2013年1月30日水曜日

スコットランド南部でかつて氷河があった谷は,アルプスのような急なU字谷ではないため,谷と尾根の行き来が容易。地元の Muir氏による同じ谷の3時期の写真







東京 江戸城(皇居)梅林坂の梅 紅色の八重寒梅が咲き始めた 2013-01-30

江戸城(皇居)梅林坂の梅
1月30日お昼休みの状況
今日は暖かくてかつ好天

紅色の八重寒梅が咲き始めた

▼紅冬至

▼八重野梅

▼八重寒梅

アベノミクスは論理的に考えれば「富の偏在と階層二極化」を結果すると思います。(内田樹)

■内田樹さんツイッター
内田樹 ‏@levinassien
朝刊はどれも13年度予算の話。(1)借金をして(2)土木工事をすると(3)企業の収益を増えて(4)株価が上がって(5)賃金が上がって(6)消費が増えて(7)イノベーションが起きるというシナリオだが、(4)のところで「折れて」(5)につながらないような気がします。


内田樹 ‏@levinassien
現に、収益を上げても「国際競争に勝ち抜くためにはたえざる研究開発と市場開拓が必要で賃上げなんかしている余裕はない」と言って企業は労働者への「トリクルダウン」を拒んでいます。アメリカでも中国でも、経営者たちは個人資産を増やすことには熱心でしたが、分配には熱意を示しませんでした。


内田樹 ‏@levinassien
同じことが日本でだけは起こらないという保証は誰がどういう論拠でしてくれるんでしょう。「薄氷」の経済政策の隙間を縫って成功した人はリスク感度が高いがゆえに、大盤振る舞いするよりは「これから何が起きても自分だけは生き延びられるように」個人資産を退蔵することになると思いますけど。


内田樹 ‏@levinassien
アベノミクスは論理的に考えれば「富の偏在と階層二極化」を結果すると思います。でも、国民のみなさんが「それがいい」と思って選んだ政権ならしかたがありません。僕にできるのは、とりあえず市井のかたすみで「富の分配と階層の平準化」のために何ができるか工夫するだけです。



1764年(明和元)10月~閏12月 上州・武州農民蜂起(伝馬騒動) 【モーツアルト8歳】

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
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1764年(明和元)
10月8日
・尾張藩第7代藩主の徳川宗春(69)、没。
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10月20日
・尼崎藩、浜田・西難波両村から争論中の浜田川へ大勢が出て騒動になり、浜田村は西難波村の百姓2人を捕える。
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10月22日
・富本節を完成させた初代富本豊前太夫(49)没。
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10月22日
・イギリス東インド会社軍、ベンガルとアウド太守及びムガル皇帝連合軍をブクサールで破る。
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10月25日
・イギリス国王戴冠4周年記念日。
モーツアルト、午後6時~10時、3度目のバッキンガム宮殿伺候(4月24日、5月19日)。
国王ジョージ3世、皇后ソフィ-・シャーロットなどの前で、ヴァーゲンザイル、クリスティアン・バッハ、アーべル、ヘンデルの諸作品を初見で演奏したり、皇后のアリアに伴奏をする。
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11月21日
・将軍、琉球中山王の派遣した慶賀使と会う。
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11月26日
・フランス、ルイ15世(54)、イエズス会を解散。
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11月30日
・宝鏡寺第23世臨済宗尼僧、中御門天皇第4皇女、逸巌理秀(40)、没。
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11月30日
・高橋至時、誕生。天文学者
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12月
・12月か翌年1月、産業革命を迎えつつある豊かな都会ロンドンで活躍するクリスチャン・バッハやアーベルたちの公開演奏会に刺激を受け、 病気のためピアノを弾くことを許されていなかったヴォルフガングはあらゆる楽器の作曲を試み、 最初の「交響曲(第1番)(K.16)変ホ長調」を作る。
翌年2月21日の演奏会で発表。ロンドンでは、この(第1番)を含め5つの交響曲を作る。

年末、モーツァルトは、名カストラート歌手ジョヴァンニ・マンツオーリ(1725~80?)から無料でレッスンをしてもらう。
この経験は最初のアリア『行け、怒りにかられて』(K21=19c)の表現にも活かされている。
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・ルソー、 『音楽辞典』序文を書く。
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12月7日
・フランス、クロード・ヴィクトール・ペラン(後、ナポレオンの元帥)、ヴォージュ県ラマルシュで誕生。公証人の息子。
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12月末
・~翌2年正月、上州・武州農民蜂起(伝馬騒動)。
信濃・上野・武蔵に及ぶ増助郷反対の強訴・打毀し。

中仙道の宿場沿いの農民20万人が蜂起。江戸期最大の一揆。
初め宿場の助郷範囲拡大反対の信州の農民が蜂起。
一揆は、中山道の宿に沿って東上、桶川宿にまで達する。
幕府は、助郷拡大の1万日の延期という前代未聞の譲歩を余儀なくされる。
騒動が武蔵国を中心に上野国、信濃国と広範囲に及んだこと、領主側の立場でもある村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。

江戸時代には幕府により中山道をはじめとする主要五街道が整備され、公用のための伝馬制が整えられていた。
街道添いには行政区画上の村に相当する宿場が成立し、宿場には人馬継立など公用を務める問屋が存在していたが、問屋で人馬継立を賄いきれない場合には助馬制による周辺村落への負担が課せられており、中山道では元禄7年に助郷制が導入された。

中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在していたが、幕府は増助郷政策を行い宝暦・天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。
幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生しており、騒動が発生した明和元年2月には大宮・上尾・桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。

また明和元年には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿までの28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じた。

さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求めており、こうした増助郷策が続く中、助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発し出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結して蜂起、幕府側に抵抗した。

騒動は瞬く間に街道沿いに広がり10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、江戸市中へ飛び火することを恐れた幕府側は、助郷の追加負担を取り下げ沈静化を図った。しかし治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する打ちこわしを起こし、中山道の機能がマヒする事態となった。
幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。
特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。
その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。

辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)の記述
「上州武州の農民蜂起
 先ず明和元(一七六四)年の十二月の末から二年の正月に亙り、上州から武蔵辺に掛けて農民の蜂起した大事件があった。これは明和二年の四月に、日光東照宮の法会を催すについて親王方だの公卿衆の日光への参向の為に道中の人馬不足するによって、近国から助郷といって人馬の継処(つぎしょ)継処へ人馬を差出してその用を勤めるのが定りになっている。それが平生は大抵入目が百石に付四十五匁位な課役になっておったところ、今度は三月から八月までに百石について人足が六人、馬が三匹、それが一般に掛かることになった。もし馬払底の村は一匹について五両ずつ出さしめるということであった。しかるに、近年は諸郡百姓甚だ困窮して年々の上納にも難渋しているところへ既に当年春も朝鮮人が来朝したるによって、その時に臨時に高百石について三両一分二朱の割に仰付けられ、それも是非なく済ましたところであったに拘らず、今度またそういう事があろうというので、有姓どもは大に苦んだのである。そこで勘定奉行小野日向守からこの事を命令して評定所の留役(とめやく)倉橋与四郎、成瀬彦太郎という者がその場所場所の検分に出掛けて行って人馬徴発をしたのである。しかるに農民はこの重い課役に大に苦しみついに上州、下野、秩父、熊谷辺の百姓が騒動に及んだ。そうして与四郎らの処へ大勢押掛けて行った。与四郎らは先ず忍(おし)の城へ逃げ込んで行った。ここにおいて百姓らは、直ちに江戸表へ出て、その事を訴えるというので、七、八万人の者が、群を成して各、鎌一挺に藁一束竹一本ずつ持って出掛けていった。その藁を持ったのは何のためかといえば、川を越える時にもし江戸の方からの命令で以て、船を止められるとか橋を止められるということがあった時には、川の中へ藁を投げ込んで、そうして川を浅瀬にして渡す、竹は筏に組んで渡るつもりであった。そこでその農民の大群は、先ず途中において、深谷宿に押寄せて、本陣の武井新右衛門という者が、その課役の議に与かったというので、その居宅を打破った。それを忍の城から押えに出て来て、衝突が起り手負がおよそ百余人、即死五人出来た。その事が段々江戸へ注進があったので、御目付の曲淵正次郎、松平庄九郎、御先手(おさきて)古郡孫大夫、遠山源次兵衛、奥山甲斐守、井出介次郎らに命じて、その組の同心を率いて鎮撫のために遣わされた。もし有姓どもが江戸近く来たならば、空砲を打ってこれを防ぐようにという事にして、見付見付の門へは、御徒目付などを配して控えしめておいた。ところがいよいよ騒動が大きくなって、静まり兼ねるので、遂にその頃の名郡代として誉のあった伊奈半左衛門忠宥(ただおき)に命じてこれを鎮撫せしめた。忠宥は直ちに出向いて、百姓どもに向って、願の通り聞届けるからいずれも引取るべしという事を申渡した。百姓ともはありがたく存じて、皆々村々へ罷り返ることになって、事が納まったのであった。しかるに、百姓らはこの度の伝馬の事は、街道筋の問屋役人どもが己れら街道筋宿々の負担を軽減せんために遠く五里七里十里も隔てた村々までも歩役をかけるように願出たがためであるというので、酷く問屋を憎んでおった。そこでこの序でに押寄せて、意趣返しをしてやろうということになり、数万の大勢が、閏十二月の晦日に一隊は熊谷に押よせて問屋に乱入し、柱をきり壁を落して家を押しつぷし、諸道具を取出しうちくだきそれより金谷村上野村を襲うた。また一隊は登町(川越より三里)の名主半歳の家に押よせてこれを打潰した。翌一月の元日は静かに年始を勤め、二日には根岸村(川越より三里)の松庵という医者の居宅を潰し、入間川の宿に入り、綿貫半兵衛という酒屋の表長屋から居宅土蔵残らず打潰し、その上、質物など取出して井戸の中に埋め、俵物等残らず打毀(やぶ)りそれから酒倉に入って蔵(しま)って置いた酒の道具を残らず摧(くだ)いた。酒は皆外へ出して、あたかも大河の如く流れ、怪我人なども少々あった。その宵には押垂村(川越の北三里)の酒屋へ押込んで造り置いた酒六尺桶四本を飲み、その勢はさらに進んで金岩村勘助の家を潰した。それから同村の名主次郎三郎の宅へも同断の事に及び、さらに一里程西の方に進んで高倉村勘左衛門の宅をも同じく打毀り藤谷村熊坂伝蔵の宅へも押寄せた。伝歳は罷り出てこれを抑えようとしたけれども、散々に打擲(ちょうちゃく)に遭うて、生捕になり、その上居宅を打毀られた。また他の一群は川越より一里程西の鯨井村名主織右衛門の処へ押寄せ、残らず打潰し、それより天渋村の名主甚之丞方に押寄せて、同上の儀に及んだ。また一里程北の組屋村の鳥見彦四郎方へ押寄せ、それより平塚村の名主弥惣次方に押寄せ、川越より十町ばかり北の小田島村の名主六左衛門方へ暁方に押寄せた。この群が今度は川越の江戸町の問屋九左衛門方へ押寄せようという風聞があったので、川越の城中から士卒を率いてこれを固めて、翌三日の早天に石田村に打って出でてトウトウ内百人ばかり生捕った。ところがこれらは大抵川越領内の名主であったので委細訊問の上これを返した。これによって翌四日の夜までは、川越の町はやや、静謐に過した。しかるに川越の二里程北東狐塚村では、甚左衛門という者の宅へおよそ二万人ばかり押寄せた。甚左衛門方においても予てこの事あるべしと、近村から加勢を頼んで、二千人を以て家を守って、皆竹槍を以て控えておった。寄手は先ず名主の宅へ押寄せ散々に打潰して、それより甚左衛門方へ押寄せたところ、甚左衛門は予て準備をして、長屋の屋根へ灰だの石だの木だのを揚げて置いて、徒党の押寄せるのを待っておった。寄手は数カ所の土蔵を打毀って、長屋に掛かったところが、予て用意の灰、石・木を打落したので、寄手は大きに苦み、遂に破れて引退き、およそ、三十人の即死者を残して引あげた。それからなお、城下へ押寄せるという評判があったので、城内においても警戒を怠ることなく、御用の外一切出入口を止めて、固く戒めておった。それで翌六日は少々静まったようであったけれども、三、四里四方の間は太鼓・法螺貝で時々鯨波を揚げ、その騒がしい態は、殆ど名状すべからざるものがあった。その内に追々に百姓どもも散って、騒が静まったのである。実にこの事件は島原以来の大騒動だという当時の評判であった。」(辻善之助『田沼時代』)
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閏12月
・人参座を設け専売とする。朝鮮人参の種子を植え栽培。

「明和元〔一七六四〕年閏十二月から、人参座即ち人参専売局を置いて、幕府の発売を司る事にした。これは八代将軍の時に、貧民が人参を求難い事を憐まれて朝鮮から種子を取って、下野国に植え試みた事がある。近頃になって、その結果が好くて、出来栄が朝鮮の産にも劣らなかった。すなわち陸奥国にも植えしめたところ、近頃追々それが蕃殖したので、今度神田の紺屋町に、人参発売の座を作って、望み乞う者に定価を以て売るという事にして、関東八州はさらなり他の国までも広く流通せしむる。シナ広東人参という物は、古くから日本にはいっているけれどもこれは余り良くないからして、今後これの発売を禁ずるという事にした。この禁令を出す前に長崎において広東人参三万両を焼棄てたという。」」(辻善之助『田沼時代』)
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閏12月31日
・熊谷の打壊し。金谷村上野村襲撃。
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月の前を横切った国際宇宙ステーション。望遠鏡に一眼レフカメラを取り付けて連写。




安倍政権の危うい“金融偏重” 市場は好感も過剰な期待は禁物!?

