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2016年1月28日木曜日

昭和18年(1943)12月20日~31日 南方軍(寺内総軍司令官)、インパール策戦を決裁、大本営に意見具申 泰緬鉄道完成 米軍、ニューブリテン島西端ツルブ(グロセスター)岬上陸 「今度の戦争で、日本人は、少しは利口になるだろうか。非常な疑問である。教育を根本的に変えなければ。」 「日本的な政策では、他民族などは決して治めることができないという実物教育を日本人に認識させない前に、もし戦争が終るようなことがあれば、それはかえって日本国民にとって不幸である。」(『暗黒日記』) 「今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり。・・・今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。 ・・・(『断腸亭日乗』) 

皇居東御苑 2016-01-19
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昭和18年(1943)
12月20日
・スペインのファランヘ党、解散。
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12月20日
・ボリビア、MNR、陸軍将校急進派とクーデタ、ビリャロエル政権を擁立。
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12月20日
・イギリス、イーデンとポーランド亡命政府首相ミコワイチック会談。ソ連との軍事的協力説得。
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12月20日
・ソ連の作家・文芸学者トイニャノフ、没。
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12月21日
・訪独潜水艦「イ8潜」、帰着。
6月1日、日本発。8月31日ブレスト着、10月6日ブレスト発。訪独潜水艦は計5回有るも、帰着はこの1回のみ。
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12月21日
・大阪商船「湖南丸」、口永良部島沖で雷撃を受け沈没。護衛の「柏丸」も救助中に雷撃され沈没、648人死亡。
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12月21日
・「教育に関する戦時非常措置に基く学校整備要項」、高校、大学、高専の入営延期は取り止め、文科入学定員は3分の1に削減、入学制限を図る。
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12月21日
・都市疎開実施要綱、決定。
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12月21日
・ドイツ、ゲッペルス提案「空襲被害査察部」設置認可。
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12月22日
・興亜義塾卒業生 西川一三・木村肥佐生が西蔵踏破の旅に出発
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12月22日
・~26日、メイミョウで参謀長会同、その後、インパール作戦兵棋演習。
ビルマ方面軍中参謀長、南方軍綾部総参謀副長、賛成。
南方軍は作戦実施を決意、寺内総軍司令官は計画を決裁し、大本営に正式に意見具申書を提出、認可促進のため綾部副長(半年前は計画禁止を南方軍に伝えた本人)を東京に派遣。
南方総軍から稲田副長が去ると、インパール作戦を抑制する者がいなくなり、寺内総軍司令官も早くやれと言い出し、片倉高級参謀も作戦賛成に急変。
インパール作戦の総仕上げの為の兵棋演習には、方面軍からは中参謀長と不破博作戦主任参謀が、総軍からは綾部副長、山田作戦主任参謀、今岡兵站主任参謀が列席。
演皆は第15軍の構想のまま行われ、内容はそれまでの牟田口計画と変更ないが、結果は牟田口の予想通り。
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12月22日
・「十二月二十二日(水)
小汀は日米戦争は、いい加減なところで妥協するといっている。この事情通を以てして、その程度の楽観だ。意は、ギルバート海戦において敵に打撃を加えたから、それでへトへトになるというのである。かれは東京の空襲すらも疑問に思っているのである。」(清沢『暗黒日記』)
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12月23日
・連合軍機、インド方面からバンコク初空襲
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12月24日
・~27日、作戦課長服部卓四郎大佐統裁のもと、陸軍省・軍令部からも参加を求め、「虎号兵棋」。杉山参謀総長も列席。
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・「十二月二十四日(金)
小汀君の話し - ローズヴェルトに対し支那は賄賂を二百何十万ドルとかやった。日本はやらなかった。それがかれが反日的な理由だと。かくの如き程度だ、常識は。
二六会に出席。鈴木文史朗君は我国の食糧は、この程度が底をついたのだろうという。また料理屋で切符を持たず食えることが、まだ豊富な証拠だという。また戦争も、うまくいくだろうという。
鈴木といい、小汀といい、政府関係者と会談の機会の多いものは、非常に楽観的だ。
考える機会がないからでもあろう。活動家の周囲には思想家の顧問が要る一つの例だ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月24日
・徴兵適齢臨時特例が公布施行、徴兵適齢1年引下げ、19歳
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12月24日
・アイゼンハワー、連合軍最高司令官に任命
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12月24日
・抵抗組織スロバキア国民評議会発足。
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12月24日
・インド、ムスリム連盟第31回大会
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12月24日
・ソ連軍、ウクライナで反撃再開
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12月24日
・アメリカ第8、9空軍とイギリス爆撃軍団、V兵器を目標とした[クロスボー作戦」開始(-翌年夏)
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12月25日
・泰緬鉄道完成
バンコク西ノンブラドック~モールメン南方タンビザヤ425キロ、第2鉄道監理部(高崎祐政少将)、第5鉄道連隊(鎌田銓一少将)、第9鉄道連隊(今井周大佐)、完成迄捕虜10,562、労務者3万死亡
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12月25日
・小森支隊(小森政光大佐)、ニューブリテン島マーカス岬上陸連合軍を攻撃、失敗
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12月25日
・陸軍36師団一部、ビアク島(ニューギニア戦線)上陸
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12月25日
・北岬海戦。英海軍、「シャルンホルスト」を撃沈。
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12月26日
・ウィリアム・ルバータス少将第1海兵師団、ニューブリテン島西端ツルブ(グロセスター)岬上陸。12月に入り、激しい空襲。
米軍上陸の報に、第17師団長は松田支隊(第65旅団基幹)に独力で敵撃破を命じる。敵上陸地点の一つのナタモに派遣された歩兵第53連隊第2大隊の実動兵力は約600。
第2大隊長高部真一少佐の戦後の回想。「連隊は対米戦闘を知らず、支那戦線で敵を撃破してきたのと同じ調子で、命令は勇壮で自信に満ちたものだった。しかし攻撃前進に移ると、ジャングルの中なので一列縦隊となり、やがて激しい銃声が聞え、次いで負傷者が続々と後退してきた」

ツルプ地区の糧株保有量は、12月未迄。米軍上陸で、海上か喝の補給は完全に遮断。
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12月26日
・「十二月二十六日(日)
九地方長官(いわゆる「大知事」)が『毎日新聞』の座談会で統制と価格の無茶ぶりを攻撃し、農商省を攻撃している。役人の役人攻撃で、その点偉観である。
馬場恒吾君の話し - 千葉県で、ある妻君が五升の米の故に巡査に虐められた。そこで夫が怒ってその巡査を殺害した事件がある。それを枢密院で南弘が発表したところが東条首相は知っていたそうである。」(清沢『暗黒日記』)
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12月26日
・ソ連軍、キエフ突出部において攻勢
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12月27日
・仏国民解放委員会とシリア・レバノン間に協定成立
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12月27日
・ドイツの封鎖突破船「アルスターウーファー」をめぐるビスケー湾の海戦、ドイツ敗北(43/12/27-28)
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12月28日
・大本営、大陸打通の検討開始の旨、支那総軍に内連絡
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12月28日
・黒木博司中尉と仁科関夫少尉、海軍省軍務局第一課員吉松田守中佐に、人間魚雷採用を要請*
12月28日
・「十二月二十八日(火)
「日本外交史研究会」の設立趣意書を書く。けだし年来の希望を出現し、かねて生活的にも備えんとするもの。
『東京日々新聞』の本日夕刊上海特電に「強烈な抗日敵愾心」とで、支那人が日本に執拗に反対する事実を書いている。
他の支那特電は総て、支那の民衆が日本になついてきていることを言っている。しかるにこの特電〔『毎日新聞』二十八日、夕刊〕だけは、通庸しながら事実を報道している。もとより軍の検閲と諒解のあるものである。最後の「敵戦力の徹底的撃砕あるのみ」は、従来通りの結論だ。反省はない。
同じ日の『朝日』では、支那青年団が上海のダンス・ホールなどを襲い、諸物や現金を押収して、それを大道で焼いたことを書いている。むろん、これは日本官憲のインスチゲーションによるものだ。こうした事が排日の原因になるということが、どんなに長く支那におっても分らないのである。
今度の戦争で、日本人は、少しは利口になるだろうか。非常な疑問である。教育を根本的に変えなければ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月28日
・ソ連軍は戦線各地で急進、ポロック・ヴィテブスク鉄道を遮断
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12月28日
・第8軍、オルトーナ占領
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12月29日
・台湾食糧管理令、同農業会令公布
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12月29日
・ダンピール海峡周辺の攻防戦、持久戦状態から日本軍後退へ
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12月29日
・「十二月二十九日 (水)
外交年表のことを東洋経済の倉沢〔修之、業務局長〕氏に話し、日米関係史のことを、清野〔通之〕君に話す。何とかして出すことに馬力をかく。
また日本外交研究所の原稿を東経に托す。
徳富蘇峰の『国民史』の第一巻で維新の功臣に岩倉と大久保をあげ、また第二巻の序で薩長と幕府が、いずれも、英、仏と提携せることを述ぶ。(慶喜の詔勅に反したのは仏国の後押しによるといった『中央公論』(十二月号)の座談会を否定す)。」(清沢『暗黒日記』)
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12月29日
・仏、フランス国内軍創設
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12月30日
・英、ポーランド亡命政府、軍事計画書をイーデンに提出、連合軍の戦略と一致した総蜂起指令、ソ連と話し合いを始める用意あり
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12月30日
・「十二月三十日(木)
今朝の『毎日新聞』の社説に「赤化する北阿」とあり。北阿にユダヤ人勢力が浸潤することを述べ結論に、

・・・一報によれば、アルジェリー、モロッコおよびチュニジヤを打って一丸とし、そこにソ連の保護下に「北阿ソヴィエト共和国」を建設しようとのソ連系の案は非常な勢いを以て進められているという。
この案と、前述のユダヤ人を指導者とする黒人国建設案との関係如何を問題とする向きがあるかと思われるが、両者共にユダヤ民族によって牛耳られるものである以上如何ようにも始末はつけられるものと見てよいのである。それどころではない。一体北阿を舞台とする米英系の資本主義とソ連系の共産主義の対立はどうなるかとの疑問さえも成立しないのだ。両者を支配するものは、これまたユダヤ民族なのである。資本主義と共産主義は両極ではない。水と火ではない、ユダヤ民族活動の両翼をなすものなのである。ここが分らなければ米英の名において描かれる世界制覇の筋書も背景も分るはずはない。[『毎日新聞』「社説」十二月三十日。傍線は清沢、以下同様]

とある。資本主義と共産主義はユダヤ人活動の両翼をなすものである! これが『毎日新聞』 - 日本二大新聞の一つの社説である。日本人のメンタリチーの低劣を示す。しかもかれの知ったかぶりを見よ。
外交は自国民に確信がなくてはできぬ。「ソ連の動力の伸びるところ必ず赤化あり」(前掲社説)というのでは、ソ連との外交はできぬ。また英、米をユダヤ人と見たのではこれとは永遠に交渉はできぬ。英国の外交が何故いいかといえば、自国民は赤化などはしないと確信するからだ。
考え方が違っても愛国者であり得、また意見が相違しても団結することができる。そう我国の「愛国者」は考うることができぬ。
日本的な政策では、他民族などは決して治めることができないという実物教育を日本人に認識させない前に、もし戦争が終るようなことがあれば、それはかえって日本国民にとって不幸である。
英帝国は経済的、政治的には駄目になる。しかしシーレーの「新植民政策的」には依然として大国をなす。
シーレーの著書の如きは、その後世を導くこと大。(英帝国は政治体制が崩れても、道徳的に一致する準備ができていた。今度の戦争下における英帝国の一体化はこれを証明する。)
産業の国営ということは責任の所在がなくなるということである。
いわゆる強硬外交は成功する。それが一定のところで止まればだ。
日本が満州事変で、イタリーがエチオピアで、ドイツがミュンヘン会議で止まればそれは成功する。イタリーのエチオピア戦では連合国は失敗を認め、中立諸国(第一次大戦の)は経済封鎖終止を公式に宣言した(一九三六年六月二十五日)。問題は、そうした諸国はそこで止まれるかどうかである。
満州事変以来、特に一九三六年前後は対支外交は経済問題まで総て軍これを行う(一九三五年、支那幣制改革に軍反対、一九三六年十月一日の北支開発協定等々)。」(清沢『暗黒日記』)
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12月31日
・電力動員緊急措置決定
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12月31日
・ポーランド、ワルシャワ、ポーランド労働者党(共産党系)、「ポーランド国家評議会」設立、「人民軍(AL)」結成、
国内の農民・社会両党の協力なし、亡命政府から非難、在ソ共産党中央ビューローも幅広い国民戦線を提案
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12月31日
・ソ連軍ジトミール占領
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12月31日
・「昭和十八年十二月卅一日。今秋国民兵召集以来軍人専制政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は四十四才にて祖先伝来の職業を失ひて職工となり、其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終結をまつのみなり。然れども余窃に思ふに戦争終結を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく横暴残忍となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まざるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。
〔欄外朱書〕疎開ト云フ新語流行ス民家取払ノコトナリ」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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・この時期の南太平洋の状況。第8方面軍(司令部ラバウル、今村均)の守備範囲。
地上の戦闘は、前線第17師団の「勇戦奮闘に待つ」以外に方法がない。
海軍の航空攻撃は、12月15日~27日マーカス6回・ツルプ1回の航空攻撃、ラバウル遊撃戦闘の結果、戦闘機約80・艦爆10数機を残すのみ。
陸軍航空部隊も15日~26日、4回出撃、戦闘磯10と、重爆は出撃した12機中10機を失い、陸軍航空は一進攻の力もない状態。
南太平洋の連合軍は駆逐艦以上で約120隻。日本側はこの海域に戦艦・巡洋艦は既になく、駆逐艦7隻(うち5隻は輸送用)・潜水艦9隻で、艦艇能力は零に等しい。
ニューブリテン島中央部以西、以南、更に西にニューギニア東部の第18師団(安達)司令部のあるマダン辺までの海域は、完全に連合軍が掌握。
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2016年1月4日月曜日

昭和18年(1943)12月9日~18日 学童の縁故疎開促進を発表 銅像等の非常回収閣議決定 米軍、ニューブリテン島のマーカス岬アラウエに上陸 「昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。」(清沢冽『暗黒日記』)

皇居東御苑 2015-12-27
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昭和18年(1943)
12月9日
・「十二月九日 (木)
誰もかれもがいうことは「アメリカに戦争目的がない」ということだ。日本に戦争目的がないというのはどういうことだろう。陸海軍報道部長も外国から帰った連中も、全部「米国の戦争目的」の欠乏をいっているのは、当局者の指導だろう。
東条首相の演説にもそれがある。」(清沢『暗黒日記』)
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12月10日
・文部省が、学童の縁故疎開促進を発表
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12月10日
・銅像等の非常回収閣議で決定
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12月10日
・東宝映画、東京宝塚劇場を合併し、東宝株式会社となる
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12月10日
・「十二月十日(金)
天気よし。近頃はズッと好天気だ。
経済クラブで「焦る敵米国」という題下で高瀬〔五郎〕中佐の講演があった。出るつもりだったが僕は行かなかった。近頃、米国の攻勢を「焦って短期戦を狙う結果だ」と言っているものが多い。そしてこれは米国の弱点の露出だというのである。これまた自慰である。米国は最初から一九四三年の暮れから攻勢を開始するといっていたではないか。」(清沢『暗黒日記』)
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12月10日
・モロッコ、イスティクラール党結成
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12月12日
・チェコスロバキア亡命政府のベネシュ大統領、訪ソ。ソ連・チェコスロバキア友好相互援助戦後協力条約締結。
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12月12日
・ロンメル、「ヨーロッパ要塞」総司令官に任命される
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12月13日
・佐藤紅霞・川島幸一らの風俗関係書を一斉発禁
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12月14日
・金史良、宣伝小説「海軍行」、「海への歌」「サルパラム」を「毎日申報」に発表。
昭和19以降は作家活動中止、大同工業専門学校ドイツ語教師
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12月14日
・この日付「清沢冽日記」。
「寝ながら中央公論を読み直したが、中央公論もまったく驚くべきものになった。例の京大教授の出ている座談会「赴難の学」で、西洋の学は西戎学、学問奉還論、学問は日本書紀、古事記だけを読めば総ぺてのことが書いてある、国際法は英米の謀略法とか、たいへんなものだ。奇説もここまでくると面白い。僕は名前と肩書きをみくらぺながら、巻をおくにたえなかった」
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12月14日
・朝鮮重要物資営団令公布
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12月15日
・関東州企業許可令、同企業整備令公布
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12月15日
・午後5時30分、J・カニンガム代将指揮第112騎兵連隊、第148野砲大隊、ニューブリテン島のマーカス岬アラウエに上陸。ダンピール海峡を東西から確保する態勢。ニューブリテン島西部守備は松田巌少将指揮第17師団(酒井康中将)第65旅団ら15,018人。

