2024年5月23日木曜日

給料明細「6月危機」が迫る…減税額の記載義務化で大迷惑をこうむる企業「政権のアピールにしか見えない」(東京) / 玉川氏 「やり方が恩着せがましいんですよ、(総理は)『我々が恩恵を与えるんだから実感しろ』と言ってるわけでしょ…下げる時は給与明細に書けと、だけど保険料はガンガン上がってる、だったら保険料も上がりましたと書かなければいけないですよね、だから都合のいい方は書けと、だけど『都合の悪い方は書くな』って言ってるわけでしょ、これを『恩着せがましい』って言うんですよ」 / 明細への減税額明記 立憲・岡田氏「選挙運動と言われても仕方ない」(毎日)    

「死んだクジラ」の処理費用「ブラックボックスにできる」と業者 協議に担当外の課長も参加 当初試算から倍以上に増額(関西テレビ) / なぜクジラの「淀ちゃん」死体処理に8000万円? 維新と近い業者が受注 大阪市のテキトーな理由【内部文書入手】 (AERA dot.)

2024年5月22日水曜日

鎌倉 長谷寺花散歩 花菖蒲 アジサイ ウツギ ハギ イワタバコ ユキノシタ スイレン 2024-05-22

 5月22日(水)はれ

鎌倉、長谷寺の放生池に花菖蒲の筏が浮かび始めた。いま、三つの筏が浮かんでいる。

若い、溌溂とした花菖蒲だ。





▼アジサイはまだまだほんの咲き始め


▼ウツギ

▼ハギ(夏萩)

▼イワタバコ



▼ユキノシタ

▼スイレン

▼経蔵





大杉栄とその時代年表(138) 1895(明治28)年2月5日~14日 東学農民軍討伐作戦終了の記事が登場し始める 北洋艦隊降伏 丁汝昌自殺 「国民新報」従軍記者国木田独歩、「愛弟通信」送稿 海城が包囲から解放される 澎湖島遠征        

 

威海衛の戦いの概略図

大杉栄とその時代年表(137) 1895(明治28)年2月1日~4日 孫文、広州で興中会設立 日本軍、威海衛占領 後備歩兵独立第19大隊本部のある羅州で東学農民軍大量処刑 苛烈な弾圧を命じられた討伐隊下士官・兵士の自殺・逃亡・発狂 より続く

1895(明治28)年

2月5日

連合艦隊、威海衛湾口の劉公島に隠れている北洋艦隊攻撃。

午前3時、第2・3水雷艇隊、威海衛軍港の東口防材に到着。湾内侵入の第3水雷艇隊の第23・5・10・9号艇が水雷発射。午前8時、連合艦隊本隊と第1・2遊撃隊、「定遠」が傾いているのを発見。6日午前4時、第1水雷艇隊第23・11号艇ら湾内潜入し「来遠」「威遠」撃沈。7日8時30分、南岸諸砲台が日島砲台を砲撃、火薬庫爆発。8日9時30分、砲撃により「靖遠」撃沈。10日以降、砲撃続く。

2月6日

大本営、野津第1軍司令官の要請により第1師団(山地時団長)残部の北進(蓋平へ進軍)決定。

2月8日

狩野亨吉・菅虎雄が漱石を訪問。

2月10日

「全羅道南部東徒鎮圧報告」(『日本』2月10日付)

釜山守備隊にあてられていた後備歩兵第10聯隊第1大隊の第4中隊(中隊長鈴木彰大尉) から大隊長の今橋少佐宛の報告で,「釜站報第1号全羅道南部東徒鎮圧の報告第3」が原文である。原文を正確な根拠と考えると,「波青駅」とあるのは「波音駅」,宝城郡南部の村落名「曹春洞」は「富春洞」である。14日に海倉山上で「将に竣工せんとする家屋四戸」を発見し,「賊徒屯集の用に供せんとする」ものという判断で「悉く之を崩壊せり」とあるが,原文は「悉ク之ヲ放火セリ」とある。また第18大隊の教導中隊(日本軍が指導している朝鮮軍部隊) が竹川洞付近で「三四百の敵」を撃破したが,「京城の韓兵百名」が同中隊の跡を追って宝城郡に来た,とあるが原文では,「京城ノ韓兵八百名」とある。この報告の中には「同地方(注:海南地方)は漸次鎮静の報あり」など東学の勢いが弱まっている表現がいくつか見られる。実際に東学の勢いは弱まりつつあった。