ZAKZAK
安倍政権の危うい“金融偏重” 市場は好感も過剰な期待は禁物!?
2013.01.30
連載:森岡英樹の金融スクープ  

 安倍晋三政権は「アジアナンバーワンの金融・資本市場の構築」を掲げ、金融業が生み出す経済価値を国内総生産(GDP)の10%まで引き上げることを目指すという。現在の同比率は5・8%で、ほぼ倍増を目指す。英国シティの比率をも上回る意欲的な目標だが、危うさもある。

 かつて金融庁は「金融立国」を目指し、東京を英国シティと肩を並べる国際的な金融センターに育成しようと試みた。自民党政権下の2007年12月には「金融・資本市場競争力強化プラン」を作成し、具現化に向けて動きだそうとした経緯がある。だが、その矢先にリーマン・ショックが起こり、構想は先送りされた。5年を経て同戦略の再現というわけだ。

 今年1月1日には、東京証券取引所と大阪証券取引所が統合して、「日本取引所グループ」が発足した。さらに商品分野の取引所の統合も視野に入っている。130年の長きにわたり犬猿の仲であった東証と大証の統合は、「金融立国」への脱皮を予感させるが…。

 米国はサブプライムローン問題が浮上するまで、いわゆる金融バブルの状態にあった。当時、金融業が生み出す経済価値はGDPの約2割を占めた。主導したのはマネタリストであったグリーンスパン。今にして考えると虚業の金融が経済価値の2割を占めるのは異常で、当然のように金融バブルは崩壊した。

 当時、米国では住宅ローン債権をはじめとする各種の債権が証券化され、金融商品として販売されたが、粉飾まがいの劣悪な商品も少なくなかった。その結果がサブプライムローン破綻であり、リーマン・ショックへとつながっていったのは記憶に新しい。

 他方、安倍政権のブレーンはエール大の浜田宏一名誉教授をはじめとするマネタリストの面々やろうとしているのはリフレ(通貨再膨張)で、かつての米国のグリーンスパン時代をほうふつとさせる。市場は円安・株高で応えているが、過剰な期待は禁物かもしれない。

 安倍政権は、大胆な金融緩和、国土強靭化計画に代表される公共事業、そして成長戦略の「3本の矢」を打ち出しており、金融と実体経済を車の両輪として活性化させる方向にある。金融緩和のみが突出するリスクも十分に視野に入れてのことだろう。それでも、金融分野の施策に偏重している感は拭えない。

 デフレ脱却に向け、日銀は2%の物価上昇率を目標にし、実現に向けて責任を政府と共有するという。日銀の資産規模は一層拡大するため、「おなかを大きく膨らませたカエルの腹がさらに膨らみ続ける」ようなものだ。「ゆでガエル」になる前に、「ぬるま湯から抜け出るカエル」となればいいが、その前にカエルの腹が爆発する危うさも秘めている。

 それとも同じように危機的な水準にまで積み上がった財政赤字という「もう一方の膨れ上がったカエルの腹」をインフレでチャラにする「財政赤字のインフレ調整」か、いずれにしても大胆な挑戦だ。

 ■森岡英樹(もりおか・ひでき) 1957年、福岡県出身。早大卒。経済紙記者、埼玉県芸術文化振興財団常務理事などを経て2004年4月、金融ジャーナリストとして独立。

「大彗星」と呼べる彗星は大体10年に1個やってくる。前回は2007年のマックノート彗星。







米ニューヨーク州上院、旧日本軍の従軍慰安婦問題は「人道に対する罪」と非難する決議案を採択。下院も同様見通し。

時事ドットコム
慰安婦は「人道に対する罪」=NY議会が非難決議

 【ニューヨーク時事】米ニューヨーク州上院は29日、旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「人道に対する罪」との表現を使って事実上、これを非難する決議案を採択した。
 決議案はニューヨーク市近郊の公園に2012年6月に「慰安婦の碑」が建てられたのを記念し、今月、上程された。「日本がアジアと太平洋の島々に対し、植民地支配と戦時占領を行った1930年代から第2次世界大戦の間、約20万人の若い女性が強制的な軍の売春である慰安婦システムに従事させられた」と指摘。慰安婦の碑は、人道に対する罪を思い起こさせる役割を果たすとしている。
 決議案を提出したトニー・アベラ議員は採択に先立ち、慰安婦問題を「20世紀最大の人身売買事件の一つ」と断じた。 
 下院にも同様の決議案が提出されており、来週にも採択される見通し。
 米国では2007年7月、慰安婦問題で日本の首相が公式声明の形で明確な謝罪をするよう促す決議が連邦議会下院で採択されている。(2013/01/30-06:21)



中央日報
日本の極右団体の妨害でも慰安婦決議採択したニューヨーク州上院(1)
2013年01月31日09時12分 
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]  

   「ニューヨーク州の上下院議員の相当数が日本の極右団体から醜悪な電子メール攻撃を受けました。慰安婦問題をよく知らなかった議員さえそのメールを見て背を向けました」。

  29日にニューヨーク州上院で満場一致で通過した「日本軍慰安婦決議案304号」を発議したトニー・アベラ議員の話だ。当初彼は「外交問題には触れない」というニューヨーク州議会規定のために決議案通過が容易ではないものと心配した。しかし日本の極右団体の水準以下の妨害工作がむしろ逆効果を生んだ。16日に上程した決議案が2週間ぶりに反対討論すらなく一気に採択されたのだ。

  ニューヨーク州の上下院が慰安婦決議案を上程すると、議員には数百通の電子メールが殺到した。「韓国人女性を日本軍の性的奴隷として搾取したというのは真っ赤な嘘」という内容だった。“電子メールテロ”は「なでしこアクション」という日本の極右団体が主導した。実際ニューヨーク州議員に送られた電子メールのほとんどがこの団体のホームページに提示されたサンプルをコピーしたものだった。

  ニューヨーク州だけではない。昨年11月にはニュージャージー州のローカル紙「スターレジャー」に慰安婦の存在を否定する広告が掲載された。極右派ジャーナリストの桜井よしこと自民党、民主党、無所属議員39人が主導したものだった。この広告は「許可を受けて売春行為をした慰安婦は日本軍将校より収入が多かった」という妄言まではばからなかった。

 昨年10月には日本の極右団体がニュージャージー州ペリセイズパーク市の慰安婦の碑とニューヨークの韓国総領事館の表札に「竹島は日本の領土」という杭とステッカーを置くテロを行った。さらにこのテロはソウルの慰安婦少女像と石川県金沢の尹奉吉義士殉国記念碑に杭テロをした団体が「自分たちがやった」とし自慢したりもした。 

  慰安婦の真実を知らせようとする韓国人団体の努力もニューヨーク州議員の心を動かした。特にドイツのナチスによるユダヤ人虐殺を告発するために建てたニューヨークのホロコーストセンターが慰安婦の真相を知らせるのに先導したことが米国主流社会の関心を呼び起こした。昨年12月に韓国人有権者権利運動を展開した「市民参加センター」(KACE)主導で行われたホロコースト生存者と元慰安婦の出会いの行事にはニューヨークとニュージャージー州の政治家が大挙参加した。ニューヨーク州ロングアイランドに米国に2番目の慰安婦の碑を建てた韓米公共政策委員会(KAPAC)は今回のニューヨーク州上院決議案採択を引き出す上で産婆役をした。 

  ニューヨーク州上院に続き2007年に慰安婦決議案を採択した連邦下院も糾弾レベルを高めた新たな決議案の採択の動きを見せている。アベラ議員は、「韓国をはじめアジアと欧州で20万人の幼い少女が日本軍の性的奴隷として引っ張られていったのは20世紀最悪の女性人身売買だった」と話した。彼は「米国はどんな理由であれ女性人身売買を認めない。謝罪どころか醜悪な妨害工作で歴史を歪曲しようとする試みは結局逆効果を生み出すだけだ」と強調した。 

寛仁2年(1018)4月~5月 この年、大旱魃。4月~5月、月1、2回しか降雨なし

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
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寛仁2年(1018)
4月1日
・この日夜、内裏で殿上人たちが道長の娘の尚侍威子の居間に集まって飲み始めたところ、何が原因か不明だが、右少将藤原兼房が、蔵人頭定頼に食ってかかり、定頼を罵倒し、定頼の前にあった菓子を足で蹴散らした。定頼が席を立とうとすると、今度は冠を奪おうとする。ようやく定頼が自分の控え室に逃げ込むと、兼房は石を戸に投げつけて威嚇した。
後でこの話を聞いた実資は、兼房の所行に驚き、断固たる態度を取らずに逃げた定頼を非難している。
翌日、兼房は道長に叱責され参内を止められた(20日後に許された)。
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4月28日
・長和4年(1015)11月に焼失した内裏(この内裏焼亡により三条天皇退位が確定した)は、翌年4月に新造着工、2年を経て完成し、種々の祈祷も終わり、道長・頼通以下の巡検も完了した。
この日、後一条天皇は生母太皇太后彰子と共に一条院より新造内裏に移り、清涼殿に入った。
東宮敦良親王も、この日正式に女御となった威子もこれに従う。
御座所は彰子が弘徽殿、東宮が凝花舎(梅壷)、威子が飛香舎(藤壷)と、いずれも清涼殿のすぐ北側に集まった。
全てが道長の娘と外孫である。

この行幸の際、近衛の将や少納言源経貞などが遅刻し、行幸が遅れた。そのため、吉時を選んで申の刻(午後4時頃)に行列が内裏に入る予定が遅れ、内裏到着が酉の刻(午後6時時頃)になる勘定になった。陰陽師のが酉の刻の到着は避けたほうがよいと言い、やむを得ず行幸を更に遅らせ、亥の刻(午後10時頃)に変更した。

天皇の行幸が遅れたから、その後から続いて移る東宮や威子の移転は更に遅くなり、やっと落ち着いたのは明け方に近い。
人々はすっかり参ってしまったが、道長は大いに立腹し、行幸遅延の責任は遅刻した連中にあるといい、遅刻者の少納言経貞の父、参議左大弁源道方を勘当してしまった。
勘当(勘事とも言う)は、目通りかなわぬ、謹慎を命ずることであり、道方は10日経っても許されていない。
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閏4月
・この月、道長は病いのために五壇法を修して法性寺五大堂に10日間以上参籠した。

この夏頃から、道長は時々、胸痛と眼病に罹る。
4月と閏4月にかけて胸痛を起こした。
何という病気かは不詳だが、発熱・胸痛を伴う発作的なもので、苦しいものらしく、道長自身も「心神不覚」と記している。『小右記』にも、苦悩の声が高く、叫ぶが如くであったとある。
怨霊も現われた。兄の道兼とも、三条天皇の霊だともいわれ、道長は法性寺に寛弘3年(1006)に建てた五大堂に2週間参籠したが、身体の衰弱ははげしかった。
胸痛の発作は6月にも起こり、これは小一条院を彼のの娘寛子に奪われた女御延子の呪詛による貴布禰明神の崇りとされている。
10月頃からは視力が衰え始め、陰陽道の祓や密教の仏眼法を修したが効なく、12月にはまたも胸病の発作に苦しんだ。
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・内裏内外での乱闘、闘争。
賀茂斎院の長官と次官の従者たちが斎院内で喧嘩。次官の従者が顔などに負傷。これを聞いた次官が手下を連れて斎院に仕返しに行き、長官の従者を死ぬばかりに痛めつけた。
閏4月2日、検非違使がこの事件を取り調べた。

9日には左馬頭藤原保昌の牛童(牛追いの下人)が上総介平維衝の草苅男と喧嘩を始めた。
この時、維衝側から検非違使左衛門尉の正輔という者が出て来て、部下を保昌の邸内に入れて事を大きくし、はては無関係の左馬允行方という者の従者を逮捕して責めたてた。
ところが、この従者が道長の土御門邸の庭番だったから、保昌から訴えが出て、検非違使が勝手に四位の宅を荒らしたのは越権であるとして、正輔が検非違使庁に呼び出されることになった。
しかし、正輔は1ヶ月半たっても病気と称して出頭せず、ついに検非違使別当から宣旨が出る。

22日には内裏で滝口同士が抜刀して乱闘。
同日夜、実資の牛童三郎丸・石童丸の2人が車で板を運搬中に、堀河の左大臣顕光邸の門前で暴漢に襲われて負傷した。
事情は不詳だが、左大臣邸の門前を乗車のまま通った無礼を咎められたらしい。
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5月
・内裏内外での乱闘、闘争。
5月3日、実資の牛童と僧都尋円の童子とが口論を始め杖を振り上げるところまでいったが大したことにはならないで済んだ。