10月、17師団(酒井廉中将、岡山)が中国から到着、方面軍は第17師団の約1/3をブーゲンビル島に、師団主力をニューブリテン島西部に派遣、この方面防備お第65旅団と共に、同方面の要域確保を命じる。
11月1日、連合軍はブーゲンビル島タロキナに上陸、この為、ダンピール海峡防衛に重要なツルプへの派遣部隊の一部がタロキナへ転用。第17師団司令部はニューブリテン島北岸ガブプにあり、西端ツルプから直線距離で約250kmある。マーカス岬はニューブリテン島西部の南岸、ニューギニア寄りにあり、戦闘はここから始まる。
14日早朝から、マーカス岬一帯に激しい空襲。マーカスに在る部隊は約400で4ヶ所に分散、臨時混成部隊で、陣地も出来ていない。
マーカス岬の敵に対し、ラバウルの陸海航空部隊(トラックから約60機増援)も加え反撃するが、航空部隊の消耗は激しく、数日を経ないで、陸軍第4航空軍の爆撃機は2機に減少。

米軍は輸送船5・駆逐艦6・兵力2~3個大隊。守備隊は約1/4の死傷を出し、東北へ30km潰走、そこで、小森大隊の先頭と連絡がつく。
11月中旬~、マーカス方面の通信網は不通で、米軍上陸も方面軍の偵察機が発見し、ラバウル~第17師団~ツルプでダンピール海峡東岸を守備する松元支隊に伝えられる。マーカス岬の主力小森支隊(小森政光少佐、2個中隊弱)は、北岸から南岸マーカスへ脊梁山系を難行軍の後、退却してきたマーカス守備隊と合流し、25日から攻撃開始、陣地の一部を突破。
26日夜襲は失敗。
27日、逆上陸の戸伏大隊と連絡し、28、29日、戸伏大隊と共に攻撃再開するが、敵の熾烈な火力により攻撃頓挫。戸伏長之の回想。「両日の戦闘経過や、敵陣地の強度、地形等を検討したうえで、策のない攻撃を繰返して無為に戦力を消耗するよりも、ねぼり強く抵抗して、敵の内陸への侵入を妨止した方がよいとの結論に達した。・・・小森少佐もこれに同意した」。

方面軍は、小森支隊が戸伏支隊と共にマーカス岬付近の飛行場を奪回し、敵の猛攻に耐えていると大本営に報告、その敢闘が「上聞に達し、御嘉賞の御言葉」が昭和19年1月6日、電報で本人に伝えられる。これが、後に小森を殺す結果になるが、彼は「感激のあまり、眠れなかった」と日記に書く。
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12月15日
・銅像などの非常回収を開始
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12月15日
・「十二月十五日 (水)
朝のラジオを聞いていると、昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。
こんな低級な時代がかって、また世界にあったろうか。
十一日の日独攻守同盟の記念日に、日本だけが騒ぐのはどういうわけだろう。ベルリンでは大島大使が主催で高官を招いたらしいが、リペントロップは出ない。攻守同盟を想起させるためか。
米国は新聞記事の検閲を緩和したそうだ(同盟ヴエノスアイレス)(十一日発)
彼らは戦争をすでに見越しているらしい。
『東洋経済』に「日ソ中立維持すべし」という論文を名古屋とに書く。
腹をこわし、なかなか直らない。こんな頑固な胃腸病は始めてだ。」(清沢『暗黒日記』)
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12月15日
・ソ連、ティトー指導の人民解放委員会をユーゴスラビア政府として承認。亡命政府と断絶。
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12月16日
・在華邦人生活必需物資臨時配給統制規則、公布。
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12月16日
・「十二月十六日 (木)
昔の倭寇がちょうど昭和十五、六年代の新しい形だ。
国内においては神風連的な右翼思想が流行する。外国に行くのはそういう連中に限られる - たとえば帝大教授田中耕太郎博士はカソリックで、日本精神に徹底しないというので、すでに決定していたのを取消さしめられた。自分で頼んで置いて取消す役所の意気地なさも時代を現わすものだ - 彼らは無知でありながら、恐ろしく自信がある。そこで大東亜諸国に行って、それ錬成だ、それ儀礼だという。こんな国民に彼らが推服する〔うやまって服従する〕ものではない。この事は林甚之丞君もいい、誰もかれもいうところだ。」(清沢『暗黒日記』)"
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12月17日
・第8方面軍(今村均大将)、第18軍通じ第20師団をシオに撤退させる
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12月17日
・閣議、競馬の停止を決定。
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12月17日
・「十二月十七日 (金)
国際関係研究会で三浦新七氏の東西両洋の文化に関する講演あり。篤学なる学者だ。西洋はキリスト教を根幹としているのに、東洋は雑多である。西洋では神と人とを別にしていて、神に到達せんとして努力し進歩する。これに対し東洋では自然の力の中に自己を発見する。西洋では教会が中心で発達してきたが、それが故に教会対国家という問題が起った。日本は宗政一致だ。ヒトラーなどが日本を羨む理由がそこにある。
赤松克麿君〔元日本革新党党務部長〕と久しぶりに会す。産業労働者の思想悪化は驚くべきものがある。労働組合を造って、命令が幹部から達するようにするのがいいと資本家もいっている由。
なんでも中島飛行場あたりで、労働者が寄宿舎を叩きこわした由。自由主義、個人主義の洗礼を受けねば駄目だという。
僕も石橋君も、自由主義に反対したのは君らではないかといった。」(清沢『暗黒日記』)"
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12月17日
・アメリカ、中国人移民禁止法が廃止
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12月17日
・イギリス、イーデンとポーランド大使ラチンスキ会談。
ポーランド地下レジスタンスにソ連パルチザンとの非協力・ドイツ軍との協力を指令しているとのスターリン主張に対する亡命政府の反論と共同行動申入れ文書化で合意。
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12月17日
・第5軍、サン・ピエトロ占領
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12月18日
・「十二月十八日 (土)
古本市場を見に行く。本は大分高くなった。稲垣満次郎〔元スペイン公使〕の『外交と外征』というを買う。明治二十九年の発行だ。その頃、日清戦争の勝利の結果として日英同盟を予言したのは偉い。西洋歴史もなかなか面白く書いてある。
いつ出ても評判になったものはやはりいいところがある。ケンブリッジを出た人である。
朝鮮において「何故に我らに独立を与えぬか」という運動が起っている由。また義勇兵壮行会の席上などで野次が飛んだり混乱があったりする。郷里から三通も四通も手紙が来て義勇兵志願を勧めるのだそうだ。
英国は、いつでも他をして戦わせる。しかし英国が味方した方が敗けたことがあったかしら。」(清沢『暗黒日記』)
*
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2015年12月25日金曜日

昭和18年(1943)12月1日~8日 「大戦争二周年廻り来たる。・・・大東亜戦争には (一) 戦争そのものを目的な人と、(二) これを機会に国内改革をやろうという人と、(三)それによって利益する人とが一緒になっている。・・・二年に気付く現象は、コソ泥の横行である。・・・」(清沢冽『暗黒日記』)

鎌倉・円覚寺 2015-12-16
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昭和18年(1943)12月
この月
・スティルウェル、新編成中国軍2個師団率いインドから北ビルマ侵攻。
*
・東宝株式会社、設立。東宝映画株式会社と株式会社東京宝塚劇場が合併したもの。
*
・日本音楽文化協会、全音楽家に枢軸国以外の外国音楽家との共演禁止通達。
*
・大日本興行協会、映画の車内広告、立て看板、チラシ、プログラム全廃を決議。ポスターも従来の半分とする方針
*
・日本映画学校映画科開講。
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・里村欣三「キスカ撤収作戦」、亀井勝一郎「歴史の自覚」
*
・石川達三「実践の場合」(「文芸」12月号)。
「・・・小説というものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになっても構わないと思う。・・・私たちが宣伝小説家になることに悲しみを感じる必要はないと思う。」
*
・小林秀雄(41)、第3回大東亜文学者大会計画のため、単身中国へ。
旅行中、「モオツアルト」を書き始める
*
 ・映画雑誌、第2次整理により3誌となる。
内訳は日本映画出版株式会社による「映画評論」「新映画」。大日本映画協会の「日本映画」。
*
・インド国民軍特務隊、アキャブ地区出動。
*
・フランス、ルネ・ブスケ、左遷・休職となる。抗独派(マキ)発展を阻止出来なかった。
*
・フランス、ダルナン、国家社会主義政党目指す「ヨーロッパ革命家統一戦線」大会開催。
*
・鉄道従業員組合、ペロンを「アルゼンチン第1の労働者」と賞賛。
*
12月1日
・第二国民兵(34-40才)第一陣、入営
*
12月1日
・ニューアイルランド島西端カビエンの「八連特」中心に第14根拠地隊現地編成、ビスマルク諸島強化のため。大田實少将司令官。
翌昭和19年2月10日付けで太田少将は軍令部出仕となる。
*
12月1日
・東亜旅行社、東亜交通公社と改称
*
12月1日
・「十二月一日 (水)
朝早く嶋中真也君を見送りに行ったが、人混みで見えなかった。
学徒が日の丸を肩から胴に巻いて元気よく出る。その無邪気を見よ。この人々が学問や知識のためにではなく、砲銃を持って立つのだ。感慨沸く。
戦争を世界から絶滅するために敢然と立つ志士や果たして何人あるか。予、少なくともその一端を担わん。」(清沢『暗黒日記』)
*
12月1日
・テヘラン三国宣言。ドイツ打倒。
*
12月1日
・ルーズベルト・チャーチル・スターリン会談。
スターリンはカーゾン・ラインをポーランド国境にすることに合意、英国がポーランド亡命政府の説得することになる。
ノルマンディ作戦決定によりポーランドはソ連が解放することが確実。ポーランドの共産主義者はロンドン亡命政権に反対する政権樹立を構想中
*
12月2日
・第6次ブーゲンビル航空戦。
大本営、4次以降6次までの「ブーゲンビル航空戦」で空母5隻を撃沈と発表。実際は、駆逐艦1隻撃沈、重巡1隻大破にとどまる
*
12月2日
・「十二月二日 (木)
富士アイスの重役会あり。重役賞与、配当金合せて二〇〇〇円以上あり。近頃、総て物価あがり、収入を以て支出を支うこと難し。幸いに投資よりの収入あり、わずかに辻襟を合すに足る。
それにしても僕の如き裕福の部に入るべきものにして然り。一般人は如何。困っている者が非常に多いと思う。」(清沢『暗黒日記』)
*
12月2日
・ドイツ軍によるノルウェー侵攻に対して抵抗を呼びかけていた作家グリーグ、ベルリン爆撃のイギリス軍機に同乗して戦死。
*
12月2日
・ヒトラー、ドイツの青少年を召集
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12月3日
・11軍116師団、常徳占領、中国側戦死29,503、捕虜14,025、日本側戦死1,274
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12月3日
・ソ連軍戦線各地で前進
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12月4日
・空母冲鷹、八丈島沖で前日からの度重なる潜水艦の雷撃を受けこの日沈没
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12月4日
・「十二月四日 (土)
戦争後、華族が増し、プロモーションがあり、金鵄勲章が増える。これを全廃したらどうか。
そうすれば、それをもらうために戦争を目がけるものがなくなろう。また実際他の国民が犠牲だけ払うのに、官吏、軍人だけが利益を得るのは、その立場からも否定すべきだ。」(清沢『暗黒日記』)
*
12月4日
・第2次カイロ会談。ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、イネニュ・トルコ大統領(~6日)。
英・米両国、トルコに対しドイツの攻撃に対する援助を申し出る。
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12月4日
・ユーゴスラビア、暫定政府成立を発表
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12月5日
・日本軍、フィンシュハーフェン放棄
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12月5日
・マーシャル島沖航空戦。
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12月5日
・「十二月五目(日)
軍人は教育を憎む。しかし自身は陸大、銀時計というようなことを誇りとするんだから教育そのものを排斥するのではないことは明らかだ。
軍が、今まで軽蔑していた「学徒」を極力讃(ほ)めたてるのはどういうものか(松村〔秀逸、大佐、大本営陸軍報道部長〕と栗原〔悦蔵、大佐、大本営海軍報道部課長〕の会談)。だが学者に対しては排斥するのは学問も蘊奥(うんおう)を極めると駄目になるということらしい。
今日は冬の霜除けのため一日中畠をやった。晩、北田正武君の出征を送るため夕飯に招待。」(清沢『暗黒日記』)
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12月5日
・連合軍『クロスボー(石弓)』作戦(北仏海岸線のV1発射場への爆撃作戦)
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12月6日
・「十二月六日(月)
政治家に必要なのは心のフレキシピリチーである。その屈伸性を近頃の軍人政治家は全く欠如している。だから時に応じて対策をたでることができなかった。
毎日の新聞は松村、栗原両報道部課長の対談やら談話やらだけを載せている。そして戦局のただならざることを警告している。
日本が宣伝下手であるという事実が、日本人がアドミットする唯一の弱味である。他は総て日本人が優れていると思っているのに。
我らから見れば、日本人ほど自家宣伝をする国民は他にない。」(清沢『暗黒日記』)
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12月8日
・日本政府、テヘラン宣言へ反駁声明
東条英機、大東亜戦争2周年記念放送でカイロ宣言・テヘラン宣言を非難
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12月8日
・第2回大東亜戦争美術展
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12月8日
・クサイ島(カロリン諸島)守備隊支隊長、海岸防備築城指示
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12月8日
・「十二月八日 (水)
大戦争二周年廻り来たる。新聞も、ラジオも過去の追憶やら、鼓舞やらで一杯だ。外では盛んに訓練がある。
満二周年において明らかをことは、沢田〔謙歳?〕も昨日いったように、国民はまだ戦い足らぬことである。二、三日以前から十二月号の『中央公論』を見ている。その「赴難(ふなん)の学」という座談会の如きは「京都帝大」教授連の談なのに、奇々妙々なものだ。「徳川慶喜にフランスが刃向わせた」とか、征韓論はアメリカの謀略みたいに書いてある。小牧〔実繁〕という教授は「大東亜戦争は天佑神助だ」と繰返している。『中央公論』を通して全部そうした調子だ。
大東亜戦争には (一) 戦争そのものを目的な人と、(二) これを機会に国内改革をやろうという人と、(三)それによって利益する人とが一緒になっている。そしてその底流には武力が総てを解決するという考え、また一つの戦争不可避の運命観を有している民衆がある。戦争は徹底的に戦い通されねはならぬ。
二年に気付く現象は、コソ泥の横行である。物を盗まれない家とてはない有様だ。玄関に置いた外套、靴、直ぐとられる。
この日の新聞はロ、チャ、スターリン三名のテヘラン会議の公報を発表した。「世界の全民族が圧制を蒙ることなく、かつまた独自の決意と良心に基づき、自由なる生活を営み得る日の到来を待望する」といっている。六日発表だ。「ロンドン電報」と書かなければ「大東亜宣言」と間違いそうだ。
かつて、我らは日本主義者から「日本がついた方に戦争は克つ」という言葉を聞いた。中野正剛の如きが、そういった一人である。今でもその信念は失われておらぬ。
警察の水野君が来たから、空襲下においては食糧掠奪が行われよう。それには隣組が単位で防衛団を造るべきだと話した。また欧州方面には「和平談の否定」が行われているが、否定するところに何事かあるものだと話した。かれは耳学問があり、事態を正しく見透している。」(清沢『暗黒日記』)
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2015年12月14日月曜日

昭和18年(1943)11月22日~30日 第1回カイロ会談 マキン島攻略 セント・ジョージ岬海戦 当面マーシャル方面来攻なしと誤判断 テヘラン会議(ソ連の対日参戦示唆) 

昭和18年(1943)
11月22日
・マキン環礁ブタリタリ島の日本軍後退
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・~26日、第1回カイロ会談。ルーズベルト・チャーチル・蒋介石。27日「カイロ宣言」。
日本の無条件降伏、日本が第1次大戦以降奪取した諸島の剥奪、朝鮮独立、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還。米英中共同でのビルマ作戦(12月5日ルーズベルトは延期通告)。

