2018年5月24日木曜日

皇居東御苑の菖蒲田に水が引かれ、 花菖蒲が少しづつ開花し始めた 2018-05-23

5月23日(水)、あめ
皇居東御苑の菖蒲田に水が引かれ、
花菖蒲が少しづつ開花し始めた。

ようやく、仕事、一区切りついた。





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(YouTube) Liar! Liar! / B'z (ROCK IN JAPAN 2017)


Liar! Liar! / B'z (ROCK IN JAPAN 2017)
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アベのウソつき!とか脳内シュプレヒコールやってたら、
ふいに聞きたくなった。

2017年のライブ。
20年経ってもこのクオリティー、スゴイね!
ちょっとハマってみますかね。



「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート27おわり (大正6年~昭和13年)

皇居東御苑
*
大正6年
卓、中国に渡る
大正6年秋、卓は前年に没した黄興の一周忌に出席した。『婦人世界』昭和7年9月号)の「草枕のヒロイン ー 那美さんを訪ふの記」(松岡譲が夏目鏡子夫人とともに行った熊本と松山の旅のレポート)にこのことを伝える記事がある。「漱石のあとを訪ねて」の熊本編にで、記者が卓にインタビューしたもので、『草枕』に関する話や民報社や養育院での話題にもふれ、当時の卓のおもかげも伝えている。

「那美さんは支那へも渡った、大正六年の九月である、黄興の一周忌に上海に行った。其処で那美さんが感じた哲学は、『あたしの身体は日本より支那の方が適して居る』だ。で、もし脳溢血を起したり養嗣子すら長逝しなかったら恐らく又々支那へ出掛けたかも知れぬ - と云う元気振りだ」。
『東京朝日新聞』(大正6年11月1日付)には、10月31日の「上海特電」として「黄興追弔会」と題し「今日は黄興の一周年忌なるを以て当地の旧宅にて盛大なる追弔会を行う」とある。
養子利鎌(33歳、東京工業大学教授)は、このインタビューの1年前に没していた。

黄興が没したのは、大正6年10月31日。その時の卓の様子を伝える記事がある。『東京朝日新聞』(11月1日付)は第3面のほとんどを使い、「黄興氏病死す▽胃潰瘍にて多量出血」という見出しで、6段にわたる大きな記事を掲載、紙面中央には家族の写真も掲載し、「今朝四時遂に逝けり」と、死亡の模様と彼の中国革命にかけた人生を紹介し、死を悼んだ。その後、法学博士寺尾亨の「支那の大西郷」、犬養毅の「未来の大総統」という二つの談話と、黄興が袁世凱らからの勲章を辞退したことなどについての美和作次郎の証言につづいて、「母も夫人も死を知らぬ」「刑事を撒くが上手だった黄氏」という見出しで、卓の談話が掲載されている。
「明治三十八年黄興が早稲田大学に籍を置いて傍(かたわら)革命党の機関誌民報を刊行して居た時分から黄の世話をしていた宮崎滔天夫人の姉卓子は語る」として、

全く急なので茫として仕舞ました。実は三十一日朝、目白に住居の黄の母堂黄端氏と第一夫人淡氏の許へ 「スグキコクセヨ」との電報がありましたので、母堂や夫人も予てから病状を大変に心配して、二、三日中には立つ事になっていたのに続いて死んだとの電報なのです。此の電報ばかりは、まだ母堂と夫人には帰国迄知らせぬ事に相談致しました。それでなくてさえ気が転倒する様に心配しているのに、此の事を知らせたら帰国前に何んな事になるか知れません。しかし暁星中学二年に行っている黄の次男厚端だけには、宮崎宅で夜八時ごろに知らせることになっていますが、厚端はもう出入りが激しいのに気がついたらしく、心細そうに私共を眺めて居ますので、いじらしい様でした。
・・・・・
お話すればいくらでもお話がありますが、間断なしに尾行する刑事を撒くことは非常に巧みでしたよ。しかし一旦断りさえすれば、刑事に自宅の離れを借(ママ)してビール等を振る舞い、オイ今出かけるからついて来給えと言った具合でした。

寺尾博士や犬養毅の談話が、思い出や黄興を顕彰する言葉を礼儀正しく語り、哀悼の意を表しているのに対し、卓のこの談話は生々しい。卓や滔天夫妻が黄興と家族ぐるみのつきあいをしていたことをよく示している。

このとき滔天は10月10日の国慶節に招かれていて既に中国に渡っていた。当日は上海で共に祝おうと黄興と約束していたが、滔天はその前に杭州に行き、そこで大酒を飲んで国慶節には上海に戻れなかった。11日に戻ったものの、その酒がたたって体調を崩したところに、黄興喀血の報せを受けた。すぐには見舞えず、29日に駆けつけるが、その2日後に黄興は亡くなった。見舞ったとき、黄興は滔天の体を心配したといい、長男一欧に見舞金を届けさせたりしている。

11月4日、槌が母親・夫人らとともに上海に渡り、6日に到着。槌はその後病気になり、上海で療養することになる。

黄興の死亡時、母親や第一夫人たち家族は、革命後の不安定な状況から遠ざけるため日本にいた。
辛亥革命後の道のりは単純ではなかった。
1912年1月に臨時大統領になった孫文は、清王朝の退位を交換条件に、その地位を袁世凱に譲った。すると袁世凱は、民主革命の約束をことごとく反古にし、自分自身が皇帝になろうとして、宋教仁を暗殺。孫文らはふたたび兵を挙げるが失敗し、孫文は日本へ亡命、黄興はアメリカに渡ったのち翌13年8月頃、日本にやってきた。

