大正6年、22歳、新小川町から赤城元町の借家に移る。
大正7年12月、義父と親交のあった古美術商とヨーロッパ旅行。
ロンドン~ブラッセル~パリ~ロンドンに滞在
大正10年1月末、26歳、帰国。
大正12年7月、28歳、詩集『こがね蟲』出版。

2.『詩人 金子光晴』の記述
(適宜段落を施す)

『こがね蟲』の出たのは、大正十二年の初夏のことだった。僕が二十八歳の時だ。

その頃僕は、赤城元町の家の二階の八畳を他人に貸して、玄関わきの女中部屋の三畳にうつっていた。・・・三畳とは言っても、裾の方の一畳は、釣戸棚で、そこに夜具を入れるようになっているので、戸棚の下へ足をのばせるが、立って歩ける面積は二畳だった。僕は、殆ど、そこに夜具をしきっぱなしにしていた。「自動車部屋」という名がついていたが、そこには、さまざまな人がのぞきにきた。・・・

・・・・・・

その年の九月一日に、関東一円にわたる大地震があった。

正午頃、僕がまだ三畳の自動車部屋に寝ている時に揺れ出した。・・・
揺れ出して、そのうち終ると思っていた地震が、ますますはげしくなり、はては、台所の引窓から屋根瓦が落ちてきた。
神社の石垣の崖下にある家なので、危険を感じた僕は、座蒲団を頭にかぶり、瓦の落ちてくるのを防ぎながら通りに出た。

当時はもう新小川町の情夫の方へいきっきりになっていた義母をたずねてみるつもりで、神社の前を通ると、鳥居がいまにも倒れそうゆらゆらしていた。

大地は飴のようにうねりつづける。
僕が通りすぎるとすぐ、うしろで、がらがらと石塀が崩れる。

新小川町に辿りつくと、近辺の小家は大方勤め人で、主人が不在で女や年寄が途方にくれている。
川田家の板塀をひきはがし、庭の空地に二百人ばかりの老幼婦女子を避難させた。
無断闖入というので、川田から文句がきて、早速、邸内から出て欲しいという。

余震は益々はげしく揺りかえし、下町の方角にあたって、煙りの柱が立った。大火事の龍巻が起っているのであった。

追々、勤先から命からがらの男たちがかえってきた。
庭に頑張って、一晩、二晩、戸板のうえに寝る。
再三追出しの催促がくるので、僕と、もう一人が、日本刀を腰にさして談判に行った。
その見幕で、ともかくも、こちらの言い分を認めさせた。

連日火事は消えず、江戸川を一つへだてて対岸まで燃えひろがった。
そのあいだも、地震はくり返され、つぶれた家から圧死体がはこび出された。

夜は、狐火のようにいろさまざまな焔が燃えて、うつくしいほどだった。

この天災で、多くのものがくずれ去った。
江戸時代からのこっていた建物や什器、その他、二度と存在しないような貴重な物件が烏有に帰した。

なんらかの意味で、過去の完成に支えられていた僕じしんの精神の拠点がゆらぎ出したとともに、日本の崩壊も、そのときにはじまったようにおもえてならない。

単なる一つの災厄ではない。
明治が早幕(はやまく)に築きあげた新しい秩序が、ようやくその素地の無力を露呈しはじめたとも考えられる。

そのどさくさのあいだにおこった朝鮮人さわぎや、左翼書生への神経病的な当局並びに、一般市民の警戒ぶりが、はっきりそのことをものがたっている。
地震のひびわれのあいだから、反政府の思想運動が芽ぶき、人々の心に不安と、一脈の共感をよびさませた。

余震は十日すぎてもつづいた。

各町内に自警団が組織され、椅子テーブルを持出して通行人を一々点検した。
髪の毛をながくしていたために社会主義者ときめられて、有無を言わさず殴打されたうえに、警察に突出されるのを、僕は目撃した。