23日、ルーズベルト大統領、蒋介石国民政府主席に対し、戦後に中国が琉球諸島を保有する意思があるかを質問。蒋介石、米中両国で琉球を占領のうえ、国際機関の信託統治の下で米中共同管理にしたいと言明。
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11月22日
・アメリカ、テニス選手キング、誕生。
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11月22日
・レバノン、8日にフランスにより逮捕されていた政府首脳が人民の圧力で釈放。
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11月23日
・「十一月二十三日(火)
婦人の労働者、男子に代る。日本婦人への革命だ。今までのように奴隷的ではおれなくなる。必然にその位置も向上し、その知識もよくなろう。
総て、日本に革命を齎す。犠牲は多いが、日本人そのものが賢明であれば、必ずこれを実現しよう。どうせ行き詰っていたから、こうした外的治療を必要とする。強気であった連中が、あまりに悲観的になったに対し、我らは、かえって楽観的だ。
山荘の前面に畠を造るため人足きたる。安田〔利兵衛〕君帰る。」(清沢『暗黒日記』)
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11月23日
・レバノン、クーリー大統領の復職でフランスからの独立声明。
26日、レバノン議会、フランスからの独立宣言を決議。
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11月24日
・この日の朝、米護衛空母「リスコムベイ」、日本潜水艦により沈没。マキン西20マイル、戦死644。
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11月24日
・米第27歩兵師団、マキン島攻略。日本戦死693、米死傷218。
マキン島日本守備隊は、市河大尉指揮の798人(陸戦隊284、952航空隊60、802航空隊50の基地要員、残りは設営隊員)。
対する第27歩兵師団は第165連隊6400を主力に、第105連隊、第193戦車大隊、第102、第152工兵連隊まで加え、4日間かけてようやく攻略。
日本軍損害693、米第27師団死傷218。
また、24日朝、マキン島南西約20マイルで、イ175潜の魚雷3本により護衛空母「リスコムベイ」沈没、戦死644を加えると、マキン戦の米軍損失は日本側を上まわる。
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11月24日
・セント・ジョージ岬海戦(第2回ブカ島支援輸送)。
ニューイングランド島南端セント・ジョージ岬沖、駆逐艦「大波(吉川潔中佐)」、米駆逐艦攻撃により沈没。
24日午後1時30分、第2回目として兵員810名・軍需物資32トンを載せラバウル発。
米軍はこれに気づき阻止すべくアーレイ・バーグ大佐率いる駆逐艦5隻をブカ島方面へ派遣。
午後11時41分、バーク隊は、揚陸を終えラバウルへ後送する兵員600を乗せ帰還途上の日本艦隊をレーダーで探知、11時56分、魚雷15本を発射し、遅れている駆逐艦3隻を発見、追撃態勢に入る。
25日午前0時、香川清澄大佐率いる第31駆逐艦隊は突然の雷撃で、「大波」「巻波」が被弾炎上、「夕霧」もバーク隊の砲火で午前1時30分沈没。ベラ湾夜戦と同様SGレーダーの猛威に沈められる。
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11月25日
・中国遂川発信の米軍機(第14空軍)、台湾・新竹飛行場来襲
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11月25日
・「十一月二十五日 (木)
青木大東亜相官邸で、戦後機構の問題が出る。青木氏はあまり乗気でなく、戦争遂行だけで手一杯だというようなことをいう。僕は「明日講和談判があれば、日本の世界政策が問題になるではないか」といった。
こういう最高知識の会合でも、誰もかれも嘘をいっている。これでは他をコンビンスすることはできぬ。」(清沢『暗黒日記』)
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11月26日
・オーストラリア軍、東部ニューギニア、フィンシハーフェン北方のサテルベルグ奪取。
第20師団防戦するも失敗、その北方ワレオ、ノンガカコに後退。既に兵力1万2500は7千に減少、2/3が負傷し、全員が餓える。
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11月26日
・軍令部、連合艦隊司令長官古賀峯一大将に当面マーシャル来攻なしとの新作戦指導方針伝える。古賀長官、タラワ戦に備え北東方面艦隊・南西方面艦隊から呼寄せた第24航空戦隊・第753航空隊(第23航空戦隊)をそのままマーシャルに配置。

 「昭和十八年十一月二十六日 発 大海一部長 宛 連合艦隊司令長官 ギルバート方面に集中せる敵機動部隊は、少なくとも同方面敵の拠点概成する迄は之に釘付けさるる算大にして、之を捕捉撃滅し得れば、爾後敵の企図は相当長期に亘り大なる掣肘を受くべく、此の間我は航空母艦並びに基地航空兵カを整備し得て、必勝の態勢を確立し得る次第を以て・・・」

 中部太平洋反攻未だしの判断根拠は、南東方面への来襲米機数がマーシャル方面の約1.8倍となっている事によるが、この推理は粗雑。
南東方面は米軍基地航空部隊の行動半径下にあるが、マーシャル方面は違って、仮にタラワを利用しても、マ-シャル南端ミレ島まで270マイル、中心部クェゼリンは500マイルあり、南東方面に来襲機数が多いのは当然である。

11月19月~12月6日、日本側はマーシャル方面に151機を増勢するが、タラワ戦を含め4日迄に87機を失い、5日には米機動部隊がルオット、クェゼリン、マロエラップを襲い、65機を破壊、損害計152機となり、増強分がそのまま打破される。基地設営ができるまでマーシャル反攻は企図しないとは予断できない筈。
*
11月26日
・「十一月二十六日 (金)
各新聞とも、今日は米国の対日最後通牒の記念日だとてデカデカに来栖〔三郎・大使〕の話しを書いている。
日華同盟 - 大東亜宣言は、思想的にいえば彼らの主張の勝利であり、外交的にいえば日本の完敗だ。
この点は後の歴史に解剖を必要とする。
青木大東亜相の談話に「大東亜宣言」の草案に対し、ビルマ代表から、第五項に対し「相互的に資源を開発し」と改正したらどうかといっただけだった。これに対し「意味はその通りだ」というとそのままになったそうだ。
『オリエンタル・エコノミスト』の僕の原稿に「セオドアー・ローゼヴェルトが「日本の対米抗議にわずかの示嚇ありと感じ」軍艦を派遣した」云々という個処を、日本の不利なりとて削除をせよとある。(翻訳者の発意だそうだ)これでは宣伝などできっこなし。
小林一三氏の談 - 政治なんてものは実につまらんものだ。正面から下らないことばかりいって、少しも纏まらない。実業家は自己の賢任において、どんなことでもやれる。」(清沢『暗黒日記』)*
11月26日
・ポーランド、国内軍ブル・コモロフスキ将軍、亡命政府最高司令官ソンコフスキ将軍に亡命政府決定が受け容れ難い場合に独自の行動する旨通信、表面的には防衛と見せかけソ連軍と戦う姿勢
*
11月26日
・ベルリン空襲。
*
11月27日
・アメリカ、ゼネスト防止のため、合衆国軍隊、鉄道接収。
*
11月27日
・「十一月二十七日 (土)
今日は防空演習の日だ。一日家におって年表を再検討。防空演習が全くの形式だ。我らもその必要を痛感するが、さてそれを実際見ると馬鹿馬鹿しくなる。誰も「仕方がない」という観念からで、「イザという時にはためにはなりませんよ」といっている。」(清沢『暗黒日記』)
*
11月27日
・ユーゴスラビアの共産主義青年同盟の指導者リバル、解放戦争で戦死。
*
11月28日
・「十一月二十八日 (日)
革命はすでに目前にある。若い巡査や民衆の金持ちに対する深刻なる反感だ。
(一)嶋中君の話しに、新橋の料理屋街に置いた自動車が二十台以上も、タイヤーをスッカリ切られたそうだ。
(二)家内が上田に行く汽車の中で、制服の巡査が隣りの人と、「人足が別荘の草とりに行くなんて怪しからん」といっていたそうだ。
芦田君の話しに、「日独伊三国同盟」の太鼓を叩いた連中は、今警視庁に検挙されているそうだ。その頃、ドイツ側の奔走も多く、金がバラまかれたかも知れぬ。後世の物語りには、なお問題があろう。」(清沢『暗黒日記』)
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11月28日
・テヘラン会議。ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連首相、会談。~12月3日。
「テヘラン三国宣言」・イランに関する宣言発表。軍事協定で1944.5北仏上陸作戦を確認。ドイツの戦後処理、ポーランド国境問題を検討。

29日、スターリン・ソ連首相、独降伏3ヶ月後に対日参戦と示唆。米英連合参謀会議の「日本打倒総合計画」は、ビルマ全般作戦は「ターザン」(北ビルマ)作戦終了後とし、中部太平洋第一主義と決定。
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11月29日
・「十一月二十九日(月)
「『読売』の夕刊に『フォーチュン誌』の大東亜戦争開戦当時の記事というものがある。それにはまず野村、来栖両大使がハルを往訪し、最後通牒を発し、それから戦争になったように書いてある。こうした嘘をどうして書かなくてはならないのだろう。嘘を暫くところにその道徳的弱味がある。そのまま発表したらいいではないか。」(清沢『暗黒日記』)"
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11月29日
・ユーゴスラヴィア、第2回人民解放反ファシスト会議。ヤイツェ。142名。執行機関・ユーゴスラヴィア解放全国委員会は事実上の臨時政府。ユーゴの連邦制での再編。国王・亡命政府は帰国すべきでないと警告。
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11月29日
・ソル・レバノン首相、レバノンの仏からの独立に言及。
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11月30日
・赤木健介「歴史入門」、戦争の階級制を示唆しているとして発禁。
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2015年12月3日木曜日

昭和18年(1943)11月11日~21日 第3次~第5次ブーゲンビル島沖航空戦(タロキナ失陥) 海上護衛総司令部新設(司令長官及川古志郎大将) 朝鮮人学生志願促進運動加速 徳田秋声(71)没 ベルリン連続爆撃 タラワ島失陥 ブカ島支援作戦

昭和18年(1943)
11月11日
・第3次ブーゲンビル島沖航空戦。ラバウル大空襲、駆逐艦1隻沈没。
夜、日本陸海軍機16機が敵艦隊を攻撃、大本営は巡洋艦1隻撃沈と発表。
12日、古賀大将は「ろ号作戦」を中止。この日、ラバウルの航空機をトラック島に撤収。

11日早朝、ラバウルは米機約200機の空襲を受け、駆逐艦「涼波」撃沈・軽巡「阿賀野」損傷。
小沢中将は、零戦33・九九艦爆23・九七艦攻14機からなる攻撃隊を発進、米攻撃隊追尾攻撃させる。
午前10時、米空母部隊を発見し攻撃、損害を与えることができず、逆に戦闘機の迎撃と対空砲火により零戦2・九九艦爆17・九七艦攻全機を失う。
11日迄戦闘で、173機あった小沢艦隊の可動機が、52機にまでに減少。
*
11月12日
・陸軍省令48号改訂53号公布。'43/9.繰上げ卒業既就職者も志願適格者、帰郷地での願書提出可能など。
*
11月12日
・イギリス、イーデン、ポーランド亡命政府首相ミコワイチックにポーランドがソ連に好意を示さないためソ連との関係修復進展しないと述べる、ポーランド側にはソ連が傀儡政権をデッチ上げる意図に疑念
*
11月13日
・学徒先輩中堅団(内地帰鮮学生の決起希求団)結成
*
11月13日
・第4次ブーゲンビル航空作戦開始。
*
11月13日
・東京都、帝都重要地帯疎開計画発表、防火地帯設置、重要工場付近の建物疎開、駅前広場の造成など
*
11月14日
・~19日、学徒出陣激励オモニ座談会、(「毎日新報」)
*
11月14日
・鍾路基督教青年会館、文人報国会、応召出陣学徒激励講演会、開催
*
11月14日
・明大講堂、朝鮮人学徒決起大会、3千人
*
11月14日
・~19日、タラワ上陸援護の空襲、艦砲射撃
*
11月15日
・華北治安総署督弁、綏靖軍司令に杜錫鈞が就任
*
11月15日
・大本営、南鳥島・小笠原に一個連隊増援発令
*
11月15日
・絶対国防圏死守(海上交通護衛を専門とする)のため天皇直属海上護衛総司令部新設。司令長官及川古志郎大将。

兵員、武器、弾薬、食料、南方の重要資源を輸送する船舶の喪失量が、戦争第2年度(17年12月~18年11月)に倍増。
第1年度、月平均約6.8万総トンの被害は、連合軍が航空機・潜水艦を増強、反撃態勢を整えた2年目には、13.8万総トンに達し、第2年度の喪失総量163.9万総トンは、戦前の同年度予想量60万~80万総トンの倍以上に達す。

内容は貧弱。千島~シンガポールの海洋の資源航路とか物資輸送航路を担当。その海面に航行する大小約2700隻の船舶護衛に、海防艦18隻、旧式駆逐艦15隻、水雷艇7隻、特設砲艦4隻、計44隻しか持っていない。

総司令部開庁時の永野軍令部総長の挨拶、「今に至って海上護衛総司令部ができるということは、病が危篤に陥って医者を呼ぶようなものであるかも知れないが、国家危急存亡の秋、関係各官の渾身の努力を切望する次第である」。
*
11月15日
・要塞地帯法戦時特例公布
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11月15日
・中大十九号室、決起大会。志願反対論続出。栄光の使節糾弾大会となる。
*
11月15日
・「十一月十五日 (月)
富士アイスの重役会に出席。規模を縮小して、一割配当を持続する方針との事。代田〔実穂〕君を取締役にす。
床屋に行くと、かつて七人でやっていたのを、今は主人と二人。しかもその一人に徴用令がきた由。主人は「つぶすつもりでなければ一人ぐらい残してくれては如何」と談判し、出征家族として特別な考慮があるだろうとの事。
富士アイスの笠原という男にも徴用。神戸の出張所長にも徴用。今度の徴用は非常に広汎だ。こんなに徴用して一般産業が運転できるか。
この辺についても、経済観念に暗愚な連中がやっているから無理がある。徴用工には能率はあがらない。
おそらく厭戦的な気分を煽り、その集団から不平的爆発が起きはすまいか。」(清沢『暗黒日記』)
*
11月15日
・ドイツ軍、北大西洋におけるUボート作戦を断念
*
11月15日
・イギリス英『カンジュラー(魔法使い)』作戦(アンジュ(仏)近郊への潜入工作員空輸作戦)
*
11月16日
・内地帰郷学生673人、日本残留者290人が志願。
*
11月17日
・京城大志願適格者92人中65、予科15人中10が志願
*
11月17日
・第5次ブーゲンビル航空戦。ブーゲンビル島タロキナに対する日本の航空反撃はこの日終る。
11月末迄に、連合軍はタロキナに2つの飛行場を完成、ラバウル空襲の前進基地とする。最早ブーゲンビル島への艦艇輸送は不可能となり、この島の孤立も近い状況。
*
11月17日
・化学兵器研究従事者保護賜金令公布
*
11月17日
・藤原銀次郎、国務大臣に就任。
*
11月17日
・「十一月十七日(水)
今日はシーレーの『英国膨張論』を読む。これは実に面白し。英国のクラシックは僕にピンとくる。英国の膨張は戦争外に立ったことにある。日本が日清、日露 - 少くとも日露戦争をしないで、バランス・オヴ・パワーを握って、英国的海洋政策に乗り出したらば如何。」(清沢『暗黒日記』)
*
11月17日
・イギリス、ポーランド亡命政府ラチンスキ、ポーランド解放後直ちに亡命政府の速やかな国内の施政権掌握が緊要との覚書をイーデンに送付
*
11月17日
・ソ連軍の進撃に、ドイツ軍、ジトミール正面で反撃
*
11月18日
・徳田秋声(71)、没。
*
11月18日
「十一月十八日(木)
秋田人士はやはり開放的だ。何ら、軍需的に利益しないので、時局に対し冷静だ。後の個人的話しに、軍需的景気の均霑(きんてん)化を欲する旨の要望があった。供出、労働というだけで、反対給附が何もないのである。
武藤貞一がきて、独ソは握手する。ソ英の間は衝突する。日本は大勝利す。そうした楽観論を振りまいて行ったそうだ。この連中の愚及ぶべからず。気狂いがリードしている形だ。
夕飯を御馳走になり、さらに『秋田魁』の客となり料亭に酒をくむ。酒がいくらでもあるのに驚く。」(清沢『暗黒日記』)
*
11月18日
・ベルリン連続爆撃開始。イギリス空軍(~12月5日)。
*
11月19日
・延専適格者293人中250、志願
*
11月19日
・嘉治隆一「建国より現代までのソ連の経済」、ソ連社会主義建設の是認として発禁
*
11月19日
・「十一月十九日(金)
新潟に着くと某という男が出迎う。イタリー軒というところで十数人と会食し、講演会に出ると、二人の私服巡査が一人は速記、一人は監督している。かくの如くして講演ができるはずなし。
選挙演説といい、講演といい、こんな小学生徒みたいな男が監督するのだから、ろくな政治や言論ができるはずなし。官僚政治の打破が必要だが、さて国民が自己をガバーンできるかどうか。」(清沢『暗黒日記』)
*
11月20日
・ギルバート諸島へ出撃の22航戦の陸攻19機、途中で米艦載機に掃捉され、大半を失う。
21日出撃の陸攻16機も、タラワに到着できず、9機が未帰還。
*
11月20日
・ドイツ軍、グスタフ線で連合軍の進撃をくい止める
*
11月21日
・米第2海兵師団、ギルバート諸島のタワラ島上陸。
米軍上陸部隊はジュリアン・C・スミス少将率いる第2海兵師団。
ガダルカナル作戦後、ニュージーランドで休養、ニューヘブライズ諸島エファテでギルバード諸島攻略「ガルパニック」作戦訓練を消化。
この作戦は、敵砲台・機銃座が守る狭小な海岸への真正面からの上陸作戦で、アメリカ海兵隊の初の試練。
9月から航空機・潜水艦による写真撮影、情報部による判読作業が行なわれる。
一方、ギルバード諸島近郊の島々に飛行場が建設され、航空機によるタラワ周辺日本軍航空戦力に大打撃を与える。
11月13日、第2海兵師団乗船の第52任務部隊がエファテ島を出港。
20日夜明け前、はタラワ環礁沖合10kmに到着。

タラワは、ギルバート諸島及び西方のナウル、オーシャソ両島を守る海軍第3特別根拠地隊隊司令部の所在地で、司令官は、7月に着任した柴崎恵次少将、指揮下に同根拠地隊のほか佐世保第7特別陸戦隊、第67警備隊(ナウル、オーシャン島)が配置。
防備の主力はタラワ(べチオ島)に集中。
海軍は、3月4日、ギルバート諸島飛行場及びナウル島施設費として74万9千円を支出し、べチオ島防備は特に念入りに行う。西部の南北海岸にはヤシ丸太の防壁を連ね、海中にも丸太の防塞、コンクリート柱に角材を植えつけた障害物、丸太に10番ワイヤーで連結した機雷原を用意した。陸上には、地下2二階鉄筋コンクリート造りの司令部をはじめ、コンクリート、鉄板、ヤシ丸太、サンゴ礁岩、砂を利用した1~30人用の半地下式トーチカ陣地を配列。多くは地下壕で連絡し、直撃弾以外では破壊されない堅牢さを誇る。

