2023年1月28日土曜日

新型コロナの月間死者数、初の1万人超(共同) / 40日連続で200人超 5週続けて2000人台 

千葉県の市役所「生活保護担当職員」の呆れた実態 衆人環視でのタメ口に「嘘つき」「泥棒」呼ばわり(藤田和恵 東洋経済); ケースワーカーから「うそつき」「泥棒」呼ばわりされたタケアキさんは「できれば生活保護はもう嫌だ」と言う。行政による不適切な対応のせいで生活保護の利用をためらうようになるのは、タケアキさんだけの話ではない    

東京駅前 KITTE屋上からの東京駅前 KITTE外観(旧東京中央郵便局) 東京駅構内の原首相と浜口首相へのテロ現場跡 同級生交歓は新橋「小料理 尚」さんで 2023-01-27

 1月27日(金、昨日)、曇り時々小雨

昨日は夕方から新橋で恒例の同級生交歓。好天なら早めに出て新宿御苑やら品川の荏原神社で早咲きの桜を撮りに行こうと考えていたけど、朝から小雨~曇り~小雨を繰り返すような天候。夕方には雪が降るかもとの予報もあった。

雪なら雪の東京駅もなかなかいいし、雨なら水たまりリフレクションも悪くないナと思って、やや早めに出掛けたが、傘が要らない程度の小雨というどっちつかずの天候になっていた。

仕方ないので、KITTE屋上から東京駅の駅前の夜景を。午後5時半ころ。



▼KITTE(外観は、旧東京中央郵便局 昭和6年)

▼東京駅構内の原首相と浜口首相へのテロ現場跡(床にポッチあり)


▼同級生交歓はいつもの新橋の「小料理 尚」さんで
メインはアンコウ鍋だった



ビンボーを楽しみましょうキャンペーンでも始まったのか → まさかの具なしカップ麺 安さで物価高に人気?それだけじゃない(毎日) / 「風呂なし物件」若者に人気…都内で家賃3.2万円「好きなものにお金使える」 (テレ朝news)

賃金上昇に向け産休・育休中の”学び直し”を「後押し」 岸田首相(テレ朝) ← 産休・育休を「休んでる(休憩中)」と思ってるんだ! / 岸田首相「育休中の学び直し」答弁に批判 「育児してない人の発想」(毎日)     

 

〈藤原定家の時代254〉文治3(1187)年10月3日~11月1日 藤原秀衡(66)、陸奥国平泉館で没。次男(嫡子)泰衝が後継  義経を主君として泰衡・異母兄国衡3人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るよう遺言(『吾妻鏡』)   

 


〈藤原定家の時代253〉文治3(1187)年9月4日~9月28日 「千載和歌集」序が後白河に奏覧 畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正に預けられる 中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両貢金に対する秀衡の返答届く 頼朝の奥州藤原氏への圧力の経緯 より続く

文治3(1187)年

10月

・この月、大江広元、頼朝への報告の中で内裏造営はほぼ順調に進み、11月上旬には天皇遷幸が可能であると述べる。あわせて、後白河より勧賞(功績に対する恩賞付与)の仰せがあるだろうと伝える。

10月3日

「今日早旦、東大寺の大仏聖人(重源)来たり。余これに謁す。上人語りて云く、去今両年の間、柱百三十余本杣山に切り顛しをはんぬ。而るに津出しの間、夫功の煩い勝計うべからず。且つはこの事を奏さんが為上洛する所なり。上人が申す事等、 一、人夫の事・・・一、麻苧の事・・・一、成功に付せらるべき事・・・一、当時随身の材木の事・・・一、備前の国荒野開発、偏に大仏用途に宛つ。而るに妨げを致す人有り。停止せらるべき事。・・・」(「玉葉」同日条)。

