2011年6月30日木曜日

東京 北の丸公園 空の青に映える清水濠 路傍のカンナ

梅雨の晴れ間というよりは炎天、が続いています。
昨日(6月29日)は朝から「真夏」全開。
こういう(久しぶりの)青空には、清水濠がよく映えます。
例えば、コチラの2月の清水濠もそうです。

▼千代田区役所を正面にみる清水濠

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▼路傍にはカンナが咲き始めました。
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2011年6月28日火曜日

東京 北の丸公園 ハナミズキの実 コブシ(辛夷)の実 エゴノキの実

6月28日の北の丸公園
梅雨の晴れ間どころか真夏の炎天
まだもう少し続くらしい

この炎天下でも、昼休み散歩の人は多い

▼ハナミズキの実
秋の紅葉の頃にはこの実が赤くなるとのことですが、その前に鳥たちに食べられるのか、秋までは実がもたない、という記憶があります。
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▼コブシ(辛夷)の実
形状は様々で、しかもグロテスク
厳密には、これは実が入っている袋とのことで、徐々にこの袋が解けて、秋には実が出るそうです。

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▼エゴノキの実
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昭和16年(1941)4月17日~30日 野村駐米大使から「日米了解案」届く 松岡外相はこれに反対 ギリシャ占領

別途進めています永井荷風「断腸亭日乗の昭和16年と併走させる積りで始めた年表「昭和16年記」が止まっていました。
再開します。
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昭和16年(1941)4月17日
・大本営、「対南施策要綱」概定。仏印・タイとの軍事的結合を意図。
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・ユーゴスラビア、ドイツに降伏。国王ペタル2世と政府閣僚、亡命。
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・ハル米国務長官、蘭印の現状維持を声明。対日警告。
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4月18日
野村駐米大使からの「日米了解案」受信
夜、大本営政府連絡会議、「諒解案」受諾に傾く。

この諒解案は、岩畔・井川・ドラウト3人が試案を作り、ハルが手直しして出来上がったと日本に伝えられる。
この案では、「(一)日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」~「(七)太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」の7点で合意に達したといい、中心はアメリカの満州国承認、支那事変解決の仲介にあり、末尾では、日米の代表者の会談をホノルルで開き、近衛とルーズベルトが話し合ってもいいとさえ言う。

野村大使の請訓電を補足するこの日着の岩畔電は、「第二次試案即チ外務電所報ノモノハ「ルーズヴェルト」ノ同意ヲ得アリ寧ロ確実ナルモ若シ日本政府ニ於テ蹴ラレタル場合米国ハ立場ヲ失フコトトナルヲ以テ本日(四月十六日)ノ会談ニ際シ「ハル」ヨリ野村大使ニ対シ先ヅ東京政府ノ意見ヲ聴カレ度トノ提案アリタル次第・・・」とある。
これを読むと米国側提案と判断できる。

午前、軍務課長佐藤賢了は、軍務局長武藤章に呼ばれ、野村から送られた「日米諒解案」を手渡され、これを読み、「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッションでも見たような、そしてまた眉にツバでもつけたいように変に交錯した気持(だった)」を覚える。
佐藤・武藤・石井秋穂(日米交渉を担当する軍務課高級課員)も、日米諒解案の内容に興奮し東條の許に飛ぶ。
東條は、目を細め、「アメリカの提案は支那事変処理が根本第一義であり、したがってこの機会を外してはならぬ、断じて利用しなければならぬ」と言う。

午後の陸軍省軍務局での打ち合わせ。
米側の諒解案を土台にし、日米交渉の方向を3点に絞る。
①米国は援蒋政策を捨て日支和平の仲介をする、
②日米両国は欧州戦争には参戦しない、なるべくなら両国協力してその調停を行なう、
③米国は対日経済圧迫を解除する。

午後8時、大本営政府連絡会議で諒解案の取り扱いを検討。
会議の空気は和やかで、東條と武藤の笑顔が目立つ。
東條は得意気に発言を続け、「この案ではじめるのは結構だが、ドイツとの信義から三国同盟に抵触しないようにすべきだ」とか、「アメリカと対峙する軍事的余裕はいまはない」、と出席者たちに具体的に説明。
すぐに野村に「原則上同意」電報を打とうとの声もあがるが、外交責任者の署名なしにはできないということになり、欧州訪問中の松岡外相帰国を待つ事になる。

「木戸幸一日記」では:
①(近衛と木戸内府との話し合い)
「独伊に対し信義を失はず、又我国の国是たる大東亜共栄圏の新秩序建設に抵触せざる様、充分研究工夫の上、是が実現に努力するを可とすとの結論に一致す」(4月19日)。
②(天皇の木戸への発言)
「米国大統領があれ迄突込みたる路を為したるは寧ろ意外とも云ふべきが、かう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね、我慢だね」(4月21日)。
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4月19日
・今中次麿「政治学」発禁。
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・鈴木庫三、岩波書店に電話で安倍能成「時代と文化」を例にとって岩波書店の出版傾向を罵倒。
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・トゥブルク救援のイギリス特別攻撃部隊、撃退される。
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・アメリカ、イギリス、オランダ、マニラで軍事協定を結ぶ。
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4月20日
・南洋群島神社規則公布
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・ドイツ軍「マーキュリー」作戦(空挺部隊によるクレタ島占領作戦)。
この日、ドイツ空軍による上空制圧と爆撃に続いて落下傘部隊が降下。
落下傘部隊の損害は甚大であるが連合軍の混乱はそれ以上で、約10日間の激戦の末、ギリシア政府・国王は再び海へと退却。
ドイツ落下傘兵死者・行方不明4,500。
連合軍の半分以上が戦死・捕虜、沈没:巡洋艦3・駆逐艦7、損傷:空母1・戦艦3・巡洋艦7・駆逐艦4。


ドイツ海軍は東地中海には勢力がなく、イタリア海軍は3月28日「マタパン岬沖海戦」で敗北。
落下傘・グライダー降下兵総勢2万2,750、援護航空部隊は戦闘機180・爆撃機280・急降下爆撃機150。
対するクレタ島連合軍はイギリス軍約3万・戦車9、ギリシア軍は定数に満たない2個師団、航空機35のみ。しかも、空からの降下攻撃は想定外。

21日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対ドイツ降伏。国王ゲオルギオス2世及び閣僚、一部のギリシャ軍、中東方面へ脱出。
22日、ギリシャ軍、テッサロニキでドイツ軍に降伏。イギリス軍撤退開始
23日、ギリシャ中・北部のギリシャ軍、対イタリア降伏。
24日、ドイツ軍、テルモピレーの連合軍陣地を攻撃。連合軍は奮戦、ドイツ戦車に打撃を与えるが、横から山岳師団の攻撃を受けて後退。
26日夕方、ドイツ軍、テーベの防衛線を突破。
同日、ペロポネソス半島と本土をつなぐコリント地峡に落下傘部隊が降下、これを占領。アテネにもペロポネソス半島にもドイツ兵が充満。
27日、ドイツ軍、アテネ入城。】アテネ、ドイツ軍に占領される。
イギリス軍、ギリシャ本土からクレタ島に撤収。