タラワ上陸援護の空襲は、第2海兵師団がエファテ島を出発した翌14日から開始、範囲は、ベチオ、マキン中心にナウル、マーシャル諸島のヤルート、ミレに及ぶ。艦載機のほか、エリス、フェニックス、サモア、ベーカー各島の基地航空隊も参加。19日には、重巡3・駆逐艦5が、250トンの砲弾をベチオ島に射ち込み、上陸直前の砲爆撃を加えると、べチオ島には14日以来約3千トンの砲爆弾が集中。

午前4時41分、上陸待機アメリカ輸送船をタラワ島陸戦隊(柴崎少将)が砲撃、米戦艦「メリーランド」も応戦、航空機も日本軍陣地を爆撃。続いて、戦艦3隻主力の艦隊が3千トンの砲弾を撃ち込む。日本軍各陣地は弾力のあるヤシの丸太と砂で造られ、砲爆撃の衝撃を殆ど吸収。上陸用装軌艇「LVT」87両が3波に分れて前進開始。
9時22分、LVT第1波が海岸に到達。日本軍の応戦激しく、第4派上陸部隊の死傷率は35%。増援部隊ラッド大隊は海岸に到達出来ず、数百人が海中を600m歩いて進む。後続のシャーマン戦車6両中4両が立ち往生。ここで、再び艦砲射撃(上陸部隊が連絡をとり精密に日本側陣地を狙い撃ち)。

午後1時30分、戦艦「メリーランド」の第2海兵師団長ジュリアン・スミス少将は、情勢の不利を確認し、残る軍楽隊、特技兵、タイピストを集めて1個大隊を編成、自ら指揮して海岸に向かう決意を固め、第5水陸両用軍団予備兵カの海兵第6連隊投入をホランド・スミス軍団長に要請。しかし、この時既に、タラワ陸戦隊の組織的抵抗は、終っている。
夕方、海兵隊はようやく小さな橋頭堡2つを桟橋附近に築く。
夜、日本軍の夜襲なし(連絡の途絶、長期戦への持込み)。
夜間、海兵は破壊された日本軍トーチカ、戦車の残骸などに身を潜め、翌日の攻撃に備える。

日本陸戦隊の通信線は、上陸前後の砲爆撃で分断され、柴崎少将は戦闘の統一指揮ができなくなる。更に、少将の司令部壕に艦砲弾4発が命中、少将・幕僚共に戦死。しかし、陸戦隊の奮戦により、米海兵隊は最後まで、陸戦隊の指揮系統の喪失には気付かなかったという。

翌22日朝、新手の海兵が上陸開始。
座礁した輸送船「斉田丸」から日本兵が機関銃を乱射、海兵に大損害を与える。海兵第8連隊第1連隊は、戦死105・負傷235の損害を出し、600が岸に辿り着く。「斉田丸」は艦載機と工兵決死隊が破壊。米海兵達は火炎放射器・爆薬を用いる「溶接バーナーとコルクせんぬき」戦法で日本軍陣地を一つ一つ潰して行く。
午後2時、第6連隊第1大隊はペチオ島西岸に殆ど無傷で上陸。 

23日午前7時、島東部に20分間の艦砲射撃・空爆。
8時30分、9時30分、10時30分にも20分ずつ砲撃。戦車を先頭に米海兵隊の攻勢開始。海岸に強力な拠点を築き、大砲・戦車が続々陸揚げ。午後4時、スミス第2師団長が西海岸に上陸。
夜、日本陸戦隊のバンザイ突撃3度。午後7時30分、午後11時、24日午前4時の3回。最初の2回は偵察攻撃で、第3回月が総攻撃だが、3回とも、飛行場東側を攻撃したので、第6連隊第1大隊の準備は整っている。駆逐艦「シュレーダー」「シグスピー」が日本軍集結地点に砲弾を集中、前線に繰り出した81mm曲射砲も、月光に浮き出る日本軍に正確な射撃。午前5時、攻撃終る。残された日本兵の死体325。日本軍残存兵力約500は島東端に追いつめられる。

24日、タラワ戦は最終段階。
午前7時、艦載機の銃爆撃、バイリキ島からの砲撃、艦砲射撃が、島東端に集中。
午前8時、第6連隊第3大隊(マクロ-ド中佐)が島東端に向かい前進開始。日本軍の抵抗は、大型トーチカ1ヶ所のみで、シャーマン戦車が近づき、蔭に隠れた海兵が火炎放射器で銃眼に炎を注ぐ。飛び出した日本兵約100は、戦車砲と海兵の射撃で全滅。
午後1時10分、第6連隊第3大隊はべチオ島東端に達し、同32分、スミス第2海兵師団長は正式にペチオ島陥落を確認。

米第2海兵師団1万6692人と海軍将兵1396人が投入、うち戦死934、戦傷死93、負傷2292、行方不明者88、死傷率は18.8%、特に敵前上陸の661人は半数近い323人が死傷。ガダルカナル島の半年間の戦闘の死傷者より幾らか少ない程度。
日本軍は第3特別根拠地隊1122人・佐世保第7海軍特別陸戦隊1497人・第4艦隊設営分遣隊970人・第111設営隊1241人の計4830人が米海兵隊を迎え撃つが、うち戦死4684人。米軍捕虜146人の殆どは朝鮮人労務者。
タラワ環礁の日本軍と他地域との連絡は22日午後1時に途絶、大本営はアメリカ側放送傍受によりタラワ守備隊は25日玉砕と判断。

タラワ環礁:
ハワイから南西約4千km・トラック島から南東2千kmのギルバード諸島の珊瑚礁。小島が38、西端のベティオ島はギルバード諸島中唯一の飛行場を有し、北方と西方に日本軍の押さえるマーシャル諸島とカロリン諸島、南東と東方にはアメリカ軍の押さえる島々がひろがる戦略重要拠点。ベティオ島は東西約4km、南北は海岸から島中央部まで最大300mの小島、日本軍数千が防備。 
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11月21日
・第1次ギルバード沖航空戦。以後4次にわたる航空戦。
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11月21日
・ブカ島支援作戦開始。第1回輸送。物資30tと陸海軍将兵875名を陸揚げ、傷病兵など655名を撤収。

日本軍は、米軍が上陸したブーゲンビル島北西のブカ島を強化する為、陸海軍部隊の緊急輸送を開始、吉川潔大佐指揮する第31駆逐艦隊(駆逐艦「大波」「巻波」「天霧」「夕霧」「卯月」)担当。第1回目は21日午後1時30分ラバウルを出撃、「天霧」「夕霧」「卯月」3隻で陸海軍将兵・物資30トンを運ぶ。護衛は「大波」「巻波」。揚陸後、傷病兵を乗せて22日午前ラバウルに帰還。
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2015年11月14日土曜日

昭和18年(1943)11月5日~10日 大東亜会議 ボース演説「岡倉覚三および孫逸仙の理想が実現に移されんことを希望する」 ブーゲンビル島沖航空戦(1次~6次) 

昭和18年(1943)
11月5日
・大東亜会議、東京で開催。~6日。大東亜共同宣言発表。
汪兆銘南京政府主席、張景恵満州国国務総理、フィリピンのホセ・ラウエル大統領、ビルマのバーモ首相、タイの王族ワンワイ・タイヤコン殿下、(オブザーバ)自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席ら。

5日のラウレル演説には、日本の占領行政を批判した部分があるが、それは東條には訳されず。

6日、ポースは、インド民族は、イギリス帝国主義に抗して自由を戦いとらねばならぬ、「岡倉覚三および孫逸仙の理想が実現に移されんことを希望する」と、演説。ボースは、戦争を自国の独立運動、アジアの解放に結びつけ、日本の自存自衛の戦争だけではないと宣言。ボースの演説後、東條は発言を求め、「帝国政府はインド独立の第一段階として、もっか帝国軍占領中のインド領アンプマン諸島およびニコパル諸島を、近く自由インド臨時政府に隷属せしむるの用意ある旨を、本席上において闡明する」と発言。ポースは、来日後、東條に、アンダマン、ニコパル諸島への自由インド臨時政府進出許可を訴え続け、東條は、この日午前中に連絡会議で、急遽、ポースの申し出を受容れる決定。

大東亜会議共同宣言は5項目から成り、「大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基く共存共栄の秩序を建設す」で始り、「大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」で終わっている。
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11月5日
・「きょう帝都に大束亜会議を開く。汪、張景恵、ラウレル、バーモウ、ポース等来着。ただタイだけは代理者を送ったにすぎぬ。
さても道具立ての好きな内閣かな。
束条の声明は例によって平凡にして陳腐、我らの商売を以てしても一読するにたえぬ。ヒトラーの繰返し主義の拙なるもの。どうして誰か有識の士に書かせないのだろうか。」(清沢『暗黒日記』)
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11月5日
・朝鮮奨学会・協和会後援、明大朝鮮同窓会主催、半島学生決起大会、志願者少ないため
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11月5日
・古賀連合艦隊司令長官命により第2艦隊栗田健夫中将指揮第8戦隊、第2水雷戦隊、ラバウル着
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11月5日
・第1次ブーゲンビル島沖航空戦(以後6次にわたる航空戦、「ろ号作戦」、~12日)。
フレデリック・シャーマン少将指揮第38機動部隊「プリンストン」「サラトガ」艦載機97、ラバウル爆撃。母艦機の壊滅的打撃。
米機動部隊攻撃のため発進の航空兵力、トリジャリー島で戦車揚陸艦発見、空母と間違って撃沈。

10月28日連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、ブーゲンビル集結の敵艦隊・航空兵力攻撃を企図して「ろ号作戦」を発動。ラバウル方面の基地航空兵力を補う為、第1航空戦隊の空母艦載機(零戦82、九九艦爆45、九七艦攻40、二式艦偵6)を投入、作戦指揮は第3艦隊司令長官小沢治三郎中将が執る。
5日午前9時20分、米第50任務部隊(フレデリック・シャーマン少将指揮第38機動部隊)の空母「サラトガ」「プリンストン」から発進した攻撃機97機がラバウルを空襲、栗田健男中将率いる第2艦隊の大半が損傷しトラックへ引き返さざるを得なくなる。
午後12時55分、索敵に出た「彗星」が米艦隊(空母2、巡洋艦4、駆逐艦5)発見を報じ、九七艦攻14機が発進。しかし、この米艦隊は魚雷艇・上陸用舟艇で、魚雷艇1隻を撃沈。但し、九七艦攻4機を失う。
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11月5日
・米上院、戦後国際平和機構設立を求める決議採択
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11月6日
・大本営政府連絡会議、アンダマン、ニコバル諸島の仮政府帰属確認
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11月6日
・「青年学校教育の臨時措置に関する件」」。青年学校の授業は「可成縮減し一層生産増強に資すること」。
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11月6日
・ソ連軍、キエフを解放
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11月7日
・ソウル、臨時特別志願兵制度全京城翼賛会懇談会、鍾路区の事例を全京城に展開
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11月7日
・崔南善、李光洙の肝いり、日本留学生勧誘団(朝鮮奨学会派遣学徒志願兵激励隊、栄光の使節団)結成、/1/8.渡日、遊説
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11月7日
・「おさつを掘って蔵す。午前中労働。からだがミキミキして苦し。
大東亜会議で宣言書発表。新聞も大袈裟に書いており、昨夜は新聞夕刊が四ページ出た。記念号だ。大西洋憲章に対する太平洋憲章だと書いている新聞もある。相互の独立尊重といったことを謳ってある。
しかしこれらが一体、何を日本に与えるのだろう。例によって自慰。困ったものだ。
それよりもブーゲンビル島沖合の戦争で戦果をあげた。喜ばしい。だが一面からみれば第一線のラバウル近くに敵の主力が伸びて来たことを示すものである。」(清沢『暗黒日記』)
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11月8日
・ソウル、国民総力連盟、「学徒出陣を送る夕」主催
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11月8日
・韓国、各宗教関係者、宗教戦時報国会結成、地方教会及び寺廟5千に指令
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11月8日
・第17軍(百武晴吉中将)第6師団(神田正種中将)第23連隊(浜之上俊成大佐)2,240、ブーゲンビル上陸の米海兵第3師団攻撃、失敗。~9日。

第23連隊第12中隊(本川定中尉)は、大発で海兵隊橋頭墜西側のテルマ川湿地に上陸するが全滅。
浜之上連隊は、予定されるラバウルからの逆上陸部隊(第54連隊)の進出を待たず、退却。
第8方面軍は、命令なく撤退した浜之上大佐自刃を要求するが、百武第17軍司令官は拒否。
神田第6師団長は岩佐支隊(2個連隊、野砲1個大隊)をもって第2次攻撃を企図するが、今村第8方面軍司令官は延期を指示、ハルゼー軍のプカ島飛行場襲撃に備え、第17師団1個大隊を増派することになる。
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11月8日
・空母「瑞鶴」艦載機、戦艦4隻を撃沈報告。空母「翔鶴」艦載機も戦艦などの撃沈報告。大本営も戦艦4隻を撃沈発表。「第2次ブーゲンビル沖航空戦」と称されるが正確なところは不明。

8日午前6時、タロキナ沖に米輸送船部隊発見の報に接し、8時15分、小沢中将は零戦71・九九艦爆26機を発進させる。この攻撃では輸送船2隻を撃沈したものの、零戦5・九九艦爆10機を喪失。
また午後2時30分、米艦隊(戦艦3隻基幹の大艦隊)発見と報じたため、小沢中将は九七艦攻9・一式陸攻12機を発進、しかしこの艦隊も軽巡3・駆逐艦4隻の小艦隊で、軽巡「バーミンガム」に魚雷1本命中させるのみ。九七艦攻2・一式陸攻5機を失う。
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11月8日
・南ボルネオ。醍醐忠重海軍中将(侯爵)、第2南遣艦隊(スラバヤ)隷下第22特別根拠地隊(バリックパパン)司令官就任。

第22特別根拠地隊では南ボルネオ(旧オランダ領)地区警備のためタラカン、サマリンダ、バリックパパン、バンジェルマシン、ポンテイアナを中心に警備隊を配備し治安維持に当る。
海軍民政部では、バンジェルマシンにボルネオ民政部を、タラカン、バリックパパン、ポンテイアナに各州民政部を置き、現地行政と日本企業の指導監督に当たる。
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11月8日
・「警官は泥棒を捕えるためではなしに、良民を捕えるためのものになった。事実、その方が楽でもあるのだ!
日本は、英国を東亜の舞台から引きあげしめるべきではなかった。英国が居れば、相共に米国を牽制することが出来た。英国は恐ろしくない。しかるにこれを追ったために英米は握手してしまった。
排英運動は素人の外交運動の最悪なる見本であった。
大西洋憲章に類似する宣言を書き、各国民に独立自由を与える声明を発表せねばならぬのは日本の悲劇である。しかしそこにまた日本の学ぶべき教訓がある。」(清沢『暗黒日記』)
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11月8日
・フランス、レバノンに干渉、政府首脳を逮捕。22日、人民の圧力で釈放。
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11月9日
・平壤、学徒督励有志懇談会、13班27名の督励班編成。
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11月9日
・岩国航空隊に最初の海軍兵学校分校開校
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11月9日
・「産業報国会の調査では男十三貫のものは一日千四百カロリーこれに通勤に要するカロリーを入れて一日千六百カロリーだ。しかるにこれに対し現在の配給は一日千四百カロリーだ。女の体重十一貫だから、それで融通がつく。しかし配給が偏するから結局足りないわけだ。
従来の軍人首相が中正の立場を失わなかったのは、その位置に長くおって政治を知ったからだ。東条首相の悲劇は、かれが田舎廻りから壇ちに要路に立ったからだ。長くおると、その辺が分ってきた。かれは恨まれよう。その対支政策などにつき。」(清沢『暗黒日記』)
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11月9日
・米、アーノルド米陸軍航空部隊司令官、対日空襲計画「マッターホルン」策定。B29の行動半径に基づき、最良の日本本土空襲基地としてマリアナ諸島(サイパン)を進言。
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11月9日
・ド・ゴール、フランス国民解放委員会の単独委員長就任。
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11月9日
・米、ワシントン、連合国難民救済機構(UNRRA)設立
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11月10日
・京城官公署勤務先輩有志団結成
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11月10日
・空母瑞鶴の艦載機がタロキナ沖で駆逐艦を撃沈すると報告するが詳細は不明
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11月10日
・チェルカッスイの戦い開始、ソ連落下傘部隊とパルチザン合流
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2015年10月28日水曜日

昭和18年(1943)11月1日~4日 明石順三(兵役拒否のキリスト教徒)懲役10年 東条首相・陸相・外相兼務(昭和19年2月参謀総長兼務) ブーゲンビル島沖海戦 朝鮮人学生志願兵推進の運動

昭和18年(1943)11月
この月
・第55師団長古閑健中将更迭。後任花谷正中将。ビルマ方面軍高級参謀片倉衷の工作。参謀長以下幕僚も交代。第55師団は隷下に桜井徳太郎少将指揮の第55歩兵団をもつ。

「師団首脳部は積極主義の者と入れ換われり。古閑中将は予備役編入、宇都宮師団長に補せらる。消極退嬰なりしにより具合悪かりし」(「桜井日記」)。
花谷(少佐)・片倉(大尉)は満州事変当時の関東軍のリーダ(板垣大佐・石原中佐の下)。桜井(少佐)は広安門事件(昭和12年7月26日)の主役。