10月4日

「巳の刻定長院の御使として来たり云く、去る比竊盗御所に入り、種々の御物を盗犯しをはんぬ。その中に御護劔有り。日来尋ね沙汰せらるの間、去る夜犯人を搦め取り(大夫の尉信盛これを捕る)をはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

10月5日

・頼朝、誅殺した河越重頼の後妻に河越氏本領である河越荘を安堵したが、名主・百姓らが従わなかったため、後妻の指示に従うよう命じる。

「河越の太郎重頼、伊豫の前司義顕の縁座に依って誅せらるると雖も、遺跡を憐愍せしめ給うの間、武蔵の国河越庄に於いては、後家の尼に賜うの処、名主百姓等所勘に随わざるの由、風聞の説有るに就いて、向後庄務と云い雑務と云い、一事以上、彼の尼の下知に従うべきの由、仰せ下さるる所なり。」(「玉葉」同日条)。

10月6日

「法皇御年籠の熊野山御参詣有るべし。供米千石・軽物少々、沙汰すべきの由仰せらるる所なり。仍って沙汰有り。国絹・白布等は御家人に宛て催さる。八木千石、武蔵・上総両国の所課たるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月8日

「下河邊庄司行平・千葉の介常胤京都より帰参す。・・・爰に両人を御前に召され、上洛の間、京中静謐の由叡感に及び、尤も御眉目たるの趣感じ仰せらるる所なり。而るを行平九月十一日入洛す。即夜兼ねて承り及ぶ群盗衆会の所々を窺い、郎従をして夜行を致せしむの処、尊勝寺の辺に於いて奇怪の者に行き逢う。人数八人、残らずこれを搦め取り、所犯を尋ね明かすの間、常胤を相待たず、[将又使の廰に相触れず、北條殿の例に任せ彼等の首を刎ねをはんぬ。常胤]同十四日京着す。各々在洛し、幾日数を歴ずと雖も、更に狼藉の事を聞かず。自然無為す。誠にこれ将運の然らしむるの所に依ってか。次いで在京武士の事、御使雑色並びに両人の使いを以て、日時を廻らさず悉くこれを召す。来聚する所なり。尋ね問いをはんぬ。面々陳じ申すの旨有り。子細無きに非ず。その状五十三通これを進上す。その上所犯の実證無し。沙汰に能わざる事なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月25日

・頼朝、大江広元宛御教書で、勧賞は辞退した上で、内裏造営の他に斎宮群行(さいぐうぐんこう、伊勢神宮の斎宮が伊勢に向かう儀式)の費用納入の功を加えることによって相模・武蔵・駿河・伊豆・信濃・越後の6ヵ国の重任を求めるよう指示。御家人の任官を成功(じようこう、朝廷の行事や造営を請け負うことによる叙位任官)によって統制しようとする頼朝の官職関係政策による指示だが、結局、後白河は頼朝の要求の一部のみを認め、「閑院修造賞」として武蔵の重任を、さらに「斎官群行用途料」として相模の重任を認めたのみ(『玉葉』11月13日条)。

10月29日

藤原秀衡(66)、陸奥国平泉館(ひらいずみのたて)において没。秀衝の次男(嫡子)泰衝、奥州領主を継ぐ。

臨終にあたり秀衛は、「今日、秀衡入道陸奥の国平泉の館に於いて卒去す。日来重病恃み少なきに依って、その時前の伊豫の守義顕を以て大将軍と為し、国務をせしむべきの由、男泰衡以下に遺言せしむ」(義経を主君として嫡男泰衡とその異母兄国衡の3人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るよう遺言)(「吾妻鏡」)。頼朝が更に揺さぶりを掛けてくること、泰衡に秀衡ほどの統治能力がないなどから、奥州防衛上の最大の危機が迫る。義経の扱いをめぐって兄弟間に対立が生じ、藤原一族の結束は一気に弱体化。