「鳳山附近の東徒征討」と「東徒討伐報告」(『日本』同日付け)

前者は,黄海道の鳳山付近の制圧報告で,仁川の今橋兵站司令官からの電報。

後者は、大邱守備隊である後備歩兵第10聯隊第2中隊の三宅剛義中隊長からの戦闘報告。1月12日,三宅大尉率いる1個分隊と朝鮮兵200名,さらに桑原少尉率いる2個分隊で,鐘谷付近の夜襲を決行し,東学1万人を敗走させ,翌朝9時半占領に至ったというもの。「東徒の死数百(内夜襲の際剣殺するもの数十,又尚州韓兵の報告に拠れば首領鄭載俊及び仁奎洪も此役に死せりと)。分捕牛馬数十,武器等数多なり。」という。12時間にも亘る長時間の戦闘で,「戦酣なるに及び,彼は我両翼に進み,殆ど包囲の形と成れり。或は中央を衝かんとする数回。一時勢力猛烈を極むと雖も,我兵奮闘之に当る。」という戦闘状況など年を越えても東学の強い勢いが認識されていた。

『日本』(『東朝』も同様)が掲載する戦闘報告記事もはこれが最後となる。以後,『東朝』・『日本』二紙には東学殲滅作戦の専従部隊が,作戦終了により引き上げるという記事が,2月中旬から登場するようになる。まだ全体を制圧したわけではなかったが。


「東学党ハ大半鎮定したるに付征討日本兵ハ皆引揚げたり」(『東朝』2月13日)

全羅道南部派遣の鈴木大尉の中隊(釜山守備隊),2月6日釜山へ帰途に(『日本』2月14日,『東朝』2月15日)

「忠清・全羅・慶尚三道の東学党ハ大半鎮定したるに依り我征討軍ハ去る七日羅州を発し帰京の途に(『東朝』2月20日)

「東学党征討の我兵本日帰京せり」(『東朝』2月22日) 2月13日漢城発の郵便による。

漢城駐屯の独立第18大隊より派出していた3個中隊のうち,江原道方面の1個中隊は引揚げ,13日漢城到着(『東朝』2月26日)

後備歩兵第19大隊の引揚げ,3月2 漢城到着,国王の慰労勅使派遣(『日本』・『東朝』3月5日)

忠清道の山村大尉の部隊は任地に帰らせる予定(同上)

2月10日

仏、世界初のガソリンエンジントラック走行。

2月11日

紀元会が学士会事務所で開催され、漱石出席。狩野亨吉・菅虎雄・小屋(大塚)保治・米山保三郎・立花銑三郎・岩岡保作・堀内某の8名出席。

2月12日

北洋艦隊降伏

早朝、清国砲艦「鎮北」により「広乙」艦長程壁光が北洋水師提督丁汝昌の請降書を届ける。丁汝昌、自殺。14日、降伏規約決定。17日、接収。

日本艦隊の水雷艇部隊が防材をかわして泊地へ侵入し、至近距離から魚雷攻撃を敢行すると、威海衛湾に安全な場所はないと悟った清軍の水兵は反乱を起こし、清軍の陸兵と清国へ派遣されていた外国人軍事顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は李鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサル旨」と決別の打電を行った後に服毒自決した。翌12日には「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮官も自決した。

抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)を提出した。

14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放について両軍が合意し、15日に調印が行われた。

17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に解放され、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航した。作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持することとし、砲台など軍事施設を爆破した。作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦にそなえて旅順に移動した。(wikipediaより)

「国民新報」従軍記者国木田独歩、軍艦「千代田」に乗り込んで「愛弟通信」を送稿。「今朝(二月十二日)また彼の砲艦来たる。十一時、旗艦の信号にいわく、丁汝昌(北洋水師提督)死すと。ああ丁汝昌は死せり。彼は国のために殉じたるなり。すでに丁汝昌死す。北洋艦隊は全滅したるなり。威海衛は陥落したるなり。開戦今日に至るまで敵の敗亡滅燼、その数を知らず。しかも北洋艦隊はもっとも見事なる最後を遂げたるなり。大日本帝国万歳!」(「国民新報」2月23日)。

2月13日

小屋保治と大塚楠緒子の結納

2月13日

この日付け禿木の一葉宛て手紙。無沙汰を恨み、来訪を促す。禿木は、帝国大学進学を断念した失意の中で、師範学校受験の準備に忙しかった。


「扨この春のたけくらべは誠に誠におもしろく拝見致し毎夜くりかへしてあく事を知らぬはまさに松寿軒(西鶴)のひときはさつぱりとせし御筆の跡とたどられ如何(ドウ)しても都の花以来の御傑作と珍重罷在候(マカリアリソウロウ)あのあと是非共今月も御見せ下され度しきりに待ち焦れをり候」(明治28・2・13付)

2月14日

海城救援のため、第1師団主力が太平山で牽制作戦。

24日、勝利してようやく海城の包囲を破る

2月14日

大本営、混成支隊司令官比志島大佐に澎湖島遠征出動を訓令。

20日、伊東連合艦隊司令長官に澎湖島占領・馬鞍群島(揚子江口東南)以南の制海権掌握命じる。

つづく


万博会場の爆発、新たな損傷10カ所以上を確認 JVが未報告と説明(朝日) / 万博会場メタンガス爆発、消防連絡は4時間半後 高濃度一酸化炭素も(朝日) ← 事故を出来るだけ小さく見せようとした。事故も対応もキケン! / 万博遠足の休憩所はガス爆発現場!大阪府が計画「児童・生徒 無料招待」でも真っ平ごめん(日刊ゲンダイ) / 「学校行事で子どもを万博に連れて行かないで」 安全性不安、市民団体が滋賀知事に要望(京都新聞5/9) / 万博会場ガス爆発、新たな論争の火種? 子供招待に「待った」…非維新も問題視(産経5/9) / 大阪万博を南海トラフが襲ったら…ホンマに大丈夫? 具体的な避難計画は「まだない」 残り1年を切っている(東京) / 【万博開催の懸念】大雨・地震で2つだけの橋・トンネルに通行止めの恐れ…開催中に会場“孤立”の危惧 具体的な防災計画は今も検討中 / 「なぜここに誘致したのか」港湾関係者の怒り 深刻な“渋滞”&“物流停滞”の懸念 会場アクセスは橋・トンネルの2つのみ(YTV) / 大阪・関西万博ついに参加国を怒らせた! 地盤は脆弱、水はけ悪く、メタンガス噴出も(AERA.); Aさんの写真や動画には、万博会場のあちこちで池のように水がたまった様子が映し出されている。 「水はけが悪い地盤なので工事にも影響しています」 / 大阪・関西万博 大阪府内の自治体トップらが現場視察(NHK);「百聞は一見にしかずなので、視察に参加した市長の1人として証言します。⁰肝心の海外パビリオンの建設はあまり進んでおらず、工事が着実に進んでいると感じられず、手応えはありませんでした。(交野市長 山本けい)」  

 




 

 