丁度この頃、英軍側も陣容を変え、アラカン地区防衛の第26インド師団と交代し、第5、7の2個師団が進出。これらの師団をもつ英第15軍の第1目標は、プーティーダウン・マウンドオ道の奪回。
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・高松宮、近衛に「時間が切迫しているので各方面の意見を聞きたい。原田のような男はいないだろうか」と相談。近衛は即座に女婿細川護貞を推薦。細川は各方面の情報を集めては、高松宮の許に届け、細川はほぼ毎日高松宮と接する。
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・「昭和十八年十一月号の巻末には、日本編集者協会・中央公論編集部の連名で、大詔のままに思想戦士として自ら任ずる旨の「宣誓」を掲げていた」(「中央公論社七十年史」)。
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・国民精神文化研究所を教学錬成所に改組
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・兵役拒否のキリスト教徒明石順三、反戦・国体変革・不敬罪で10年の懲役。
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・大日本麦酒、桜麦酒を吸収合併。東京麦酒は閉鎖。
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・黒木博司中尉、呉海軍工廠水雷実験部で、93式魚雷を改造した人間魚雷の試作を関係者に説き、設計概念図を起こす。
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・「出版工クラブ」(明文社)解散。最後まで残った印刷労働者の組合。
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・植民地フランス軍4個師団、イタリア戦線に到着。
  翌年7月22日に他戦線に転出される迄の間のフランス軍戦死者約1万人、同期間のアメリカ軍戦死者1万8千、イギリス軍戦死者1万4千に次ぐ。
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・ポーランド、国内軍ブル・コモロフスキ将軍、ポーランド労働者党が蜂起を開始するに十分な力を持っていると報告。
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11月1日
・農林省・商工省・逓信省・鉄道省、廃止(企画院、廃止)。農商省・軍需省・運輸通信省、設置。
農商大臣:山崎達之輔、軍需大臣:東條英機(兼任)・岸信介次官兼国務大臣、運輸通信大臣:八田嘉明。
東条首相・陸相・外相兼務。昭和19年2月、参謀総長兼務。
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11月1日
・兵役法改正公布。国民兵役を45才迄延長。
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11月1日
・内閣印刷局、大蔵省印刷局となる
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11月1日
・防空局を防空総本部とする
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11月1日
・西村輝雄「歴史教育の根本問題」、弁証法的唯物論的史観であるとして発禁
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11月1日
・米ハルゼー軍主力第3海兵師団(アレン・ターネイジ少将)、ソロモン群島北部のブーゲンビル島中西部タロキナ岬上陸。
8~17日、ブーゲンビル島沖航空戦
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11月1日
・「今日から軍需省、運輸通信省、農商省が新設される。
これを槻会に「首相権限を画期的に強化」したという。同じことが従来、何回新聞に出て伝えられたろう。
物を書くものの非良心的なことが時局を悪化せしめる。
朝、畠に行くと、ある男が垣の枝を折っている。大喝してやった。
日本人のモラールの低下したことは驚くの外はない。こんな国民が指導など断じてできるものにあらず。戦争の際は、他の面のみ強調される事、また物資が不足する事、気が荒くなる事、道徳方面の統制力が弱化する事、そんなことからこうした低下現象が生れるのだ。
戦争というものについて考えざるを得ない。」

「どこに行っても中野正剛の死が問題になる。如是閑は、非常に負け嫌いだったから自分の意志通りにならぬのを悲観したのだろうという。」(清沢『暗黒日記』)
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11月1日
・ソ連軍、クリミアのドイツ軍に通じる陸上ルートを遮断
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11月2日
・11軍2・13師団、常徳殲滅作戦開始。
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11月2日
・ブーゲンビル島沖海戦。タロキナ上陸の米軍攻撃の日本艦隊と米艦隊の激突。
1日、日本軍は、駆逐艦「天霧」「夕凪」「文月」「卯月」4隻にタロキナ逆上陸部隊を乗せ出撃。また、第5戦隊司令官大森仙太郎少将は、麾下の第5戦隊(重巡「妙高」「羽黒」)・伊集院松治少将(ベララベラ海戦後、昇進)率いる第3水雷戦隊(軽巡「川内」駆逐艦「時雨」「五月雨」「白露」)・大杉守一少将の第10水雷戦隊(軽巡「阿賀野」駆逐艦「長波」「初風」「若月」)をもって連合襲撃部隊を編成、エンプレス・オーガスタ湾に集結の米艦船撃滅に向かう。
午後7時45分、哨戒中の米偵察機はブーゲンビル島に接近する大森部隊を発見、スタントン・メリル少将は麾下の第39任務部隊(軽巡「モンペリー」「クリーブランド」「コロンビア」「デンバー」駆逐艦オースバーン」「ダイソン」「スタンリー」「クラクストン」「スペンス」「サッチャー」「コンバース」「フート」)をエンプレス・オーガスタ湾に展開、日本艦隊を待ち受ける。
逆上陸作戦は米機に発見された為中止となり午後10時30分に反転するが、連合襲撃部隊はタロキナ沖へ侵入。

2日午前0時49分、レーダー射撃により「川内」大破、第3水雷戦隊の混乱により「五月雨」「白露」が衝突し戦闘不能。レーダー射撃は「羽黒」にも打撃を与え、またも自陣の「妙高」と「初風」が衝突。
午前1時16分、大森少将は隊列を立て直し反撃、「デンバー」「スペンス」に命中弾を浴びせる。メリル隊も被害が出始め、煙幕を展張し回頭を始める。大森少将は米巡洋艦3隻、駆逐艦3隻を撃沈と戦果を誤認、戦闘を終了し艦隊を反転させる。
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11月2日
・「朝例により百姓。そこへ池辺秀人君〔ミシガン大卒、ウテナ化粧料工場長〕来たる。お昼を一緒に食う。百姓の話しなどす。辞したのが午後三時頃。それから日支同盟条約のことを書く。
同盟条約は攻守同盟のことだ。しかるにこれは戦後基本条約である。この目的は重慶工作だ。この政策を二年以前に実施したら!
撤兵を何といっても承認しなかったのは東条ではないか。その東条が今、これに率先して承諾するのだ。
グルーのいわゆるフランクリー・オポーチュニストだ。だが現下の政策としては当然のことで批難する事にならぬ。」(清沢『暗黒日記』)
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11月2日
・独、自由インド仮政府承認。
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11月3日
・満洲文芸春秋社創立
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11月3日
・「今日は、明治天皇祭だ。明治天皇の御偉大さ。
東亜戦争の責任者たち---政治家も文士も---は、明らかに明治天皇の御方針に不満なのだ。日露戦争があまりに「米英的だ」というのはその一つの例である。」(清沢『暗黒日記』)
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11月3日
・仏、抵抗運動諮問議会召集。
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11月4日
・ソウル、第2回法文系大学専門学校長会議。志願しない学生に休学命じるなど決定。
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11月4日
・ソウル、鍾路区の学徒出陣推進団体「翼賛会」第1回会合。朝鮮軍・総力連盟も出席、5地区に分割して志願者選別・説得。
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11月4日
・中枢院激励団、参議・顧問70人中37人連署で結団、全国遊説。
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2015年10月17日土曜日

昭和18年(1943)10月23日~31日 「国民教育に関する戦時非常措置に就て」 泰緬鉄道完成、開通式 朝鮮人留学生の志願実務開始 朝鮮総督府、大学専門学校学徒臨戦決意大会開催 重臣らの東条辞任工作潰える 洲崎遊郭廃業

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昭和18年(1943)
10月23日
・第1次ポンテイアナ(抗日未遂)事件(南ボルネオ)。ポンテイアナの有力者約100名検挙。
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10月23日
・「十月二十二、三日(金、土)
 二等車には必ず土木請負人のような野卑な連中が乗っている。第一次世界大戦の時にいわゆる成金が日本を一変させた。今度も同じである。資本主義機構の欠点は確かにそこにある。しかし社会主義化、統制主義化しても別の弊害がある。要は教養の向上のみ。
 この朝、家妻より手紙あり。嶋中君より電話あり。僕の身辺に関しデマが飛んでおり心配している。言動を気をつけてくれと。
 この間も、そういう噂があった。僕のことを調べていることは事実ならん。しかし僕はどこに行っても不謹慎なことをいったことはないはず。戦争が始まった以上、戦争に勝ちぬくことは当然ではないか。
 あるいは近衛、字垣のところに行ったことなどがいけないのか。とにかく、下らぬ誤解を受けないため、できるだけ注意をするつもりだ。信州の秋は寒し。」(清沢『暗黒日記』)
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10月23日
・メリトポリが陥落。ドイツ軍がクリミア半島に封鎖される
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10月23日
・ビスケー湾の駆逐艦戦でドイツ善戦
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10月23日
・イギリス『トンネル』作戦(ブレストから英海峡へ向かう独商船への巡洋艦での攻撃作戦) 
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10月24日
・「十月二十四日(日)
 ワー・アンド・ピースによると米国は二回ばかり、日本とのアンタントを希望したようである。ハルは野村に対し日、米、英の提携をいい、ローゼヴェルトもそういった。ただしそれはどうせできないからと考えたかも知れぬ。あの時、体かわしができれば非常な外政家であった。しかし一国の外交は、そう途中で変更できるものではない。いわんや日本の外交においては。」(清沢『暗黒日記』)
*
10月25日
・朝鮮総督府、軍党局交え大学専門学校長会議開催。
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10月25日
・「国民教育に関する戦時非常措置に就て」。中学校4年修了での上級進学制、1945年からの中学4年制、中学の入学定員据え置き、増設・増科は工業・農業・女子商業に限定、男子商業学校の転換措置。
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10月25日
・~11月5日、臨時徴集検査実施。法文系・専門学校学生徴兵。
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10月25日
・東京、朝鮮奨学会、在日留学生の志願実務開始。
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10月25日
・泰緬鉄道完成、開通式。タイ領ノンプラドック~ビルマ領タンビザヤ、約416km。42年7月5日。日本軍1千、捕虜1万2千、現地労働者3万の計4万3千名死者。
戦後、約3千名が逮捕、101名起訴、96名受刑、内死刑30・終身刑12・有期刑44。

1942年6月、大本営、泰緬鉄道建設準備命令。鉄道連隊2個・現地労務者・連合軍捕虜を動員して昭和18(1943)年末迄に完成すべし。
43年2月、大本営は工期4ヶ月短縮を命じる。タイ側から鉄道第9連隊、ビルマ側から鉄道第5連隊が中心となり、捕虜約5万5千、現地人労務者(仏印、タイ、マレー、ジャワ、ビルマ、インド)約9万、計14万9千が動員。
例年より1ヶ月早い雨期到来による出水で補給路が断たれ、栄養失調、コレラ発生にも直面し、大本営は2ヶ月延長を認め、10月17日ようやく開通。25日開通式。
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10月25日
・廃油取締規則、公布。
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10月25日
・「昭和十八年十月念五日。細雨空濛たり。凌霜子黄橙のジヤムを餽らる。晡下瓦斯会社の男来り警察署より民衆の瓦斯風呂いよいよ禁止の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月25日
・ソ連軍、スモレンスクを奪回。
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10月26日
・磐線土浦駅で貨車と客車が3重衝突。110人死亡。
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10月26日
・「昭和十八年十月念六日。積雨漸く霽れて日の光もうらゝかなり。午後浅草に行きオペラ館に小憩し新橋に夕餉を喫して帰る。窓外再び虫声あり。

  街談録
 一 この度▼突然▲実施せられし徴用令の事につき、其犠牲となりし人々の悲惨なるはなしは、全く地獄同様にて聞くに堪えざるものなり。大学を卒業して後銀行会社に入り年も四十ぢかくなれば地位も稍進みて一部の長となり、家には中学に通ふ児女もあり、然るに突然徴用令にて軍需工場の職工になりさがり石炭鉄片などの運搬の手つだひに追ひつかはれ、苦役に堪え得ずして病死するもの、又負傷して廃人となりしものも尠からず。幸にして命つゝがなく労働するも、其の給料はむかしの俸給の四分の一位なれば中流家庭の生活をなす能はず、妻子も俄に職工並の生活をなさゞるべからず。▼此れが為殆其処置に窮し▲涙に日を送り居る由なり。(徴集せられし者は初三個月練習中は日給弐円。その後一人前になりても最高百二三十円がとまりなりと云。▼この度の戦争は奴隷制度を復活せしむるに至りしなり。軍人輩は之を以て大東亜共栄圏の美挙となすなり。▲)
 一 大森辺に在るアパート二三個所此程突然軍部に買上げられ、兵器製造職工の宿舎となる由、従来こゝに居住せし者は本年内に立ちのきの命令を受けたれど東京市の内外には住宅もアパートの空室も皆無なればいづれも行先見当らず困難最中なりと云。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月26日
・イギリス、考古学者スタイン(80)、没。敦煌の千仏洞を発見。
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10月27日
・ハルゼー軍、ショートランド島近接のチョイセル島・モノ島、上陸。
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10月27日
・タール製品統制規則、公布。
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10月27日
・「午后の夕刊にて中野正剛の自殺を知る。僕は大東亜戦争勃発に続いてのショックを受けた。これは僕が、かれにローマにて御馳走になれるからかも知れず。しかしとにかく万感こもごも沸く。僕はかれを憎んだ。かれの思想が戦争を起したのである。だがかれの自殺を見て、僕はその罪を許してやる気持になった。けだし僕も日本的伝統を心深く持っているのである。ただ、かれの自殺の理由については全く不明である。
 かれは生一本であった。かれは開戦すれば、米国は直ちに屈服すると公言していた。これは謬りであった。その自省の気持ちが自殺の一因をなしていたろうか。それなら立派だ。それともムソリー二、ヒトラーを夢みたかれが、事志と遠い、そのため失望したからか。とにかく、典型的日本志士である一事は認めざるを得ぬ。」(清沢『暗黒日記』)
*
10月27日
・「昭和十八年十月念七。晴れて好き日なり。ふと鷗外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋傘家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨(はぜ)の紅葉花より赤く芒花(すゝき)と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて「禅林寺」となせし扁額を挂けたり。「葷(くん)酒不許入山門」となせし石には「維(この)時文化八歳次辛未春禅林寺現住旹宗(=時宗)謹書」と勒(ろく)したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧(かや)かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷(のき)辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に「元禄九年丙子朧月」の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飯す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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10月28日
・古賀連合艦隊司令長官、航空撃滅戦計画。「ろ」号作戦発動。第1航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」をラバウルに進出させる。
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10月28日
・稲垣浩監督・阪東妻三郎主演の映画「無法松の一生」が封切。
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10月29日
・汪兆銘の南京政府、中日同盟条約締結。
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10月29日
・医薬品等統制規則公布。
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10月29日
・モスクワ会議。英イーデンと米国務長官コーデル・ハル、モロトフに対しポーランドとの関係修復希望。モロトフはポーランド国内軍への武器供給に関し安全な受け取り手の存在に疑問。
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10月30日
・朝鮮総督府、大学専門学校学徒臨戦決意大会開催。学生3万人。
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10月30日
・「京城日報」(社長高宮太平、総力連盟宣伝文化委員)、報国報道へ邁進と称する紙面刷新の緊急幹部会。
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10月30日
・汪兆銘南京国民政府と日華同盟条約調印(南京)。日華基本条約は失効。
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10月30日
・スチルウェル中将訓練の中国軍第38師団斥候、ビルマ・フーコン渓谷北端タナイ川で日本軍第18師団(田中新一中将)偵察中隊と接触。現場に急行した第18師団第56連隊(長久節郎大佐)は、損害多く退却。
しかし、中国軍第38師団と後続する第22師団も、翌44年1月29日、スチルウェル中将の意図に反し、蒋介石の指示により進軍停止。

米国側:
中国大陸からB29を発進させる計画があり、補給ルートとして北ビルマ(特にミチナ)攻略は必要。ミチナは昆明に通ずる旧ビルマロードの基点で、レド~ミチナロードを確保し道路沿いに送油管を敷設すれば、ミチナを一大軍需物資中継地にできる。その為、米国側の強硬な主張で、レド~フーコン峡谷~ミチナを攻める「アルパコア」作戦実施が決まる。
アーケディア会談(41年12月)の結果、蒋介石大元帥が中国方面連合総司令官になると、42年3月、ジョセフ・スチルウェル陸軍中将が参謀長として着任。同時に中将はCBI(中国、ビルマ、インド)方面米軍司令官、南東アジア方面副司令官の肩書も持ち、中国軍を再訓練・組織し、北ビルマ攻略を任務とした。
スチルウェルは、米式装備の中国軍2個師団(孫立人中将の第38師団、廖耀湘中将の第22師団)3万2293を率い、レドを出発。両師団の前進は遅く、空中投下による補給も十分であるのに、とめどなく要求し、同行の米軍衛生隊は、自分たちの食糧・医薬品まで奪取され、懸命に看視。

日本側:
9月、牟田口は、インパール作戦準備認可を受け、第56師団と第18師団第114連隊を雲南省怒江(サルウィン川)に派遣、左岸の中国軍第36師団を一掃し、第18師団にはフーコン峡谷確保を命じる。
フーコン峡谷は、東西20~70km、南北200kmに及ぶ大盆地で、大小無数の河川が交錯し雨季は大沼沢と化するジャングル地帯。