闘争事件ではないが12日に内裏の天皇御座所すぐ近く、滝口の詰所で下女が頓死し、その前後、紫宸殿の東北方の化徳門のあたりで人の歌声が聞こえたり、内侍所に鬼が現われたりして女宮をこわがらせている。

21日には実資の随身3人が、参議資平の従者の頭を叩き割ってしまった。
実資は3人から始末書を取り、随身の職を奪って監禁したが、2日後に資平の申し出によって許した。

24日夜半、実資邸の西南隅の倉が焼けたが、これは火を容器に入れて倉の下に置いてあった形跡があり、放火らしい。幸いに無風で、倉も空だったし、すぐ近くの厩(うまや)の庇(ひさし)を破壊して延焼を防ぐことができて、被害は僅少であった。実資はこれを仁王講を修した功徳として喜んでいる。
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この年、大旱魃。4月、閏4月、5月と、京都でも毎月1、2回しか降雨がなかった。
5月21日、大納言藤原実資は殿上であまりの暑さに堪えかねて、氷水を飲んでいる。

この時の旱害は例年のような簡単なものでなかったから、祈祷も大がかりで神祗官でも雨ごいのお祈りがあり、諸国に仁王経の転読を命じ、延暦寺や七大寺でも御読経が行なわれた。

5月24日、2社に祈雨奉幣使が立てられた。
26日、雲が出たが降雨に至らず、30日、再び2社に奉幣使が出された。
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2013年1月29日火曜日

安倍が引用した芦田均の言葉。「どうなるだろうかと他人に問いかけるのではなく、我々自身の手によって運命を開拓する他に道はない」







つまり、
芦田均が官僚と官僚予備軍の東大生に向かって言った言葉だったのか。

そして、↓



祖父コンプレックスが窺える。


信州の写真 雪の樹林~黒斑山




昭和18年(1943)1月20日 「大橋のあたりには曾て軒並に名物の佃煮賣る店ありしが今は残らず戸を閉したり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

北の丸公園 2013-01-24
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昭和18年(1943)
1月20日
正月二十日。市内の經師屋このごろ麩糊のよきものなくなりし為掛軸の注文は馴染の顧客にあらざれば引受けぬやうになりたる由。午後土州橋に行く。病院の門前に北千住行の電車あり。風静にて暖なれば今日もまた食ふものあさらむとて千住に行く。大橋のあたりには曾て軒並に名物の佃煮賣る店ありしが今は残らず戸を閉したり。葛餅賣る問屋のみ一軒もとの如く人々列をなしたり。歸途淺草を過る時満月の昇るを見る。
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1月21日
正月廿一日。晴。小堀四郎氏過日其夫人と共に来訪の際わが家炭火の乏しきを見て近き中炭俵を送るぺしと言はれしが、果してその如く、今日の午後豪徳寺畔の家より遠路をいとはず炭俵を自転車に積み訪ひ來れり。深情謝するに辞(ことば)なし。氏の親切にてことしの冬はこゞゑずに過すことを得べし。
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1月22日
・正月廿二日。くもりて風なく寒気甚しからず用水桶の氷も解け初めたり。薄暮淺草公園を歩む。オペラ館の踊子等と松竹座隣の喫茶店に集りて談笑す。歸宅後風吹出で雨ふる。
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1月23日
正月廿三日。晴。日本医事新報牡より森先生に関する評論の原稾を求め來れり。メーボン著今日の日本の一節を訳して郵送す。
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1月24日
正月廿四日 日曜日 晴。終日風歇まず。寒甚し。
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1月25日
正月廿五日。晴。昏暮淺草に行く。

      街談録
○或人昭和十二年より今年まで日本政府の浪費せし戦費を合算し之を支部軍隊戦死者の頭数に割當て見たりしに一人あて約二千圓になりしと云。即支那人一人殺すに二千圓を費せし事になるなり。此度の戦争の愚劣なる事之を以て推察し得べし。
○昭和十一年二月軍人暴動の際その犠牲となりし兵卒の事につきては風説紛々其眞相を知ること容易ならず。此頃或人の語るをきくに其當時議事堂に立籠りて後歸順せし兵卒の一隊は直に武装を解除せられ戚布の聯隊に送られ、数日の後汽車に載せられしが車窓は密閉せられしまゝなればいづこへ送らるゝとも方角わからず。軈て船に載せられ上陸せし港朝鮮釜山らしく思はれたれど、そこより又もや行先知れぬ汽車に積載せられたり。最後に下車せし處はハルビンにて同僚八人こゝにて引分けられ、其中の一人は蒙古の名も知れぬ要塞の守備隊に編入せられ、去々年昭和十六年まで六年間勤務し去年漸く歸國除隊を命ぜられたり。六年間勤めて僅に上等兵になりしのみなり。其男は除隊の後現在は大森の或工場の職工となりゐる由。
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1月26日
正月廿六日。晴。
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1月27日
・正月廿七日。風寒し。夜金兵衛に飯す。凌霜子大正二年二月の三田文学を坊間に得たりとて示さる。海月の歌と題する余が新體詩あり。一讀するに恍としで前世を悟るの思あり。飯後向島に至る。
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1月28日
正月廿八日。晴。午後淺草散策。オペラ館踊子と楽屋外の喫茶店に憩ふ。夜寫眞現像。
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1月29日
正月廿九日。晴。日光街道の杉並木を伐りて軍事用材となすべき風説頻なり。またかの杉並木の杉はあまりに年経たるものなれば油気失せ用材には適せずと云ふものもあり。いづれにもせよ國家の窮状あはれむべきなり。
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1月30日
正月三十日。晴。午睡中突然臍のあたりに痒(かゆ)さをおぼゑしが夜に至り痒さ全身に渡り顔面も殊に眉毛のあたり手足の指先まで赤くなり悪寒を催すに至れり。されど體温は平常に異らず。曾て覚えしことなき奇病といふぺし。夜半に及び痒さ次第に去れり。
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1月31日
正月卅一日 日曜日。朝。鄰組の人に呼覚さる。起出でゝ見るに雪すこしつもりたる上に日の光まばゆく照輝きたり。晡時五叟幼児を伴ひ來り話す。共に出でゝ金兵衛に飯す。來合す人々の語るをきくに川崎の女郎屋玉川の丸子園と云ふ連込宿既に兵器工場職工の宿舎となりたり。大森品川邊の待合料理屋も亦近き中同じ悲運に陥るならむと云ふ。人心の不安日を追うて甚し(ママ)なり行くなり。歸宅後枕上フローベルの施行記をよむ。
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一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる(産経編集委員)。 石原慎太郎&櫻井よしこで「体罰は教育♡」

YAHOOニュース
一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる
産経新聞 1月27日(日)12時39分配信

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった2年生が顧問教師の体罰後に自殺したことで、評論家やジャーナリストらの多くが体罰の全面禁止を主張している。大阪市の橋下徹市長も「あらゆる体罰禁止」を打ち出している。国も各自治体も体罰の実態調査に乗り出している。

 生徒の自殺は痛ましい。顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らかに教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。

 こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

 まず、対象を故意行為に限るべきだということ。故意行為とはわざと行うことである。サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする-などである。みなが掃除をしているのにさぼったり、たばこをすったり、万引をしたり、といった行為に対して体罰を行うことは意味がある。ねじれた心を正すためである。

 もうひとつは暴力を振るう生徒に対しての体罰である。学校教育法では体罰が禁止されているため、生徒に暴力を振るわれても、教師は逃げるしか方法がなく、正当防衛行為すらできない。殴られた教師は泣き寝入りである。暴力生徒に対して、殴られる痛みを教えることは必要である。

 逆に、まじめに、一生懸命やっている者に体罰を加えることは何の意味ももたない。体罰を加えても、技能が向上したり、体力が充実したりしないからである。

 それと大事なことは、体罰は1発に限ることである。暴力を振るうと興奮して暴力をやめられなくなる人がいる。顧問教師はそのたぐいの人ではなかろうか。不法行為があったとしても、何発も殴っていいことはない。けがをさせてもならない。殴ってけがをさせるような者は殴る資格がない。殴るのにも技術がいる。

 こう考えると、かの顧問教師の体罰は、体罰ではなく単なる暴力であることが分かる。

 教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。だから、体罰の全否定には反対である。(編集委員 大野敏明)


和田浩明/Hiroaki Wada ‏@spearsden
「一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる 」まあ、これはいわゆる持論の展開だと思うが、このひと、これだけ自信を持って書けるというのは、日常的にやってんのかね、と邪推したくなる。 http://bit.ly/WbTxkJ 

3時間 Sakino Takahashi ‏@sakinotk
あぁ産経編集委員さま RT @Yosyan2: 「体罰は1発に限ることである」「教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130127-00000522-san-soci …) / 信頼関係があるとさえ自分が思えば、一発殴っても免責と言う主張で宜しいのでしょうか?


どうも「産経」が好きな人たちは体罰派らしい。
ちょっと前の話だけど・・・(↓)

石原慎太郎&櫻井よしこ
「体罰は教育♡」
「いかに多くの罰を受けたかが優しさを決めます」
「人のことを思いやる力をつけるには、体罰は最も有効です」











「教育における体罰を考える」シンポジウム 津田大介氏Twitter実況まとめ




「教育における体罰を考えるシンポジウム」








ラシュモア山国立記念公園の四人の大統領の彫像の反対側からの眺めが予想通りすぎた




ラシュモア山国立記念公園の四人の大統領の彫像

乙武さんは、親を恨んだことありますか?(ご本人まとめtogetter)


江川詔子さん~ふるまいよしこさん







togetter
乙武さんは、親を恨んだことありますか?






今日発見した衝撃の一万円札




女性から男性へ一万円札。
なかなか率直なお礼の言葉と。

日本の夜空に見える「きぼう」/国際宇宙ステーション(ISS)の写真

日本の夜空に見える「きぼう」/国際宇宙ステーション(ISS)の写真
コチラ ↑


中国産薬漬け&病気鶏肉問題、日本のマックチキンにも疑惑浮上 日本マクドナルド「心配なら購入控えて」

どうなってるんだろう?





記事はコチラ ↓
中国産薬漬け&病気鶏肉問題、日本のマックチキンにも疑惑浮上 日本マクドナルド「心配なら購入控えて」

痛いニュース(←コチラ)でも


CNNニュースでは
ファストフードでぜんそくや皮膚炎のリスク増?
2013.01.15 Tue posted at 12:28 JST

(CNN) 英ノッティンガム大学病院のハイウェル・ウィリアムズ氏らの研究チームは14日、英医学誌に、ファストフードをよく食べる子どもはぜんそくや皮膚炎、花粉症を発症するリスクが高まる可能性があるとの研究結果を発表した。
(以下略)



ほかにも、例えば牛丼チェーンは輸入制限値が緩和されたアメリカ産牛肉をドンドン使うと言ってるし、ファストフードはリスクと隣り合わせという覚悟が必要か?

中国大気汚染 29日~31日、どっぷり日本を包み込むらしい。

【2月2日追加】
・アトランティック紙「China's Toxic Sky」に写真31枚アップ

・北京の大気汚染、また深刻化 住民はガスマスクも(CNN)
・PM2.5ってケッコウきつい。





















日本側では・・・。














RAMS-GPV U-V & Sulfate (averaged from surface - 1000m height)
コチラ ↑



NAVERまと
【悲報】中国の「死亡級」毒スモッグが29・30・31日に日本どっぷり包むぞ・・・
コチラ  ↑


関連記事
観測史上最悪、北京の大気汚染 「これほんとに今の北京なのか 昼間とは思えませんね・・」

今朝の北京もスモッグ=写真。「PM2・5」も昨日午後3時すぎからひどくなっていたようです。(吉岡桂子)

PM2.5って、ケッコウきつい。 ↓ PM2.5の基礎情報:その定義と発生源と環境中濃度と健康影響と基準値とYシャツと私(v1.1版)

CNN
北京の大気汚染、また深刻化 住民はガスマスクも
2013.01.30 Wed posted at 10:23 JST

CNN) 中国の首都北京で29日にかけて再び大気汚染が深刻化し、空の便の欠航や主要道路の封鎖が相次いだ。市内は有害なスモッグに覆われ、場所によっては200メートル先も見えない状況になっている。同国国営メディアが報じた。
北京にある米大使館は現地時間の29日午後8時の時点で、有害なレベルの大気汚染が過去24時間にわたって続いたとして、屋外での活動を控えるよう勧告。特に心肺疾患を持つ人や高齢者、子どもは外出を避け、あまり動き回らないよう呼びかけた。
北京で大気汚染が有害レベルに達したのは今年に入ってこれで4度目。地元メディアは「ひどい大気汚染だ。市民の健康に良くない。当局にはこの環境を何とかして欲しい」「自分のオフィスビルの屋上部分が見えない」といった人々の声を紹介している。
国営新華社通信によれば、大気汚染のあまりのひどさに、普段のマスクをガスマスクや防護マスクに着け替えた歩行者もいるという。
北京市内の小児科病院によると、呼吸器系疾患のため同病院で手当てを受けた子どもは1月だけで過去最高の9000人に達した。大半はスモッグが原因だという。
気象当局によると、30日夜には積雪と降雨が予想され、大気汚染は解消される見通し。