翌年正月9日九条兼実に入った情報によれば、秀衡は他腹の嫡男国衡と当腹の弟泰衡に兄弟間の和融を求め、自分の妻を国衡に娶らせ、異心を抱かぬ様、義経にも2人に同心するよう誓わせ、兄弟2人が義経を主君として仕えるようにと命じる(「玉葉」)。

秀衡6子国衡(軍事面の長になる自負あり、反義経派)・泰衡(正室腹嫡男、反義経派)

忠衡(義経派)・隆衡・通衡・頼衡(義経派)。藤原基成(泰衡後見人・外祖父、義経派)。

11月

・藤原定家(26)、藤原家隆と『閑居百首』を詠む。『拾遺愚草』に、「文治三年冬与越中侍従詠之」と記す。越中侍従は俊成門で藤原家隆。定家より4歳の年長。

かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月    閑居百首

この歌は、『新古今集』に入集

11月1日

・藤原家通(45)没


つづく

夫に詐欺疑惑の三浦瑠麗 学生時代に自民党主催コンテストで最優秀賞を受賞した論文の“中身”(女性自身) / 特捜部が追い込む「三浦瑠麗の夫」弁護士はあの統一教会弁護人だった!《肉声入手》(現代ビジネス) / 三浦瑠麗氏の「夫の会社とは無関係」は通用する? 成長戦略会議では太陽光発電推しの発言していたが…(東京); 利益相反を指摘する声も上がる / 中野信子さんとの共著「不倫と正義」って対談で、旦那さんと会社の株を半々持ち合って経営に参画していることを明言してる / 三浦瑠麗氏の夫が“10億円投資トラブル”で六本木タワマンに家宅捜索(NEWSポストセブン) / 太陽光発電出資の告訴で家宅捜索 東京地検特捜部(FNN) / 「日経が提灯」三浦瑠麗の旦那のヤバい会社(Facta 2021/11号) / 夫の会社が家宅捜索…三浦瑠麗氏はトラブルに「関与せず」も太陽光発電猛プッシュ発言が物議(日刊ゲンダイ)

 

 

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共産党の小池晃書記局長は27日、参院本会議の代表質問で、日本の少子化の背景に「明治憲法下での家父長制や男尊女卑の家族制度を『美しい国』と美化する自民党政治」があると批判した(東京) / 小池晃 「原発回帰は自民党の公約に反する。政府と与党で検討したから問題ないというのは議会制民主主義無視の暴論。安保3文書も国会では答弁を避け、閉会後に閣議決定し、真っ先に米国に報告した。これが民主主義国家のやることか。これでまともな主権国家と言えるのか」  「牛は生きています。生きている限り搾乳続けなければならない。絞った生乳を泣く泣く捨てたり牛を処分せざるを得ない酪農家の苦悩が総理、分かりますか」    



 

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2023年1月27日金曜日

「合成写真かと…」「戦前?」投稿した議員本人も“異様”と綴った、女性がいないある写真とは 海江田万里・衆議院副議長の公式Twitterアカウントに投稿された写真には……。(BuzzFeed) ← 衰退する国って、こういう風景なんだろうね。こんなメンツで少子化対策?     

 

軍拡の是非、議論を 閣議決定は国会軽視で許されぬ(神奈川新聞); 青井未帆学習院大教授に聞きました。「国会は職責を果たさねばならない。予算は憲法上、国会と内閣が協働しなければ作れない仕組み。防衛費の増額が既定路線のように増税だけに絞って議論をするのでなく、その前提問題に立ち返った議論がもたれるべきと強く言いたい」    

 

「異次元の少子化対策」、結局いままで通り「女性に圧をかけるだけなんじゃないか」と思ってしまう理由(武田 砂鉄);「この人は役に立つかどうか。どんな能力があるのか。価値があるのはどちらのほうか。そういう問いかけが社会的な強者から繰り返される。問題視されても、『一理あるよね』や『痛いとこついてる』といった肯定がしっかりと顔を出す」    

 