急派された第56連隊はユパングで孫中将の第38師団を包囲するが、第38師団は戦車と重火器で円形陣地を築き、空中補給を受けながら踏ん張る。
第56連隊の突撃は損害を増すだけなので態勢再建のために退却。田中中将は、反撃を計画し峡谷北側入口シンプヤンに向かおうとするが、牟田口中将はインパール作戦の妨げになるのを恐れ、反撃を中止し、マインカン(峡谷中南部)保持を命じる。
よって、スチルウェル軍は小規模な日本軍の抵抗を受けるだけで、前進。
スチルウェルは、快進撃を期待し突撃を命じるが、第38師団もその後方の第22師団も、のんびり進み、44年1月29日、蒋大元帥から、無用の出血を避けるようにとの秘密指令が出て、孫将軍は停止。
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10月30日
・重臣ら、東条を華族会館に呼出し。
米内が東条批判、近衛が辞職勧告、若槻が後継に宇垣を推すシナリオ。
東条は閣僚4人を伴い、初めから居丈高に戦争貫徹を主張、重臣らの計画崩壊。
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10月30日
・防空法改正。鉱石配給統制規則公布。
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10月30日
・洲崎遊郭廃業。
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10月30日
・ドイツ軍、トリーニョ川で反撃
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10月31日
・裁判所構成法戦時特例改正。軍需会社法公布。
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月末
・大本営、「ろ号作戦」決定。空母3隻173機の部隊をラバウル方面に派兵。
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2015年10月2日金曜日

昭和18年(1943)10月21日~22日 中野正剛(58)・天野辰夫「勤王まことむすび」グループ、倒閣容疑で逮捕(中野は27日未明、割腹自殺) 自由インド仮政府樹立(主席チャンドラ・ボース) 明治神宮外苑で出陣学徒壮行会(学徒7万人が雨中行進)

萩 2015-09-28 鎌倉
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昭和18年(1943)10月21日
・国家社会主義者広瀬健一(政治公論社)、検挙。横浜事件関連。
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10月21日
・中野正剛(58)・天野辰夫「勤王まことむすび」グループ、倒閣容疑で逮捕。「東方会」壊滅。
27日未明、割腹自殺。

21日早朝、警視庁特高課に拘引。令状なく行政執行法による行政検束。
上京した東方会の青年に対し「陸海軍の作戦の不一致でガダルカナルで失敗し数万の犠牲者を出した」と語った事が「公安を害した」とされる。
24日、中野処分の大評定。首相官邸。東条首相・内相安東紀三郎・法相岩村通世・検事総長松坂広政・内務省警保局長町村金五・警視総監薄田美朝・法制局長官森山鋭一・司法省刑事局長池田克・東京憲兵隊長四方諒二。
検事総長「証拠不充分、流言蜚語で現職代議士を拘束できない」。呼びつけられた国務大臣大麻唯男も「行政検束で議会出席を阻止できない」。
25日朝(議会召集日)、警視庁から釈放された中野は、そのまま東京憲兵隊長四方諒二の車に乗せられ連行、取調べをうける。陸軍伍長の3男、学徒出陣の2男の扱いにまで触れ、中野を攻める。
26日午後、釈放。
27日未明、割腹自殺。

四方諒二は腹心の大西和男に「二時間以内に自白させろ」と命じる。午前中に拘留手続きをとらなければ、中野の登院阻止できない。
ある憲兵隊関係者は、中野の子を召集し最激戦地に送り込むと、大西が脅迫したという。妻・長男・次男をこの3年の間に亡くしている中野は驚き、憲兵隊の意に沿うような証言をしたとしている。中野と親しかった人物が、昭和52年、岐阜に住む大西を探しだし、脅迫的に証言を迫るが、彼は震えるだけで詳細を洩らさなかったという。

中野正剛は、早大卒後、朝日新聞記者を経て大正9(1920)年福岡県選出代議士となり、以降当選8回に及ぶ。
この間、革新倶楽部、憲政会、民政党と転じ、昭和11(1936)年「東方会」を組織し総裁となる。
政治的立場は、アジア主義的傾向を根底に、東方会結成後は政界最右翼として政治体制の全体主義化に協力。
昭和12~13年ドイツ、イタリア訪問後、急激にファッショ的方向に傾斜、東方会の制服などもナチスばりのものにするほどで、反英米枢軸路線を鼓吹、戦争への道に拍車をかける。
昭和15年大政翼賛会常任総務となるが、東条内閣の翼賛選挙に反対、また戦時刑事特別法案に反対するなど反東条の立場を強める。
昭和17年3月3日、日比谷公会堂で時局批判大演説会を開き、「奴隷体制を撃破せよ」と題する4時間にわたる演説を行い東条政治を批判。
昭和18年元旦「朝日新聞」に「戦時宰相論」を掲載。クレマンソーの絶対不屈の強さ、レーニンの徹底抗戦を呼号する強さ、諸葛孔明の誠忠と謹慎、日露戦の桂太郎首相の人材動員の妙などを挙げ、「難局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に、謹慎に、廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ。」と結ぶ。
東条は激怒、直ちに情報局に対して朝日新聞元旦号の発禁を命じる。

中野は日比谷の演説以来、口を封じられ、「戦時宰相論」以来執筆も少なくなるが、ガ島撤退はじめ不利な戦況をしり、中野ら聖戦完遂論者は、東条更迭しより強力な内閣を作るべく重臣工作を始める。
東條は、特高・憲兵により情報蒐集を行い、この動きを察知、安藤紀三郎内相に命じ、戦時刑事特別法違反で全国的に百数十名の一斉検挙を行う。検挙対象は中野主宰の東方同志会、皇道翼賛青年連盟、勤皇まことむすびなど聖戦完遂を叫ぶ右翼陣営。警視庁は中野正剛を自宅から検束して調べるが、戦時刑事特別法違反の決め手となる倒閣運動の事実は出てこない。
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10月21日
・自由インド仮政府樹立。シンガポール、主席チャンドラ・ボース、インド国民軍の最高指揮者に。23日、日本、自由インド仮政府承認に際し声明発表。
24日、自由インド仮政府、米英に宣戦布告。
31日、チャンドラ・ボース、上京。日本軍占領のアンダマン、ニコバル諸島の仮政府帰属申入れ。
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10月21日
・明治神宮外苑で出陣学徒壮行会。徴兵猶予停止の学徒7万人が雨中行進。

兵役猶予解除の経緯
従来は、兵役法などにより大学・高等学校・専門学校学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。
昭和16年(1941)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮し、12月、この年の卒業生に対し臨時徴兵検査を実施し、翌昭和17年2月に入隊させた。
昭和17年には、予科、高等学校も対象とし、修業年限を6ヶ月短縮し、9月卒業、10月入隊とした。
昭和18年10月1日、東條内閣は在学徴集延期臨時特例を公布し、理工系、教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃した。特例公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患
者を除く)までを12月に入隊させることとした。

この第1回学徒兵入隊を前に昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれた。東條首相・岡部文相らが出席、関東地方の入隊学生ら7万人が集まった。
出陣学徒壮行会は、各地でも開かれたが、翌年の第2回出陣以降の開催はなかった。

昭和18年10月には、教育ニ関スル戦時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだ。
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10月21日
「十月二十一日(土)
 軽井沢において。『中部日本新聞』に書く。朝夕は寒し。葛かづら真紅。紅葉も、あるものは真紅、あるものは褐色。高山の紅葉の赤きは急に寒さになるからだと、かつて自由学園の羽仁〔もと子〕校長が説けるを想い出す。
 そんなに寒くもないのに、電気ストーブをやってパンツ〔ズボンのこと〕と毛布を焼く。自分でやったことながらこの頃、物資を損ずることほど、心憎きはなし。
 日本は何を目がけて大きくなったろう? 戦争そのものだというのは明らかに嘘だ。戦争をやると何かが達成すると考えるから戦うのだ。征服慾だというのも不完全だ。征服して何を求めるのか。やはり、日本的なものを世界に布こうという考えと、それからそれにより自己が利益しようとの二つだろう。日本人は干渉好きだ。しかし何か行動によってこれをなすことはしない。たとえば昨日、電車の中で網の上に鞄を載せようとしたのを何人も手助けしない。日本人の干渉は思想的なものに対してだ。
 英米人は干渉嫌いだ。しかしそれは思想に対してであって、他が困っている場合にこれを助ける。町で考え込んでいると、「何を捜すんですか」といって必ずヘルプしようとするのはその例だ。電車の中でも必ず助ける。とすれば干渉は同じだ。相違は「何を目がけて?」という点に帰する。それは習慣と傾向の相違といっていいであろう。」(清沢『暗黒日記』)
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10月22日
・山西省公署、産業建設のための「山西省急進建設団」を編成、17歳~40歳男子の同団服務義務を決定
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10月22日
・豪北担当第2軍(阿南惟幾大将)、新設。
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10月22日
・米軍機、カロリン諸島クサイ島初空襲。
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2015年6月6日土曜日

昭和18年(1943)10月12日~20日 学徒出陣壮行の早慶野球戦 51師団のサラワケット越え 「 『毎日新聞』に、徳富蘇峰と本多熊太郎の対談会載る。開戦の責任は何人よりもこの二人である。文筆界に徳富、外交界に本多、軍界に末次信正、政界に中野正剛 - これが四天王だ。」(清沢『暗黒日記』) 朝鮮人学徒動員「学徒よ、征け。大号令、学徒にくだれり。皇恩に応え奉るのは今ではないか?一人残らず速やかに戦列に馳せ参じ、朝鮮青年の鉄火の意気を全世界にふるえよ! 起て、そして、みなともに征け」 傀儡フィリピン共和国独立/「フィリピン」國ハ日本國ノ為スべキ軍事行動ノ為ノ一切ノ便宜ヲ供輿ス    

ハナショウブ 江戸城(皇居) 2015-06-03
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昭和18年(1943)
10月12日
・連合軍、ラバウル攻撃開始。349機空襲。
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10月12日
・政府、「教育に関する戦時非常措置方策」決定。理工科系と教員養成系以外の徴兵猶予停止、文科系大学の理科系への転換、年3分の1を勤労動員とすることを決定
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10月12日
・イギリス・ポルトガル、アゾレス諸島貸与協定を公表。
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10月12日
・連合軍、ヴォルトルノ河を渡河するも、攻勢は停止させられる
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10月13日
・貯蓄券規則公布
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10月13日
・イタリア、バドリオ首相、対独宣戦布告。
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10月14日
・相馬正男「今昔ロシア物語」発禁
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10月14日
・アメリカ第8空軍、(第2次)シュヴァインフルト爆撃で再び大損害を被る(暗黒の木曜日)。損害60機のB−17。米軍の昼間爆撃中止される
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10月14日
・ソ連軍、サポロジェ奪回
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10月15日
・米軍、オロラ湾を爆撃
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10月15日
・家屋疎開閣議で決定
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10月16日
・日本、フィンシュハーフェン反撃開始
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10月16日
・戸塚球場で、学徒出陣壮行の早慶野球戦
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10月16日
「十月十六日 (土)
 臨時議会に軍需会社法等を提出に決定。増産に一生懸命になるのは当然だが、命令さえかければ、また法律さえできればそれで可能だと考えているのは依然たり。
 「会社の国家性」とか「利益追求の否定」とかいったようなことばかりいっている。軍需会社法もそれだ。形式主義もこれまでになればとうてい反省の余地はあるまい。」(清沢『暗黒日記』)
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10月16日
・アルバニア、国民議会、ドイツ軍保護下、イタリアからの独立決める
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10月16日
・イタリア、チアーノ、ドイツ軍に逮捕
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10月17日
「十月十七日 (日)
 明日で東条内閣二周年目を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう。
 年表作成中(昭和十五、六年頃)感じたこと ー 軍部は大政翼賛会その他に一々干渉。国内においては完全に勝利を得た。同様な勝利が敵に得られるかどうかが唯一の残る問題だ。」(清沢『暗黒日記』)
*
10月18日
・陸軍51師団(中野中将)、ラエよりサラワケット山横断しキャリ着。2、000(20%)死者
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10月18日
・統制会社令、軽金属使用販売制限規則公布
*
10月18日
・大日本育英会、成立
*
10月19日
・中国国防最高委員会、憲政実施協進会(会長 蒋介石)の設置を決定。
*
10月19日
・中国国民参政会、経済建設協進会(会長 蒋介石)組織大綱を発表。
*
10月19日
「十月十九日(火)
 『毎日新聞』に、徳富蘇峰と本多熊太郎〔元駐華、独大使〕の対談会載る。開戦の責任は何人よりもこの二人である。文筆界に徳富、外交界に本多、軍界に末次信正、政界に中野正剛 - これが四天王だ。徳富も本多も客観性皆無。
 ロ-ゼヴェルトがアルゼンチンのユダヤ人弾圧を攻撃している。米国が人種問題を云々する資格あるか。
 徳富は東条に例によって太鼓持ちぶりを発揮している。この連中が第一線に出るべきだ。統制経済や社会主義は公徳心の完成を前提にす。水道などが壊れても職工は決して修繕せず。(僕の家近く)」(清沢『暗黒日記』)
*
10月19日
・ハル米国務長官・イーデン英外相・モロトフ・ソ連外相会談。~30日、モスクワ。戦後問題を協議。
30日、「一般的安全保障に関する4ヶ国宣言」(中国も参加)発表、一般的国際機関=欧州諮問委(EAC)設置決定。
*
10月19日
・米・英・カナダ、第3次対ソ武器貸与議定書調印。
*
10月20日
・朝鮮人学徒動員。海軍特別志願兵臨時採用規則。朝鮮の法文科系大学・専門学校在学生を特別志願兵に採用決定。日程発表。動員に崔南善・李光洙ら学者・作家が手を貸す。

学務局は、全国各道と各部の視学(奨学士)および中学校長に対し、学兵制該当者の家庭を戸別訪問し、志願者受付けに積極的協力をすること、本人不在の場合は親権者の承諾も有効と、指示。韓相竜主導の国民総力連盟のポスターが全国に貼り出される。

「学徒よ、征け。大号令、学徒にくだれり。皇恩に応え奉るのは今ではないか?一人残らず速やかに戦列に馳せ参じ、朝鮮青年の鉄火の意気を全世界にふるえよ! 起て、そして、みなともに征け」。

総督府は更に、李光洙、安在鴻、曹晩植、呂運亨、崔麟、崔南善、尹致昊、など名士を動員し、ソウルと東京で講演会開催の計画を立てる。李光洙、崔南善、季聖根が応じ、かなり多くの人たちが狩出し役を引き受ける。11月下旬、崔南善は明治大学講堂で講演。  
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10月20日
・第36師団、第1軍より転出  
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10月20日 ・日本占領下傀儡フィリピン共和国独立。大統領ホセ・ラウレル。日比同盟条約(秘密軍事協定)調印。
議員54人、それと同数の州知事・市長とによる一院制の国会が誕生、議長にべニグノ・S・アキノ、フィリピン共和国大統領にホセ・P・ラウレルが選ばれる。
議事堂でラウレルが独立宣言を読み上げ、軍政施行以来、初めてフィリピンの国旗が議事堂に掲げられ、国歌が演奏される。

第14軍内の軍政監部(42年6月29日軍政部から改称)は改称され、新たに「比島政務班」が設置される。
一方、軍政監部の各支部は、「地方連絡事務所」と改称し存続。
しかも、以前の軍政監部支部はルソン島北部・同中部・同南部とピサヤ諸島、ミンダナオ島の5ヶ所に設置されていたが、地方連絡事務所になってからは7ヶ所(ルソン島東北部・同西北部・同中部・同南部、ビコール半島、ピサヤ諸島、ミンダナオ島)に数を増す。

「日比同盟条約」締結。マニラに大使館設置。初代大使村田省藏。

了解事項「「フィリピン」國ハ日本國ノ為スべキ軍事行動ノ為ノ一切ノ便宜ヲ供輿ス」。
これにより、ラウエル大統領に、44年11月「強制労働令」を発令させる(道路、橋、港湾施設の修理)。
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10月20日
・日本陸軍16師団第20連隊、レイテ島ゲリラ討伐戦開始。
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10月20日
・マッカーサー大将、ラバウル攻略中止を不満ながら承服し、この日、フィリッピン侵攻計画「レノ」第3号を策定。之に対して、ワシントン側は限定条件を付けてくる。
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10月20日
・ウェーベル、インド総督となる。
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2015年5月26日火曜日

昭和18年(1943)10月3日~11日 怒河作戦(インパール作戦序幕) 関釜連絡船「崑崙丸」、米潜水艦により沈没。死者616 ソロモン群島ベララベラ島撤退 アピ事件(北ボルネオ) 「近頃では知識階級でかれ(東条首相)を高く評価するもの一人もなし。」(清沢『暗黒日記』)    