アナーキストだった壺井繁治などが逃げあるいたり、弘前なまりのために、鮮人とまちがえられた福士幸次郎が、どどいつを唄って、やっと危急をのがれたということが、あっちでもこっちでもあった。

いつもわけのわからない人間が多勢集るというので、僕のうえにも疑惑の眼が光った。隣家の東条という家の二階で、夏休みで帰省している学生の本箱からクロポトキンの『相互扶助論』をみつけて、読みふけっていた。

丁度、大杉の虐殺の事件があって、そんなことが夜警詰所で話題になったとき、それについて、理髪店の主人と激昂して議論をやりあった。
そんなことから痛くもない腹をさぐられた。

暴力団のような男がいて、大曲の河岸で待っているから来いと、僕のところへ申し入れてきた。
誰にも言わず、僕は、日本刀を腰にさして出かけていった。青江下坂の三尺近い細身の長刀で、造りもよく、奈良安親作の赤銅に鉄線の花を彫りあげた精巧な鍔(つば)がねうちのものだった。
まさか、それであいてを切る気でもなかったのだろうと思うが、ゆきがかり上、わきへそらせることのできない融通の利かない性格のために、つい先へ、先へと自信もないのにすすみ出てしまうのはわれながら日本人の、とりわけ東京育ちの弱点を備えていると気づいておどろいたものだ。

先方は、棍棒をもって三人で待っていた。
「この社会主義奴(め)、くたばれ」といって、いきなり一人が棒をふり廻してきた。
僕は、やっと事態のばからしさに気がついて、ニヤニヤ笑い顔をつくっていると、先方も顔をみあわせて、ぶつぶつ話していたが、このへんにまごまごしていない方がいい、二度と顔をみたらただではおかないと凄んだ果てに引上げていった。

左の拇指(おやゆび)と、左の耳のうしろに僕は傷をうけていた。
僕はひどく悲しくなって戻ってきたが、そのために牛込を去って、鶴見の潮田の汐見橋の橋詰にある叔母の家に当分行っていることにした。
つづいて、東京の土地をあとにするような仕儀になった。

・・・・・・

『こがね蟲』は、大震災のために出鼻をくじかれてしまったが、僕はまだ、『こがね蟲』を書いたことを後悔してはいなかった。
しかし、震災以後、僕は、じぶんの作品などよみかえさない人間になっていた。

僕の表情の、どこかの筋肉が引きつってしまったらしい。
それなのに、僕は、じぶんの作品の他人の批判に対して、謙虚を欠いていたが、それも荒々しい震災気分の結果である。
僕の身辺にあつまる人たちは、誰一人そのことを僕に注意してくれなかった。・・・


3.「庭の空地に二百人ばかりの老幼婦女子を避難させた」「川田家」とは

土佐出身の川田小一郎の邸宅。
この時は、息子の龍吉の代である。
小一郎は、岩崎弥太郎を助けて三菱を大会社に育てた人物で、第3代日本銀行総裁。男爵。

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詩人 金子光晴自伝 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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金子光晴にとっての震災と、永井荷風の詩「震災」とを対比すると面白い。
交差する部分もある(コチラ
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弘仁5年(814) 最初の勅撰漢詩集『凌雲集』成立 源信ら嵯峨天皇の皇子女8人の源姓臣籍降下

東京 江戸城東御苑(2011-11-22)
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弘仁5年(814)
この年
・赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行。
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最初の勅撰漢詩集『凌雲集』(『凌雲新集』ともいう)成立

編纂は、嵯峨天皇が左馬頭兼内蔵頭美濃守の小野岑守に詔を下したことに始まる。
岑守は、式部少輔(しきぶのしようふ)菅原清公(きよきみ)・大学助(だいがくのすけ)勇山文継(いさやまふみつぐ)らとこの仕事を進め、決着しにくい問題は、天皇の意見を徴した。
当代における文筆の大才である播磨守賀陽豊年(かやのとよとし)は老病のために引き篭もっており、岑守は彼の邸を訪れ教示を乞う。これらは、この詩集の序に書かれている。