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〈朝ドラ『虎に翼』〉 『虎に翼』脚本家・吉田恵里香さんと考える「はて?」と声を上げる意味 / 「息子にも語らなかった」『虎に翼』寅子のモデルが挑んだ「原爆裁判」の中身 三淵嘉子と「原爆裁判」(若尾淳子 FRAU) / あだ名はイノシシ…朝ドラ「穂高教授」のモデル・穂積重遠は渋沢栄一の孫で男爵の称号を持つセレブだった(菊池浩之) / 「脚本家はいったいどこまで調べて…」現役弁護士が驚いたマニアックすぎるエピソードと、実在事件の使い方「『虎に翼』は日本国憲法97条のドラマ化だと思う」 國本弁護士インタビュー#1(文春オンライン) / 26歳の女性弁護士に縁談は来なかった…朝ドラのモデル三淵嘉子が一番身近にいた元書生と結婚したワケ(プレジデント) / 朝ドラ『虎に翼』寅子が依頼人に避けられる本当の理由は? 結婚・出産しないと“非国民”の時代の生きづらさ(歴史人) / 朝ドラ『虎に翼』は「感じ悪い」という感想に「はて?」 “エンタメと社会性の両立”について考える(プチ鹿島) / 『虎に翼』現象を制作陣はどう見ているのか。「自分ごと」にさせる「NHKの集合知」(田幸 和歌子 FRaU) / 朝ドラ『虎に翼』朝鮮半島からの留学生・崔香淑と兄が連行された理由は? 「特高」と「治安維持法」とは 男爵令嬢・桜川涼子が志半ばで婚約した事情 徹底的な男尊女卑を定めた「華族令」とは?(歴史人) / 千田稔『明治・大正・昭和華族事件録』 / 鄭鍾賢『帝国大学の朝鮮人』 



 

教員わいせつ事件で「傍聴ブロック」…横浜市教委が裁判所を職員で満席に 工作隠しも指示 旅費まで支給(東京) / なぜか満席の横浜地裁…記者は1人の傍聴者の後を追い、確信した 横浜市教委の「傍聴ブロック」発覚の経緯(東京) / 横浜市教委 教員のわいせつ事件裁判で職員動員し傍聴席埋める(NHK動画) ← 笑顔で説明してる! / 横浜市教委 教員による児童への性犯罪公判で職員動員、一般傍聴妨害(毎日) / 「被害者が市立学校の児童生徒でも、加害者が市の教職員ではない事件の公判については動員をかけていないことも判明した」 ← プライバシー保護という口実はウソ!       

 

 

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▼森田真奈子 記者
 


 


2024年5月21日火曜日

公金の使い道のことなのにプライバシーって言う? ⇒ 岸田首相、政活費の領収書公開に否定的 個人のプライバシーなど理由(産経) / “領収書必要なし”自民の政治改革案に…【グッド!モーニング】(2024年5月21日) 街の声 『あきれてものも言えない』 『普通の企業ならお金使ったら経費とかも全部出す』 『めんどくさいんだったら政治家なんてやめてしまえ』 『やましくないなら領収書出せ』 『世の中に使うというより身内に使ってるんじゃないか?それを公表しないこともできる。』 / 懲りない自民党「政活費+機密費」で年間30億円の裏金温存 規正法改正でも目に余る往生際の悪さ(日刊ゲンダイ)   



 

東京五輪はレガシーどころか「負のイメージ」 小池百合子氏は自賛するが都民の負担まだ続く〈検証小池都政〉(東京) / 小池百合子知事の「決断」に振り回される区市町村「我々は下請けじゃない」 スピード感の裏で〈検証小池都政〉(東京)   

 

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「海外のカジノ業者の利益になるだけ」 世界的建築家・山本理顕が明かした「大阪万博批判発言」の真意 「安藤忠雄さんは逃げてはいけない」(デイリー新潮)