ギリシア全土はドイツ・イタリア・ブルガリア軍の占領下におちる。
ドイツは西トラキアのトルコ国境地帯、アテネ、テッサロニキ、クレタ島と他の島いくつか、
ブルガリアは西トラキアの大部分とマケドニアの一部、
イタリアはそれ以外の地域を占領。

ブルガリアはユーゴスラヴィアからマケドニアを奪い、前世紀以来の野心を満足させる。但し、占領軍の実効支配は都市部のみ、地方の山岳地帯では農民達がレジスタンスの準備を整える。
ドイツの指導者たちは物資・食糧収奪を容赦なく行い、1941年~42年の冬、大飢饉がギリシア人約10万人を死に至らしめる。
15世紀以来テッサロニキ居住のユダヤ人5万人ほぼ全ては強制収容所送りとなり多くは帰還せず。
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4月22日
・満州国政府と朝鮮総督府、「満鮮一体化」を宣言。
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・夕方、松岡洋右外相、帰国。
夜9時20分、大本営政府連合会議、松岡は日米諒解案に慎重な態度を表明し、11時に退席。
その後、会議は続き、交渉促進を申し合わせる。
松岡はその後2週間(26日日比谷公会堂での帰朝報告会後)、私邸に籠り、職員を呼びつけては執務。
近衛・陸海軍軍務局長(武藤・岡)は何度も松岡私邸を訪れ、諒解案検討を説得するが、松岡は応じず。陸海軍首脳からは松岡更迭案が出始める。      

この日、松岡は立川飛行場に近衛と大橋忠一次官の出迎えをうける。
東京への自動車内で、野村大使からの請訓電が自分の手配ルート(駐ソ米大使スタインハート経由)のものでないと知り、「アメリカの常套手段に乗せられて喜ぶとは馬鹿だ」と不機嫌になり、ドイツの諒解が必要、ドイツと相互理解の基盤のある松岡の工作による対米交渉以外は問題であると主張。

25日、松岡のシンガポール攻撃発言に対し、近衛首相・東條陸相・及川海相は取り合ううべきでないとの結論で一致。
「現在は支那事変処理が根本義で、アメリカの提案も日本側のこの要望に沿っている。だからこの機を逃すべきではない。ヒトラーにふり回されたら、すべて台なしになってしまう」という東條の見解に、近衛・及川は諒解。
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・シンガポール、米・英・蘭3国軍事専門家会議開催。~26日。
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4月25日
・中米、中英平衡基金協定調印。米5千万ドル、英5百万ポンドの対中国法幣安定資金借款成立
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4月30日
・ドイツ軍、トブルクを攻撃、失敗(41/ 4/30~5/4)
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・イラク軍部隊、ハバニヤの英空軍基地を包囲
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月末
・連合艦隊先任参謀黒島亀人大佐、山本司令長官命により真珠湾攻撃黒島案を軍令部に説明
第1部長福留繁少将・第1課長富岡定俊大佐・航空主任参謀三代辰吉中佐、共に反対。
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2011年6月27日月曜日

「窓閉めろ表土削れと言うけれど地上の生物人のみにあらず」(伊藤 緑) 「朝日歌壇」6月27日

「朝日歌壇」6月27日より


放射能データ同封で送らるる会津の友のアスパラガスよ        (三重県)三井 一夫

ふくしまのもも、なし、りんごちさき実のひとつひとつが抱いてる不安 (福島市)美原 凍子

丘畑は雲ひくく垂り廃棄せしキャベツ五千に花咲きたりと     (ひたちなか市)篠原克彦

窓閉めろ表土削れと言うけれど地上の生物人のみにあらず      (福島市)伊藤 緑

放射能を怖れ今年は食べずをり背戸の筍ただ見守(まも)るのみ   (福島県)目黒美津英

その内に何とかなると思いしが何ともならぬ原発の事故         (川崎市)池田 功 

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「朝日俳壇」6月27日より


セシウムの大気に太る鯉のぼり     (福島市)二宮 宏

原発の方茫々と卯波立つ         (いわき市)斉藤 ミヨ子

脱原発デモに知る顔梅雨激し       (横浜市)下島 章寿

福島の日傘は重し放射能         (福島市)渡部 健

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福島の自民「脱原発」 「推進を深く反省」 (「朝日新聞」6月27日)

「朝日新聞」6月27日

見出し:
福島の自民「脱原発」 県連活動方針「推進を深く反省」 

記事:
自民党福島県連は26日、同県郡山市で定期大会を開き「今後原発を一切推進しない」とする活動方針を決めた。

斉藤健治・県連幹事長は「避難された方々がふるさとに戻れるよう、原発に代わる新たな産業を育成し、本県の復興を進める」と説明。

県議らが中心となって作成した「脱原発」執行部案が了承された。

一部の党員は「説明不足だ」と批判。
原発のある双葉郡の党員は「県も自民党も原発の恩恵を受けてきた。我々も原発は本当に危険だと分かったが、事故が収束せず住民が避難中の段階で、大きな声でノーと言うこと自体、納得できない」と発言した。

大会後、斉藤氏は「これまで原子力を推進してきたことは深く反省している」と話し、福島第二原発について「再稼動は今の時点ではあり得ない」との認識を示した。

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前原前外相、急な脱原発批判 「今の民主党はポピュリズムに走りすぎている」

前原前外相が、はしなくもカン総理のその場しのぎの脱原発シフトをバラしてしまった格好だ。

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「民主党の前原誠司前外相は、・・・・・・

菅直人首相が原発政策見直しに意欲を示していることについて

「今の民主党はポピュリズム(大衆迎合)に走りすぎている。

私も日本が20年先に原発をなくすことは賛成だ。

しかし、振り子が急激に脱原発に触れた時、皆さんの生活が一体どうなるか考えるのが本来の政治だ」

と批判した。」

****「朝日新聞」6月27日

一方で海江田氏が、一生懸命原発再開で苦闘している状況での、カン氏の脱原発シフト。

要は、どっちに振れても対応できるようにとの、にわか作り、その場しのぎの脱原発シフトであることは、明白である。

それを、前原氏は、「大衆迎合」という言葉で批判しているが、まさにその通りで、カン氏の「脱原発」は彼の信念からでたものでも何でもないということを、言い当てている。

ついでだけど、・・・・・

(1)マエハラ氏、「皆さんの生活が一体どうなるか」考えたら、原発再開などありえないのではないか。

少なくとも、事故調の結果が出て、新しい安全基準が確立するまでは、再開など絶対ありえない、というのが、あれだけの大事故(人災)を起こた後の、フツーの考え方だと思う。

(2)カイエダ氏、もう一度「人生不条理」とボヤクことのないよう、よく考えて行動されんことを・・・。
つまり、最悪は、カン氏に裏切られることもありえる・・・?