〈藤原定家の時代253〉文治3(1187)年9月4日~9月28日 「千載和歌集」序が後白河に奏覧 畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正に預けられる 中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両貢金に対する秀衡の返答届く 頼朝の奥州藤原氏への圧力の経緯             

 


〈藤原定家の時代252〉文治3(1187)年7月13日~8月21日 興福寺南大門棟上げ 熊谷次郎直実、流鏑馬の的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退 所領の一部を没収される 洛中に群盗蜂起 千葉常胤・下河辺行平が京都に派遣される より続く

文治3(1187)年

9月4日

・秀衡が義経を扶持し叛逆を起すとの頼朝の訴えがあり、陸奥に院庁下文が下り、頼朝が使者を派遣。この日、帰参した頼朝の雑色、秀衡には「異心」はないと語ったと述べ、何かあれば「用意」しているようだと報告。そこで、その雑色を京都に遣わし、奥州の形勢を報告させたという((「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・義経追討の院宣、奥州平泉に届く。

9月13日

「摂津の国在廰以下並びに御室御領の間の事、その法を定めらる。今日北條殿の奉りとしてその意を得るべきの由、三條左衛門の尉の許に仰せ遣わさるる所なり。その状に云く、 摂津の国は平家追討の跡として、安堵の輩無しと。惣て諸国在廰・庄園下司、惣横領使の御進退たるべきの由、宣旨を下されをはんぬ。てえれば、縦え領主権門たると雖も、庄公の下職等国の在廰に於いては、一向御進退たるべく候なり。速やかに在廰官人に就いて、国中の庄公下司押領使の注文に召され、内裏の守護以下関東の御役に宛て催さるべし。但し在廰は、公家奉公の憚り無しと。文書調進外の役を止めらるべく候。兼ねてまた河邊の船人を以て御家人と名づけ、時定面々に下知状を成し給うと。事もし実ならば然るべからず。速やかに停止せらるべし。抑も御室の御領所、数輩の寺官を称し、御家人役に宛て催すの由御訴訟有り。所詮三人の寺官の外、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる。その旨を相存ずべし。仰せに依って執達件の如し。 文治三年九月十三日 平」(「吾妻鏡」同日条)。

9月18日

・藤原定家(26)、潔子内親王御禊行幸に供奉

9月19日

「右武衛の飛脚参着す。去る月十九日齋宮群行なり。而るに勢多橋破損の間、佐々木定綱の奉行として、船を以て湖海を渡し奉るの処、延暦寺所司等、雑人の中に相交り狼藉を現すに依って、定綱郎従相咎むの間、図らず闘乱を起こし殺害に及ぶ。衆徒この事を聞き、忽ち以て蜂起し、嗷訴に及ばんと擬す。而るに国司雅長卿並びに定綱等、殊に制止を加うべし。就中定綱の事に於いては、関東に触れ仰せられずんば、輙く聖断を決し難きの由、座主全玄僧正に仰せらるると雖も、衆徒等猶静謐せずと。」(「吾妻鏡」10月7日条)。

9月20日

・第7勅撰和歌集「千載和歌集」(藤原俊成撰)の序が記され、後白河院に奏覧。完成は翌文治4年5月22日。

平家の武将平経盛・平経正父子、平忠度、平行盛の歌は「よみびとしらず」とされ、文官の権大納言平時忠や、時代の古い清盛の父平忠盛は実名で載せられる。

9月22日

・頼朝、宇都宮(中原)信房・天野遠景を貴海島(鬼界ヶ島)に遣わし義経残党を探索(「吾妻鏡」同日条)。

9月27日

畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正(従兄弟)に預けられる。重忠、潔白示すため寝食を断つ。10月4日、頼朝、疑いを解き本領菅谷の館に帰る事を許可。