伊沢拓司氏 「成人一人1票という我々が勝ち得た選挙の権利が、子供がいるかどうかで歪められてしまう、しかも子供がいるかどうかは若者とイコールじゃないですから、そういったところも含めて『手段のために原則を変えてしまうというのは順序が間違ってる話だな』と思うんです、そもそもこれが『パフォーマンスとして成立してしまう』と思われてる状況が、ちょっと辛いですね、これで人の心を変えるという風に政治家に思われてしまっているのは、いささか『政治リテラシーの低下』と言わざるを得ないところがあって、僕はちょっと残念でしたね…手段と目的が違ってる…」  

大杉栄とその時代年表(137) 1895(明治28)年2月1日~4日 孫文、広州で興中会設立 日本軍、威海衛占領 後備歩兵独立第19大隊本部のある羅州で東学農民軍大量処刑 苛烈な弾圧を命じられた討伐隊下士官・兵士の自殺・逃亡・発狂 

 

甲午農民戦争

大杉栄とその時代年表(136) 1895(明治28)年1月21日~31日 伊藤野枝生まれる 陸奥外相、御前会議に「講和予定条件」提出、承認される 威海衛南岸の清軍壊滅 一葉「たけくらべ」(1~3)『文学界』第25号掲載(1年間) より続く

1895(明治28)年

2月

孫文、広州で興中会設立

2月

西園寺公望、「脚本改良の集談会」主催。演劇改良論議

2月

「青年文」創刊。

2月

川上眉山「書記官」

2月

広津柳浪「変自伝」

2月

平安神宮竣工。明治26年11月着工

2月

アンリ・マチス(26)、再びエコール・デ・ボザールを受験、合格。

3月、正式にモロー教室に入り、H.マンギャンらと知り合う。隣人の画家エミール・ヴェリと共に屋外で描くようになる。

2月1日

日清両国全権、広島で会商。

翌日、伊藤首相が清国全権の委任状が不備と指摘し、決裂。

12日、清国全権、長崎より帰国。

2月1日

京都電気鉄道、日本で最初の電車を京都の塩小路~伏見間で開通(後の京都市電)。モーターは25馬力1台だけのため速度が遅く、電車が通ることを警告するために電車の前を走る少年(先走り)を配置。

2月1日

雨天。一葉、村上浪六を訪ねる。世間では武骨な荒くれ男と噂するが、情に篤く、今度結婚する相手は吉原遊郭の縁でそこから出してやるためだという。

文学論;

「源氏物語」は立派な作品だが、紫式部も自分と同じ女性であり、あれを超える作品が出ないのは、描こうとする者がなかったからだ。古いものに囚われず、現代に即した書き方をすべきである。

人生論;

世に英雄豪傑というのは大袈裟で、隠れた偉人も多くいる。天地はすべて平等で、人間が勝手に身分というものを作り出したのであり、娼婦を卑しいとし、紳士がこれを踏み躙るのは許されることではない、など。

2月1日

ロシア、極東問題に関する第2回特別会議。日本の旅順・大連割譲要求への対応協議。

2~3月、露英仏3国間で協調して「朝鮮の独立とその領土保全」を要求すると結論。

7日「タイムズ」がこれをスクープ、3国は中国の寸土も日本の領土とすることを許さないであろうと伝える。陸奥外相は各国公使にその真偽調査を電訓。

2月1日

米、映画監督フォード、誕生。

2月2日

「東徒討伐の報告」(『日本』2月2日付)

朝鮮南部の全羅道や慶尚道ではなく,北部の黄海道地方の殲滅作戦の報道。平壌作戦以降設置されていた兵站司令部の漁隠洞から西南8里(約32キロ) の「セウタク」というところで,1月20日東学500名が山中少尉の部隊と戦闘し,「苦戦一時間余にして賊一名を傷け撃攘」したという。戦利品は「銃五十挺,鎗五本,旗三旈其の他書類」であり,銃の多さなど南部の東学より重装備なのは清国軍の敗走と関連しているかもしれない。

近くの殷栗では「東党の主領株四名」の捕縛と共に,「火薬五百二十斤,銃二百五十挺及び鎗刀書類等」を分捕った。この銃の多さと火薬の多さ(312キログラム) も,東学の侮れない武装力を示している。