2011年6月26日日曜日

「安全な日本を子どもたちに継承するため、この夏は汗を流そう」(大阪府知事橋下徹)

15%節電は、これに協力しないと原発を稼動せざるを得なくなるとの関電の脅しであるとして、関電側と対立していた大阪府知事橋下徹は、節電努力では関電と合意するものの、原発の必要性と「脱原発」ではもの別れになったようだ。

そこで、会談後、橋下知事は言う。

「ここは大勝負。

この夏を乗り切れば確実に原発への依存度が下がる。

安全な日本を子どもたちに継承するため、この夏は汗を流そう

***以上、「朝日新聞」6月22日


敵を作って民衆の憎悪を煽る政治手法、

日の丸、君が代にみる政治姿勢(この次は、反自虐史観教科書採用とか)、

光市母子殺人事件弁護団への攻撃、など

この知事のやる事、言う事、嫌いですが、原発関連については今のところ共感できそうだ。

東京 樋口一葉生誕地 鹿鳴館跡

先週某日、早朝から日比谷公園近くに行くことになりました。
JR新橋駅から歩きました。
樋口一葉生誕地と鹿鳴館跡の傍を通りましたので、以下ご紹介。
双方ともに看板だけです。

▼新橋から、第一ホテルアネックスというビルを過ぎて、内幸町ホールの傍、今話題の東電本社の前に「樋口一葉生誕地」があります。
年表はコチラ
父親は東京府の下級職員で、府庁内の官舎で生まれたということで、上の年表では富国生命ビル、日比谷シティと書いています。
大括りには、東京府庁の敷地は、この辺りから富国生命ビルのところまでも包含する規模のものであったということなんでしょう。


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▼帝国ホテルの隣には鹿鳴館跡があります。
本郷の東大構内に胸像のあるかのジョサイヤ・コンドルの設計です。(コチラ)


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明治7年(1874)9月5日~10月31日 台湾問題を巡る日清談判妥結(日清戦争への火種残る) [一葉2歳]

明治7年(1874)9月5日
・上海、米人プロテスタント宣教師が創刊した「中国教会新報」、「万国公報」(週刊)と改題。のち3万8千部発行。欧米事情・思想の紹介。清末の思想界に影響を与える。
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9月7日
・植木枝盛(18)、「明六雑誌」を購読。明六社の開明主義に大きな関心を持つ。
「閲読書日記」によると、明治7年に読んだ書物は37。
前年に続き、翻訳書が大部分を占めるが、福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之の「真政大意」、津田真道の「泰西国法論」、中村敬宇の「西国立志編」など明六社啓蒙思想家の著述が多数。
*
9月10日
・大久保一行、北京着。この日、恭親王が郡王に降格される。
12日、西太后、恭親王の降格取消し、円明園修復工事も中止させる。東西太后が同治帝を説得(西太后、政界復帰)。
14日、清国全権恭親王らと第1回交渉。16日、第2回。19日、第3回。10月5日、第4回。交渉不調だが、英国公使ウェードの尽力で31日、日清平和条約調印、和議成立。 


14日の第1回交渉。
大久保は、両国の争点が「貴国政府は生蕃を属地といい、我国はこれを無主野蛮の地というの両三句に止まる」ことを確認してから問答に入るが、双方共これまでの言い分を繰り返すだけのどうどう回りに終始。
日本側は、国際法の基準に照らせば「生蕃」には清国の統治が及んでいないから無主の地だと主張。
清側は、日清修好条規第3条「両国の政事禁令各異なればその政事は己国自主の権に任すべし・・・」を採用して、「生蕃」を清国流のやり方で治めているのだからとやかくいうのは修好条規違反、と突っぱねる。

清国総税務司ロバート・ハートの描写。
大久保は、ヴィッテルやマーティンらの国際法学説を総署に射ちこんでいる。
総署はただこう返答するだけだ。「ご忠告どうもありがとうございます。けれども台湾はやはり私たちのものなのです」と。
日本人どもはわれわれを国際法論争に引き込みたがっている。かれらには、フランス人法律家とリゼンドルという大きな知恵袋があるから、うんと説得力があって的を射た一節を引用することができるのだ。
われわれは議論を避けている。そして、ただこういうのだ。「わかりました。けれども台湾は私たちのものなのです」・・・  

大久保がポワソナアドと協議した交渉開始の際の質問二ヵ条。
清国は台湾を自らの版図と主張しているが、「第一ニ既ニ版図ト云ヘバ、必ズ官ヲ設ケ化導スルノ実アルベシ、今生蕃ニ何等ノ政教有リ乎。第二ニ万国往来シ各国皆ナ航旅ヲ保護ス、今生蕃人海路ノ障ヲ成シ屡々漂民ヲ害ス、之レヲ度外ニ置テ懲辧セズ、他国ノ人民ヲ憐マズシテ唯生蕃残暴ノ心ヲ養フ、此理有ル乎」というもの。
①は領土としての具体的立証を迫る、
②は、無害航行権という「自然ノ性法卜万国公法卜ニ背反スル兇暴ノ行為」を懲罰せぬのは正理にかなわない、と問詰したもの。

16日の清国側の回答。
①「台湾府志」などを根拠として、社餉(「生蕃」の納税)社学(一種の学校)があるから政教が存在する、就近庁州県に分轄したから官を設けている。
②国際交渉事件は、必ず照会文函によって調査答弁することを例とし、照会がなければ査弁しないとして、直接の回答を避ける。

日本側は、「答言を受けたが、要するに政教の実跡がない、政教のない土地は、万国公法上、領土と認められない」と反論、さらに正式に照会を発して、「夫れ、欧洲諸名公師論ずる所の公法、皆ないわく、政化逮(オヨ)ばざるの地は、以て所属となすを得ず。是れ理の公なるものとなす」と論じる。
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9月10日
・児島惟謙、京都府士族世継重遠の長女と結婚
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9月11日
・ワッパ騒動。酒田県、農民による雑税廃止・村役人不正追求運動、田川郡中心に全域に広がる。
県、指導者一斉検挙。
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9月16日
・駐清イギリス公使ウェード、大久保全権を訪問。清が日本の出兵を非理としなければ撤兵するか問う。確答せず。
26日、再度来訪。日本が撤兵するなら斡旋すると持ちかける。依頼せず。イギリスは200商社が活動し貿易額は年間4億£超であり平和を望むと述べる。
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9月19日
・天皇、近衛・東京鎮台・教導団の諸兵3370、砲18門などを統率して豊島軍元蓮沼村に行幸、陸軍中将山県有朋を参謀長として、自ら陸軍演習を指揮。
直接将官の上にたち指揮、(「元帥」「大元帥」としての行為)、国民徴兵軍である鎮台兵を直接指揮したこと(日本軍隊の最高統率者)で、男性的・軍人的天皇像を形成させてゆく。
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9月20日
・小野梓ら7人、文化啓蒙団体「共存同衆」創立。馬場辰猪ら加わる。
初期はイギリス留学者が中心。75年1月「共存雑誌」発行。79年衆員56人。公開講談会開催・共存文庫(図書館)創設などの活動展開。81年以後衰退。
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9月22日
・日本帝国電信条例制定。電信業務の政府管掌確立。
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9月22日
・この頃~10月3日頃。マルクス、ドイツ各地を廻る。
ライプツィッヒでリープクネヒト、ブロス他党組織代表者と会い、政治情勢・ドイツ労働運動について細かに相談。    
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9月23日
・アメリカ、政府「スー・インディアンとブラックヒルズの譲渡を交渉する」委員会派遣。
スー族部族会議と交渉。売却拒否。
強制買収方針に対抗してクレージー・ホースが戦闘酋長に選出される。
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10月
・朝鮮、日本公館長森山茂、一旦帰国。  
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・ワッパ騒動。酒田の豪商森藤右衛門、上京、左院に建白書提出。11月、再度提出。        
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・星亨、家族を残し単身イギリス留学に出発。1ヶ月後ナポリ上陸、ローマ~パリ経由、12月ロンドン着。
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この月初
・大山弥助、フランス留学より帰国。
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10月3日
・江戸後期の幕臣で町奉行の鳥居耀蔵(71)、没。
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10月5日
・大久保全権と清国との第4回会談。
会談後、大久保はこれ以上の交渉は無駄なので近く帰国するというが、清国側は帰国するなら引き止めないと冷ややかに対応。
18日、第5回。20日、第6回。23日、第7回会談。
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10月9日
・スイス、第1回万国郵便会議。万国郵便連合発足。
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10月12日
・バイエルン王ルートヴィッヒ2世、皇太后マリア・ビスマルクに抵抗してカトリックに改宗。
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10月14日
・大久保全権、駐清イギリス公使ウェードを訪問。償金と引換えに撤兵可能と婉曲に伝える。
ウェードは根回し開始。    
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10月15日
・岩倉、中国の大久保に手紙。
国内情勢を伝え、パークスが平和的収束を忠告、調停にあたってもよいとの「口気」であると伝える。
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10月16日
・大久保、リゼンドルに償金の代りに琉球の日本への帰属を条件にしてはどうかと相談。
リゼンドルは、これは清が承知しないだろう。但し、台湾で遭難した琉球人の償金を清が日本に支払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めたことになると回答。
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10月17日
・島崎藤村の父正樹、天皇の行列に直訴状を書いた扇を投込む
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10月25日
・日本側、井上毅立案交渉決裂宣言書を送り10月26日出発とする。
夕方、駐清イギリス公使ウェード、仲裁。日清双方を往復。
27日、日清双方が調停案受諾。