採択された詩篇は90首、作者23人(嵯峨の作22首・豊年と岑守13首・清公4首・冬嗣3首)、延暦元年(782)~弘仁5年(814)の作品である。

菅原清公:
家は土師氏の支流、清公の父遠江介古人(ふるひと)の世代に、その居所の菅原邑(大和国漆下郡)にちなんで菅原氏を称す。古人は微官で終えるが、儒学と志操をもって知られていた。

清貧の中に生まれ育った清公は、父の許で年少の頃から「経史」(中国の儒教の古典や史籍)をひろく学習し、延暦3年(784)、早良(さわら)皇太子に仕え、5年後には試験を受けて文章生(もんじようしよう)となる。
その後、学業が優れていた為に秀才(官人登用の国家試験の一)にあげられ、延暦17年(798)には対策(上記の考査)に合格、その文才をうたわれて大学少允(しようじよう)になる。

更にその学才の故に遣唐判官(けんとうのじよう)に抜擢され、延暦23年(804)、大使藤原葛野麻呂らに従い長安に赴く。
帰朝後、大学助にすすみ、大同元年(806)には尾張介となり、弘仁3年(812)に任期を終えて京に帰り、左京亮(すけ)・大学頭(かみ)、ついで左・右の少弁をへて式部少輔に昇進。
この時期に岑守を援け『凌雲集』編集にあたり、廷臣の注目を浴びる。
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5月
・嵯峨天皇の更衣の生んだ皇子女の大半は、この日の源信(まこと)ら男女8人を初例として、「源」姓を与えて臣籍に下される
女御の生んだ皇子女は、基本的に親王・内親王として処遇される。

嵯峨天皇は、子供を産んだキサキだけでも24人、皇子23人・皇女27人を得ている。
嵯峨自ら「男女やや多く、空しく府庫を費やす」というように、養育費や成人後に授けられる品階に応じた給与の負担は大きい。

そこで、嵯峨朝で女御を二つに分け、相対的に下の階層出身の女性を更衣と呼ぶことにする。
これを承けた『弘仁式』では、妃・夫人・嬪の下に公式に女御・更衣が規定されている(「本朝月令」)。
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6月
・万多親王ら、「新撰姓氏録」を撰上。  
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12月
・この日付けの勅。帰降の夷俘に対して、宮司や百姓はその姓名を称さず、常に夷俘と呼んでいる。彼らはすでに国家に従っているので、深く恥と思っている。速やかに告知して夷俘と呼ぶことがないようにし、今後は官位か姓名で呼ぶようにせよ、という(『日本後紀』弘仁5年12月癸卯条)。

俘囚・夷俘の飢饉の苦しみや、宮人・百姓から受ける差別の苦しみに国家が耳を傾ける内容。
入京越訴や夷俘専当国司への訴えが、国家に移配蝦夷の生活苦や社会的差別などの問題を認識させ、これらの法令を発令させた。
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2011年11月26日土曜日