この再度の亡命期間、九二四郎が黄興の世話をした。
「支那亡命客ノ動静ニ関スル件」乙秘資料の8月27日付乙秘第157号の「午後三時半前田九二四郎来訪同四時退出」を皮切りに、ほぼ連日のように黄興宅を訪れている。8月29日には午後1時~4時まで滞在し、再び夕方6時~10時40分まで訪れている。人を雇って邸を掃除させるなど、黄興の家政に尽力していたようだ。9月23日付では、九二四郎が自動車で黄興邸に行き、黄興とともに犬養毅を訪れ、「奥座敷にて密談する所あり」ということもあった。

卓が利鎌を養子に迎えたのは、黄興に勧められてのことだった。「かねがね黄興深く彼〔利鎌〕を愛し、姉卓子の養子とすべき事をすすめ居りしが、黄興アメリカよりの帰途日本に立ち寄りしを幸い、ついに時至り、卓子の養子として入籍」と、利鎌年譜の大正4年の項にある。

大正10年ころ
卓(53歳)の縁談
滔天から熊本県玉名郡大潟村の富田正雄宛の2月27日付の手紙。
「御申越しの件に付、早速つな子姉に申聞け候所、御厚意は千万黍なく候えども最早嫁入りすべき年ならず、殊に身内のものの子供も預かり養育いたし居候事に候えば、再縁の考え毛頭これ無き候間、左様あしからず御思召被下されます様申し上げ呉との事にござ候〔略〕。本人は申し上げるまでもなく、槌その他一同貴下ご夫妻の親戚を思い給う御高志に対し感涙存じつかまつり候。」(『宮崎滔天全集第五巻)
故郷の親戚の富田夫妻が、卓に縁談話を持ち込んだようだが、卓は即座に断ったようである。

昭和3年
『婦人倶楽部』に対して訴訟を起こす
昭和3年2月1日発売の講談社発行『婦人倶楽部』が、「文豪漱石の初恋の女性 - 名作『草枕』の女主人公との隠れたる物語」という噂話をもとにした創作に近い記事を掲載した。目次に大きな赤い文字で記された6ページにわたるこの号のメーン記事である。
内容は、漱石が卓に恋をし、3年余りのあいだ何度も小天に通ったというもの。
冒頭、「漱石逝いてすでに十年、氏が明治文学史上に遺した偉大な功績は今更呶呶(どど)するまでもないが」とあり、しかし、その漱石にも秘密があったのだとしてこう続ける。
「まことに漱石先生ほど一生涯を通じて自己の尊厳を保持し得た人も少なかったであろうが、しかしこの漱石先生に、何人も奇異の目を見張らずにはいられない、恐らく全生涯を通じてたった一度のローマンスが秘められているのであります」。
そして、そのロマンスは、『草枕』のヒロイン那美のモデルである前田卓〔文中では「おつなさん」〕とのあいだにあったことであり、それも漱石の一方的な恋慕だったという。

漱石は、ある年の夏、4~5人の青年たちと小天の前田案山子の隠居所を訪れて滞在した。「それ以来毎年夏冬の休暇は勿論、その間でも学校が休みだと言っては、三里の山路をものともせず」通ってきた。おつなさんに会いに来たのだ。「この嬌(あで)やかなおつなさんを慕って三ヶ年に亘り、幾度となく足を運んだ氏の湯の浦への旅は『草枕』にあるような非人情なものでなく、頗る有人情な旅であったことは言うまでもありません」。そして、おつなさんが散歩をするとその後を追い、彼女にからかわれて間違った道を教えられて迷ったり、八久保の本家に二人で遊びに行った帰りには「『先生これを持って頂戴よ』との彼女の言葉に三四百もあろうと思われる蜜柑の大きな風呂敷包みを、丁稚背負いに背負わされた」。
那美と卓を重ね、「実在のおつなさんという女性にも、可なりこうした無遠慮でコケティッシュな性格を多分に持ち合せていたことは事実でした」として、その奔放な卓に漱石が翻弄される、さまざまなエピソードを並べたてる。
「こんな風で夏目さんが、愛人おつなさんに払われた生真面目一方の熱情と努力は容易ならぬもので、当時、世間狭い村人の間にいろいろと取り沙汰されたものです。けれどもこんなことに一向無頓着な夏目さんは、おつなさんのある所には必ず影身のように添っていた」。

「一代の文豪漱石先生なればこそと思われる珍しい話が、九州の山奥に今なお村人の語り草となって伝えられています」。
「記者は特にこの興趣深きロマンスを産んだ土地に残る伝え草を精査し、またそのモデルと目されている当の前田つなさんにも親しく会見して草したのがこの一編であります」。
(記者が小天を訪れて様々な噂話を採集し、それに尾ひれをつけ、『草枕』の内容や漱石の俳句と織り交ぜて仕立てた)

卓にも取材したと断っているが、「これはおつなさんの直話ですから間違いはありますまい」とか「おつなさんの実話によると」として出てくるのは6ページ中の2ヶ所だけ。しかもその内容は、峠の茶屋の老婆のことや鏡が池についてなど、「月報」や『婦人世界』に答えたこととほぼ同じである。