ウェードが伝えた総理衙門諸大臣の意向。
①清国政府は名義はともかく合計50万両を支払う、
②日本側の要求する支払い約束の証書を与える。
日本側はこの条件の受諾を決定。
ウェードは9月中旬以来、両国仲裁に動いていた。
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10月28日
・この頃、マルクス、リープクネヒトより、10日にテルケがラッサル派の名で合同を申し入れてきた旨の報告受ける。
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10月31日
日清両国全権、「互換条款」3ヶ条と「互換慿単」に調印
償金50万両で台湾占領地を放棄。50万両は日本貨77万円。遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
修好条規を結んだばかりの日本の仕打ちに対し、総署大臣恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏。
反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)総督李鴻章も対日戦備強化を通感、のち北洋陸海軍となる。日清戦争の種が蒔かれた
また、この協定により、清国は琉球遭難民が暗に日本国民と認めたことになり、国際的にも琉球に対する日本の統治権を認めたことになる  

 「互換条款」:
前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したので日本国が「詰責」した。
一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のためだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を支給する。日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は清国が有償で譲り受ける。金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し以後は論じない。「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海民の安全を保証し再び「兇害」を起こさないことを約束させる。

「互換慿単」:
清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。「蕃地」道路・建物への報償40万両を日本側の撤兵完了と同時に支払う。撤兵期限は12月20日とする。
(50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算すると771万円余)  

「互換条款」は、予想以上に日本側に有利。
①遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明記された。
②日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり自国民保護のためだと主張しても清国は反対しないとされた。
③清国が支給する「撫恤銀」は遭難者と遺族に直接手渡されるのでなく日本政府に支払われるとされた。
清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、したがって琉球は日本領であると客観的に承認したことを意味する。

総署大臣恭親王、ウェード調停案を飲まざるをえない勅許を乞う上奏において、「本案は日本の背盟興師に発したものだが、わが海彊の武備が侍むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と述べる。
日本の台湾出兵は日清修好条規に連反した不法行為であるのに、「わが備えの不足」のために阻止できず償金を出さねばならないところに追いこまれた無念さを吐露。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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永禄5年(1562)1月6日~3月17日 清洲同盟なる フランス第1次宗教戦争(ユグノー戦争)開始 [信長29歳]