アトランティック紙
China's Toxic Sky  ← コチラ
 写真31枚



2013年1月28日月曜日

福島原発2号機の原子力建屋、穴を開けたら調査の障害となる予想外の配管。

さきがけ Web
2号機、穴開けたら予想外の配管 東電福島原発、調査難航も

  東京電力は28日、福島第1原発2号機の原子炉建屋で、圧力抑制室周辺を調べるため上の階の床に開けた穴の先に、調査の障害となる予想外の配管などが見つかったと発表した。今後の調査は難航も予想される。

 東電によると、穴の真下に複数の配管や格子状の鋼材などが通り、調査機器を下ろすスペースがほとんどなかった。東電は「図面を見て穴の位置を決めた」としているが、重要施設の内部を正確に把握できていない実態が露呈した。

 東電は2号機の圧力抑制室を収める「トーラス室」という空間で、溶けた燃料がないか確認し放射線量を測る調査を計画。カメラや堆積物を採取する装置などをつり下げて調べる方針だった。

(2013/01/28 21:31 更新)

幻月 1月17日の夜、アラスカの西の空へ沈む月。上空に漂う無数の氷の微結晶が月光を反射し、「幻月」と呼ばれる現象を引き起こした。








ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(57) 「第4章 徹底的な浄化 - 効果を上げる国家テロ - 」(その6)

北の丸公園 2013-01-28
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(57) 
「第4章 徹底的な浄化 - 効果を上げる国家テロ - 」(その6)

企業の後援を受けた拷問
 こうした労働組合への攻撃は、しばしばその職場の所有者との緊密な協力のもとで行なわれ、近年起こされた訴訟によって、外国の多国籍企業の国内子会社が直接関与した事例の詳細にわたる記録が明らかになっている。

アルゼンチン
 クーデター前、アルゼンチンでは何年にもわたって外国企業が左翼武装勢力に経済的にも人的にも被害を受ける状況があった。
一九七二年から七六年の間に、自動車会社フィアットでは五人の重役が暗殺された。
こうした企業の命運は軍事政権が成立し、シカゴ学派の経済政策が採用されたことによって劇的に変化した。
軍政のもとでは、大量の輸入製品を国内市場に放出し、賃金を低く抑え、都合のいいときに労働者を解雇し、上がった利益はなんの規制も受けずに本国に送金することができた。

 いくつかの多国籍企業は露骨なまでに謝意を表した。
アルゼンチンの軍事政権成立後初めての新年、フォード・モーター社は新聞に同政権と自社との結びつきを強調する祝賀広告を出した。

「一九七六年、アルゼンチンはふたたび自らの道を見出しました。一九七七年がアルゼンチンの善意あるすべての人にとって信念と希望あふれる年となりますよう。フォード・モーター・アルゼンチンは社員一丸となって、祖国の大いなる運命を実現するための戦いに身を捧げる所存です」。

ブラジル:OBAN運営の経済的基礎
 外国企業のなかには、単に軍事政権の仕事ぶりに感謝するだけでなく、恐怖作戦に積極的に参加するものもあった。
ブラジルではいくつかの多国籍企業が結託して資金を出し、自前の拷問集団を組織した。
一九六九年半ば、同国の軍事政権がもっとも残忍な時期に突入するなか、「バンデイランテス行動隊(OBAN)」と呼ばれる超法規的治安部隊が結成された。
『ブラジル ー 二度とくり返すな(ヌンカマイス)』によれば、軍将校で構成されたOBANは「フォードやゼネラル・モーターズなどさまざまな多国籍企業の出資によって」運営され、正規の軍・警察組織とは別組織であるため「尋問の方法を好きなように選ぶことができ、処罰の対象にもならなかった」という。
OBANはすぐさま他に類を見ない残虐さで知られるようになる。

アルゼンチン:緑のフォードファルコン
 だが、フォードの国内子会社と恐怖装置との関係がもっとも明白だったのは、アルゼンチンだった。
同社は軍に乗用車を供給しており、緑のフォードファルコンを使って何千人もの人が誘拐され、行方不明になった。
アルゼンチンの心理学者であり劇作家のエドゥアルド・パブロフスキーはこの車のことを「恐怖のシンボルであり、死の車」だったと表現している。

軍の野営地の様相を呈したフォード工場、労働者の拘留・拷問
 フォード社が軍事政権に車を供給する一方、軍事政権の側も独自のサービスを提供した。
厄介者の組合員を工場から駆逐したのだ。
クーデター前、同社は労働者の要求に従ってかなりの妥協(昼休みを二〇分から一時間にする、車一台販売するごとに売り上げの一%を社会福祉プログラムに寄付するなど)を強いられていた。
だがクーデターによって反革命、すなわち弾圧が開始すると同時に、すべては様変わりした。
ブエノスアイレス郊外のフォードの工場は戦車をはじめとする軍用車両であふれ、頭上ではヘリコプターが旋回し、さながら軍の野営地のような様相を呈した。
労働者の証言によれば、「工場には一〇〇人の部隊が常駐していたという。
「まるでフォードで戦争が起きたみたいだった。しかも僕たち労働者が敵とみなされていた」と組合代表の一人だったペドロ・トロイア二は言う。

 兵士たちは工場中を歩き回り、現場主任の助けを得ながら、もっとも活動的な組合員を次々と捕らえて頭巾をかぶせた。
トロイアニも組み立てラインから連れ去られた一人だった。
「僕を拘留する前、彼らは僕を引っ張って工場中を回った。皆の見ている前で、さらし者にするように。そうやって、フォードは工場から組合主義を排除しようとしたんだ」。
何より驚くべきだったのは、その次に起きたことだった。
トロイアニらによれば、兵士たちは彼らを工場の敷地内に設置された拘留所に連れて行った。
自分たちの職場の中の、ほんの数日前まで会社側と契約の交渉を行なっていた場所で、労働者たちは殴る蹴るの暴行を受けた。
電気ショックを与えられたケースも二件あった。
その後、彼らは外部の拘置所に連れて行かれ、何週間、場合によっては何ヵ月にもわたって拷問を受けた。
労働者の弁護士らによれば、この時期にフォード社の組合代表が少なくとも二五人連れ去られ、その半数が会社の敷地内にある施設に拘留された。
アルゼンチンの人権団体はこの施設をかつての秘密拘留施設の公式リストに含めるよう、働きかけを行なっている。

 二〇〇二年、連邦検察はトロイアニほか一四人の労働者の代理人としてフォード・アルゼンチン社を刑事告発し、社有地で行なわれた弾圧の法的責任は同社にあると主張した。
「フォード(・アルゼンチン)と役員たちが共謀して自分の会社の労働者を連行したのだから、彼らがその責任を問われるべきだと思う」と、トロイアニは言う。
メルセデス・ベンツ(ダイムラー・クライスラーの子会社)も、一九七〇年代に軍と協力して工場から組合指導者を追放した容疑で同様の捜査を受けている。
同社は軍に六人の労働者の名前と住所を渡したとされ、これらの労働者はその後行方不明となり、一四人は二度と帰ってこなかった。

 ラテンアメリカ史学者のカレン・ロバートによれば、軍事政権が終わるまでに「メルセデス・ベンツ、クライスラー、フィアット・コンコードなどの(中略)この国の大工場からは、事実上すべての労働者代表が姿を消していた」という。
フォードとメルセデス・ベンツはともに、自社の幹部がいかなる形であれ弾圧に関与したことはないと否定しており、裁判は今も係争中だ。
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昭和18年(1943)1月19日 「侵魯の獨逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつゝありと。願くばこの流言眞實ならんことを。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

江戸城(皇居)東御苑 2013-01-24
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昭和18年(1943)
1月5日
・正月五日。牛後より曇る。昏暮金兵衛に至る。相磯凌霜子文行堂にて馬蘭亭狂歌會寄書一巻また南畝尺牘集一巻を得たりとて示さる。歌舞伎座表方齊藤氏より食麵麭を貰ふ。
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1月6日
正月六日。晴。祁寒昨日の如し。窓の日影稍長くなりぬ。
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1月7日
正月七日。晴。午後小堀氏夫婦ヰオロニスト林氏相携へて來り話す。小堀氏より粟餅乾柿(アワモチコロガキ)。林氏より巴里土産灰皿を貰ふ。暮方突然胃に奇異なる痛を覚え気分頓にあしくなりしが須臾にして歇む。之がため食事に出でず床敷きのぺて臥す。枕上フローベルが青年時代未刊の作品を讃む。Oevres de Jeunesse (Louis Conard Paris 1910)
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1月8日
正月八日。晴。午後土州橋の病院に至り診察を請ふ。昨夜の胃痛は胃酸過多のためなれば甚しく憂ふに及ばざる由なり。河風もさほどに寒からねば箱崎川の岸に沿ひ歩みて新大橋に出づ。乗合の汽船にて永代橋に至らむとするに桟橋も札賣場も取払はれて跡なし。岸の上に立ちて川下川上を見渡すに曳船の石炭船をひき行くのみにしてかの一銭蒸汽の形は見えず。こゝに於て此れも時勢のために廃滅せし事を始めて知り得たり。一銭蒸汽は明治時代のなつかしき形見なりしにさてもさても惜しむべき事なり。新大橋をわたり森下町の四辻より電車に乗り芝ロの金兵衛に至るに日は全く暮れたり。一人の来客より去六日平岡権八郎氏病歿せし事をきく。平岡氏は新橋花月楼の主人にて初画家棲鳳につきて日本畫を学び後洋畫に転じ岡田三郎助門下の秀才なりき。大正四五年頃余は平岡氏と共にその家に清元お若 延壽太夫妻 清元榮壽太夫等を招ぎ清元をならひしこともありしなり。
〔欄外朱書〕画家平岡権八郎歿
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1月9日
正月九日。晴。上海の知人より羊羹をもらふ。
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1月10日
正月十日 日曜日 晴。飛行機の音とだゆる時今年は窓外頻に鵯の群れ來りて鳴くをきく。三十年前大久保に在りし時梅もどき南天燭などの赤き實を食はむとて鵯(ひよどり)の多く庭に來りしことなど、何くれとなく思出され感慨淺からず。夜食事せむとて芝ロの金兵衛に行く。金毘羅の縁日にて虎之門より田村町四辻あたり群集雑沓す。
*
1月11日
・正月十一日。去年より日照り続の後初めて雨ふる。驟雨の如き降りざまなり。暮方雲次第に散り失せ夕陽あざやかなり。夕飯の後淺草を歩す。
*
1月12日
正月十二日。晴。晝の中より水凍らむばかりの寒さなり。終日蓐中に在り、たまたま絶句類選をよむに、糖霜楊萬里の作に亦非崖茶亦非餳。青女吹霜凍作氷。透骨清寒輕著齒。嚼成人跡板橋聲とあり。氷砂糖のたぐひにや。甘きものは宋の時代既にありしと見ゆ。
*
1月13日
正月十三日。晴。去年の暮町會より賣付けられし國債を現金に代へむとて午後兜町山二商店に至る。店長は三十年前よりの知人なり。それより土州橋を過り淺革に至る。オペラ館楽屋を訪ふにもと常磐座に居たりし踊子四五名本年正月よりこの楽屋に來れりとて皆喜びて余を迎ふ。此別天地には曾て戦争の気分なし。昏暮芝口に至らむとて楽屋を出るにいづこの煙草屋にも人々その店先に長蛇の列をなしたり。去年の暮より煙草の品切今に至って依然たればなり。値上げがしたくば早く値上げをなすがよし。徒に品切をつヾけて人民を苦しましむるは盖政策の得たるものには非らざるべし。歸途寒月明なり。
*
1月14日
正月十四日。晴。
*
1月15日
正月十五日。晴。毎夜月明にして街燈なき門巷も歩行するに便なり。
*
1月16日
正月十六日。晴。
*
1月17日
・正月十七日 日曜日。晴。淺草仲店にて蕪千枚漬を買ふ。木戸氏より牛酪を貰ふ。煙草またまた値上げとなる。
*
1月18日
正月十八日。晴。
〔欄外朱書〕廿五銭の巻烟草四十五銭となる。
*
1月19日
正月十九日。晴。午後淺草に行く。坊間流言あり。侵魯の獨逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつゝありと。願くばこの流言眞實ならんことを。
*
*
老境にさしかかった荷風の侘しい正月であったが、この期間、日記の日付けの前にナゾの「・」が三回。
まあ、同情は不要ですナ。

1月19日の街の噂。
ロシアに侵攻したドイツ軍の不振、北アフリカに上陸したアメリカ軍がイタリアを脅かしているとの噂である。
荷風は、どうかこの噂がホントであって欲しいと願っている。
(そしてそれは事実ホントであった)



必要最小限の武器の使用は(憲法が禁じる)武力行使とは評価されない(石破幹事長)