さらに、卓の「直話」は文末の一つだけである。そこで卓はこう語っている。
「往訪の記者におつなさんは 『今更そんなことを・・・もうそんな若い時分のことなど覚えてやしませんよ。それに私が先生にお目にかかったのほほんの数える程で、世間で取り沙汰される程問題ではありません。小説はどこまでも小説で、草枕のお那美さんはやっぱり那美さん、私は私です。そんな古い話を持ち出されては困ります』」。
つまり、実際のインタビューでは卓は、漱石が卓に恋をし、3年も通ってきたなどは語っていないし、認めてもいない。

この記事に対して、鏡子夫人も「迷惑千万」と怒ったが、卓は怒りだけですまさなかった。

「月報」の森田草平のインタビューで、卓は次のように具体的に語っている。
「或年の或婦人雑誌に、何でもわたくしが先生の初恋の女でもあったかのようなことを書いたことがあります。しかも、それがわたくしの口から出たように書かれているのだから堪りません。わたくしはもうその予告の出た時から雑誌に注意を与えて置きましたが、いろいろ詫びて来ながら、とうとう出してしまいました。で、私もかんかんに怒って、利鎌の友人で弁護士になっていらっしゃる下川さんにお願いして、とうとう訴訟を起しました。〔略〕法廷では、先方の弁護士はただもうあやまる一方でしたが、判事さんの仲裁で、雑誌には取消しの記事を載せるが、新聞に広告することだけは勘弁するということで妥協しました」。

「予告」(新聞広告)を見て卓は、すぐに記事の掲載を止めるように抗議した。それでも記事は掲載された。卓はただちに利鎌の友人下川芳太郎を弁護士に立て、訴訟を起こした。理由は、自分のためだけでなく、同じような被害者が出るのを止めたいという気持ちもあった。「わたくし一人なら構いませんが、これから後わたくしの様に迷惑を蒙る方が何人あるか知れないと存じまして、女だてらにそんな事もする気になったのでございます」。

双方の弁護士が立ち会っての示談の話し合いがもたれ、雑誌に謝罪広告を出すことで和解した。卓側は新聞への謝罪文掲載も主張したが、それは見送られた。
卓は、著名人の恋愛話をスキャンダラスに書きたてるジャーナリズムに対して、「女だてらに」といいながら、少しも逡巡を見せずに行動した。下川弁護士のバックアップがあったとはいえ、この顛末には卓の意志の強さ、並々でないプライドの高さを見ることができる。

昭和3年
卓と鏡子夫人・娘婿松岡譲らとの交流
この年、鏡子夫人と松岡は、『漱石の思い出』をまとめるために熊本と松山を旅行した。初めて訪れた小天も、小説どおりの、大変いいところだと書いている。
松岡もその著『漱石先生』に、「漱石のあとを訪ねて」と題してその詳しい同行記を収めた(『婦人世界』昭和7年9、10月号に「熊本編」「松山編」として連載)。熊本編では九州日々新聞社の記者等とともに、小天や熊本市の旧居、熊本五高などを訪ねたことを記している。
小天行きは熊本入りの初日で、村長らの歓迎を受け、当時すでに水本家の所有になっていた別邸の、漱石が宿泊した部屋で、『草枕』をめぐる座談会を開いたり、古老の話を聞いたりした。

この旅の段取りに、卓はひと役買っていた。
漱石ゆかりの別邸も鏡が池の別邸も、そして本邸跡もすべて他人の手に渡っていたが、売り渡した先は周知の間柄である。鏡子夫人が訪れるにあたって、卓は彼らに連絡をとった。鏡が池のモデルとされる別邸の持ち主で、その当時は村の郵便局長をしていた田尻準次に案内を頼んでおいた。ところがちょっとした行き違いで、準次は彼らに会えなかった。

「小天の本村に入って、先ず郵便局長の田尻さんを訪ねる。〔略〕前田さんの方から私達が行くから案内を頼むと言ってある方だ。庭には蜜蜂が飼ってある。折ふし老主人は私達の来訪を待ち兼ねて、恐らく明日か明後日かになるであろうから、迎え旁々打ち合わせに様子を見てくるとあって、熊本へ出られた後だという。してみるとすっかり行き違いになった訳で恐縮だ。それでは私がとあって、若主人が先に立って案内される」。
卓からの連絡を受けて、一行を心待ちにしていた準次は、様子を見に熊本に出かけてしまった。ところが日程が1日早まって行き違いになってしまった。親戚筋の田尻準次は、前田金儀とともに案山子につねに付き従ってきた人物であり、卓もよく知り、漱石にも会っている。鏡子夫人に話したいことは山ほどあったはずだ。その準次が不在だったため、座談会は、「微かに覚えているようだという水本老母以外、小天に於ける漱石を知ってる者がないので、話は自然他の方へそれた」という残念なことになった。

松岡は、同行カメラマンに指示して別邸の写真を何枚も撮り、案山子の墓前での記念撮影も行った。松岡は、「卓子さんにいい土産だ」と記す。卓らにとって、もはや帰る家もなくなった故郷だが、父親の業績を伝える大きな基が立派に残っている。老い先短くなった卓に見せたら、どんなに喜ぶだろうという、松岡譲の優しい思いやりだ。