重忠が囚人とされたのは、伊勢に置いた重忠の代官真正の押妨について、太神宮神人長家が強引に訴えたからであるという。重忠は、代官のしたことで、くわしいことはしらないと謝罪したが、その身は囚人となり、所領4ヵ所を没収された。これは、同様事案と比較しても過酷な処分であるが、頼朝は太神宮を深く信仰しており、神領に対しては、特に低姿勢であったことによるものと推測される。

胤正に預けられた重忠は、食事をとらず、夜も眠らず、また一言もものをいわずに謹慎した。胤正が心配し詞をつくして、何かたべろというが少しもききいれない。一週間ほどしたら顔付がかわってきた。どうも絶食して死ぬ気らしい、というので、胤正は頼朝に様子を報告して、どうか早く許してやってくれと頼んだ。頼朝はすこぶる感動し、すぐのこれを許した。

「畠山の次郎重忠囚人として千葉の新介胤正に召し預けらる。これ代官眞正が奸曲に依って、太神宮神人長家綱訴え申す故なり。代官の所行子細を知らざるの由、これを謝し申すと雖も、所領四箇所を収公せらるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「千葉の新介胤正参り申して云く、重忠召し籠められ、すでに七箇日を過ぎるなり。この間寝食共に絶しをはんぬ。終にまた言語を発すこと無し。今朝胤正詞を尽くし膳を勧むと雖も許容せず。顔色漸く変り、世上の事殆ど思い切るかの由見及ぶ所なり。早く免許有るべきかと。二品頗る傾動し給い、則ち以て厚免せらる。仍って胤正奔り帰り相具し参上す。重忠里見の冠者義成の座上に着す。傍輩に談りて云く、恩に浴すの時は、先ず眼代の器量を求むべし。その仁無くばその地を請うべからず。重忠清潔を存ずること、太だ傍人に越えるの由、自慢の意を挿むの処、眞正男の不義に依って恥辱に逢いをはんぬと。その後座を起ち、直に武蔵の国に下向せしむと。」(「吾妻鏡」10月4日条)。

9月28日

・この年4月、頼朝は、鹿ヶ谷事件で奥州に配流となった中原基兼の召還と東大寺大仏再建の鍍金料として3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請。それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られた。その返答が9月28日に京都に届いた。

内容は、基兼のことは本人が拒んでいるので上洛させないだけで、拘留しているわけではないこと、3万両の貢金は、莫大な料であるうえに、近年は多くの商人が領内に出入りして砂金を売買し、量が底をついているので難しいが、求められたら進上するというもの(『玉葉』9月29日条)。この返答に頼朝は「頗る奇怪」と不信感を示したが、秀衡は、頼朝の要求を余裕を持って断っている。

『玉葉』によれば、院宣の内容は、基兼と貢金のことだけでなく、「度々の追討等の間、殊に功なき事」が含まれていた。これは『玉葉』に直接記されてはいないが、義経を匿っていることを言っているのかもしれない。唐突な基兼召還要求も、義経のことを牽制する意図があったのかもしれない。