朝日新聞 2013年1月27日18時30分
自民・石破幹事長、自衛隊法改正に意欲 次期通常国会で

 自民党の石破茂幹事長は27日のNHK番組で、在外邦人保護のための自衛隊法改正案について「相手国の主権に配慮したうえで、憲法の許す範囲内でどこまでできるか、結論を出さなければならない」と述べ、28日召集の通常国会での法案提出に意欲を示した。

 憲法は海外での武力行使を禁じており、法改正では武器使用をどこまで認めるかが焦点。石破氏は「日本人の生命、財産を守るのは国家の責務。必要最小限の武器の使用は(憲法が禁じる)武力行使とは評価されない」との認識を示した。


日経新聞
石破氏、人質事件関連で「自衛隊法改正案提出を」 
2013/1/27 12:34

 自民党の石破茂幹事長は27日のNHK番組で、アルジェリア人質事件に関連して、海外での緊急事態に際して自衛隊が日本人を救出できるようにする自衛隊法改正案を28日召集の通常国会に提出したいとの考えを示した。

 石破氏は「政府内に情報共有部門として日本版NSC(国家安全保障会議)をつくらなければならない。また今の自衛隊法では日本人の救出ができない。相手国の主権に配慮したうえで憲法の許す範囲内でどこまでできるか、結論を出さなければならない」と強調した。

 民主党の細野豪志幹事長は人質事件での政府の対応は「やや疑問だ」と、国会論戦で追及すると語った。日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長は「政府として情報がとれていたか、大きな問題だ。もう少し予算をつけて情報をとれるようにすべきだ」と述べた。

 みんなの党の江田憲司幹事長は「一番重要なのは情報収集活動が完全だったかどうかだ」と指摘。生活の党の鈴木克昌幹事長は「アフリカ地域に駐在武官が2人しかいないのは欠陥だ」と語った。

 共産党の市田忠義書記局長は「なにかあれば自衛隊を出すというやり方は行うべきでない」、社民党の又市征治幹事長は「海外で紛争が起きたときに自衛隊を派遣するのは行き過ぎだ」とそれぞれ表明した。

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金子勝 ‏@masaru_kaneko
【検証すべき1】石破幹事長は、自衛隊機が海外の日本人を救済できるように自衛隊法を改正するというが、自衛隊機を派遣すれば人質が救えた状況だったのか。自ら検証するといったのに、きちんとした検証がないうちに人質事件を悪用して先走っています。 http://goo.gl/hM34u 

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【検証すべき2】ウラン資源のあるニジェールに隣接するマリ北部を武装勢力が占領。オランド仏大統領は12月19日にアルジェリアを訪問し軍事協力をとりつけ1月11日~仏軍のマリ空爆を開始。問題は、政府・外務省は危険を認識できなかったのか、です。 http://goo.gl/sZ2YX 

金子勝 ‏@masaru_kaneko
【検証すべき3】フランス・英国が対象のテロに巻き添えになったのか、武装勢力は日本も標的にしていたのかが問題です。日本人も武装勢力の標的になったとの情報もあります。でも、イラク戦争に加担した政府・外務省ではまともな検証はできないだろう。 http://goo.gl/6R4ky 

今回の検証は
①情勢判断、危機判断(予知)能力の欠如
②現地対応(情報収集)能力の欠如
に焦点を当てるべきで、
持論の自衛隊法改悪に繋げるには無理がある。

それと・・・、
「必要最小限の武器の使用は(憲法が禁じる)武力行使とは評価されない」
とは、
「平手打ちも鼻血が出ない限り体罰でない」
みたいな論理のような・・・。





「アベノミクス」最初の予算 緊急経済対策と補正予算を検証する(田中秀明)

 景気対策の有効性そのものを否定しているわけではない。しかし、現実には、それは恐ろしく難しいのである。景気対策は、いわば「麻薬」である。効果が発生しても、それは持続しない。エコカー減税やエコポイントを思い出してほしい。これらは、結局、需要の先食いであり、永続的な効果は期待できない。もちろん、あらゆる施策にはリスクがある。リスクがあるからできないと言っていては、何もできないだろう。しかし、過去にできなかったことが、今直ちにできるとはにわかには信じられないのである。政府は、今回の対策が「安易なバラマキではない」ことを、データに基づき立証する責任を負っている。そして、我々はそれを注意深く監視しなければならない。


ダイヤモンド・オンライン
【番外編】
「アベノミクス」最初の予算
緊急経済対策と補正予算を検証する
田中秀明 [明治大学公共政策大学院教授]
より  ↑

失われた20年への反省なくして表層的・総花的な政策が成功するとは思えない。

寛仁2年(1018)1月~3月 後一条天皇(11歳)元服 道長の娘威子(20歳)が入内

北の丸公園 2013-01-28
*
寛仁2年(1018)
この年
・この年、仏師康尚は近江国逢坂の関寺の仏像を造り始める。
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・この頃、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)成立。藤原公任撰の歌集。
『倭漢朗詠集』或いは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。
達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
下巻「祝」部に『君が代』の原典がある。
*
1月
・『御堂関白記』寛仁2年正月に
「栖霞寺一切経を渡し奉る、これ故法橋奝然、唐より持ち渡る経なり、而して遺弟献ずるなり」と、道長が宋版一切経を手に入れたことがみえ、釈迦堂の造営に道長の関与があったことも推測される。
棲霞寺は五台山清涼寺と称された。これは聖地五台山を日本に移したものであり、清涼寺の名称は五台山最古の名刺の名によっている。
清涼寺には、国宝の十六羅漢図もあるが、北宋羅漢図の唯一の遺品であり、奝然が帰国の際にもたらしたと考えられる。
永延元年(987)2月、奝然は帰国・入京後、愛宕山に五台山大清涼寺を建立することを申請して、準備を進めたが、在世中には実現せず、「遺弟」の盛算が嵯峨の棲霞(せいか)寺に釈迦堂を建立した。
*
1月3日
・この日、紫宸殿で後一条天皇(11歳)の元服の式。
後一条天皇の母彰子は皇太后から太皇太后へと昇る。
翌々5日、盛大な祝賀の宴が張られた。
*
1月23日
・寛仁元年(1017)に内大臣、ついで摂政となった藤原頼通は、この日、大臣大饗を開く。
この時、摂政就任記念ということもあってか、4尺の倭絵屏風12帖が新調された。

この時の和歌について、『栄花物語』「ゆふしで」に記事がある。
「さべき人々に皆歌くばり賜はするに」「すべて和歌八十首ぞ出で来たりつれど」厳選され、前大和守藤原輔尹、道長、左馬頭藤原保昌妻式部(和泉式部)、祭主大中臣輔親、藤原公任の計8首をあげている。

さらに『小右記』などによると、この屏風の色紙形には、和歌だけでなく漢詩も書かれた。
漢詩は、大納言藤原斉信(ただのぶ)、公任、式部大輔藤原広業(ひろなり)、内蔵権頭慶滋(よししげ)為政、大内記藤原義忠、藤原為時(紫式部の父)が献じ、献じられた詩と和歌は藤原定頼(公任の子で書の名手)が書き出し、藤原公任と斉信という両才人が撰定にあたり詩と和歌の採否を決め、最後に行成によって色紙形が清書された。

実資は、「儒者に非ざる上臈の公卿、臣下の命に依り、屏風詩を作るは如何。凡人に異ならず」と非難している。
従来専門歌人によって作られていた和歌や、儒者(学者)によって作られていた漢詩が、摂関期以降は公卿など上級貴族によっても作られるようになった。
公卿など上級貴族が漢詩や和歌の世界に進出するようになっていった契機のひとつとして、道長への権力集中によって公卿たちに漢詩や和歌の制作が課されたことがあげられる。

院政期になると院が文化の巨大プロデューサーとなるが、道長はその先駆けである。
他の公卿たちは、別の公卿に詩作を依頼することはできない。
道長は、経済的賦課・文化的賦課をかけながら他の公卿たちとは隔絶した地位を築いていった。
*
2月
・2月早々から、威子入内の準備は始められ、入内の日取りは3月7日と決定する。
*
2月9日
・道長が太政大臣を辞任、前太政大臣となる。在任は2ヶ月間。
*
3月7日
道長女威子(20歳)が入内
元服した後一条天皇(11歳)には母である太皇太后彰子(道長の娘)の妹威子(母は倫子、つまり天皇の母と同母妹、叔母)が入内し、女御となった。
年齢差はあるが、威子は小柄なので天皇と釣り合っていたという。

入内は結婚の式であるから、当時の風習として、これに先立って男女間に手紙のやり取りがなくてはならない。
そこで3月1日、蔵人が勅使として天皇の書状を捧げて道長邸に赴く。道長のほうでは道長・頼通以下、公卿が多数集まって勅使を迎え、頼通の弟の左大将教通が勅使から書状を受け取って御簾のなかに入る。
この第1回の時には威子からは返書を奉らず、勅使は別の席で公卿たちから振舞を受け、禄として女の装束一揃いをもらって帰る。
5日にも天皇から書状があり、今度は威子からも返事を差し出す。先回同様、公卿が集まって勅使を迎える。
万事は儀式的に、華やかに進められた。

3月7日、公卿・殿上人多数が従って、夜に入って無事威子の入内は終わった。
この頃の内裏は一条院であり、威子の室はその西北の対屋(たいのや)に設けられた。
彼女の母、源倫子も共に参内して世話した。

威子は天皇の生母太皇太后彰子の同母妹、つまり叔母であり、そして天皇より9歳も年長。
当時の例から見ると、姉妹の一人が父に、他が子にとつぐ例はかなり多く、嫌うべきことではなかったようである。
こんにちではこのような近親結婚は法律でも禁止され、医学的にも避けるべきこととされているが、もっと古くは兄妹の結婚も同母でなければかまわない風すらあった。天皇が11歳では結婚といっても形ばかりのことで、威子に子の生まれたのはそれから8年後のこと。

威子の入内に従った女房40人の中に二条殿の方と呼ばれた、道長の兄道兼の娘がいた。
長徳元年(995)、兄の関白道隆の病死によって関白の地位を得た道兼もまた病死して世に「七日関白」といわれ、この道兼の死によって道長の前途が開けた。
道兼が健在であったら、彼女も女御として後宮に入ったことであろう。彼女の姉の尊子(そんし)は、一条天皇の女御である(のち、参議藤原通任と仲よくなって評判を立てられた)。
*
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トルコ西部パムッカレの石灰華段丘。世界遺産になっている有名な場所だが,白い岩と青い水の対比は何度見ても美しい。








石川知裕衆院議員の控訴審。・・・被告人は裁判官を選べない。あな恐ろしや、日本の刑事裁判は…(江川詔子)

Shoko Egawa ‏@amneris84
石川知裕衆院議員の控訴審。妻の証人尋問と被告人質問だが、事件に関する事実や認識についての立証をさせてもらえないのでは、安田弁護士といえども、効果的な質問は難しいのだろう

Shoko Egawa ‏@amneris84
今回の厳しい選挙においても7万票を獲得し、地元の有権者の期待が高いことを強調。石川氏は最後に、「犯罪を犯そうと思って経理処理したことはない。ミスはあったかもしれないが、それは公民権を奪われ、政治家として活動できなくなるほどのものなのか」と訴えた。

Shoko Egawa ‏@amneris84
弁護人を変えた被告人が、事実について一審とは別の角度で立証する機会を一切封じ込めた東京高裁・飯田喜信裁判長は、以前、東電OL殺害事件で一審無罪となったゴビンダさんを逆転有罪にした時の右陪席で主任の裁判官。そういう裁判官が反省や学習をする機会もないまま、人を裁き続けている。

Shoko Egawa ‏@amneris84
運がよければ、まともな裁判官に当たることもあるけれど、そうでなければ、石川氏のように事実を立証する機会さえ奪われてしまう。当然ながら、被告人は裁判官を選べない。あな恐ろしや、日本の刑事裁判は…

Shoko Egawa ‏@amneris84
そういう裁判所の責任問題を考えるシンポジウムが31日に東京・霞が関の弁護士会館で行われます。わらしも出ます。






大阪市立桜宮高校 保護者・卒業生ら「桜宮応援団(仮称)結成。 「(橋下)市長の発言は言葉の暴力だ」

日刊スポーツ
桜宮高 保護者ら応援の会結成 「市長の発言は言葉の暴力だ」

 大阪市立桜宮高の男子生徒自殺で、部活動の自粛や体育系学科の募集中止が決まったことを受け、保護者や卒業生の有志が27日、大阪市内に集まり「桜宮応援団」(仮称)を結成した。

 会場には約170人が詰め掛け、4時間にわたり議論。発起人として加わった伊賀興一弁護士は「保護者や生徒が議論の中心になって考えていく必要がある」と訴えた。今後、市教育委員会に意見書を提出するなどの活動をする。

 橋下徹市長はこれまで「学校の間違いを受け止めるのが大切だが、在校生にはその認識がない」などと発言。教員の総入れ替えも求めている。

 これに対し、保護者らが猛反発。「(教員総入れ替えで)全てをリセットするのは、良かった指導まで全否定することになる」「夢があって桜宮高に入った。市長につぶす権利はない」との声が上がった。「『大人は何も分かってくれない』と子どもが嘆くようになった」との批判も出た。