そこで兵站司令部は,銀波は朝鮮兵部隊,山中部隊に漁隠洞守備隊から抽出した2個分隊を加えて,松禾から長淵に向かわせ,中山部隊は海州から長淵に向かわせ,挟撃して殲滅作戦を行う指示を出した。『東朝』は,同内容の記事を2月1日付に「黄海道東徒の形勢」として掲載していて,地名の「セウタク」には「松禾(ショウクワ)」をあてている。

2月3日

威海衛占領

第2軍第2師団歩兵第4連隊第2大隊と第16連隊第2大隊、威海衛を偵察に出て、前夜中に清軍撤退を知る。午前9時30分頃、入城。10時30分頃、前衛前兵も入城。北岸の砲台を占領。

2月3日

一葉が、野々宮菊子に依頼していた10円の借金に対し、8円が送られる。また、菊子より紀元節に学校で行われる式典で読む祝文及び9日に行われる教育会で発表する生徒の誡告文の添削を求められる。

2月4日

後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊(「従軍日誌」筆者)は、東学党討伐大隊の本部が置かれていた羅州(ナジュ)へ,討伐をほぼ終結して2月4日に入る。大隊本部が1ヶ月置かれており,東学農民軍に対する処刑が行われていた。


「南門より四丁計り去る所に小き山有,人骸累重,実に山を為せり。是は前日,長興府の戦後,捜索厳しき故,東徒居所に困難し,追日我家毎に帰らんとせしを,彼の民兵,或は我が隊兵に捕獲せられ,責問の上,重罪人を殺し,日々拾二名以上,百三名に登り,依てこの所に屍を棄てし者,六百八十名に達せり。近方,嗅気強く,土地は白銀の如く,人油結氷せり。如斯死体を見しは,戦争中にも無き次第なり。この東学党の屍は,犬鳥の喰所となれり。」(「従軍日誌」)


(羅州城の南門から4丁ばかりのところに、小さな山(「人骸累重」)があった。戦いの後,日本軍は,朝鮮の民兵や日本軍自身によって、ひそかに家へ戻ってかくれようとする農民軍を探して捕らえ,「責問の上,重罪人を殺し」た。処刑は,毎日,少ない時は12名,多い時は103名にのぼった。死体は,680名になった。)


南大隊長の井上馨公使への報告では,羅州での処刑は,230名と記されていたが,「従軍日誌」では,その三倍の700名にちかかった。


〈大本営の「ことごとく殺戮命令」が兵士たちにもたらしたもの〉

●自殺

日清戦争で,朝鮮において,後備兵たちは東学農民軍討伐というもっとも凄惨な戦いの最前線に立たされた。第2次東学農民戦争は,日清戦争のなかで最大の朝鮮農民の犠牲者を出した。

朝鮮農民の戦死者は,3万名を越えるのは確実で,5万名に迫ると推計されている。14.9ミリの大口径ライフルのスナイドル銃と,徴兵制で訓練された日本兵士は,東学農民軍に対して凄惨な,苛酷な討伐を展開した。下士官たちは,東学農民軍を前世紀の粗末な武器をもつ未開の弱兵,「暴民」と呼んだ。「百発百中,実に愉快」と言い切っていた。

朝鮮兵站線守備隊で,東学農民軍討伐の最前線に常に居た二人の指揮官が,帰国を前に,朝鮮で自殺した。一人は,可興の司令官,後備第10聯隊第1大隊第1中隊の大尉福富孝元である。釜山の後備第10聯隊の陣営で,1895年4月28日午後,軍刀をもって頸動脈二ヶ所を切り,自決した。発見後,一時,5月2日「精神元に復し」たが,同月13日亡くなった。高知市出身で,つねに東学農民軍討伐の最前線にいた人物である。