「定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し。何様に沙汰有るべきや。計り奏すべしてえり。件の申状、御使を奥州に遣わし、東大寺大仏滅金料の砂金を秀衡法師に召すべきの由なり。この事去る四月頼朝卿申して云く、前の山城の守基兼(元法皇近臣、北面下臈、凶悪の人なり)秀衡の許に在り(先年平相国入道、院の近臣等を誡むの内、基兼その随一として奥州に配流せられをはんぬ。その後秀衡に属き、今に彼の国を経廻すと)。而るに上洛の旨有りと雖も、秀衡召し禁しむの間、素意を遂げざるの由、歎き申す所なり。・・・兼ねてまた陸奥の貢金、年を追って減少す。大仏の滅金巨多罷り入るか。三万両ばかり進せしむべきの由、召し仰せらるべきなり。件の両條別の御教書を賜い、秀衡の許に仰せ遣わさんと欲すてえり。仍って経房卿申請に任せ、御教書を書き(基兼の事・砂金の事、並びに度々の追討等の間殊功無き事等なり)、彼の卿の許に遣わす。件の御教書を以て、頼朝書状を書き副え、使者雑色澤方を以て、秀衡の許に遣わす。即ち請文(頼朝返事なり)を進す。件の請文を以て、件の使者澤方処を相具し、経房卿に付すなり。昨日到来すと。頼朝申状の趣、秀衡院宣を重んぜず。殊に恐れる色無し。また仰せ下さる両條共に以て承諾無し。頗る奇怪在るか。今に於いては別の御使を遣わし、貢金等を召さるべきかと。秀衡申状の趣、基兼の事に於いては、殊に憐愍を加え、全く召し誡め無し。京上すべきの由を申さざるに依って、忽ち上洛せしめず。更に拘留の儀に非ず(召し進すべきの由を申さずなり)と。貢金の事、三万両の召し太だ過分たり。先例広く定めて千金を過ぎず。就中、近年商人多く境内に入り砂金を売買す。仍って大略堀り尽くしをはんぬ。仍って旁々叶うべからずと雖も、求め得るに随い進上すべしと。余申して云く、御使を遣わさるるの條、異儀有るべからず。頼朝御返事の趣、申す所尤もその謂われ有り。尤も御使を遣わさるべし。」(「玉葉」同29日条)。

〈頼朝の奥州藤原氏への圧力〉

前年文治2年(1186)4月24日、藤原秀衡の請文が鎌倉に届く。これは、朝廷への貢馬・貢金は、今後は頼朝が取り次ぐということを要請した書状に答えたもの。その書状で頼朝は、秀衡を「奥六郡主」、自分を「東海道惣官」として、互いの立場を明確化し、本来ならば魚水の思いをなすべきところ、これまで音信がなかった。頁馬・貢金は国家への貢ぎ物であるから、私(頼朝)が管轄しないわけにはいかなく、それは勅定の趣を守るためであるという(『吾妻鏡』文治2年4月24日条)。

頼朝は、「十月宣旨」で朝廷から認められた東国管轄権を利用して、朝廷でさえこれまであまり干渉してこなかった奥州のことに干渉するとともに、自身を秀衡よりも上位に位置付けようとした。それを秀衡が承諾した。秀衡は無益な争いを避けた。

これにより文治2年5月10日、秀衡より貢馬3疋・中持3棹が鎌倉に送られ、八田知家が付き添って京都に送られた(『吾妻鏡』5月10日条)。

10月1日には、秀衡より今年分の貢金450両が鎌倉に届き、2日後、頼朝からの頁馬5疋とともに京都に送られた(『吾妻鏡』10月1,3日条)

文治3年(1187)4月、頼朝は、中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請し、それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られる。

9月4日、奥州に遣わしていた雑色が鎌倉に帰還。これは、それ以前、秀衡が義経を扶持して反逆していることを頼朝が朝廷に訴え、それに基づき院庁下文が陸奥に下され、その時に鎌倉から同行した雑色である。


つづく


嗚呼、『政治一家』の四代目! → 官房副長官の説明によると、公用車で土産物を買ったり写真集めが「首相の政務秘書官」の仕事だそうです / 岸田首相 秘書官長男が公用車で観光地巡り報道…増税強いる中のKYぶりに「税金で海外旅行」と批判殺到(女性自身) / 岸田氏「長男秘書官」外遊中パリ、ロンドン観光、ショッピング/カナダ首相と写真を撮りたいとゴネる/ネット「国民の血税でいい身分だな」「身内には甘々、国民は増税」 / 木原官房副長官、外遊先での公用車の運用について、①業務内容②重要性③視察先の安全情勢や交通状況等に照らしつつ必要とされる範囲内での運用とすべきと基準示す。この基準満たしているのか、説明を避ける。つまり、基準を満たしてないことを事実上認めたに等しい。       

 

▼あくまで「公務の必要上」です