昭和6年1月
異母弟利鎌(33、東京工業大学教授)、没。

昭和7年
『婦人世界』(昭和7年9月号)記者の描く卓
「夏目漱石の『草枕』の中に出て来る、あの魅力ある那美さん(本名前田卓子女史)は、今、東京市外池袋大原一三九〇に当年取って六十五歳〔数え年〕の身に相変わらずの、しっかりさで前田家大政所として暮らして居る」
「那美さんの現在の風貌は、かなり近代的感覚がある。先ずロイド眼鏡だ。丁度記者が訪問した時は軽い脳溢血を起して臥床中だったので喫煙姿は見るを得なかったが煙草も好きだと言う。成程、文豪漱石をしてあの作を書かしめるだけの容貌は今尚『若かりし頃はなあ』と感嘆させる上品な美くしさだ」。
『草枕』に描かれた那美さんは「かなりなモダンガールだ」が、「しかし記者の面接した感想を率直に言うと、成程、聡明と溌剌さとはあるけれども人柄そのものは、もっと道徳的で温和な女性だ」。

昭和10年
森田草平のインタビューを受ける。

昭和13年9月6日
卓(70歳)、赤痢のため板橋区豊島病院で没。

宮崎蕗苳(滔天と槌の孫)、前田佑子(下学の孫)、竹中彩普(九二四郎の孫)らの証言による晩年の暮らしぶり。
槌とは毎日行き来した。時折、利鎌を葬った平林寺のお墓に参ったり、千葉にいる甥の前田学太郎(長兄下学の息子。佑子さんの父)の家を訪ねた。平林寺にはお弁当を持って一日がかりで出かけた。お供したことのある蕗苳さんは、「大きな座敷に案内されて、ていねいにもてなしていただきました。お弁当もそこで食べさせていただきました」という。熱心に参禅していた利鎌の母親ということで、寺側としては大切に扱ったのだろう。一方、学太郎の家にもちょいちょい泊まりがけで出掛けた。「入ってくると部屋がパッと明るくなる」にぎやかなお卓おばさん。「父(学太郎)とは姉弟みたいでしたね。お互いに言いたいことを言っていましたよ。ある時、手ぶらで来たおばさんに父が文句をいうと、次のときは山のようにお土産を持ってきたり」。

(おわり)

自分と全く同じ顔の人を見つけて、SNSで連絡。実際に出会ってしまった2人は双子のようにそっくり! — NTV NEWS24 (動画)


すべてウソなんじゃないか──自衛隊日報の調査報道ノンフィクションが暴いた!底なし“隠蔽体質” | 週プレNews


交渉記録約957ページのうち「いい土地ですから、前へ進めてください」と言われた2014年4月28日が欠落 / 概要に「H26.4.28~H26.5.23」とある。国会に提出する際、4月28日の「昭恵案件文書」を抜いたとしか考えられない / 泥沼の森友問題、またしても「文書隠し」疑惑 なぜか2014年4月28日の面談録がなかった(東洋経済) / 消された「安倍昭恵」文書 財務省4000枚の森友文書公開も無意味(AERA dot.)














「本省相談メモ」で森友優遇の実態が明らかに! “安倍夫妻案件”と知った財務省本省が近畿財務局に圧力(リテラ)


【やっぱり「安倍晋三記念小学校」】 <森友交渉記録>「安倍晋三小」14年認識 近畿財務局(毎日新聞) / 「安倍晋三記念小学校」森友側が説明 財務省記録に記載(朝日新聞); この名称について、財務省は23日の野党の合同会合で「記録として残っているので、一定の範囲の職員が認識していると思う」と述べた











加計新文書 安倍首相 文書内容を否定「聞いたことも話したこともない」; 安倍晋三 この人物にとっては「言い切ること」「断言すること」が重要で、事実はどうでもいい。後からついてくる。自分が居丈高に言い切り、断言すれば、周囲の者や下の者どもが、勝手に、自発的に、事実をそれに合うように整えてくれる。そんな成功体験の積み重ねで、今の彼がいる。





2018年5月23日水曜日

財務省の改ざん文書決裁リストにあった驚くべき官僚2人の名前(週刊朝日 2018年6月1日号); 昨年4月4日21時08分、改ざん文書が改めて登録された電子記録が残っている。つまりこれが犯行日時にあたる。電子決裁された公文書にアクセスでき、改ざんができるのは、文書に名前が記されている理財局職員18人" .....






安倍首相、加計氏と19回会った=2次政権以降、動静以外も5回:時事ドットコム  / 加計理事長との面会・電話の件を長妻昭議員に追及されて壊れた安倍晋三さん「いずれにいたしましてもですね、いずれにいたしましても、すいません答弁中であります、いずれにいたしましてもですね、いずれにいたしましてもですね、いずれにいたしましてもですね」 / 後藤「政治部記者としての感覚では加計孝太郎氏と3年の間に解っているだけで19回も会っているというのは異様な頻度と感じる。当然、周囲には特別な関係という事が解っていく。これが陰に陽に周囲への圧力となっていく」  / 江田憲司議員「第一次安倍政権に加計孝太郎氏の会食がほぼ無かったのは何故か?」 安倍晋三首相「第一次政権でも会食をしている。記録として表に出ていないだけだ」 安倍首相が自ら首相動静に書いてない会食があると認めていた
















いじめ係争中、学校日誌を廃棄 京都、開示請求2カ月後(京都新聞); 中学校でいじめを受けて訴訟を起こしている生徒側が、学校日誌の情報公開請求をしたが、学校側は4月に日誌を廃棄していた……。国のトップが証拠隠滅すれば、国全体に広がっていく。これがモラルハザード。