昭和16年(1941)11月19日 「余は拙作の獨逸人に讀まるゝことを好まざれば・・・。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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昭和16年(1941)
11月19日
十一月十九日。雨歇みてはまた降る。
国際文化振興會黒田清といふ人より Oscar Beur なる獨逸人拙作小説おもかげを獨逸語に翻訳したき趣につき是非とも承諾すべしと言越しぬ。
余は拙作の獨逸人に讀まるゝことを好まざれば体よく避けて断ることになしぬ
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11月20日
・十一月二十日。空晴れず温暖春の如し。
午後淺草に至る。オペラ館の踊子二三人と公園を歩む。
今夜十二時より二の酉といふに松喜其外の牛肉屋は品切れにて休みなり。
汁粉屋梅園には珍らしく田舎汁粉ありしが客一人に一椀ヅゝおかはりはせず
暮方より雨ふり出したれば家にかへる。
・・・・・
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11月21日
十一月廿一日。朝より雨ふりつゞきたり。
酉の市にも行難ければ家に在りて早く寝に就く。
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11月22日
十一月廿二日。雨。午後に晴る。
夜漫歩淺草に至りて飯す。
オペラ館に至るに此頃吉本興行部より転じてオペラ館踊子となりしものあり。市兵衛町一丁目西班牙公使館下のアパートに住めりと云ふに歸途同じければ共に歸る。
芝口にて市電に乗換する時曾て玉の井に居たる女に逢ふ。銀座裏ヱトワルの女給になれる由名刺を出せり。此夜は何やら意外なる事に遭遇したるが如き心地しぬ。
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11月23日
十一月廿三日。晝晴れて夜雨。
銀座通食料品店の店先に其筋よりの御注意により行列しないで下さいと云ふ貼紙を出したり。
この日日曜日なるに松喜食堂その外灯を治し戸をしめたるもあり。
蕎麦屋にも饂飩なき由
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11月24日
十一月廿四日。今日も暮方より雨ふる。丁度七ツ下りなれば容易には晴れざるべし。土州橋よ上野に出で揚出しに飰す。
床の間に酉の市の熊手を描きたる掛物淡彩にて趣あれば画家の名を見むとせしが遠くして明ならず。画贊に、
おもしろと神もほゝゑむ此酉は
千々のこがねもかきとりぬぺし   千浪
わが鄰の席に銀行などの門番かとも思はるゝ白髪の一老人あり。揚出しへ來るとわかい時の事を思出すよと酔ひながら若き男のつれ二人を相手に頻と角海老の事やら俄のはなしをなせり。
銀座通の食ひ物屋にては絶えて無き事なり。をかしきがまゝ
豆腐さへなき世の中を揚出しに
里のむかしをかたる生酔ひ
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11月25日
十一月廿五日。陰。去年十二月頃折々たづね來りし或會社の女事務員数日前本郷農科大学裏弥生館といふアパートより電話をかけ來ること再三なれば銀座に夕飯を喫して後行きて訪ふ。この頃は根岸また下谷池之端の待合へ出入する由語れり。
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11月26日
十一月廿六日。微邪。終日蓐中讀書。
拙著おもかげ獨逸人翻訳の事につき此の度は文藝會館といふ處より問合せ來れり。承諾せざる趣折返し返事す。
が作品も遂に獨人のねらふ處となりぬ。恐るべし悲しむべし
此日晴れてあたゝかなり。
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11月27日
・十一月廿七日。陰。夜淺草に至る。歸途雨。
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11月28日
十一月廿八日。暁明風雨。東南より襲來る。正午風歇みしが空霽れず。
鄰組のおかみさん手拭配給の切符を持來り來月三日頃銅鐡器具いよいよ御召上げになる由語りて去れり。
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11月30日
十一月三十日 日曜日 微邪。咳嗽甚し。
洗濯屋の男勘定を取りに來りて言ふ。鄰の酒屋の息子十七才徴用令にて既につれ行かれたり。二年間たゞ(ママ)ねば還れず、還ればつゞいて徴兵に行くなりと。
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この頃の戦争準備の状況はどうだったか?

11月18日
・午前8時、空母「赤城」他の機動部隊、佐伯湾を出航、択捉島単冠湾に向かう。19日昼過ぎ、東京のはるか南を通過。22日、単冠湾入り。

・マレー半島上陸援護に関する陸海軍協定完了。第25軍山下奉文中将、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将、第3飛行集団長菅原道大中将。

・衆議院、安達謙蔵ほか101名提出の「国策遂行ニ関スル決議案」を全会一致で可決。
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11月20日
・南方軍、南方要域攻略命令(南総作命甲第2号)を下達。
東京で第25軍隷下第18師団の一部をもって川口支隊(支隊長川口清健陸軍少将)を編成。
開戦の場合は集合点(カムラン湾)を出発し、先ずミリ、セリアを占領、資源要域並びに航空基地を確保、速やかにクチン付近飛行場占領の任務を与える。