永禄5年(1562)
この年
信長29歳、光秀35歳、秀吉27歳、家康21歳
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自由都市堺
「永禄五年堺発 日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来往すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加うる者なし。
市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。
市街には悉く門ありて番人を付し、紛擾あれば之を閉づることも一の理由なるべし。
紛擾を起す時は犯人其他悉く捕えて処罰す。
然れどの互いに敵視する者町壁外に出づれば、仮令一投石の距離を超へざるも遭遇する時は互いに殺傷せんとす。
町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、又他の側の深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり。
此町は北緯三十五度半の地にあり」(「耶蘇会士日本通信」)。
「堺の町は甚だ広大にして、大なる商人多数あり。
此の町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる」(「耶蘇会士日本通信」)。
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・尼子晴久没後、毛利元就、石見銀山奪取。
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・北条氏政、男子(氏直)誕生。
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・明智光秀(35)、朝倉義景の領国越前に入り、称念寺門前に居住。
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・金川城主松田元賢、備前守護代浦上宗景に出仕。小田郡星田郷の三村家親が毛利氏と組んで東進してきたため。
宇喜多直家は娘を松田に嫁がせる。もう1人の娘は、美作三星城主後藤摂津守勝基に嫁がせる。
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・セバスチャン・カステリョン、「カルヴァンを駁す」。ミシェル・セルヴェの擁護。
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1月
・上杉政虎、輝虎と改名。
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・大友義鎮、将軍足利義輝に黄金50両を送る。
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1月6日
・上杉輝虎(33)、館林城攻略を小泉城(群馬県邑楽群大泉町下泉字城の内)城主富岡重朝の参陣を求める。
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1月11日
清洲同盟
三河の松平元康(21、家康)、清洲城の信長(29)を訪ね両者の軍事同盟締結。
前日14日、本多平八郎忠勝、先頭で清洲入城。
翌16日、信長は宿老の林秀貞らを岡崎城に遣わし答礼。
この同盟により信長は東方の憂いから解放され、元康にとっては駿河の今川氏から独立する画期となる。
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1月12日
・前田利長、尾張国愛知郡荒子城(名古屋市中川区)に前田利家の嫡男として誕生(母はまつ)。幼名犬千代。
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1月17日
・フランス、サン・ジェルマン王令(1月王令)。ユグノーの「信教の自由に関する勅令」公布。
カトリーヌ・ド・メディシスとミシェル・ド・ロピタル、「寛容な王が支配する寛容な社会」を目指し様々な新しい自由を認める意図。
カトリーヌ、「キリスト教徒でなくても、たとえ破門された人間でも、市民たり得る」との文章に署名。
但し、ユグノーの説教・出版・祈り・集会は「都市の外」でなければならない
(今まで、都市内でのユグノーの集会がカトリック教徒を挑発し、しばしば暴動。都市の中でのユグノーの「教会堂」は、依然として禁止)。
パリ高等法院、勅令の登記を拒否、1562年2月14日(1ヶ月後)仮登記(国王が成人後、再検討)。
新旧両派は、勅令の条項を承認。ようやく国内の平和が訪れると思われるが、空振りに終わる。
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1月18日
・道陳、病没。利休のもう一人の師。「近頃ノ名人ニテ御入候(であった)」(宗久)。
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1月26日
・北条氏康、武蔵慈眼寺を焼く。
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2月
・武田晴信(信玄)、飛騨諏訪城を攻める。
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・信長、水野範直へ、従来通り尾張国内に於いて「鐘」・「塔九輪」・「鰐口」鋳造の特権を承認、熱田の「鉄屋」が鞴を立てることを禁ず。
更に他国人の尾張内への「鍋」・「釜」移入を禁止し水野範直に専売権を承認、諸役・門次の所質など免除(「水野太郎左衛門氏所蔵文書」)。
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・阿蘇山噴火。
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2月4日
・松平元康(21、家康)、久松俊勝や酒井忠次らに命じて今川氏真に属する上ノ郷(かみのごう)城(三河西郡城?)攻撃。
城将鵜殿長照(うどのながてる)を殺す。長照の2子を捕え、今川方に人質同然の築山殿・竹千代(信康)・亀姫と交換(長照の母は義元の妹、氏真と長照は従兄弟の間柄)。
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2月9日
・上杉輝虎(33)、上州館林城(赤井照景)攻囲。
19日、陥落。館林城将に長尾当長を任ずる。城将赤井輝景、武蔵忍野へ退く。
月末、帰国。
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2月22日
・松永久秀、多聞山より南山城へ出陣、筒井氏に加担した狛・稲八妻氏と戦う。
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2月23日
・十市氏・郡山辰巳向井氏、柳本城から多聞山へ帰陣、筒井衆と戦い敗れる。
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2月26日
・毛利軍1万余、松山城を攻め、首級1千余をあげ大勝。
つづいて隆兼のいる音明城を攻撃、落とす。隆兼、出雲を経てのちに大和へ逃亡。
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3月
・今川氏真、松平方の家臣の妻子を吉田城下龍拈寺に引き出し串刺しの刑に処す。
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3月1日
・フランス、ヴァシーの虐殺(ユグノー戦争の発端)。第1次宗教戦争開始(1562~1563)
旧教徒ギーズ公フランソワ(43、1519~1563)軍、ヴァシーでユグノー(カルヴァン派新教徒)虐殺。
その後、8次に渡る両派の衝突
ユグノーは「ギーズ公が虐殺を欲し命令した」と宣伝
(ギーズ公フランソワは「ヴァシーの死刑執行人」となる)。
カトリーヌ・ド・メディシス、1月の「サン・ジェルマン王令」の流産を認識、ユグノーへ「譲歩」してきたスタンスをカトリック側に反転。パリ知事にブルボン枢機卿を任命(アントワーヌ弟、コンデ兄)。時間を稼ぎ協調路線を探る。
旧教徒軍に占領・破壊されたサントの町のベルナール・パリッシーの攻防はモンモランシー将軍の庇護のため救われる。
新教徒首領ガスパール・ド・コリニー提督も行動派に転換。


新教徒は本国を逃れ海外進出を図る。
ジャン・リボーのひきいるユグノー教徒の一団、サウスカロライナに入植。
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3月5日
・畠山高政、和泉久米田(岸和田市)の三好方篠原長房を攻撃。
三好方反撃。畠山退却。
三好方の追撃の隙に根来衆、三好本陣急襲。三好義賢(実休、長慶の弟、37)討死。雑賀勢鈴木孫九郎重宗、戦死。
三好勢総退却。高屋城に撤収。
6日、三好義興、京都防衛のため三好勢を勝竜寺城に引上げ。
足利義輝、和泉での敗戦により洛中より八幡へ移座。
六角義賢、京都勝軍山城より清水へ移陣し洛中を占拠、禁裏を警固。幕府近辺に放火、「上京・下京は焼却」(「御湯殿上日記」)。
10日、畠山高政が飯盛城(長慶居城)包囲のため、三好義興・松永久秀、摂津鳥養・柱本へ陣を移す。    
政所執事伊勢貞孝は、今回も将軍を裏切り京都に留まる。
買得地、祠堂銭、神物の安堵は義輝の手から離れる。
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3月10日
・幕府、京都西岡諸郷に徳政を約し忠節を促す(「蜷川家古文書」)。
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3月13日
・六角義賢、大徳寺領を惣安堵(「大徳寺文書」)。
18日、奉行人宮木賢祐・蒲生定秀の命じ、洛中洛外に徳政令の高札を打たせる(「蜷川家古文書」)。
21日、大覚寺へ愛宕燈明要脚を安堵(「田中光治氏所蔵文書」)。
23日、洛中に敵方隠匿内通の禁止5ヶ条布告(「鳩拙抄」)。
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3月14日
・上杉輝虎(謙信)、下野・唐沢山城を攻めるが失敗。関白近衛前嗣、前関東管領上杉憲政を伴って越後に帰る。    
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3月17日
・信長、尾張熱田座主御坊(如法院)へ「六拾六部」(六十六部廻国衆)の尾張国内通過を承認。
21日、尾張正眼寺へ寺領を安堵。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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2011年6月25日土曜日

東京 北の丸公園 ナツツバキ ネムノキ カラタチの実 

6月24日(金)の北の丸公園
梅雨の合間の晴れ間、真夏の炎天が続いています。
さすがに散歩も早々に切り上げです。

▼ナツツバキ
背景には武道館
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▼ネムノキ
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▼カラタチの実
まだもう少し大きくなりますが、気づいたころには落下していることがよくあるので、今の間に撮っておきました。
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▼炎天下であっても、雑木林の中のこの小川に涼を感じます
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックッス」 をご参照ください。
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「被曝地の薫風の野に牛痩せし」(桜井 宇久夫) 「朝日俳壇」6月20日

「朝日歌壇」6月20日より

バス停の浜岡原発明るくて何も思わず乗り降りしていた       (静岡市)堀田 孝

原発は悪いものだと言ってません怖いものだと言ってるのです   (横浜市)田口 二千陸

一番茶刈り捨てをする茶農家に宙(そら)は真っ青な八十八夜   (野田市) 川瀬 玄忠

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「朝日俳壇」6月20日より

フクシマの哀れ桃の実色づくよ     (本宮市)兼谷 木実子

被曝地の薫風の野に牛痩せし     (鎌ヶ谷市)桜井 宇久夫

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「朝日歌壇」6月21日夕刊文化欄「大震災を詠む」より

30キロの見えない線の内に在れば妊婦護りて三度移れり   (南相馬市)片野 桃子

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昭和16年(1941)6月20日 「米国よ、速かに起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を與へしめよ。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和16年6月を順次ご紹介してます。
前回、6月15日、これからは今までのように怯えることなく時局批判、軍人政府批判を続けるとの決意のほどを固めた「闘う荷風」。

6月20日の日記は、これまた強烈である。

6月18日条の「町の噂」、なんとも言えない、「・・・・・」である。

昭和16年(1941)6月18日
六月十八日。曇りて風冷なり。
町の辻々に王(ママ)兆銘の名記したる立札を出し、電車の屋根にも旗を出したり。王氏の日本政府より支給せらるゝ俸給一年五億圓なりと云。