河野外相“スピーチライター”官僚が交際女性に情報漏洩の疑い — 文春オンライン[文藝春秋]


2018年5月22日火曜日

(YouTube) 八神純子「時代」


「“高プロ” で長時間労働野放し」過労死遺族が座り込み(NHK); 全国過労死を考える家族の会、代表寺西笑子さん。働き方改革は、労働者の声を反映せずにすすめられている。全国から家族の会の代表者が来ている。安倍総理に聞いていただくしかない。でも、まだ面会について返事をもらえていない。今日中に返事をしてほしいという意思表示として、座り込みをします。






















柳瀬は日大アメフト部の青年の態度を見てどう感じたろうか? → 加計新文書 元秘書官との面談の詳細も記載(NHK); はじめに柳瀬氏の発言として、「獣医学部新設の話は総理案件となっている。なんとか実現をと考えているので、今回内閣府にも話を聞きに行ってもらった」と記されています。


2018年5月21日月曜日

65歳以上の介護保険料 制度開始から倍に(日テレ); 今年度、65歳以上の人が納めている介護保険料の平均は、ひと月5869円で、制度が始まった18年前のおよそ2倍になったことが厚生労働省のまとめでわかった。.....2040年度の介護保険料は、平均でおよそ9200円になると推計している。


24歳で過労自殺した電通社員の亡くなる1ヶ月前のスケジュール。27日間で午前2時以降の退社が3日に1度、徹夜が1.5日に1度。年間4000時間ほど働いていた。藤本正『ドキュメント「自殺過労死」裁判』より 授業で見せると学生は絶句する。条件さえ揃えばこんな働かせ方をも合法化する #高プロ は異常


拉致問題解決へ、日本が直接交渉を「動かねば手遅れに」(朝日新聞); 横田めぐみさんの母は数年前に安倍首相に対して金正恩委員長と直接会って「目を見て、しっかりと相対で話していただかないと解決しないと思いますよ」と伝えたが、首相は「もちろんそう思っておりますが、それは今ではありません」で、今日も未解決





加計学園問題の愛媛県新文書に関し、加計学園と安倍首相が深すぎる墓穴を掘ってしまう (バザップ!) 破棄したはずの記録を「調べた」ようです / 玉川徹「加計と会って奢ったり奢られたりしているから、野党は首相のあっせん利得罪を追及すべき」 青木理「行政の公正公平がねじ曲げられ、政治の中枢がおかしくなり、新文書が次々と出ても否定する。政治の根本のモラルが壊され、誰も信じられなくなる」 大谷昭宏「これでもまだ否定するのであれば、安倍首相自らが加計孝太郎理事長と中村知事の証人喚問を求めるべきだ」 / NHK19時ニュースはトップで加計新文書。2015年2月25日、加計理事長が安倍首相と15分ほど面談。.....理事長は「獣医学部空白地帯の今治市に設置予定の獣医学部では、国際水準の獣医学部を目ざす」と説明、首相は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」とコメントした。 / 加計の計画は2017年1月まで知らなかった、という首相答弁を全否定する内容..... / 「首相と加計理事長が会食、大学設置の話」愛媛県新文書:朝日新聞 ; 「関係業者との接触に当たっては供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範

破棄したはずの記録を「調べた」安倍晋三





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▼誰も彼の言葉(人格も)信用していない






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2018年5月20日日曜日

大船フラワーセンター ハナショウブが咲き始めた 2018-05-20

5月20日、はれ
このところの夏日、真夏日とは違って、うんと過ごしやすいサラっとした気候だった。

いろいろあったので疲れ気味だったけど、こんないいお天気なのに出かけない手はないね。と言っても、混んでるのもイヤだし、大船フラワーセンターに行くことにした。

ぼたん、しゃくやくは完全に終り、
バラが終盤を迎えている。
アジサイはまだ(もともとそんなに多くない)だが、
ハナショウブが水を引いていない菖蒲田に咲き始めていた。
なかなかイイゾ!







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カンヌ最高賞・是枝監督「万引き家族」が問う、いびつな家族のきずな / 是枝裕和監督インタビュー ; 血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが… (中央日報);「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」 「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」



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「初めて来た時は30代だったのに、いつの間にか50代になりました。カンヌに来るたびに今でもワクワクします」

第71回カンヌ映画祭が中盤に差し掛かった15日(現地時間)、現地のホテルで会った是枝裕和監督(56)の言葉だ。2001年映画『DISTANCE』でカンヌを初めて訪れた次世代監督はいつのまにか日本を代表する巨匠になった。パルム・ドール賞候補であるカンヌ映画祭コンペティション部門への正式出品は今回だけで5度目になる。

新作『万引き家族』は、この日まで公開されたコンペティション部門11本(全体21本)の中で最高の評価を受けている。英字メディア「Screen Daily(デイリースクリーン)」の星取表(jury grid)では平均3.2点(4点満点)をつけ、フランスのジャン・リュック・ゴダール(3点)や中国のジャ・ジャンクー(2.9点)らを抜いている。また、別のメディア「Variety(バラエティー)」は「さらに成熟し、心を盗む家族映画復帰作」と好評した。公式上映では8分余りのスタンディングオベーションとともに涙を拭う観客も多く見られた。