・マレー部隊、作戦命令第1号(マレー作戦)を発令、海南島三亜港へ向かう。
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11月21日
・大本営、大海令第5号を発令。連合艦隊、軍令作第5号で「第2開戦準備」を下令、各部隊は作戦準備地点へ進出待機。

・大本営、支那派遣軍に在支敵国権益の処理準備と武力行使の場合の要領を指示。

・大本営、呉鎮守府と大阪警備府に大海令第8号を発令。

・第14軍(本間雅晴)、台北で南方軍作戦主任参謀より比島攻略の南方軍命令(南総作命甲第2号と密封の南総作命甲第5号)を受領。この日から兵団長を招致し作戦会議(~27日)。台北。

・南洋部隊、機密作戦命令(グアム、ウェーク、ギルバート島攻略)下命。    

・・・・・・・・・

アメリカ側の最後通牒と謂われる「ハル・ノート」の着電は11月27日。
その前の周到な戦争準備の状況である。

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この頃の中野重治の日記

「一九四一年十一月一日 町へ金策その他に出かける。うまく行かず。原、卯女、静公三人で池袋へ行く。夕方かえって来ても誰もいず、メシなし。ソバ屋その他みな駄目。牛乳を二合のみ、塩ジャケを一切食い、骨を(飼犬の)チャイにやり、雨戸をしめ、支那そばや、すし屋をさがしても駄目、フンゼン電車で三軒茶屋に行き、支那めしを食う。まずくて高し」

「十一月八日、茂吉ノオト整理すすまず」

「十一月九日、アメリカとの関係、原稿整理を急がしむるものの如し」

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福島 あるゴルフ場の怒り 「放射性物質は無主物」と東電は主張

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
*
「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合(ふごう)しているはずである。

つまり、債務者(東電)が放射性物質を所有しているわけではない。」

これは、あるゴルフ場経営者の訴えに対する東電の答弁書の一部で、

飛び散った放射性物質は既に「無主物」であり、東電の所有物ではないということを主張しているそうだ。

以上は、「朝日新聞」連載の「プロメテウスの罠」より借用。

*

そもそもこのゴルフ場はどういう訴えをして、裁判所はどうゆう判断を下したのか、これは「朝日新聞」11月15日の記事より。

******************************(始)
(見出し)
「東電が除染を」  申し立て却下 福島のゴルフ場会社

(記事)
福島県二本松市のゴルフ場運営会社などが東京電力に福島第一原発の事故による放射性物質の除去などを求めた仮処分の申し立てで、東京地裁が「除染は国や自治体がするべきだ」と述べたうえ、会社側の申し立てを却下した。
決定は先月31日付。
会社側は東京高裁に不服を申し立てた。

原発から約45㌔にある会社側は除染のほか、維持経費など約8700万円の支払いを東電に求めていた。

福島政幸裁判長は「土や芝に放射性物質があるため、ゴルフ場に不利益な影響が出ることは否定できない」と認めた一方で、「除染方法が確立していない現状で東電に除染を命じると、国の施策に抵触するおそれがある。東電が汚染土壌を適切に処分できるとはいえない」と述べた。

また、文部科学省が学校の校庭利用を制限する基準として4月に示した「毎時3.8マイクロシーベルト」を挙げ、ゴルフ場の線量はこれを下回っていると指摘。

子どもでも屋外で活動できるのだから、営業に支障はない」として経費の支払いも認めなかった

会社の弁護団は「東電が汚染したと認めながら除染はさせないのは、極めて奇異な解釈だ」と決定を批判した。
******************************(終)
*
この記事だけでは、「無主物」云々の主張は見えない。

ただ、この記事からは、以下のことが言えるのではないか。

「3.8マイクロシーベルト」は、健康に与える影響などとは無関係に、当時の汚染レベルに合わせて設定した「暫定」基準にすぎない。
この時、子供たちは、マスクをして屋外活動をしていた。

更に、批判もあり、8月になってようやく、「1マイクロシーベルト」戻していた。

この裁判長は勘違いしている。

それに、何と理屈をこねようと、「営業に支障はない」というのは明らかに事実の誤認だろう。

裁判長自身、伊豆か箱根かのゴルフ場と、マスクが必要な福島のゴルフ場とに誘われた場合、どちらを選ぶのか?