町の噂
芝口邊米屋の男三四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或醫師の家に亂人したり。この家には美しき娘二人あり。醫師夫婦は壺に入れたる金銀貨を日本兵に與ヘ、娘二人を助けくれと歎願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛つて井戸に投込みたり。

此の如き暴行をなせし兵卒の一人やがて歸還し留守中母と嫁とを預け置きし埼玉縣の某市に到りて見しに、二人の様子出征前とは異り何となく怪しきところあり。
いろいろ様子をさぐりしが其譯分明ならず、三月半年程過ぎし或日の事、嫁の外出中を幸其母突然歸還兵士に向ひ、初めは遠廻しに嫁の不幸なることを語り出し、遂に留守中一夜強盗のために母も嫁もともども縛られて強姦せられしことを語り災難と思ひ二人の言甲斐なかりしこと許せよと泣き悲しむところヘ、嫁歸り來りてこれも涙ながらに其罪を詑びたり。

かの兵士は漢口にて支那の良民を浚辱せし後井戸に投込みし其場の事を回想せしにや、程なく精神に異状を來し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところなく語りつゞくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるゝに至りしと云。

市川の病院には目下三四万人の狂人収容せられ居る由。
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6月19日
・六月十九日。細雨糠の如し。終日歇まず。

銀座通鰻屋小松の門口に今日うなぎありと云ふ札を下げたり。尾張町木村屋の前には麺麭を買はむとするもの正午頃二三町ほど行列をなしたり。毎日かくの如くなりと云。
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6月20日
六月二十日。雨晝近き頃漸く歇む。去年銀座の岡崎よりたのまれし色紙に句を書して返送す。

伊太利亜の友と稱する文士の一團より機関雑誌押賣の手紙来る。時局に便乗して私利を営むなり。
本郷の大學新聞社速達郵便にて突然寄稿を請求し來る。現代學生の無智傲慢驚くの外なし。余の若かゝりし頃のことを思返すに、文壇の先輩殊に六十を越えたる耆宿(きしゆく)の許に速達郵便を以て突然執筆を促す如き没分暁(ぼつぶんげう)漢は一人とてもあらざりしなり。
現代人の心理は到底窺知るべからず。


余は斯くの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て鄰国に寇することを痛歎して措かざるなり。
米国よ、速かに起つてこの狂暴なる民族に改俊の機会を與へしめよ

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6月21日
六月念一。晴後に陰。午後淺草に行く。

下谷邊のある菓子屋にて其主人店の者に給金の外に慰労金を與へしこと露見し、総動員法違犯の廉にて千圓の罰金を取られし由。使用人に賞金を與へて罰せらるゝとは不可思議の世の中なり

[欄外朱書]獨魯交戦
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6月22日
六月念二。日曜日。くもりて蒸暑し。寒暑計忽華氏八十度に昇る。

黄昏芝口の金兵衛に至り夕飯を食す。煮肴あいなめを食す。魚介拂底の時なれば珍味となすべし。歌川君來合せたれば食後共に銀座を歩む。號外賣獨魯開戦を報ず。偶然菅原夫婦安東氏等に逢ひ八丁目千疋屋に入るに、九時閉店と云ふに已むを得ず席を立ち、尾張町のブラヂルに入り笑語す。こゝは十一時まで客を迎ふ。
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6月23日
・六月念三。陰。椎の古葉今猶散りで歇まず。紫陽花の盛は過ぎて石榴花さきはじむ。薄暮土州橋より淺草に行く。廣小路の牛肉屋松喜の店先に牛肉品切につき鳥肉を代りにする由書出したり。
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6月24日
六月念四。陰。税務署の通知書に余が前年の乙種所得金六千圓とあり。是即原稿料の事なれば正午愛宕下の税務署に至る。・・・
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6月25日
六月念五。晴。たまたま日本橋を過りたれば三越百貨店に入り洋書を見るに佛蘭西書籍は數るばかりとなれり。・・・
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6月27日
六月念七。空あかるくして雨歇まず。午後淺草に至りオペラ館踊子と森永に晝飯を食して共に観音堂に賽す。公孫樹の若葉欝然として雨中の眺大に任し。

獨魯開戦以來怪し氣なる政治家の演舌廣告街頭公園到る處に掲示せらる。
昨夜六區興行町に不穏なるビラをまき散らせしものありと云ふ。
黄昏雨の晴れ間家に歸る。

噂のきゝかき
・・・
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6月29日
六月念九 日曜日。雨やみてむしあつし。

暮方芝口の牛店今朝に夕飯を喫す。牛肉は十日程前より品切にて雞肉を代りとなす。客は雞肉を好まず牛肉なしと云へは皆立去る由。この日も客は余一人のみなり。雞肉を好まず豚肉を好むは現代人の特徴なるが如し。・・・
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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「日本政府と原子力産業との癒着を、日本メディアは見てみぬふりをしてきた。」(ダニエル・エルズバーグ)

「朝日新聞」6月23日付「耕論」の欄(テーマは「メディアと権力」)に掲載された、ダニエル・エルズバーグ氏のインタビュー記事。
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見出し
「堕落した報道、政府の愛玩犬

記事
「・・・・・

政権とメディアの問題は日本でも同様だ。

日本政府と原子力産業との癒着を、日本メディアは見てみぬふりをしてきた。

原発の安全性を問題視する報告は以前からあり、それはWL(*ウィキリークス)によって明らかにされた。

日本メディアはこれまで十分な警鐘を鳴らしてきたか?

米スリーマイル島原発で事故が起きた後になって、NYT(「New York Times」)が同島原発の過去の不具合を2ページにわたって報じたのと同じ構図だ。

・・・・・」
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2011年6月22日水曜日

東京 江戸城 東御苑 二の丸庭園のハナショウブはそろそろ終り 天主台裏のアジサイはピークへ

今日(6月22日)は、梅雨の晴れ間にしては真夏到来の如く暑い。35℃近い。

昼休み、江戸城東御苑を歩いた。

▼二の丸庭園の花菖蒲はいよいよ終りに近づきました。
この炎天下、少々グデーと来ているようでした。



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▼天主台跡の裏のアジサイがいよいよ満開に向かいつつあります。
写真はガクアジサイ。勿論、西洋アジサイもあります。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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「文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本人は、敗戦後も目をそらしてきた根本問題に直面している」(鶴見俊輔)

鶴見俊輔さんの、文明史観から見た原発事故に対する考え方。

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哲学者の鶴見俊輔が、東京では久々に大聴衆を前に講演した。4日に開かれた「九条の会」主催の講演会に登壇し、2千人の参加者に語りかけた。

鶴見は米国の日本への原爆投下から説き起こした。

「科学は悪用してはならないというヒポクラテス以来の伝統が断ち切られ、科学は新しい段階に入った。」

原爆と原発の連続性を示唆しながら
「国家予算によるビッグサイエンスは、自国、他国の数百万という人々の上に覆いかぶさることになる」
と話した。

さらに
日露戦争以来、大国になったつもりで文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本人は、敗戦後も目をそらしてきた根本問題に(震災と原発事故で)直面している
と指摘。