映画は、初枝(樹木希林扮)の年金と万引きで生計を立てている家族が、寒さに震えていた幼い少女(佐々木みゆ扮)を家に連れてきたことから始まる物語を描いている。今にも崩れそうな狭い家で築いた仲睦まじい彼らの日常に突然の危機が襲う。是枝監督は、5年前のカンヌ国際映画祭審査員賞作『そして父になる』(2013年)で投げかけた問いをもう一度取り上げた。家族を家族たらしめているのは血か、一緒に送った時間か--。ここに共同体が崩壊した日本社会の現実を重ねた。

--物語の着眼となった契機は。

「数年前に、日本では亡くなった親の年金を受け取るために死亡届を出さない詐欺事件が社会的に大きな怒りを買った。はるかに深刻な犯罪も多いのに、人々はなぜこのような軽犯罪にそこまで怒ったのか、深く考えることになった」

--血の混ざらない家族について描いている。

「日本では今も家族は『血縁』というイメージが固定化されている。特に、2011年大地震以降、このような家族の絆を大げさに強調する雰囲気について疑問を感じていた。国際的な状況もある。カンヌで会った多くの人々が、私に『私は里子なんだ』『私には養子がいる』と打ち明ける」

--主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

--経済不況が日本をどのように変えたか。

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

--前作と同じく、父子関係が印象的だ。

「映画で少年の祥太(城桧吏扮)は父(リリー・フランキー扮)と呼んでいた人がそれほど信じられないことに気づく。私の父は典型的な会社員だったが、私にも似たような感情があった。親に対する確固たる印象が崩れる瞬間、大人になるのだということを言いたかった」

--本当の家族とは。

「決まった答えも定義もない。だが、この映画に関していうなら、永遠に一緒にいられなくても、共に過ごした時間がそれぞれの人生の中に深く刻印されること、それ自体が家族なのではないかと思う」

(略)

▼ネトウヨ発狂中


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駐日イスラエル大使の論法 ; 「日本軍が南京で殺した中国人は便衣兵(私服を着た戦闘員)だから問題ないし虐殺ではない」と決めつける論法と同じ。古今東西、市民の虐殺を批判された側は、みな同じ図式の論法を使う。 「死んだ人間は全員、こちらに危害を加える戦闘員だった」「だから殺すのは自衛行為」




菅官房長官、辺野古区長らと面会せず 補助金交付されず戸惑い(沖縄タイムズ); 名護市長がかわって、国の態度が変わった。 つまり、新基地容認の市長誕生で、三区の同意はもういらない。 金は名護市に。三区に直接交付する必要はもうない。


NHKスペシャル「日本の諜報」。アメリカNSAの機密ファイルの中に、横田基地の中に新たに通信傍受機器の製造施設がつくられ、そこで製造された機器がアフガニスタンやイラクでの米軍の戦争を支えたという記述が。しかも、施設の建設費用のほとんどは日本政府が支払ったという。


「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート26 (明治43年~大正5年)

大船フラワーセンター
*
明治43年
東京市養育院
民報社解散後、次の仕事として、明治43年7月、卓(42歳)は東京市養育院に就職する。異母弟利鎌の年譜に、「明治四十三年七月、姉卓子養育院に勤務」とある。
遺産もほとんど使い果たし、寛之助・利鎌の異母弟2人、九二四郎一家を養うためには働く必要があった。

東京市養育院は、渋沢栄一が生涯力をそそいだ福祉施設である。ロシア皇太子来日をまえに、浮浪者や窮民の救済施設の必要が論じられ、初め東京会議所付養育院として明治5年ごろに開設。ついで府の施設に移り、渋沢は明治7年からその責任者になる。その後、府の援助が打ち切られると私財を投入し、資産家にも寄付を呼びかけて、私的施設として維持した。明治23年に市営になってからも、昭和6年に亡くなるまで、院長として指導的役割をはたし、日本で初の福祉施設の充実に力を注ぎ続けた。

その間、養育院は、年々増える捨て子や孤児、行き倒れの病人ら窮民を収容するため、移転をかさねて施設を拡充していく。はじめは病人も大人も子供も一緒だった収容内容を、児童・青少年と大人を分離したり、その青少年のなかでも犯罪を犯した者の矯正教育をおこなう感化院や、病院・療養施設を分離するなど、機能を整備していった。明治42年、大人も子供も同じ施設に入っていたそれまでの本体から、児童の施設を分離し、病気や健康薄弱な児童のための安房臨界学園と、健康な学齢児童のための巣鴨分院を開設した。

卓はこの巣鴨分院に就職した。「明治四十三年には東京の養育院へ行って孤児のお母さんのようになりきってしまった」(『婦人世界』昭和7年9月号)と後年回想している。そこで彼女は、約8年間、50歳ごろまで働いた。
『婦人世界』の談話は、「今ではその孤児達がそれぞれ大きくなり、中には医者の細君になったり子持ちになったりして、今尚那美さんをお母さんお母さんと慕って寄ってくる」と続く(雑誌記事のタイトルは、「草枕のヒロイン - 那美さんを訪ふの記」で、卓のことを「那美さん」と書いている。)

明治45年
辛亥革命
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をきっかけに各地で清国政府からの独立宣言が相次ぎ、年末までにはその趨勢が決まった。翌1912年1月1日、孫文が臨時大統領に就任し、中華民国の成立を宣言する。辛亥革命である。
滔天は、アメリカからヨーロッパを経て帰ってきた孫文を香港で迎え、南京に同道して1月1日の式典に立ち会っている。卓もその式典に国賓として招待されたらしい(『玉名郡小天郷土史』)が、卓は行かなかった。養育院の仕事もあったが、旅費がなかった。