ハナショウブ 2015-05-26 江戸城(皇居)二の丸庭園
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昭和18年(1943)
10月3日
・ビルマ方面軍、インパール作戦序幕として怒河作戦開始。
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10月3日
・16軍司令官、ジャワ原住民軍隊「ジャワ防衛義勇軍」編成指示
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10月3日
「十月三日(日)
雨降る。毎日の雨で、しかも水道は出ない。
今朝のラジオで鉄道省と逓信省を一つにして運輸通信省、軍需省を作ったかわりに農林省を農商省にするとのことだ。(一)この大改革がビクともせずにやれるのはさすがだ。(二)しかし機構の変改は必然に一時能率を遮(さまた)げる。(三)「機構より人」をいう東条首相が、それをやらざるを得ないところに問題がある。機構の改革その事は悪くない。
(一)機構いじり ー 形式主義が依然としてイデオロギーの中心である事
(二)形式を変えなければ、それが中心で動いてきた役人は、そのセクショナリズムから離れ得ない事
右の第二は日本人の特異点として注目さるべきだ。
何人(なんびと)の頭の中にも、現下の最大問題が陸海軍の統合融和にあり、そこにまず省改廃のメスが下さるべきはずだと考えているのに、一言もこれに言及するものはない。」(清沢『暗黒日記』)
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10月3日
・スペイン、非交戦国から中立国に再宣言。
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10月3日
・イギリス本国艦隊とアメリカ補助空母のノルウェー攻撃で1万3000トンが撃沈される
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10月3日
・ドイツ『ポーラーベア(北極熊)』作戦(ドデカネーゼ諸島占領作戦)
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10月4日
・清瀬一郎『正気』発禁
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10月4日
・アメリカ、経済学者イーリ(89)没
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10月4日
・アンリ・ジロー将軍の連合国軍、コルシカ島を独から解放
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10月5日
・関釜連絡船「崑崙丸」、米潜水艦により沈没。死者616、福岡県沖ノ島付近。
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10月5日
「十月五日(火)
問題がなくなると「統制強化」をやるのが日本人の特徴だ。今朝の新聞は「防衛行政一元化、急速要望さる」「交易指導一元化」(『読売』)、「宣伝機関の一元化の必要性」「発注の徹底的一元化」(『毎日』)といった具合に一元化を説いている。「一元化、一元化で戦争終りけり」。
交通省といえばいいところを「運輸通信省」と長くいうところに事務官的特徴を見る。」(清沢『暗黒日記』)
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10月5日
・米、ニミッツ太平洋方面総司令官、ギルバート攻略「作戦13=43号」(ガルバナック)正式発動
作戦の主目標は、ギルバート諸島の中で日本軍が大型飛行場をもつ基地を設けたベチオ島。
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10月5日
・イギリス、在ロンドン・ポーランド亡命政府首相ミコワイチック、イーデンに対しソ連・ポーランド間の外交関係の重要性認めるも国境問題の議論には反対、米英連合軍とソ連が共にポーランドに入ることを要求
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10月5日
・イギリス、ポーランド亡命政府最高司令官ソンコフスキ将軍、国内軍司令官ブル・コモロフスキ将軍にソ連がある政治的条件を満たさない場合は敵と見做すべきと主張
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10月5日
・ドイツ軍、コルシカ島から撤退。
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10月6日
・日本軍、ソロモン群島ベララベラ島撤退。ブーゲンビル島よりの収容隊、589人収容。駆逐艦「夕雲」撃沈。
日本軍は、ニュージョージア島喪失により中部ソロモン方面からの「転進」を決定。
6日、第3水雷戦隊指令伊集院松治大佐が指揮しベララベラ島地上部隊撤収作戦決行。兵員収容には駆逐艦「文月」「夕凪」「松風」他駆逐艇5隻、内火艇3隻を当て、撤収艦艇援護には駆逐艦「秋雲」「風雲」「夕雲」「磯風」「時雨」「五月雨」の6隻を充てる。
午後8時55分、フランク・ウォーカー大佐指揮の第4水雷戦隊(駆逐艦「セルフリッジ」「シュバリエ」「オノバン」)が魚雷14本と砲撃を開始。
3分後、「夕雲」は距離2500mで魚雷8本を発射するが、米駆逐艦の砲撃も集中し被弾、炎上し落後。しかし、魚雷1本が「シュバリエ」に命中。その他、「セルフリッジ」に魚雷1本が命中し小破、「オノバン」は「シュバリエ」に追突して小破。両軍は潮が引くごとく互いに戦場離脱。
日本軍の地上部隊撤収は成功。魚雷48本のうち命中2本と精度を欠く攻撃。
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10月6日
「十月六日 (水)
近頃 - といっても大東亜戦争後、陸軍々人 - しかも少佐、中佐あたりの書いていない日の新聞はほとんどない。そこに指導者の偏在を知ることができる。
国策研究会で、大東亜行政に関する書を出そうとした。それを大束亜省が許させかった。あるいは大東亜省自身は将来を見通していたが、ただ言い出す勇気がなかったかも知れぬ。
逓信省と鉄道省との併合で、省内で大騒ぎしているそうだ。さもありなん。これで能率があがるか。さらばとて縄張り争いでもいかず。大戦争で、この国民がウンと修練することがいいだろう。」(清沢『暗黒日記』)
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10月6日
・高速力学研究所設立
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10月6日
・薬剤師会令公布
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10月7日
・ソ連軍、ドニエプル川を渡河。
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10月8日
・国際郵便貯金規則公布
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10月8日
・岸信介、国務大臣に就任。東條英機、商工大臣に就任(兼任)。逓信大臣に八田嘉明(兼任)。
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10月8日
・フランコ、対ソ戦参加のスペイン義勇軍の引揚げ要求。
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10月8日
・ドイツ『ヤーコブ』作戦(ウズダ北方地域のソ連パルチザン掃討作戦)
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10月9日
・アピ事件(北ボルネオ)。
翌10月10日の双十節(中国の革命記念日)に合わせて華僑を首謀者とする抗日ゲリラ(神山遊撃隊、キナバル・ゲリラ)約300名により約50名(一説には60名)の日本人(軍民)虐殺。
19日、日本軍により鎮定。華僑・バジャオ族等約500名逮捕投獄、約250名処刑。
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10月9日
「十月九日(土)
今朝の新聞で軍需省を中心とする改組が発表になった。中央機構などは、ない方が国家運営にいいぐらいなものだから、これを機会に懸案の廃合はいいだろう。しかしそれならば何故に外務省と大東亜省という二つの対立的存在を一緒にしないのだろうか。また陸海軍の軍務省案は如何。」(清沢『暗黒日記』)
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10月9日
・ソ連軍、クバニ半島を制圧
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10月9日
・チトー指揮パルチザン部隊、トリエステで枢軸国軍に対し蜂起
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10月11日
「十月十一日 (月)
東条首相は閣員などに対し小僧扱いにする由。近頃では知識階級でかれを高く評価するもの一人もなし。かれが領土を泰(タイ)国に与えた声明も陛下には奏上したかも知れぬが、他は相談に預からなかったらしいと。」(清沢『暗黒日記』)
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2015年5月11日月曜日

昭和18年(1943)10月1日~2日 この頃、重臣達の間で反東條の動き(岡田、近衛、米内、若槻、広田) 「下級現場監督者ハ工員ノ反抗ヲ怖レ、厳正ナル規律ノ要求ヲ躊躇シアルノ実状」 インパール作戦反対派・南方軍稲田総参謀副長転出 コロンバンガラ島第2次撤退  

シラン 2015-05-03 わが家の庭
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昭和18年(1943)10月
この月
・第三次南嶽会議、蒋介石、将領の堕落叱責
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・この頃、重臣達の間で反東條の動き。
息子や姪の婿が統帥部中枢にいる岡田啓介は、戦況の容易でない事を重臣たちに伝え、「まったく自己反省のない男だからね、東條という男は」と付け加える。
岡田の呼び掛けに、米内・若槻・広田が応じ、東條を呼び重臣たちで諌めようと招待状を出す。
一人で来て欲しいとの要請を無視し、東條は閣僚・将校を連れてやって来て、岡田は計画は失敗。
東條は、岡田の申し出の裏に反東條の動きがあるのを見抜き、機先を制す。
しかし、正確な情報を知らせろとの重臣達の呼びかけは、反東條運動の契機となる。
近衛は木戸幸一(内大臣)に書簡を送り、日本が敗戦の道を歩んでいるのは統制派幕僚が仕組む革命計画の為だと断じ、東條こそその元兇と決めつける。
皇道派と関係の深い近衛にすれば、統制下の日本の現状は、まさに共産主義体制そのものという。皇道派の荒木・真崎・柳川・小畑と近衛との接触の深まりもある。
岡田・近衛のもとには、外務省長老幣原喜重郎の「現政府は英米撃滅など英米人を鬼畜のごとく思わせているが、こんな方針では和平になったら英米に対する政府の態度が急に変わり国民は納得しないだろう」との伝言も吉田茂が伝える。岡田は吉田を通じ東久邇とも接触。
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・日本出版会、企業整備本部を設置。
資格審査会と企業整備委員会を関係官庁の役人と日本出版会の役人とで構成し、企業整備の具体的措置に乗り出す。翌19年5月迄に、書籍出版社203、雑誌996に「整理統合」。書籍出版社は整理前の1/18に縮減。
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・和田喜太郎(中公、/S20/2/7.獄死)、渡辺公平(日鉄)、検挙
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・第17師団(酒井康中将)、中国より主力をニューブリテン島、1/3をブーゲンビルに派遣
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・昭和18年度臨時徴兵検査規則公布
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・この月、厚生省調査の重要工場の欠勤率。
全体14.2%、新徴用者17.1%、従業員1万人以上の工場14.8%。この率は、戦局が不利になり、国民の生活が極度に悪くなるにつれて増大。
1943年10月~1944年9月までの欠勤率20%、空襲が始まってからは49%。(J・B・コーヘン「戦時戦後の日本経済」)
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・航空機関係工場第3回行政査察報告。
三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所についてすら、「下級現場監督者ハ工員ノ反抗ヲ怖レ、厳正ナル規律ノ要求ヲ躊躇シアルノ実状」。
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・信夫清二郎「ラッフルズ」、英国植民地政策を正義・博愛・人道に基づいているという内容で発禁 *
・浅見淵「満州文化記」(「国民画報社」)
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・花田清輝「楕円幻想」
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・太宰治(34)、「雲雀の声」完成、検閲不許可の恐れあり出版延期。翌年、ようやく出版の運びとなるが、印刷所が空襲に遭い発行間際の本が焼失。20年に発表の「パンドラの匣」はこの作品の校正刷をもとに執筆。
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・小林秀雄(41)、「文学者の提携について」(『文藝』)。
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・黒島伝治、没。
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・「一般的安全保障に関する4ケ国宣言」、米英ソ中が発表、国際機構設立宣言
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・ギリシャ、「民族解放戦線(EAM)」が対独協力容疑で他レジスタンス組織を武力攻撃、レジスタンス内部の内戦惹起。
イギリスは「民主ギリシア国民連合(EDES)」・「国民社会解放同盟(EKKA)」に肩入れするが、EAMは降伏したギリシア駐留イタリア軍装備を入手、優勢。ドイツ軍は「共産主義への恐怖」を煽り右翼的ギリシア人を傀儡組織「治安大隊」に組織しようとする。1944年2月停戦。
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・ポーランド、ポーランド労働者党、ワルシャワで「ポーランド国家評議会」設立準備
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・ソ連軍、戦前のポーランド国境97キロの白ロシア扇形戦闘地域まで進軍
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・アルゼンチン、ペロン、労働局長(のちに労働福祉庁長官)就任。
労働組合結成と中央組織創設をバックアップ。1年間に29の労働関係法制定。300以上の労働争議に関与し、半分以上を労働者に有利な方向で解決。労働者の支持をバックに軍内部での力を強める。
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・アルゼンチン、知識人150名、言論自由・民主政治確立を訴える宣言発表。政府は全国の大学弾圧と進歩的教授追放。
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10月1日
・南方軍稲田総参謀副長、総軍司令部付から第19軍司令部付に転出。後任大本営作戦部長綾部少将。インパール作戦反対派排除。
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10月1日
・戦時交通統制で京阪電気鉄道と阪急電鉄が合併し、京阪神急行電鉄となる
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10月1日
・国鉄ダイヤ改正で、貨物輸送優先となり、旅客輸送減少
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10月1日
・風早八十二「日本社会政策史」「労働の理論と政策」、昭和研究会「長期建設期における我国労働政策」それぞれ発禁
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10月1日
・特許局と技術院統合
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10月1日
・パーマネント禁止
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10月1日
「十月一日(金)
昨日は駒沢ゴルフ場の閉鎖最後日でバッグをとりに行った。やっている間に、N09のアイアンを拾われ盗まれた。不愉快なること限りなし。近頃は盗人の世の中である。汽車で据(すわ)っている間に靴を盗まれた人。電車で鞄を盗まれた人。非常に多し。
新聞とラジオは増産と飛行機生産のことしかない。それほど飛行機が欲せられている。しかし飛行枚は、世界どこにでも戦線を拡げて、それで足りるという訳にはいかない。戦線は拡げすぎていないか - ローズヴエルトはそういっている - 戦略はそれでいいか。その辺の批判がないから、犠牲は非常に多かろうと思う。
戦争の最初から、企劃院その他で (一)敵の生産力 (二)自国の工業力を研究していたはずだ。今さらに慌てるのは、いかに研究が独善的であったかを示すものにすぎぬ。
九月十八日朝刊発表 - 伊藤海軍中尉が、工事、捗(はかど)らずとて割腹自殺した。新聞は大書して徳を称した。海軍葬が執行された。死そのものが尊敬される道徳の一表現である。
比良からラウレル、アキノ、パルカスの三氏来る。
野村重臣は『読売新聞』においていっている。イタリア上層部はアングロ・サクソンであるとは奇妙である。
 
   米英思想を嗤う 日本の場合 野村重臣
戦局は必ずしもイタリアにとってのみ苛烈であったのではない。それは日独両国にとっても米英ソ聯にとっても等しく容易なものではなかった。従って戦局の困難が戦意を挫折するも、かえって昂揚するも一にかかってそれぞれ国民の心構え如何にあるのである。イタリアは戦況の不利に戦意を喪失した。しかも戦況の不利は初めから戦意の不足に原因したものと思われる。この意味において、イタリアの不名誉はイタリア国民の自ら招いた報いであったのである。 

イタリアの場合に比べて、ドイツならびに日本の戦意が益々旺盛であることについては些(いささか)の懸念もない。就中アッツの玉砕に鑑みて、さらに護国の忠霊に応えて立ち上った皇国民の敢闘精神に顧みて、日本がイタリアの覆轍(ふくてつ)を踏むものだとは絶対に考えられない。イタリア上層部の親英主義はその血管を流れるアングロサクソンの血に原因したのである。しかるに皇国一億の皇民はこれすべて大和民族なのである。イタリア国軍の幹部は親英的貴族に占拠されていた。しかるに皇軍はいうまでもなく、天皇の軍隊であり、同時に皇軍将兵は皇民と完全に一体なる軍隊である。イタリアの場合、その上層部のみならず、その国民も相当に厭戦気分に捉われ、反戦的平和熱に浮されていた。この点、米英に対する宣戦の大詔を拝した以上、承詔必謹を本旨とする皇国民が戦意を喪失する惧れは全くないと確信する。この意味において、戦局が如何に苛烈となろうとも、仮りに戦局が万一不利となろうとも、皇国日本は必ず最後まで戦い抜くもの、戦い抜き得るものと考える。

しかしながら、昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦の大詔を拝するに至った瞬間まで我が国内にも甚だ根強い親米英論が存在した事実は、決してこれを無視すべきではない。日米交渉の当時、その妥結を欲した者は少くなかったのである。日米交渉を妥結するためには、支那事変を放棄し、三国条約を破棄し、従って新秩序建設の理想を断念しなければならなかった。しかもその妥結を欲した事実は、新秩序の建設よりは英米との国交調整を一層重要なりとしたからに外ならない。しかるに大東亜戦争の戦争目的は実に新秩序の建設にあるのである。かかる戦争目的に対する深刻なる自覚なくして、戦争を継続することは甚だ困難であり、不可能でありさえもする。固(もと)より米英に対する宣戦の大詔は、この親米英論者に対して反省を促したものと思われる。しかしながら、その反省がどの程度まで深刻に、かつ具体的に加えられたかは、なお考えて見る要がある。・・・〔『読売報知』十月一日〕

マクァーサーは比島で死ぬべきであったか、それ〔と)も生きて米英軍を指揮すべきであったか - むろん、米英の立場よりして。
日本の新聞はマルクス主義〔の〕影響から抜けず、ステチニアスが米国務次官になったというと直ちに、かれがモルガン財閥の一人だといった批判をする(『中部日本新聞』)。ベルリン電報でもさように唯物的ではない。この連中の困ったことは、公式論をやるだけで、それを打破する気持のない事だ。」(清沢『暗黒日記』)
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10月1日
・連合軍・第5軍ナポリおよびペネヴェントを占領
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10月2日
・11軍、広徳占領
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10月2日
・第1軍、十八秋太岳地区粛正作戦(「モ号作戦」)を実施(10月2日~12月10日)。  
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10月2日
・学徒の徴兵猶予停止
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10月2日
・コロンバンガラ島第2次撤退。
大発5隻沈没、300名行方不明。5600人撤収。南東支隊司令部(佐々木登少将)、八連特司令部(大田實少将)、チョイセル島中部西海岸スンビ経由ブーゲンビル島ブインへ。3日ブイン着。
中部ソロモン(ニュージョージア、コロンバンガラ、ベララベラ)は完全に米軍の手中に落ちる。