 体罰について「今後、暴力や暴言での指導は認めない」との意見を拍手で承認。運動部に所属する生徒の父親は「日本の体罰問題を考える原点にしていこう」と訴えた。
[ 2013年1月27日 18:31 ]

石原慎太郎の第1ツイートがあまりにも石原で泣ける。 「『寸鉄人を刺す』ような文章は俺はうまいんだ」と石原本人。








やっぱり!!
NAVERまとめ
ネット選挙解禁に向け、twitterを始めた石原慎太郎に心配の声


読売新聞
石原代表がツイッター「寸鉄、俺はうまいんだ」

 日本維新の会の石原共同代表が、自身の簡易投稿サイト「ツイッター」を開設した。夏の参院選に向け、発信力を強化する狙いがありそうだ。

 石原氏は今月25日の1回目の書き込みで、「安倍内閣は公明党と肩を組むまま果たして、諸悪の根源の憲法を改正出来るのだろうか」「世界で孤立し軽蔑にさらされている原因の憲法を今変えなければこの国は沈んでしまうのに」などと、憲法をテーマにつぶやいた。作家でもある石原氏はツイッターを始めた理由について、「(短い語句で人の急所をつく)『寸鉄人を刺す』ような文章は俺はうまいんだ」と語った。維新の会の橋下共同代表もツイッターを利用しており、フォロワー(閲覧者)は100万人近くに上る。

(2013年1月30日07時35分  読売新聞)


2013年1月27日日曜日

横浜市からの富士山 2013-01-27

横浜市戸塚区から見る富士山
 2013-01-27 朝10時すぎ

自民党の加藤紘一元幹事長、「しんぶん赤旗」日曜版紙上で安倍首相の河野談話見直しを批判

ZAKZAK
国賊か!? 「赤旗」で“日本叩き”に加勢した自民党元重鎮 
2013.01.27
 
 安倍晋三首相が旧日本軍による慰安婦募集の強制制を認めた「河野洋平官房長官談話」(平成5年)の見直しを表明したことに対し、自民党の加藤紘一元幹事長が20日付の共産党機関紙「しんぶん赤旗」日曜版紙上で批判した。自民党の元重鎮が他党の機関誌にわざわざ登場して“身内”を攻撃するとは、寡聞にして知らない。慰安婦問題をめぐって米紙ニューヨーク・タイムズはじめ海外メディアが「日本叩き」を強める中、加藤氏が加勢した格好だ。

 ■“加藤の乱”!?

 これぞ“加藤の乱”と言うべきか。

 赤旗日曜版は1ページ(4コマ漫画以外)を割き、慰安婦問題について「世界の常識は『人道の罪』」として河野談話見直しの動きに国際社会が批判を強めているとの特集記事を組んだ。加藤氏の見解は紙面中央に「右バネききすぎ外交上問題」の見出しで大きく掲載された。赤旗関係者によると、加藤氏は同紙のインタビュー要請に「元官房長官」「前衆院議員」の立場で応じたという。

 くだんの加藤氏の“問題コメント”の全文は以下の通りだ(年号は西暦で掲載されたが、筆者が和暦に書き直した)。

 《朝鮮半島出身のいわゆる「従軍慰安婦問題」については、私が宮沢喜一内閣の官房長官だった時、平成3年12月から4年7月まで調査しました。関係資料が保管されている省庁で調べて、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取り締まり、慰安所設置の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書の発給等について、政府の関与があったことが認められた」と結論を出しました。その時点で、すでに、政府として「筆舌に尽くしがたい辛苦をなめられた全ての方々に対して、改めて哀心よりお詫びと反省」を表明しました。

 私の次の河野洋平官房長官のときに、さらに調査して「強制性」を認めました。この一連の調査や見解を覆そうという今の動きに、私としては賛成できないし、右バネがききすぎて、外交的にも大丈夫なのかと思います。

 こういう状況になると、当然、近隣諸国が懸念を持つでしょう。近隣諸国ばかりか、アメリカもこの問題に強い関心を持っていることに私も驚いたことがあります。19年の安倍首相・ブッシュ大統領の会談では、安倍首相が「お詫び」せざるを得ませんでした。アメリカは、人権問題という点からこの問題をとらえていたのでしょう。

 近隣諸国やアメリカの関心は、軍の強制連行があったかなかった、といった狭い議論ではありません。全体として人権侵害があり、それを否定することなど考えられないと見ているのです》

 ■論点をすり替え

 全文をそのまま文字にしているだけで気分が悪くなってきた。明らかに「論点のすり替え」である。

 繰り返すまでもないが、河野談話は根拠のないまま慰安婦の強制連行を認めたものだ。談話が出される前、当時の宮沢内閣が集めた2百数十点に及ぶ公式文書には、旧日本軍や官憲が慰安婦を強制連行したことを裏付ける資料は皆無だった。

 ところが、談話発表の直前にソウルで行った韓国人元慰安婦からの聞き取り調査だけで強制連行があったと決めつけてしまった。安倍首相が「私たちの子孫にこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」として、談話見直し方針を打ち出したのは当然のことである。

 そこで加藤氏は「強制性」が裏付けられなかったことにフタをして、慰安婦問題を「人権問題」だと強調することで、「歴史を否定する新たな試み」「右翼民族主義者」と安倍首相を口汚く酷評したニューヨーク・タイムズ紙や、これを諸手を上げて評価する日本共産党など左翼勢力に、「安倍政権批判」「日本叩き」をたきつけているようなものである。

 加藤氏は官房長官時代、慰安婦問題への軍の関与に初めて言及する談話を出し、3日後、それを「手土産」に訪韓した宮沢首相は盧泰愚大統領に対して8回も謝罪、反省の言葉を述べた。こうした「贖罪外交」「土下座外交」が翌年の河野談話へと“発展”したわけで、「河野談話の生みの親」の加藤氏としては、同談話の見直しなんて、あってはならないことなのだろう。

 なお、ここ数日間、赤旗紙上での発言に関し、同僚記者を介して加藤氏からコメントをもらおうとしたが、時間切れで連絡がとれなかった。

 ■村山元首相と訪中へ

 自民党内で安倍首相と対極に位置する加藤氏は先の衆院選(山形3区)で落選の憂き目をみた。「時代の空気」を象徴する一つの動きなのかもしれないが、本人はなおも政界引退を表明していない。それどころか今月28~31日、あの村山富市元首相らとともに中国を訪問し、中日友好協会会長の唐家●(=王へんに旋)元国務委員ら要人と会談する予定だという。

 村山氏は首相時代の7年、「植民地支配と侵略」へのお詫びの気持ちを強調した「村山談話」をドサクサ紛れに出した御仁である。沖縄県の尖閣諸島問題で日中関係が緊張する中、議員バッジがない村山・加藤コンビがまさか、この期に及んで「贖罪外交」を繰り返すことはなかろうが…。

 政界から引退しながら、誰も頼んでいないのにノコノコと中国に飛び、「尖閣諸島は係争地」と放言した鳩山由紀夫元首相を、小野寺五典防衛相は「国賊」と指弾した。加藤氏の赤旗紙上での慰安婦問題をめぐる発言も国賊級だが、来る訪中で“余計”な言動をすれば、それこそ「国賊」となろう。(政治部編集委員 高木桂一)

*
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また「国賊」だと・・・!
筆者は「言論」人ではないのだろう。


ケンタウルス座の方向1300万光年の距離にある銀河 NGC 4945。我々の銀河系と同じ、渦巻型をした銀河・・・





学校教育が育てているのは産業戦士やグローバル企業の使い捨て人材ではない。これらの干渉には「ノー」と言おう。(内田樹)

佐賀新聞
「使い捨て人材育成にノーを」 内田氏講演

 ■内田樹(たつる)・神戸女学院大名誉教授 基調講演要旨(佐賀市の教育研究全国集会において)

 学校教育を考える上で、社会システムの変容は無視できない。国民国家システムが解体過程にある一方、グローバル資本主義が地球表面を覆っている。両者の摩擦が、学校教育にも影響を与えている。

 学校教育は国民国家の中で営まれ、国富を増やすことを目指してきた。これに対し、グローバル資本主義は「無国籍企業」といわれるように、いかに企業の収益を増やすかということが最大の目的で、特定の国家を利することはしない。私財は増やすが、国富を増やすことには関心がない。生産拠点を日本に限定する必要もない。

 グローバル資本主義は、時間のスパンが短い。ヒット商品を連発したアップル社が10年後にも存在しているかどうか、誰も言えない。企業は5~10年ぐらいの短いスパンで人材を求める。逆に学校教育は長い時間を見据える。ここに根本的な違いがある。

 学力の低い大学生が多く、質保証のため大学の数を減らした方がいいという議論が起こっている。大学を減らせば、確かに大学生の平均学力は上がるだろう。しかし、18歳の平均学力は間違いなく下がる。この問題は見方を変えると、企業は低学歴、低学力の労働者を欲しがっているということ。「国際競争力を高める」という主張のもと、人件費削減は社会的な合意事項になりつつある。

 企業がやっているのは個々人の自尊感情を崩壊させること。大量採用、大量離職の背景には、育てるのではなく、ふるいにかける企業姿勢がある。簡単には解雇はできないため、自己啓発、研修、能力開発など「指導」のもと、自己評価を下げさせる。そして自己都合退職に追いやる。

 学校現場にも、文部科学省を通じて、「日本のことは知らないよ」というスタンスで経済活動している大企業の要求がどんどん来ている。「社会が要求するならそれに合わせようか」と思ってしまうのが教師の悲しい“さが”。しかし、学校教育が育てているのは産業戦士やグローバル企業の使い捨て人材ではない。これらの干渉には「ノー」と言おう。学校教育は、何十年も続く人生の中で生きる知恵と力を育むこと。短期的な企業の雇用戦略に軽々に応じる必要はない。

 人間の基本的な振る舞いである「学び」は、その時々の経済や政治状況で変わるべきものではない。先人から受け取った贈り物としての「知恵」を後人に伝えるという、教える人の「エートス」はこれからも変わらないはずだ。

2013年01月27日更新



Bard ‏@BardMacbeth
安倍晋三総理には「愛国塾」を作って、彼の愛国心教育を思う存分実施されて、どれほどすばらしい愛国的若者が育つかを満天下に明らかにすればよろしい:教育について思うこと (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php …

6時間 Bard ‏@BardMacbeth
石原慎太郎閣下にはぜひ「体罰塾」を作って、物理的暴力と心理的恫喝がいかにすばらしい若者を育ててみせるか、それを世に問うて欲しい:教育について思うこと (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php …

6時間 Bard ‏@BardMacbeth
グローバル企業の経営者たちには、彼らの新人研修がどれくらいすばらしい若者を生み出しているか、離職者や鬱病罹患者や自殺者についてのデータも添えて全面公開して頂きたい:教育について思うこと (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php …

内田樹の研究室
教育について思うこと    ←  コチラ



内田樹 ‏@levinassien
根本の問題は「数値主義」「成果主義」「勝利(金儲け)第一主義」のために人間はどれほど使い捨てにしても構わない。長く使い伸ばしてゆくべき心身の資源を「この四半期」程度の短期間に「先食い」して「結果」を出して、あとは野となれでよいとしているイデオロギーそのものだと思います。


内田樹 ‏@levinassien
このイデオロギーを僕は「グローバル資本主義」と呼んでいます。子どもたちをそこから利益をもぎとる収奪の対象ではなく、こちらが身銭を切ってその成熟を支援する対象とするためには、「国民国家」という共同体幻想にもうしばらく生き延びてもらうしかないというのが僕の立場です。



中国河南省の警察関係者が公費で飲食している様子を新華社の記者が撮影し一時拘束される。記者はインターネット上にこれを暴露。 地元当局はこれを認め記者に謝罪。

47ニュース
中国、公費飲食撮影の記者を拘束 発覚後に謝罪

 【北京共同】中国河南省の警察関係者が公費で飲食している様子を国営通信、新華社の記者が撮影したところ、一時拘束されていたことが24日、分かった。記者がインターネット上に暴露し、中国メディアが取り上げた。発覚後、地元当局は公費だったことを認め、記者に謝罪した。

 報道によると、記者は19日夜、同省鄭州市のホテルで警察関係者とみられる団体の食事会を撮影。気付いた数人が駆け寄り、記者を詰問、携帯電話や記者証を奪い、記者を拘束した。

 酒に酔った十数人の男らが記者を罵倒したり小突いたりし、1時間半後に返却された携帯電話のメモリーカードからは写真が消去されていた。

2013/01/25 15:47   【共同通信】

木崎湖、波状態のまま凍りかけてますー。多分超レアな瞬間!!