「受け身の力をここで超えること。
九条は、何らかの行動、態度の表明で裏付ける方がいい。
不服従の行動の用意があるとさらにいい」

と結んだ。

*
****6月21日付「朝日新聞」夕刊

(考えたこと)

原発を原爆と結びつける見方は、村上春樹さんとも通ずる。(コチラ)

核の脅威、恐怖の伝道師たるべき日本人が、平和利用という美名・便利さ・効率化に幻惑され、地震列島たる日本に原発を建設し続け、取り返しのつかない今回の大事故を引き起こした。

歴史は繰り返しても、一度目は悲劇、二度目は喜劇でしかない。

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漱石が批判し続けた上滑りな明治文明の延長上に日露戦争の「勝利」があり、その必然的な帰結としての敗戦であったのに、敗戦後は直視すべき根本問題をカラリと忘れて成長路線をひたすら走り、ここに至ってしまった。
これは、見田宗介さんの考えにも通ずる。(コチラ)

さて、「直視すべき根本問題」とは・・・?

「原子力発電は安全なものだと思っていたが、フクシマ以後考えを改めた。」(ノーベル文学賞作家バルガスリョサ)

ノーベル文学賞作家バルガスリョサの原発に関連する発言。

*
*
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昨年ノーベル文学賞を受けたペルーの作家バルガスリョサ氏が20日来日し、東京都内で記者会見した。

東日本大震災と原発事故に触れ、

原子力発電は安全なものだと思っていたが、フクシマ以後考えを改めた
科学がいかに安全性を考えても、津波や地震など自然災害はあらゆる予測を上回ってしまう
経済的で安全という考えを見直すべきで、別のエネルギーを探るべきだと思う。

と話した。

来日は4度目。東京や京都で講演する予定。

****6月21日付「朝日新聞」

2011年6月17日金曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)6月20日(22歳) 明治東京地震起こる 「三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。」(樋口一葉「水の上日記」)

明治27年(1894)6月16日
十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。
此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。
*
『依緑軒漫録』:
磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。

「坪内ぬし」:
坪内逍遥としたものと坪内銑子(明治26年2月11日の発会の時に入門)したものあり。
*
*
明治27年(1894)6月16日
さて、この日、「明治東京地震」が起る。
この地震の概要はWikiをご参照下さい(コチラ)
一葉は、伝聞した地震の状況を日記に記している。
液状化現象も起こったようだ。

二十日 午後二時、俄然大震あり。
我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。

新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。

被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。
三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。

直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。

我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。
「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。
鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。

此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。
・・・
*
二十日。午後二時、急に大地震。
私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。

新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。

被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。
貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。
三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。

すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。

私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。
鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。

「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」
といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。
*
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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東京 江戸城 東御苑 梅雨時の花ばな ノリウツギ オオバギボウシ クチナシ アジサイ カシワバアジサイ ハアザミ ホタルブクロ

このところずっと東御苑の花菖蒲をご紹介してますが(コチラ)
今回は東御苑の花菖蒲以外の花々たちをご紹介。
6月15、16日の状況です。

▼ノリウツギ
菖蒲田の脇に咲いています。
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▼オオバギボウシ
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▼クチナシ
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▼アジサイ
以前にもご紹介した(コチラ)石室の辺りに咲くアジサイ
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▼カシワバアジサイ
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▼天守閣跡の裏のアジサイはまだちらほら咲きです。
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▼ハアザミ
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▼ホタルブクロ
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年6月15日水曜日

東京 江戸城 東御苑 二の丸庭園のハナショウブ(花菖蒲) (5) まだまだ満開です

二の丸庭園の花菖蒲はまだまだ満開状態を継続中です。
さすがに初期に咲いた品種は消えていますが、まだまだ蕾はたくさんあります。
下の写真は、6月14、15日両日のものです。
いつものように品種ごとにご紹介。
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▼加茂川
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▼四方海
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▼七福神
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▼初鴉
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▼松葉重
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▼大江戸
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▼大盃
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▼大鳴海
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▼淡仙女
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▼白糸の滝
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▼夕陽潟
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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「イタリアの国民投票で原発反対派が多数。 「あれだけの大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」(石原伸晃)

自民党の幹事長のイシハラとかいう人は底の浅い政治家だ。

自分の所属している党が長い間、政権を担当していて、その間に、安全性を無視した原発推進をしておいて、その結果の、この不始末。

国内的にはまず反省が来なくては(小泉元総理のように)、信頼は取り戻せないだろう。

それは措くとしても、国際的にも、原発推進の動きに大きなブレーキをかけることになったことに、思いを致すべきだ。
百歩も千歩も譲って、もしそれがヒステリーの結果であっったとしても・・・。
それが、礼儀というものじゃないか。
もしそれが集団ヒステリーであったとしても、それに火をつけたのはフクシマであり、自民党政権時代の原発推進政策じゃないのか。

まあ、それでも、この発言が、国内外でそれほど反応を呼ばなかった(無視された)ことは、自民党幹事長イシハラ氏の存在の軽さを表わしている?

以下、6月15日付け「朝日新聞」より
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自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、

イタリアの国民投票で原発反対派が多数だったことについて

「あれだけの大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」

と語った。

・・・(略)・・・

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「地震や津波が想定される沿岸部に十分な手を打たずに原発を建設したことは、(日本の)評判を傷つけた。」(リー・クアンユー)

元のシンガポール首相のリー・クアンユーの原発事故評が6月15日付け「朝日新聞」にあった。

事故は、とっくに日本に見切りをつけた彼の日本離れにますます拍車をかけたようだ。

品質、安全が僅かに残った日本の「売り」だったんだけど、日本の評判は大きなダメージを受けた。
「想定外」の自然災害のためと言っても、そんなことは通じない。
地震国ならば、それに備えるのはあたりたり前ということだ。

リー氏が条件付きながらも原発を容認していることも、注目に値する。

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問 (原発事故には人災の側面もあります)

地震や津波が想定される沿岸部に十分な手を打たずに原発を建設したことは、日本は慎重かつ周到な計画をするという評判を傷つけた。

・・・(略)

問 (社会の安全を犠牲にすることのないエネルギー供給確保の問題)

「難しい問題だ。石炭、天然ガス、石油以外のエネルギー源が見つからないのであれば、原子力しか代替エネルギーはない。」

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2011年6月14日火曜日

「成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある」(見田宗介)

社会学者見田宗介さんが、6月14日付け「朝日新聞」(夕刊)に自著「現代社会の理論」(岩波新書、1996年)に関するインタビューに関連して、原発事故に触れています。

示唆的ではありますが、先進国の勝手な論理の様にも思えます。
「現代日本の」社会状況という限定的な捉え方なんでしょう。

成長と安定、原発と環境共存(環境問題)、・・・。

オール電化のキッチン(これは、実際に売れていたかどうかはしりませんが)などのように、欲望を刺激して、企業や個人に電力を使わせ、原発をどんどん建設する、というようなサイクルからは脱却してゆかないといけない。
煽っておいて、ないと大変だぞと不安感を増幅させる、そんな「見えざる手」に注意しなければならない。