その少し後、大正3年の利鎌の年譜には次のように書かれている。
「一家貧窮。出入りの一米屋に三百円の支払いをためたりといえば、当時窮迫の一端を知るべし」。
辛亥革命の年の利鎌の年譜には、卓の残したと思われる言葉がある。
「この年、第一次シナ革命成り、一族年来の宿志ようやくとげられしも、物質的にむくいられること少なし」。

大正5年
漱石との再会 異母弟利鎌の橋渡し
小天での出会いから18年、熊本五高教授だった漱石は今や高名な作家、卓は小天の名家のお嬢さんから中国革命の支援者、孤児院の保母に変わっていた。もはや接点の持ちようもないほどに隔たった2人の橋渡しとなったのは、異母弟利鎌であった。
利鎌と漱石は、不思議に縁があった。

利鎌年譜の明治32年の項。
「生後いくぱくもなき幼少の故人〔利鎌〕が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入りせるも亦奇縁というべし」。
利鎌は案山子と愛人林はなの間に生まれ、前田家に入籍されて育った。彼が生まれた当時、卓は永塩亥太郎と別れ、小天に戻っていて、彼ら親子の面倒をみた。そして、利鎌9歳のとき、生母や兄覚之助とともに東京に呼び寄せ一緒に暮らした。その後、利鎌母子は滔天の家に同居したり、母子3人で暮らしたあと、15歳から再び卓と同居する。

大正4年(1915年)、利鎌(17歳)が一高に入学した年に彼女の養子となった。卓の養子になり一高に入学したことが、利鎌に漱石に会う決心をさせた。
卓は森田草平のインタビューで、「あれはわたくしが上京してからもう十年も経った後のことでございました。利鎌が高等学校へ入って、早稲田のお宅へ出入りさせていただくようになってから、わたくしも二・三度お伺いしました」(『漱石全集』月報)と語っている。まず利鎌が漱石に会いに行き、そして卓を連れて行った。

大正5年4月12日付けの利鎌宛の漱石の手紙。

拝復私はあなたの名前を忘れていました。前田利鎌という名前を眺めているうちに若しやあの人ではなかったかと思い出しましたが、それも半信半疑でありました。穴八幡の処で会った人があなただろうとは夢にも思いませんでした。若しあれがあなたなら私の小説の縮刷を手にしていはしませんでしたか。
私は多忙だから面会日の外は普通の御客には会わない事に極めています。面会日は木曜日ですが、木曜は学校があるからあなたも忙しいでしょう。然し学校が済んでから来る勇気があるなら入らっしゃい。お目にかかりますから 以上
四月十二日 夏目金之助
前田利鎌様

この手紙の少しまえに漱石と利鎌は偶然、早稲田の穴八幡神社で出会った。日頃漱石に親しみを感じていた利鎌は、思い切って挨拶した。九州、熊本の前田であると。その時はほんの短い立ち話で、漱石もそれが卓の弟だと気づかなかった。追いかけるように、利鎌から手紙が届く。先日穴八幡で出会った自分は、前田卓の弟であることや、今は一高生であること、訪問してもよいかという伺いなどが書かれていたのだろう。漱石は思いがけない出会いに驚いて、返事を書いた。若い人に対して隔てなく親切であった漱石は、面会日ならいつでもいらっしゃいという。ただ高校の授業があるだろうから、それがすんでから、と。そして、大勢の弟子や訪問客がいることは分かっているだろうが、それでもよければ勇気を出して、という。

利鎌は木曜会に出かけて卓の近況を漱石に伝えた。漱石がお会いしたいものですと言ったのだろうか、卓は利鎌とともに、早稲田南町7番地の漱石の家を訪ねた。一度ならず、二、三度に及んだ。

「月報」の卓の談話。
「或時先生にお目に懸って、しみじみわたくしの身の上をお話し申し上げますと、『そういう方であったのか、それでは一つ『草枕』も書き直さなければならぬかな』と仰しゃってでございました。本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」。

この「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」という言葉に、卓の万感の思いがあふれている。最初の出会いから遠い年月の間に、卓が生きた波乱に満ちた人生を、漱石は理解してくれた。『草枕』も書き直さなければならぬかな」というのは、一種の社交辞令だったかもしれないが、『草枕』の那美さんだけではない自分の姿を、分かってもらったということだろう。それは単に新しい女、男まさりの奇矯な行動をとる女というだけでなく、どんな障害も恐れず、まっすぐに自立して生きてきたことへの誇りが卓にはあり、それを「解っていただけた」と感じた。

森田草平(記事の後記で「『草枕』も書き直さなければならぬかな」について)
「先生は生前決してお座なりを云う人ではなかった」として、この言葉は卓の思い違いではないかと指摘。もその後に、「しかし又よくよく考えれば」.....「刀自〔卓のこと〕の身の上をしみじみと聞いて、これはもう一つ小説に書く価値があるという意味で、同じ言葉を使われたのであろうとも解せられる」と記す。