昭和18年(1943)1月4日 「われはそも 何ゆゑに 聲さわがしく なかざるや うたがひと さげすみの この世を憂しと 知るゆゑに。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

北の丸公園 2013-01-24
*
昭和18年(1943)
1月1日
昭和十八年癸未正月起稿
                                荷風散人年六十五
正月一日。炭を惜しむがため正午になるを待ち起出で台所にて昆爐に火をおこす。焚付けは割箸の古きもの又は庭木の枯枝を用ゆ。曖き日に庭を歩み枯枝を拾ひ集むる事も仙人めきて興味なきに非らず。昆爐に炭火のおこるを待ち米一合とぎてかしぐなり。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐひのみなり。時には町にて買ひし茶漬澤庵漬を食ふこともあり。されど水にて洗ふがいかにも辛(つら)し。兎角して飯くひ終れば午後二時となり、室内を掃除して顔洗ふ時はいつか三時を過ぎ、煙草など呑みゐる中日は傾きで忽ち暗くなるなり。是去年十二月以後の生活。唯生きて居るといふのみなり。正月三ケ日は金兵衛の店も休みなれば今日は配給の餅をやきて夕飯の代りとなせり。夜七時頃菅原明朗永井智子相携へて來り話す。淺草苔を貰ふ。

   町の噂
一 銀座尾張町西側の老舗二軒、その一は足袋屋、其一は大黒屋といふ盬物屋、いづれも去年十一月頃に店を閉したり。大黒屋は薬舗丸八と同じく銀座の大地主にて當代の主人は一時役者のやうな身なりをなしダイヤモンドの指環三四ツもはめ、純金の杖を携へ歩きし程なる気ざな男なりと云ふ。
一 去年横濱港桟橋へ横づけにせし獨逸軍艦二艘は支那人の仕掛たる爆弾のため破壊せられ獨逸より送り來りし軍用機械も亦破壊せられし由。
一 淺草公園の道化役者清水金一公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。猶又ヱノケン緑波などいふ道化役者の見物を笑せる芝居は不面目なれば藝風を改むべき由其筋より命令ありしと云。
*
1月2日
正月二日。晴れて風なし。門を出でず。馬琴の羇旅漫録をよむ。編輯者の誌に曰く、
翁 馬琴 は會田氏を娶りて一男三女ありき。長女名はさき此時 享和二年戌年八月 九才。男鎮五郎後に名を興繼宗伯と称す。五歳。季女くわ。三才。季女は即ち幹等が生母なり。
(以下略)
*
1月3日
正月三日。晴れて風静なれど寒忍びかたし。終日家に在りフロオペルが若き頃の作十一月Novembreをよむ。童貞の苦悩より初て娼婦に狎れたる事など書き綴りしものなり。文章の絢爛さながら錦繍のごとし。マダムボワリイの如き大成後の作品、その文章の平坦清楚なるは蓋し此くの如き絢爛より出で來りしものたる事を知る。此日日曜日。〔以下朱書〕気温室内華氏四十五度摂氏六七度
*
1月4日
正月四日。昨日に比して寒気稍ゆるやかなり。三ケ日の間一足も外に出でざりし故、三時過地下鉄にて淺草に至り見るに、群集の雑沓すること今年は更に甚しく去年の比にあらず。雷門より東武駅の内外真に立錐の餘地もなし。仲店も人波に押返されて歩み難ければ観音堂にも詣ることを得ず、又玉の井にも行くよしなければ、上野行の市電に乗る。市電はいづこも思の外に雑沓せず。広小路の夜店を見歩き新橋を過ぎてかへる。

  〇犬の聲
 ふけわたる 闇の夜に
  さびしさゆゑか
      吠る犬。
 消ゑかゝる ともし火に
  われ唯ひとり
      すゝり泣く。
 犬なけば かなたより
  その友聞きて
      こたふるに。
 われはそも 何ゆゑに
  聲さわがしく
      なかざるや
 うたがひと さげすみの
  この世を憂しと
      知るゆゑに。
              昨夜つくりし未是(ママ)草なり
*
*
昭和18年正月
この年、荷風は数えで65歳、満年齢でゆくと63歳。

正月は新橋(芝口)の金兵衛もお休みなので外食もできず。
また寒くても、炭の節約のために布団に入ったままで過ごすことが多いようである。

4日になってようやく外出したが、どこへ入っても混雑の模様で、玉の井にも寄らずに帰宅した。
「犬の聲」には独身の侘しさと軍政下の閉塞感が漂っている。





フランスが軍事介入した西アフリカのマリの情勢を、米「アトランティック」誌の写真ブログが伝えています。




The Conflict in Mali ← コチラ

見事な十五夜の月が昇りました。冬空から清らかな月光が降り注いでいます。





2013年1月26日土曜日

北の丸公園のスイセン 「美しき素足の冬の来りけり ちらほらと咲く水仙の花」(与謝野晶子)

美しき素足の冬の来りけり ちらほらと咲く水仙の花  与謝野晶子

北の丸公園 清水門前 2013-01-25

上田城、雪のケヤキ並木道~2013.1.14




寛仁元年(1017)10月~12月 小一条院の妃、女御藤原延子の悲劇 「すぎにける年月何を思ひけん 今しも物のなげかしきかな」

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-24
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寛仁元年(1017)
10月16日
・皇太后宮に参上した大殿道長が摂政頼通や大納言斉信と共に新造内裏への遷宮延期を定めている(『左程記』)。
皇太后彰子は幼い後一条天皇の代理を行っているが、母后は摂政よりさらに近い立場で天皇の代理を務めている。
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11月
・この月、伊勢の百姓が上京し、摂政頼通の退出を路頭に群がって待ち受け、守藤原孝忠の重任を申請した。
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・東宮の地位を退いた敦明親王は小一条院の称号をうけ、待遇も厚遇をうけたが、ここから小一条院の妃、女御藤原延子の悲劇が始まる。
延子は左大臣顕光の娘で、その堀河邸に敦明親王を迎えていた。
道長は、小一条院の優遇に乗り出し、かつての噂通り、娘の寛子を小一条院と結婚させることにした。

10月8日、小一条院は、結婚式の為に、方角を考えて堀河邸を出て一条の僧侶の邸に移った。
11月22日、道長の娘寛子(19歳)の住む高松邸において、小一条院の婿入りの式が挙げられた。
寛子は、容姿うるわしく、精選された女房を従え、善美をつくして院を迎えた。
道長の配慮も深く、院の食事は自ら指図して世話し、運んだという。

こうなっては、小一条院の足は高松邸にとどまり、堀河邸の延子のもとには戻ってこない。
延子は湯水も喉を通らぬばかりに嘆き悲しんだ。
父顕光(74歳)も悶々の日を送った。
何も知らない王子敦貞王(4歳)が、力なく伏している顕光を馬にして、扇で打って戯れるのを見た延子は、目も眩むここちで打ち伏したという。
顕光はますます廷臣の嘲笑を浴び、逆上して延子の髪を切って庭に出て、御幣をささげて呪岨を行なった。

悲嘆に明け暮れた延子の歌は、『栄花物語』や『勅撰集』に幾つか収められている。
すぎにける年月何を思ひけん 今しも物のなげかしきかな
千歳経ん程をば知らず来ぬ人を 待つはなほこそ久しかりけれ

1年半後、寛仁3年(1019)4月10日夜、堀河女御延子は歿した。死因は『小右記』に「心労」と記されている。
報を受けてさすがに小一条院は堀河邸に急いだが間に合わなかった。
院は諸事を指示して再び高松邸に帰り、残された王子たちは外祖父顕光のもとで育てられる。
顕光に対して人々の同情は薄かったが、延子の悲しみは世人も察した。
この前後、道長が病気になったり、寛子が悩んだりしたとき、それらは延子の呪阻や亡霊の仕業と噂された。
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11月25日
・天皇の賀茂社行幸。
まず11月9日、伊勢の大神宮以下の7社に奉幣使が立てらる。
翌10日、石清水八幡以下の10社と、7大寺・延暦寺で仁王経の転読が行なわれる。
11日、行幸の日取りが内定通り25日と決定される。
22日、試楽(しがく、舞楽の予行演習)と召仰(めしおおせ、衛府に行幸の警固を命ずる式)が行なわれる。
そして25日。上卿を命ぜられている実資は早朝参内して準備を整え、吉時の巳の二刻(午前9時半)に天皇は紫宸殿に出て、母の皇太后彰子と共に葱花輦(そうかれん)に乗り、西門を出て正午ごろ、行列は賀茂下社に到着した。
そこで昼食後、御拝があり、神官に叙位の命が下り、上卿実資は神前に進み、宣命を読み上げた。つづいて幣帛(へいはく)・神宝の奉献があり、神馬を牽き、神楽・舞楽などが行なわれる。
こうして下社の儀は終わり、日暮に行列は動き出して上社に向かい、上社でもまったく同様の儀式が行なわれて無事還御となる。万事を終えて実資が内裏を退出したのは丑の一刻(午前1時)であった。
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12月4日
・前摂政道長が太政大臣となる
(翌年正月に後一条天皇が元服するので、その儀式の加冠役を太政大臣が務める慣例となっていたから)。
翌年2月9日、辞任、前太政大臣となる。

「母后令旨」によって道長を太政大臣に任じた。
『小右記』によると、誰を道長のもとに俺として遣わしたらいいだろうかという質問が実資のもとに届いている(寛仁元年11月21日)。
実資は頼通自身が行くことを提案し、『御堂関白記』には11月27日、摂政頼通が道長第に赴き、道長を太政大臣に任じるという「皇太后御消息」を伝えている。
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大阪市の天王寺動物園、市外の小中学生は有料に。 「大阪市以外の子供を面倒みる必要ない」(橋下)

MSN産経
「市税で大阪市以外の子供を面倒みる必要ない」 天王寺動物園の入園料で橋下市長
2013.1.26 13:27

 大阪市は26日、中学生以下は無料にしている市立天王寺動物園(天王寺区)の入園料について、市外の小学生・中学生は4月から200円の入園料を取る方針を決めた。同動物園の年間経費の約7割が市税でまかなわれており、橋下徹市長は「市税で周辺市町村の子供の分まで面倒をみる必要はない」と述べた。

 担当部局が同日、予算ヒアリングで有料化案を提示。「収入を上げることはもちろんだが、負担の公平性を考えた」と説明し、市長は「周辺の市町村で無料を希望するところには分担金を出してもらったらいい」と了承した。これにより、年間2000万円の収入増になるという。

 一方、昨年5月に構想を発表していたホッキョクグマなどの生態をダイナミックに観察できる「極地海洋ゾーン」の整備は市長の指示で凍結された。市長は「大胆な戦略の前に、基本的なサービスがなっていない」と述べ、サービス向上に取り組むよう求めた。



日刊スポーツ
橋下市長「周辺の子供面倒見る必要ない」

 大阪市は26日、中学生以下は無料にしている市立天王寺動物園の入園料について、大阪市外に住む小中学生は有料にする方針を明らかにした。橋下徹市長は「大阪市が市民税で周辺市町村の子供の分まで面倒を見る必要はない」と述べ、4月から大人料金500円の半額に近い200円を徴収する。

 同日の2013年度予算に関するヒアリングで市長が了承した。これにより年間2000万円の収入増になるという。

 大阪市民の税金で運営する施設を市外の人が利用する場合は、応分の負担を求めるというのが橋下市長の持論。天王寺動物園は経費の約7割を市税で運営している。

 同じく自治体が運営する近隣の京都市動物園や神戸市立王子動物園は、いずれも市内居住者に限らず中学生以下は一律無料となっている。(共同)

 [2013年1月26日12時49分]



Bard ‏@BardMacbeth
橋下市長「周辺の子供面倒見る必要ない」 大阪のケチくささまたも際だつ:同じく自治体が運営する近隣の京都市動物園や神戸市立王子動物園は、いずれも市内居住者に限らず中学生以下は一律無料となっている。(http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130126-1076928.html … @nikkansportscomさんから


大阪市民、とっても恥ずかしいやろナ



台湾、日本時代の建物が残る基隆の街(一周さんツイッター)
















































昭和17年(1942)11月3日~10日 第1回大東亜文学者大会。岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会(「自由主義者最後の晩餐会」)。 

江戸城(皇居)乾門脇の公園 2013-01-24
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昭和17年(1942)
11月3日
・第1回大東亜文学者大会(東京ー大阪)。
日本131人、満洲6人、蒙疆2人、中国12人参加。小林秀雄(40)参加、評議員に。
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11月3日
・岩波茂雄回顧30年感謝晩餐会。
大東亜会館(東京会館)、出版関係者など500人参集。
「自由主義者最後の晩餐会」。
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11月3日
・厚生省、優良多子家庭を表彰
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11月3日
・米中間選挙。議会では下院で民主党218議席、共和党208議席、他4議席、上院で民主党58議席、共和党37議席、他1議席。
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11月4日
・文部省国語審議会の標準漢字表答申問題で、反響があったことから義務教育で修得させる漢字標準案2669字が閣議で決定
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11月4日
・エル・アラメインのドイツ軍戦線突破され、敗走始まる
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11月4日
・チャーチル、対潜作戦を調整
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11月5日
・宋子文国民政府外交部長、中国は琉球諸島・満州・台湾の返還を期待していると声明。
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11月5日
・夜、ガダルカナル、伊東少将指揮歩兵第228連隊主力が、駆逐艦15隻でタサファロング上陸。直ちに、海岸沿いにコカンボナに前進。これにより、海岸方面の戦況は危機を脱す。
7日夜、中熊歩兵第4連隊長、敵砲弾のため戦死、第2大隊長田村少佐が連隊指揮。