*

ゴルフ場の申し立てに対し、飛散した放射性物質は既に「無主物」だという主張は、この時、東電が提出した答弁書にあった主張らしい。
ただ、裁判長は、「無主物」云々の判断は避けたとのこと。

「プロメテウスの罠」(「朝日」連載)は、こう書いている。

*************************************(始)
「無主物とは、ただよう霧や、海で泳ぐ魚のように、だれものでもない、という意味だ。

つまり、東電としては、飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。

したがって検出された放射性物質は責任者がいない、と主張する。」

「飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない。そんな主張だ。」
*************************************(終)

そして、

裁判長は「無主物か否か」には立ち入らず、こう言ったそうだ。

*************************************(始)
「放射性物質を除去するとすれば、広大な敷地の土壌や芝をすべて掘り起こすという非常に大がかりな作業が必要となり、多額の費用を要することが想定される」

「それはもはや放射性物質と土地の分離とは言えないのではないか」

「このような作業を行うことができる立場にあるのは債権者(ゴルフ場)ではないかと思われる」

要するに放射性物質は、それがくっついた土地の持ち主が除去せよ、という主張だ。

これについて裁判所はいう。

「除染の方法や廃棄物の処理の具体的なあり方が確立していない現状で除染を命じると、国等の施策、法の規定、趣旨等に抵触するおそれがある」

「事故による損害、経済的な不利益は、国が立法を含めた施策を講じている」

つまり、除染も賠償も、国がいろいろな手立てを考えているのだから、それを待て、ということだ。
*************************************(終)

ゴルフ場は以下のような状況に陥ったとのこと。

「7月に開催予定だった「福島オープンゴルフ」の予選会もなくなってしまった。

通常は年間3万人のお客でにぎわっているはずだった。

地元の従業員17人全員も9月いっぱいで退職してもらった。」

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海の汚染 日付変更線まで広がり、2千Km地点では深海5千mに及ぶ ・・・

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
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原発放射能の海への拡散の話題がこのところ続いた。

1.「汚染水、日付変更線まで到達か」(「朝日新聞」11月22日)

海洋研究開発機構が、東電の放射能汚染水が、4~5月で、約4千Km東の日付変更線まで広がっていると公表した。

セシウム137濃度は、11月末で、飲料水基準の1/2,000以下だが、事故前の10倍以上という。

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2.「福島から2千Km、深海5千mにセシウム」(「朝日新聞」11月21日)

同じく海洋研究開発機構が、20日、都内の報告会で発表した内容。

4月18日~30日、福島から2千Kmのカムチャッカ半島沖と、1千kmの小笠原列島沖の深海5千mで、プランクトンの死骸や砂などからなる1mm以下の粒子「マリンスノー」を採取して分析した。

結果、両地点でセシウムを検出。

セシウム137と134の比率などから、原発から出たものと判断。

濃度は解析中という。

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3.「阿武隈川から海へ、1日あたり500億ベクレル流れ出ている」(「朝日新聞」11月25日)

阿武隈川から海に流れ出る放射性セシウムの量は、1日あたり約500億ベクレルになることが京都大、筑波大、気象研究所などの合同調査で分かった。

この量は、4月に東電が海に放出した低濃度汚染水のセシウムの総量に匹敵するという。

調査は、文部科学省の委託により6月~8月に実施された。

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海の汚染については、以前(コチラ)で、


セシウム137の海洋流出について、フランスの研究所が発表した値は東電の発表の20倍になるそうだ、ということ、と

原子力開発機構も推計値を発表しており、セシウム137は東電発表の3倍だった、ということを

ご紹介してます。

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2011年11月25日金曜日

東京 北の丸公園 ようやく、いちょう色づき始める

北の丸公園のいちょうが、ようやく色づき始めた。
写真は、11月25日のもの。
本格的な黄葉は来週かな?