もう一人は,釜山の小隊長,後備第10聯隊第1大隊第3中隊中尉,遠田喜代で,朝鮮南海岸の凄惨な討伐戦の指揮官であった。帰国を前に,1895年10月2日,地理実査に出て行方不明になり,捜索の末,6日深夜,蔚山(ウルサン)街道で自害しているのが発見された。松山市出身。妻と2人の子供がいた。

●逃亡

後備第10聯隊第1大隊,兵站線守備隊の「陣中日誌」(1894年10月19日)


第四中隊より逃亡兵護送として広島に派遣せり。

(第4中隊における逃亡兵の広島へ護送の記事)


1894年9月下旬から10月下旬にかけて,第4中隊は,鈴木安民大尉,中隊長の指揮下,慶尚道大邱(テグ),安東(アンドン),台封(テボン)など慶尚道一帯の東学農民軍討伐のもっとも中心的役割を果たしていた。鈴木大尉は,この「陣中日誌」に数多くの討伐報告書を残している。その第4中隊から,討伐作戦中に逃亡兵が出ている

兵士の階級や氏名は不明である。


●発狂

同じ後備第10聯隊第1大隊第2中隊では,1894年秋,慶尚北道海平(へピョン)の兵站部司令官,香川少佐は,現場で「発狂」している。


(9月11日)

本日,洛東今橋少佐より,海平司令官,香川少佐,発狂の気味ある旨,電報あり

(9月12日)

海平兵站司令官,香川少佐,愈発狂に確定せるを以て,洛東司令官今橋少佐に命し,釜山へ還送の取計を為さしめ,又副官田中中尉に司令官代理を命す

このころ,東学農民軍の日本軍への電信線切断や蜂起は慶尚道の各地で起きており,9月24日,多富(タブ)司令官渡辺少佐から次の様な命令を出したと電報が届いた。「電線切断する事二回,東学党の所行たる事明かなり,守備兵を昼夜巡回せしめ,又は窃に伏兵を置き,怪しき者は打殺し,地方官より地方官へ告示させよ。誤りにてもかまはす,つまり半殺にして置く勿れ,特に夜間を注意せよ。○此事を海平,洛東へも直くに通せよ」。

9月30日には,釜山の第5 師団中路兵站監本部は,洛東司令官へ次のような電報を発した。「夜中巡回を密にし,怪しきものは,誰彼れの別なく,殺戮せよ」。

こうした命令が出された直後にあたる10月2日,利川の田中中尉から「井上軍曹,誤て自殺の時」と報じ,これを守備隊(第1中隊) 中隊長福富大尉へ報告した,と電報がとどく。この報告を受け取った福富大尉も日清戦争後,釜山の陣営で自殺した。

日本軍兵站線守備隊であった後備第10聯隊第1大隊は,第1中隊では,利川兵站部の軍曹が自殺し(1894年10月2日),第1中隊長もその後,釜山で自殺する(1895年4月28日)。第2中隊では,海平兵站部司令官の少佐が発狂して送還された(1894年9月11日)。第3中隊は,中尉が蔚山で自殺し(1895年10月),第4中隊で一人の逃亡兵を出している(1894年10月)。

上の後備第10聯隊第1大隊は,釜山から慶尚道を北上し,小白山脈を越え,忠清道を経て,京畿道をソウルへと入る兵站線守備隊であった。日清戦争の間,蜂起した東学農民軍と戦いつづけていた。その一大隊の指揮官を中心として,自殺が3名,発狂が1名,逃亡兵が1名出ている。これは公式記録に残された範囲で分かったことにすぎない。多数出た戦病死も,病名など明らかでないのだが,こうした死者が居た可能性がある。


つづく


東京スマート度急落、世界86位 142都市中、デジタル化遅れで | 2024/5/21 - 共同通信 ;「スイスの国際経営開発研究所(IMD)がこのほど発表した「2024年スマートシティーランキング」で、東京は前年から順位を大きく下げ、世界86位と低迷した。」