(別の記述では・・・)
・第38師団主力、相次ぐ日米艦隊の海戦と空襲の問をぬってガダルカナル島に到着。輸送船11隻に分乗して出発した増援部隊であるが、島に辿りついたのは4隻・兵2千。
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11月5日
・23代首相の清浦奎吾(92)、没。
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11月5日
・イギリス、『レパード(豹)』作戦(アルジェリアの海岸への銃器類の揚陸とレジスタンスへの引渡し作戦) 
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11月5日
・ユーゴスラヴィア、チトー率いるパルチザン、ビハチ解放
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11月5日
・マダガスカルのヴィシー軍、降伏
(5月、島北端にイギリス軍3万が上陸。日本軍特殊潜航艇攻撃で巡洋艦1・タンカー1が撃沈。9月、イギリス軍増援軍、島東岸・西岸に上陸)。
6日、自由フランス軍ル・ジャンティヨム将軍がマダガスカル自由フランス高等弁務官就任、承認。
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11月6日
・各雑誌11月号に対する平櫛少佐の批判。

「改造-そうじて生硬さのみあって、感情に訴える生彩に乏し。十月号の失敗(細川嘉六筆禍事件)よりの転向の誠はやや認むるも、当面国家が要請せる重大課題については、依然冷やかなりと 現代-大体において樫の木の硬さのみを狙って柳の木の柔軟に乏し。ただし、座談会「現代思想の批判」(斎藤晌、佐藤通次ら出席)は、はなはだ興味あり、とくに西田哲学を批判し、その哲学がもっぱら個人の安心立命を説いて「武」の哲学的裏づけを欠如せるを指摘せることなど、現下傾聴に値すと 公論-「尊王攘夷」の大特集を断行せるは、在来の総合雑誌の型を打破した企画にて、大いにわれらを感激せしむるものであって、敬服せりと 中央公論-丹羽文雄の小説「海戦」は枚数長きに失せざるや、海戦に従軍する前後から起筆せるなどかえって蛇足なり。一回か二回の従軍にて、このように諸所に書きなぐるは作家としての節操に乏し、この点編集者も熟慮すべきである、と 日本評論-この雑誌の小説欄編集は、いま少し考えてもらいたしと。里見弴、正宗白鳥の小説について、すでにたびたび注意せしところなるにかかわらず、いまだに同じ傾向に偏していないか。今月号岡本一平の「再婚記」など全く個人的問題に執着せるものにて、戦時下はなはだ面白からずと」
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11月7日
・連絡会議、新「世界情勢判断」決定
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11月7日
・北ボルネオ、クチンのサラワク・クラブにおいて前田大将、臼井少佐、阿野陸軍技師(陣没後進級)の現地軍の葬儀が行われ、南方軍総司令官寺内寿一大将、山脇軍司令官、徳野クチン州長官ほか軍及び州庁関係者、在留邦人、現地住民2千が参列。
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11月7日
・中野重治、警視庁に提出すべき手記を書き終わる。
10日、警視庁に行き、片岡警部に99枚渡す。
更に、出獄以来の「著書ならびに発表原稿の発表場所、年月日、内容、そのイデオロギー等の記録を提出せよと」要求され、「ガッカリしてかえる」と日記に。
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11月7日
・英米のラジオ放送、終日「ロバートが到着」を繰返す。翌日の上陸作戦の合図
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11月7日
・ドイツ、福音派ルター教会牧師カール・フリードリヒ・シュテルブリンク、ゲシュタポに逮捕される。
共犯者としてカトリック助任司祭3人、協力して非合法活動した青年・兵士逮捕。
/43/6、死刑宣告。/43/11/10、聖職者4人、ハンブルクで執行
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11月8日
・第16軍司令官今村均中将、第8方面軍司令官親補電受ける。
11日、今村中将、シンガポール着。
16日、日本軍第8方面軍(今村均中将)新設。ソロモン方面の17軍、ニューギニア方面の18軍(安達二十三中将)統括。大本営戦闘序列下命。
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11月8日
・アイゼンハワー指揮米英連合軍、北アフリカ、モロッコ、アルジェリア上陸およびチュニジア侵攻作戦(「トーチ(たいまつ)」作戦)開始。
ヴィシー政府を承認しているルーズベルト米大統領はペタン元帥に親書「アメリカは他国に対し何の領土的野心も抱いていない」(ヴィシーとは対決姿勢をとらない方針)。
9日、アンリ・ジロー大将(1940年ドイツ軍捕虜となり脱走、ヴィシーに匿われていた)、現地のヴィシー高官達を説得するため担がれて北西アフリカに到着。ヴィシー高官達は彼を無視。
10日、ヴィシーの陸海空軍総司令官ダルラン提督(この時偶然アルジェリアにいた)がアメリカ軍の説得に応じ、現地フランス軍は米軍と合同して対独戦を実行すると明言。
現地ヴィシー軍はダルランの停戦命令に従い北西アフリカの戦闘終息。
米英軍・ヴィシー軍ともに戦死者夫々約700。米英軍艦船損害32隻沈没、ヴィシーのカサブランカ艦隊はほぼ壊滅。

「トーチ」作戦終了後の首脳会談により、ダルランはフランス領アフリカ総督並びにアフリカにおけるフランス軍総司令官、ジローはその地上軍及び空軍司令官に就任。
本国のペタン元帥はダルラン罷免を発表(ダルランの停戦受諾の裏にはペタンの意向が働いていたとの説?)。

ダルランは、本国ツーロン港のフランス地中海艦隊約100隻に対し至急合流する命令。ツーロン港のド・ラボルデ提督はこれを拒否(接収に来たドイツ軍もはねつけ)、指揮下艦隊を自沈させる。
ド・ゴールは「不毛な自殺」と言い捨てる。
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11月8日
・ヒトラー、スターリングラードをほぼ占領と演説。
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11月9日
・ドイツ軍、チュニジアに空挺部隊を投入
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11月9日
・フランスのヴィシー政権、対米国交断絶。
この日~11日、ヴィシーの閣僚ラヴァル、ヒトラーとベルヒデスガーデンで会談。
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11月10日
・夜10時、ガダルカナル、第38師団(佐野中将)主力(戦闘司令所と歩229連隊)、ガダルカナル上陸。
11日午前5時、903高地西麓の第17軍戦闘司令所着。
第17軍司令官は、第38師団長のマタニカウ川以西の敵撃滅を命令。
第38師団長は、この任務に基づく攻撃準備を伊東支隊に命じ、傍ら、アウステン山の歩兵第124連隊(岡部隊)を師団直轄とする。
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11月10日
・井上成美、第40代海軍兵学校長として江田島に着任(←第4艦隊司令官より)。 
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安倍首相に尋ねたい。もし東京都内の全首長、都民の9割が反対する政策があったとしたら、異論をはねのけ強行できるだろうか。(琉球新報)

琉球新報 社説 
基地負担押し付け 国の根っこを腐らすな
2013年1月24日              
 ささやかながらも安心で安全な日常生活を切に願う―。オスプレイの配備撤回を求める22日の那覇市民大会の決議は、こう結んだ。
 最大公約数にして最小限の県民の願いも詰まっている。安倍晋三首相とオバマ米大統領の心に、市民、県民の思いは届いただろうか。
 県内41市町村の全首長がオスプレイ配備に反対し、全市町村議会が反対決議を行っている。県民世論調査では回答者の約9割が配備に反対だ。県民は墜落事故が後を絶たないオスプレイを、自らの生命と財産への脅威とみている。
 昨年末には森本敏防衛相が退任に際し、米軍普天間飛行場の県内移設の軍事的合理性を否定した。
 安倍首相に尋ねたい。もし東京都内の全首長、都民の9割が反対する政策があったとしたら、異論をはねのけ強行できるだろうか。
 大会決議は、国土の0・6%しかない沖縄に在日米軍専用施設の74%を押し付ける不公平な扱いを、沖縄に対する「差別・いじめ」と表現した。オスプレイ配備後、日米合意の安全対策を守らない米軍の行為を「占領意識、植民地意識でしかない」とも指摘した。
 さらなる基地押し付けで、県民の理解を得るのは無理だ。政府・与党こそ、自らの良心に照らし沖縄の苦難を理解すべきではないか。
 沖縄保守のリーダーで、日米安保を容認する翁長雄志那覇市長は「沖縄に基地負担を押し付けて日本は高度経済成長を謳歌(おうか)した。今後も沖縄に押し付けて日本の発展を考えるのは理不尽だ」と述べた。
 沖縄以外の46都道府県の知事、国民に尋ねたい。沖縄県民は同胞なのか否か。沖縄の過重負担を「対岸の火事」とみるのではなく、自らの問題として悩み、沖縄の民意に沿った基地問題の解決策を共に考えるべきではないのか。
 選挙、議会決議、世論調査などの民主的手続きに裏打ちされた県民要求を無視する政府とは、政治とは何なのか。この国は、根腐れを起こしつつあるのではないか。
 沖縄の異議申し立ては過重負担の事実に根差した「反基地」だが、決して「反米」ではない。両政府はその点を読み違えてはならない。
 県民は戦後68年間、米軍支配に苦しんでいる。そろそろ県内移設によらない普天間問題の解決策で、政治の大局観を示す時だ。これぐらいのことができないのならば、日米は真の友人とは言えまい。










豪州ポートキャンベル国立公園の「十二使徒」は海岸に並ぶ石灰岩の海食柱。天候や時刻による景観の変化を示す4枚。








放射能汚染 成田市の直売所で販売されていた干しシイタケから基準値超セシウム。一部は消費済み。

千葉日報
干しシイタケ基準超 一部消費、出荷自粛要請 放射性物質検査 成田市
2013年01月25日 11:03

 県は24日、成田市の直売所で販売されていた干しシイタケの放射性物質検査を厚労省が実施した結果、1キログラム当たり370ベクレルの放射性セシウムを検出し、国の基準値(同100ベクレル)を超えたと発表した。一部はすでに消費されたという。県は成田市に対し、干しシイタケの安全性などが確認されるまで、同市産の干しシイタケ、露地栽培と施設栽培の原木シイタケの出荷自粛を要請した。

 県によると、問題の干しシイタケは、同市内の生産者が20日、16袋(約1・3キログラム)を直売所に持ち込み、翌21日までに3人が8袋(約640グラム)を購入。23日に同省の検査結果が判明して県が直売所に回収を指示したが、一部はすでに消費されたという。

 生産者は、2011年9月ごろにシイタケ栽培をやめたが、保管していた原木から出たシイタケを加工。県は、原木の放射性物質検査で指標(同50ベクレル)を超えたものを入れ替えているが、栽培をやめていたため検査対象外だった。

東京都の高校日本史副読本、関東大震災時の朝鮮人「虐殺」を「朝鮮人の尊い命が奪われました」に変更。 









LIVEDOORニュース
東京都、歴史教科書から「関東大震災朝鮮人虐殺」表記削除
朝鮮日報2013年01月26日08時32分

 東京都教育委員会が独自発行する高校日本史教科書(副読本)「江戸から東京へ」で、関東大震災時に朝鮮人が虐殺されたという表現をなくすことになった、と朝日新聞が25日、報じた。この教科書には「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」に関する記述として「(1923年の)大震災の混乱のなかで数多くの朝鮮人が虐殺された」と記述されていた。しかし、2013年度版では「碑には、大震災の混乱のなかで、『朝鮮人の尊い命が奪われました』と記されている」としている。

 東京都教育委員会は「いろいろな説があり、殺害方法がすべて虐殺と我々には判断できない」と、「誤解を招く表現」に該当するとして変更するという。だが、朝日新聞は「国の中央防災会議は08年、関東大震災の報告書で、流言による殺傷事件の対象は朝鮮人が最も多かったとし、『虐殺という表現が妥当する例が多かった』と認定している」と報じている。1923年9月1日の関東大地震(マグニチュード7.9)後、「朝鮮人が武装蜂起した」「井戸に毒を入れた」などのデマが広まり、興奮した日本人たちが在日朝鮮人数千人を虐殺したと言われている。また、東京都教育委員会はこの教科書で、日本は竹島(独島の日本での名称)に対する領有権を17世紀から確立しており、1905年の閣議決定で領有権の意思を再確認したという内容も追加することにしたという。




連合の「政治方針」案、「憲法改正を俎上に載せることは時期尚早」との表現を削除

YAHOOニュース
憲法改正「時期尚早」を削除=政治方針案―連合
時事通信 1月24日(木)23時19分配信

 連合は24日、今秋に見直す予定の「政治方針」の素案から、現行の「憲法改正を俎上(そじょう)に載せることは時期尚早」との表現を削除したことを明らかにした。古賀伸明会長は記者会見で「改正を否定することはしない」と述べた。 

最終更新:1月24日(木)23時19分

アヌーナが歌う「ダニー・ボーイ」(Youtube)




今まで聞いたなかでは一番「美しい」ダニー・ボーイ
(いっとき凝って、MP3音源で20種くらい持ってたことがある)