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▼芝生の上では、たくさんの子供達のお弁当タイムが始まっていた。

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▼武道館の前
写真の奥、田安門側はまだまだです。
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▼もみじの紅葉
これはまだほんの一部で、本格的な紅葉はもっと先、来週後半以降ではないかと思われる。
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明治36年(1903)7月1日~12日 山県・桂の伊藤博文棚上げの陰謀 伊藤は政友会総裁辞任し枢密院議長就任

東京 北の丸公園(2011-11-22)
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明治36年(1903)
7月1日
・チタ~ウラジオストック間の東清鉄道開通、全線開通。接続するシベリア鉄道はペテルブルク~ウラジオストク全線開通。
また、東清鉄道は、満州里~ハルビン~奉天~大連~旅順の全線が開通。
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7月1日
・啄木(17)、「ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき」(『明星』卯歳第7号、4首の中の1首)。
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7月1日
・トゥール・ド・フランス第1回大会。フランス一周自転車レース。
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7月2日
・ロシア旅順口会議。~11日。
陸相クロパトキンら極東関係者(関東長官アレキセーエフ中将、太平洋艦隊司令官スタルク中将、宮廷顧問官ベゾブラゾフら)。
ニコライ2世の意図は、極東での事業が日露開戦の口実を与えないようにすること。
「東亜木材会社」関連の全将校の引揚げを指示。
民営性徹底のため、鳳凰城の部隊と龍岩里の武器の撤収を命令。
13日クロパトキン陸相、旅順口発。
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7月2日
山県・松方元老、伊藤の枢相祀り上げ上奏
天皇に対し、桂内閣の退陣は不可、伊藤が元老で政党党首であることが国政に悪影響あり、「速やかにこれを政党より抜きて廟堂の要路に立たしめ」る必要ありと述べる
。天皇は、政党に不信あるものの、伊藤の失脚を意味する枢密院議長祀り上げには躊躇。
徳大寺実則侍従長も説得、3日には天皇もこれを決意。
伊藤の幕僚伊東巳代治もこれに絡むが、伊藤はこの事実を知らず。
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7月2日
・伊東は伊藤に対し、天皇が桂を慰留し、これを山県・松方から伝達した模様とのみ報告。山県・松方の上奏には触れず。
3日には、桂が伊藤を訪問。天皇に慰留されたのでしばらく葉山で静養すると述べる。
伊藤はこの日、伊東に「別後首相来訪、談笑の中百疑氷釈、快然の至りに候。この上は井伯、陸相(寺内)をも煩わすの必要これあるまじきかと存じ候」と書き送る。
伊藤は、桂が辞意を撤回したと見た。      

7月7日付け伊東巳代治の山縣有朋宛手紙。
「例の一件に付きては容易ならざる御厚配感佩(かんぱい)の外これなく候。その後の御操様御伺いかたがた今夕拝趨仕りたくと存じ奉り供えども、昨朝より深更まで御妨げ申し上げ候儀に付き、今夕は引き控え申し候。・・・もっとも閣下に御面話を得候までは、伊藤侯を御訪問申し上げざる愚意に御坐候。」
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7月3日
・林董駐英公使、日露交渉開始について英の諒解を求める。
*
7月5日
・伊東巳代治は伊藤博文から翌日の召命について徳大寺侍従長に内々に尋ねるよう求められ、この日夜、「御用向は十の八九枢相の件なるべし」と報告。しかし伊東は、これは実現性が薄いとも答える。
伊藤は、伊東の使者に対して「多分厳命はなかるべし」と話している。
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7月6日
・伊藤博文、参内。
天皇は、対露交渉について諮問する機会も多くなるので枢密院議長に就任するよう内旨が下る。
*
7月6日
・エミール・ルベ仏大統領、外相とロンドン訪問(~9)。英仏協商の交渉を開始
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7月7日
・英ヤングハズバンド大佐、遠征軍を率いてチベット侵入。
*
7月7日
・天皇、伊藤元老に枢密院議長就任指示。
9日、徳大寺侍従長が勅書を手交。
10日、伊藤、松方・山県元老が枢密院顧問官になることを条件に、議長就任了解(松方・山県を道連れにする)。
現議長の西園寺公望に政友会総裁就任を要請、西園寺は承諾。