いずれにしても、漱石が思わずそういう言葉を発してしまうほどの感動が、その時にあったのだろう。

インタビューでは、『草枕』のモデルとされてきたことでの卓の忸怩たる思いが、長い間鬱積していたことも示している。

上京して民報社に勤めることになったとき、卓は山川信次郎には手紙で知らせたが、漱石には遠慮して知らせなかった。その翌年、『草枕』が出版され、熊本五高から東大に入った顔見知りの学生たちが「小母さんのことが小説になったよ」とわざわざ知らせてくれたので、自分も神楽坂に行って雑誌を買って読んだ。
モデルにされたことは、一時あまり気持ちよく思わなかった。熊本から小天湯の浦までの風景や、父の隠居所(別邸)の様子はほとんどそのままだが、違うところもある。自分は出戻りだったのでいつも地味な着物を着て、決して振袖などは着なかった。男湯に入ったのも、女湯がぬるく夜も遅かったので、誰もいないと思ったからだ。「すると、水蒸気の深々と立ち籠めた奥の方で、お二人がくすくす笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。わたくしはもう吃驚して、そのまま飛び出してしまいました。それだけは事実でございます」と訴えている。

そして、民報社での孫文と黄興の旗争いの時の腰巻きのエピソードを話し、「こんな女でございますから、『草枕』の中でわたくしが『き印』だとされるのは仕方ありませんが、母までが狂人扱いされているのはどうも残念でなりません。わたくしの口から申しては何ですが、母は昔気質のまことに優しい、典型的な日本の女でございまして、これだけは何処までも弁護してやりとうございます」という。
つまり、モデルということで、いろいろと世間に誤解されたことへの釈然としない思いを率直に述べている。そして、そうした奇矯な行勤と取られがちな自分の物怖じしない気性を、漱石は那美に反映させたのだと卓は受け取った。「これを要するに、『草枕』の女主人公は、わたくしの気持ちと申して宜しいか、気性と申して宜しいか、そんなものを取ってお書きになったものとは存じます」との言葉には、「私にはもっとちがう側面もある」という思いがにじむ。
それは、その気性の裏にひそむ、自由や平等への思い、男女同権への希求といった精神性だろう。那美にはそれが反映されていない。彼女は長年その思いを抱いていたのだと思う。だから、この再会のときに中国の革命家たちとの交流のいきさつを話し、やっと自分という人間の全体を漱石に分かってもらえたと思えた。「本当にわたくしという女が解っていただけたのだろうと存じます」の言葉には、その喜びがある。

漱石にとってこの再会はどうだったのか。
このことについて漱石の思いを語るものは残されていない。この再会は、漱石の最晩年のことである。再会から約半年後、この年(大正5年)12月9日に漱石は亡くなる。この頃の漱石の関心は、連載中の小説『明暗』執筆のことや、芥川龍之介や久米正雄ら新しい弟子たちのことであった。体調も悪く、その頃の日記はほぼ毎日、糖尿病のための尿検査のことや食事のことを記している。

この頃、漱石は『草枕』自体にあまり愛着を持っていなかったようだ。
『草枕』をドイツ語に翻訳したいと申し出てきた山田幸三郎への8月9日付の手紙。
「拝復御手紙拝見致しました。『草枕』を独訳なされる事は始め(て)承知致しました。あんなものに興味をもたれ御訳し下さるる段、甚だ有難い仕合せです。私の方から御礼を申上ます。然しあれは外国語などへ翻訳する価値のないものであります。現在の私はあれを四五頁つづけて読む勇気がないのです。始めから御相談があれば無論御断り致す積(つもり)でした。そういう訳ですから雑誌はよろしう御座いますが、単行本にして出版する事丈はよして下さいまし。以上」。

『草枕』だけでなく、同じく翻訳の申し出のあった『二百十日』や『倫敦搭』についても、同じような手紙を書いている。芸術論や人生観を美文調で直接的に披瀝した『草枕』は、晩年の漱石にとって多少面はゆいものになっていたのだろう。

卓が森田草平のインタビューを受けたのは、大正5年の再会からさらに20年後の昭和10年9月のこと。森田はその頃の卓の姿をこう記している。
前田案山子の娘であり、宮崎滔天の義姉で、さらに「私どもの友人で、『宗教的人間』一巻を遺して、世を早うした故前田利鎌君の姉君、本年六十九歳〔数え年〕」、一般に『草枕』の女主人公お那美さんのモデルと云い倣されている方である」と紹介。

そして「刀自〔卓のこと〕は二十有余年来、令弟前田九二四郎氏と共に、目白の奥の雑木林の中の一つ家に、しづかに老いを養っていられる」と。この家は、池袋字大原一三九〇番地(現在の豊島区西池袋)で、宮崎滔天家と広場を隔てて向かい合って建てられていた。滔天と槌の孫にあたる宮崎蕗苳(ふき)さんによれば、「朝、起きて、お早うと言い合えるような距離でした。小さな家に、みんなで住んでいましたよ」という。九二四郎一家や生前の利鎌らが共に暮らした家である。このインタビューの3年後に卓は亡くなるのだが、その最晩年の70歳に手の届こうという彼女が、漱石とのことや『草枕』のことを、まるで昨日のことのように答えている。

(つづく)


2018年5月19日土曜日

皇居東御苑 アジサイが咲き始めている 2018-05-19

5月19日(土)曇り時々晴れ
土曜日だったが出勤。
昼休み、時短モードで皇居散歩。アジサイだけ見て廻った。
まだ5月だけど、皇居東御苑でもアジサイが咲き始めている。