「八連特」は、防備手薄のニューアイルランド島方面防備部隊として、司令部は島西端のカビエン、横七時は中部東海岸ナマタナイ、呉六特はムンダで消耗しているので敵から遠い所で戦力を回復させよう、とカビエン西約420km、アドミラルティ諸島マヌス島ロレンゴーに配置(翌19年5月マヌス島玉砕)。
ブーゲンビル島に米軍が上陸すると、第8艦隊司令部は、12月1日ビスマルク島強化の為、カビエンの八連特中心に第14根拠地隊を編成、太田少将を司令官とする。しかし、昭和19年2月10日付けで軍令部出仕となり、内地に引き揚げる。
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10月2日
・オーストラリア、フィンシュハーフェン奪回 
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10月2日
・英軍コマンド部隊テリモリに上陸、第8軍と合流
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2015年4月18日土曜日

昭和18年(1943)9月27日~30日 尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲら、スパイ容疑で死刑判決 「絶対国防圏」の設定 「この間の東条の演説の中には・・・「赫々たる戦果」という枕言葉はなかったと或人が話していた。」(清沢『暗黒日記』)

江戸城(皇居)東御苑 2015-04-16
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昭和18年(1943)
9月27日
・久野豊彦「東漸するソ連」、シベリアの分離やスターリン没落などの記事内容は外交に支障ありとして発禁
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9月28日
・コロンバンガラ第1次撤退(陸軍)、翌日までに6800名が撤収。損害は大発1隻のみ。
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9月28日
・政府、ムッソリーニ共和国を承認
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9月28日
・閣議、法文系大学・専門学校の徴兵猶予停止、決定
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9月28日
・この日の中野重治『敗戦前日記』。
「一九四三年九月二十八日 酒を一升六合持って来て組長をして四世帯へ各世帯四合ずつ測って売らせようとする如きは、間ちがいだ。一升六合の測定、四合の測定、代金勘定、十二世帯中からの四世帯の抽出、かくの如きことを組長の日常生活に組みこもうと考えること、考えざるを得ないことに問題があろう」
*
9月28日
・ソ連・フランス国民委員会協定。
ソ連は「戦うフランス」をフランス市民・フランス領土の総体、国民委員会をフランスを代表する唯一資格あるものと承認
*
9月28日
・ドイツ、軍需省を設置
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9月28日
・イタリア、ナポリの4日間、市民とドイツ軍交戦、ドイツ軍降伏
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9月28日
・ドイツ軍、スプリットを奪回
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9月29日
・企画院・商工省を廃止、軍需省新設決定。11月1日発足
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9月29日
・尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲら、スパイ容疑で死刑判決。
①リヒアルト・ゾルゲ:昭和19年11月7日死刑
②尾崎秀美:昭和19年11月7日死刑
③マックス・クラウゼン:終身刑、昭和20年10月9日釈放
④プランコ・ド・ヴーケリッチ:終身刑昭和20年1月13日網走にて獄死
⑤宮城与徳:判決前(昭和18年8月2日)巣鴨にて獄死
⑥小代好信:懲役15年昭和20年10月8日釈放
⑦田口右源太:懲役13年昭和20年10月6日釈放
⑧水野成:懲役13年昭和20年3月22日仙台にて獄死
⑨山名正美:懲役12年:昭和20年10月7日釈放
⑩川合貞吉:懲役10年昭和20年10月10日釈放
⑪船越寿雄:懲役10年昭和20年2月27日獄死
⑫河村好雄:判決前(昭和17年12月15日)巣鴨にて獄死
⑬九津見房子:懲役8年昭和20年10月8日釈放
⑭北林トモ:懲役5年昭和20年2月9日釈放後死去
⑮秋山幸治:懲役7年昭和20年10月10日釈放
⑯アンナ・クラウゼン:懲役3年昭和20年10月釈放
⑰安田徳太郎:懲役2年(執行猶予5年)
⑱西園寺公一:懲役2年(執行猶予3年)。
*
9月29日
・「今日、軍需省ができて、商工省と企劃院が廃された。
これは代表的なやり方だ。外の国ならば、既定の機関はそのままとして、軍需省を設置して、そこで事務を統一するはずである。しかし「日本的性格」においては、そういうことはできず、また機構主義の軍部政治においては、さようなことは不可能なのだ。
すなわちこれを一面よりいえば東条の「機構よりも人」主義の破綻だ。軍需省は発注一元化の要請に応ずるためだ。それだけならば、何も新しい機構を造る必要がないではないか。そこに日本人の欠点がある。
汪精衛が来たのは、日本が蒋介石政権に働きかけ、条件を提出した。それが宋子文を通して、米国で新聞に発表された。汪はこれを聞き、怪しからん、重慶工作は、予を通してという約束違反ではないかという抗議のためであるとのことだ。
重慶工作などは、従来、何回あったか知れん。それを今頃やっと気付いて来たとは、さてもさてもだ。
近頃、といってもズッと前からのことだが、新聞記事も演説も「軍、官、民」といっている、すなわち士農工商といった順だ。
この間の東条の演説の中には「大稜威の下」という言葉は例によっであったが、「赫々たる戦果」という枕言葉はなかったと或人が話していた。
三井物産の山西省における支店が統制違反をしたというので支店長は十ヶ年の懲役、向井〔忠晴〕会長は、謝罪に支那まで出向き、それから帰国後辞職するとのことだ。
そのままにして置いて、増産に挺身させる気持になれず、国民をだけ、いじめる態度が、ここに現れている。現地における商業人の苦心は想像に余りある。
この日(九月二十九日)尾崎秀実の死刑決定す。僕は一、二回会見しただけだ。かれは果してスパイだったろうか。それを肯定も否定もする材料はない。ただその資料が公開されないのが、遺憾である。」(清沢『暗黒日記』)
*
9月29日
・ポーランドの労働運動家・政治家ワレサ、誕生。
*
9月30日
・「絶対国防圏」の設定。第11回御前会議、「今後採るべき戦争指導の大綱」、「絶対国防圏」構想決定。マリアナ、カロリン、西ニューギニア線に後退。

従来の「長期不敗」を改め「今明年内に戦局の大勢を決する」ことを目途とし、その為に絶対確保すべき要域を「千島、小笠原、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び印度洋」と定める。
統帥部は、この国防圏を守るに必要な航空兵力として、1944年中に陸海合計5万5千機の生産を政府に要求。連合軍の航空兵力が44年末には第1線機約7千、総兵力約1万2千機になると推定し、船舶被害を月3万トンに押える為の対潜飛行機2千が必要などがその主な根拠。
しかし航空機年産額は陸海計1万7~8千機で、一挙に3倍は不可能とし、企画院は目標4万機と定める。更に、甲造船180万トン(44年3月、255万トンに目標変更)、重要資材についても普通鋼材500万トン、特殊鋼材100万トン、アルミニウム21万トン、セメント700万トン、木材(内地)9千万石その他大増産を計画。
国内体制整備面では、6月、軍需生産第1主義確立の為の「戦力増強企業整備基本要綱」、食塩自給体制を図る「食糧増産応急対策要綱」、衣料品節約を強調する「戦時衣生活簡素化実施要綱」、学生を勤労動員する「学徒戦時動員体制確立要綱」、全国を9ブロックに分けて中央集権を強化する「地方行政協議会」などの措置がとられ、9月29日、企画院・商工省を廃止して軍需省新設、決定(発足11月1日)。

航空機4万機で絶対国防圏を死守できるのかとの議論で、軍令部総長永野修身は、「絶対確保の決意はあるが勝負は時の運でもある。独ソ戦の推移を見ても初期のとおりにはいっていない。今後どうなるか、戦局の前途を確言することはできない」と答え、この自信のない態度に会議の空気は変わり、誰もが言葉を失なう。
東條は、「元来、帝国は自存自衛のためやむにやまれぬため起ったのである。帝国はドイツの存在の有無にかかわらず最後まで戦いぬかなければならない。戦局の如何を問わず戦争目的完遂の決意には変更はない」と発言するが、会議は沈んだまま。参謀総長杉山元が、「作戦上の要求から見るならば五万五千機を要する。しかし国力を賭してもできぬときはやむを得ないから機動力を利用して数の不足を補い、目的達成に努力することにしたい」ととりなす。東條の航空機4万機生産の約束だけが出席者の救い。

曖昧な「絶対国防圏」。
「今明年内に戦局の大勢を決する」基本方針は、作戦上の具体的裏付けはなく、「強くその必要性を強調して、政府諸公に要望せんとする政策的狙い」にすぎない(「機密戦争日誌」)。
「絶対国防圏」で、陸海軍一致して重視したのは、ビルマ、アンダマン、ニコパル等の南西方面で、また太平洋地域では、陸軍は豪北方面(西部ニューギニア、ハルマへラ、セレベス、チモール)、海軍は中部太平洋方面(カロリン、マリアナ諸島)の強化を図る(9月15日「中南部太平洋方面作戦陸海軍中央協定」)。この3方面は、連合軍の反攻ルートにも合致している。
「絶対国防圏」の眼目は、防衛線を縮小し内を固める事にあり、従って南東方面担当の第8方面軍には、実質的放棄を意味する「持久命令」(大陸命第855号)が発せられる。
しかし、海軍は中部カロリンのトラック確保に集中し、その為、国防圏から外れるマーシャル、ラバウルの前衛拠点が必要となり、更にその拠点を守る為にソロモン、ビスマルク諸島防備作戦を決め、陸軍も東部ニューギニアの航空撃滅戦、マーシャル、カロリン諸島派兵を決定。
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9月30日
・御前会議、法文系大学・専門学校の徴兵猶予停止、承認。
勅令第755号「在学徴集延期臨時特例停止」公布・即日実施 
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9月30日
・小島玄之らのクーデター計画発覚
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9月30日
・ニミッツ太平洋方面司令官、「中部太平洋作戦日程表」提出。
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9月30日
・フランス、地下出版新聞「フランスの防衛」、強制収容所の写真掲載
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9月30日
・アルバニア、モンテネグロ、独立宣言。
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2015年4月7日火曜日

昭和18年(1943)9月18日~9月26日 マキン、タラワの日本軍全滅 西日本(九州・中国地方)に台風、死者・行方不明970人 法文系大学・専門学校の徴兵猶予停止など閣議決定 ニューギニアの第51師団、サラワケット越え開始 

2015-04-02 千鳥ヶ淵公園
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昭和18年(1943)
9月18日
・重慶で、第3期国民参政会第2大会が開催
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9月18日
・山口謙三(日本鋼管)、検挙
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9月18日
・アメリカ機動部隊、マキン、タラワ空襲。所在の日本軍全滅
古賀連合艦隊司令長官は直ちに小沢治三郎中将の第3艦隊含む連合艦隊主力を率いて出撃、敵を発見できず。
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9月18日
・20日にかけて西日本(九州・中国地方)に台風。
列車が断崖に転落したり水害などで、死者768人、行方不明者202人、負傷者491人、家屋破損2万5803戸(全壊6574戸)。
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9月18日
・「伊藤博文は強かった。これは明治天皇が親任したもうたからである。誰が何といおうが親任したもうた。明治天皇は確かに偉大な皇帝であられた。」(清沢『暗黒日記』)
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9月20日
・中国共産党、臨時全党代表大会
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9月20日
・方面軍、北支那特別警備隊を編成、山西省中部に1中隊、井径炭坑に1特別偵諜隊を派遣
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9月20日
・フィリピン、国会議員選挙。カリバビ加入者による選挙。
43年7月現在、カリバビ加入者35万人。人口は39年段階で1600万人とされる。

これより先、憲法制定。
フィリピソ独立準備委員会による新憲法起草作業には、日本側から第14軍軍政監部司法班長司波実が加わる。
憲法起草を終え、カリバビに開設させた立法院に憲法を批准させる。カリバピ代表による批准は全国民の意思を代表するとし、国民の直接投票による批准はしない。
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9月20日
・鈴木梅太郎(69)、没。ビタミンB1の抽出に成功。
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9月20日
・ドイツ軍、サルデーニャ島から撤退。
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9月20日
・イギリス『ソース(源)』作戦(アルタフィヨルド(ノルウェー)内の戦艦ティルビッツを潜水艦攻撃する作戦) 
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9月21日
・閣議決定、「現状勢下における国政運営要綱」。疎開を提起。
国内態勢強化方策は航空戦力増強・食糧自給・国内防衛を目標とし、①法文系大学・専門学校の徴兵猶予停止、②理工系学徒の入学延期、③理工系学校の拡充、④法文系大学高度の統合整備、⑤義務教育8年制の延期、⑥徴用の強化、⑦女子動員の強化等を決定。
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9月21日
・陸軍省、兵役法施行規則改正公布。1930年以前検査の第2国民兵も召集。
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9月21日
・ハイラル輜重兵第23連隊長鈴木庫三、熊本の輜重兵第46連隊長に転任辞令うける。
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9月21日
・ソ連軍、チェルニゴフ占領
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9月22日
・連合軍、ニューギニア島フィンシハーフェン上陸。ニューブリテン島との間のダンビール海峡確保のため
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9月22日
・陸軍、4式戦闘機疾風の木製化を立川飛行機に命じる
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9月22日
・陸軍51師団(中野中将)、ラエ(ニューギニア)から北方キアリへ撤退。サラワケット山(4,500m)横断中2、000(25%)没。10月18日キアリ着。

第51師団の転進方向は、①フィニステル山系南麓を廻りポガジン渓谷に至るルート、②4千mの山脈を横断して北方海岸キャリに達する、2つ考えられる。
中野中将は、かつて宣撫工作隊を率い山中踏破した北本正治工兵中尉(元オリビック・マラソン選手)の報告により、敵軍と遭遇するボガジン・ルートを避け、サラワケッ卜山を越えるルートを選択。
かくて、第20師団第79連隊は北からフィンシハーフェソに向かって400kmを急ぎ、第51師団は南から北に100kmの山岳行軍を行なうことになる。
中野中将は、ラエ、サラモア地区の全兵力853人を集め、行程を16日と見込み、食塩は1人1日600gとして10日分を持たせる(不足分は食い延ばす)。傷病者の一部は、船舶工兵第5連隊第一中隊長寺村貞一大尉指揮の大発5・小発1・装甲艇1によって、海路フィンシハーフェンに送られるが、多くは手樽弾・小銃で自決。
22日、サラワケット山に入る。

ガ島は飢えと病魔の戦いだとすれば、ニューギニアはさらに長行軍を加えた三重苦。
サラワケットを越えた第51師団、マダンから400kmを歩いてフィンシハーフェソ守備についた第20師団第79連隊は、ほんの序の口。
44年1月、フィンシハーフェン防御が危くなるや、両師団は又もマダンに300kmのフィニステル山系縦断に出て、44年4月、3度、第51師団はウエワク、第20師団はアイ夕べ、第41師団はハソサへと、夫々200~300km夜歩き、やがてさらにホーランジャまで700kmを、山を登り、急流を渡り、湿地を越えて進む。
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9月22日
・汪兆銘南京国民政府主席来日(~23日)。
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9月22日
・ドイツ戦艦「ティルピッツ」、イギリスの「X艇」による攻撃で損傷
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9月22日
・ソ連軍、ポルタヴァを占領、ドニエプル川渡河
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9月22日
・連合軍、バーリ上陸
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9月23日
・閣議、1945年度より台湾に徴兵制をしくことを決定。1944年9月1日、1年繰り上げ実施。
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9月23日
・イタリア、ムッソリーニ、北イタリアのガルダ湖畔・サロで新政権(ヒトラー傀儡政権)サロファシスト共和国を樹立
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9月24日
・文部省が学徒体育大会を全面禁止
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9月24日
・ソ連、国民委員会「自由ドイツ」、「ドイツ将校連盟」、連名で呼掛け、年末には前線での呼掛け活動行う
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9月25日
・シャン地方に於けるビルマ領土に関する日・ビルマ条約調印(ラングーン〔ヤンゴン〕)。即日実施。
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9月25日
・ソ連軍、スモレンスクを占領
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9月26日
・第1軍、十八秋晋北西地区粛正作戦を実施(~11月上旬)。
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9月26日
・木村栄(73)、没。天文学者、第1回文化勲章を受章。
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9月26日
・「軽井沢町の大運動会。字垣〔一成〕大将に逢うために行ってみると、ちょうど近衛公一家が来た。一緒に見る。
宇垣大将と会見。外相当時の事を聞かんがためだ。非常に若々しい。目標もいい。国家を救うのはやはりこの人だろう。近衛は聡明だが勇気と迫力なく、他の軍人も駄目だ。
かれは果して立ち得る横会ありや。もっとも誰がやっても手遅れではあるが。」(清沢『暗黒日記』)
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9月26日
・「昭和十八年九月廿六日 {日曜日}陰。庭を掃く。終日家に在り。深更雨。

 こうろぎ
 泣いても 泣いても
 泣きたらで
 夜はよもすがら
 ひるさへも
 泣く音つゞくる
 蛼(こうろぎ)の
 その悲しみは
 知らねども
 あらんかぎりの
 悲しみを
 命のかぎり
 泣きすだく
 蛼の身の
 羨し。
 蛼よ。蛼よ。
 泣くに泣かれぬ
 かなしみに
 泣かぬ人ある
 人の世の
 わがかなしみを
 汝(なれ)知るや。
 われに教へよ。蛼よ。
 泣くに泣かれぬ
 かなしみを
 泣かで忘るゝ
 道あらば
 われに教へよ蛼よ。
 汝が泣く声に
 また今宵
 寐もせであかす
 人の世の
 わがくるしみを
 思へかし。」(永井荷風『断腸亭日乗』)
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9月26日
・ドイツ、ゲッペルス、「ドイツ国民のための三十の戦時服務規定」発表
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