伊藤博文に政治の第1線での活動終る

山県・桂の陰謀
桂首相が辞表を提出、天皇には最高の相談役が必要との名目で、伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政友会総裁辞任に追い込む、伊藤が総裁を辞任すれば政友会は自壊する考える。
天皇は、決断に迷うが、ロシアとの交渉が極めて重要で戦争に繋がる危険も迫る時期で、内閣が倒れ政治に混乱を生じさせる訳にはいかず、伊藤に枢密院議長就任を求める。
伊藤は、山県・桂の陰謀を察知して、西園寺枢密院議長に自らの就任可否について相談、西園寺は拒否を勧める。
翌日に西園寺から状況を聞いた政友会幹部原敬も同意見。
結局、伊藤は天皇の苦悩を察し、桂内閣が再び辞表を提出しないという条件で枢密院議長就任を内諾。
*
7月7日
・幸徳秋水(「一兵卒」署名)「戦争論者に告ぐ」(「万朝報」)。職業軍人と徴兵された一般兵士の差別、不公平。      

戦争は、職業事人たちによって戦われるものではない。
戦争にかり出される兵士たちはプロレタリアの子弟である。
高等教育をうけたものは、様々な名目で兵役を免れており、徴兵をうけるのは貧乏人ばかりである。
その多くは一家の働きざかりである。
貧乏人は、兵役という貧乏クジを引くほかない社会の仕組は、不公平そのものである。
勇ましい開戦論を唱える学者たちは、危険な戦場へ行かない。

「わが輩、一兵卒、あに甘んじて富貴者流のために犬死するにしのびんや。
あえて一言して世の仁人に訴う。」  
*
7月9日
・福井県、暴風雨の被害甚大。死者13人、床上浸水3400戸。
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7月11日
・日本、清国に対露強硬を勧告。
*
7月11日
・京都平安紡績の職工、積立保信金・未払給料を要求して暴動。~24日。
*
7月11日
・甲府の草薙社製糸女工900人、監督の排斥と賃下げ反対を掲げてストライキ(妥結)。
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7月12日
・伊藤元老、枢密院議長就任上奏。
13日、枢密院議長就任就任。
14日、政友会総裁更迭(伊藤博文から西園寺公望へ)。

15日、西園寺は政友会在京議員総会で総裁就任演説。
①「私は私の力の有らん限りの勇を奮い、私の有らん限りの智恵を尽して之を本会に捧げ」る、
②いわゆる「策略」などということは時代遅れであり、かつ私はそういうことのできる人間ではない、と抱負を述べる。

この時、旧自由党系実力者星亨(前逓信大臣)は1901年6月暗殺されており、政友会総裁を支える最高幹部は、原敬(前逓信大臣、陸奥宗光の腹心)と西園寺のフランス留学時代の友人松田正久(前蔵相、旧自由党系)の2人の常務委員で、なかでも原敬が実権を掌握。

原は、伊藤系官僚として政友会に入党したが、凡帳面さと官僚として鍛えた予算作成などの実務能力を生かし、旧自由党系等の党人派の求める鉄道建設要求などを支持し、伊藤総裁との媒介役を果たすことで、党の実権を掌握。
*
*