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福島第一原発の事故で驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事故でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある

一般に生物は、環境に適応したことで個体数が増え、続いて爆発的な増加を遂げたあと、環境の限界に直面して横ばいの安定期に入ります。そのように環境と共存する術(すべ)を持ちえた集団が、生き残る

地球という有限な環境下での人間も同じことです。実際統計を見ても、世界人口は増え続けてはいるものの、70年ごろを境に増加率は急激に減少している。人間社会は近代という「爆発的な増加期」を経験した上での安定の局面に入ったと僕は見ます。そういう歴史の「変曲点」を通過したのに、人々はまだそのことに気づいておらず、成長に依存するシステムと心の習慣から脱していない。これが現代の矛盾です。

安定期に転じた社会で人々がアートや友情のような、資源浪費的でない幸福を楽しんでいる。それは本当にすてきな社会です。・・・(略)・・・

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2011年6月13日月曜日

昭和16年(1941)6月15日 「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」を少しづづご紹介してます。
今回は、昭和16年6月15日。

今回は、「断腸亭日乗」の中でも最も知られた個所の一つだと思います。


喜多村筠庭(いんてい)という人の『筠庭雑録』を読んで、著者の筠庭が安永~天明年間の文学者である神沢杜口(とこう)の『翁草』について書いている個所を読んで感動する。


杜口はもの書きの信念として、
「・・・平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。
但し筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。
遠慮して世間に憚りて実事を失うこと多し
翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく、実事の儘に直筆に記し・・・此一事は親類朋友の諫に従いがたく強て申切て居れり」
と書いている。


荷風はこの個所を読んで、これまで自分がびくびくしながら時局批判を書いてきたことに恥じいる。


そして、
「余これを読みて心中大に慚(ハズ)るところあり。
・・・余は万々一の事を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤惻の文字を切去りたり。又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり。
今翁草の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思うところは寸毫も憚り恐るる事なく、之を筆にして後世史家の資料に供すべし



と決心する。


闘う荷風、である。


以下、「日乗」(但し、段落を施しています)


昭和16年(1941)6月15日
六月十五日 日曜日 病床無聊のあまりたまたま喜多村筠庭が筠庭雑録を見るに、其蜩(ひぐらし)の翁草につきて言へることあり。
ある日余彼菴を尋て例の筆談に余が著作の中に遠慮なき事多く、世間へ廣くは出し難きこと有など謂ひけるに、翁色を正して、

足下はいまだ壮年なれば猶此後著書も多かるべし。
平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。
但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。
遠慮して世間に憚りて實事を失ふこと多し


翁が著す書は天子将軍の御事にてもいさゝか遠慮することなく實事の儘に直筆に記し、是まで親類朋友毎度諫めていかに寫本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いか成忌諱(きゝ)の事に觸れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといへど、此一事は親類朋友の諫に従ひがたく強て申切て居れり。云々

余これを讀みて心中大に慚るところあり。



今年二月のころ杏花餘香なる一編を中央公論に寄稿せし時、世上之をよみしもの余が多年日誌を録しつゝあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日々如何なる事を記録しつゝあるやを窺知らむとするもの無きにあらざるべし。
余は萬々一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憶惻の文字を切去りたり。
又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり


今翁草の文をよみて慚愧すること甚し
今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし


日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及ぴ満洲侵略に始まる。
日本軍は暴支膺懲と稱して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を變じて聖戦と稱する無意味の語を用ひ出したり。
歐洲戦亂以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は獨伊の旗下に随従し南洋進出を企圖するに至れるなり。
然れどもこれは無智の軍人等及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。


國民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。
麻布聯隊叛亂の状を見て恐怖せし結果なり。
今日にて忠孝を看板にし新政府の氣に入るやうにして一稼(もうけ)なさむと焦慮するがためなり。
元來日本人には理想なく強きものに従ひ其日々々を気楽に送ることを第一となすなり。


今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。
歐羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社會状態も亦自ら變転すべし
今日は将来を予言すべき時にあらず


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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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東京 北の丸公園 シモツケ(下野) ナンテン(南天)の花 ボケ(木瓜)の実 ヒドコード

今日は一日中、霧雨が降っているようないないような天候。
昼休みの北の丸公園も、傘をさす人、傘を持った人、傘を持っていない人、など様々でした。

▼シモツケ(下野)
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▼ナンテン(南天)の花
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▼ボケ(木瓜)の実
見た目にもマズそうです。
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▼ヒドコード
息の長い花です。まだ蕾がいっぱいあります。

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▼今日の武道館
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年6月12日日曜日

昭和16年(1941)6月14日 「勸銀の営業振りは全く高利貸に異らざるものなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」を少しづづご紹介してます。
今回は、昭和16年6月11日~14日。


今回は、金融機関のやり方に怒ってます。


昭和16年(1941)6月11日
六月十一日。晴。晡下浅草公園米作に夕飯を喫してオペラ館楽屋に至る。
藝人某徴兵に取られ戦地に行くとて自ら國旗を購来り、武運長久の四字をかけといふ。この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ばざれば直に書きてやりぬ。義勇奉公などいふ語も今は意義なきものとはなれり。
凡て人間の美徳善行を意味する言語文字は其本質を失ひて一種の代用語とはなり終れり。恰も人絹スフの織物の如し。
深更俄に腹痛を催し苦しむこと甚し。
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6月13
六月十三日。正午土州橋の醫院に至り診察を請ふ。風邪未痊ず急性肺炎を起さぬやう當分静臥養生すべしとなり。
〔欄外朱書〕去年此日巴里独人ノ侵略ニ遇フ

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6月14日
六月十四日。現在居住する市兵衛町一丁目六番地の地所は、借用せし當時は廣部銀行のものにて地代一坪七錢五厘なりしが、昭和十一年六月に至り近鄰一帯日比谷の勸業銀行の地所となり、同銀行より無理やりに現住者に對し年賦賣渡しの事を勸誘し來れり。

當時の事は其時の日記にかきつけ置きぬ已むことを得ず余は年賦買入の契約をなし十五ヶ年間にて毎年四百弐拾圓を支拂ふ事になしゐたり。
然るに勸業銀行にては契約後に至り同銀行に相應の預金をなすぺし、また抵當の家屋に對する火災保険はこれ亦同銀行特約の保険會社になされたしなどゝ貪慾無禮なる事のみ申來れり。
勸銀の営業振りは全く高利貸に異らざるものなり。
余は遂に勘忍袋の緒を切り今月限り年賦償還の契約を破棄するこゝ(ママ)なせり。電話にてこの事の取扱方を辯護士平井豊太郎に依頼す。
此日晝の中雨ふらず夕方より糠雨となる。
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この件については、6月17日に平井弁護士が来て落着したと告げている。

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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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庭のアジサイが咲きました

庭のアジサイが咲きました。
昨年より花の数が一つだけ増えました。


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「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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東京 北の丸公園 タチアオイ ウメの実

▼北の丸公園の田安門を出たところに見事なタチアオイがすっくと立っている。
下の写真は梅雨の晴れ間があった6月6日のもの。
背景は、牛が淵と九段会館。

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▼梅林のウメの実
上と同じく6月6日のものです

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